コメディ・ライト小説(新)
- Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.29 )
- 日時: 2023/05/23 18:00
- 名前: あんず (ID: DUUHNB8.)
#17 『カニカマの夜』
「美しい夜には美しい酒がつきもの! ねえ、ねえ、そう思わん?」
思わん。聞こえてきた声に心の中で答える。声は出してやらない。出しても多分、この酔っぱらいには聞こえちゃいない。
深夜だった。家から歩いて二十分ほどの海岸、に続く階段の上。
足元には缶と瓶。紙パックの日本酒。頭上にはざんざんと降るような星。目の前には酔っぱらい。それも空のビール瓶を片手に持って、ギターのように構えながら弾くふりをしている、絵に描いたような酔っぱらい。
思わず出たため息に、ふざけたへべれけの笑い声が返る。肌寒い春先。明日は二限。それも必修。最悪だ。
◇
『久しぶりだしご飯でも食べに行こうよ!』
そのメッセージに返答したのがそもそもの間違いだった。ゼミ終わりのぐだっとした怠い空気の中、誘いの言葉が妙に魅力的に思えてしまった。
高校ぶりに会う友人。二人で一回遊びに行って、修学旅行で同じ班で、卒業式に何人かで写真を撮った。そんな感じの。
進学のために県外に出ていたところ、少しの間戻って来たらしい。二人きりで会ってご飯を食べるほどの仲でもなかった(何しろ遊びに行ったのは一度切りだ)が、さほど疑問にも思わなかった。
高校時代の友人という響きは、大学に馴染んでからの方が効く。これはもう本当に。不可抗力というやつ。
だから少し、いやかなり意気揚々と居酒屋に向かったのに。
◇
「久しぶり~! ねえ、私さあ、中退して結婚しないとだから戻ってきたんよ」
開口一番これだった。失敗だ、と思った。失敗も失敗、大失敗だ。
誰が見てもわかるくらい顰めた顔を、けれど相手は微塵も気にしていないらしかった。それも含めて失敗だ。話題を変えることも途中で帰ることもできないに違いない。
よくよく見れば友人の手には中身の減ったジョッキが握られている。すでに出来上がっている。
ため息。座りなよお、と間延びした声に観念して座敷に滑り込むと、友人は即座に注文用タブレットを差し出してきた。適当にサワーの文字をタップすると、目の前から気の抜けたような笑い声が聞こえた。
「サワーでいいの? ほんとに? 居酒屋のなんてうっすいよ、水じゃん」
「私まで酔ったら二人とも帰れなさそうだし」
「帰れる。お金あるし! 奢る!」
「……割り勘でいい……」
はやくも疲れを覚えながら見上げた先の友人は、なんというかまあ、高校時代からあまり変わっていなかった。
髪色は記憶より若干明るくて、メイクもしているのだけれど。あ、あのアイラインの引き方上手い。いいな。でもやっぱり、劇的変化というほどではない。
良かった。これでバチバチにイケてる女になってたら、今度こそ泣いて逃げ出すところだった。
「ピアス開けた? ねえねえねえピアスって痛い?」
「開けるとき?」
うん、と頷いた視線につられて自分の耳たぶを触る。
たまにあることも忘れてしまうセカンドピアス。髪の毛を引っ掛けるとき以外は痛くないと言うと、嘘だあと返された。
ピアスを開けてない人から何十回も質問され続けてきたものだから、この手の回答方法は心得ている。
「耳元で」
「うん?」
「耳元で、ホッチキスを鳴らされる感じ。そしたら穴が開いてるから、冷やして終わり」
げえ、と痛そうに身をすくめる姿に思わず笑う。笑って、安堵する。ようやく会話のテンポを思い出してきた。
これなら話せる。知らず知らずのうち、久々の再会に緊張していたようだった。
◇
テーブルにお酒とお通しが来てようやく一息をつく。忙しなく動く店員さんにお礼を言ってから、待ってましたとばかりに薄いキウイサワーに口をつける。
少しでいいからアルコールを入れないとやってられない。そんな予感がした。ややこしい話の予感が。
「で」
「で?」
「で。聞いてよ」
来た。来たぞ。つい身を硬くする。開口一番に聞こえた話の続きに違いない。
友人のジョッキの構え方からして気合が伝わる。こちらもジョッキを構えた。いつでも口に含めるようにしておかなければならない。酒の場での面倒話の常である。
友人は口を開いては閉めてを数度繰り返すと、意を決したように息を吸った。目をかっと見開く。私の身がさらに硬くなる。
「中退して結婚しなきゃっぽいんよ」
「いやどういうこと?」
「そう、意味わからんくない? わからんよね、わからん」
わからんわからんと言いながら友人はジョッキを煽る。からんと軽やかな氷の音が場違いに聞こえた。
中退。結婚。頭の中で反芻して早々に諦める。だめだ、未知の領域すぎる。
「何、強制なの? それ」
とりあえず放った疑問に呻き声が返る。見れば友人は机におでこを擦りつけながら頷いた。うー、だか、あ゛ー、だか、多分現実逃避をしようとして失敗している、らしい。
「お見合いでえ……」
「お見合い」
「うん、なんか父親の知り合いの子供? とかで? 誰だよそれ。知らんし。会ったことないし」
盛大にため息をつきながら友人がぐいっとジョッキを煽る。空になる。追加を頼もうとタブレットを操作する指先を何気なく見た。
そうして息が止まる。白い薬指に指輪がはまっていた。銀色が鈍く光る。まさか。いやいやまさか。
「その指輪は」
「彼氏にもらった」
うわあ。声が出た。うわあ。もうどうしようもないくらい深刻だ。笑うにも笑えない。ジョッキを煽る。煽る。流し込む。
「いいの別に。もうすぐ別れそうだったし別に」
しおしおと友人はまた机に突っ伏す。私はそれを見ている。
しばらく黙々とお酒を飲んだ。追加注文したサワーも黙って飲む。鬱屈とした雰囲気に店員さんがそろりと料理を持ってくる。ありがとうございます、と返す自分の声が低い。周りのざわめきが余計陰鬱さに拍車をかける。
届いたからあげを見て、これ好き、と友人が呟いた。そうしてぽつりぽつりと話が進む。
曰く。今度パーティーがあるからそこで会う。その後にホテルでお見合いがあるけれど、ほとんどもう決まったようなもの。
曰く。パーティーで着るドレスとお見合いで着る着物を選ぶのが面倒。
曰く。中退は流石に納得できないから、そこは親とも先方とも交渉しようと思っている。
「ははあ」
感心してしまった。何に? 自分の生きる世界との隔絶に。パーティー、お見合い、ドレス。そんな世界があるのか。というか、この友人はそんな世界の住人だったのか。
高校時代にも聞いたことのない話だった。今更言われても困惑が勝った。情報が処理しきれない。アルコールが入っているから尚更。
話の重さに頭を抱えていると、突然がばっと友人が頭を上げた。目が据わっている。ジョッキは三つ空いている。
「ねえ海行きたい」
「は?」
◇
酔っぱらいの実行力は時に目を見張るものがある。海風で酔いの冷めた頭で呆然と考えた。夜十一時。辺りは静まり返っている。
会計をして、コンビニでいくつかお酒を見繕って、砂浜に続く階段に座ったのが十時。そのときはまだ犬の散歩の人やランニングの人もいたのに、今や人気は全くない。
缶のサワーと瓶ビールを開けた当人は、砂浜に降りて瓶を掲げている。
ぐだぐだと聞こえる世迷言に適当に返事をしながら散らかった足元を見た。少なくとも美しい夜ではない。確実に。
「あーあ。ピアス開けてやろうかな」
「開ければいいじゃん」
独り言のようなそれに返事をすると、友人はぐっと言葉を詰まらせた。酒瓶を何度か上下に振る。
危ない。酒癖が悪い。ここが街中だったら通報されても仕方ないくらいだ。
思わずやめてよ、というと素直にやめた。代わりにつま先で砂を蹴る。妙にしおらしい。
言葉が通じたことに若干安堵しながら声を待った。
「ピアスはさあ、怒るんよね、親が」
体に穴開けるのはだめだって父親に怒られた、お母さんも怒ってた。そんなに悪い? もごもごと愚痴る声を聞きながら、もう何度目かのため息をつく。
本当に環境が違いすぎる。こんなところで私と飲んでいていいんだろうか。怒られるんじゃないだろうか。
私にはお見合いもパーティーもドレスも世界が違いすぎて分からない。分からないから、愚痴を聞いて飲むくらいしかできない。できない。
「わからん……」
口をついて出た言葉にからからと笑い声が返される。ねえ、と言われて目を上げると友人が酒瓶を掲げてこちらを見ていた。しかも二本。ビール瓶。治安が悪いことこの上ない。
「わからんくていいから! なんでもいいから、また飲も!」
その声に思わず頷いた。頷いてから後悔して、それでもやっぱりもう一度頷いた。
別に愚痴を聞きたいわけでもないし、お酒がものすごく好きなわけでもないけど。でも。
やった、と叫びながら酔っぱらいはくるりと回る。踊っているらしい。千鳥足にしか見えない。
それを見て何故か唐突に泣きそうになった。最悪だ。感傷に浸ってんじゃねえ。自分で毒づく。
最悪だ。私は明日も二限に出て、買い忘れた教科書のために生協に走らないといけないのだ。
「ちょっと、こっち来てよ! 見て! でかいカニ!」
今度は砂浜にうずくまって手を振っている。カニ、と言いながら指差しているが、多分貝殻だ。多分。
自分にも酔いが回って来ている。星が空から落ちそうなほど光る。ざんざんと降る。
どうしようもないな、と思う。そう、結局はそれだけのことだ。二人して所詮はただの学生だ。取り巻くすべてを変える力などないし、脇目も振らず誰かに手を伸ばすのは荷が重すぎる。
お酒が飲めたって無力で、子供で、無敵なんかじゃない。お酒が飲めるのに。高校の頃は、と思う。高校の頃は、それは大人にしかできないことだったはずなのに。
「どれ、カニ」
「これ! これこれ」
重い腰を上げて砂浜に降りる。近付くと小さい影が友人の足元に動いている。
まさかと思ってよくよく見ると本当にカニだった。でかくはないけど、たしかに。カニだけに。
その途端、ざあっと波が来た。その波にさらわれてカニが消える。消えて、濡れた砂浜が残る。
元気でいろよお、と間延びした酔っぱらいの声がする。元気でいろよ。元気で。波が寄る。返る。息を吸う。
「飲むか」
「まじか」
まじだ。胸がいっぱいになって堪らず出た自分の言葉に、さしもの友人も驚く。
飲むしかない。飲んで、くだらないことを喋って、どうせ明日は寝坊して、教科書だけを買いによろよろ大学に行く。そうするしかない。
立ち上がった私に友人はぽかんと口を開けて、それから今日一番の大笑いをした。そのまま思い切り息を吸い込む。叫ぶ。
「ピアスくらい開けさせろー!」
「そうだー!」
酒瓶を揺らす。階段上の空き缶も紙パックも片付けて、今度は部屋で飲み直そう。そういえば修学旅行の写真がスマホに入っている。見よう。見てやろう。
だって私たちはお酒が飲める。無力だけど、今だけ無敵だ。時間制限付きの無敵。
波が返る。カニが走る。家に置いてあるお酒を思い浮かべる。ジン、泡盛、リモンチェッロ、モルト……。
酒瓶がくるりと回る。おつまみはカニカマだ。それがいい。カニカマ、元気でいろよ、海で。
酒瓶がくるりと回る。回る。回る。ふと見上げた先、目の端で、星がひとつだけ流れて消えた。