コメディ・ライト小説(新)
- Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.27 )
- 日時: 2020/04/16 23:57
- 名前: あんず (ID: XetqwM7o)
#15 『銀色のさかなの夜』
君を時間で表したら夜になるだろうね、と彼は言った。あんなに頑なに着ていたセーターもついに脱いで、そろそろ半袖にすらなりそうな季節のことだった。
夜、と私は鸚鵡返しに尋ねる。そう、とこれまた簡潔な答えが返ってきて、私たちの会話は沈黙へ続いた。よる。見上げてみても、鈍く光る雲のせいでどこかぼんやりとした濃紺しかない。春というには緑が活き活きしすぎた季節だったから、朧月夜とも、春霞とも呼べなかった。ひたすらにおさまりの悪いけぶった初夏、生温い風が肌をぬるりと撫でていく、あの夜だ。
「季節は?」
「秋」
即答だった。秋。てっきり夏か冬、ああいうパキっとした季節が来ると思っていた私は、思わず隣に目をやった。彼はおもむろに空から視線を外すと、しい、と内緒話をするように人差し指を口に添えた。秋だよ、秋だ。蠍から逃げるオリオンが空に現れる、そのほんの少し前の、夜。秋の夜。君によく似ているよ。
そのときの私にとって、秋なんて曖昧で、よく覚えのない季節だったものだから、その会話も首を傾げて終えてしまった。夜、それも秋の、へえ、そんなものに似ているのか。それはその時の生温いけぶった空気と同じくらい、私にとって良くも悪くもない印象しか残さない言葉だった。だからその会話を思い出したのは、実はつい最近のことだ。
その言葉を思い出したとき、私は一人で馬鹿みたいに泣いていた。仕事。友人。恋愛。そのどれもに疲れていたけれど、とどめはビールが美味しくなかったことだった。呆れるようなことだけれど、私にとっては世界一の重大事件だったのだ。仕事帰りに泣きながら飲んだビールが、別に美味しくもなんともない。今までは付き合いで飲むことも、一人で飲むこともあったのに、それが苦い炭酸飲料だと思えてしまった瞬間、何かが音を立てて崩れてしまった。
うそつき。大学生になる前まで飲んでいたオレンジジュースのほうが、実は何倍も美味しいくせに。うそつき。こんなものが美味しいと思うくらい、わたしは成長していて、たくさん忘れていて、ああ、うそつき。
泣きながら飲んでいたくせに、ビールの味にさらに泣いて、泣いて、お会計をしてすぐに店を飛び出した。消えてしまいたかった。たかがビール、されどビール、あんな苦い一杯のために!
タクシーに乗った気がした。泣きながら運転手さんと話をしたような気もした。けれどはっきり記憶が残っているのは、昔の高校の近くの丘、我らが天体観測部でよく使っていたあの丘で、星を見ていたということ。
そこで唐突に、そう、本当に唐突にあの懐かしい会話を思い出した。ここで話したのだ、確か。だから。
見上げた夜空にはやっぱり星がたくさん詰まっていた。それでも、高校時代のあの頃よりも薄くなったようにも思う。このあたりもどんどん開発が進んでいた。街の灯は、あの頃よりも丘に近づいてきていた。星が遠くなる。星。ああそういえばこれは、秋の、夜空だ。
あ、と声が出た。喉が震える。
秋の空は透明だった。あの会話をした初夏の、ぼんやり淀んだ空なんかとは似ても似つかない青。濃紺が澄んでいる。あれは青だ。いや、あれは海だ。そうだ、海に、銀色の魚が飛んでいるんだ。
秋の空に浮かぶ星の、豊かなこと。それに初めて気がついた。あの初夏の会話から、もう随分と経っていた。私は大人になって、それなりに頑張って、それなりに疲れていて、そうしてそれなりにくたびれた人間に育った。きっと彼もそのはず。彼もどこかで、それなりに生きているのだ。
だから、私がいま秋の空を知ったことも、もう一生伝わることはないし、伝える術もない。ただ、私を秋の空にたとえてくれたことが、私の心に音を立てて突き刺さった。こんなにも。こんなにも。
あかるい豊かな空を、私だとは到底思えないけれど、それでも私は一度、彼の中でこの空になっていたのだ。そう思えるだけでよかった。十分だった。ビールの味が苦かったことなんて、もう頭から消えていた。こんな夜に、酔っ払って丘の上で星を見ているなんて、もちろん疲れきった人間なのだけれど。それは変わらないのだけれど。
帰りみち、友人に電話をかけた。明らかな酔っ払いからの電話にも付き合ってくれる友人は優しい。よし、大事にしよう、酔って大きくなった気持ちでそんなことを思う。
「あのねえ、わたし、次からはオレンジジュースを飲む。わたし、夜だから、秋の。銀色の魚の、海だから。だから、オレンジジュースを飲むよ」
はいはい、と友人の声がした。それを鈍い意識の中で聞いていた。ちょうど自宅の玄関にたどり着いたところで、友人におやすみ、と告げて電話を切る。電気も付けずにふらつきながらベランダに出て、私はもう一度星を見た。
それはもう、青くはない空だった。ここは駅にも近くて、それなりに賑わう通りのそばだったから、灯りは星を掻き消してしまう。それなのに。それでも。空は澄んでいた。夜は透明だった。秋の空は、銀色の魚が泳ぐ海だった。
あれはね、わたし。むかし、高校生の頃、あれはわたしだった空。ふふ。頬が緩む。ありがとう、もう顔もうまく思い出せないきみ!
今度実家に戻ったら、卒業アルバムを見返すから、そのときは名前を見よう。それもきっと、いつか忘れるんだろうけれど。
ベランダから戻り、そのままソファに突っ伏すと、呪文のように頭の中をぐるぐると言葉が巡った。わたしは銀色の海、わたしは透明な空、わたしは、秋、の、夜。
次に飲みに行ったらオレンジジュースを飲むのだ。ビールも飲むけれど、それでも美味しいオレンジジュースを飲む。だって私は、夜だから。銀色の魚がぴょんぴょんと泳ぐ、あの青い海だから。それから、そうだよ、ほら。
その日の夢のなか。銀色の魚と、私と、それからあの彼が、透明で青い海で泳いでいた。秋。澄んだ空気。それは私が彼のなかで、秋の夜だった日のこと。ビールがまだ、遠い魅力的な飲み物で、オレンジジュースに飽き飽きしていた、あの頃のこと……