コメディ・ライト小説(新)
- Re: 暁のカトレア ( No.4 )
- 日時: 2018/04/30 19:46
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 5VHpYoUr)
episode.1 始まりのきっかけなんて
村が壊滅したあの夜から八年。私は今、レヴィアス帝国の南部に位置するダリアという町で、宿屋に住み込み働いている。
ダリアは海に面した明るい町だ。青い海と太陽のようなミカンが有名で、観光客も多い。そのおかげで宿屋は大繁盛である。
「マレイ!地下倉庫からパンを持ってきておくれ!」
「はい!」
「ついでにオリーブオイルも!」
「分かりました!」
宿屋の一階の隅にあるキッチンで卵料理を作りながら指示を出してくるのは、この宿屋の女主人。名をアニタという。息子と娘、二人の子どもを女手一つで育て上げた、かなりの強者である。
ちなみに息子の方は帝国の軍隊に勤めているらしい。……いや、そんなことはどうでもいいが。
「パンとオリーブオイル、持ってきました」
「よし、ありがとね。そこ置いといて」
「はい。テーブルの上に」
「そうそう。じゃあ次」
私は内心溜め息を漏らす。
早朝に起きてからずっとこの調子。働きづめだ。一つ終えればまた次、それを終えればまたまた次。仕事は山のようにあり、終わりが見えない。
文句を言う気はないが、少し休憩させてほしいなとは思ったりする。
「二階の客室のシーツ、洗ってきておくれ!」
アニタは完成したスクランブルエッグを素早く皿に乗せながら、私に次の指示を出す。すべての皿に均等に胡椒を振りかける手つきは見事なものである。これはもう、アニタ流奥義と言っても差し支えないだろう。
「全部ですか?」
「東半分だけでいいよ!頼んだ!」
「分かりました」
またしても仕事。
ほんの数分の休憩もないなんて、嫌になってくる。
宿屋が繁盛するのは良いことだが、その分私の仕事内容が増えるというのは、あまり喜ばしいことではない。
二階の東半分、つまり三部屋分のシーツを抱え、私は宿屋を出る。洗濯をするのは宿屋から少し離れた場所なのだ。
少しでも早く洗濯を済ませて干さなくては、夕方までに間に合わない。
ずっしり重いシーツを胸の前に持ち、早足で坂を下っていた——その時。
突如、何かにぶつかった。
「あ!ごめんなさいっ!」
早足なうえ、下り坂ときている。結構なスピードが出ていたことだろう。勢いよくぶつかられて痛かったに違いない。
私はシーツの山を一度地面に置く。すると、ぶつかった対象が見えた。白い詰め襟の服を着た男性だ。
「ごめんなさい。大丈夫でしたか?」
「……はい。こちらこそすみません」
私がぶつかった男性は、手で腰元を軽く払い、ゆっくりと立ち上がる。後頭部で一つに束ねた金髪が、体の動きに合わせてはらりと揺れるのが、凄く印象的だ。
そんな彼は、私が地面に置いたシーツの山を見て、不思議そうな顔をする。
「これは……シーツ?」
「はい」
よく見ると、彼は整った顔立ちをしていた。
通った鼻、凛々しい目つき。それに加え、深海のような青い瞳。男性らしさを失いはせず、しかしながらどこか中性的な雰囲気がある。かっこいいというよりかは、美しいという方が相応しい、そんな顔立ちだ。
目の前にいる青年の顔立ちが、この世の人間とは考え難いような整っているものだから、私はついじっと見つめてしまう。
初対面の相手の顔をジロジロ見るとは、普通に考えて、失礼以外の何物でもない。
だが、こればかりは仕方がないだろう。美しいものや魅力的なものに目を引かれるというのは、誰だって同じなのだから。
「大家族なんだね」
青年は、極めて珍しい種の動物を目にしたような顔つきで、シーツの山と私の顔を交互に見ている。
たくさんのシーツに驚いているようだ。
「いえ、これは宿の物なんです。私の家族は」
そこまで言って、私は言葉を詰まらせる。今の私には、「もういない」と続けることはできそうにない。変に気を遣わせてしまうかもしれない、と思うからだ。
言葉を詰まらせる私を目にした青年は、眉間にしわを寄せ、怪訝な顔をする。
「……どうしたの?」
「いえ。何でもないです」
「そう?それなら構わないけど」
少しの沈黙。
それから十数秒くらい経ち、青年は唐突にシーツの山を抱え上げる。
「えっ、どうして?」
「ぶつかってごめん。お詫びといってはなんだけど、運ぶの手伝うよ」
「いいですよ、そんなの。お気遣いなく」
まったくもって無関係な者に宿屋の仕事を手伝わせたと知れば、アニタは怒るに違いない。だから私は、懸命に、手伝ってもらわずに済むように頑張る。
しかし青年は私の心情などお構い無し話を進めていく。
「それに、女の子にこんな荷物を持たせるなんて良くないから。で、どこへ運ぶのかな?」
深海のような青い瞳にじっと見つめられると、不思議な感じがしてくる。
まるで恋煩いのよう。奇妙な感覚だ。
「東の洗い場までです」
「うーん、ごめん。ちょっと分からないな。案内してもらってもいいかな?」
「あ、はい。ではこちらへ」
案内しようと足を進めかけた瞬間、彼は「あ、ちょっと待って」と制止してきた。いきなりのことに戸惑いながらも足を止め、彼へ目をやる。
「ここからはもう丁寧語じゃなくていいよ。それと君、お名前は?」
「私の名前?マレイ。マレイ・チャーム・カトレア」
すると彼は、一瞬、何か閃いたかのように目を見開いた。しかしすぐに冷静さを取り戻し、穏やかな口調で述べる。
「そっか、マレイちゃんだね。僕はトリスタン・ガヴァナー」
「トスタ……?」
「トリスタンだよ」
名前を間違えるという失態。目の前の彼——トリスタンは怒ってはいなさそうだが、申し訳ない気分になった。
「いきなり間違ってごめんなさい」
私が謝ると、彼は首を左右に動かす。頭の動きに合わせて、長い金髪も揺れていた。
「気にしないで。間違われるのには慣れてるから」
間違われるのには慣れてる、って……。
それはそれで悲しそうな気がする。
しかしトリスタンの表情は明るい。だから私は「まぁいいか」と思うことにした。本人が気にしていないのに私が気にすることはない。
「トリスタンさんと呼ぶわ」
「いや、呼び捨てでいいよ」
「そんなの駄目よ!」
「いいや、呼び捨てでよろしく。その方がしっくりくるんだ。トリスタン、でよろしく」
つい先ほど出会ったばかりの青年トリスタン。
彼についてはまだ分からないことだらけだが、たった一つだけ、はっきりと分かったことがある。
それは、柔らかな物腰とは裏腹にかなり押しの強いタイプである、ということだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.5 )
- 日時: 2018/05/01 16:05
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: AwgGnLCM)
episode.2 洗濯日和
よく晴れた空の下、シーツの山を抱えたトリスタンと並び、爽やかな風をきって歩く。それは、同じことの繰り返しばかりの毎日を過ごしてきた私にとっては、凄く刺激的なことだった。
退屈な朝に、まさかこんな出会いがあるなんて。
私の人生もまだ捨てたものではないのかもしれない。
「もうすぐ着くかな?」
「着くわ」
「そっか。ありがとう」
洗い場までの距離はさほどない。しかし、トリスタンは歩くのがゆっくりなため、意外と時間がかかる。
私一人で運んだ方が早かったのでは?と少し思った。
だが私としては、こうして時間を潰すのも悪くないなという気持ちである。シーツ洗いに時間をかけていれば他の仕事を押し付けられずに済むのだ。得である。
それから歩き続けること約十分。私たちはようやく洗い場へと到着した。
水を汲める井戸、大きなたらい、石鹸、物干し竿。
ここはとにかく洗濯に特化した場所だ。利用者のほとんどが女性である。だから、男性のトリスタンは、入った瞬間皆から視線を向けられる。
「なんだか視線を感じるね」
少し気まずそうな顔をするトリスタンに、私は返す。
「気にしなくていいわ。こっちへ」
すると彼は「ありがとう」と笑った。
時に女神のような感覚さえする端整な顔立ちのトリスタン。彼は今までどのように生きてきたのか——妙に気になる。
しかし、先ほど会ったばかりなので、あまり深いことは聞けない。私は色々と探りたくなる衝動を抑えるのに必死だった。
「マレイちゃん、シーツはここに置く?」
「えぇ、そこで。私は洗濯の用意をしてくるわね」
私は速やかに洗濯の用具を取りにいく。毎日やっているので、それほど難しいことではない。いつも通りの準備をするだけだ。
用具をまとめ、トリスタンの元へ戻る。
すると彼は、多数の女性に取り囲まれていた。恐るべき引き寄せぶりに、私は思わず後ずさってしまう。
「お兄さん、麗しいわね!どちらからいらっしゃったの!?」
「すみません。言えません」
「ほわぁ、凄く綺麗な金髪!それに素敵な衣装!もしかして、帝国軍の方!?」
「すみません。言えません」
「お兄さん結婚して!」
「それはお断りさせていただきます」
凄まじい勢いで迫る女性陣のハイテンションすぎる発言を、トリスタンは、するりするりと上手く流していく。その様は、見事としか言い様がない。
しばらくして群がる女性たちが捌けてから、私は彼の元へ向かう。
「凄い人気ね」
やや嫌み混じりに言うと、彼は困ったように苦笑する。
「さすがに少し疲れるかな」
「そうなの?贅沢な疲れね」
運んできたたらいに水を注ぎ、シーツを入れて軽く洗う。一枚ずつ丁寧に、しかし速やかに。これがなかなか難しい。
私の様子を興味深そうに見つめていたトリスタンは、やがて口を開く。
「僕も手伝おうか」
「構わない?」
「もちろん。任せて!」
張りきった調子で言い、いきなりたらいに手を突っ込もうとするトリスタンを、私は慌ててと制止する。
「袖も捲らずに突っ込んじゃ駄目よ!」
こんな当たり前のことを注意する日が来るとは驚きだ。
「え、そういうもの?」
「当たり前じゃない。袖が濡れるでしょ」
「なるほど。確かに。マレイちゃん賢いね」
納得したように頷いた後、トリスタンは素直に腕捲りをする。すると、左手首に装着した銀の腕時計が露わになった。
入念に磨かれたかのような銀の板に、焦げ茶色の革製ベルト。いかにも高級そうである。
「トリスタン。その腕時計、素敵ね」
敢えて言うこともないかとも思ったが、せっかくなので言ってみることにした。
住んでいる場所も、職業も、性別や年齢も異なる。そして、お互いのことをほとんど知らない。そんな私たちには共通の話題がほとんど存在しないため、このような小さなことでも話題にしなくては、すぐに沈黙が訪れてしまうのである。
そんなわけで腕時計を褒めてみたところ、トリスタンは目を細めてはにかんだ。
「そうかな?」
「そうよ!凄く大人っぽいわ」
「ありがとう。でもこの腕時計、僕の好みなわけじゃなくて」
木々の間から吹く風が、彼の一つに束ねた金髪を揺らす。その髪の毛一本一本が、まるで絹糸のようだ。私の焦げ茶色の髪とは大違いの、極めて良質な髪である。
「仕事道具なんだ。……よし。洗濯なんてちゃちゃっと済ませてしまおう。協力するよ」
「ありがとう。でも、腕時計は外しておいた方がいいと思うわよ」
腕時計を装着したまま洗濯は、さすがに厳しいだろう。そう思ったため一応指摘しておく。
するとトリスタンは、「ごめん、忘れてた」と言って頬を緩める。
彼は本当に温厚だ。名を間違えられても、細かいことを指摘されても、まったく怒らない。尊敬の対象と言っても過言ではないくらい、心にゆとりのある人である。
見習わなくては。
それから私は、大量のシーツを洗い、干した。
トリスタンは何度も手伝おうとしてくれた。しかし、彼は少し何かする度に大きな失敗をするので、近くに座っていてもらうことにした。
「やった!全部干せた!」
すべてのシーツを物干し竿に掛けた私は、達成感のせいで大きな声を出してしまう。しかし、その頃には洗い場に誰もいなくなっていたため、トリスタン以外には聞かれずに済んだ。
「マレイちゃん、お疲れ様」
トリスタンは穏やかな表情で労ってくれる。
どこまでも深く、吸い込まれそうな、深海のような青。そんな色の、人を超越したような美しい瞳に見入られると、脳が妙な感じになってくる。
「何も手伝えなくてごめん。洗濯とかって、あまり慣れてなくて」
「確かに、石鹸を落としたり、それで滑って転びかけたり、たらいをひっくり返したり、洗ったシーツを地面に落としたり……結構凄いことになってたものね」
「迷惑しかかけてないね。本当にごめん」
「気にしないで。こちらこそ、いきなり手伝わせてごめんなさい」
「いや、マレイちゃんといると楽し——ん?」
トリスタンの目つきが一瞬にして変わる。
何かを察知したようだ。
しかし私には分からない。私一人戸惑っていると、突如、空気が揺れた。
「これは……」
呟くトリスタンの表情は刃のように鋭い。今までの穏やかさが嘘のようである。こんな顔をするのか、と私は内心驚く。
ただならぬ雰囲気が辺りを包んでいる。
「……これは何?一体何なの、トリスタン」
不安になって尋ねる。
だが彼は答えない。彼の鋭い視線は、木々の間を探るように動いていた。
「敵、か……」
トリスタンが顔をしかめた直後のことだ。ズシンズシンと低い音が響き、巨大な黒い影が現れた。
やがてその正体が見えてくる。
そして私は愕然とした。
「こ、これって……!」
太くて長いたくさんの脚。ゆっくり迫ってくる不気味な足取り。高さ三メートルは優にありそうな巨体。
見間違えるはずもない。
これは、あの夜と同じ、巨大蜘蛛の化け物だ。
- Re: 暁のカトレア ( No.6 )
- 日時: 2018/05/02 12:41
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Z/MkaSMy)
episode.3 巨大蜘蛛との交戦
私たちの前に突如現れた、蜘蛛の形をした巨大な化け物。それは、八年前のあの夜、私からすべてを奪った化け物に違いなかった。あの頃の私はまだ幼かったため、いまいちよく分かっていない部分はあったと思う。しかしそれでも、この太くて長い幾本もの脚は、確かに記憶に残っている。これほどはっきり覚えているのは、よほど恐ろしかったからに違いない。
「と、トリスタン。逃げなくちゃ……」
「マレイちゃんは下がっていていいよ」
「……え?」
トリスタンの顔つきは、先ほどまでとは明らかに変わっていた。
もちろん美しい容貌自体は変わらないのだが、放っているオーラがまったく違う。ほんの数分前までの穏やかで柔らかな雰囲気が嘘のようだ。
「療養中なんで、あまりやり合いたくないんだけどな」
ぼやきながら、トリスタンは、腕時計の文字盤部分に人差し指と中指の先を当てる。すると文字盤が発光し始めた。
私はその様子をまじまじと見つめる。
「ま、仕方ないね」
はぁ、と溜め息を漏らすトリスタン。その右手には白銀の剣が握られていた。
私はそれを見て、「どういう仕組みなのだろう?」と疑問に思ったが、問いかける暇はない。目の前の化け物をどうにかするのが先決である。
「マレイちゃんはそこにいて!」
トリスタンは背後の私を一瞥し言い放つ。
目前に敵がいる緊迫した状況というのもあってか、彼の声色は厳しい。しかしどこか柔らかさを帯びてもいる——そんな気がした。
「すぐに終わらせるから!」
そう宣言し、トリスタンは跳んだ。
人間離れした跳躍力で巨大蜘蛛の化け物へと接近し、白銀の剣を振り上げる。そして、彼を狙った巨大蜘蛛の脚を、見事に斬った。
この戦闘力。もはや人間のそれではない。
巨大蜘蛛は負けじと炎を吐き出す。トリスタンは宙で身を返し、華麗な身のこなしで炎をかわすと、一度退き着地する。
「凄い……」
私は半ば無意識に漏らしていた。
彼の動きが、運動神経が良いなどという次元ではないことは、誰の目にも明らかだ。もしこの場に私以外の者がいたとしたら、今の私と同じように戸惑うに違いない。
そんなことを考えているうちに、トリスタンは次の行動へ移る。
脚を一本失い動きが鈍った巨大蜘蛛へ走って接近し、白銀の剣で、脚を一本二本と切り落とす。巨大蜘蛛の反撃——脚踏み攻撃を、軽い足取りでよけながら、徐々に胴体へ攻撃を仕掛けていく。
つい見惚れてしまうくらいに華麗な動作だ。洗濯中の失敗ばかりしていた彼とは大違いである。
——刹那。
巨大蜘蛛の化け物の意識が私へ向いた。
「……あ」
私は言葉を詰まらせる。
声が出ない。体が動かない。あの夜の光景が鮮明に蘇り、恐怖が襲ってくる。言葉にならない恐怖が私を満たしていく。
「マレイちゃん!」
トリスタンの叫び声が聞こえた気がした。けれど私は、恐怖が大きすぎて、何も返せない。
一本の脚が迫る。
無防備な状態で攻撃を受ければ怪我することは必至。それも、致命傷に近い重傷を負う可能性が高い。
私はその場で身を縮める。
もう駄目かもしれないと思った瞬間、脳裏に浮かんだのは、宿屋やアニタの光景。特別好きだったわけでもないのに、生きるために仕方なく働いていただけだったのに。ただ、結局私にはそれしかなかったということなのだろう。
直後、ぶつかるような鈍い音が耳に飛び込んできた。
私は驚いて瞼を開き、さらに驚く。地面に伏したトリスタンが脇腹を抱えていたからだ。
「と、トリスタン!?」
すぐに彼の元へ向かう。
トリスタンは顔をしかめつつ「来ないで!」と鋭く放つ。しかし私はそれを無視して、彼に駆け寄った。
今日出会ったばかりのほぼ他人ではあるが、それでも、ある程度の時間を共に過ごした仲だ。放っておくわけにはいかない。
「大丈夫っ!?」
「う、うん。たいしたことないよ」
そう答え、笑みを浮かべるトリスタン。しかしその顔には疲労の色が浮かんでいる。無理しているのがばればれだ。
彼の脇腹を押さえる手に視線を落とす。すると、白い上衣に赤い染みが滲んでいるのが見えた。巨大蜘蛛の脚にやられたのだろう。傷が見えなくても、結構な深手であると分かる。
「出血しているわ!早く手当てしなくちゃ」
「少し抉れたくらいだから大丈夫」
「抉れたら大丈夫じゃないと思うけど!?」
「いや、大丈夫。でも……こんなことをしている場合じゃなさそうだね」
気づいた時には、巨大蜘蛛の意識は私とトリスタンへ向いていた。ただならぬ威圧感を漂わせつつ、ゆっくりと近づいてくる。
巨大蜘蛛は手負いだ。既に脚を何本も失っている上、胴部分にはトリスタンが剣でつけた傷がたくさん刻まれている。
しかしそれでも動き生きている。戦えない状態の人間が勝てる相手では到底ない。
私は焦り、トリスタンへ目をやる。
「どうする!?逃げる!?」
すると彼は、赤く染まりつつある上衣のポケットから、腕時計を取り出した。銀の文字盤に皮製ベルト。トリスタンが装着しているものと同じデザインだ。
「これを使って」
彼の表情は真剣そのものだった。
「でも、どうすれば……」
「文字盤に指二本を当てる。それから、あの化け物を倒す場面を強くイメージする。それだけでいいよ」
トリスタンの説明は分かった。巨大蜘蛛の化け物と戦う直前に彼がやっていたようにすればいい、ということなのだろう。
だが、私の脳内は純粋な疑問で満ちていた。私にできるのか?という疑問だ。
腕時計のことをトリスタンは「仕事道具」と言っていた。ということは、ちゃんとした使い方説明や使用訓練を受けているはず。だからこそ使いこなせるのだろう。訓練を受けていない私がこの腕時計を使ったところで、まともに使いこなせるとは考え難い。
「でも私……」
「大丈夫。マレイちゃんならできる。だから使って」
「でも何が起こるか……」
なかなか踏み出せない私に、トリスタンは口調を強める。
「いいから、早く!」
その一言が、腕時計の使用を躊躇っていた私の背を押した。
「……分かった」
何が起こるか分からない。
だが。
このまま二人揃って殺されるくらいなら——やってやる!
私は歯を食い縛り、人差し指と中指の指先を文字盤へ当てる。それから「死にたくない」と強く念じる。
巨大蜘蛛の化け物が炎を吐こうと空気を吸い込む。それを横目に見ながら、私は叫んだ。
「来ないで!!」
この際、何がどうなってもいい。
私とトリスタンが助かるなら、それで十分だ。
- Re: 暁のカトレア ( No.7 )
- 日時: 2018/05/03 18:06
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 8nwOCftz)
episode.4 希望抱く朝
その瞬間、赤い光が溢れた。
腕時計から放たれた真紅の光線は、巨大蜘蛛の化け物の胴部分を貫く。
化け物はその巨体をくねらせてもがき、一分も経たないうちに動かなくなる。そしてついに、塵となって消えた。
目前に広がる予想もしなかった光景を、私はただ呆然として見つめるほかなかった。私は素人だ、たいしたことをできるわけがない。そう思っていたのに、こんなことになるなんて。
「マレイちゃん……凄いな」
一部始終を間近で見ていたトリスタンが、驚きと戸惑いが混じったような表情で呟く。
「あ、いや。悪い意味ではなくね。純粋に……」
「純粋に?」
「凄い破壊力だと思ったよ」
女として痛恨な評価のされ方をしてしまった。
凄い破壊力、と褒められる齢十八の少女。これはもはや残念以外の何物でもない。いや、貶されるのに比べればましだろう。しかし「わーい!褒められたー!」と素直に喜ぶ気にはなれない。
「これでひとまず戦闘は終わりだね。よし、それじゃ……くっ」
巨大蜘蛛の化け物との戦闘を終え、立ち上がろうとしたトリスタンは、途中でカクンと膝を折る。膝と足首の間くらいまでの丈のブーツを履いた彼の足は震えていた。
「大丈夫!?」
私は咄嗟にトリスタンの体を支えた。すると彼は申し訳なさそうな顔をする。
「また迷惑かけたね。ごめん」
「そんなことないわ!貴方がいなかったら、今頃私、死んでいたもの!」
トリスタンが庇ってくれたから、私は化け物の攻撃を受けずに済んだのだ。だから彼が謝る必要などあるわけがない。
むしろ謝るべきなのはこちらである。
「ありがとう、トリスタン。貴方のおかげで助かった」
「感謝されるようなことはしていないよ」
「でも庇ってくれたじゃない。今日知り合ったばかりなのに、貴方は自分の身を犠牲にして私を護ってくれた。嬉しかったわ」
人は大抵自分が一番大切なものだ。世のため人のため、と口では言えても、追い込まれれば保身に回る。
それを悪いと言うわけではない。ただ、人間とはそういう生き物だ。もちろん私も。だからこそ、己を犠牲にして他人を護るというのは、誰にでもできることではない。
「マレイちゃんのためになったなら良かったよ。それに、僕の甘さも再確認できたしね」
少し乱れた長い金髪を片手で整えながら呟くトリスタン。どこか満足していないような顔だ。多分、納得できない何かがあるのだろう。
「どういうこと?」
「速度も威力もまだ実戦に戻れるほどじゃないな、って。さっき交戦してみて改めて思ったんだ」
「動きは十分人間離れしていたと思うけど、あれでもまだ不十分なの?」
すると彼は、左手首の腕時計を指差しながら苦笑する。
「これで一時的に身体能力を上げているんだ。だから人間離れしているように見えるのかもしれないね」
でも、と彼は続ける。
「さっきの戦闘力くらいじゃ、ああいった類いの化け物には勝てない」
直前までとは真逆の真剣な顔つきだ。
私はその時、彼の背にまとわりつく闇を見た。
「もっと強くないと」
実体のあるものが見えたわけではない。幽霊のようなものが見えたわけでもない。しかし、彼が背負う闇の片鱗が、私の瞳に確かに映った。
その様は、あまりに悲しく、そして美しい。
この世のものとは考え難いほどに整ったトリスタンの容貌。その魅力を真に引き出せるのは、どうやら、普段の穏やかな笑みではなかったようだ。
私は平凡な女である。だから、彼の過去は知らないし、知りようもない。だが、彼は間違いなく、平凡とは言い難い道を歩んできたことだろう。
その中で生まれた闇。
悲しみか、憎しみか——正体こそ分からないが、確かに存在する暗い何か。
それが、彼の人を越えた美しさを作り出している。そんな気がしてならない。
「マレイちゃん?」
「……あ」
「どうかした?」
「い、いえ。ただ、これからどうしようか考えていただけよ」
ぎこちなく言葉を放つ私に、トリスタンは穏やかな笑顔で接してくれる。こちらを見つめる深海のような青に曇りはない。
「シーツを回収する?」
「そうね。取り敢えず集め……って、まだよ!」
その時になって、トリスタンが脇腹を痛めていることを思い出した。出血は止まっているようだが、早く手当てするに越したことはないだろう。
だから私は言った。
「トリスタン、私と一緒に宿屋まで来てくれる?」
消毒液もガーゼや包帯も存在しないここでは、まともな手当てはできない。しかし、宿屋へ戻れば、多少の手当てはできることだろう。
「傷の手当てをするわ。ゆっくり休んで」
するとトリスタンは、整った顔を縮めて苦笑する。
「そんなのいいよ。他人なのにこれ以上迷惑かけられないしさ」
——他人。
なぜだろう。よく分からないけれど、その言葉が、心に突き刺さって抜けない。胸の奥が熱を持ったように熱くなり、じんじんと痛む。
初めて覚える感覚だ。
「……マレイちゃん?」
首を傾げるトリスタンを目にし、私は正気に戻る。
初めての感覚に戸惑ったからか、心ここにあらずになってしまっていた。
「さっきから少し様子がおかしいよ?どうかした?」
貴方の発言のせいじゃない!……なんて言えるわけもない。
私は笑顔を作り、首を左右に動かす。
「お気遣いありがとう。でも何もないわ。私は今から一度宿屋へ戻るの。一緒に来てもらっても構わない?」
言ってから私は、トリスタンに借りた腕時計を返していなかったことを、思い出した。
すぐに腕時計を彼へ差し出す。すると彼は「ありがとう」と、両手で丁寧に受け取った。
腕時計が大事な物だからなのか、単に受け取る時の癖なのか。それは不明だが、男性が両手で物を受け取る光景というのは、多少違和感があった。
「一緒に来てもらっても大丈夫?」
「もちろんだよ」
「ありがとう、トリスタン」
私には今まで、胸を張って友達と言える人がいなかった。
当然一人で生きてきたわけではない。年の近い知り合いだっていた。過去はもちろん現在も。けれど友達と言えるような関係ではなかった。
しかし、トリスタンとは友達になれるような気がする。
年代も性別も違うけれど、何か同じような部分を感じるのだ。だから、分かり合える予感がする。
そんな風に、微かな希望を抱いた朝だった。
- Re: 暁のカトレア ( No.8 )
- 日時: 2018/05/04 11:41
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: kgjUD18D)
episode.5 やはり今日も忙しい
洗濯を終え、巨大蜘蛛を倒した私たちは、一旦宿屋へ戻ることにした。
私がシーツを持って宿屋を出てから、既に結構な時間が経っている。アニタはもしかしたら私を心配しているかもしれない。いや、それならまだしも、怒っていたら最悪だ。
だから私は、いつもより急ぎ足だった。
宿屋へ着くや否や、アニタにトリスタンを紹介した。速やかに紹介しなくては怪しまれると思ったからである。
続けてトリスタンが怪我を負っていることを説明すると、アニタはすぐに救急箱を取り出してくれる。彼の白い衣装に赤い染みが広がっているのもあり、状況を飲み込みやすかったのだろう。
「服、脱げるかい」
「はい」
椅子に腰掛けているトリスタンは静かに頷く。
「じゃあ脱いでもらってもいいかい?軽く手当てするから」
「はい」
落ち着いた声色で短く返事をし、トリスタンは白い上衣の前を開く。そして袖から腕を抜き、そのまま隣の椅子へそっと置いた。
こうして露わになったのは、上衣の下に着ていた白色の半袖シャツ。こちらも上衣と同じく血に濡れている。
トリスタンはそのシャツを、躊躇いなく捲り上げた。すると、脇腹の傷が露わになる。引っ掻かれたような傷だ。
それを見たアニタは、目をみ開き眉頭を寄せる。
「アンタ、何があったんだい?こんな深い傷を負うなんて……」
「少し襲われまして」
ごまかすように笑うトリスタン。
「もしかして、例の化け物にかい?」
アニタは唐突に真剣な顔つきになる。
硬い表情、静かな声色——いずれも彼女らしくない。
「はい。その一種に遭遇しまして、ついうっかり」
「そうかい。アンタいい顔してるんだから、気をつけなくちゃ駄目だよ」
脇腹の引っ掻き傷を拭きながら母親のような発言をするアニタ。どうやら、彼女はトリスタンのことを気に入っているらしい。
洗い場の時も然り、今も然り、トリスタンはかなり女性を惹き付ける質のようだ。
「そうだマレイ。裏の倉庫からいつものを取ってきておくれ」
「いつもの、ですか?」
「そうだよ」
曖昧な言い方をされても分からない。
「えっと、何でしたっけ……」
するとアニタは調子を強めた。
「また忘れたのかい!?いい加減にしなよ!」
急にこうやって怒り出すから嫌なのよ。
私は内心言ってやった。
……もっとも、口から出すことはできないが。
「パン、ビーンズ、干し肉だっていつも言っているじゃないか!何度言えば覚えるんだい!?」
初耳だ。
パン、ビーンズ、干し肉——そんな簡単な内容を何度も忘れるほど、私は馬鹿ではない。
しかし、こういう場面で本当のことを言えば、余計に揉める。だから私は頭を下げておいた。悔しさはあるが、生きていくためなので仕方がない。
「その後はシーツ回収!それからベッドメイク!頼んだよ!」
分かってますって。そう言いたくなるような言葉を、次から次へとかけられた。だが、もはや苛立つ気にすらならない。用事を次々言われるのには慣れっこだ。
そんなことで、私はいつも通り仕事をこなしていく。ベッドメイクが終われば、宿泊客の夕食に向けて準備。夕食が終われば、皿洗い。それに加えて、テーブル周りや床の掃除。トリスタンがいれば少しはましになるかと思ったが、そんなことは微塵もなかった。一瞬期待しただけに残念な気分だ。
一方、ここへ宿泊することを決めたトリスタンは、常に一階に居座り、あくせく働く私を眺めていた。単に私が自意識過剰なだけかもしれないが、彼は妙に熱心にこちらを見つめていた。少し戸惑ったくらいである。
その夜、私はトリスタンに呼び出された。
夜間に男性と二人で会うのは極力避けたい。しかし相手はトリスタンだ。しかも宿屋内の彼の客室で会うという話。
それなら大丈夫だろう、と思った私は、こっそりと彼の客室へ向かった。
扉をノックすると、トリスタンはすぐに出てきてくれる。
「来てくれたんだね」
「えぇ。でも何の用?」
「それは中で。取り敢えず入って」
トリスタンがそう言うので、私は仕方なく客室内へと入ることに決めた。本当はあまり気が進まなかったけれど。
室内へ入ると、彼は扉を閉める。これで完全な二人きりだ。逃げられないし、助けを求めることもできない。
もし彼が何かしてきたらどうしよう、と一瞬不安がよぎる。しかし私は心の中で否定した。巨大蜘蛛の化け物から助けようとしてくれたトリスタンが悪人なわけがない、と。
「夜遅くに呼んでごめんね、マレイちゃん」
やがて、トリスタンは口を開く。
室内の明かりはオレンジ色のランプ二つだけ。お互いの姿が見えないほどではないけれど、昼間に比べると薄暗い。
「そこの椅子にでも座って。僕はこっちへ座るから」
言いながらベッドに腰掛けるトリスタン。
彼の下ろした長い金髪は、薄暗い闇の中でも輝いて見える。まるで上質な絹糸のようだ。
「分かったわ。でも、トリスタンはどうしてベッドへ座るの?」
椅子は二つある。にもかかわらず、彼はベッドに座る。まるで私を避けているかのように。
「貴方もこっちで話せばいいのに」
すると彼は黙った。言いたいことはあるが言えない、といったような表情を浮かべている。
「……トリスタン?」
改めて声をかけると、彼の意識がこちらへ戻った。
「あ、気にしないで。僕はここが好きなだけだよ。それにほら」
彼は近くにあった紐で金髪を一つに結びながら続ける。
「マレイちゃんを怖がらせても駄目だしね」
怖がらせる?
私には彼の発言の意味がいまいち分からなかった。
「どういう意味?トリスタンは怖くなんかないわよ」
それに対し、彼は苦笑する。
「男と二人きりという状況は、女性にとっては怖くもある。前にそんなことを聞いたんだ」
「まぁそうね。そういった類いの犯罪に巻き込まれることだってあるわけだもの。でも、トリスタンはそんなことしないでしょ」
確かに、私も一瞬は不安になった。
しかし今はもう、彼を疑ってはいない。トリスタンは信じるに値する男性だと思うから。
「それで、用って何?」
私は彼の青い瞳を真っ直ぐに見て尋ねた。
すると彼は、一度目を閉じ、少しして開く。
「……マレイちゃん」
トリスタンの表情は真剣そのものだ。
「帝国軍へ来る気はない?」