コメディ・ライト小説(新)
- Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.9 )
- 日時: 2018/05/13 19:48
- 名前: あんず (ID: AbL0kmNG)
#6 『降りそそぐ、さようなら』
手紙は何日も前から書き始めていた。
それこそあいつに催促されるよりもずっと前から。なのにどうしても書くことが思いつかなくて、便箋に居座る空白は依然として埋まらない。それを見るとやる気まで失せて、筆はいつの間にか数日止まったままだった。
それでも日に日に手紙の期限が近づいてくる。それを思うたび比例するように私の思考はもたついていく。書きたくもない手紙なんて、授業で書く無駄に長い作文と大して変わらない。嫌気が差す。最近は随分と雨が続くから、多分それも相まって溜息ばかりが増えていく。あいつへの提出期限は、明日だ。
だから仕方なくこんな、馬鹿馬鹿しいことだけれど、私は宛先の本人足る者の隣で手紙をしたためている。そろそろ催促するあいつの声も煩いし、部屋に篭っても私の筆は進まないから。だからといって、もちろん中身は見せない。あいつだってわざわざ見ようともしてこない。あくまでこれは、彼に当てた私からの「手紙」なのだ。
「ねえ、書けた?」
「……書けない。うるさい」
ムスッと返した私の声に、あははと軽快な声が返る。何が面白いのか隣で鳥類図鑑を広げて読む彼の傍ら、私の持つペン先は同じ場所をぐるぐるとなぞっているばかりだ。
なんでもいいからさあ、俺に手紙を書いてよ。なんて、適当な言葉で頼んできたくせに、渡された便箋は三枚分。これだけは最低でも書けと言う。何様だ、手紙ってそういうふうに頼んで書いてもらうものではないはずだ。それに、こいつは一体こんな手紙に何を望んでいるんだろう。
「ねえ」
「ん、なに?」
随分と熱心に鳥の図を追う姿にぼんやりと声をかける。てっきり返事はないと思っていたら、思いの外すぐに返事があった。集中している時のこいつは、とことん私を無視するはずなのに。いつもみたいにあてのない、独り言のようなつもりが拍子抜けだ。しかもその目はこちらを見ているものだから、仕方無しに言葉を続ける。
「ねえ、ほんとに明日、死ぬの」
自分の声が少しだけ震えたのが分かった。それを悟られてしまうのが何となく気に食わなくて、不自然に咳をした。きっと気付かれているだろうけれど。
彼は数秒おいて口を開いた。「うん」と返す、その言葉は淀みない。それからまた少し間を空けて、もともと笑っているばかりの口元をさらに歪める。彼の赤い唇が目に焼き付く。
「うん、死ぬよ」
「……ふうん」
自分は多分、変な顔をしている。答えた彼の笑顔にイライラとする。自分から聞いたくせに、随分と勝手だけれど。あっけらかんとした顔も声も、私はこいつが嫌いだ。こんなときは特に気に食わない。
数週間前、私に死ぬと宣言してから彼の言葉は変わることなく同じもの。そして多分、本当に明日死ぬんだろう。私はそう確信している。彼は嘘をつかない。それは私が一番、痛いほどに知っていることだ。いまさら疑うのも馬鹿馬鹿しい。
それに私がこいつの立場にいたら、死にたくなるのもまあ分からなくない。そう思うから、きっと止めることも野暮なのだ。私は見送らなければいけない。それが私の義務だと、やっぱり自分勝手にそう思う。
「俺が死んだら寂しい?」
「まさか」
だよね、と彼の細い肩がすくめられた。もう会話を断ちたくて、相変わらず書くこともないのにペンを握った。俯いて紙を見つめても、別に言葉が浮かんでくるわけでもない。また溜息が出る。このまま紙までも湿ってしまいそうだ。
だいたい、手紙なんて書くとしたら彼自身だろう。遺書ってやつだ。なんで私が死にたがりに言葉を書き残さないといけないんだ。おかしい。そんな恨みを込めて睨みつけても、今度こそ彼は熱心に鳥の写真を目で追っていて気付かない。息を吐いて、仕方なく開けた窓の外を見た。
外は土砂降りだった。傘をさして歩くのはあまり好きではないのに、この中をまた歩いて帰るのか。いいことが一つもない。便箋の空白も埋まらない。ただ、明日も雨だったら彼は死ぬことを諦めてくれないかな、なんて考える。彼は鳥になって空を飛びたいと言うから、雨だったら飛べないだろう。ああ、私はもしかしたら寂しいのかもしれないな。もちろん、そんなことは死んでも口には出さないけれど。
「手紙さ、俺が灰になる前には書いて。で、棺に入れといてよ」
そしたらいつか読むからさ。言いながら彼は立ち上がった。どうやらもう帰るらしい。壁の時計は二時を指している。私はまだ座ったままだ。人気のない図書館の自習スペースは薄暗く、彼の顔はよく見えない。ただ気配から笑っていることだけは分かった。こいつはそういう奴だ。
「じゃあね」
ひらひらと振られた手が遠ざかっていく。遠ざかったまま、私はあの背中を見ることは二度とないのだと考える。またね、とは言わなかった。それは私の中の淡い望みで、彼にとっては邪魔にしかならない他人の願望だ。だから代わりに笑ってやった。笑顔で送り出した。ざまあみろと舌を出す。彼は背を向けて見ていないだろうけど、それでももう何だって良かった。
前日までの雨が嘘のように、やってきた朝は快晴だった。
*
ペンは止まることなく動いていく。彼は望み通り鳥になって空を飛んだけれど、だからといって私はこの手紙を書くのを止めるわけにはいかない。これは約束だ。まだ人間であった彼が交わした最後の約束だろうから、それくらいは果たしてやりたい。
大切なものは失ってから気付きます、とありふれた言葉が頭を駆け抜ける。ということはつまり、彼は私にとって大切ではなかったのだ。いてもいなくても気持ちは変わらない。向かう気持ちは苦々しい。私は心の底からあいつが大嫌いだ、だから涙も流れない。ああ、よかった。
あれだけ書くことがないと悩んだのに、今では黙々とペンを走らせている。もう返信は来ないから、そう思って好き勝手に書きためるうちに、手紙はまるで日記のようになってしまった。三ページはとうに超えている。数日間の面白くもないことを連ねた紙は、私の前に降り積もっていく。
彼への言葉はあまりにも少ない。私の恨みつらみと、恥ずかしいくらい赤裸々なことばかり。つまりこれは手紙でなくて、私からあいつへの独白なのかもしれない。返事を待たない一方的な一人語りだ。
「……あ」
顔を上げた先、時計はまた二時を指していた。彼の告別式が始まってからすでに数時間。今日も雨が降っていて、やはり外は薄暗い。湿った臭いが鼻を刺した。じめじめとした空気が肺に纏わりついて、カビが生えてしまいそうだ。出棺の時間が近づいていた。こんなギリギリまで式にも出なくて、手紙だけ棺に放り込みに行くなんて無礼だろうか。それでもこれだけは書かなければいけない。それが約束だ。
便箋最後の半分ほどの空白。今まで書いてきた日記のような拙い文章は切り上げて、最後くらいあいつに言葉を残しておこうか。そう思うと途端に筆が止まって、やっぱり伝える言葉は何もないような気もする。
だからといって、最後まで私について書くのも気に食わないのだ。あいつに最後に言葉を書き残すなら、私は私自身ではなくて、もっと詩人のような粋なことを残したい。
私はあなたのことが好きでした、試しにそう書いて、急いで紙を破り捨てた。ぞっとしない。分かりきっていたけれど、それは私達の言葉ではないのだ。
好き嫌いとか、そんな二つの言葉で私達は語れない。といっても、私達があたかも小説のような、詩的で複雑な関係であったかと問われればそれも違う。ただ、違うのだ。そもそも人間の関係性を好きだとか嫌いとか、そんな言葉ですっきりとさせてしまう奴等のほうがおかしい。私達はそんなに馬鹿で単純な生き物じゃない。
「ねえ、そうでしょ」
私達は、馬鹿ではないよね。
返事は帰ってこない。それでも一人で頷いた。彼だって頷くと分かっている。なぜならこれは彼の言葉なのだ。彼は鳥に憧れていたわけだけど。人は馬鹿じゃない、とまるで呪いか何かのように唱えていたのは彼だ。だから言葉を書き進める。
私はあなたのことが、何だったんだろう。彼は私に何かを残したわけでもないのに。その部分ばかり書いては消して、消して、破り捨てた。三十回を数える頃にようやく、すとんと言葉が私の中に降りてきた。しばらく手を止めた。呼吸までも潜めた。自分の言葉に納得をして、それからもう一度ペンを取る。半分ほど空いたままの空白を睨みつけながら手を動かす。
――ここまで長々と私の話ばかりで呆れたでしょう。この手紙を書き終えたら、私はあなたを忘れます。もう思い出しません。だからあなたも、私の夢にも思い出にも出てこないでください。私の全てから消えてください。そのくらいはする義務があなたにはある。
子供じみた理不尽な言葉を書き連ねて、いよいよ最後の行が埋まる。ひどく泣きたくなって、それでも涙は出なかった。悲しいわけではない気がした。それでも苦しいのは本当だった。馬鹿じゃないか、何がそんなに。
この手紙はまるで遺書のようだ。私の日記と、さようならの言葉ばかり。私が書いた、彼の遺書。いや、彼自身の手はそんなもの残さなかったから、所詮は私の傲慢か。それならやっぱり、これは恋文とでも呼べばいいだろうか。
震える手と胸の高鳴りの中、夢中で息を吸い込んで、吐いた。声に出しながら一文字ずつ。最後の行にペン先が向かう。私の全てをここで捨ててやる。いいよ、よろこべ、この言葉だけは全部、何もかもあんたのものだ。死にたがりに残す言葉はもうこれっきりだ。だから聞かせてあげよう、私は。
「私はあんたのことを、」
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雑談板の小説練習スレッド「添へて、」さんにて投稿した短編です。ありがとうございました。