コメディ・ライト小説(新)

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.7 )
日時: 2018/02/23 23:44
名前: あんず (ID: NywdsHCz)



#5 『春を待つ、』
 
 
 あの人は私を求めている。



 彼とはネットで知り合った。寂しがり屋で苦しそうで、どこか孤独なその人に。今どき珍しいかもしれない一昔前のチャット掲示板。流行りのSNSとは違う、微妙な言葉の距離が私達を隔てていた。返信までの数分間、数時間、あるいは数日。それが私には心地よかったし、きっと彼もそうだっただろう。
 
 寂しがり屋の私は、寂しがり屋の彼に惹かれた。

 類は友を呼ぶ、なんて言うけれど、私と彼の関係はそんな優しくて強いものではない。自然と寄り合ったというわけでもない。寂しいから、お互いを求めた。寂しいから、気持ちを確かめた。そんな弱くて脆い、どこか不自然なものだ。

 一人が二人いるだけ。
 
 薄暗い部屋の中、閉じこもったベッドの外から響く音。ぼんやりと耳を澄ませながら、聞こえてくる好きな曲の歌詞に、どこか納得してしまう私がいる。
 寂しがり屋の私達は、やっぱり同じくらい臆病だ。多分彼も私も、お互いを本当に信用なんかしていない。確信はできなくてもそう思う。彼以上に信用したい人もいないのに、私は彼を信じることができない。
 
 形だけ寄り添っただけ。静かに重ねようとしているだけ。心は融け合うどころか、触れ合ってさえいないんだ。

 
『会いませんか』
 
 そんな言葉がチャット上に更新されたのは、いつだっただろう。もう覚えていないけれど、特に驚くことのない私がいたことは知っている。ただ目を閉じて、一度だけ深呼吸をした。
 
 はい、とただ一言書き込んだ私の指は、それでも何故だか微かに震えていた。

 
 

 珍しく雪が降る日だった。都内の駅の、あの有名な忠犬の銅像の前。チャット画面に書き込まれた待ち合わせ場所で、私は彼を待っていた。
 
 昨日はまるで遠足前の小学生のように眠れなくて、そのくせ緊張で早く起きてしまったものだから、眠い目をこすりながら痛いほどの冬の寒さに身震いをする。きん、と音が鳴りそうなほど鋭い空気だ。
 
 周りには幸せそうなカップルが同じように待ち合わせをして、あるいは笑いながら歩いている。その背中を少し恨めしく思う。
 
 それにしたって、会えるのだろうか。私は彼のこと、灰色のコートに紺のニット帽だということしか知らない。それだけ分かれば十分だなんて思っていたけれど、よくよく考えてみればそんな姿の人なんていくらでもいる。思えば随分と適当な約束だった。というか、本当に来るのかな。
 
 顔も知らない相手を待つというのも、なんだか変な状況だ。なかなか来ない私の待ち人は、いったいどんな人なのだろう。
 
 ひっそりと想像してみようとして、やめた。そんなことをしなくたってじきに分かるのだし、何より私がここで想像した彼と、本当の彼があまりにも違ってしまったら――私は馬鹿で臆病だから――違和感で話せなくなってしまうかもしれない。
 
 そもそも私に待ち人がいるというだけで珍しいのだから、これ以上不安なことを増やすのはやめよう。そう思って、息を吐いた。
 
 

「寒いですね」

 不意にかけられた声に振り向くと、そこにいた。知らされていた、あのコートとニット帽を被ったひと。
 
 あっ、と声が出た。目を見開いた。この人だ、と思った。ブルーライト眩しいディスプレイ越し、いつも文字で言葉を交わしている相手。
 気づいた原因は、もちろん私に声をかけてきた、というのもある。でも違う。電流が走るみたいにビビッときた。恋に落ちるみたいに。もちろんそんな安っぽいメロドラマみたいなこと、全部私の頭の中の出来事だ。分かっている、そのくらい。
 
 彼が少し困っている。返事を待っている。私の口は相変わらずぽかんとして、まったく馬鹿みたいだ。
 
 ぱくぱく口を動かそうと焦るほど、私の頭はショートする。そうですね、と硬い私の声が遠くに聞こえた。

 ああ、雪のような人だ。
 
 それこそ、放っておいたらいつか見失ってしまいそうなほどに。線が細いわけでもないのに、そのまま輪郭が淡くなって溶け消えるくらい。普通の人のはずなのにそう見えるのは、彼の色素が薄いせいだろうか。
 
 透明度が高いと言ったら良いのだろうけれど、血色が悪いでもなく真っ白な肌は、まるで人ではないよう。ふわふわと舞う雪景色の中では、彼の色はあまりに薄い。

  
「行きましょうか」

 少し緊張気味に聞こえる彼の声に我に返る。はい、と返事をして、見つめたのは変だったろうかと少し頬が熱くなった。
 休日だからか人の多いその場所を、付かず離れず肩を並べて歩いていく。実際は彼の方がずっと背は高いから、私の頭と彼の肩が並んでいるんだけれど。
 
 事前に決めていたカフェまでの道程、話したことといえば他愛のない話。今日の天気だとか、人の多さだとか、そんな話。まだお互いにネット上での会話のことを言い出せなくて、必死に言葉を投げあった。なんとなく、そのことを話すのは、きちんとカフェで腰を下ろしてからにするべきだと思った。

 周りの人からはカップルに見えるかな、なんて考えてけれど分からない。キラキラとはしゃいで、街を横切っていく彼ら。けれど私達はあんなふうに幸せに輝いてなんかいないから、きっと見えないんだろう。
 
 一緒にいるんだかいないんだか分からない、二人の隙間を埋めないまま歩く私達は、知り合いにすら見えないかもしれない。
 
 
 
***
 
 
 
「寒いですね」

 もう何度目かも分からない同じ言葉が耳をくすぐる。その言葉は寒さとともにすっかり耳に馴染んでしまって、私の脳の奥までも震える。だから私は同じ言葉を返す。そうですね、寒いです、と。
 
 灰色の雲から落ちた雪は、けれども積もらず溶け消えた。このまま降っても地面がぐちゃぐちゃになるだけだろう。彼のコートに雪化粧。

 寒い、寒いと彼は言う。
 
 確かに刺すような冷たい日だ。けれど。そういうことではなくて、きっと。本当に寒いのは彼の内側なんだろう。心の何処かが寂しいから、冷たいから、紛らわすように言うのだろう。
 
 だから私も、同意してみる。私も寂しいから。寒いですねと、言ってみる。彼もそれを望んでいる気がした。

 それでもどんなに繰り返したって、寒さはいなくならない。寂しさもいなくならない。虚しさだけは少しずつ積もっていく。それは二人同じこと。
 寂しがり屋が集まったって、冷たい心が集まったって、結局温まりやしない。温まったところで惨めになるだけだ。分かっている。

 
 
 
「好きです」

 駅前の銅像前、再び戻ってきたその場所で、彼はそう言った。その声は震えていて、でも私にはその震えがどこから来るのか皆目分からなかった。何に怯えているのだろう。それは心の寒さからなのか、それとも。
 
 私も、好きです。
 
 気付けば返事をしていた。私も好きです、なんて。言ってから、しまったと思う。思うのだけれど、それはどうやら後悔ではないらしい。自分のことはよく分からない。
 
 嘘ではないのだ、この気持ちは偽りではない。確かに私には少しの好意があって、本当に僅かだけれど、私は私を裏切ってはいない。
 それなのに胸に溢れる寂しさはどうしてだろうか。

 それでも、彼が嬉しそうに笑うから。嬉しそうに、寂しそうに哀しそうに笑うから。だから私は突き放せない。間違っているとは思えない。
 
 この人は寂しがりやなのだなあ、とぼんやりと思う。彼は私を求めている、多分。私の気持ちが、私の心が、彼に向かっていることに安心しているんだ。分かっている、分かってしまう。だって彼は寂しがりやだから。そして私も、寂しいから。

 
 
「また、会いましょう」

 そう言い残して去っていった背中を、ただ見ていた。人混みにかき消されるまでずっと。離れていく背中に安堵して、やはり会うのは近すぎたのだと溜息をつく。私と彼は離れているからこそ、お互いにお互いのままでいられたのに。
 
 今まで文字で交わしていた彼と私の言葉は、多分これからも変わらないだろう。今日も明日も、私達は画面越しに会話をする。気持ちを確かめ合う。
 
 自分は誰かに必要とされているのだと、そう思い込むために。
 
 きっと微妙な距離が二人を隔てて、また心地いいぬるま湯に浸かる。変わらず返事を待ちわびながら、それでも変わってしまう何かを取りこぼしていく。出会う前を振り返って、私は多分後悔するんだろう。やっぱりやめておけば良かったんだ。
 
 顔を合わせるなんて刺激的すぎて、脆い私達を壊してしまう。



 一人残された雑踏の中、空を見上げた。彼の言葉を思い出す。好きです、って。そんな言葉、私が聞くことになるなんて。私が返すことになるなんて。そうやって灰色の空にこぼすけれど。

 好き、それは好意を伝える言葉。好き、それはいつか愛になるかもしれないもの。そして愛とは、心を満たすもの。温かいもの。歪んでいることはあっても、それでも人を強くするものだ。誰かの勇気足り得るものだ。

 私の心に溢れるこの気持ちは、到底温かいと呼べそうにない。冷たくて、重い。だからこれは愛ではない。もっともっと哀しいもの。


 多分彼にとっての私は、私じゃなくても良かったんだろう。誰でも良かったんだろう。彼は私が好きだというけれど、好いてさえくれれば、必要としてくれれば誰だって。

 結局彼は私の心を望んでいる。私の想いを愛している。自分へ向けられた感情とはなんて甘美なことか。だから器なんて、気にもしていないはずだ。だって私だったら気にしない。


 想いを伝えるのと、心が融け合うことは違う。と、私は思う。ああ傲慢だ。愛とは恋とは云々なんて、私に語れるほどの知識も経験も思いもないというのに。
 
 けれどそれでも、こんな浅はかな私にだって分かる。私達の心が重ならないことくらい。たとえば手を繋いでも、キスをしても、体を重ねたって、人間は一つに溶け合わない。だったら虚しいばかりじゃないか。なんのために、なんのために。思うだけ無駄なことを延々と考える。
 
 彼のことは頭から薄れていく。それでいい。このままもうずっと奥深く、埋もれてしまえばいい。私達にお似合いなのは、薄暗い部屋で毎日に怯えながら、顔も知らない相手からの言葉を待つことだけだ。それ以上を望んだら、きっと何かが違って壊れてしまう。現実なんて実際はガラスより繊細なんだ。
 

 息をつく。雪はいつからか本降りになっていた。まさか積もるまいと思っていたけれど、これでは積もるなという方が無理そうだ。仕方ないから、頼りない折りたたみ傘の柄を握りしめた。
 
 雑踏はうるさい。耳障りだ、どうしてこんな場所に来たのか後悔しかない。でもここで告白されたと思えば少しはマシにも見えてしまう。現金だなあ、好きでもないのに。
 
 空を見上げる。雪が落ちてくる。冬はまだ長い。寒々とした風に身を震わせて、マフラーに顔をうずめた。きん、と冬の音がする。空気が凍る音だ。


 うっすらとしたコンクリートの白を踏みしめながら、私は春を待つ。