コメディ・ライト小説(新)
- Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.28 )
- 日時: 2021/01/30 15:19
- 名前: あんず (ID: WpG52xf4)
#16 『月の墓』
きみが死んだら僕が食べるよ、とずっと言い続けてきたのに、彼女はそれを信じていないふしがあった。その証拠に、彼女は事あるごとに墓の話をした。死んだら海に撒いてね、お墓はあの丘の上がいいわ、眺めがいいでしょう。
あまりに何度も同じ話をするものだから、僕は彼女の灰を海に捨てる夢を繰り返し見た。そんな日は大抵、海の音がごうごうとよく聞こえる日だった。
僕がきみを食べるから、きみの身体は残らないよ。幾度そう伝えても彼女は一向に首を縦にはふらない。その代わりに墓の話をした。お花畑の真ん中がいいわ、約束よ、と一方的に言葉を突きつけて、一人で満足そうに笑うのだ。
彼女が死んだ。あっけなく。夜に寝て、朝に目覚めなかった。それだけだ。本当に眠るように死んでいた。いつも通りに微笑んだままだったので、屍体は生きているようにさえ見えた。頬を何度か突っついて、そこでようやく、ああ死んでいるのだと思った。
自分でも意外なほど、僕は寂しさに襲われた。もういないと思っても現実感がない。空っぽの腹がしくしくと痛む。寂しさは空腹に似ている。
宣言していた通り、僕はばりばりと彼女を食べた。文字通りのごちそうで、躊躇いはなかった。ほらね、食べるって言ったでしょ。小さくなっていく彼女を見ながら心の中で話しかけた。彼女の体には悪い病が広がっていたらしいが、味にはまったく問題ない。人間の病気だから僕には関係ないのかもしれなかった。
残った骨とはしばらく一緒に暮らした。生き物の骨は肉なんかと違ってきちんと残る。まっしろなまま残る。
「死んだら海に撒いてね、お墓は丘の上がいいわ」
けれど骨を見るたび、なぜか彼女の声がした。同じ台詞を繰り返し。彼女は約束には口うるさかったから、たぶんその名残りだろうと思った。果たされない約束は約束のままなのに、彼女にとっては違うらしい。僕は忘れっぽいので何度も彼女との約束をすっぽかしてきたし、彼女もそれを知っているだろうに、全く懲りない人間だ。
はじめは無視していたものの、声はどうにもしつこい。仕方がないので骨を焼いてやることにした。ほんとうはもう少し飾っておくつもりだったのにもったいない。結局は彼女の思うままだ。もうどこにもいないくせに。
ちょうどいい入れ物がないので、そこらに転がっていた盃に灰を入れた。こんなものあったかと記憶を辿って、いつだったか彼女が持ってきたものだと思い出した。焼き残った骨がからんと鳴り、盃の底に灰が積もる。それでも彼女の声はした。
「死んだら、海に撒いてね」
月夜だった。外に出て振り向けば丘には月光が降りそそぎ、花はきらきらと濡れように瞬く。砂浜へ降り立つと海がごうごうとうるさい。真っ暗な水面に吸い込まれそうで足元が揺れる。
こんなところに行きたいの、本当に? それでも変わらず声は響いた。おんなじ言葉だ。いい加減聞き飽きたが、約束を果たすまで彼女は黙らないと分かってもいた。海に行きたいだなんて大ばかだ。
ひたり、手を浸すと海はさざめいた。星が映る。月光はここでも波間に降りそそぎ、やはりきらきらと瞬いた。鬱陶しいほど。
「本当に行くの?」
尋ねずにはいられなかった。こんなにも暗いところだ。僕のそばにいればいいのに。きっとずっと飾ってやれるのに。それなのに。
海に撒いてね、海に。変わらない言葉だった。単調な台詞ではないのに、まるで機械仕掛けのように聞こえる。彼女の声が響くのと同時に、ちょうど海の向こう側、水平線がゆっくりと染まり始めた。
朝が来る。
そう思った途端、突然、朝焼けの海岸を走る彼女の姿がさっと瞼の裏に浮かんで消えた。一瞬。僕の手をほどいて、重たい身体を脱ぎ捨てて、彼女は軽やかだった。僕がけして行けないところへゆく。その手を僕は二度と掴めないまま、小さな背が遠ざかる。
「いやだ」
声がこぼれた瞬間、体中のあらゆるものが逆流した。ごうごうと音をたてて燃える。いやだ。気が狂いそうだった。息を吸おうとした喉から、ひ、と奇妙な音が漏れる。海になど撒いてやるものか。そもそも体なんてもう、とうにここにあるじゃないか。
とっさに盃に海水を汲み、そのまま海と彼女とを一緒に飲み込んだ。背筋が震えるほど不味い。それでも必死に飲み下した。灰になりそこねた骨が喉元を突き刺しても、細かい粉に咽せても、たとえ腹が裂けたとしても構わなかった。うるさい。うるさいうるさい。耳を塞ぎながらうずくまる。どうか彼女が再び話し出す前に、はやく、はやく!
頭は焼ききれるかのようで、体中がカッカと熱い。吐き気を堪えながら何とか目を開く。泣いているのだ、と気付いたのは、ひたひたと足元をくすぐる波に涙が落ちたからだった。
いつの間にか地面に転がった盃はとうに空で、声も聞こえなくなっていた。死んだら海に撒いてね。その言葉通り海水と一緒にしてやったのだから、彼女も黙ったのだと思った。彼女がこの体とともにあるのなら、僕ももう叫ぶことなどない。心の底から安堵した。
それでも、たぶん、明日にはいつも通り腹が空くのだ。分かっていた。喉も乾くし、このまま朝日も昇るだろう。いつか彼女を食べたことすら忘れる自分がいると知っている。誰しもが生まれた頃の事を覚えていないのと同じだ。くそったれ。
朝焼けが水平線をいっぱいに埋め尽くす。薔薇色の眩しさを感じながら、目を閉じ彼女を想う。
安らかに眠れ。祈るべきはそれだけだった。どうか安らかに眠れ。
帰ると丘はまだきらきらと光っていた。月はとうに低くなっていたが、今度は太陽が花畑を照らしているらしい。朝露が花びらの上できらめく。思えばこの場所はいつでもあかるい。
海岸で拾った、ずっしりした石を花畑へ放り投げた。植物と柔らかい土がクッションになったのか、音はほとんどしなかった。白く丸い石は花に埋もれて、てっぺんだけがかろうじて見える。刻む言葉もないので、墓標には到底思えない。それが似合いだと思った。ここは墓だけれど墓ではない。名を縛るものはここにはない。彼女はどこにでも行ける。
振り返り海を見た。もうずいぶん高いところにある太陽とすっきりした空の下で、海は静かに横たわっている。あの美しく穏やかな海に彼女はいない。辿り着けなかったのだから。
「ざまあみろ」
頬が自然と緩んだ。
それからいくらか経って、ふと思い出したように花畑を見に行ったものの、いつの間に苔むしたのか飛ばされたのか、とうに石は見えなくなっていた。それきりだった。