コメディ・ライト小説(新)
- Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.19 )
- 日時: 2019/05/12 09:14
- 名前: あんず (ID: TKLsfDAG)
#11 『COMMUOVERE』
スクラップの音が近づいてくる。耳障りな金属を潰す音が、僕らの命を潰してしまう機械の重さが、壁を隔てた向こう側から聞こえてくる。僕の耳の奥に眠る銀色の巻き貝を、いっそのこと壊してしまいたかった。錆びた収音装置の回路をぷつりと。そうすればこの冷たい音も消えるだろう。きっと安心、できる気がした。
僕らの心はどこにあるだろうね。突然その声を拾ったものだから、僕は思わず息を呑んだ。狭苦しい灰色の空間の中で、その問いかけばかりが色付くようだった。僕の耳を通ったその言葉に応えるよりも早く、口から音がこぼれ落ちる。
「こころ?」
それは人間のことかい、それとも。首を傾げて問いかけると、彼女は柔らかく微笑んだ。青い瞳が三日月のように細まる。僕らのだよ、と付け足すように声がした。少しだけ掠れた音だった。仕方がないから当てずっぽうで答えてみる。僕の欠けた演算装置では、望む回答は得られまい。
「どうだろう。そうだね、回路かな」
「言うと思った」
さらり、と煤けた髪を揺らしながら、彼女は微笑んだ。それは喜びの表情に似ていた。人が望みを満たしたときの、口角をあげて目を細めるという動作。
僕らの記憶は一瞬だ。ヒトのようには積み重ならない。心という概念は、僕らの中の一つの回路に収まっている。心臓代わりのデータボックス、そのメモリーチップの導線を少しでも切ってしまえば、僕らは全ての記憶を失くす。それを当たり前だと言えるし、それこそが、僕らの機械たる生き方だとさえ思う。
「ヒトの臓器ってね、記憶が宿っているそうだよ」
どこか彼方を見ていた瞳が、僕をもう一度捉える。空調に揺らされた濁った風が、彼女の細い髪の毛を靡かせた。束の間、彼女の腕からネジが転がり落ちて行く。思わずそれを拾い上げた。まだ温かい、彼女の体内の温度制御装置に抱かれていた錆びたネジ。返そうか、返すまいか、迷いながら口を開く。
「脳のことかい?」
「そうだけど、違うの。ヒトの臓器を別のヒトに移植すると、そのヒトに臓器の持ち主だったヒトの記憶が宿るんだって」
何が言いたいのかよくわからない。ただ、それはまるで内緒話をするような声。わざとそうしているのか、それとももう機能が不完全で声が出せないのか、どっちなのだろう。わざとであって欲しい。そう思うくらいには、僕には心という装置への期待があった。臓器の話をしながら、そんな薄暗い言葉を交わしながら。
「本当?」
「そういわれてるけど。本当だといいね」
そうだね、とは言えなかった。彼女の声はあまりにも祈るようだったから。僕らには敬虔な思いすらないというのに、神様すらいないというのに、願うかのようだったから。
彼女の方を見遣る。薄汚れた人工皮膚の白い色、乾いた毛髪の繊維、腹部から見える命たる回路。どこか透明で褪せていて、色のない彼女に色がある。
破棄確定、の文字が貼られた蛍光カラーのシールが彼女を彩っていた。僕には与えられなかったその紙切れ。目が覚めるような色の、僕らを壊すための文字。たった一枚のそれが、僕らを隔てている気がした。だから仕方ないと思うことにした。彼女が祈ってしまうのも。何かも願ってしまうのも。ヒトの臓器なんて、そんなどうしようもないものに思いを馳せてしまうのも。
ふいに死んだ目をした、作業服のようなつなぎを着た作業ロボットが扉を開いた。腕に巻かれた腕章。彼は僕たちと同じはずなのに、僕らを管理する側にある。けれどその彼も人間に管理されていて、僕らロボットなんて所詮、そんなものなのだった。
作業員は僕達のいる部屋の隅に近付いてきた。纏う空気はどんよりと重い。隣の彼女が瞬きをした。それがひどくヒトのような仕草だったから、僕の回路はどきりと跳ねた。なんて。驚いたのだ、今のは比喩。
彼女の外れかけた腕が鎖で繋がれる。罪人のような格好で彼女は立ち上がる。がしゃり、鋼鉄の音がする。やっぱりヒトではない。柔らかい臓物の音などしない、僕らの身体はどこまでも機械だ。
小さな背中が細い扉の向こうへ消えていく。そう思った瞬間、彼女が振り返る。褪せた髪の毛が扉の向こうの光に照らされていた。薄い茶色をしているその髪は、今ははっとするほど美しい金色をしていた。
彼女の瞳が、揺らいだ。淡くかすかに、それでも揺れる。そのまま伏せられる睫毛の輝きばかりを僕は見ていた。扉が閉まる。彼女が、あのヒトのように笑う女が、僕の視界から消え去った。あまりにも祈るような顔、いないはずの神様を知るような顔で。返すタイミングを失ったネジばかりが、僕の指の先で息をしている。
ほどなくしてさっきと同じような作業員が、死にそうな顔をして部屋に足を踏み入れた。冷たい枷をはめられたのは、今度こそ僕。無感動なロボットは、彼女にしたことを繰り返すがごとく僕を鎖で繋いで引っ張った。まるで囚人だ。
続く道の先に見えるのは修理室。彼女が連れて行かれたのは廃棄部屋だろうから、つまりそういうことらしい。手のひらには古ぼけたネジが一つ残っている。それはまだ、温かい気がした。何かが残っているようだった。そんなはずはないのだけれど。それでも、そうであればいいと僕は願う。
こっそり持っていたら、修理する僕の体に組み込んでくれるだろうか。多分無理だろう。僕の部品ではないのだから、捨てられてしまうかもしれない。けれど。
目を閉じる。あの、僕らを等しく殺してしまう怪獣の声が響いている。金属の擦れる嫌な音、回路の千切れる別れの音。分厚い鉄の壁の間で、君は何を思うだろう。君の記憶は一瞬で消えてしまう。僕の記憶もヒトの臓器の話も全部、瞬きのうちに。
僕らの体はネジ一本の欠損も命取りだ。歯車と小さなネジと、そういうものが少しずつ積み上がって僕らの体が出来上がる。だからこの古びたネジさえ、かけがえのない彼女の体の一部だ。そう考えると、これには彼女の記憶が宿っているような気さえした。そんなはずがないのに思うのだ。彼女のように祈りたかった。例えば、指先がネジを転がす、その先に見える彼女の姿。
「……あ、」
そうか。
その時突然、少しだけ、積み上がる人間の記憶というものがわかった気がした。単に、わかったように演算装置がうごいただけかもしれない。理解した、という感情だけが精神回路にもたらされただけなのかもしれない。けれどそれでもよかった。たしかにその一瞬、僕は感じたのだ。
手のひらの上の錆びたネジ。繰り返す繰り返す、錆びた鉄色の巻き貝が拾った彼女の声。彼女はもう忘れただろうか。回路は途切れて、僕のことも彼女からは消えていく。そういう生き方をしている。それに誇りを持つ、僕らはヒトではないことに涙すら流そう。
僕は機械だから、忘れないことだけが幸いだ。だからその幸いに祈ろう。どうか。
──僕らの、心が。
***
数年前の短編供養。題名はイタリア語より拝借。