コメディ・ライト小説(新)
- Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.8 )
- 日時: 2018/03/18 18:59
- 名前: あんず (ID: aR6TWlBF)
#1 『透明な愛を吐く』
「君の幸せって、何?」
放たれたその問いの答えを、僕は未だに持たない。
がらんとした教室に夕日が影を落としている。橙色の灯りが揺らめいて、漂う現実感はひどく希薄だ。きっと、ここは現実と夢が混ざっている。
グラウンドから聞こえる運動部の声、落書きが残ったままの黒板、机の上のペンケース。全てが橙に染まって色褪せている。そんなどうしようもないほど平凡な光景に、僕も彼女も溶け込んでいた。
彼女の肩先まで伸ばされたストレートヘアが、柔らかい風に揺れる。互いに特に話すことなどない。ただぼうっと、僕らは怠惰に時間を潰す。
彼女はいつも通り恋人を待っている、はず。別によく知っているわけでもない。僕はいつも通り、家へ帰る時間を遅らせるために座っている。
僕の薄暗い無彩色な部屋より、生ぬるいオレンジ色の放課後の方が好きだ。そう思うのも、居場所がないだけかもしれない。それでも黄昏時が好きだ。誰そ彼は。誰の顔も分からない、曖昧なこの時間が好きだ。居心地が良い。
夕日が差し込んで、手の中の本が風でめくられた。彼女が隣の席でじとっと僕を眺める。いや、もしかしたら眺めているのは僕の向こうの窓かもしれない。むしろそうだろう。その窓の向こうでは、まだ蕾のままの桜の枝が赤く染まって眠っていた。
僕が本を読んで、彼女は何も言わず宙を見る。それが、毎日のこの時間の過ごし方。三ヶ月という長い間変わらない光景。何が楽しいんだろう。別に何も楽しくない。でも鬱屈として停滞した、とろりとした空気は不快でもなかった。
けれど今日は少しだけ違ったらしい。彼女が少し身動きしたかと思うと、はっきりと僕を見つめたから。
視線が、緩く交わる。
「園田くんってさ、放っておいたら死んじゃいそうだよね」
唐突に彼女の声が響く。まるで世間話をするかのように、彼女はその言葉を放った。だらだらと文字を追っていた僕の目が止まる。息も、詰まる。彼女はそれに気付いたのか気付いていないのか、なおも話し続けた。
「雰囲気が透明っていうか。突然消えちゃいそう」
「……そう、かな?」
ようやく零れた声は掠れた音で、唇も小さく震えた。せめて笑おうと思って、歪に口角が上がる。
うん、と頷く彼女は、僕に何を伝えたいのだろうか。探ろうとして盗み見たその瞳は、明るくて無邪気で、けれどただそれだけだった。
もしかしたら僕を引き留めようとしているのかもしれない。何かから、例えばあの世。僕の思い込みかもしれないけれど、僕はそんな瞳だと思う。そうあるようにと望んでいる。
きっと僕は彼女に、生きろと言ってほしいのだ。
黄昏の甘くて鈍いオレンジが好きだ。彼女によく似ている。暖かくて寂しい、僕には少し眩しすぎるもの。
僕の生きる理由なんて、そんな御大層なもの何にもないのだけれど、僕は彼女の言葉に縋りたかった。この世が僕にとって、あの無彩色な自分の部屋と同じ物にならないように。夕焼けをどこまでも縫い留めていてほしかった。
だから、そんなことばかりを望んでいる。
「そうやって透明な園田くん、嫌いじゃないな」
だから、透明のままでいてね。居心地がいいよ。彼女の柔らかな声が響く。ビロードのように滑らかな声が僕の言葉を奪った。誰もいない放課後の教室、黄昏の影色は暖かいのに、何故だか突き刺すように冷たく感じた。
彼女の声が、僕を彼女から遠ざける。宇宙で命綱を断ち切られるみたいに、どんどん彼女が暗く見える。優しいね、と思うだけではやりきれない。残酷だね、きみは残酷だ。僕の命綱を握ったまま、知らぬうちにちぎってしまう。
彼女はいつだって、愛に塗れて生きている。彼女は知らない。その指先でつまんだままの僕の命綱が、馬鹿らしいまでに細いこと。何をしたって、言葉を伝えただけで途切れるほどのものだということ。僕がどれだけ、自分を惨めに思っているか。
彼女が、僕に透明を望むこと。それが導く、ちっぽけな僕の終着点。
「……はは、ありがとう」
自分の言葉にさえ、この胸は傷んでしまう。彼女と過ごす黄昏時を愛しているのに、今僕の胸は悲鳴を上げる。
きっと命綱は切れてしまったんだ。僕は一人で、黄昏も彼女もいない宇宙へ放り出される。肺が潰れて息が出来ないし、真空じゃ音は聞こえない。
「香穂」
開かれていた教室のドアの外に、一人の男子生徒が立っていた。すらっとしていて、僕より断然かっこいい。彼女はそいつを見ると、心底嬉しそうに笑う。その笑顔は華やかで綺麗だった。
沈みかけの甘い黄昏色をしている。
「私、園田くんが幸せには見えないなあ」
席を立つ前に、彼女は僕の顔を覗きこんだ。夕日を受けてはちみつ色に輝く瞳は、僕の暗い瞳を余すことなく映しだす。まるで自分の内面を見ているようで気分が悪い。咄嗟に目を逸らしても、そこには寂しい宇宙が待っている。
当の彼女はそんなことも知らず、不思議そうに僕を見つめた。
「ねえ、君の幸せって、何?」
後ろの男子生徒がしびれを切らしたように、もう一度彼女を呼んだ。慌てて立ち上がると、彼女は振り返ることなく駆けていく。カバンのストラップがゆらゆらと弧を描いている。
じゃあね、ドアの前でそう言って手を振った彼女の顔も、ぼんやりとしてよく見えなかった。
「……何、だろうね」
そんなもの、そもそもあるんだろうか。
時間がすぎていく。ぼうっとする時間は心地いいのに。僕の心は宇宙を彷徨って、もうあてのないぐるぐるとした旅をするしかないのだ。
ふと外を見ると、校門の前に見えたのは彼女と男子生徒の影。見つめていると、ゆっくりと黒いそれは重なっていった。強い逆光の中、顔は見えない。
がたん、と椅子を倒して立ち上がった。目の前が真っ暗になる。
待ってくれ。せめて彼女の姿を遮らないでくれ。そう願えど晴れない影は、きっと太陽すら僕を馬鹿にしているのだ。
「なあ、頼むよ……」
泣きそうになりながら、僕はその光景から目を離せない。彼女が見えない。影ばかりが僕を嘲笑う。それは黄昏時だからだ。誰そ彼は。僕の好きなオレンジ色が僕を嗤っている。僕の世界で唯一、美しくて眩しいものを隠してしまう。
待ってくれ。僕の居場所は、この橙に塗れた放課後だけだ。黄昏時、君だけだ。なあ、僕は。
影は晴れない。当たり前だ。それどころか、黄昏は僕に背を向けて夜を連れてくる。夜が、彼女を、黄昏を、遠い遠い地球の裏側まで追いやってしまう。
僕は一人だ。
足が自然と屋上へ向かった。理由はやっぱり、あるようでいて、まるでない。
風が頬に当たる。それは教室で感じた暖かな風ではなくて、刺すような風だ。去っていく黄昏と覆いかぶさる夜空に似ている、かもしれない。もちろん傷はないけれど、風が触れた箇所がじくじくと痛む。きっと、僕を刺していった。
僕が今死んでしまったら、きっと彼女は泣くのだろう。僕の死を知って、救えなかったと自身を責めるのだろう。だって彼女は残酷なほど優しいから。優しさこそが彼女なのだ。
それでも彼女が泣くのは少し嫌だなあ、と思う。その涙は綺麗だろうけど、僕にはやっぱり眩しすぎて痛い。でも空を踏みしめようとはやるこの足は止まらないから、その考えも消えてしまう。
空の中に、吸い込まれてしまう。
『―――君の幸せって、何?』
そうだね、僕の幸せってなんだろう。僕はその答えを未だ持たない。持つことができない。どう答えるべきかも分からないのだ。彼女のことだから、なんとなく聞いたのかもしれないけど。
僕にとっては意外と、大きなことだったのかもしれない。それも分からない。自分のことは昔から、いつだってよく分からない。僕にとっては僕自身が、この世で一番の難解生物だ。もちろん、二番目は彼女だとして。
けれどあのとき彼女が、僕を透明と称したなら。もしかしたら僕の幸せは、透明なのかもしれない。透き通ったガラスよりもキラキラ輝かないから、空気に馴染んでよく見えない。透明だから、見つからないのかもしれない。
透明だから、彼女には見えないんだ。
指先が空を掻く。頬に当たる風と、近づく灰色。僕はもう、宇宙の果てへ行くしかないのだ。彼女の笑顔が頭から離れない。消える間際に思うのが彼女なんて、これじゃあまるで。でももしも僕が、彼女のことが好きだったというのなら。
その愛さえ透明だ。この透明な指先が綴った、透明な心が抱いた、そんな愛なら。
彼女の愛は何色だろう。僕はあまりにも彼女を知らない。知らないけれど、きっと透明ではない。もっと優しくて淡くて、暖かな、彼女らしい色をしているんだ。そう、例えば生温い黄昏時、君のような。
まだぎりぎり、遠くの山に太陽の金色が引っかかっている。紺色に追いやられた空の果てに、紅とオレンジが僕を待っている。だからこの世は美しい。
もしかしたら僕の幸せは、透明だとしても、確かにあったのかもしれないよ。黄昏色、君の時間だ。やっぱり僕の居場所は君だけだ。無様な僕を看取ってくれ、愛しい橙色の放課後。命綱も何もない、まっさらな宇宙へ旅立つ僕を。
透明な愛を歌おう。届いてしまえ、きみへ。僕の透明な愛なら、誰にも見つからないだろう。届いたって、気付かないだろう。
優しくて甘いきみは何より綺麗だ。忘れてしまえ、透明な僕なんか。こんな僕の死を哀しむ義理なんてないんだ。どこにも。
だから。
「――――、」
僕は最後に、透明な愛を吐く。
***
#1『透明な愛を吐く』推敲版。