コメディ・ライト小説(新)

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.20 )
日時: 2019/05/12 09:15
名前: あんず (ID: TKLsfDAG)

#12 『HIRAETH』

 
 駆け下りて行く。星屑を上手く踏みながら、階段よりもなだらかな真空を走る。宇宙はひたすら透明な寂しさに溢れたまま、私も涙を落として進む。地球までの道は、もうあまりにも柔らかい光に包まれていた。
 
 彼との記憶を繰り返し思い出した。出会ってから今まで。さっき、金星の前で別れるまで。二人で作った朝ごはんの匂いが、卵焼きの黄色、お味噌汁の温かさ、そういうものが私の心を満たしていった。
 明日からは一人で卵を焼かないといけない。甘い卵焼きも出汁巻きも、もう何通りも作ることはないだろう。でも思わず、作ってしまうかもしれない。何年も何年も染み付いた朝ごはんの景色が、私からしっかり抜け落ちるまでは。煮物は甘いほうがいい。でも、彼は塩気が強いほうが好きだったから、それでもいい。甘くてもしょっぱくても、もう十分私の舌には馴染む普通の味だった。
 
 濃紺が美しい浅瀬色になりながら、蜂蜜色の朝日と薔薇色の朝焼けを溶かしていく。もうずっと、この景色を知っていた気がした。もちろんそんなことはないのだけれど、それはどうしようもなく懐かしい景色だった。きっと地球ができた頃、生命はこの空を毎日見上げていたんだろう。そうだったらいい。だから懐かしいのだ。私も地球に生まれた生き物。彼とは違う、この星に生きるいのち。
 
 もうじき分厚い雲が、この景色と地上を隔ててしまう。眼下の灰色の雲を眺めながら、踏み外さないように空を駆け下りた。科学の色をした人間の世界が、青い星が私を下へ下へと引っ張る。
 途中で通り過ぎた月に兎はいなかった。少し期待していた分、まるで拍子抜けしてしまう。月の上に少し寄り道をしようかとも思ったけれど、とりあえずは帰らなければならない。もうすぐ街が起き出すだろう。生活の匂いが立ち込めたコンクリートを踏むまでは寄り道は無しだ。
 
 帰りがけにお団子でも買っていこう。そうして今日の夜くらい、彼を思い出して食べてしまおう。もう兎のいないかもしれない月を見て、それから、少しだけ泣いてやるのだ。
 そうして忘れる。思い出にする。きっとまた私は月に兎はいると信じられるし、宇宙を歩いたことも夢にしよう。そうすればまた、彼のいない夜空を見上げることもできるだろう。

 
 
 それから、それから、例えばいつの日か。空に梯子をかけた御伽話おとぎばなしなんかを思い出しては、きっとくふくふ笑うでしょう。

  
***
 
短編の断片、未定稿。題名はウェールズ語より拝借。