コメディ・ライト小説(新)

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.17 )
日時: 2018/08/05 18:15
名前: あんず (ID: mXDJajPZ)

#10 『憧憬』
 
 
 夏は死の匂いがします。鮮烈なほど目に染みる青空を覗き込むとき、頭に響く蝉の声に耳を塞ぐとき、火で炙ったようなアスファルトを踏みしめたとき。そこに奴らが潜んでいるのです。こっちを向いて、私に手を振るのです。それに振り返そうとは思いませんが、視界の端に留まるくらいにはそばにいたいのです。いつの日か手を取ったらきっと連れて行ってくれるように。
 目の端に死は滲んでいます。黒い染み、みたいなそれが、じわじわと夏の空を、蝉を、風を暑さをアスファルトを、私、を殺してしまうのです。私はそれを待っています。そんな妄想をしながら今日も道端の小石に躓きました。死にたい、と思わず呟いたのはこの夏何度目だったでしょう。良くないなとは思いながら、もうこれは私には直すことのできない癖のようなものなのです。違うのでしょうか。でも今の私にはどうすることもできません。膝に突き刺さる砂利のような小石が私を少しずつ削って、血液を巡り、私の体には砂が詰まっていくのです。乾くより重く、崩れそうになりながら、夏、私は息をしています。
 
 今朝もホームに突っ立ちながら、遅れた電車を待っていました。待てども待てども、遅延の文字は消えないのですが、私はこの時間がなんとなく好きです。誰もが等しく遅れている。来ない電車を待ちわびながら、不意に手に入れた空き時間に苛立っている。いつも時間が欲しいと叫んでいるのに、こういうときはどうしてか気に食わないのです。私達は人間ですから、というより、この国に生きていますから、予定が叶わないのは罪なのです。
 人身事故を告げる駅員の声も、どこか投げやりにホームに響きました。再三謝る声も遠く、私の後ろでも前でも、しきりに時計を見つめるサラリーマンで溢れていました。私の制服がじわりと汗で濡れていきます。暑いと人は短気になるらしく、舌打ちが灼熱のホームに響き渡り、それがまた誰かに移っていくのです。こんな時に飛び込むなよ、迷惑だな。そう、吐き捨てるような声がします。それに同調するように、同僚らしき人たちが文句を募り、続いていきました。黙っていた人々もきっと、そう思ったに違いありません。私もそうだからです。思ってから、やっぱり少しばかり後悔するのです。
 
 日が違えば、飛び降りた彼、彼女は、私だったかもしれません。隣に立っていたサラリーマンだったかもしれません。朝、ぼんやりと立って一日のことを思うとき。ふと走ってくる電車を見て、あそこに飛び込めば全て気にしなくていいのだなと、そう思う気持ちが私にあります。速度が落ちるより早く、あの鉄の塊にぶつかれば一日はなくなります。明日もなくなります。そうやって全部、ブラックホールみたいに吸い込んで、死が手を伸ばしてくれるのです。
 
 それを羨むようになったのはいつからだったでしょう。私は、自分が壊れる想像をしては安心する人間に育ちました。私より壊れている友を見て安堵する人間となりました。薬の入った注射器を手に、にこにこと笑っていた彼女を、救わなかったのは私です。救うという言葉を傲慢に思うのも私です。彼女がそうありたいならばそうあればいい、ただ、私を巻き込まないでほしい。だから私は救わないのだと、偉そうにしていたのも私です。ぜんぶ私です。見捨てた友が、姿を見せなくなり、みんなの噂の種になり、それも潰え、忘れ去られてものうのうと制服を着ているのも。それを間違っていると思わないのも。
 そうして彼女の手を取らなかったのは私ですが、けれど彼女に伸ばす手がないのも私なのです。私の手は、私自身を抱きしめるためにあります。空いた片手は、いつか死と手を繋ぐためにとっておかないといけません。だから彼女に手向けの花も差し出せません。この手は、彼女を悼むためには使えないのです。それを分かってほしいとは思いませんが、薄情者だと、罵っても構いませんが、私はこうして日々を逃げていきます。
 
 飛び降りた誰かに朝は来ません。その代わり夜も来ないのです。痛かったでしょうか。苦しかったでしょうか。それをぼんやり思うのは冒涜にも似た同情なので、口に出すことはしません。私なんかに分かって欲しい感情など、振り切れた彼らにはないでしょうから。私はただ、それに近しいものをもごもごと想像して、この、黒い染みのような夏を引き摺っていきます。電車を止めた誰か。それを憎々しげに恨む、電車を待つ人々の中で、私だけがあなたを考えているわけではないでしょう。ただきっと、舌打ちを打つ人々よりはうんと少ないでしょうから。この夏だけでも、あなたを覚えています。私は弱く、脆く、臆病者なので、あなたに花を手向けることはありません。この手は、私のための花を手折るのです。ただ、舌打ちをつかれたあなたの、彼岸でのこうふくだけは祈らせてください。そちらがこうふくならば、私もきっと死の手を取れます。私のために、幸せでいてください。この、黒くて暑い、死人のための夏を抜け出したあなたに。
 
 私には砂が詰まっています。思い描いた未来から、いつの間にか水は抜けて、崩れゆく夢がこびりついています。死にたいと呟きながら、ほとんどの人と同じように私は生きています。来年もきっと、夏を迎えます。その次もきっと、夏に突っ立っています。奴らは私に手を振ります。視界の端で優しく笑っています。そこには彼女もいたはずです。私が、花を持たなかった友。頭を快楽に溺れさせて、幸せだった彼女が。だからあちらは幸せの国なのでしょう。私もそちらに、いつしかかえります。ふらりと、舌打ちをつかれながら。空を、蝉の音を、私、を、殺してしまう夏の染みが、私の脳みそを染めていきます。まだ、けれどそれは、いつの日か必ず。
 
 遅れていた電車が、眩い夏の暑さに光りながら、ホームに滑り込んできます。それは誰かの死に、立ち止まっていた銀色でした。