コメディ・ライト小説(新)
- Re: 暁のカトレア ( No.11 )
- 日時: 2018/05/05 22:06
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Re8SsDCb)
episode.6 運命の別れ道
突然の誘いに、暫し空いた口が塞がらなかった。
私はどこにでもいるようなありふれた娘。宿屋で働く一般人である。帝国軍なんて言葉には馴染みがない。入るなんてもっての外だ。
今日一日共に過ごしたのだから、トリスタンもそれは分かっているはず。にもかかわらず私を勧誘するなんて、謎としか言い様がない。
「トリスタン……何を言い出すの?私みたいな一般人を帝国軍に誘うなんて、変よ?」
私を帝国軍へ誘うということは、彼は帝国軍人なのだろう。それも驚きの一つだった。
それならそうと、もっと早く言ってくれれば良かったのに。
「変じゃないよ。一般人出身の軍人もたくさんいる」
トリスタンの言葉を聞き思い出す。そういえばアニタの息子も帝国軍に勤めていたな、と。それを思えば、普通の家からでも軍人になれるというのも理解できる。
しかし私は女だ。しかも齢十八。
「それはそうね。でも、私には軍人なんて無理だわ」
「いや、無理じゃない。僕はこの目で君の持つ凄まじい力を見たから言っているんだ。マレイちゃん、君の力なら十分活躍できる」
「……だとしても、無理よ」
凄まじい力なんて、活躍できるなんて。そんな次々言われても、私にはよく分からない。昨日まで平凡に暮らしてきたんだもの。
「私はこれまでもそうだったように、これからも平凡に生きていくの。普通の女として、ただひたすら平凡に」
その瞬間、ベッドに腰掛けているトリスタンの眉がぴくっと動く。
「それでいいの?」
いつになく静かな声。落ち着きのある低いその声は、まるで私の心の奥深くを探っているかのようだ。
私は彼の問いに、すぐには答えられなかった。
なぜなら、心の隅に、得体の知れない何かがあったからである。
「君はここが一番自分に相応しい場所だと思っているの?」
追い討ちをかけるように言ってくるトリスタン。
私は私自身の心がよく分からなくなってきていた。
平凡に生きていくものと思っていたし、それを望んでいるはずだった。なのに、今私は、なぜか、彼についていきたいような気がしてならない。可能性を信じ、新たな道へと歩み出したい。そんな思いが湧いてくる。
「……分からないわ」
自然と口からこぼれていた。
考える間もなく、ありのままの心が溢れ出す。
「いきなりそんなことを言われても困るわよ。私自身、私がどうしたいのか分からないの」
すると、トリスタンは頬を緩めた。
「帝国軍へ来てくれる可能性は、ゼロじゃないってことだね」
「えぇ。貴方には助けられた恩があるもの。バッサリとは断れないわ」
「……そんな理由なんだね」
少し残念そうな顔をするトリスタン。
彼についていくかはまだ分からない。しかし、彼と行ってもいいかもしれないと徐々に思えてきた。
なので、疑問に思ったことを尋ねてみる。
「もし私が帝国軍へ入るとして、そこで何をするの?」
するとトリスタンは、その整った顔に気色を浮かべた。海のように深みのある青の目は輝き、口角が僅かに上がっている。
「マレイちゃん……!興味を持ってくれているんだね」
トリスタンの声は弾んでいた。非常に分かりやすい人だ。
「まだ行くと決めたわけではないわよ」
「興味を持ってくれている事実だけで嬉しいよ」
心から嬉しそうな顔をしているトリスタンを眺めていると、彼が女性を惹き付ける理由が少し分かった気がした。
「僕たちの仕事は化け物狩り。つまり、今朝の巨大蜘蛛みたいなのを片付けるのが仕事ってわけだよ」
「あんなのと戦うの?」
早くも自信を失ってきた。
不安しかない。
「そうだよ。今から十年前くらいかな、レヴィアス帝国に突如化け物が発生するようになったのは知っているよね?」
「えぇ」
知らないわけがない。だって私の故郷は、あの巨大蜘蛛の化け物に焼き滅ぼされたのだから。
圧倒的な強さを誇る化け物にすべてを破壊される恐ろしさは、この脳に深く刻み込まれている。八年が経った今でも、鮮明に思い出せるくらいに。
「その後、いくつもの街が化け物に襲われて破壊された。このままでは国が滅亡してしまうと考えた帝国は、対抗する手段を必死に研究し、ついにこれを発明した」
説明しながら、トリスタンは腕時計を私に見せる。
「これは……今朝のおしゃれな腕時計ね」
「そう。これは、僕たち人間があの化け物を倒す、唯一の希望なんだ」
レヴィアス帝国ならではのテクノロジーを利用した道具、といったところか。
「そういえば、白銀の剣を取り出していたわね」
何も思わず言うと、トリスタンは「しまった」というような顔をする。
「あ、見られてた?」
「えっ、見ちゃいけなかったの?」
私とトリスタンは顔を見合わせた。そのまま少しの沈黙。
見つめあっているのにお互い何も言わないことが妙におかしくて、徐々に笑いが込み上げてくる。
それから数秒、私はついに笑いをこぼしてしまった。ふふふっ、と変な笑い声を出してしまう。
「なんというか……見てしまってごめんなさい」
変な笑い声を出してしまったのが恥ずかしくて仕方ない。
「あ、いや、気にしないで。説明の手間が省けて良かったよ」
トリスタンはぎこちなく言葉を紡いでいく。
ひんやりとした空気が私たち二人を包む。上手く言葉にできないのだが、非常に気まずい。それから、またしても沈黙が訪れた。
やがて、長い沈黙を破り、トリスタンが爽やかに述べる。
「ちなみに僕の所属している化け物狩り部隊は、レヴィアス帝国軍の中でも比較的高い地位だから、給与は結構いいよ。その代わり死と隣り合わせだけどね」
さらっと怖いことを……。
不安を煽るような内容を時折混ぜ込んでくるのは止めてほしい。怖いことを言われては、私の心が揺れてしまう。
「トリスタン。取り敢えず、明日の朝まで時間を貰っても構わない?」
これは私の人生を変えるような大きなことだ。一応色々考えてはみたが、「そう簡単に答えを出せるような内容ではない」というのが私の答えだった。もう少し時間が必要である。
「もちろん。構わないよ」
「ありがとう!」
「それじゃ、今日はお開きにしようか。マレイちゃん、部屋まで送るよ」
トリスタンは優しく言ってくれた。しかし私は首を横に振る。
「いいわ。アニタに見つかると厄介なの」
「でも危ないよ?」
「外へ行くわけじゃないし、平気よ」
「駄目だよ!」
急に調子を強めるトリスタン。
日頃は温厚なのに時々強く出てくるところが不思議だ。
「部屋まで送るよ。……何かあってからじゃ遅いから」
「そうね、分かったわ。ありがとう」
何かあってからじゃ遅いから、の部分に若干違和感を覚えながらも、私は素直に送ってもらうことにした。好意に甘えるというのも時には悪くないだろうから。
- Re: 暁のカトレア ( No.12 )
- 日時: 2018/05/06 17:36
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SsOklNqw)
episode.7 動き出す、私の歯車
「……マレイ?こんな夜遅くにうろついて、何をしているんだい」
最悪だ、と青ざめる。
なぜかというと、トリスタンに送ってもらっている途中でアニタに出会ってしまったからである。
よりによってこのタイミングで遭遇するなんて——驚くくらいのついていなさだ。
「こんばんは、アニタさん」
トリスタンはさりげない笑顔でアニタに挨拶する。しかし、彼女は、そのくらいでごまかせる人間ではなかった。
「どうしてアンタがマレイと一緒にいるんだい?」
アニタはトリスタンへ、ねっとりとした視線を向けながら問う。
「少し用があったもので。部屋でお話をさせていただきました」
さらりと答えるトリスタン。
しかしアニタはそのくらいでは納得しない。
「まさか……おかしなことをしたんじゃないだろうね」
「おかしなこと?何ですか、それ」
「男女が部屋でと言ったら決まっているじゃないか!」
きょとんとした顔をするトリスタン。
「とぼけるんじゃないよ!マレイに何をしたんだい!?」
すっかり怒りモードに入ってしまったアニタは止まらない。トリスタンの言葉を聞く気は微塵もなく、一方的に言葉を吐く。
「いくら宿泊客でも、手を出してたら承知しないよ!」
「待って下さい!トリスタンはそんな人じゃないです!」
私は、怒りに染まったアニタを落ち着けようと、必死に声をかける。しかし私の声かけ程度で彼女を止められるわけもなかった。むしろ悪化させてしまったくらいである。
「マレイは黙ってな!これはその男との話だよ!」
「アニタさん。僕は本当に何もしていません」
「嘘だね!やらかした男ほど、最初はそういうことを言うんだよ!」
「いえ。本当に、たわいない話をしていただけです」
淡々と返すトリスタン。
私はその横で首を上下に動かす。
するとアニタは「もういいよ!」と鋭く言い放ち、私の片腕を強く引っ張る。私はつまづきそうになったが、何とか耐えた。
「マレイ、来な」
「あ、でもトリスタンは……」
「あんなやつはいいよ!」
「待って下さい、まだお礼を言えてな」
「礼なんていらないよ!」
鋭く言われたものだから、私は何も言い返せなかった。
……だって怖いんだもの。
それからアニタの部屋に連れていかれた私は、「夜に男の部屋へ行くなんて」とこっぴどく叱られた。
相手はトリスタンだし、そこまで気にすることもないと思うのだが。
「いいね、マレイ。今後こういったことが絶対にないようにしなよ。寄ってくる男には必ず企みがあるものと思うこと」
「トリスタンはそんな人じゃないです」
「今は紳士を装っているけど、いずれは手を出すつもりだよ。あの男には、今後絶対関わらないようにしな」
アニタがなぜそこまで言うのか、私にはさっぱり理解できなかった。
世の中には、確かに、女に手を出し罪を犯す人間もいる。しかし、トリスタンがそのような人間だとは考え難い。
「どうしてそこまで決めつけられるんですか?トリスタンに前科があるわけではないですよね?」
「前科の有無なんて関係ない。男はみんな獣になるんだよ。あいつは少しはいいやつかと思ってたが、結局……」
ぷちっ。
その瞬間、私の中の何かが切れた気がした。
「アニタさん、酷いです!」
私は半ば無意識に叫んでいた。怒りのままに口から言葉が飛び出した、という感じだ。
「何も知らないのにそんなこと言わないで下さいっ!」
するとアニタは激昂する。
「何だい!その口の利き方は!」
「一方的にトリスタンを悪く言わないで下さいっ!」
「マレイ、アンタ!雇い主である主人になんてこと言うんだい!?」
「雇い主でも主人でも、言っていいことと悪いことがあります!」
完全に喧嘩だ。
正直面倒臭い。
しかし、トリスタンを悪人扱いされてなるものか。私を理解しようとしてくれた彼を、まるで犯罪者かのように見るなんて、絶対に許せない。
それだけが、今の私の原動力だった。
「やれやれ、まったく。マレイはいつから、そんなワガママになったのかねぇ」
「ワガママではありません。トリスタンを悪く言わないでほしいだけです」
「女を連れ込む男なんざ、みんな悪だよ。トリスタンとかいうあいつも、悪としか言い様がない」
トリスタンが悪だとアニタに言いきられ、我慢ができなくなった。雇われの身ゆえ、日頃は極力穏やかに振る舞っている。だがこればかりは堪え難い。
「話になりません!こんなところ、もう出ていきます!」
私は立ち上がり、アニタの部屋から脱走する。
「こら!待ちな!」
背後からアニタの焦ったような叫び声が聞こえた。
しかし私は振り返らない。
今振り返れば、私は脱走を躊躇ってしまうことだろう。それを分かっているからこそ、私は前だけを見据えて走った。
喧嘩した勢いで宿屋を出たものの、行く当てなどない。だからといってすぐに宿屋へ戻るのも、アニタに負けたみたいで不愉快だ。となると、もはや、「外にいる」しか選択肢はない。だから私は、夜の闇を一人で歩くことにした。
闇はあの夜を思い出す。だから嫌いだ。ただ、アニタへの怒りで頭がいっぱいな今の私は、そこまで嫌だと感じなかった。夜の闇以外に意識が回っているからだと思う。
そんなことでぶらぶらしていた、その時だった。突如、私の背後の空気が揺れるのを感じ、振り返る。
「貴女が……マレイ・チャーム・カトレアですよねぇ」
「……誰!?」
闇の中から、黒い影が近づいてくるのが見えた。
私は警戒体勢をとる。
やがて黒い影の正体が露わになる。そして私は愕然とした。想像を越える、不気味な姿をしていたからだ。
銀色の仮面を着け、黒く長いマントを羽織っている。腕は両方とも機械のようだ。
「私の名は……ゼーレ。今朝は貴女のお力、存分に見させていただきましたよ」
黒い影の正体——ゼーレは、ゆっくり足を動かし、一歩、一歩と、こちらへ近づいてくる。その滑らかな足取りが、彼の不気味さを高めている気がする。
「何か用ですか」
「マレイ・チャーム・カトレア。貴女は化け物から二度も生き延びましたねぇ。なかなか幸運の持ち主です」
状況がまったく読めない。
トリスタンと出会ってからというもの、おかしなことばかりが起きる。
「そこで一つ、貴女に尋ねたいことがあります」
「尋ねたいこと?」
「えぇ、その通り」
ゼーレは私に発言に頷き、それから告げる。
「マレイ・チャーム・カトレア。我々につきませんかねぇ?」
またしても勧誘。
既に揉めているというのに、また新たな勧誘。
——嫌になってきた。
- Re: 暁のカトレア ( No.13 )
- 日時: 2018/05/07 20:27
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: vpptpcF/)
episode.8 新たな誘い
暗い闇の中、ゼーレと名乗る謎の人物と二人きりの状況。かなり危険な状況だと、素人の私でも分かる。だが、言葉を交わしてしまった以上、今さら逃げるわけにはいかない。いや、そもそも、私一人で彼から逃げきれるわけがない。
「……いきなり何ですか」
緊張で足が震えそうになるのを必死に堪え、平静を装いながら言葉を返す。するとゼーレは、金属製の片手をこちらへ差し出してきた。
「マレイ・チャーム・カトレア。我々のボスは貴女を気に入っているのです」
「ボス?気に入っている?まったく分かりません」
「頭はあまりよろしくないようですねぇ。……まぁいいでしょう」
次の瞬間。
私の喉元に、ゼーレの真っ直ぐ伸びた指が触れていた。目にも留まらぬ素早い接近に、私はゾッとする。
「……っ!」
「拒むなら力ずくで連れていくだけのことです」
ゼーレからはただならぬ空気が溢れ出ている。
私では敵わない、と本能で察した。
しかし、連れていかれるのは困る。私には宿屋の仕事やトリスタンのことがあるからだ。ゼーレがどこの誰なのかは知らないが、進んで関わりたい感じではない。
「共に来ていただけますね?」
銀色の仮面の顔が、少し笑ったような気がした。不気味だ。
私が答えを考えていると、彼は更に言ってくる。
「はい、か、いいえで答えて下さい。マレイ・チャーム・カトレア、どうなのです?」
ゼーレは、私の喉元に指先を突きつけたまま、静かな声色で言ってきた。
一応「いいえ」という選択肢もあることはあるようだ。しかし、もし仮に私がそう言っても、彼は私を強制的に連れていくのだろう。つまり、「いいえ」という選択肢はあってないようなものなのである。
今私が選べる道は二つ。
自らゼーレについていくか、彼に無理矢理連れていかれるか。
それ以外はない。
「どうなのです?」
「…………」
「沈黙は『はい』だと解釈しますよ」
「……嫌」
怖くて唇が震えた。
私の呟くような小さな声に対し、ゼーレは述べる。
「聞こえませんねぇ。もっとはっきり言いなさい」
それはそうだけれども。
今の私には、そんな勇気はない。目の前の彼に対してはっきりと物を言うなど、どう考えても無理だ。
「最後の機会をあげましょう。どうなのですか?」
「……い、いいえ」
言うや否や、ゼーレは急激に口調を強める。
「ならば強制的に連れていくまでです!」
襟を掴まれる。
これは本当にまずい、と、頬を汗が伝う。
——刹那。
「マレイちゃん!」
焦りと恐怖で満たされた私の耳に、トリスタンの声が飛び込んできた。
やはり彼は救世主だ。いつだって私を助けに来てくれる。
「トリスタン!」
私は声を振り絞り、彼の名を呼ぶ。名を呼ぶことに深い意味などないが、ただ、自分の存在を示したかったのだろう。そして、助けて、と言いたかったのだと思う。
「マレイちゃん!すぐに助けるから!」
トリスタンは怪我している。だが、その動きに鈍りはない。
彼は手首の腕時計に指先を当て、白銀の剣を抜く——そして駆け出した。
「……なにっ」
ゼーレはトリスタンの気配を察知し、素早く飛び退く。そのうちに、私とゼーレの間へ入るトリスタン。
「マレイちゃん、大丈夫?」
「えぇ、何とか」
「良かった。後は僕に任せて」
トリスタンは威嚇するように、白銀の剣をゼーレへ向ける。
長い金の髪が夜風に揺れていた。その様を眺めていると、まるでファンタジックな童話の世界に迷い込んだかのような、不思議な気持ちになってくる。
「……マレイちゃんに近づかないでもらおうか」
「それは無理ですねぇ」
厳しい顔つきのトリスタンを前にしても、ゼーレはまったく動揺していなかった。私でもトリスタンでも、彼にとっては同じのようだ。
「今朝、巨大蜘蛛に会ったでしょう」
「……どうしてそれを」
「あれは私の手下。その娘について調査するため派遣し——」
カァンッ!
言葉の途中で、金属と金属の触れ合うような甲高い音が響く。
ゼーレが言い終わるのを待たずに、トリスタンが斬りかかっていたのだ。ゼーレが機械の腕で防いだため、甲高い音が響いたのだろう。
「他人の話を最後まで聞かないとは、実に無礼な男ですねぇ」
白銀の剣を腕で防ぎながら述べるゼーレ。仮面のせいで表情こそ見えないが、その声は余裕に満ちている。
「マレイちゃんを利用する気なら許さない」
トリスタンはゼーレの腕に剣先を当てたまま言う。冬の夜風のように冷ややかな声色で。
するとゼーレは返す。
「利用する気なのは、そちらも同じではないですか」
「違う」
「いいや、違いません。同じことです」
言い終わるや否や、ゼーレはトリスタンに向けて高い位置の蹴りを放つ。トリスタンは白銀の剣を咄嗟に胸の前に引き寄せ、ゼーレの蹴りを防いだ。
一歩退くトリスタン。
対するゼーレは踏み込み、前へ出る。
「邪魔者は消すようにと言われているのでねぇ。邪魔するなら容赦しません」
至近距離からのゼーレの蹴り。トリスタンはそれを剣で防ぎ、すぐに攻撃に転じる。
「容赦しないのはこちらも同じだよ」
白銀の剣のひと振りで、攻撃しようと接近したゼーレを後退させる。
今度はトリスタンの番だ。
トリスタンは凄まじい勢いで剣を振り、ゼーレを圧倒する。日頃のトリスタンからは想像し難い荒々しさだ。
「……くっ。レヴィアス人にしては、なかなかやるようですねぇ」
「化け物狩りを生業としている人間だからね」
「なるほど……そういうことでしたか」
少し空けてゼーレは続ける。
「つまり我々の敵ということですねぇ」
「そういうことになるね」
「面白い。レヴィアス人もまだ捨てたものではないようですねぇ。くくく」
不気味な笑い方をするゼーレ。彼はトリスタンとこれ以上戦う気はないようだ。恐らく、戦うこと自体が目的ではないからだろう。
「まぁいいでしょう。いずれまた会うでしょうが、今日のところはこれで失礼します」
ゼーレは黒いマントを翻し、闇へ溶けるように去っていく。追いかける時間もない。ほんの数秒にして彼は消えた。
その後。
場に残されたのは、私とトリスタン——二人だけだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.14 )
- 日時: 2018/05/08 16:59
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 7qD3vIK8)
episode.9 罪悪感
ゼーレが去った後、トリスタンは剣をしまい、話しかけてくる。
「マレイちゃん、怪我はない?」
「えぇ。おかげさまで無事よ」
こちらへ歩いてくるトリスタンは、今朝の怪我など微塵も感じさせない。巨大蜘蛛の化け物に抉られた傷はまだ治っていないはずなのだが、傷を庇っている感じはなかった。
「それよりトリスタン、今朝の傷は平気なの?」
「あぁ、うん。大丈夫だよ」
「本当に?」
「もちろん。気を遣ってくれて、ありがとう」
トリスタンは穢れのない柔らかな笑みを浮かべる。
こんな笑みは向けられては、さすがの私もときめいてしまいそうだ。私でこれなのだから、彼を恋愛対象として見ている女性なら惚れないはずがない。
「戻ろうか、マレイちゃん」
木々が夜風に揺られ、ガサガサと音を立てていた。
——夜の闇は嫌いだ。
母親を亡くしたあの瞬間を、すべてを失ったあの夜を、思い出してしまうから。
「……っ」
涙が浮かぶ。
泣くつもりはなかったのだが、気づけば瞳は湿っていた。溢れ出した涙は頬を濡らし、やがて顎からぽつりと落ちる。
なぜ涙が出るのかは、よく分からない。
今の私に分かるのは、恐怖と悲しみが混ざったような得体の知れない感情が、胸を満たしているという事実だけだ。
「マレイちゃん、大丈夫?」
目からこぼれ落ちる涙を手で拭っていると、トリスタンが声をかけてきた。静かだが戸惑いも感じられる声色だ。
「……っ。ごめん、なさい……」
「謝らなくていいよ。こちらこそ、怖い目に遭わせてしまってごめんね」
「トリスタンは悪くない……」
悪いのは私だ。
夜に一人で飛び出したりしたから、危険な目に遭った。
自業自得である。
「私が……勝手なことしたのが……」
「違うよ」
トリスタンはキッパリと言い、私の手をそっと握った。
彼の手は大きい。しかし繊細で、優しさが感じられた。目鼻立ちと同じく、中性的な雰囲気が漂っている。
「マレイちゃんは悪くない。今も、昔も」
——昔も?
脳内に疑問符が浮かぶ。
今は分かる。だが「昔も」という部分には違和感を感じずにはいられない。
だって私たちは、今朝知り合ったばかりだもの。
「昔も、って、どういうこと?」
睫毛についた涙の粒を腕で拭い、目を開いて、トリスタンへ視線を向ける。そうして視界に入った彼の顔は、真剣な表情だった。凛々しく整った、トリスタンの顔である。
場は暫し沈黙に包まれた。夜の闇は肌を刺すように冷たい。
それから少しして、彼はゆっくりと口を開く。
「……ごめんね」
唐突に謝罪したトリスタンの瞳は、雨降りの空みたいだった。暗い表情が彼の美しさを引き立てているのだから、皮肉なものである。
「え?」
「君の村が滅んだ、あの夜」
「あの夜のことを知っているの?」
怪訝な顔になりつつ私は尋ねる。
今朝出会ったばかりだと思っていた。当たり前のように、そう思っていたのだ。
だが、もしかしたら違うのかもしれない——そんな考えが、この時、初めて脳裏をよぎった。
トリスタンは以前から私を知っていたのだろうか。それなら、出会ったばかりなのに優しくしてくれたのも、納得がいく。ありえない話ではない。
「そうなんだ。僕はあの夜、化け物出現の連絡を受けて、マレイちゃんの故郷の村へ向かった。でも遅かったんだ。僕が着いた時には、村は既に、ほとんど壊滅状態だった」
冷たい風が髪を揺らす。暗闇の中でこうして話していると、まるで世界に私たち二人しかいなくなってしまったかのような、そんな気すらする。
「そんな時だったかな、逃げ遅れた親子を発見してね。急行したものの、結局、子の方しか助けられなかった」
彼の言葉を聞いた時、一瞬にして目の前が開けた気がした。
私の目の前に存在する、薄暗くもやのかかった、数歩先さえ確かではないような道。そこへ一筋の光が差し込み、私に「進め」と言っているような、そんな感覚。
「じゃあ、あの夜私を助けてくれたのは貴方だったの?」
なぜ考えてみなかったのだろう——トリスタンと私が知り合いであった可能性を。
「そうなるね。ただ、僕は君だけしか救えなかった。だから……ごめん」
トリスタンはそう言うと、僅かに俯き、憂いの色を浮かべる。
彼に罪はない。あるわけがないではないか、私の命を救ってくれたのだから。
しかし彼は罪悪感を抱いている様子だ。だから私は、いつもより明るい調子で、大きめの声を出す。
「トリスタンは悪くないわ!」
驚いたような顔でこちらを見るトリスタン。
「あの時助けてくれた人、貴方だったのね!助けてくれて、ありがとう!」
私は、彼に絡みつく鎖ではありたくない。
だから、いつもより明るく振る舞う。
「でもトリスタン、最初から分かっていたの?」
「ううん」
「なら、いつ気がついたの?」
すると彼は、少し間を空けてから、小さな声で述べる。
「名前を聞いた時だよ」
トリスタンは、答えてから気まずそうな顔をする。私の顔色を窺っているような表情だ。
自分は助けた側だというのに、感謝を求めることはせず、それどころか罪悪感を抱く。彼の心は謎だらけである。同じ人間だとは、どうも考え難い。
「もっと早く言ってくれれば良かったのに」
「勇気がなくて、なかなか言い出せなかったんだ。ごめんね」
「別に、謝らなくていいわ」
まるで私が謝らせているみたいで、少々悪い気がするのだ。
「あ……うん、ごめんね」
「ほら!また謝った!」
「ごめん。これから気をつけるよ」
「ほら!また!」
「あ。ごめ……いや、違っ。わ、分かったよ」
やたらと「ごめん」ばかり言ってしまい狼狽えるトリスタンは、愛らしい。上手く言葉にできないが、とにかく愛らしかった。
「よし、取り敢えず戻ろうか。アニタさんが心配するから」
「……嫌よ。怒られるわ」
制止するのも聞かず飛び出してきてしまったのだ、間違いなく怒られることだろう。アニタに叱られるところなど、想像するだけで気分が悪くなる。
「大丈夫。事情は僕がちゃんと説明するから」
歩き出すのを渋る私に、トリスタンは微笑みながら言う。
彼の微笑みからは、純真さが滲み出ていて、凄く綺麗だった。まるで天使のよう。
「でも、アニタは聞いてくれないかもしれないわよ?」
「なんとか頑張るよ。だから、マレイちゃんは心配しないで」
「そう言われても、心配しかないわ……」
トリスタンがアニタに押し勝てるとは思えない。
「え、そう?僕あまり信頼されてないのかな?」
言い終わってから、彼は深海のような青い瞳で、私をじっと見つめてきた。吸い込まれそうになる瞳だ。
「けど、本当に問題ないよ。話は僕がつけるから」
真っ直ぐな視線に戸惑っていると、彼は再び笑みをこぼす。
「さ、宿に帰ろう」
「……えぇ」
私は彼を直視できず、やや俯いて返事をした。
この時、私の心は既に決まっていた。トリスタンについていこう、と。
二度、三度、彼は私を救ってくれた。これもきっと、何かの縁なのだろう。それなら、彼についてまだ見ぬ地へ飛び出すというのも、悪くはない——今は、そんな気がするのだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.15 )
- 日時: 2018/05/09 21:12
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: u5wP1acT)
episode.10 私の決意
あの後、宿屋へ戻ると、やはりアニタに叱られた。しかし、いつもの憂さ晴らし的な叱りではなく、真に私の身を案じるゆえの叱りだったため、私は我慢することにした。そして、トリスタンが懸命に説明してくれたのもあり、最終的に、アニタの説教はいつもより短くて済んだ。
トリスタンには、本当に、感謝しかない。こんなに色々してもらって、申し訳ないくらいだ。
……いつかお返しができればいいな。
そして、翌朝。
一階でトリスタンと遭遇した時、私は私の心を述べた。
「トリスタン。私、行くわ」
いきなりの発言に、寝起きの彼は戸惑った顔をする。
妥当な反応だろう。何の前触れもなくそんなことを言われれば、戸惑わない者の方が少数派に違いない。
「えーと、何だったっけ?」
「帝国軍へ行くかどうかって話よ!」
寝ぼけたことを言うトリスタンに、私はハッキリと返す。すると彼は、さらに戸惑いの色を深め、二三回まばたきを繰り返した。
「本当にいいの?」
「えぇ、心は決まったわ。貴方が望むなら、私は帝国軍へ行く」
昨夜の時点で既に心は決まっていたけれど、一夜明けると、迷いなどもはや一片も残ってはいなかった。新たな場所へ行く不安がないわけではないが、今は不安よりワクワク感の方が大きい。
「本当にいいんだね?」
「もちろんよ。役に立てる保証はないけれど、私にできることは何でもするわ」
トリスタンは椅子に座ると、アニタに、二人分の朝食を注文した。それから、座るように促してくる。アニタの様子を気にしつつ、私は彼の向かいに座った。
「ありがとう、マレイちゃん。君はきっと国の宝になるよ」
「トリスタン。貴方って、少し大袈裟よね」
「そうかな?普通だと思うけど……」
お互いの顔を見合わせて、笑みをこぼす。その時私は、細やかな幸福を感じる。
こんなことになるなんて、考えてもみなかったけれど。
でも、悪い気はしない。
「帝国軍へ行く、だって?」
宿屋の一階、奥の部屋。
アニタの訝しむような声以外に音はない。
「マレイ、アンタ……何を言っているのか分かっているのかい?」
「はい」
「帝国軍なんて、女の行くところじゃないよ」
止めにかかってくることは想定内だ。
アニタの性格を思えば、止めようとしないはずがない。さすがの私も、それを想定しないほどの馬鹿者ではないのだ。
「分かっています。けれど、必要とされているんです。必要とされるなら、私は行きたい」
私の力が求められることなんて、今まで一度もなかった。だから想像してもみなかったけれど、必要とされることは嬉しい。それもトリスタンのような好青年に必要とされているのだから、なおさらである。
しかしアニタはなかなか納得してくれない。
「行きたいと思うのは自由だけどね、アンタ、宿屋の仕事はどうするつもりなんだい?」
「それは……」
この展開も予想はしていたのだが、いざとなると上手く答えられなかった。思わず言葉を詰まらせてしまう。
こんな調子では駄目だ。しっかりしなくては。
そう自身を奮い立たせ、ハッキリとした調子で返す。
「辞めさせていただく方向で考えています」
突然辞めるなど無責任の極み。それは分かっている。アニタに迷惑をかけてしまうということも、十分理解しているつもりだ。
だが、それでも私は帝国軍へ行く。必要とされる場所にいる方がいい、と思うからである。
「マレイ……それは無責任だよ」
「分かっています。すみません」
「今までの恩を忘れたのかい!?」
アニタは圧を強めてくる。
しかし、そのくらいで自分を曲げる私ではない。
「忘れるわけがありません。アニタさんには感謝しています。ただ、挑戦してみたいのです。私にどこまでできるかを」
平静を保ち、落ち着いた真剣な声で返す。
刺激しないように本気さを伝えるのは、なかなか難しい。だが、この程度で挫けそうになっているようでは、先が思いやられる。もっと強くならなくては。
「迷惑をおかけするのは分かっていますが、どうか、許して下さい」
私は頭を下げた。
アニタに雇ってもらってから、これまで、幾度も頭を下げてきた。、ミスした時、遅かった時、失礼があった時……その回数といったら数えきれない。
しかし、自らの意思で頭を下げるのは初めてだ。
そして沈黙が訪れた。
ほんの数秒が、永遠かと思うような長さに感じられる。アニタと二人きりの沈黙は、信じられないくらい重苦しい。
そんな重苦しい沈黙の果て。アニタはゆっくりと口を開いた。
「……分かったよ」
落ち着いた、穏やかな声色だ。
「本気なんだね、マレイ」
「はい」
「分かった。なら頑張りな」
その言葉に、私は初めてアニタの顔を直視することができた。視線の先のアニタは明るく笑っていた。
「その代わり、逃げて帰ってくるんじゃないよ!」
さっぱりとした声で放たれる言葉に、私は強く頷き、「ありがとうございます!」と返す。心の底からの言葉だった。
「本当にありがとうございます!」
私は、この時初めて、純粋に笑みを浮かべることができた。最後にもう一度礼を述べ、深く頭を下げてから、部屋を出る。
心は快晴だ。
部屋から出ると、そこにはトリスタンが立っていた。白い衣装に身を包んだ、長い金の髪が印象的なトリスタンである。
その、神から貰い受けたような均整のとれた顔には、心配の色が浮かんでいる。
「……どうだった?」
「頑張りな、って言ってもらえたわ」
シンプルに答えると、彼は安堵の色を浮かべ、ようやく頬を緩めた。
「そっか。それなら良かった」
微笑むトリスタンも悪くない……って、あれ?私は一体何を考えているのだろう。……まぁ、いいや。
「それで、今日中に出るの?」
「どっちでもいいよ。マレイちゃんが行けるなら今日でもいいし、無理そうなら明日でもいいよ」
「なら今日にしましょう!」
トリスタンは私の意思を尊重する立場をとってくれていたので、私はハッキリと答えた。
善は急げと言うものね。
「すぐに出発の用意をするわ」
若干気が早すぎる気もするが、特に問題はないだろう。
こうして私は、出発の準備をすることになった。
ここから先は、まだ見たことのない場所。何が起こるか分からない。
だが、大丈夫だ。
私にはトリスタンという道標がある。だから、歩いてゆける。
- Re: 暁のカトレア ( No.16 )
- 日時: 2018/05/10 22:58
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: lDBcW9py)
episode.11 列車に乗って
私は今、帝都へ向かう列車に乗っている。
トリスタンと一緒に。少ない荷物を詰め込んだ小振りのトランクを持ち、唯一のお出掛け着であるワインレッドのワンピースを着て。
彼の話によれば、アニタの宿屋があるダリアから帝国軍基地のある帝都までは、鉄道一本で行けるらしい。
そもそもダリアの外へ出たことのない私には、帝都の様子など想像できない。だが、都なのだから、素敵なところに違いない。きっと人々の夢と希望がつまったような場所なのだろう。
「鉄道って、こんな感じなのね」
隣の席でミカンの皮を剥くトリスタンに話しかけてみる——ちなみに、二人席なので周囲の視線は気にならない。
するとトリスタンは、視線をミカンから私へと移す。一つに束ねた長い金の髪が、夜空を駆ける流星のように動いた。
「そっか、マレイちゃんは列車に乗るの初めてなんだったね」
「えぇ。乗り物なんて乗ったことがないわ」
なんせ、こき使われてばっかりだったもの。
……とはさすがに言えないが、毎日仕事に追われていたことは事実である。
ただ、仕事ばかりの日々を送ってきたことを後悔はしていない。アニタの宿屋に雇ってもらえていなければずっと昔に飢え死にしていただろうし、シーツ洗いをしていなければ、トリスタンに出会うこともなかったのだから。
「それにしてもトリスタン、これで良かったの?」
「どういう意味かな」
ミカンの皮を剥ききったトリスタンは、両手を使って一房ずつに分けている。
潰してしまわないなんて凄い、と、私は内心感心した。
「療養中なんじゃないの?」
巨大蜘蛛の化け物と戦う直前に彼が言っていた言葉が、ずっと気になっていたのだ。「療養中なら、ゆっくりしていた方が良いのでは?」と思うからである。
「あぁ、そういうこと」
トリスタンは一房にちぎったミカンの実を私へ渡してくれる。彼の顔には、優しげで穏やかな笑みが浮かんでいた。春の日差しのような笑みだ。
「それなら気にしなくていいよ。どのみち一泊の予定だったから」
「一泊の療養なんて変よ」
「ま、確かにね。しかも、その間に怪我しているんだから、笑い話だよね」
そうだった。トリスタンは私を庇おうとして負傷したのだった。
思い出し、私は俯く。私のせいで、というのはどうも憂鬱な気分になってしまうのだ。もっとも、落ち込む権利など私にはないわけだが。
「でも、そのおかげでマレイちゃんという優秀な人材を発見できた。十分な成果だよ」
私は、哀愁漂う一房になったミカンを、口に含む。
薄い皮を歯が破ると、くちゅっと甘い汁が溢れる。口に入れたのはほんのひとかけらのはずなのに、果汁はかなりの量だった。ジューシーな味が口腔内に広がると、もっと食べたい衝動に駆られる。
さすがダリアミカン。美味しい。
「人材を発見って……帝国軍は人が足りていないの?」
私はミカンの余韻を堪能しつつ、思い浮かんだことを尋ねてみる。
すると彼は、少し気まずそうな顔ついをして、「そんな感じかな」と答えた。
どうも腑に落ちない。反応に不自然さを感じたのだ。だから私は、さらに尋ねてみることにした。この場においては躊躇いなど不要だろうから。
「何か事情でもあるの?」
私は彼の青い瞳をじっと見つめる。そうすると、彼はなおさら気まずそうな表情をした。これで確定だ、何かあることは確かだろう——そう思っていると、彼は観念したように口を開く。
「実はつい最近、化け物が大量に出現したことがあってね。その時に戦闘員がやられたんだよ」
「……死んだの?」
「何人か、ね」
トリスタンにあっさりとした調子で答える。
それに対して返す言葉を、私はすぐには見つけられなかった。咄嗟に相応しい言葉を見つけるのことなど、できるわけもない。私は何も言えず、沈黙が訪れてしまった。
深く長い沈黙——。
列車が走る規則的な振動以外に音はない。他と離れた二人席なのが裏目に出て、普通に呼吸をすることさえままならないような静寂に包まれる。
「……ごめんなさい。余計なことを聞いたりして」
長い沈黙を破り、私は謝罪した。今回の場合は、完全に私の配慮不足である。
しかし彼は、私を責めることはしなかった。
「気にすることじゃないよ。いずれは話さなくちゃならないことだったから」
トリスタンはやはり優しい。
けれど、彼の優しさに甘えてはならない。非は非だ。
「完全に配慮不足だったわ」
「そんなことないよ」
「いいえ!私はもう少し考えて話さなくちゃならなかった。それは事実よ!」
私が言い放つや否や、トリスタンはクスッと笑みをこぼす。まるで面白いものを見たかのような、自然な笑いである。
「……何か変?」
妙に笑われるので、どこかおかしいところがあるのかと不安になり、尋ねてみた。
するとトリスタンは、笑い続けながら、首を左右に動かす。
「いやいや。ただね?」
「何?」
「マレイちゃん、真っ直ぐだなって」
彼は激しく笑うあまり、指でつまんでいるミカンの房を潰しそうになっていた。笑うと無意識に指先に力が入ってしまうようだ。
「真っ直ぐ、って……」
「もちろん良い意味でね。マレイちゃんのそういうところ、僕は好きだよ」
好き——飛んできた言葉が心臓に突き刺さる。
それを合図に、なぜか、鼓動が加速し始めた。自分で言うのもなんだが、私の心はよく分からない。本当に、謎だらけである。
「そ、そう……」
私はぎこちなく返した。
そこへ、トリスタンはさらに言葉をかけてくる。
「そういえば、そのワンピース似合っているね」
「えっ。これが?」
「ワインレッドが大人っぽくて良いと思うよ。僕は好きだな、そのワンピース」
刹那、またしても心臓が跳ねる。口から飛び出しそうな勢いだった。このままでは心臓がもたない。
心を落ち着けようと頑張っていると、トリスタンは唐突に静かな声になり呟く。
「……楽しいな」
意味深な言葉に「どうしたの?」と首を傾げる。
「いや、誰かとこんな風に話すのはいつ以来だろうって思ってね」
「帝国軍の人たちとは話さないの?」
「こういう穏やかな会話はあまりしないかな」
それもそうか。仕事だけの関係なら、こんな風なたわいない話をすることはないのかもしれない。
「じゃあ、私が帝国軍に入ったら、もうこうやって話せない?」
だとしたら少し悲しい。
しかし、彼が頷くことはなかった。
「君がいいなら、これからもこんな関係でいたいと思うよ」
「本当!?」
「もちろん。僕はそれを望むよ」
よ、良かったぁ。
私は安堵の溜め息を漏らす。
「ありがとう!私も同じよ!」
「やっぱり、マレイちゃんは真っ直ぐだね」
「その言い方は止めて!」
不安がないわけではないが、今私は、凄く楽しい気持ちだった。胸は膨らみ、高鳴る。
いつまでもこんな二人でいられたらな、と思った午後だった。
- Re: 暁のカトレア ( No.17 )
- 日時: 2018/05/11 15:52
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: tDpHMXZT)
episode.12 帝都に到着
列車に乗ること数時間。
帝国に着いた時には、既に夕方になっていた。
つい先ほどまで真っ青だった空は、いつの間にか赤く染まっている。水彩画のように透明感のある、柔和な印象の空だ。ダリアの夕暮れ時とは、また違った雰囲気がある。
列車から降りると、辺りにはたくさんの人がいた。さすがは帝都——しかし、なぜか皆、帰りを急いでいる。
そんな中を、私はトリスタンに手を引かれながら歩いた。
慣れない人混みだ、ぼんやりしていては彼を見失ってしまう。だから私は、手と手が離れないように気をつけつつ、懸命に彼の背を見つめる。見失わないように。
やがて、ある程度駅から離れると、心なしか人が減った。どうやら駅前は混んでいるらしい。帝都と言っても、人が多い場所と少ない場所の差はあるようである。
「この辺りまで来ると、ちょっと人が減ったわね」
余裕が出てきたため、私はトリスタンに話しかけてみる。
すると、前を行っていた彼は、くるりと振り返った。
あれだけの人混みを歩いた後だというのに、彼は、いつもと何ら変わらない穏やかな表情をしている。疲労の色など欠片もない。
「慣れない?」
「えぇ。ダリアにはない光景だったわ」
ダリアも過疎化しているわけではない。それどころか、人の行き来は多い方だと思われる。しかし、ダリアにいる人々の多くは観光客だ。だから、先ほど駅の付近で見た人々のように、せかせかと歩きはしない。
歩くにしろ、話すにしろ、ダリアの人々と帝都の人々では、速度が違うようだ。不思議なものである。
「あんなにせかせかしている人の大群は見たことがないわ。なんだか、凄く新鮮」
良い意味でも、悪い意味でも。
「みんなが急いでいたのは、夕方だからだよ」
「そうなの?」
私はトリスタンと横に並び、石畳の道を歩いていく。硬い石畳が足の裏に触れるたび、何とも言えない気分になった。
「そうだよ。帝都じゃ夜には化け物が出るからね」
当たり前のように言うのを聞き、目が飛び出しそうなほど驚く。これほどの凄まじい驚きは、さすがに隠せていないことだろう。
「驚いた?」
「えぇ、かなり」
「ま、そうだろうね。ダリアはまだ化け物の発生件数が少ないみたいだし」
トリスタンは淡々と話す。
「そういうわけだから、マレイちゃん。これからは夜に一人で出掛けない方がいいよ。……いや、出掛けるのは原則禁止」
ある意味、当たり前かもしれない。
夜間に女が一人で外出するというだけでも危ないのに、加えて化け物が出るとなれば、もはや危険しかない。
「分かったわ。でも化け物が現れるなら、屋内でも危険なんじゃないの?」
「場合によっては、ね。ただ、屋外にいるよりかは間違いなく安全だよ」
彼の答えは予想外に普通だった。なので私は、さらっと、「まぁ、それはそうでしょうね」とだけ返した。それ以上の反応が思いつかなかったのだ。
それからも、私たちはひたすら歩いた。人の少ない道を、ゆっくりと。
帝国軍の基地だという建物へ到着すると、トリスタンは私に「ここで待っていて」と言う。なので私は、玄関口のソファに腰掛け、彼を待つことにした。
慣れない場所で一人になるとどうしても不安になる。悪いことが起こるのではないか、と考えたくないことが湧いてくるのだ。
そんな時。周囲を見渡しながらぼんやりしていた私の耳に、「こんにちはっ!」という明るい声が飛び込んできた。向日葵のように明るく晴れやかな声である。
声がした方へ顔を向けると、そこには、可愛らしい顔立ちの少女が立っていた。
「……あ」
「見かけない顔だけど、お客さんかなっ?」
ミルクティー色のボブヘア、長い睫毛に大きな瞳。そして、白い詰め襟の上衣に桜色のミニスカート。女性より少女という言葉の方が似合いそうな、柔らかく愛らしい印象だ。
さすがは帝都。
こんな美少女がいるなんて、驚きである。
「あ、えっと……」
つい視線を逸らしてしまう。
彼女の顔が愛らしすぎて眩しかったからだ。
ダリアにも可愛い娘はいたが、帝都の美少女はやはり格が違う。
「フランシスカ・カレッタっていいます!何か用件があるなら聞くよっ?」
「人を待っていて……」
「あっ、そうなんだ!誰を待っているの?」
曖昧な返事しかできない私にも、フランシスカは屈託のないはつらつとした笑顔で応じてくれる。
その心の広さに私は感動した。見ず知らずの他人にも優しく接する余裕のある人間など、滅多にいないと思う。
「トリスタ……トリスタンさんです」
いつもの調子で呼び捨てしそうになり、焦って言い直した。
本人の許可はあるものの、他の者にまで呼び捨てで言うのは問題があるだろう——そう思ったからである。
その瞬間、目の前の彼女は少し言葉を詰まらせた。ほんの数秒だけ顔面から笑みが消える。
だが、すぐに華やかな笑みを浮かべなおす。
「あっ……そうなんだ!貴女、トリスタンと知り合いなの?」
「はい。少しだけですけど」
「へぇ、そうなんだ!トリスタン優しいもんね!」
その言葉を聞いた時、不穏な空気を微かに感じた。さっぱり晴れていた空に一塊の雲がかかったような、そんな感じだ。
しかし私は心の中で首を左右に振る。
こんなに素敵な笑顔の美少女が、嫌な感じの発言をするわけがない。そう感じるのは、私の心が汚れているからなのだろう。
「はい。何度も助けていただきました」
「だよねー!トリスタンって、ホントに優しいよねっ」
なぜだろう、彼女の中に黒いものを感じる。そんなこと、あるわけないのに。
「マレイちゃん、お待たせ!」
ちょうどそのタイミングで、トリスタンが戻ってきた。
「ト……」
「あっ、トリスタン!お帰りなさいっ!」
フランシスカは、私が言うのを押さえて言い放つ。かなり積極的だ。
「あれ、フラン?どうしてマレイちゃんと一緒に……」
トリスタンが怪訝な顔をすると、フランシスカは屈託のない笑みを浮かべたまま返す。
「偶然だよっ」
向日葵のような明るい声は健在だった。
「それよりトリスタン!フラン、トリスタンの帰りを待ってたの!」
「ふぅん」
「もう!その返事、何なの!?」
そう言って頬を膨らますフランシスカ。やや一方通行感が否めない。
トリスタンはそんなフランシスカを軽く流し、私の方へ歩いてきた。
「ちょうど良かった。せっかくだし、先に紹介しておくよ」
そして、フランシスカを手で示す。
「もう聞いただろうと思うけど、彼女はフランシスカ・カレッタ。化け物狩り部隊の一員だよ」
「マレイ・チャーム・カトレアです。よろしくお願いします」
私は一応、簡単にだけ挨拶しておいた。
すると彼女は、ミルクティー色の柔らかな髪を指でいじりつつ、改めて自己紹介をする。
「本名はフランシスカ・カレッタ。だけど、これからはマレイちゃんも、フランって呼んでね。よろしくっ」
- Re: 暁のカトレア ( No.18 )
- 日時: 2018/05/12 18:46
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: l1OKFeFD)
episode.13 フランシスカは良い娘?
「それじゃあマレイちゃん、申し訳ないんだけど、今日だけフランの部屋で過ごしてくれるかな?明日までにはちゃんと一人部屋を用意するから」
「分かったわ、トリスタン」
私はトリスタンに連れられ、フランシスカの部屋に向かう。
部屋の手配が間に合わないため、今夜だけ自室は無しで凌がなくてはならない。そこでトリスタンが、フランシスカの部屋に泊まれるよう手配してくれたようだ。凄くありがたい。
それにしても——この基地はかなり豪華である。
ここはレヴィアス帝国軍の基地だ。しかし、すべての軍人がここを利用しているわけではない、とトリスタンは話す。
「この基地はほとんど、僕やフランが所属する『化け物狩り部隊』の人間が使っているんだ」
「他の軍人さんは使わないの?」
トリスタンは歩きながら頷く。
絹のような長い金髪が滑らかに揺れていた。
「なんせこの辺りには化け物がよく出る。だから、いつでも出動できるように、ここで暮らし始めたんだよ」
「帝都も何げに大変なのね……」
栄えてはいるものの都会ではないダリアで暮らしていた私は、帝都は夢や希望に溢れているものと思い込んでいた。当たり前のようにそう信じ、それを疑ったことは一度ない。
だが、トリスタンの話を聞いていると、私の想像は間違いだったのだとひしひしと感じる。帝都だからといって誰もが幸福に満ちているのではない。その事実は、そこそこ衝撃的だった。
「僕は慣れているから平気だよ。ただ、初めて来た人なら戸惑うかもしれないね」
確かに、その通りだ。実際に、初めて来た人——私は、今、色々な意味で戸惑っている。
私の場合それに加えて、新たな土地にいることによる緊張と待ち受ける未来への不安もあり、脳内が滅茶苦茶だ。脳内が滅茶苦茶というのはつまり、頭の中が、十二色ほどの絵の具を手当たり次第混ぜたような状態だ、という意味である。
「あ、着いた」
「フランさんの部屋?」
「そうだよ」
トリスタンがドアをノックすると、中から「はーいっ」とフランシスカの明るい声が聞こえてきた。続けて、パタパタという軽快な足音。そしてようやくドアが開く。
そこから現れたのは、ミルクティー色のボブヘアが愛らしいフランシスカ。
「トリスタン!待ってたよっ」
彼女は、太股の真ん中くらいまでの長さの桜色のワンピースに、いつの間にやら着替えていた。丈はかなり短いが、色気はあまりない。
「トリスタン!遅かったから心配したっ……!」
「心配は要らないよ。それより、マレイちゃんをよろしく」
フランシスカの大袈裟な言葉を軽く受け流すと、トリスタンは私の背をそっと押す。
「今夜だけだから」
「よ、よろしくお願いします!」
私は慌てて頭を下げた。
部屋を借りるのは今日だけとしても、これから同じ部隊の隊員としてお世話になる予定なのだから、印象は大切だ。いきなり悪い印象を持たれてはまずい。
するとフランシスカは、その可愛らしい顔に明るい笑みを浮かべる。
「……よろしくねっ」
一瞬の空白は気になるところだが、私はあまり気にしないよう努めた。聞けもしない、分かりもしない、そんなことを気にしても無意味だからだ。
「じゃあフラン、後はよろしく」
トリスタンは淡々とした声で言う。しかも、「こんな顔もするんだ」と思うような無表情だった。
彼が去った後、私とフランシスカは二人きりになり、気まずい空気に包まれる。
「えっと……マレイちゃん、入る?」
「あ、はい」
「それじゃあ、どうぞっ!」
桜色のワンピースが可愛いフランシスカは、声も笑顔も明るい。はつらつとしている。
……しかし、どこかぎこちない。
フランシスカの部屋は、いかにも女の子のものといった感じだった。
あまり広い部屋ではない。しかし、ベッドの掛け布団や椅子とテーブルのセットなど、すべてが可愛らしい物だ。桜色を基調とし、ところどころ、レースやリボンなどで飾られている。
「そこに座っていていいよっ。あ、コーヒー飲める?」
「飲めないことはないです」
「好きじゃない?」
「えっと……あまり」
私は椅子に腰を掛け、フランシスカの問いに答えていく。だが、不必要に緊張してしまい、上手く話せない。トリスタンの時はそんなことはなかったのに。
「じゃあ、ハーブティーとかにするっ?」
彼女は明るく接してくれる。なのに私は、同じように明るく返せない。
「……あ、はい」
「はいはーい!じゃ、ハーブティーにするねっ!」
私は椅子に座ったまま、彼女の背を見つめていた。
背筋はピンと伸び、脚はすらりと長く。後ろ姿からでさえ、自信がみなぎっているのが分かる。彼女は可愛い顔立ちだが、顔が見えずとも、魅力的な女性であると察することができてしまう。
——私とは大違い。
つい、はぁ、と溜め息を漏らしてしまった。
私は、私の顔を、不細工だと思ったことはない。しかし美人と思ったこともない。ただ、私はどこにでもいるような普通の女だ。顔立ちはもちろん、髪色も毛質も、平凡である。他の女性に勝てるような部分は一つもない。
「——ちゃん!マレイちゃん!」
はっとして、顔を上げる。
すると目の前にフランシスカの姿があった。マグカップを持ち立っている彼女は、怪訝な顔をしている。
「ぼんやりして、どうしたの?」
「……あ。ごめんなさい。少し、考え事を」
ますます気まずくなってしまった。
「考え事?えー、なになにっ?」
フランシスカはマグカップを私の前へ置くと、トントンと数歩歩いて、ベッドに腰掛ける。それから、その長い脚をパタパタと動かす。
「フランで良かったら聞いてあげるよっ」
彼女は優しかった。
ほんの一瞬怪しんだりはしたけれど、彼女はやはり、親切で良い娘だ。
きっと、そうに違いない。
- Re: 暁のカトレア ( No.19 )
- 日時: 2018/05/13 08:53
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: pD6zOaMa)
episode.14 謎だらけの一日目
それからというもの、私はフランシスカと色々な話をした。
好きな食べ物や好みの色。どんな動物か好きかや、どの季節が一番過ごしやすいと思うか。話題はすべて、そんな、たわいないもの。今日出会ったばかりというのもあり、私も彼女も、相手の深いところを詮索するような真似はしなかった。
それでも、楽しい。心からそう思った。
今まであまり同年代の娘と話すことのなかった私にとって、彼女と過ごす時間は、宝石のように輝いて見える——いや、間違いなく輝いていたと思う。
こうして、帝都で過ごす初めての夜は、終わった。
翌朝。
私は何も分からぬまま、フランシスカについていく。
そして、トリスタンと合流した。
「トリスタン、おはよっ!」
「あぁ、おはよう」
「何それー。どうしてそんなに愛想ないの?」
フランシスカは相変わらずのハイテンションでトリスタンに絡んでいく。
トリスタンに接する時と私に接する時では、明らかに雰囲気が異なっている。言葉遣い自体はほぼ同じなのだが……不思議だ。
「マレイちゃん、よく眠れた?」
彼は白い衣装に身を包み、爽やかな青年といった空気を漂わせている。美しい顔立ちも健在だ。
「えぇ。フランさんにも親切にしてもらったわ」
「そっか。それなら良かった」
「フランさんも、トリスタンも、優しいわ。帝国軍、いい人がたくさんね」
今は純粋にそう思う。
まだ全員を知ったわけではない。だが、トリスタンもフランシスカも、悪い人ではなかった。そんな二人の仲間なら、きっと、悪人はいないだろうと思うのだ。
「マレイちゃんに褒められたら、少し照れるな」
「そう?」
意味がよく分からず首を傾げていると、トリスタンは目を細めてはにかむ。
「そうだよ。君なら、僕の深いところまで見てくれそうな気がする」
トリスタンの発言に私はきょとんとする外なかった。
だって、意味が分からないんだもの。
「とにかく行こうか。今日の予定は、朝食の後、簡単な審査だけだよ」
「少ないのね」
「え。もっと増やす?」
「いいえ。そういう意味じゃないわ」
それにしても、審査とは一体何なのだろう。
入隊試験のようなもの?能力——あの赤い光の強さか何かを審査されるということ?
……いや。そもそも私は、まだ何も知らない。あの赤い光だって、私自身が意図して発したわけではないし。あの時、私はただ、助かることを願っただけ。だから、もう一度あれをできるかと言われれば、分からない。
トリスタンの横を歩けば歩くほど、私の脳内は混乱していく。それはもう、溜め息を漏らしたくなるほどに。
基地内にある広い食堂で朝食をとり、それから私は、基地の近くに建てられた修練場へと向かった。トリスタンによれば、審査はそこで執り行われるらしい。それを聞いて「実技系の審査なのだろうな」と察した私は、上手くやれるのかという不安に包まれながらも、前を向いて歩いた。
今さら逃げるわけにはいかない。
そんな風に、自身を鼓舞しながら。
その後、修練場へ着くと、白いシャツとズボンを渡され、着替えるよう命じられた。
なので私は、更衣室でワインレッドのワンピースを脱ぎ、指定された服に着替える。そして、速やかに更衣室を出る。
「フランさん!」
「遅かったね、マレイちゃん」
更衣室のすぐ外にいたフランシスカは、彼女らしからぬ淡白な声でそう言った。どうやら、あまり機嫌が良くないようだ。
「すみません」
「なーんてね。気にしなくていいよっ」
「……え?」
意図が掴めず戸惑っていると、彼女は呆れ顔になる。
「マレイちゃんって、冗談通じないよね」
「冗談、ですか?」
「あー、もういいもういい」
やれやれ、といったアクションをされてしまった。
私に理解力がないため、呆れられるのも仕方ないといえば仕方ない。だが、ここまで露骨にされると、さすがに少し悲しい気分になる。
「さ、行こっ」
「はい!」
気合いを入れて返事する。
すると彼女は、「マレイちゃんって面白いよね」と言い、クスクスと笑っていた。
もしかしたら私は、ややおかしいのかもしれない。
「マレイ・チャーム・カトレア、か。正直、素人の娘が化け物を倒せるとは思えないが……」
「真実です」
「お前がそう言うのなら、真実なのだろうな」
私とフランシスカが修練場のメインルームへ着いた時、トリスタンは黒い髪の女性と話をしていた。
女性は腰までの黒髪ストレートロング。そして、よく見ると美人だ。漆黒の瞳と血のように赤い口紅が印象的で、美少女のフランシスカでさえくすんで見えるほどの凛々しい美しさである。もちろん私など足下にも及ばない。
またしても美女が現れたことに、私は、動揺する外なかった。この化け物狩り部隊は、どうしてこうも美しい者ばかりなのか……。もはや帝国七不思議の一つと言っても差し支えなさそうである。
そんな彼女が、いきなり私へ歩み寄ってくる。
「グレイブだ。よろしく頼む」
彼女は手を差し出して、落ち着いた声色で挨拶してくれた。
離れていても美人だと分かったが、近くで見ると、その美しさをよりいっそう感じる。私とは完全に別世界の生き物のようだ。
漆黒の瞳は凛々しく、しかし女性らしさを失ってはいない。腰まで伸びた長い黒髪はしっとりと艶があり、まさに大人の女性といった感じである。
「初めまして、マレイです。よろしくお願いします」
「あぁ。これからよろしく」
彼女は、その美しさゆえに、近寄りがたい空気を漂わせている。けれども、感じの悪い人ではなさそうだ。声や口調は淡白だが、冷たさはない。
トリスタンとフランシスカが見守る中、私はそんなグレイブと握手を交わした。
- Re: 暁のカトレア ( No.20 )
- 日時: 2018/05/14 07:00
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: OZDnPV/M)
episode.15 挑戦
「では早速。マレイ、その力を見せてもらおうか」
……え?
何の説明も前振りもなく、いきなり何を言い出すのか。
「待って下さい。意味がよく——」
「化け物を貫くほどの赤い光、期待している。これを使い、その力を見せてくれ」
黒髪の美女グレイブは、戸惑う私など微塵も気にかけず、腕時計を差し出してくる。トリスタンが持っているものとよく似たデザインの腕時計だ。
私は仕方なく受け取る。
しかし、できる気がしない。
これで何度目かになるが、あの時は必死だったのだ。私とトリスタン、二人の命がかかっていた。だから何一つ分からないままに腕時計を使い、そして奇跡が起きたのだ。あの赤い光は恐らく、神様が私に力を貸してくれたのだろう。私はそう思っている。
だが、今さら「あれは私の力ではなかった」なんて、言えるわけがない。そんなことを言えば、幻滅されるだろうし、トリスタンの名も傷つけることになるかもしれないから。
そんな恐ろしいこと、できるはずがないではないか。
「マレイちゃん、どうしたのっ?まさか——できないなんて言わないよね?」
グレイブから腕時計を受け取り、黙り込んでいた私に、フランシスカが声をかけてくる。今一番嫌な言葉をかけてくる辺り、彼女らしい。
「マレイちゃんの赤い光、フランも早く見たいなっ」
「どうしたんだ、マレイ。ここではできないと言うのか?」
美少女のフランシスカと、美女のグレイブ。強烈な挟み撃ちだ。
——あれは奇跡だったんです。
そう言いたい。少しでも早くそう言って、この場から逃れたい、期待から逃れたい。そんな強い衝動に駆られる。
けれどそれでは駄目だ。
これは私自身が選んだ道。楽な方向に逃げるなんて狡い。
「マレイちゃん、無理しなくても……」
「やるわ、トリスタン」
心配そうな顔つきで言うトリスタンの言葉を遮り、私はハッキリと述べた。
できる保証はない。ただ、できないと決まっているわけではないのだ。可能性があるなら私は試す。前へ進むために。
「ようやく見せる気になったようだな」
グレイブが紅の唇に微かな笑みを浮かべる。
「はい。やります」
成功の望みは薄いが、私は強く頷いた。
物は試しである。
「やったねっ。フラン、楽しみ!」
「いかほどのものか、見せていただこう」
私は一度目を閉じる。緊張に震える心を落ち着けるために。それから数秒し、瞼を開けると、あの時の感覚を思い出しながら、指先で文字盤に触れる。
だが、結果は予想通り。
僅かな可能性を信じてはみたが、物事とはそう上手くいくものではないと、改めて思い知る。
——赤い光は出なかった。
長い沈黙。
深い深い暗黒にいるような、そんな感覚に陥る。
「あれーっ?何も起こらなかったねっ」
少し楽しそうなフランシスカの声。
「そ、そんな。どうして……」
私は思わず漏らす。
分かってはいたが、まさかここまで駄目だとは。
「トリスタン。やはり、夢でも見たのではないか?この娘に特別な力があるとは」
「マレイちゃんが赤い光を出したのは本当です」
「だがしかし……」
「今は危機的状況じゃないから失敗したのかもしれません。あの時は化け物に襲われていたから。それで力を発揮できたという可能性もあります」
トリスタンは、懸命にフォローしようとしてくれた。
最高に気まずい状況の私を擁護しようとしてくれるとは驚きだ。彼の言動には、私の想像を優に越えていく優しさがあった。
「では、化け物の前へ晒して確かめる外ないと言うのか?」
「ある意味そうかもしれないですね」
「それでは、赤い光とやらを目にすることはできないじゃないか。力を確実に使える保証がない娘を化け物の前へ出すことなどできん」
グレイブは腕組みをし、眉間にしわを寄せる。その黒い瞳から放たれる視線は、トリスタンを捉えていた。
「どうすればいいと思います?」
「こちらに押し付けようとするな!連れてきたのはお前だろう。自分で考えろ!」
グレイブに厳しい言葉をかけられ、トリスタンが言い返そうと口を開いた——その瞬間。
突如として、ビーッビーッと大きな音が鳴り響く。
「ちょ、何!?襲撃!?」
顔を強張らせるフランシスカ。
「ありえん。まだ午前中だ」
「でもでも、これは化け物襲撃の合図っ。ね!トリスタン!」
フランシスカが振ると、トリスタンはこくりと頷きながら返す。
「そうだね。午前中なんて、かなり珍しいけど」
三人の発言を聞いていると、化け物は大概夜に現れるものなのだと分かった。そういえば、私の生まれた村が襲われたのも夜である。
ちょっとした会話の中にも意外と情報があるものだな、と私は密かに感心した。
「減っている時を狙って襲撃してくるとは……いつもいつも、卑怯な奴らだな」
グレイブは低い声で呟く。
その美しい顔に浮かぶ表情は険しく、化け物への憎しみに満ちていた。漆黒の瞳は鋭い光を放ち、血のように赤い唇は歪んでいる。
「フラン、状況確認を」
「はいはいっ」
フランシスカは軽く返事をし、桜色のミニスカートのポケットから、片耳に装着するタイプの小型通信機を取り出す。
……それにしても、最先端技術だ。
やはりこれも帝都だからなのだろうか。
ダリアでは洗濯さえ自力だというのに。レヴィアス帝国の技術格差はこれほどのものなのか、と正直驚きを隠せなかった。
「トリスタンはマレイの身を護る。問題ないな?」
「もちろん。言われなくとも、そのつもりです」
淡々とした口調でそれぞれに指示を出していくグレイブは、勇ましく、男らしかった。彼女が女性であると理解していても、不思議と「かっこいい」と思ってしまう。
もっとも、そんなことを考えているほど余裕のある場面ではないのだが。
- Re: 暁のカトレア ( No.21 )
- 日時: 2018/05/15 19:08
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: kJLdBB9S)
episode.16 お迎えにあがりました
化け物の襲撃を知らせる、けたたましい警報音は、それからもしばらく鳴り響き続けた。
初めての体験で慣れていないというのもあるのだろうが、警報音を長時間聞いていると耳が痛くなってくる。気づけば両耳を塞いでしまっていた。
「大丈夫?マレイちゃん」
私が耳を塞いでいることが気になったのか、隣にいたトリスタンが尋ねてくる。
彼の、深海のような色をした瞳は、こちらを見つめながら、不安げに揺れていた。それでも色は美しい。
「えぇ、大丈夫よ」
そう答えながらも、私の手は彼の袖を掴んでいた。完全に無意識で。
これには私も驚いた。なぜって、掴もうと思っていないのに掴んでいたからである。
それにしても、無意識とは結構恐ろしいものなのだと、こんな形で知ることになろうとは。予想外だ。
「あっ……。ごめんなさい」
私は彼の袖から、手をパッと離す。
「いきなり掴んだりして、驚かせてしまったわよね。ごめんなさい。別に深い意味はないから、気にしないで」
すると彼は、数回まばたきし、きょとんとした顔をする。
「マレイちゃん、どうして謝るの?」
「だって、いきなり他人の袖を引っ張るなんて、驚かせてしまうじゃない。だから謝ったのよ」
まさかこんなことを説明する羽目になるとは思わなかった。
「そういうもの?」
「えぇ。そういうものよ」
トリスタンの感覚は、時折、一般人とずれているように感じる。だが、その美しい容貌は、感覚のずれすら魅力に変えてしまうのだ。
「そっか。マレイちゃんが言うなら、きっとそうなんだね」
生まれ落ちたばかりの雛のような純真さ。
この世とは違う世界からやって来たような幻想的な麗しさ。
——これら二つの要素が上手く絡み、トリスタンという一つの奇跡を生み出したのだろう。
「でも僕は、袖を掴まれても嫌じゃないよ」
「……はい?」
私は思わず、腑抜けた声を出してしまった。
その理由は一つ。
トリスタンが、自ら、私の手を握ってきていたからである。
「僕は君と手を繋ぎたいと思うよ」
「はぁ」
「それに、こうして傍にいたいとも思うよ」
「……そう」
「いつまでもマレイちゃんと親しくしたいし」
「…………」
相応しい返答が見つからない。私はただ、困惑の色を浮かべることしかできなかった。
「もうマレイちゃんが傷つかないように、頑張って護ろう、とも思うよ」
口説き文句のようにも思える言葉の数々。しかし彼は、それを素で言っていた。それも、恥ずかしげもなく言うものだから、かなり強烈だ。
「トリスタンって……少し変わっているのね」
しばらく言葉を失っていた私の口からようやく飛び出したのは、シンプルな本音だった。
「……僕が?変わっているなんて、今まで一度も言われたことがないよ?少し変わっている、とさえ言われたことはないし」
不思議な感覚だ。
こうしてトリスタンと話している間だけは、恐怖や不安をすべて忘れられる。化け物が襲撃してきているということさえ忘れてしまいそうなほど、心が穏やかになっていく。
「言われたこと、ないのね」
変わっていると言われたことがないのは美男子だからだろう、と私は思う。
周囲の者たちも、トリスタンに進んで嫌われたくはないはずだ。だから、「変わっている」なんて、仮に思ったとしても言わない。敢えて言う必要のないことだ。
美しさが呼ぶ孤独もあるのかもしれない。
ふと、そんなことを考えた。
「うん。誰も僕の内面なんて見ようとしないから」
トリスタンは小さく言い、寂しげに微笑む。
「でもトリスタン、人気者じゃない。洗濯の時だって、女性に囲まれていたでしょ。それって凄く幸せなことよ」
すると彼は、少し俯き、吐き捨てるように言う。
「幸せなんかじゃない。見ず知らずの人に寄ってこられても、ただ疲れるだけだよ」
トリスタンは、ああやってちやほやされるのは好きでないようだ。いろんな人がいるのだなぁ、と改めて感じた。
もし私が男性だったら、女性にちやほやされると嬉しい……と思うのだが。
「トリスタンは女の人が嫌いなの?」
「え。そんなことないよ。マレイちゃんのことは、好きだよ」
「えっ!?」
耳に飛び込んできた意外な言葉に、うっかり大きな声を出してしまった。慌てて口を塞ぐ。
いつ化け物が来るか分からない状況だ。呑気なことを考えている暇などない。
だが、いきなり「好きだよ」などと言われては、さすがに驚きを隠せなかった。
トリスタンが私をそういう目で見ていないことは分かっている。けれども、こうもストレートに言われると、そういう意味かと思いそうになってしまうのだ。
「……マレイちゃん?」
「いっ、いいえ!何でもないわ!」
「どうして慌てているの?」
痛いところを突いてくる。
「そんなこと、聞かないでちょうだい!」
「どうして?」
正直に理由を言うなら、これ以上突っ込まれては困るから、だ。しかし、そんなことを言えるわけがない。
「女には言いたくないこともあるのよ、トリスタン。だから根掘り葉掘り聞かないで」
「どうして言いたくないの?」
「だーかーらー、いちいち質問してこないでって言ってるでしょ!」
「僕が信用できないから?」
「違うっ!」
私は声を荒らげてしまった。
こういう時、自分はつくづく小さい人間だと思う。純粋に好奇心で尋ねてきている彼にすら腹を立てるのだから、どうしようもない。
「あ……ごめんなさい。ついきつく言ってしまって、ごめんなさい」
「気にしていないよ。こっちこそ、ごめん」
トリスタンは苦笑しながら謝罪してくれた。
彼は何も悪くない。なのに私は、彼に謝らせてしまった。それが少し、心の中にしこりとして残った。
「悪いのは私よ、トリスタン。だからその、本当に——」
言いかけた、その時。
メインルームいっぱいに、爆発音が響いた。
音の直後に爆風。
私は半ば無意識に身を縮める。
それと同時に、トリスタンは一歩前へ出た。素早く取り出した白銀の剣を構えながら。
「おはようございます、マレイ・チャーム・カトレア。改めてお迎えにあがりました」
聞き覚えのある声とともに現れたのは、銀色の仮面で顔を隠した不気味な男——ゼーレだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.22 )
- 日時: 2018/05/16 18:25
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: loE3TkwF)
episode.17 嬉しくない評価
突如として現れたその男がゼーレであると気づくのには、それほど時間がかからなかった。というのも、黒いマントに顔全体を覆う銀色の仮面という、非常に個性的な格好をしているのである。こんな奇妙な容姿の者はそうそういない。
「また現れるとはね。何の用かな?」
トリスタンはゼーレへ、冷ややかな視線を向ける。
「そちらこそ、またしても邪魔をする気とは……少々面白くありませんねぇ」
ゼーレの足下付近には、高さ三十センチほどの蜘蛛の化け物が数匹這っていた。彼と同じく、闇のような黒。その形もあいまって、凄まじい気味の悪さだ。
「勧誘ならお断りだよ。マレイちゃんは渡さない」
「私は貴方に聞いてはいませんが」
「マレイちゃんは帝国軍に入るよ。これはもう、決定事項だから。今さら勧誘したって、もう遅いよ」
トリスタンとゼーレが言葉を交わしている間、私は不安に苛まれていた。
フランシスカやグレイブがいる時なら、ゼーレが現れても心強かったのに。トリスタンと私だけになったところを狙うとは、卑怯の極みだ。
「……なるほど。こういうのは私の趣味ではありませんが……」
刹那、ゼーレが動く。
あまりに素早く、私の目では動きを捉えられない。
「実力行使、も仕方がありませんねぇ」
「くっ!」
ゼーレの拳をトリスタンは防いでいた。
あの速度の動きを見きり、剣の刃部分で防ぐとは。ゼーレは速いが、トリスタンの反応速度も結構なものだ。常人を遥かに超えている。
「どうしたのです?まさかこの程度で動揺するのですか?」
「…………」
「そんなわけ、ありませんよねぇ。貴方はいつもあれほど大口を叩くのですから、私よりずっと強いのでしょう」
挑発的なことを言われても、トリスタンは答えない。表情は夜の湖畔のように静かで、落ち着いている。
良い判断だと思う。
実力がほぼ同等の二者の戦いにおいて、心が乱れるというのは、敗者になる可能性を高めるだけだ。ゼーレもそれを分かっていて、挑発的な発言をしているに違いない。
「……無視ですか」
呟いた直後、ゼーレは片足を振り上げ、トリスタンの脇腹めがけて蹴りを繰り出す。
先日巨大蜘蛛の化け物にやられた傷を狙った蹴りだと、私はすぐに気づいた。そこで、それをトリスタンに伝えようと、口を開きかける。しかし、それより先に、トリスタンは蹴りを避けた。
一歩下がり、体勢を整えるトリスタン。
ゼーレはそこへ、さらに襲いかかる。今度は拳だ。
しかしトリスタンは冷静そのもの。彼の青い瞳は、ゼーレの体だけをじっと捉えていた。
「甘いよ」
彼は白銀の剣を一振りする。
——その刃は、ゼーレの胴体を確実に切り裂いた。
「……っ!」
腹部の傷から赤い飛沫が散り、さすがのゼーレも動揺した声を漏らす。それから彼は、トリスタンの剣に斬られた腹部を片手で押さえ、一歩、二歩、と後退した。
傷を庇うような動作をしていることを思えば、痛覚は存在するようである。
「死にたくないなら、今のうちに退いた方がいいよ」
「……は?貴方は馬鹿なのですかねぇ。このくらいで退くわけがないでしょう」
「馬鹿じゃなくて、親切なんだよ」
今のトリスタンの一撃で、二人の立ち位置が逆転したように感じる。
さっきまではトリスタンがやや劣勢だった。しかし現在は、ゼーレの方が不利な状況である。
傷を負ったこともそうだが、真にゼーレが不利な状況を招いているのは、彼のその性格だろう。ここは一度撤退して体勢を立て直すのが賢い手。それはほぼ素人の私にでも分かること。けれども、彼の高いプライドは、撤退などを許しはしない。
「親切……ですか」
ゼーレはぼやきながら、金属製の右手を前へ出す。
「それは侮辱の間違いでしょう!」
そういう問題ではない。
相応しい二字熟語を選択する会でもない。
「やはり貴方は不愉快極まりない男ですねぇ!消すに限ります!」
どうやらゼーレは、トリスタンの「親切」発言に腹を立てたようだ。口調は激しく、声色は荒れている。
その数秒後、彼の足下に這っていた蜘蛛の化け物が、一斉にこちらへ進んできた。
もはや地獄絵図。トリスタンの背後に隠れている私でさえ、半狂乱になりかかったほどである。……もちろん、声を出すのは何とか我慢したが。
「小賢しい真似は通用しないよ」
トリスタンは淡々とした声で述べ、地面を這う蜘蛛の化け物に剣先を突き立てる。
一匹二匹刺し潰すと、蜘蛛の化け物は彼から離れ始めた。これはあくまで推測だが、このままでは殺られる、と本能的に察したのかもしれない。
「まぁ……そうでしょうねぇ」
言いながら、ゼーレは一瞬にしてトリスタンの背後へ回る。
彼の狙いはトリスタンではなく、私だった。
ゼーレは無機質な腕で私の襟を掴む。この前と同じパターンだ。黒い彼の姿は、近くで見ると余計に恐ろしい。
「ではシンプルに行かせていただきます。マレイ・チャーム・カトレア、私とともに来なさい」
「……そんなの、嫌よ」
「おや?この短期間で変わりましたねぇ。前は怯えて何も言えなかったというのに」
こんな評価のされ方、ちっとも嬉しくない。
「さすがですねぇ、マレイ・チャーム・カトレア。この成長ぶりなら、ボスが気になさるのも理解できます」
「マレイちゃんから離れろ!」
トリスタンが剣を握った手を動かそうとした瞬間。ゼーレは襟を掴んでいるのと逆の手で、私の首を握った。
首にひんやりとした感覚を覚える。恐らく、ゼーレの手が金属だからだろう。
「動かないで下さい」
「それ以上はさせない!」
「動けば、彼女の首を締めますよ」
ゼーレは、ふふっ、と笑みをこぼす。
「一歩も動かないで下さいねぇ。分かりました?」
化け物狩り部隊は一体何をしているのか——そんな思いが、私の中でじわりと広がっていく。
- Re: 暁のカトレア ( No.23 )
- 日時: 2018/05/17 18:31
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: xJyEGrK2)
episode.18 次は
私はゼーレに首を掴まれている。彼がその気になれば、こんな細い首、一瞬にして握り潰されるだろう。もしそうなれば呼吸ができなくなり、私は死へと大きく近づくこととなるに違いない。
だからトリスタンも、ゼーレへ手を出せないのだ。
「……卑怯者」
整った顔を悔しげにしかめるトリスタンを見て、ゼーレは小さく笑う。
「急に大人しくなりましたねぇ。それほどマレイ・チャーム・カトレアが大切なのですか? 実に面白いですねぇ」
ゼーレは、手を出せず悔しそうな顔のトリスタンを見ることを、楽しんでいるようだ。つくづく嫌な男である。
「不便ですねぇ、感情とは」
凄く楽しそうなゼーレを見ていると、私は殴りかかりたくなった。
トリスタンを馬鹿にするような発言を放っておくわけにはいかない。彼への言葉は私への言葉も同然——だから、腹が立つ。
ただ、殴りかかることなどできないことも、分かっている。首を掴まれたこの体勢ではどうしようもない。それに、私の力でゼーレにダメージを与えられるとも思えない。仮に今暴れたとしても、恐らく、こちらが危険な目に遭うだけだ。
「貴方たちレヴィアス人も、感情など捨ててしまえば、もっと強くなれるでしょうに。実に憐れな人たちです」
「君が何者なのか、真実は知らない。でも、化け物を使って他国を攻撃する君の方が、ずっと憐れだと思うよ」
ゼーレの言葉に対し、トリスタンは迷いなく返す。濁りのない、深海のような青の瞳は、ゼーレを真っ直ぐに捉えている。
「仮初めの強さを得るために心を捨てて生きるなんて、虚しいと思わない?」
トリスタンは問いかける。
何を言っても無駄だろう。ゼーレに届くわけがない。悪魔のような、闇のような、ゼーレ。彼にそんなことを問いかけたところで、「馬鹿だ」と笑われるのが関の山だろう。
私は、そう思っていた。
——けれど。
この首を掴む彼の顔を見た時、私は信じられない気持ちになった。
「……同じなの?」
思わずそう漏らしてしまったほど。
「違うものと思っていた。けれど」
なぜ信じられない気持ちになったのか?
それは、トリスタンへ目を向けるゼーレの瞳が、悲しげな色をたたえていたからである。
銀色の仮面を装着しているため、彼の生の顔を見ることはできない。それでも彼の顔色は分かった。偶然か、至近距離にいるからか、それは分からない。けれど今、私は確かに、彼の胸に潜む何かを感じていた。
「貴方の感情も……私たちと同じものなのね?」
口から自然に言葉が出た。
それを聞いたゼーレは、急に様子がおかしくなり、私の首から手を離す。
半ば突き飛ばすように勢いよく離されたため、バランスを崩し、転んでしまった。打った腰が、じん、と痛む。
「馬鹿らしい!」
ゼーレは今まで、私に対しては丁寧だった。それはもう、不気味なくらいに。そんな彼が初めて声を荒らげた——そのことだけで、私の発言が的を射ていたのだと判断できる。
彼はトリスタンに「感情を捨てればもっと強くなれる」と言った。その言葉の裏には、恐らく、自分が感情を捨てきれないコンプレックスが潜んでいるのだろう。
そうでなくては、彼がトリスタンにそんなことを述べる必要性がない。
「マレイ・チャーム・カトレア!そんな馬鹿らしいことを言えば、次は許しません!」
「貴方に心がないのなら、許すも何もないはずよ。力なき反抗者は殺す。単純にそれでいいじゃない」
なぜこんな強気な発言をできたのかは、私にもよく分からない。
「……っ!まったく、うるさいですねぇ!」
「そうやってごまかさないでちょうだい!ゼーレ。貴方、感情を捨てきれないことを気にしているのでしょう?隠しているつもりでも、私には分かるわよ」
言いながら、トリスタンを一瞥する。彼は白銀の剣を握ったまま、目を見開いて、きょとんとした顔をしていた。
「馬鹿らしい発言は慎みなさい!」
「質問には答えて!」
「答える義理など、ありはしません!」
そう叫んでから、ゼーレは私から数歩離れた。
仮面で顔が見えなくとも、動揺していることは容易く分かる。
「……気性の激しい女は、話になりませんねぇ」
「問いにはなるべくちゃんと答えなさいって、小さい頃に親から習うでしょ!」
「習うのでしょうね、親がいれば」
それを最後に、沈黙が訪れる。
迂闊だった。
そもそも、ゼーレはレヴィアス人ではないだろう。それに、こんなことを生業としているのだから、まともな家庭で育ってきたわけがない。
完全に失言だ。今の発言は、間違いなく彼の心の傷を抉った。
分かるの。私も親を失った身だから。
「あ、あの……、ごめんなさい。ゼーレ。今のは言い過ぎたわ」
ちょうどそのタイミングでトリスタンが駆け寄ってくる。
ゼーレが私を即座に殺せない位置まで下がったからだと思われる。
「マレイちゃん。大丈夫?」
「えぇ、平気よ」
「それなら良かった」
ほっとした顔をするトリスタン。
「とにかく、一度避難しよう。普通の化け物くらいなら僕で倒せるから」
「えぇ。そうしましょう」
トリスタンに返してから、私はゼーレに向けて言い放つ。
「ゼーレ!貴方はこれからも、私のもとへ来るのでしょう!待っているわ!」
「……ま、マレイちゃん!?」
「私が貴方について行くことはない。でも、分かり合うための努力ならしたいと思う。意味のない戦いを終わらせられるかもしれないもの」
「一体何を言っているの?マレイちゃん、気は確か?」
不安げな表情のトリスタンの言葉に、私はそっと頷く。
その隙に立ち去ろうとするゼーレ。
「だからゼーレ!次は襲撃ではなく、話し合いに来て!」
黒い背中は何も答えなかった。
……これで、少しでも何かが変われば良いのだが。
- Re: 暁のカトレア ( No.24 )
- 日時: 2018/05/19 02:13
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: b9FZOMBf)
episode.19 複雑な気持ち
ゼーレが私たち二人の前から去り、数時間。
午後になった頃には、襲撃は完全に収まっていた。一瞬にして終わったその様は、まるで、嵐のようであった。
基地内が落ち着いた後、私とトリスタンは、メインルーム内にて、フランシスカやグレイブと合流する。
「無事だったか、トリスタン」
「はい。一応は」
「マレイも無事のようだな」
「は、はい!」
私はしっかり返事をしようとして、逆にうわずった声を出してしまった。妙に大きな情けない声になってしまい恥ずかしい。
「心配したよっ、トリスタン!」
「……そう」
「何それっ。反応薄くない!?」
グレイブの言葉にはちゃんと返すトリスタンだが、フランシスカの言葉に対しては愛想なく返していた。いつものことながら、不思議な感じがする。なぜそこまで露骨に差をつけるのだろう、といった気分だ。
「ところでトリスタン。ここにも化け物は現れたか?」
「はい」
「やはり蜘蛛の形をしていたか?」
「蜘蛛の形もいましたが、人間の形もいました」
淡々とした調子でトリスタンが答えると、グレイブはあんぐりと口を空ける。彼女の横に立っているフランシスカも、その可愛らしい顔に、驚きの表情を浮かべていた。
「人型もいたのか!」
トリスタンが「はい」と返す隣で、私は小さく何度も頷く。
「今まで人型というのは聞いたことがない。まだ見ぬ種がいたとはな。それで、交戦したのか?」
「少しだけですが」
「どの程度の強さだ?」
「未知数な部分はありますが、おおよそ、僕と同じくらいでしょうか」
その言葉によって、場にさらなる衝撃が走る。まさかトリスタンほどの戦闘能力を誇るとは想像もしていなかったのだろう。
それからも、グレイブの人型に関する質問は続いた。
内容は、意思疎通の可不可や戦闘スタイル、狙いなど。大雑把な質問から細やかな質問まで、トリスタンは幅広く尋ねられていた。
そして最後の方には「なぜ捕らえなかった」という話になる。グレイブとしては、より多くの情報を収集するため、人型を捕獲してほしかったようだ。
だが、あのゼーレを捕獲など、できるわけがない。彼女はゼーレの強さを知らないからそのようなことを言えるのだろう。一度でも実際に交戦すれば、捕獲は不可能ということくらいは分かるはずである。
話が終わると私は服を着替え、トリスタンに案内してもらった。
目的地はもちろん、私の自室だ。
化け物狩り部隊の隊員には、原則、個々の部屋が与えられる。つまり、個室を与えられることになった私は、隊員として認められているということなのだろう。そう考えると、少し嬉しい。
「今日からここが、マレイちゃんの部屋だよ」
言いながら、トリスタンは扉を開ける。
すると室内が見えた。
狭めの部屋だが、清潔感が漂っている。床には埃はなく、壁紙も透き通るような白。部屋の一番奥にはベッドが設置されており、クローゼットや手洗い場もある。最低限生活に必要な設備はすべて揃った、贅沢な部屋だ。
私は目の前に広がる光景に興奮し、大きな声を出してしまう。
「凄い!凄いわ!」
アニタの宿屋は比較的綺麗な方だと言われていた。けれど、この部屋は、あの宿屋よりもずっと綺麗だ。
「トリスタン、本当にこんな良い部屋を借りて大丈夫なの?」
「そんなに良い部屋じゃないよ」
「でも、でも、凄く綺麗だわ!清潔そのものだし!」
「嬉しそうだね」
くすっと笑みをこぼすトリスタン。
もしかしたら、私はまたおかしなことを言ってしまったのかもしれない。だが、あくまで本心を言ったまでである。
「それじゃ、今日はゆっくり過ごしてね。マレイちゃん」
「行ってしまうの?」
「僕は今から訓練があるんだ。だからまた夜にでも遊びに来るよ」
そう言って、優しげに微笑む。そして彼は部屋から出ていこうとした——のだが、一歩部屋の外へ出た瞬間に振り返る。絹のような金の髪が回転に乗ってサラリと揺れた。
「……トリスタン?」
彼の青い瞳がこちらをじっと見つめていたため、私は首を傾げながら呟くように言う。
すると彼は口を開いた。
「マレイちゃん。あの時……ゼーレに、どうしてあんなことを言ったの?」
「え?」
「『待っている』なんて」
トリスタンの声はいつになく静かだった。
私の発言を怒っているのだろうか、と少々心配になってしまう。
「ゼーレは君を狙っているんだよ?」
「……そう、よね。私にもよく分からない」
自分でもよく分からない。
ゼーレは敵。化け物を引き連れて襲撃し、私を狙い、トリスタンと戦った、正真正銘の敵なのだ。
だから、情けをかける必要などないし、歩み寄ろうとする必要もない。
——なのに私は。
彼と分かり合えるかもしれない、と思い、その方向で言葉を発した。普通ならありえないことだ。
「トリスタン……怒ってる?」
「いや、怒ってはいないよ。少し気になっただけなんだ。どうしてあんな風に言ったのか、ってね」
声が若干柔らかくなった。怒っていないというのは本当のようだ。
「……変よね、私。あんな人と分かり合えるわけがないのに。なのに、一瞬……」
「一瞬?」
「同じなんじゃないかって、思ってしまった」
トリスタンから「虚しいと思わない?」と言われた時や、別れる直前に私が親の話をした時に、ゼーレが見せたあの表情。
それらは、私たちレヴィアス人と異なるものでは、決してなかった。
「余計なことばかり考えていてごめんなさい。グレイブさんたちの前では、あの赤い光もちゃんと出せなかったし。……でも、まだ諦めない。もう一度あれができるように頑張るわ」
トリスタンに見離されれば、帝国軍に私の居場所はない。だから、彼に見離されること——それだけが怖い。
「だからトリスタン。私を見離さないで」
すると彼は、久々に、その整った顔に笑みを浮かべた。
「まさか。むしろ感心しているくらいだよ」
その顔を見てほっとした私は、安堵の溜め息をつきそうになったが、なんとかこらえる。
人前で大きな溜め息はさすがにまずい、と思ったからだ。
「君はきっと帝国軍に新しい光を運んでくれる。そう思ってはいたけど……もう動き始めるとはね」
トリスタンの言葉の意味は、私にはよく分からなかった。
だが、彼が怒っていないということを知れただけで、今は十分である。
- Re: 暁のカトレア ( No.25 )
- 日時: 2018/05/20 14:42
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: xXhZ29pq)
episode.20 遊びに行かない?
帝都へ移り初めての休日。
朝、私がまだベッドの中でむにゃむにゃと寝惚けていると、フランシスカがやって来た。彼女が訪ねてきたのがあまりに唐突だったため、私は寝起きのだらしない格好で彼女を迎えることになってしまった。
「マレイちゃん、今日遊びに行かないっ?」
いきなりのお誘い。
私は暫し、ぽかんと口を空ける外なかった。
「なになに?行きたくない感じ?」
怪訝な顔で首を傾げる彼女は、既にお出掛けに相応しい服装になっている。
空色をした膝より上の丈のワンピース、太股までの長いソックス、そして紺のリボン付きパンプス。大人びながらも、愛らしい顔と上手く混ざり合う、絶妙なバランスが印象的だ。ちなみに、パンプスのヒールは低めである。
「い、いえ。ただ少し驚いてしまって……」
「そっか!マレイちゃんって、あまり友達いなさそうだもんねっ」
無邪気に言われ、何とも言えない気持ちになる。
確かに、友人は多い方ではなかった。人付き合いにおいて器用な質ではないことも理解している。
ただ、改めてこうもはっきり言われると、複雑な心境だ。
「でも安心して!フランが帝都を案内してあげるから!」
「私でも楽しめそうですか?」
「それはもちろん!フラン、そういうのは得意なのっ」
フランシスカは自慢げだ。
妙に自慢げで、頼んでもいないのに恩を売ろうとしてくる女——普通なら迷惑以外の何でもない。だが彼女の場合は、その愛らしい容姿ゆえに、迷惑だとは感じなかった。
容姿ひとつでこれほど感じ方が変わるのだから、面白いものである。
「分かりました。じゃあ今から用意します」
「それじゃあ、ここで待ってるねっ」
言いながら、私の自室内へドカドカと入ってくるフランシスカ。彼女は私の部屋でも、まるで自分の部屋にいるかのように振る舞っている。まさに自由奔放である。
「服は、えぇと……」
私は余所行きの服に着替えるべく、クローゼットを開ける。
しかし、そこに入っているのは、二着だけだった。一着は、ダリアから帝都へ来るときに着ていたワインレッドのワンピース。そしてもう一着は、帝国軍の制服。これは先日作ってもらったばかりの、ほぼ新品である。
休日のお出掛けとなると、どちらを着ていくべきなのか……。
考え込んでいると、フランシスカが歩み寄ってくる。
「なに迷ってるのっ?」
「あ、着ていく服を」
「そっか。どんなのがあるのっ?」
言いながらクローゼットの中を覗き、愕然とした顔をするフランシスカ。
「え……これだけ?」
彼女は、新人類を目にしたかのような表情で、こちらを見つめてきた。
クローゼットの中に二着しか入っていないのが、よほど驚きだったのだろう。
「マレイちゃんって……一体何者?」
「えっと、マレイ・チャーム・カトレアです」
「そうじゃないよっ!」
フランシスカは心なしか調子を強める。
「女の子なのに余所行きがこれだけって、どうなってるの!?」
宿屋で働く分には余所行きの服など必要ない。ちょっとおしゃれな感じなら何でも良かったのだ。だから、活動する時と寝る時は同じ服を着用していた。その方が効率的だと思うからだ。
だが、その考えは帝都では通用しないのだと、今初めて知った。
いくら観光客が多いとはいえ田舎の域を抜け出しきれないダリアと、レヴィアス帝国の中心にある帝都では、話が違うのだろう。
「二着だと、おかしいですか?」
「おかしいよ!っていうか、おかしいおかしくない以前の問題だよっ!」
そういうものなのだろうか。
「じゃあ取り敢えず、そのワインレッドの方を着て!」
「こっちですか?」
私がクローゼットの中からワインレッドのワンピースを取り出すと、彼女は一度、こくりと頷いた。
「そう。それでまずは服屋さんまで行こう。もう少し数を増やさないと!」
「でもフランさん。私、そんなにお金を持っていません」
「それならフランが買うから!」
両手を腰に当て、上半身をやや前に倒して、ぐんぐん迫ってくるフランシスカ。その瞳は真剣そのものだ。
距離が縮まると、ミルクティー色の髪から良い香りが漂ってきた。それは極力気にしないように心掛け、落ち着いて言葉を返す。
「いいですよ、そんなの。フランさんに買っていただくなんて申し訳ないです」
「じゃあ入隊祝いで!」
「駄目ですよ、そんなの。自分の服は自分で買わないと……」
すると彼女はくすっと笑みをこぼす。
「フランが買ってあげるのはね。外出着二着しか持ってないような娘と並ぶのが嫌だからだよっ」
ここまではっきり言われると、少々落ち込みそうになる。
しかしフランシスカのことだ、悪気はないのだろう。純粋に思ったことを言っているだけに違いない。
「楽しみだねっ。マレイちゃん」
「は、はい……」
「何それっ。楽しみじゃなさそう!」
「ごめんなさい」
「もしかして、本当に楽しみじゃないのっ!?」
私がこんなことを言うのも何だが。
フランシスカ——彼女は結構、面倒臭そうな感じがした。トリスタンと接する時の様子といい、今のずけずけ言ってくるノリといい、いろんな意味でややこしそうだ。
ゼーレには狙われる。隊の仲間は面倒臭い。そして、強くならなければならない。そう考えると、帝国軍での暮らしも楽なものではなさそうだ。むしろ、アニタの宿屋で働き続ける方が楽だったかも、と思ってしまったくらいである。
けれど、私はこのくらいでは挫けない。
嫌なことがあっても、辛いことがあっても、これは私の選んだ道だ。
だから大丈夫。
きっと進んでゆける。
- Re: 暁のカトレア ( No.26 )
- 日時: 2018/05/21 18:53
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: XsTmunS8)
episode.21 帝都散歩
今私がフランシスカと歩いているのは、帝都の中でも特に賑わう商店街。太い道の両脇に、いくつもの店が立ち並んでいる。しかも、たくさんの種類の店があり、見たことのないような店も多い。
「あのお店は何ですか?」
「ネイルサロンだよっ」
「ネイル……サロン?」
「爪を綺麗に飾ってもらえるお店!」
ダリアにはなかったような店が多々あるため、こうしてのんびり歩きながら眺めるだけでも楽しい。
それに加え、疑問に思ったことはフランシスカに尋ねられる。だから、疑問が疑問のまま放置されることがなく、まるでどんどん賢くなっていくかのようだ。
「あっちのお店は……服屋ですか?」
「惜しいっ、ブランドバッグの店だよ。ま、服もないことはないけどねっ」
美少女の隣を歩くのは若干緊張する。
「あれは?」
「腕時計のお店だよっ。でもフランたち、腕時計ってあまり使わないんだよねっ。これがあるし」
「ですね。二本もあるとややこしくなりそうです」
「うんうん!」
私とフランシスカは、そんなたわいない話をしながら、すたすたと道を歩いていく。
人は多い。それも、若めの女性が。
しかし、帝都へ来て数日経ったというのもあり、だいぶ慣れてきた。この程度の人混みなら、今はもう平気である。
「いろんな店があって、面白いですね」
「そう?フラン、普通だと思うけど」
「私がいたところにはこんなに色々なかったので、新鮮で楽しいです」
ずっと帝都暮らしのフランシスカには、この喧騒や様々な店を新鮮に感じる心などありはしないのだろう。彼女にとっては、きっと、これが「普通」なのだ。
そうこうしているうちに、私たちは一軒の服屋にたどり着いた。
二十代から三十代くらいの女性が店員の、瑞々しくおしゃれな雰囲気が漂う服屋である。
慣れない空気に立ち竦んでいると、フランシスカが手を引っ張ってくれた。そのおかげで私は、無事店内に入ることができた。
私一人では入る勇気はなかっただろう。
そういう意味では、彼女がいて良かった。
「いらっしゃいませー」
「この娘に似合う服、お願いっ」
「分かりましたー」
フランシスカと女性店員の会話はそれだけ。
それから私は、その女性店員に案内され、色々な服を見て回った。
服装へのこだわりなどほとんどなかった私にしてみれば、正直そこまで興味はない。サイズが合っていてちゃんと着られるなら何でも、といった感じである。
しかし、色鮮やかな服の数々を眺めること自体に嫌悪感はなかった。
むしろ心が弾んだくらいである。
その後。
私とフランシスカは、服屋の隣の喫茶店へ入った。
「あの……良かったんですか?本当に買ってもらって」
かっちりした、紺のジャケットとプリーツスカート。白色のブラウス。そして、真面目な雰囲気のローファー。
シンプルなデザインではあるが、肌触りが良く、着心地は最高だ。それだけに、「結構な価格だったのでは?」と少々心配である。
だがフランシスカは、私の心配などよそに、にこにこしていた。
「大丈夫大丈夫っ」
本人が「大丈夫」と言っているのだから大丈夫なのだろう。
だが、軽さが逆に心配だ。
「働いて返しましょうか?」
「いいって。フラン、別に貧乏じゃないしっ」
笑顔のまま軽くそう言った。
そして、店員にコーヒーと苺のロールケーキを注文する。
フランシスカに「どうする?」と尋ねられたため、私は遠慮気味に「同じでお願いします」と答えた。すると彼女は「コーヒー駄目なんじゃないの?」と言ってくる。
まさに、その通り。
私はコーヒーはあまり飲めない。
そんなことで私がもたもたしているうちに、フランシスカはさらっと注文してくれる。
「それじゃ、アイスティーと苺ロールで!」
た、助かった……。
今日は出掛け慣れているフランシスカに助けられてばかりだ。
「注文する時は、はっきり言ってよねっ」
「分かりました」
向かい同士に座ると顔と顔の距離が近い。そのせいもあってか、妙に彼女の顔を見つめてしまう。
睫毛は長く、瞳は潤んで大きい。ミルクティー色の髪はいかにも柔らかそうで、まるで可愛らしい人形のよう。化粧は薄く、あっさりしているにもかかわらず、まさに美少女といった雰囲気があった。
しかも良い香りがする。
「それで、どう?新しい服を着た気分は」
「すっきりします」
「え、すっきり?ま、まぁいいけど」
フランシスカはそう言いながらも、その愛らしい顔に困惑の色を浮かべていた。
「服装なんて考えたことはなかったですけど、ああやって色々見ていると、段々面白いと感じるようになってきました」
この言葉は真実だ。
別段興味はなかったが、服屋で色とりどりの服に囲まれているうちに、楽しくなっていく自分がいた。それは確かである。
「それなら良かったよっ。フラン、マレイちゃんはもっと可愛くなれると思う!」
「なれたら嬉しいです。さすがにフランさんには敵わないでしょうけどね」
「そりゃそうだよっ」
きっぱりと言われてしまった。
私だって、フランシスカより可愛くなれるとは、端から思っていない。けれど、さすがにこうもきっぱり言われては……って、こういうの、何度目だろうか。
この後、私とフランシスカは、ゆったりとお茶をした。
私はアイスティー、彼女はコーヒー。そして共通の苺ロールケーキ。まさに、おしゃれな女性のティータイム、といった雰囲気である。
まさか私がこんな会に参加する日が来るとは。そんなこと、夢にも思わなかった。
- Re: 暁のカトレア ( No.27 )
- 日時: 2018/05/23 22:45
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: XsTmunS8)
episode.22 生まれる絆、生まれる企み
女二人のお茶が一段落した後、私たちはさらに商店街を歩いた。
隣の彼女——フランシスカにすれば見慣れた光景なのだろうが、初めてここへ来た私の目には、何もかもすべてが新しく映る。
言葉にならないくらい、驚きや感動の連続だった。
そんな中で徐々に絆を深めていった私とフランシスカは、次第に打ち解け、交わす言葉さえも柔らかく変化していく。
「帝都って、本当に凄いのね。こんなに大勢の人がいて、こんなにたくさんのお店があって。まるで夢の国みたい」
こんなことを言えばまた笑われるだろうか。
一瞬そう思ったけれど、心に生まれたこの感動を言葉にしないことなど不可能だった。
「夢の国?何それ、変なのっ。もしかしてマレイちゃん、かなりの田舎出身だったりしてー」
フランシスカはいつも通りの軽やかな口調で言って笑う。
愛らしい顔に浮かぶ純真な笑みに、私は、彼女には「綺麗」という言葉が相応しいと思った。
出会った頃は信用できない部分もあったけれど、今はもう、すっかり信用している。休日を潰してまで私を外へ連れ出してくれる彼女が悪人なわけがない。そう思うから。
「マレイちゃん、今日は楽しめたっ?」
夕暮れ時、基地へ帰る途中でフランシスカが尋ねてきた。
「えぇ。もちろん。凄く楽しかったわ」
まもなく訪れる夜の闇に備え、人々は帰りを急いでいる。誰もが、不自然なほどに急ぎ足だ。だが、今の私にはその理由を察することができる。夜になれば化け物が出る可能性があるからだろう。
「帝都って素敵なところね」
「そうだよっ。でも……昔はもっと素敵だったかな」
長い睫毛の生えた大きな目を、彼女は悲しげに伏せる。
その様子を目にして、私は、彼女もまた被害者だったのかもしれないと思った。
「フランさん、もしかして貴方も過去に何か……」
私が口を開きかけると、彼女はハッとしてこちらへ笑みを向ける。
「何もないよっ」
屈託のない笑みに明るい声。
先ほどの表情は見間違いだったのかと思ってしまいそうなくらいだ。
しかし、私は確かに、彼女が目を伏せるところを見た。これだけは絶対に間違いではない。
「でも、今……」
「えっ。何もないよ。マレイちゃん、どうしちゃったの?」
「あ、ううん。何でもない」
聞かない方が良かったのかな、と思い、私はそれ以上聞かなかった。
気になる気持ちが消えたわけではない。ただ、他人に話したくないことの一つや二つは、誰にでもあるものだ。
だから、そっとしておくことに決めた。
ちょうどそんな時だった——背後から女性の声がしたのは。
「あの、少し構わないかしら」
聞き慣れない声に戸惑いながらも、私とフランシスカは同時に振り返る。
するとそこには、見知らぬ女性が立っていた。
「どちら様ですかっ?」
フランシスカが明るい笑顔のまま返すと、その女性は小さな声で言う。
「帝国軍の方……よね?」
私服の私たちを見て帝国軍の人間だと気づくなんて、一体何者だろう。腕時計は装着しているが、まさかそれを見て?いや、しかし腕時計程度でここまでの確信を持った言い方はできないはず。
「何かご用ですかっ?」
「わたし、その……実は」
「はい」
「今日、初めて、帝都へ来たの。帝国軍の基地を一目見てみたくて……ここから見えるかしら」
女性の話し方はややぎこちなかった。
もしかしたら、レヴィアス帝国外からの旅行客かもしれない。
「なるほど。帝国軍の基地はあれですよっ」
フランシスカは道の向こうに見える大きな建物を指差す。
すると女性は、暫しその建物を見つめていた。それから彼女は、さらに質問を重ねる。
「一日中活動してらっしゃるの?」
「はい、一応!ただ、夜の方が人が増えます。夜になると化け物が出るのでっ」
「どのくらいの人数、働いてらっしゃるの?」
「ま、常駐しているのは十人前後ですかねっ。夜間だともう少し多いですけど!」
フランシスカが丁寧に答えると、女性は嬉しそうに頬を緩める。帝国軍によほど興味があるようだ。
「まぁ。素敵ね……」
それにしても、帝国軍の労働状況について聞き興奮したように頬を赤らめる女性とは、なかなか珍妙である。
良く言えば個性的、悪く言えば不審。
「他には何かありますかっ?」
「いいえ。勉強に、なったわ。ありがとう」
「いえいえっ。さよなら!」
「さようなら」
こうして私たちは、女性と別れ基地へと帰る。
最初はどうなることかと思ったが、なかなか楽しい休日だった。できるなら、また行きたい。
ーーマレイとフランシスカが基地へ戻った頃。
帝都近郊の雑木林の中。
「あぁ、疲れた。疲れたわ」
一人の女が溜め息を漏らしていた。
髪ははっきりとした緑色、毛先が蛇のようにうねり長い。女性らしい体は黒のボディスーツで包み、膝上までのロングブーツを履いている。そして目元には、青緑に輝くゴーグルのようなものを着用している。その材質は近未来的だ。
「お帰りなさい。どうでした?カトレアの様子は」
女に声をかけたのは、木の陰から現れた男。
闇に溶ける黒いマントを羽織り、銀色の仮面で顔を隠している。
「……ゼーレ。残念ながら、彼女とは話せなかったわ」
「でしょうねぇ。あんなでしゃばり娘がいては」
「あら。覗き見ていたの?お前も趣味が悪いわね」
女に蔑むように笑われたゼーレは、顎を軽く上げて言い返す。
「趣味が悪い、とは酷いですねぇ。これでも心配して差し上げているのですよ?」
すると女は、彼の頬に当たる部分ををビンタした。パァン、と、乾いた音が雑木林にこだまする。
「お前の失態を、あたしが埋めてあげているのよ。それを忘れないことね」
「……ふん、馬鹿らしい。貴女はボスに気に入られたいだけでしょう」
「うるさいわね!」
女とゼーレは、どうも気が合わないようだ。
「ま、いいわ。とにかく、決行は今宵。兵はあたしが叩くから、お前は例の娘を確保なさい」
彼女はひと呼吸空けて続ける。
「もう失敗は許されないわよ。特にゼーレ、お前はね」
- Re: 暁のカトレア ( No.28 )
- 日時: 2018/05/25 19:41
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 07aYTU12)
episode.23 訓練生の中では浮く
その夜、私は警報音によって目覚めた。化け物の襲撃を告げる、あのけたたましい警報音で。
私はトリスタンの推薦があるので、若干特別待遇してもらっている。しかし、まだまともに訓練すら受けていない身なので、一応訓練生と同じような扱いだ。だから、戦闘に参加することはない。
そういう意味では、少し気が楽かもしれない。……いや、訓練生は訓練生で役割があるかもしれないので、他人事というわけにはいかないが。
『襲撃です!隊員は速やかに、配置について下さい!訓練生は講堂へ!』
警報音で目を覚ましたばかりで、半ば寝ているような状態の私は、いきなりの放送に慌てる。何をどうすればいいの、と。
「えっと、えっと……」
帝国軍の制服へ着替える時間はない、と判断した私は、取り敢えず枕元に置かれた腕時計を掴む。それを急いで手首に装着し、大急ぎで講堂へ向かった。
講堂は前に一度くらいしか行ったことがないため、少々不安もある。だが、まぁ、なんとかなるだろう。
——講堂に無事着いた。
が、中へ入るなり、くすくすと笑われてしまった。
「見て、あの子!制服に着替えていないわよ!」
「やぁね。起きたまま来るなんて、恥ずかしくないのかしらぁ」
聞こえてくるのは、嘲り笑いと嫌みな発言。それらが私へ向けられているものだということは明らかだ。
そもそも私は訓練生の中に知り合いがいない。だから、このような状況においては知り合いがおらず、誰とも話せないのだ。
もっとも、今までそれほど気にしてはこなかったが。
ただ、この広い講堂の中に自分の居場所がないというのは、さすがに少し厳しい。
けれど、こうなることは想像の範囲内。承知の上でここへ来たのだ、場にいづらい程度で弱音を吐くわけにはいかない。だから私は、「そんな柔い精神ではこれから生き残っていけないぞ!」と熱血教師のような言葉を自分にかけ、己を奮い立たせた。
そんな時、突如黄色い声があがった。声の主は恐らく女性訓練生たちだろう。
耳をつんざくような甲高い声に、私は一瞬めまいがしかけた。
「マレイちゃん!」
「……トリスタン!?」
黄色い声を浴びているのは、どうやら彼だったようだ。
なんというか……納得である。
「良かった!部屋に行ってもいないから、もう連れ去られてしまったかと思ったよ」
「ごめんなさい」
「無事ならいいんだ、気にしないで」
トリスタンの整った顔には、安堵の色が滲んでいた。緊迫がふっと緩んだような自然な表情だ。
「今日もゼーレが来るの?」
「分からない。ただ、その可能性はあるね」
いつもと変わらない接し方をしてくれるのは非常にありがたいことではあるのだが……周囲からの視線が痛い。
恐らく女性訓練生たちからの視線なのだろう。全身に針を刺されたような感覚だ。
「取り敢えず移動しよう」
「え。い、移動?」
「君がここにいたらゼーレがやって来るかもしれないからね」
「あっ、そういうこと。訓練生の人たちまで巻き込まれたら大変だものね」
脱出できるならしたい。
なんせこの場の空気は、私には冷たすぎるのだ。
「そうそう。大丈夫?」
「えぇ」
視線が刺さる刺さる。
しかし「もうすぐここから出られる」と思えば、視線くらいは気にならなくなった。もはや関係ないのだ。
「じゃあマレイちゃん、移動しよう」
トリスタンがそう言ったので、私は一度強く頷く。こうして、私は講堂を出られることになった。
こう言ってはなんだが、正直少しほっとした。
トリスタンに手を引かれ、基地内の通路を駆ける。
何度か体が宙に浮きそうになったくらいの速度に、私はただ戸惑うばかりだった。彼が腕時計で身体能力を底上げしていることは知っていたが、まさかここまでだとは。
同じ人間として、驚きである。
そんな驚きを抱いたまま白い床の通路を走っていると、トリスタンが急に足を止めた。
靴底が床に擦れる音——直後、目の前の壁に何かが激突する。
「グレイブさん!」
トリスタンが声をあげた。
そう、目の前の壁に激突した「何か」は、グレイブだったのだ。長い黒髪と美しい顔立ちが印象的な彼女である。
「トリスタン……と、マレイか」
グレイブはこちらを横目で見て、落ち着きのある声でそう言った。壁に激突した直後だというのに痛そうな顔はしておらず、声も表情も淡々としている。
彼女はすぐに立ち上がり、腕時計の文字盤に指先を当てると、背の丈ほどある長槍を取り出す。
これは何度見ても不思議な光景だ。腕時計から武器を出すなど、現実離れしすぎである。しかし徐々に見慣れてきた気もする。トリスタンが白銀の剣を取り出すところを何度も見たためだろうか。
「加勢しましょうか?グレイブさん」
「いや、問題ない。それより、ここは危険だ。早く安全なところへ」
「分かりました」
トリスタンが頷いてそう答えた刹那。深緑の蛇がこちらへ迫ってくるのが視界に入った。恐らくこれも化け物の一種なのだろうが、蛇と聞いて普通に想像する蛇よりも太く長く、深緑の体は気味悪く輝いている。
「来たな」
グレイブは男のような低い声で短く呟く。
そして、長槍を大きく一振りした。
太く長い迫力満点の蛇は、彼女の長槍に薙ぎ倒され、巨大蜘蛛の時と同様に、塵となって消滅する。グレイブが蛇を倒すのには、十秒もかからなかった。
彼女は強い。そう思った。
巨大な化け物を目の前にしても怯まない度胸。慌てない冷静さ。いずれも今の私には欠けているものだ。つまり、私と彼女は真逆である。
「行くよ、マレイちゃん」
「え、えぇ」
私は、トリスタンが傍にいてくれているから、何とか落ち着いていられる。だが、もし一人だったなら、こんな風ではいられなかっただろう。動くことすらままならなかったはずだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.29 )
- 日時: 2018/05/28 01:36
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: loE3TkwF)
episode.24 蛇の魔女
大蛇の化け物はグレイブに任せ、私たちは先へ急ぐ。
それからしばらくして、ようやく個室へたどり着くという、その時だった。
「と、トリスタン!」
「マレイちゃんっ!!」
突如背後から現れた大蛇に絡みつかれ、頭が天井すれすれになるくらいまで持ち上げられる。
私は女だが、もう子どもの体格ではない。だから、それなりの重さはあるはずだ。にもかかわらずこうも軽々と持ち上げるとは、かなり力持ちである。
さすがは化け物、といったところか。
「待っていて、すぐに助けるから!」
トリスタンはすぐに白銀の剣を抜く。これで助かる。きっと大丈夫だ、と思った。
——が、そう上手くはいかなかった。
剣を抜いたトリスタンへ、無数の細い蛇が襲いかかってきたのだ。細い蛇たちは、私を拘束している大蛇の向こう側から発生しているようだが、どこからどう出てきているのかはよく見えない。
「……くっ。これじゃ」
細い蛇を剣で斬りながら、顔をしかめるトリスタン。
彼の剣速をもってしても、細い蛇のすべてを倒すことはできていなかった。しかも、倒すことができないだけではない。脚やら腕やらに絡みつかれている。
「マレイちゃん!すぐには助けられそうにない!ごめん!」
トリスタンは、その均整のとれた顔を不快感に歪めつつ、大きめの声で言い放った。
今回ばかりはトリスタン任せとはいかないようだ。大蛇の拘束から抜け出すためには、自力で何とかする外なさそうである。
「……そうだ」
私は右手首へ視線を向ける。腕時計が見えた。頑張れば届きそうな距離だ。
「……よし」
大蛇が真っ二つになる様を脳に浮かべながらに、動かせる左手を、右手首の腕時計へ必死に伸ばす。
もう少し。後少し。
——そして。
指先が腕時計の文字盤へ触れる。
刹那、赤い光が溢れた。
四方八方へと広がった光の筋は、天井や壁に反射し、大蛇の化け物の体を突き刺す。幾本もの光線が集まり、大きな火球かのようになっている。
肉が焦げるような匂い、肌を焼くような熱——そして、気づけば地面に落ちていた。
「マレイちゃん!」
全身に絡む細い蛇たちをようやく払い除けたトリスタンが、すぐにこちらへ駆け寄ってくる。一つに束ねた金の髪は、心なしか乱れていた。
「怪我はしてない?」
「えぇ。落ちた時に腰は打ったけれど……問題ないわ」
尾てい骨がじんと痛む。
しかし、数メートルの高さから落下したことを思えば、この程度で済んだのは奇跡だ。
「トリスタンこそ、大丈夫なの?蛇に絡まれていたけれど」
「うん。平気だよ」
そう答え、私の手をそっと握るトリスタン。
私がいきなり手を握られ戸惑っていると、彼は穏やかな声色で述べる。
「無事で良かった。また間に合わないかと思ったよ」
トリスタンは、深海のように青い瞳で、こちらをじっと見つめてくる。
その瞳は、不安と安堵が入り交じったような色をしていた。そして、僅かに下がった目尻からは、彼の穢れのない心が感じられる。
「心配してくれたのね。ありが——あれ?」
言いかけて、私は物音に気づく。カツン、カツンと鳴る、足音に。
音がする方向へ目をやる。すると、誰かが歩いてくるのが見えた。
その「誰か」は、成人女性のような形をしている。
女性にしてはやや背が高めで、しかし凹凸のある女らしい体つき。高いヒールのあるロングブーツを履いていて、脚はすらりと長い。そして、髪の緑と体の黒のコントラストが、目を引き付けて離さない。そこが一番印象的な点であった。
「こんばんは。会えて嬉しいわ」
「……何者?」
トリスタンは、いきなり現れた謎の女性に対し、少なからず不信感を抱いているようだ。眉をひそめ、牽制するような低い声を出している。
しかし女性はいたって冷静で、口元には笑みすら浮かべていた。
「あたしの名はリュビエ。ボスの一番の部下よ」
目の前の彼女——リュビエは、目元を隠すゴーグルのようなものの位置を指で整えつつ、余裕のある声で名乗る。格好こそレヴィアス人とは思えないような珍妙なものだが、姿かたちは比較的レヴィアス人に近い。
「マレイちゃんを連れていきたいという話なら、お断りだよ」
一歩前に出、険しい表情で述べるトリスタン。彼の美しい顔は今、警戒心に染まっている。
深みのある青をした瞳は鋭い視線を放ち、それが彼の美貌を更なる高みへと連れていって……って、違う!そんなことを考えている場合ではない!
「お前が噂の騎士さんね?うふふ。話はゼーレから聞いているわ」
黒のボディスーツに包まれたリュビエの腕には、数匹の蛇が絡んでいた。しかし、じっと見つめるまでは気づかなかったほど、自然な感じだ。
「やっぱり……ゼーレの仲間ってわけだ」
「えぇ、そうよ。でもあたしは、あんな情けないやつとは違う。もっと優秀なの」
リュビエが片手を前へ出す。
それと同時に、トリスタンは剣を構える。
「だから、愚かな失敗なんてしないわ」
言い終わるや否や、細い蛇がトリスタンへ飛びかかった。
一瞬では数えきれないほどの匹数だ。無数、という表現が相応しいかと思われる。
だがトリスタンとて馬鹿ではない。リュビエがどう仕掛けてくるか、見事に読んでいた。
彼は舞うように回転しながら剣を振り、蛇たちを近寄らせない作戦をとる。接近されれば倒しきれず、絡みつかれるからだろう。これは、大蛇と同時に現れた細い蛇たちとの一戦があったからこそ、考えられた作戦に違いない。そういう意味では、あの一戦も無意味ではなかったようである。
「うふふ……さすがに読まれているわよね」
細い蛇たちは次から次へと消滅させられている。なのに、リュビエの表情からは、一向に余裕の色が消えない。
「じゃ、これならどうかしら」
突然リュビエが言った。急な発言に警戒したトリスタンは、ほんの一瞬動きを止める。
次の瞬間、トリスタンは怪訝な顔をした。
何かと思い、私は目を凝らす。すると、数センチくらいしか長さのない極めて短い蛇が、彼の首にさりげなく張り付いているのが見えた。
「赤い……蛇?」
私は思わず漏らす。
非常に短いため、蛇という確信すら持てない。
——直後。
トリスタンは膝を折り、床にしゃがみ込んだ。しかも顔面蒼白で、目も虚ろにになっている。明らかに様子がおかしい。
「ちゃんと効いたみたいね」
「……毒?」
「そうよ。筋肉を動けなくする毒だもの、直に座ることさえできなくなるわ。即効性だから、一分もかからないはず」
ふふっ、と、リュビエは勝ち誇ったように笑う。
「さて」
それから彼女は、会話の対象をこちらへ移す。
「これで邪魔されずに済むわね。マレイ・チャーム・カトレア、確保させていただくわ」
- Re: 暁のカトレア ( No.30 )
- 日時: 2018/05/29 17:01
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: YUWytwmT)
episode.25 仲良くはない二人
「トリスタン!トリスタン!大丈夫?トリスタン!!」
床に崩れ落ちたトリスタンに駆け寄り、声をかけながら揺すってみる。けれど彼は応じない。彼は、既に意識を失っており、その体は脱力していた。
「無駄よ。そんなことでは目を覚まさないわ」
リュビエは冷ややかな声で述べる。そして、一歩、また一歩、と近づいてきた。
何をされるか分からず、私は身構える。
「さぁ、大人しくあたしについてきてちょうだい」
「嫌です」
「お前の意思など聞いてはいないのよ」
「止めて!」
私の腕を強制的に掴もうとしたリュビエの手を、私は強く払った。
こんなことをすれば相手を余計に刺激することになるとは分かっている。だが、彼女の言いなりになるのは嫌だったのだ。
私の人生は私が決める。私以外の誰にも、決めさせたりはしない。
「トリスタンを傷つけるような人には、絶対についていきません!」
はっきりと言ってやった。
するとリュビエは呆れ顔になる。馬鹿者を見るような目だ。
「あらあら、生意気ね。いいわ。それなら」
そこで言葉を切り、彼女は私の腕を強く掴む。女性とは到底思えぬ、凄まじい握力である。
「二度とそんな生意気が言えないよう、教育してあげるわ」
静かな声を発した後、リュビエは手の力を強めた。
腕が締めつけられ、痛みが走る。
「……あ、う」
慣れない苦痛に、声を漏らしてしまう。
痛がっていることをリュビエに悟られてはならない。それは分かっている。けれど、半ば無意識に声が出てしまうので、どうしようもない。
「大人しく従いなさい。そうでなくては、腕が折れるわよ」
「い、嫌!こんなくらいで従ったりしない!」
今従う態度に変われば、まるで痛みによって折れたかのようだ。そんなことは私のプライドが許さない。だから私は、必死に抵抗した。首を左右に振り、意思をはっきりと述べる。
「そう。よほど折られたいみたいね。それなら手加減はしないわ」
一見余裕たっぷりに思えるリュビエの声。しかし、よく聞くと、心なしか苛立っているようにも聞こえた。そして、何か焦りのようなものがあるようにも感じられる。
彼女の事情は知らない。だが、ふと思った。急がなくてはならない理由が何かあるのかもしれない、と。
そういうことなら、とことん焦らしてやろう。焦らせば焦らすほど、勝ちの流れがこちらへ向かってくるはず………。
しかし、そう簡単にはいかなかった。
「遅くなってすみませんねぇ。来ましたよ」
ゼーレが現れたのだ。
彼は高さ一メートルほどの蜘蛛に腰掛けている。
そちらへ視線を向けるリュビエ。
「遅かったわね、ゼーレ」
「入り口に殺虫剤が撒かれていたのです。仕方ないでしょう」
「殺虫剤?何それ。お前、本当に馬鹿ね」
二人の会話を聞いている感じ、あまり仲良くはなさそうだ。しかし二人は仲間。油断はできない。
ただ、ゼーレの登場によって、少しは時間を稼げそうな気がする。
「そんなの無視なさいよ」
「可愛い子たちに、無茶はさせられませんからねぇ」
ゼーレの口から飛び出した過保護な親のような発言に、リュビエは呆れて溜め息をつく。
「まったく。後がないと分かっているの?」
「もちろん、分かってますよ」
「なら頑張りなさいよ!最後のチャンスでしょ!このままじゃ、お前、居場所がなくなるわよ」
リュビエは見下したような笑みを浮かべる。
「最後のチャンス……ですか」
ぽつりと呟くゼーレ。
彼はそれから、私の方へと歩み寄ってくる。
「潰そうとしておいて、よくそんなことを言いますねぇ」
ゼーレは私の目の前まで来ると、唐突にくるりと身を返し、銀色の仮面で覆われた顔をリュビエへ向けた。
「ボスに好かれたいがために抜け駆けしようとしたことは分かっていますよ、リュビエ」
「……っ!」
「貴女の役目は兵を片付けることだけだったはずですがねぇ」
リュビエとゼーレ——二人の間には、かなり緊迫した空気が漂っている。
「うるさいわね!お前が無力だから、あたしが代わりにやってあげようとしたのよ!」
「まさに余計なお世話というやつですねぇ」
「あぁもう、分かったわよ!好きにしなさい!」
口喧嘩の勝者は、意外にもゼーレだった。
本来口喧嘩なら、口が達者な女性の方が有利なことが多いと思われる。しかし、ゼーレの場合は違ったようだ。
こうして、リュビエは撤退。私はゼーレと二人きりになってしまった。トリスタンはまだ目を覚ましそうになく、完璧に二人きりだ。
正直、かなり気まずい。いや、敵対者と二人なのだから、「気まずい」などと呑気なことを言っている場合ではないのだが……しかしかなりの気まずさである。
そんなことを考えていると、ゼーレが振り返り、私を見た。
「これでもう文句はないでしょう」
「……文句?」
「話し合いをお望みなのでしょう?」
「えぇ」
私は静かに返す。
緊張で背筋に汗の粒が浮かぶ。
ゼーレとはこれまで何度も直接的に会話してきた。しかしその時はいつもトリスタンがいた。護るものの何もない状況だと、かなり不安だ。
「マレイ・チャーム・カトレア。今日こそ、我々のもとへ来ていただきます」
「……それは嫌」
「言いますねぇ。いつの間にそんなに気が強くなったのやら」
彼の顔面は銀色の仮面で覆われている。だが、彼がこちらを見つめていることは確かに分かった。不気味な男と見つめ合うなど、本来、恐怖以外の何でもないはずだ。しかし不思議なもので、今はそれほど恐怖を感じない。
「ゼーレ、一つ聞かせてほしいの」
「なに?」
「貴方やさっきのあの女の人が言う『ボス』って……一体誰なの」
ゼーレもリュビエも当たり前のように言っていたが、その正体を私たちは知らない。このままでは戦いようがないし、まともに戦ったとしても明らかに不利だろう。
敵の情報こそ重要——そう思うから、尋ねてみたのだ。
しばらくして、ゼーレは答える。
「……ボスは我々のリーダーのような存在。圧倒的な力を持つ男」
落ち着いた声。だがその声は、どこか悲しくも聞こえた。
「圧倒的な、力?」
「その通り。なので、逆らわない方が賢明と思いますがねぇ」
なぜだろう。今の私には、彼の言葉をそのままの意味で受け取れなかった。
彼が言っているのは、自分たちのリーダー的存在である『ボス』という者の強さ。そしてその強さへの称賛。
そのはずなのに、まるでそうではないかのように感じる。
「……ボスの目的は何?」
私は視線を彼へ向けたまま質問した。
彼はすぐには答えない。ただ、「答えない」という雰囲気ではなく、何やら考えているような雰囲気である。だから私は、そちらをじっと見つめたまま、彼が答えるのを待った。
暫し沈黙。夜の闇のような、深い海のような、そんな沈黙だ。ほんの僅かな動き……いや、心音でさえも、空気を揺らしそうな気がする。それほどの沈黙だった。
それから一二分が経ち、ゼーレはようやく口を開く。
「レヴィアス帝国を亡き国とし」
そこで一度、彼は息を吸った。
「土地を己のものとすること」
針で肌を刺するような、固い空気がこの場を包んでいる。
私は彼の言葉に耳を傾ける。
「それが我々のボスの目的です」
レヴィアス帝国を亡き国に。
そんな私欲のために、あんな怪物を送り込み、人々を傷つけたというのか。人々を殺め、村を消し去ったというのか。
そう考えると、心が怒りに震えた。
- Re: 暁のカトレア ( No.31 )
- 日時: 2018/05/31 02:34
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: CejVezoo)
episode.26 抑えられない
私の心は、今、行き場のない怒りに震えている。
しかし、その怒りの炎は、目の前のゼーレだけに向けられたものではなかった。
もちろん彼に非がないわけではない。私の故郷以外にもいくつもの村や街を滅ぼしてきたのだろうから、然るべき報いを受けねばならないのは確実だ。
ただ、指示を出した『ボス』という者がいるのだとすれば、その者が犯した罪は、ゼーレのそれよりずっと重い。それは確かである。
「どうしてそんなことを!」
行き場のない怒りに、つい声を荒らげてしまう。
ゼーレに怒鳴ったところで何の意味もないということは分かっている。しかし、それでも抑えることができなかった。
「どうして!」
するとゼーレは、一メートルほどの高さの蜘蛛から降り、静かな声で返す。
「そんなこと、知りませんよ」
彼は機械風の腕で蜘蛛を撫でている。一応、使い捨てという認識ではなく、可愛がっているようだ。
「知らないじゃないわ!私の母親は化け物に焼き殺されたのよ!」
半ば無意識に叫んでいた。
「それだけじゃない、村は焼き払われ、多くの人が死んだの!何の罪もない人間が!それなのに貴方は『知らない』で済ませるというの!?」
こんなことを言っても意味はない。失われたものが返ってくるわけでもない。
それは分かっている。
——けれど。
「悪魔!!」
私は感情のままに叫んでしまった。
本来これはゼーレに言うべきことではなく、『ボス』とやらに対して言うべきことなのだろうが。
「……酷い言われようですねぇ」
呆れたように返してくるゼーレ。彼は私よりずっと大人だった。
「まぁ、間違いだとは言いません。村を焼き滅ぼしたのですから、怨まれるのも理解はできます」
言いながら、ゼーレはさらに接近してくる。
一歩一歩彼が近づいてくる様は、まるで闇が忍び寄るかのようで、気味が悪い。その凄まじい不気味さは、胸の奥に潜む恐怖を呼び覚ました。
「しかし……、到底分かり合えそうにはないですねぇ、マレイ・チャーム・カトレア」
「……もしかしたら分かり合えるかもしれないと、そう思っていたわ」
「けれど今は、もう思っていないのでしょう?」
「……いいえ」
まさか本当に二人で会うことになるとは思ってもみなかった。もし攻撃してこられてもトリスタンが護ってくれる——そんな風に甘く考えていた。
「まだ完全には消えていない。もしかしたら分かり合えるかもという思いは、捨てきれない」
分かり合える、なんてありえないことだ。そんなことを考えるのは、夢見る乙女か愚か者だけ。しかし、それに気づいてもなお、まだ「分かり合えるかもしれない」と思っている自分がいた。
「だったら?私を説得でもしますか?……無理でしょう?」
くくく、と愉快そうに声を漏らすゼーレ。
「貴女は時折、私を理解したような口を利く。平和を望む聖女のふりをし、敵さえも理解しようとする善人を装う。けれども、本当は私を敵としか見ていないのです」
「そ、そんなこと……」
「間違ってはいないでしょう」
ゼーレの言葉は、鋭く研いだ刃のようだった。
彼は私のすべてを見抜いている。彼に寄り添おうとしたい自分はいるが、心がそれを許さず、結局憎しみが勝つこと。それさえ、完全に見抜かれているようだ。
「……そうかも、しれない」
私が返せる言葉はそれしかなかった。
「でしょう?貴女も所詮、他のレヴィアス人どもと同じなのです」
ゼーレはそう言って、馬鹿にしたように、くくく、と笑う。けれども声は笑っていなかった。愉快そうな雰囲気すらない。どこか暗いその声は、私の胸を締め付ける。
「これで分かったでしょう、話し合うことなど不可能だと」
「どうしてそんな言い方……」
「こちらも仕事ですからねぇ。貴女には悪いですが、強制的に来ていただきま——ん?」
話が一段落し、ゼーレが実力行使に出ようとした、その時。
パタパタと走っているような足音が聞こえてきた。聞いた感じ、二人三人程度の足音と思われる。蛇の化け物を倒しきった隊員かもしれない。
もしそうだとすれば、幸運だ。
隊員の誰かが私を発見してくれれば、ゼーレに連れていかれずに済む。
そうこうしているうちに、足音は近づいてきた。恐らくもう少しだ。もう少しで助けが来る——そう思うと、萎れかけていた心が元気を取り戻してくる。
「不審者を発見!」
数秒後、角を曲がってきた見知らぬ男性が大きな声で言った。不審者というのはゼーレのことと思われる。
そしてさらに数秒後、見知らぬ男性の背後から、グレイブが現れた。
彼女は私の姿を見るや否や目をパチパチさせる。それから、床に倒れ込んだトリスタンへ視線を移し、眉をひそめた。状況が掴みきれていないのだろう。そして最後にゼーレへ目をやり、その瞬間、彼女の綺麗な顔面が憎しみに染まる。
「まさか貴様がトリスタンを……!」
ゼーレは答えない。グレイブの様子をじっと見つめるのみだ。
「答えろ!何をした!」
声を荒らげるグレイブ。
彼女は鬼のごとき形相でゼーレを睨みつけている。味方側の私でさえゾッとするような、憎悪に満ちた表情だ。
けれどもゼーレは、顔色一つ変えずにいた。
「トリスタンに何をしたのか、と聞いている!」
「私は……何もしていませんがねぇ」
その言葉は真実だ。
だって、トリスタンをやったのはリュビエだもの。
「嘘をつくな!貴様以外に誰がトリスタンを傷つけると言うのか!」
このままでは話が終わらない。ゼーレが「自分ではない」と言い、グレイブが「嘘をつくな」と言うループに陥ってしまうことだろう。だから私は、気が進まないものの口を挟むことに決めた。
「待って下さい、グレイブさん!トリスタンを傷つけたのは、本当に、ゼーレではありません!」
攻撃的な返答が来ないことを祈りつつ言う。
するとグレイブは、眉間にしわを寄せながら返す。
「マレイ、そいつを庇うのか?」
彼女は美人だ。それゆえ、険しい顔をされると迫力がある。
ただ、真実は捻じ曲げられるものではない。だから、「ゼーレではない」ことは、どこまでいっても「ゼーレではない」のである。
「庇うつもりはありません。ただ、話を聞いて下さい」
「……嘘ではないようだな。それならいいだろう」
何とか信じてはもらえたようだ。嘘だと勘違いされて怒られたらどうしようかと思った。
信じてもらえて良かった、と安堵の溜め息を漏らす。
その直後だった。
グレイブは突如命じる。
「人型を捕らえろ!」
それに対し、最初に私らを発見した男性と後から追いついてきた男性が、同時に返事をする。
「「はい!」」
体育会系のノリだ。
さすがは帝国軍、教育がしっかりと行き届いている。
それにしても、予想を遥かに越えていく展開だ。
グレイブは男性らと共にゼーレを捕らえるべく動き出した。しかし、ゼーレとしては、今捕まるわけにはならないだろう。
まもなく局面が一気に動くに違いない。
- Re: 暁のカトレア ( No.32 )
- 日時: 2018/06/01 20:05
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Oh9/3OA.)
episode.27 朱に染まる、一輪の華
グレイブより命を受けた二人の男性隊員が、ゼーレへと迫る。
ちなみに男性隊員は、一人は刀、一人は拳銃を所持している。
「やれやれ……面倒なのが来ましたねぇ」
一対二の状況だが、ゼーレは平静を保ち続けていた。表情は微塵も揺れない。私と話している時と比べても、今の方が遥かに冷静だ。
「せいっ!」
刀の男性隊員は正面からゼーレへ斬りかかる。トリスタンほどではないが、そこそこ素早い。
しかしゼーレには通用しなかった。
彼は片腕で男性隊員の刀を防ぐと、即座に蹴りを繰り出す。男性隊員はまともに蹴りを食らい、数歩下がる。ゼーレの一秒もかからない反撃には、さすがについていけなかったようだ。
だが、多分、男性隊員が弱いわけではない。
ゼーレの速度が異常なのだ。彼に太刀打ちできる者がいるとすれば、それは恐らくトリスタンくらいであろう。
「威勢がいいのは結構。……しかし」
刀の男性隊員へ接近するゼーレ。
その時、男性隊員の顔には恐怖の色が浮かんでいた。
先ほどの反撃に移る速度に怯んだか、あるいは、蹴りの威力がよほど凄まじかったか。真の理由は私には察せないが、恐らくはその辺りだろう。もっとも、あくまで私の想像だが。
「威勢がいいだけ、というのは可哀想ですねぇ」
遠心力も加えたゼーレの蹴りが男性隊員の胸元へ突き刺さる。
男性隊員は刀で何とか防いだものの、あとほんの少し遅ければ直撃していた、というくらいきわどいところだった。
防御した時の衝撃が凄かったのか、男性隊員の顔は真っ青だ。
「何をしている!」
「す、すみませんっ……!」
救護班と連絡を取り、意識のないトリスタンをそちらへ渡す準備をしていたグレイブが、鋭く叫ぶ。それに対し男性隊員はひきつった声で謝っていた。
「嫌な上司の典型ですねぇ、あの女」
男性隊員の顔色を窺うことさえせず、厳しい言葉だけを吐くグレイブを、ゼーレはさりげなく批判する。
私はそれを聞き、真っ当な意見だと思ってしまった。
「安心なさい。すぐに終わらせてあげ——」
「させるかっ!」
ゼーレが刀の男性隊員に止めの一撃を加えようとした刹那、白く輝く光弾が、ゼーレに向かって飛んできた。拳銃を持った方の隊員が放ったものと思われる。
避ける時間はないと判断したらしく、ゼーレは金属製の両腕で光弾を受けた。これは完全に、彼の腕が生身でないからこそできる芸当だ。
「ふ、防がれたっ!?」
光弾を放った隊員は動揺していた。
「そちらは私が赴くまでもなさそうですねぇ」
ゼーレは動揺する隊員を一瞥し、ふっ、と微かに笑みをこぼす。勝利を確信したような、余裕の笑みである。
直後、彼が乗っていた高さ一メートルほどの蜘蛛の化け物が、動揺する隊員へ襲いかかった。
あの巨大蜘蛛よりかは小さいが、それでも、日常生活で見かける普通の蜘蛛に比べればずっと大きい。脚に薙ぎ払われでもした日には、怪我することは必至である。
「何をしているんだ!」
トリスタンを救護班の者へ渡し終えたグレイブが、視線を戦いの場へと戻し叫んだ。
だが、男性隊員は二人とも言葉を失ってしまっている。まともに返事をできる精神状態ではない。
「なぜ返事しない!」
「ま、待って下さい、グレイブさん!お二人は戦闘で……」
私はついフォローに回ってしまう。
だって、あんな状態でさらに怒られるなんて、可愛そうなんだもの。
しかし無視されてしまった。なんというか……複雑な気分だ。まさか完全に反応なしとは思わなかった。
「仕方ない。やるか」
少しして、グレイブは独り言のように呟く。
それから、腕時計の文字盤へ指先を当て、長槍を取り出す。
「次は貴女ですか」
「人型、覚悟!」
今のグレイブからはただならぬ殺気が溢れ出ていた。それはもう、第三者として見守っているだけでもゾッとするような、凄まじい迫力である。
「人型とは……おかしな言い方をしてくれますねぇ」
「確保する!」
長槍を手に、グレイブは勢いよく飛び出す。この戦い、まだ分からない。
「威勢がいいだけ、はもう止めて下さいよ」
「甘く見ないでもらおう!」
攻めるグレイブ。護りに回るゼーレ。
それだけを見ていると、一見グレイブの方が有利に見える。攻め続けているからだ。
ただ、まだ勝敗は分からない。
「帝国を揺るがす者を許しはしない!」
「くくく。いかにも正義らしいセリフですねぇ。しかし、そこが嘘臭い」
「黙れ!」
「馬鹿らしい、そんなことで黙りませんよ」
グレイブの槍さばきは、素人の私でも見惚れてしまうほど華麗だった。なぜか目が離せない。
「目的達成のため、邪魔になる者は消します」
「黙れ!トリスタンを手にかけた悪党が!」
「黙ってほしいのなら、貴女の手で黙らせてみなさい」
それからも攻防は続く。何度も火花が散っていた。私からしてみれば、壮絶な戦いである。
——しかし、やがて決着の時は来た。
そのきっかけは、拳銃を持った方の男性隊員が、後方から、ゼーレの足下へ光弾を放ったことだった。ゼーレは目の前の彼女だけに集中していたがために、足首に光弾を浴び、バランスを崩したのだ。
そうして生まれた隙を、グレイブは見逃さなかった。
「……く」
「これで終わりだ!」
彼女は力の限り長槍を振り抜く。
紅の飛沫が散った。
肩から鎖骨の付近にかけて槍に抉られたゼーレは、そのまま数メートル飛ばされ、豪快に床へ落ちた。だが、それでもまだ負けを認める気はないらしく、彼は立ち上がろうとする。
けれどもグレイブはそれを許しはしない。
彼女は、ゼーレが立ち上がれぬよう、彼の片足首に槍の先を突き刺した。
抵抗されようとも、赤いものが溢れても、彼女の心は決して揺るがない。躊躇いもないように見える。
その様子は、グレイブの持つ一種の異常性を、私にまざまざと見せつけた。美しい華には棘がある、とはこのことか。
かくして、この一連の騒ぎは幕を下ろしたのだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.33 )
- 日時: 2018/06/03 16:01
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: fQORg6cj)
episode.28 夜はまだ明けず
結局その夜は眠れなかった。
襲いくるたくさんの蛇、毒に倒れたトリスタン、一切躊躇いを見せなかったグレイブ。恐ろしいことばかりが脳裏に浮かぶからだ。
自室へ帰りはしたものの眠りにつけない私は、暗い室内で水を飲み、一夜を明かすこととなった。
口に含んだ水は、鉄の味がした。
翌朝。
まだ早い時間に、誰かがドアをノックする音が聞こえた。私はぼんやりした状態で何とかそちらまで歩き、ドアを開ける。
「……トリスタン!?」
脳内に広がっていたもやのようなものは、一瞬にして吹き飛んだ。
なぜって、毒にやられたはずのトリスタンが立っていたから。
「ごめん。驚かせた?」
中性的な美しさの顔立ち、絹のように輝く長い金髪——その姿は、間違いなくトリスタンである。
しかし、彼はリュビエの蛇の毒によって気を失っていたはずだ。あれからまだ数時間しか経っていない。だから、まだ回復するとは思えないのだが。
「本当に……トリスタン?」
「うん。さっき目が覚めてね」
トリスタンは曇りのない笑みを浮かべながら言った。
その笑顔は、明らかにトリスタンのそれだった。ということはやはり、目の前にいる彼は本物なのだろう。
「目が覚めたなら良かったわ。でも、大丈夫なの?」
「大丈夫、って?」
「大丈夫、って?じゃないわよ!毒にやられていたんでしょ?もう症状はないの?」
尋ねると、彼は頷く。
「あぁ、そういうこと。それなら大丈夫だよ。救護班の人たちはまだ動くなって言うけど、あんなの余計なお世話だよね」
余計なお世話って……。
救護班の人がそう言っているなら、動かない方が良さそうな気がするのだが。
「動かないよう言われているのに来たの?」
「うん。もう平気だからさ」
「そう。それならいいけど」
もしここで私が「帰って休め」と言ったとしても、彼は頷きはしないだろう。トリスタンとはそういう人間だ。だから、敢えて言うことはしなかった。
トリスタンは話を変える。
「マレイちゃんは大丈夫だった?あの蛇女に何かされなかった?」
「えぇ、何もされていないわ。リュビエは、後から来たゼーレと口喧嘩になって、先に帰っていったの」
私が簡潔に説明すると、彼は安堵したように息を漏らし「そっか」と呟いた。それと同時に頬が緩む。心からほっとしたような表情である。彼は彼なりに心配してくれていたようだ。
それから数秒して、トリスタンは再び険しい顔つきになる。
「で、ゼーレには何かされたの?」
やはりそちらも気になるようだ。
「いいえ。彼は乱暴なことは何もしてこなかったわ。ただ、少しだけ話をしたの」
「話を?」
「えぇ。ボスとかいう者の目的についてとかを話したわ」
するとトリスタンは、大きく目を見開く。深海のような青の瞳が震えていた。
「そんなことを話したの?あいつが?」
「そうよ。質問したら答えてくれたの。確か……ボスの目的は『レヴィアス帝国を亡き国とし、土地を己のものとすること』って、そう言っていたわ」
「普通、自分たちの長の目的を口外するかな。聞かれたって答えないのが普通だよね」
トリスタンは冷静そのものだった。
ボスの目的を聞いて取り乱し、ゼーレへ当り散らした私とは、大違いである。
「変だとは思うわ。でも、嘘をついているようには見えなかった」
私は彼の瞳を真っ直ぐに見据えて返す。
敵であるゼーレを完全に信頼するわけではない。ただ、その言葉が嘘であるようには聞こえなかった。それに、そもそもそんな嘘をつく必要性がない。
「だとしたら……いや、それはないか」
「トリスタン?」
「ゼーレはあっちを……」
「トリスタン、どうしたの?」
独り言を漏らしていた彼は、その時になって、意識をこちらへ戻す。
「あっ、ごめん。何でもないよ」
ごまかすように苦笑するトリスタン。
これ以上聞かない方が良さそうなので、私は話を変えることにした。
「そうだ!そういえば、グレイブさんって凄く強いのね!」
結構な実力を持つゼーレとすら互角に戦い、ついには勝利を収めたグレイブ。彼女の華麗な槍さばきは、女性という枠を遥かに超えていると思う。
速度も迫力も、他の男性隊員らを凌駕していたもの。
「彼女の戦いを見たの?」
「えぇ。ゼーレと戦うところを」
いつもは静かで大人びた彼女の、勇ましく激しい声をあげる姿。あれはかなりの迫力だった。近くで見ているだけの私ですら怯んだほどである。
「凄かったわ。女の人とは思えないくらいの強さで、驚いてばかりだった。もしかしたら、トリスタンと同じくらい強いんじゃない?」
「グレイブさんの方が強いよ」
「そう?トリスタンだってかなり強いじゃない」
しかし彼は、首を左右に動かした。
彼は自分がグレイブより強いとは、微塵も考えていないようだ。
「グレイブさん、そんなに強いのね」
「そうだね。彼女の槍は部隊の主力だよ」
言ってから、彼は一度まぶたを閉じた。
そして、数秒後に目を開く。
青く輝く瞳は私の顔が映るほど澄んでいる。磨かれた鏡みたいだ。まるで、彼の無垢な心を映し出しているかのようである。
「それに、彼女の化け物への憎しみは凄まじい」
トリスタンは唐突にそんなことを言った。
「尋常でない憎しみの感情が、グレイブさんをさらに強くしているんだ」
どう返すか少し迷う。しかし、私は、思ってもいないことを言えるほど器用でない。なので、正直な言葉を返すことに決めた。
「それは分かる気がするわ。ゼーレと会った時、人が変わったかのように叫んでいたもの」
少し間を空け、続ける。
「グレイブさんって、過去に化け物と何かあったの?」
あの明るいフランシスカでさえ、以前何かあったかのような、暗い顔をしていたことがあったのだ。グレイブにも何かがあったとしてもおかしくはない。
帝国に化け物が現れるようになって、もはや、約十年が過ぎている。その間に出た犠牲者の数は、到底数えられないくらいの数だ。
だから、そこにグレイブの関係者がいるということは、十分考えられる。
「家族とか、友人とか、大切な人を失ったとか……」
するとトリスタンは口を開く。
「……二度」
首を傾げていると、彼は淡々と続ける。
「一度目は、まだ彼女が十代だった頃。勤めていた店に化け物が押し入り、客も店員も諸共惨殺されたらしい。それも、彼女の目の前でね。二度目は、数か月前。地方へ遠征に出ていた所属部隊が彼女だけを残して全滅」
私は何も言えなかった。今述べるに相応しい言葉を見つけられなかったのだ。
トリスタンから聞くグレイブの過去。その残酷さは、私の想像をずっと上回っていた。
しかし、その痛みは想像がつく。もっとも、ほんの一部にすぎないかもしれないが。
母親一人が目の前で灰になった——それだけでも、私はいまだに悪夢を見る。どんなに忙しくても、時折思い出す。もう八年も経ったというのに、今でも鮮明に思い出せ、赤い記憶はこの脳から消えてくれない。
「……そんな、ことって」
一人失っただけでもこれだ。
目の前で誰かが殺されるというのは、それだけ、見た者にも大きな傷を残す。
「だからグレイブさんは……あんなに」
今はただ、胸が痛い。
そして、改めて思い知らされた。
——この世界に、夜明けはまだ来ていないのだと。
- Re: 暁のカトレア ( No.34 )
- 日時: 2018/06/04 18:17
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
episode.29 痛みを知れ
マレイとトリスタンがグレイブについて話していた、その頃。グレイブは、昨夜拘束したゼーレと、地下牢にて顔を合わせていた。
「捕虜になった気分はどうだ、人型」
グレイブは座った体勢で固定されたゼーレを見下し、冷ややかに言う。
「その人型という呼び方、不愉快です」
ゼーレは静かに、しかし棘のある返し方をした。
彼は今、囚われの身である。
人のものでない両腕は体の後ろで固められ、全身を鎖で締めつけられ、両足には重り付き拘束具が装着されている。
どう頑張っても動くことはできそうにない状態だ。
だが、それでも彼は冷静さを欠いてはいない。
「ふざけるな、化け物め」
「失礼ですねぇ」
「調子に乗るなよ!人型!」
グレイブは咄嗟に長槍を取り出し、その先端を、ゼーレの喉元へ突きつける。
しかし、ゼーレが顔色を変えることはなかった。
「そんなことで私が動揺すると、そう思いましたか?」
彼は愉快そうな声色で言い放つ。ほぼ動けぬ状態にあっても尚、彼は強気な姿勢を貫いていた。
所詮強がりに過ぎないのだろう。しかし、弱音を吐くことなど、彼にできるわけがない。どんな状況へ身を置いていたとしても、だ。
「馬鹿らしい。力で押さえつけようなど、野蛮としか言い様がありませんねぇ」
「黙れ。それ以上言うなら、首を掻き切ってやる」
「大事な情報源を殺してしまって良いのですかねぇ」
仮面の隙間からじろりと睨まれ、グレイブは言葉を詰まらせる。
「……っ」
すると、それを待っていたかのように、ゼーレは言う。
「勢いがあるのは良いことです。しかし、すぐに動揺するというのは、問題ですねぇ」
「どういう意味だ」
「あまり感情的になっていると、いつか足下をすくわれますよ。そう忠告して差し上げているのです」
直後、グレイブはゼーレの前へしゃがむ。そして、長槍の先を、彼の太ももへ突き刺す。
「それ以上余計なことを言うなよ」
低い声で威圧的に述べるグレイブ。
彼女の漆黒の瞳は、憎しみと怒りの混じった複雑な色を湛えている。燃える炎のようにも、深い闇のようにも見える、そんな色だ。
「分かったか」
するとゼーレは、何事もなかったかのような顔で返す。
「他人の脚を突き刺すとは、相変わらず乱暴ですねぇ」
黒い装束のおかげで目立たないが、槍を刺されたゼーレの太ももは赤く滲んでいた。
「貴様らのせいで多くの者が命を落としてきた。無論、その中には私の知人も多くいる」
「だったら何だと言うのです?」
「ふざけるな!!」
飄々とした態度を取り続けるゼーレに腹を立てたグレイブは、一言、鋭く叫んだ。
「ふざけてなどいませんが?」
「その態度がふざけていると言っているんだ!……私たちレヴィアス人がこれまでどれだけ傷つき苦しんできたか、今ここで教えてやる」
グレイブは、長槍を握る手に力を加える。
この時になってゼーレは初めて表情を揺らした。掠れた苦痛の声を漏らす。
「痛いか、ふふっ、そうだろうな。心の痛みは分からずとも、肉体的な痛みなら分かるはずだ」
「……陰湿な女ですねぇ」
「何とでも言えばいい。これは死んでいった者たちによる復讐だ」
化け物が手の届く距離にいる。そして、好きなように扱える。その事実が、彼女の復讐心の目を覚まさせたのだろう。これまでどうしようもなかった化け物たちへの憎しみを、彼女はただ、意味もなく、目の前のゼーレへと向けている。
「復讐、ですか……。馬鹿らしい。貴女の言う死んでいった者たちを殺したのは私、という証拠はあるのですかねぇ?」
「証拠も何も、皆を殺害したのは化け物だ!それはつまり、貴様の仲間に殺されたということ。貴様に殺されたも同然だ!」
グレイブが荒々しく言い放つと、ゼーレは半ば呆れたように、首を左右に振った。
「それは違いますねぇ」
目を見開くグレイブ。
「化け物への復讐心と私への復讐心は別物です。混ぜないでいただきたい」
「何を今さら!」
「貴女の憎しみは本来、私へ向けるべきものではないはずです」
ゼーレの冷静な言葉に、グレイブは眉を寄せて黙る。
彼女とて馬鹿ではない。だから、本当は分かっているのだ。自身が抱く憎しみや復讐心は、ゼーレを傷つけることでは消えない、と。
それは分かっていて、それでも彼女は止められなかった。目の前にいる、化け物との繋がりを持つ男を傷つけることを。
彼女の心はそれだけ荒んでいる、ということなのだろう。
「私をどうしようが貴女の自由です。ただ、どれだけ殴ろうが蹴ろうが、貴女の中の傷が癒えることは決してない。それもまた真実。……そうでしょう?」
ゼーレは不気味なほどに落ち着いている。
既に槍を刺され、これからさらにどんな目に遭うかも分からないというのに。
「これ以上痛い目に遭いたくないから、そんなことを言うのだろう?素直に『止めてくれ』と言えばいいものを」
そう言って、グレイブは槍を振るう。
二度三度、ゼーレの腹部を柄が強打した。
彼はさすがに痛かったらしく、上半身を折り曲げる。一筋の汗が、首筋を伝い、地面へ落ちた。
「痛みを知れ。傷つく痛みを、理不尽な目に遭う痛みを」
地下牢という暗闇の中、グレイブの漆黒の瞳は、気味が悪いほどに爛々と輝いている。
長年溜め込まれていた負の感情が、一気に溢れ出したからだろうか。彼女はもはや、その負の感情——心の闇に、完全に飲み込まれていた。
暗闇の中でさえ目立つほどの黒。それが今の彼女、グレイブだった。
「……痛み、ねぇ」
上半身を折り曲げたまま、地面を見つめて呟くゼーレ。
「そんなもの、知っていますよ……嫌といういうくらい」
けれども彼の小さな呟きは、グレイブには聞こえていなかった。
- Re: 暁のカトレア ( No.35 )
- 日時: 2018/06/05 09:33
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 50PasCpc)
episode.30 レヴィアススカッシュ
明らかに眠れそうにない私は、トリスタンと二人で食堂へ行くことにした。
まだ早朝なので、人はあまりいない。しかし、地下牢へ続く階段の付近でグレイブの姿を見かけた。彼女は一人で、険しい顔をしていた。その映像が、妙に、脳裏に刻まれている。
「さすがにまだ誰もいないね」
「えぇ。少し寂しいわ」
「そうかな?僕は静かな方が好きだけど」
「トリスタンらしいと思うわ」
そんなたわいない会話をしつつ、私とトリスタンは食堂の椅子にそれぞれ腰を掛ける。位置は向かい合わせだ。
「マレイちゃん、何か飲む?」
「そうね……」
いきなり尋ねられたため、私は回答に困る。
急に「何か飲む?」などと聞かれ、パッと答えられるほど、私は器用な人間ではない。
「何があるの?」
食堂についてはまだよく知らないため、一応質問してみた。
するとトリスタンは笑顔で答えてくれる。
「コーヒー、紅茶、あとは……レヴィアススカッシュとか?」
「最後のは何?」
レヴィアススカッシュなんて飲み物、聞いたことがない。
私が十歳まで育ったあの村も、アニタの宿屋があるダリアも、どちらもレヴィアス帝国内ではあった。けれども、そんな飲み物の名称は耳にしたことがないし、恐らく飲んだこともない。
ただ、レヴィアススカッシュとは、妙に美味しそうに感じる名称だ。
「飲み物よね?」
「うん。虹色の炭酸ジュースなんだ」
「え。にっ、虹色っ!?」
驚きのあまり、深い意味もなく目をパチパチさせてしまった。虹色の飲み物なんて、見たことがない。
その時の私は、きっと、かなり情けない顔をしていたのだろう。
こちらを見ていたトリスタンが、ふふっ、と笑みをこぼした。
「マレイちゃんって、純粋だよね」
彼は笑いながら、楽しげな声でそんなことを呟く。
「純粋?」
「うん。君といると凄く癒やされるよ」
言ってから、彼はまた、くすくすと笑う。
心なしか馬鹿にされている感が否めない。しかしトリスタンのことだ、馬鹿にしての発言ではないだろう。
彼がそんな男でないことは分かっている。にもかかわらずそんな風に感じるのは、私の心が荒んでいるからに違いない。原因は私。これはフランシスカの時もそうだった。
「で、飲み物は何にする?」
「えっと、じゃあ……。その何とかスカッシュで!」
「オッケー」
彼は親指を立て、ウインクした。
トリスタンに任せ、待つことしばらく。
二つのグラスを持った彼が、ゆっくりとこちらへ戻ってきた。
「お待たせ」
「大丈夫よ。そんなに待っていないわ」
私は、そう答えながら、彼の顔からグラスへと視線を移す。グラスの中身は、本当に虹色をしていた。
テーブルへ二つのグラスを置き、席に着くトリスタン。
「はい、どうぞ」
高めのグラスの中に広がる虹は、揺れる水や動く泡と合わさり、幻想的な世界を創造している。たった一つのグラスにすぎないというのに、それは、広大な海のようにも、果てしない空のようにも見える。
「凄く綺麗ね!トリスタン!」
私は思わず声をあげた。
早朝のため、まだ人があまりいない。だからまだ良かった。もしこれが、多くの人がいる時間帯だったら、恥をかくことになってしまっていたことだろう。
「気に入ってくれた?」
「えぇ!海みたいな、空みたいな、素敵な感じ!」
美しいものは心を輝かせる。鮮やかな色は心を弾ませる。
だから好きだ。
いつ身の危険にさらされるか分からない危険な世界に暮らしているからこそ、このような明るい気持ちにしてくれるものは必要だと思う。
「少し、飲むのがもったいないわね」
「そういうもの?」
よく見ると、トリスタンは既に飲み始めていた。
せっかく美しいジュースなのに、彼は眺めることもしていない。
「美味しいよ。マレイちゃんも早く飲むといいよ」
「え、えぇ。そうね、そうするわ」
私は、その時になって初めて、ストローに口をつけた。
本心を言うなれば、もう少し眺め続けていたかったのだが——トリスタンが飲むように促してくるので、仕方ない。今日だけの特別メニューなわけではないので、いずれまた見られることだろう。
そう思い、自身を納得させながら、ジュースを飲んだ。
虹色に輝くレヴィアススカッシュは美味しかった。
その色鮮やかさに負け劣らない、爽やかで飲みやすい味をしている。時に酸味、時に甘味。そして、鼻を抜けるミントのような香り。
「美味しい……!」
頬が赤く染まってしまいそうな美味だ。
ただ甘いだけではない、色々なものが複雑に混じり合ったような味は、見事なものである。
「気に入ってくれた?」
「えぇ!美味しいわ!」
トリスタンの問いに、私ははっきりと答えることができた。
こんな幸福、いつ以来だろうか。
私たちがレヴィアススカッシュを飲み終えた、ちょうどその頃だ。
ドシン、という震動が私たち二人を襲った。
「な、何!?」
突然のことに慌てそうになる私に、トリスタンは「落ち着いて!」と言い放つ。彼は席から立ち上がると、私のすぐ横へ来て、手を握ってくれる。
「マレイちゃん、落ち着いてね。大丈夫だから」
「え、えぇ……」
一人の時よりかは心細くはない。
けれど、またトリスタンに何かあったらどうしよう、と考えてしまう。
起こってもいない心配をしても無駄だ。そういう心配は、大概が杞憂に終わるものである。そう分かってはいて、けれども、胸を包む不安は一向に消えてはくれない。
——その時。
ふと、グレイブの姿が思い浮かんだ。
ここへ来る前、一瞬すれ違った彼女。確か、地下牢へと行っていた。
「そうだ、トリスタン!」
「え。何?」
「ゼーレは地下牢にいるの!?」
戸惑ったようにまばたきを繰り返すトリスタン。
「いきなりどうしたの、マレイちゃん」
「捕まったゼーレは今どこ?地下じゃないの?」
「よく分からないけど、捕虜とか罪人は大体地下牢に入れられるものだよ」
「やっぱり……!」
なぜだろう、胸騒ぎがする。
捕獲され地下牢にいるであろうゼーレと、地下牢へ続く階段の付近を歩いていたグレイブ。
きっと——偶然ではない。
「トリスタン、今から地下牢へ行くわ!」
「え?ちょ、待って……」
私はすぐに腰を上げ、椅子をしまって走り出した。
何者かに、導かれるように。
- Re: 暁のカトレア ( No.36 )
- 日時: 2018/06/07 17:07
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: DMJX5uWW)
episode.31 復讐心
食堂を出て、来た道を戻る。目指すは、先ほどグレイブを見かけた地下へ続く階段。
「……ここね」
階段へたどり着く。
地下へと続く階段は、結構な段数がありそうだ。階段の下は暗くて見えず、ただ、不気味な雰囲気に包まれている。
闇へ踏み込むのは怖い。
やはりまだ、あの夜のことを思い出してしまう。
——でも。
「しっかりして!私!」
ビクビクしていては駄目だ。
過去はもう過ぎたもの。いつまでも怯えていては、何も変わらない。いや、変えられない。
私がいるのは過去ではない、現在だ。
「……よし」
一度頷き、小さく呟いて、私は足を進めた。
地下は暗闇だった。
二人分ほどの幅しかない細い通路の脇には、ところどころ、蝋燭の明かりが灯されている。しかし、十分な明るさにはなっていない。十分どころか、「ほとんど何も見えない」に近しい。
こうも暗くては、視力はほとんど役にたたない。だから私は、耳をすましながら歩いた。人がいるなら音が聞こえるはず、と思ったからである。
耳をすましながら、しばらく歩いた時だった。
またしても大きな音。そして、地響きのような微かな揺れが私の身を襲った。
私は音がした方へと、足を速める。
「……グレイブ、さん?」
そこに立っていたのは、艶のある黒い長髪が印象的なグレイブだった。暗闇の中ですら、彼女の容姿は輝いている。
長槍を持った彼女は、ほんの一瞬、視線をこちらへ向けた。身構えてしまうくらい、鋭い視線を。
「マレイか」
彼女の放つただならぬ雰囲気に、恐怖を覚え、私は一歩後ずさる。
「は、はい……」
「何をしに来た」
「あ、えっと……音がしたので。何だろうと思って来ました」
すると彼女は低い声で命令してくる。
「すぐにここから去れ」
どうやら私はこの場にいてはいけないようだ。化け物がいるわけでもないのになぜだろう、と思っていたら、彼女の向こう側にゼーレの姿が見えた。
そして、グレイブの槍の先が彼に向いていることに気がつく。
「グレイブさん!待って下さい!」
私は思わず声を出していた。
「何を……なさるおつもりですか?」
すると、彼女の漆黒の瞳が、こちらをジロリと睨む。
「マレイ、お前には関係のないことだ」
突き刺すような視線に、震えそうになる。けれども私は、勇気を出して、言葉を返す。
「関係なくは……ないです」
その時もまだ、グレイブは、長槍の先をゼーレへ向けていた。今にも刺しにかかりそうな、殺伐とした空気を漂わせている。
私は、何者かに導かれるかのように足を進め、グレイブとゼーレの間へ入る。
その時、ここへ来て初めて、ゼーレの姿をまともに見た。
彼の、血にまみれた姿を。
「……ゼーレ」
思わず、彼の名が滑り出ていた。
彼は敵。私から大切な人を、すべてを奪った、憎き者。
けれども私は、血に濡れた彼を見て、嬉しいとは思えなかった。その憐れな姿には、むしろ切なささえ覚える。
「何です、その目は」
複雑な心情になりながら見つめていると、ゼーレは不快そうに言ってきた。不愉快極まりない、といった風な低い声だ。
「そんな憐れむような目で見ないで下さい。不愉快です」
そこへ入ってくるグレイブの声。
「分かっただろう、マレイ。そいつはそういう、心無い奴だ」
ゼーレとの間には私がいる。にもかかわらず、彼女は槍を下ろしはしなかった。
「さぁマレイ、そこを退いてくれ」
「でも、彼、怪我を……」
「怪我など構わん。退けと言っているんだ」
険しい表情をしたグレイブの顔と、鎖に繋がれた血濡れゼーレを、私は交互に見る。どうすればいいか必死に考えてみるが、答えはなかなか出ない。
「その男の味方をするのか!マレイ!」
「ち、違います。でも、こんなのは良くないと思います」
私の言葉を聞いたグレイブは、さらに怒りを露わにする。
「良い悪いの問題ではない!」
彼女の口から発される言葉。それは、彼女が握る長槍の先端のように鋭利だ。
「この憎しみの感情は復讐無しでは晴れない」
グレイブはついに、長槍を片手に歩み寄ってきた。私もろともゼーレを攻撃する気だろうか。
「もっとも、化け物に奪われたことのない人間には分からないのだろうがな!」
叫ぶのとほぼ同時に、グレイブは長槍を振り下ろす。
鋭い光る先端が迫る——。
私は咄嗟に、腕時計をはめた右手首を前へ出した。
「いいえ、分かります!」
得体の知れない何かに突き動かされ、私はそう言い放つ。それとほぼ同時に、小さな塊となった赤い光がグレイブ目がけて飛んでいった。
赤い光の塊は槍にぶつかる。パァンと乾いた音が鳴り、槍は彼女の手からすり抜ける。
これには、さすがのグレイブも動揺を隠せていなかった。いきなりのことだったので、当然といえば当然かもしれない。
「私も化け物に奪われた人間です。だからグレイブさん。貴女の気持ち、少しは分かります」
「……何だと?」
眉をひそめ怪訝な顔をするグレイブ。
「生まれ故郷、知人、そして母親。私も化け物に、大切なものを奪われました」
グレイブの表情が、ほんの少し緩む。
「マレイ、お前もそうだったのか」
「はい」
「なるほど。それは分かった。しかし、それならなおさら、なぜそいつを庇うんだ」
彼女は「分からない」といった顔つきをしていた。
そうだろう、それが正しい反応だ。グレイブが間違っているのではない。私が変なだけである。
「傷つけ返すのは簡単です。ただ、それでは同じことを繰り返すだけになってしまいます。私たちが優先すべきことは、個人の復讐ではなく、帝国を平和にすること」
「だが、やられっぱなしでは気が済まない」
「それは分かります。けれど、復讐をしたところで、死んだ人が生き返るわけではありません」
私がそこまで言うと、グレイブは静かにまぶたを閉じる。落ち着きのある動作だ。
「……そうか。私とマレイは正反対の意見のようだな」
かかってくるかと一瞬身構えたが、さすがにそんなことはなかった。
意見は違えど帝国軍の仲間であることに変わりはない。そんな私へ攻撃を仕掛けるほどの過激さではなかったようだ。
「まぁ、今日はここまでにするか。じきに皆が起きてくるしな」
「はい。その方が良さそうですね」
グレイブは一度だけ静かに頷くと、身を返し、牢から出ていった。急に静かになった気がする。
それと入れ替わりで、トリスタンが入ってきた。
「凄いね。さすがはマレイちゃん」
「トリスタン!見ていたの?」
驚いた。まさかトリスタンが見ていたなんて。
「うん。グレイブさんの槍を退けるなんて、驚いたよ」
トリスタンは呑気にそんなことを言っている。何やら楽しげな表情だ。
「あれは偶然……って、どうして入ってきてくれなかったの!トリスタンが来てくれれば、きっともっと早く解決したのに!」
私が文句を言うと、彼は私の体をぎゅっと抱き締めてきた。
いきなり何!?という気分だ。
「ごめんね、マレイちゃん」
「ちょ、ちょっと」
「怒ってる?」
「別に怒ってはいないけど……」
どうも、トリスタンはおかしい。彼は時折、行動が普通でない時がある。
「それなら良かった」
「でも、いきなり抱き締めるのはどうかと思うわよ……」
恐らくはそれが彼にとっての普通で、自覚はないのだろう。しかし、私からしてみれば不思議でならないのだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.37 )
- 日時: 2018/06/10 16:46
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: w93.1umH)
episode.32 すぐには変われないけれど
「そうだ!」
私はゼーレのことを思い出し、トリスタンから一旦離れる。そしてゼーレの前へしゃがみ込み、声をかける。
「大丈夫?」
「恩を売るのが好きですねぇ」
俯いたままの彼の返答は、氷河期のごとき冷たさだった。
かなりのダメージを受けているように見えるが、彼は淡々として、疲れの色など僅かも見せない。
「なぜそうも必死なのです?私に恩を売っても、得などないでしょうに」
「恩を売るとか、そんなのじゃないわ。ただ、純粋に心配になったの」
その言葉に偽りはない。
なぜかと聞かれれば、これといった明確な理由を答えることはできないだろう。ただ、私の口から出る言葉が偽物でないということだけは、間違いなく真実だ。それは自信を持って言える。
「純粋に心配?……相変わらず、馬鹿げたことを」
「馬鹿げてなんかないわ」
私はゼーレの肩に手を当てる。なぜ肩かというと、腕は背中側で拘束されていて触れられないからだ。
「それよりも、怪我が酷いわ。早く手当てした方が……」
そこまで言った時だった。
トリスタンが私とゼーレの間に割って入り、述べる。
「僕が救護班に連絡する。だから、マレイちゃんはもう、ゼーレのことは気にしなくていいよ」
トリスタンは恐らく、私を気遣ってくれているのだろう。彼は優しい人だから、きっとそうに違いない。
「救護班待ちで、間に合う?」
「うん、大丈夫だよ。すぐに連絡するから」
「そう。それならいいけど……」
私はトリスタンを疑う気などない。だから、彼が「大丈夫」と言うなら、大丈夫なのだと迷いなく信じる。
ただ、ゼーレが傷ついていることも事実だ。傷が作り物なわけではないので、致命傷にならないかという心配はある。
——もっとも、憎き敵である彼を心配する必要など、本来なら微塵もないのだろうが。
そんなことを考えていると、俯いていたゼーレが唐突に顔を上げた。
「マレイ・チャーム・カトレア、貴女……実に奇妙な趣味をお持ちなのですねぇ」
「えっ?」
一瞬、何を言われているのか理解ができなかった。
だが、少しして、皮肉られているのだと気がついた。ゼーレの発言は嫌みなのだと。考えてみれば、彼らしい皮肉ではないか。
「大切なものを奪った私が目の前にいるのですよ?それも、抵抗できない状態で。となると、貴女が今すべきことは、本来、一つだけのはずです」
銀色の仮面のせいで直では見えないが、目を凝らしてよく見てみると、呼吸が荒れているのが分かった。ゼーレもまったく平気というわけではないようだ。
「奪った者から奪い返す。私を——」
そこまで言った時、ゼーレの体から急に力が抜けた。鎖に縛られているのもあって完全に倒れ込みはしないが、意識がはっきりしなくなりつつあるようだ。
「ゼーレ!大丈夫?」
私は彼の仮面に覆われた顔を覗き込む。顔は直には見えないが、疲労感がひしひしと伝わってくる。
「……不気味な女ですねぇ。そういう奇妙な行動はもう止めて下さい、気味が悪い……」
今のゼーレの声には張りがない。彼らしからぬ弱々しさだ。
実は結構疲労しているのかもしれない、と私は思った。
「あまり無理しちゃ駄目よ」
「そもそも、貴女が素直に来てくれれば、こんなことにはならなかったのですがねぇ……」
彼は不満げな声を小さく漏らす。さりげなくブツブツ言うところは、彼らしい。
「それは嫌よ、帝国を壊そうとする人たちの仲間にはなれないわ」
「本当に……頑固な女です。大人しく従えばいいものを」
「悪かったわね、頑固で。でも私は帝国軍の人間になってしまったもの、もう遅いわ」
ゼーレはその性格ゆえに、気丈に振る舞っている。だが、本当は辛さもあるのだろう。敵地に一人で拘束されているという状況だ、辛いのも無理はない。
「どこかが痛むの?」
「うるさい、ですねぇ……」
「ごめんなさい。多分もうすぐ救護班が来るわ、それまでの辛抱よ」
私は勇気を出して微笑みかけてみる。しかし無視されてしまった。
……仕方ないか。
つい先日まで敵だったのだから。
待つこと数分、救護班が到着した。私が思っていたよりかは来るのが遅かったが、来てくれただけで今は良しとしよう。
グレイブに一方的に攻撃を浴びせられたゼーレの体は、救護班の者ですら驚いたほどにズタズタだったらしい。
グレイブが急所を避けていたため、ゼーレは生きていられたようだ。彼女が敢えて急所を外した意図は不明だが——取り敢えず命に別状はなさそうで良かった。
そしてトリスタンの方も、リュビエの蛇毒に関する心配はあったが、もう大丈夫そうだった。
特に症状もなく、健康そのもの。
そんなトリスタンの様子を見、私は安堵した。
その日以降、私は本格的に訓練を始めた。
帝国軍に所属している以上、戦えないわけにはいかないからだ。
持久走や上体起こしなどの基礎的なトレーニングはフランシスカに見てもらう。そして、実戦に近い戦闘に関しては、主にトリスタンに指導してもらった。
フランシスカもトリスタンも、夜間は、化け物狩り部隊の隊員としての仕事がある。だから、私が見てもらうのは主に昼間だ。
そう言うと、夜は暇かのように思えるが、案外そうでもない。
ゼーレの身の回りの世話があったからである。
いや、「世話」と言っては失礼かもしれない。正しく言うなら、食事や簡単な体調確認などである。
本来それらは牢番の役割だ。しかしゼーレの場合は厄介で、食事を運んでも食べず、牢番が声をかけても無視をするらしい。そんなことで、彼が唯一反応する私が、その役目を負うこととなってしまったのである。
おかげで昼も夜も忙しく、非常にハードな生活になっている。
だが、忙しさには慣れている。だから平気だ。
アニタの宿屋にいた頃の経験が、今こんな風に形を変えて、役に立っている。そんな気がするのだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.38 )
- 日時: 2018/06/10 22:45
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: uJGVqhgC)
episode.33 緊張の朝
二週間ほど経ったある朝、私はグレイブに呼び出された。
待ち合わせ場所は修練場のメインルーム。彼女と初めて会った場所である。
彼女と会うのは、地下牢でゼーレの扱いについてすれ違った、あの時以来だ。すれ違ったままで終わってしまっている相手と、果たしてちゃんと話せるのか……それを思うと、不安しかない。
だが、呼び出されたのだから逃げようがない。
私は勇気を振り絞り、元気よく挨拶しながらメインルームへ入る。
「おはようございます!」
しかし返事はなかった。
まだ来ていなかったのかな?と思いながら待っていると、しばらくしてグレイブが現れる。
彼女は、首にタオルをかけ、タンクトップに黒ズボンという軽装だ。長い黒髪は一つのお団子にまとめてあるのだが、心なしか湿っているようにも見えた。
「少しシャワーを浴びていた。待たせてしまい、悪かったな」
いつもは血のように赤の唇も、今は薄い色をしている。シャワーを浴びたばかりで化粧をしていない、ということなのだろう。
それにしても——化粧をしていなくても美しさが変わらないことには驚きだ。
「おはようございます」
「おはよう」
グレイブはあっさりした調子で挨拶を返す。
そして、改めて口を開く。
「本題に入ろう」
「は、はい」
ドクン、ドクン、と、いつもより大きく心臓が脈打つ。
恐らく、「どんな話が出てくるのだろう」という緊張ゆえだろう。
「マレイがここへ来て、二週間と少し」
「はい」
「この二週間、マレイが懸命に訓練に励んでいたということは、フランやトリスタンから聞いている」
グレイブは淡々とした口調で話し続ける。
「そこで、だ。そろそろ実戦に出ても良い頃だと思うのだが、お前の心はどうだろうか」
「私の心……ですか?」
「あぁ。実戦に出るということは、危険にさらされるということでもある。だから、心の決まっていない者を出すわけにはいかない」
この二週間、できる限りの努力はしてきたつもりだ。
以前に比べれば体力も少しはついただろう。戦闘時の動き方というのも、トリスタンの丁寧な指導のおかげで多少は理解できてきた。
だが、それでも、すぐには答えられなかった。どうしても「迷い」というものがまとわりつくのだ。
命の危機にさらされる場所へ行く。それを迷わずに選べるほど、私の心は強くない。
「どうなんだ?マレイ」
けれども、必要とされる場所で必要とされて生きていくためには、覚悟が必要だ。たとえ恐ろしくても進んでゆく覚悟が。
だから私は、一度しっかりと頷いた。
「やります」
するとグレイブは、ふっ、と笑みをこぼす。
「良い返事だ。では早速、実力試験といこうか」
「実力試験って何ですか?」
「フランもトリスタンも説明していないのか。まったく、あいつらは……」
グレイブは呆れ顔で溜め息を漏らしていた。
軽く俯き溜め息をつく——そんな時でさえ、彼女は美しい。吸い込まれそうな漆黒の瞳、大人びた艶やかな顔形。そのすべてが魅力的で、魅惑的だ。
「実力試験というのはな、実戦投入前最後の試験のことだ。試験官と一対一で戦闘を行い、試験官に合格を出させれば終わり。分かったな」
「は、はい!それで、試験官というのはどなたで……?」
言いながら、私は勘づく。もしかして彼女なのではないか?と。
そして、その予感は的中した。
「私だ」
よりによってグレイブ。
私は、暫し何も言えなかった。
彼女はゼーレの件に関して、私とは真逆の意思を表示している。そういう意味では、一番当たりたくなかった相手だ。
そんなことを思っていると、グレイブは、まるで私の思考を読んだかのように言ってくる。
「安心しろ、マレイ。意見が違うからといって、試験の評価まで下げたりはしない」
「えっ……」
「それを心配しているのだろう?」
グレイブはその均整のとれた顔に、あっさりした笑みを浮かべる。
「私とお前では、あの捕虜へ抱く感情が根本的に異なる。それゆえに、私たちは理解しあえない。それは一つの真実だ」
「えっと……」
「だが、試験はまた別の話。私はそこまで話の分からない女ではない。安心してくれ」
どうやら、意見が異なることによる影響はなさそうだ。影響がまったくないとは考え難いが、彼女がそう言うのだからそうなのだろう。
「では……」
「グレイブさぁぁぁーん!」
ちょうどその時、一人の男性が、グレイブの名を呼びながらメインルームへ駆け込んできた。
大きめの眼鏡をかけ、柿渋色の髪が四方八方に跳ねた、いかにも情けなさそうな男性だ。
「ごめんなさいぃぃー!遅刻うぅぅーしましたあぁぁー!」
「落ち着け、シン。騒ぐな」
「す、す、すみませぇぇんー!」
「黙れ!」
シンと呼ばれるその男性は、ついに、グレイブに強く叱られた。
ただ、叱られるのも仕方がないかもしれない。大人にもかかわらず、いちいちこうも大声で騒げば、叱られもするだろう。
グレイブは呆れ顔で「まったく……」とぼやき、その後、私の方へ視線を向ける。
「驚かせて悪かったな、マレイ。こいつはこんなだが、正気は正気だ。心配するな」
「は、はぁ」
私はそう答える外なかった。何とも言えない微妙な心境だからである。
直後、男性が大きな声を出す。
「あーっ!あなた様が今噂のぉー、マレイさんですかあぁぁぁー!?」
「ひっ……」
彼があまりに身を乗り出してくるものだから、思わず退いてしまった。凄まじい勢いには、微かな恐怖すら感じる。
「シン。名乗るくらいはしろ、名乗るくらいは」
「はっ!そうでしたぁっ!」
柿渋色の四方八方に跳ねた髪の彼は、改めてこちらへ向き直り、一度コホンと咳のような音を出す。そして自己紹介を始める。
「ボクはシン・パーンと申しますぅ。今日は審判役を務めさせていただきますのでぇ、よろしくお願いしますぅ」
その自己紹介に、私は少し驚いた。
まさに審判をするために生まれてきたかのような名前だったからである。
「あ、こちらこそ、よろしくお願いします。マレイです」
「それはもうっ!もう、存じ上げておりますよぉぉぉー!」
またしても凄まじい勢いで迫ってきた。
大きな眼鏡をかけた顔は迫力がありすぎて、近づかれると妙な圧を感じる。ぐいぐいと押されるような、そんな感覚。日頃体感することのない感覚に、私は暫し慣れられなかった。
個性の強すぎる彼に馴染むには、まだ時間がかかりそうだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.39 )
- 日時: 2018/06/13 16:19
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: z6zuk1Ot)
episode.34 これは試験、そして戦い
「さあぁぁーて!それでは、マレイさんの実力試験!制限時間は六分でぇぇーすぅぅー!」
修練場のメインルーム内、グレイブと私は向かい合わせに立つ。その中間にいるのは審判役のシン・パーン。巨大な眼鏡と跳ねた髪が印象的な、かなり奇妙な男性だ。
「さてさてぇ、どうなるのかあぁぁぁ!?観客はいませんがぁ、お二人ともぉぉ、頑張って下さぁいぃぃぃーっ!!」
試験の制限時間は六分。
一見長くは思えぬ時間だ。しかし、恐らく、始まってしまえばかなり長く感じられることだろう。
「よおぉぉぉーいー……」
もっとも、実際にやってみたことがあるわけではないので、始まってみなくては分からない部分も大きいが。
「始めぇぇぇっ!」
試験開始を告げる、シンの異常にテンションの高い声が室内に響く。
こうして、実力試験の幕が上がった。
開始の合図とほぼ同時に、グレイブは腕時計に触れ、相棒の長槍を取り出す。そして、こちらへ向かって走り出す。
トリスタンも言っていたように、彼女もまた、腕時計の力で身体能力が強化されているのだろう。人間が走っているにしてはかなり速い。結構な速度だ。
このままでは、あっという間に接近されるに違いない。
そう思った私は、右手首の腕時計に指先を当てる。そして、右腕をグレイブへと向けた。
赤い光球を、いくつも放つ。
練習に練習を重ね、ようやく自分の意思でコントロールできるようになってはきた。だが、自分の意思で出すと、どうしてもこじんまりしたものしか出ない。
「その程度か」
グレイブは長槍を回転させ、赤い光球を弾く。
そのまま接近してくる。
至近距離で、意識が私に向けられている。初めてなのはその二つだけだ。なのに、それらのことによって、かなりの迫力を感じる。これほどか、と感心してしまうほど。
しかし、感心している場合ではない。
これは試験。私自身の動きを見られているのだ。
「動かないと落ちるぞ」
大きく振られる長槍。
私は咄嗟に飛び退き、一歩退く。そして再び光球を放つ。偶然、先ほどよりかは大きな球が出た。
ただ、グレイブが反応できないほどのものではなかった。私が放った赤い光球を、彼女は長槍の柄で防ぐ。
けれど、彼女の動きが一瞬止まった。
正面からでは敵わない。そう思い、私は彼女の背後へ回る。
いくら光球を放ったところで、正面からなら、長槍に防がれて終わりだ。何の危機でもない今、防がれないほどの威力の攻撃を放つことは難しいだろうし、グレイブが反応しきれないほどの速度で光球を放つというのは不可能である。となると、正面以外から仕掛ける外ないだろう。
……もっとも、正面を外したところで無意味かもしれないが。
だが、何事も試さなくては始まらない。
私はグレイブの背に向かって赤い光球を放つ。できる限りやってみよう、と連射した。
連射はあまりやってみたことがないため、どうなるか分からない部分はある。けれども、初めてを恐れているようでは、彼女に認めてもらえはしないだろう。
「なるほどな」
低い声。それと同時に、グレイブの漆黒の瞳がこちらを向く。
やはり読まれていたようだ。背後へ回っただけで上手くいくほど、彼女はあまくはなかった。しかし、そのくらいは想像の範囲内である。
「そう来たか」
グレイブはその唇に微かな笑みを浮かべた。愉快そうな表情だ。
「多少は頭を使ったようだな。だが」
彼女は素早く身を返し、私が放った光球を槍ではね返すと、一歩ずつこちらへ迫ってくる。
大またな歩き方には凄まじい威圧感があるが、この圧力にも徐々に慣れてきた。試験が始まって間もない頃なら怯んだだろうが、そろそろ平気だ。
「無意味だ!」
「……っ」
私は地面にスライディングするようにして彼女と交差する。
背後へ回ったこの一瞬が狙い目。
右腕を彼女の背へ向け、光球を撃ち出す。
「そうか」
一発目が命中する直前、グレイブは後ろ向きのまま、槍の先端部で防御。そこから再び身を返し、続く二三発目も確実に防ぐ。
何度攻撃したところで意味はないだろう。今までと同じように、ただ防がれて終わりに違いない。グレイブの反応速度に私は勝てない。当たり前だ。
この実力差を僅かでも埋めるには——もはやこれしかない。
だから私は、赤い光球を撃ち出し続けた。
可能な限りやろう、と心を決め、連射し続ける。何がどうなることやら分からないが、とにかくひたすら攻撃を続けた。一発だけでも命中することを願って。
「力押しへ切り替えたな」
グレイブは長い柄の真ん中辺りを握り、そこを軸として、長槍を扇風機のように回す。
攻撃のための武器を盾へ早変わりさせてしまう彼女の腕は見事だ。
「確かにお前の球には威力はある」
敢えて認めてくれるあたり、相手にされていない感が満載である。
「だが、私に押し勝てるほどではない」
次の瞬間。
喉元に槍の先が突きつけられていた。
「おしまいだ」
静かなグレイブの声に、私は完敗したのだと理解する。
私が彼女に勝てるわけなどないということは、もちろん分かっていた。 そもそも年季が違う。それに彼女は、あのトリスタンが自分より強いと言うほどの実力者だ。どうやって勝つというのか。
ただ、勝ちを取りに行こうとしていたこともまた、事実である。
だから正直、残念な気持ちだ。
「実力試験はぁぁー!グレイブさんのぉぉ、勝ちぃぃぃーっ!!」
シンは相変わらずのハイテンションで、グレイブの勝利を高らかに宣言した。
その声が、私に、改めて敗北を突きつけた。
……なぜだろう。
グレイブに勝てる可能性なんてあるわけがないのに。自分がまだ未熟であることなど分かりきっているのに。
それなのに……、なぜか、妙に悔しい。
- Re: 暁のカトレア ( No.40 )
- 日時: 2018/06/13 18:27
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: bUOIFFcu)
episode.35 無意味な抵抗をしないだけ
「ご苦労だったな、マレイ」
実力を測るための模擬戦闘は、一瞬にして終わった。六分間とは、驚くべき短さだ。もう少し長く感じるものかと思っていたのだが、まさに「一瞬」である。
「ありがとうございました」
私はそっとお礼を述べた。
負けたことは悔しいけれど、感謝の気持ちを忘れてはならない。相手をしてもらえただけでも光栄なことなのだから。
「お、お、おぉ、お疲れ様ですうぅぅぅ!」
「黙れ」
大声をあげながら接近してきたシンの頭を軽くはたくグレイブ。彼女の整った顔には、不快の色が浮かんでいた。
「い、いったぁぁーいですよおぉぉー……」
シンは両手で頭を押さえながら、そんなことを漏らしていた。
本当に痛そうだ。
「さて、こうしてマレイの実力を見させてもらったわけだが」
グレイブの改まった言い方に、私はごくりと唾を飲み込む。
どのような答えが飛び出すか分からない。合格か、不合格か。彼女がどういった判断を下すか、まったく不明である。
「身体能力は高くない。光球の威力も、コントロールしようと意識するあまり、まずまずになってしまっている」
もっともな発言だ。
私の戦闘能力はまだ未熟。グレイブに近づけるようなものではない。
「ただ、勝利を掴もうという心意気はあるな。そして、そのために、色々と考えて動いていた」
グレイブは静かに瞼を閉じる。
結果が出るのを、私はひたすら待つ。じっと待つ。
——やがて、グレイブはその瞼を開いた。
彼女の、潤いのある漆黒の瞳には、私の姿がくっきりと映っている。
闇のような黒でありながら、採れたばかりの果実のように瑞々しい瞳は、まるで水面のよう。
「それゆえ、合格だ」
グレイブの落ち着きのある声が、そう告げた。
「……合格、ですか?」
一瞬聞き間違いかと思った。
そこで聞き返してみたところ、グレイブは「そうだ」と言って頷いた。やはり私の聞き間違いではないようだ。
「ということは」
「あぁ。まもなく実戦投入だな」
いよいよ、といったところか。
今すぐ実戦が始めるわけではないのに、体が強張るのを感じる。「実戦投入」と言われただけでこの強張りだ。いざ戦いの場に立った時の緊張感は、恐らく、今では想像できないくらいのものだろう。
「まだ一人前とは言えないが、サポートがあれば十分役には立てるはずだ」
「……頑張ります」
胸には不安が渦巻いている。
だが、それと同じくらい、わくわく感もある。
「どうした?あまり自信がなさそうだが、何か不安要素でも?」
「い、いえ」
「そうか。それならいい」
短く言葉を発してから、グレイブは、その手で私の肩をぽんと叩く。
「実戦ではお前一人で戦うわけではない。だから心配するな」
声は静かだが、言葉そのものは温かなものだ。
こうして、私の実力試験は終了した。
合格したことをトリスタンに早く知らせたい。彼は本当に親身になって、色々と教えてくれたから。
けれど、今、どこにいるのだろう?
恐らく基地内にはいるものと思われる。だが、基地内と言っても広い。一人で探して回るのは、あまりに非効率的だ。
そんなことを考えつつ、私は地下牢へと向かう。
ゼーレの昼食の時間である。
早くトリスタンを見つけたいのだが……役割だから仕方ない。
地下牢内にある配膳室で一人分の食事を貰い、ゼーレがいる個室へと向かう。ここは昼間でも暗い。足下に注意を払いつつ、私は運んだ。
やがて彼の部屋へ着く。
コンコンと二回軽くノックして、扉を開け、中へと入っていった。
「……何です」
鎖で繋がれたゼーレは、私の存在に気がついたらしく、面倒臭そうに顔を上げる。
「お昼ご飯、持ってきたわ」
「もうそんな時間ですか……煩わしいですねぇ」
「煩わしい?」
「えぇ。一日に何度も入ってこられるのは、煩わしいとしか言い様がありません」
はぁ、と溜め息を漏らすゼーレ。
私は彼のための食事を、彼の横まで運ぶ。そして、スプーンを手に取る。
「いいから。さ、食べましょ」
「何ですか、その言い方は。私は子どもではありません」
「不快だったら、ごめんなさい。でも、食べなくちゃならないでしょ?」
ゼーレは両腕を体の後ろでくくられてしまっている。そのせいで、自力で食事がとれない。だから、誰かが食べさせてあげなくてはならないのだ。
私は彼の銀色の仮面を下の方だけ浮かせ、スプーンを口へと差し込む。
それにしても、母の仇でもある男にこんなことをしなくてはならないなんて——運命とは実に残酷なものである。
「……そういえば」
口に含んだものを飲み込んだ直後、彼は、思いついたように口を開く。
「今朝は貴女ではありませんでしたねぇ」
そんなことを言うなんて、少し意外だと思った。
私であろうが他の者であろうが、ゼーレにとっては敵だ。つまり、本来誰であろうがどうでもいいはずなのである。
だが、今の彼の発言だと、「誰であろうがどうでもいい」という感じではなく聞こえる。
「何か用でも?」
「えぇ、そうなの。ちょっとだけね」
「そうですか。ま、貴女がいてもいなくても、私には一切関係ありませんがねぇ」
敢えてそんなことを言うところがゼーレらしい。
そんなことを考えていると、いつの間にか笑ってしまっていた。彼の不器用さが微笑ましいからだ。
「それで、ちゃんと食べたの?」
「えぇ。ちゃんと追い返しましたよ」
「そう、それなら良かっ……って、違っ!」
うっかり流してしまうところだった。
「追い返したって、どういうこと!?」
信じられない。
そんなことをすれば余計に立場が悪くなることは明白ではないか。なぜ敢えて刺激するようなことをするのか、まったく理解できない。
「『感謝しろ』だの『這いつくばって食え』だのうるさかったので、帰っていただいただけのことです」
ゼーレは落ち着いていた。淡々と言葉を紡いでいく。
「まぁ確かに、その言い方は酷い気もするけれど……」
「私は、愚か者でないので無意味な抵抗をしないだけです。レヴィアス人に屈服したわけではありません」
どうもそういうことらしい。
初期に比べればだいぶ話してくれるようになったゼーレだが、まだ心を開ききってはいないようだ。
もっとも、当たり前といえば当たり前なのだが。
その時。
パタパタという乾いた足音が、耳に飛び込んできた。
- Re: 暁のカトレア ( No.41 )
- 日時: 2018/06/15 15:41
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: GTJkb1BT)
episode.36 嵐の日の海のような
ゼーレに昼食を食べさせていた時、突如聞こえてきた軽い足音。急いだような慌てているようなその音は、徐々にこちらへ近づいてきている。
私が耳を澄まして足音を聞いていると、ゼーレは首を傾げながら尋ねてきた。
「……どうしました?」
恐らく、食べさせていた私の手が急に止まったことを、不思議に思ったのだろう。
「何か、足音が近づいてきているの」
「足音……ですか?」
「えぇ、こっちへ近づいてくるみたいなの。少し見てくるわ」
私はゼーレに食べさせる用のスプーンを皿に置く。そして立ち上がり、廊下の方へと歩き出した——のとほぼ同時に、トリスタンが現れた。
偶然、バッチリ目が合う。
整った目鼻立ち。深海のような青の瞳。柔らかで品のある容姿に、つい目を奪われてしまう。
——否。
実際に奪われているのは、目ではなく心なのかもしれない。
「トリスタン!」
「マレイちゃん!」
私たちがお互いの名を呼んだのは、ほぼ同時だった。
すぐに駆け寄ってくるトリスタン。
表情は明るく生き生きしていて、少しでも早く何か言いたい、といった空気を漂わせている。
「聞いたよ!合格したって、グレイブさんから!」
「えっ、聞いたの!?」
私の口から言いたかったなぁ、なんて。
「うん!これで一緒に戦えるね!」
美しい顔に喜びの色を滲ませたトリスタンは、そう言ってから、ガバッと抱き締めてくる。彼の金髪が頬に触れ、少々こそばゆい。
「嬉しいな」
「ちょっと、トリスタン……だ、駄目よ」
「何が駄目なの?」
言わせないでくれ、と内心思いつつ、言葉を返す。
「恋人でも何でもないのに抱き締めるなんて、おかしいと思われるわ」
トリスタンは純粋に喜び、それを表しているだけ。それは理解している。だから私としては、抱き締められるくらい平気だ。嫌でもない。
けれど、もし関係のない第三者に見られたら、私とトリスタンがそういう関係だと誤解されることは、必至だろう。
そんなことになっては困る。
だから私は、こうして、はっきりと言っておくのだ。
「だから止めて」
するとトリスタンは、残念そうな顔をして言う。
「マレイちゃんは僕に触られるのが嫌なの?」
そう言われ、顔を上げる。すると予想外に距離が近く、私は驚いた。心臓は鳴る、頬は火照る。これほどの動揺を隠すことは、私には不可能だ。
「どうして『止めて』なんて言うの?僕のこと、嫌いだから?」
「ち、違うわ!でも離して!」
トリスタンの腕の力は予想外に強かった。恥ずかしさもあってか息苦しくなり、私は彼からバッと離れる。
「いきなり抱き締めてくるのは止めて!驚くから!」
「あ……ご、ごめん。嬉しくて、つい……」
どう考えても、嬉しくて、という動作ではない。
だが、しゅんとしているトリスタンを責める、というのは罪悪感がある。悪気がないのに厳しく言いすぎるのも問題だろう。だから私は、それ以上は言わなかった。
「それでトリスタン、何か用?」
私は気分を変えて尋ねる。
すると彼は、整った顔に微かな笑みを浮かべたまま、首を左右に動かす。
「ううん、他は特に何もない。グレイブさんから合格の話を聞いたから、お祝いの言葉を言いに来ただけだよ」
そんなことだけのために、わざわざ地下牢へ来るなんて。
もしかして暇なのだろうか、と少し思ってしまった。トリスタンほどの強さを持った人間が暇なわけがないのに。
「そのためにわざわざ来てくれたのね。ありがとう」
「ありがとうなんて言われるほどのことじゃないよ。一応指導に当たっていたわけだし」
「それじゃあ、合格できたのはトリスタンのおかげね」
私とトリスタンは、お互いの瞳を見つめ合い、そしてふふっと笑った。
特別面白いことがあるわけでもないのに、自然と笑みがこぼれる。穏やかに気持ちになって、楽しさすら感じた。
人の心とは、実に不思議なものである。
そんな風に幸福感に包まれていた時、ゼーレの声が聞こえてきた。
「何をしているのですかねぇ、お二人は」
はっ……!
彼の存在をすっかり失念していた。
「抱き合う、微笑み合う、綺麗な言葉を言い合う……これは、私に見せつけているのですか?わざとですかねぇ」
まずい。ゼーレがご機嫌斜めだ。いや、斜めどころか、ほぼ横——なんて言っている場合ではない。
恐らく、昼食が途中で止まっているのが、気に食わないのだろう。早く次の一口を食べさせなくては。このままではさらに空腹になり、もっと機嫌が悪くなるに違いない。
「待って!ゼーレ、怒らないで!」
「怒ってなどいませんが」
「お腹が空いたのね?すぐにあげるから!」
私はトリスタンのもとを離れ、大急ぎでゼーレの口にスプーンを突っ込む。
つ、疲れる……。
「どう?美味しい?」
機嫌を取ろうと、わざとらしく声をかけてみた。
するとゼーレは、不機嫌そうな声で返してくる。
「冷めてしまいましたねぇ……」
敵地で拘束され、捕虜になり、それでも温かい食事は譲れないと、そう言うのか。呆れるほどに贅沢な男だ。まともな食事が出るだけでも好待遇だと思うのだが。
そこへ、トリスタンがすたすたと歩いてくる。先ほどまでのような柔らかな微笑みはなく、無表情だ。
何事かと思って見ていると、彼は、ゼーレの頬を強くビンタした。パァン、という乾いた音が、地下牢内に響く。あまりに唐突だったため、私は愕然とする外なかった。
「マレイちゃんに文句を言うのは止めてもらおうか」
信じられないくらい冷たい声に、私は思わず身震いする。自分へ投げかけられた言葉ではないと分かっていても、この冷たさは恐ろしい。血まで凍りつきそうだ。
「いきなり叩くとは……野蛮ですねぇ」
「次そんなことを言ったら、今後食事はなしにするから」
「貴方は関係ないでしょう。黙っていなさい」
睨み合うトリスタンとゼーレ。二人の間には、恐ろしいくらいの火花が散っている。
なぜこんなことになるのか、と、私は呆れてしまった。
「嫌だね。マレイちゃんに食べさせてもらっておいて『冷めている』なんて贅沢発言、見逃すわけにはいかない」
「なるほど。分かりました。さては貴方……カトレアに食べさせてもらっている私に、嫉妬しているのでは?」
なんのこっちゃら、である。
何がどうなってそんな話になるのか。私にはもはや理解不能だ。
「まさか。そんなこと、あるわけがない」
「そうですかねぇ?本当は羨ましくて仕方ないのでは?」
ゼーレは挑発的な発言を繰り返す。
「素直に『羨ましい』と言ってはどうです?」
「そんな鎖だらけの姿、ちっとも羨ましくないね」
「ほう。では、夜な夜な傍にいてじっくり関わるのも、羨ましくない……と?」
刹那、トリスタンの目の色が変わった。
一瞬にして白銀の剣を取り出す。そして、剣先をゼーレの喉元へあてがう。
「マレイちゃんに何かしたら、絶対許さないから」
いつもは静かで穏やかな雰囲気をまとっているトリスタンの瞳だが、今は荒れ狂う海のようだった。ダリアで見た嵐の日の海によく似た雰囲気だ。
トリスタンのこんな表情は初めて見た。
喧嘩はあまり好きでない。騒がしいのは嫌いだからだ。
ただ、トリスタンの珍しい面を見られたことは、もしかしたら収穫だったのかもしれない。
- Re: 暁のカトレア ( No.42 )
- 日時: 2018/06/15 22:16
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: XGjQjN8n)
episode.37 紹介と質問タイム
「では早速、紹介しよう。彼女は、今日から共に戦う、新たな仲間だ」
今、自分でも信じられないくらいに、緊張している。
なぜかというと、隊員らの前で紹介されているからだ。
心臓は破裂しそうなほどに脈打つ。全身が熱を持ち、頭はぼんやりとしてくる。こんな時に限ってあくびが止まらず、そのせいで浮かんだ涙が目元を濡らす。
あぁ、なぜこんなにも。
宙に向かってそんな奇妙な問いかけをしたくなるくらい、凄まじい緊張の渦に巻き込まれている。
「名はマレイ・チャーム・カトレア。年は十八」
十名ほどの隊員の前に立つ私の左右には、グレイブとトリスタン。
ただ者でない空気をまとった二人の間に立つというのは、どうも、しっくりこない。私がここにいて本当に大丈夫なのだろうか、などと考えてしまう。
「ではマレイ。皆に一言、頼めるか」
「はっ……はい……」
グレイブの言葉に、私は頷く。しかし、正直なところ、不安しかない。
十人もの人間の前に立ち挨拶をした経験など一度もないため、「一言」と言われても、どんな一言を発すれば良いのか不明である。
私は一歩前へ出る。その瞬間、隊員らの視線が私の顔面へ集中した。
——まずい、汗しか出ない。
発するべきは言葉のはずなのに、言葉は少しも出ず、冷たい汗だけが額に溢れる。汗など出ても何の意味もないというのに。
「どうした、マレイ。一言だけで構わないのだが」
「あ、はい……」
ごくり、と唾を飲み込む。
そして私は、私が持つすべての勇気を掻き集め、ようやく口を開く。
「マレイです。よろしくお願いします!」
向かってくる大量の視線に耐えきれず、それから逃げるように、私は深く頭を下げた。こうでもしていないと、心臓が持たない。
「よし。では何か、彼女に質問などあれば」
司会役のグレイブは、隊員たちにそんなことを言った。
紹介が終わり、ようやくこの場から逃れられると思ったのに、どうやらまだ続くみたいだ。
「はいはい!質問!」
「何だ」
「彼女、どこの出身なんすか?」
「なるほど、出身か。マレイ、答えてやってくれ」
よりによって、こんな質問……。
私は何とも言い難い気持ちになった。
出身ということは、今は亡きあの村だろう。だが、それを言うと、この場を暗い雰囲気にしてしまいそうだ。せっかく楽しげな感じだというのに、たった一つの答えでそれを壊してしまうのは、気が進まない。
だから私は、敢えてこちらを選んだ。
「私の出身地はダリア。ミカンの有名な、海に近い街です」
左隣にいたトリスタンが驚いた顔をするのが、視界の端に入った。あくまで推測だが、私が出身をダリアだと言ったことに驚いているのだろう。
「おおっ、海の街出身!爽やかでいいっすね!」
「はい。素敵なところです」
「いつか行ってみたいっすわ!」
素敵なところ、は嘘ではない。
私はダリアで生まれ育ったわけではない。けれども、数年暮らしていたのは事実だ。だからダリアの良いところは知っている。もっとも、ダリア生まれダリア育ちの者に比べれば、知らないことも多いと思うが。
「他に質問は?」
グレイブが声をかけると、二人目の手が上がった。
「では君」
「はい!ありがとうございます!では早速、質問を!」
短い茶髪のどこにでもいそうな青年だ。二十代くらいだと思われる外見をしている。正しくは、二十代後半、だろうか。
「好きな男性のタイプは、どんなタイプですか!?」
驚きの質問が飛び出してきた。
右隣にいるグレイブは、その質問を聞くや否や、呆れたように溜め息を漏らす。
「こら。そんなことを聞くんじゃない」
「え、駄目ですか?」
きょとんとした顔をする青年に対し、グレイブは口調を強める。
「ふざけた内容は止めろ!分かったな?」
「あ、はい……すみません」
一切悪気がなかったらしき茶髪の青年は、しゅんとして、肩を落とした。
「では次。誰か質問は?」
この質問タイムはまだ続くらしい。
早く終わらないかな……。
「そこの黒髪」
「ありがとうございます。マレイさんはどういった目的を持って、ここへ入られたのですか?」
今度は胃が痛むような真面目な質問が来た。まるで面接だ。試されているような気がしてならない。
「はい。ええと、目的は……」
そこへトリスタンが口を挟んでくる。
「僕が彼女をスカウトしたから。それだけのことだよ」
「では、本人に入隊の意思はなかった、と?」
「もちろん強制したわけではないよ。僕が彼女の才能を認め、彼女に『来ないか?』と誘った。そしたら彼女は、頷いてくれた。それだけのこと」
「……なるほど。分かりました」
黒髪と呼ばれた質問者は、軽く頭を下げ、口を閉じた。
グレイブが再び「では次」と言い出してから、トリスタンがそっと教えてくれる。
「彼、すぐああいう質問するんだよね」
ちょっぴり嫌な人、というのは、案外どこにでもいるものなのかもしれない。
「直接だったら多分もっと突っ込んでくるから、気をつけて」
「分かったわ」
ナイス、トリスタン。
こうして私は、正式な隊員としての初めての夜を、迎えようとしていた。
今夜からは一人の戦闘員として、化け物の前へ立たなくてはならない。
そのことに不安がないわけではないが、幸い今夜は、トリスタンもグレイブもいる。フランシスカは非番でいないが、トリスタンとグレイブ——実力者が二人もいれば、どんな敵が来たとしても、そう易々と負けはしないだろう。
だからきっと大丈夫だ。
戦いは恐らく起こるだろうが、上手く切り抜けられるに違いない。
そう信じて、疑わなかった。
——その時が来るまで。
- Re: 暁のカトレア ( No.43 )
- 日時: 2018/06/17 01:29
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: n1enhNEv)
episode.38 初陣
「総員、配置につくように」
新しく仲間入りした私の紹介を終えた後、グレイブは、落ち着きのある声で隊員たちに告げた。
そして、私とトリスタンのいる方へ顔を向ける。
「二人は後方待機を頼む」
グレイブの声は淡々としていた。
信じられないほど落ち着き払ったその声は、今から戦場へ赴く者のそれとは思えない。
「後方で大丈夫ですか?」
トリスタンが真剣な顔で尋ねると、グレイブは腕組みをしながら答える。
「まぁ大丈夫だ。お前が前線から下がるのは、正直少し痛くはあるが、マレイを一人にするのは危険だからな。仕方がない」
彼女の漆黒の瞳は、トリスタンを捉えていた。
しかし、彼女がトリスタンへ向ける視線は、他の女性たちのものとは違う。グレイブはトリスタンを異性としては見ていないからだと思われる。
「前はよろしくお願いします」
「あぁ。任せてくれ」
トリスタンと言葉を交わすグレイブの態度は、淡白で、まるで男同士であるかのような雰囲気だ。
その後、トリスタンは軽く微笑みながら、私の方へと視線を向ける。
「マレイちゃん、行こうか」
「え、えぇ。そうね。ありがとう」
「ふふっ。今日のマレイちゃん、なんだか丁寧だね」
「そう?おかしかった?」
動くたび揺れる絹糸のような金髪。青く澄んで私の姿を映す瞳。
幻想的、という言葉が相応しい彼の容姿は、いつもと何一つ変わらない。戦いの前だというのに、穏やかな微笑みさえ普段通りだった。
グレイブと別れ、トリスタンと二人で、配置されている場所へと向かう。
夜間というのもあって、基地内は薄暗い。もちろん真っ暗なわけではなく、明かりもあることはあるが、十分な視界とは言えない薄暗さだ。
ぼんやりしていると、はぐれてしまいそうである。
「マレイちゃん、平気?」
狭い廊下を歩いていた時、隣を行くトリスタンが、唐突に話しかけてきた。柔らかな声色だ。
「えぇ、もちろん」
私は若干強がって返した。
だって、今さら弱音を吐くなんて情けないじゃない。
「暗いけど、怖くない?」
「もちろん」
「本当?表情が固いけど、本当に怖くない?」
うっ……。
あまり突っ込まないでほしい。
「……正直、緊張はするわ。初めてのことだもの」
私は表情まで繕えるような器用な人間ではない。だから、本心が顔に出る。強がりを言ったところで、トリスタンにはばれてしまうだろう。
だから、偽りの言葉を述べるのは止めることにした。
私の顔をよく見ているトリスタンの前では、嘘など、何の意味も持たないだろうから。
「戦いなんて、したことがないもの……」
ほんの数週間前まで、宿屋の従業員として働いてきたのだ。
こんな未来、想像してもみなかった。
すると、トリスタンはいきなり、私の手を握ってくる。「安心して」と言って微笑みながら。
相変わらず、驚くべき唐突ぶりだ。
「僕がいるから大丈夫。もし危なくなったら、僕がマレイちゃんを護るよ」
そして最後に、くすっと笑って、「あの時みたいにね」と付け加える。いたずらな笑みを浮かべるトリスタンは、どこか子どものようにも見えて、愛らしかった。
化け物の襲撃を告げるけたたましい警報音が、私の身を引き締める。この騒がしい警報音にもそろそろ慣れてはきたけれど、戦闘員の一人として聞く、という意味では新鮮だ。
トリスタンは既に、白銀の剣を抜いている。
「もし敵が来たら、マレイちゃんは僕の後ろから援護してね。基地付近だし、多分まだ当分来ないと思うけど」
「えぇ。やってみるわ」
私たちの持ち場は基地付近だ。
ほぼ基地内と言って差し支えのくらいの位置なので、かなり後方である。
「光球でいいからね」
「分かったわ」
そのくらいなら私にもできるかもしれない、と思った。
初陣をただの恥さらしで終わらせるわけにはいかない。トリスタンのためにも、帝国軍のためにも、少しでも役に立たなくては。
そうでなくては、私がここへ来た意味がない。
——それから十数分後。戦いの時は、唐突にやってきた。
私とトリスタンの前に化け物が現れたのだ。
化け物は狼のような姿をしていた。四足歩行で、赤い歯茎を剥き、白い牙が目立っている。私は見たことのないタイプの化け物だ。
「来たね」
白銀の剣を改めて構えるトリスタン。
その表情は、固く、真剣さに満ちている。
「いいね、マレイちゃん。あまり前へ出ちゃ駄目だよ」
「え、えぇ」
私は怯えつつも頷く。
何とか気をしっかり持とうとするが、脚の震えが止まらない。
「……気をつけて」
半ば祈るようにそう呟き、彼の背中を見守る。リュビエの時のようにトリスタンがまたやられたら、と一瞬考えてしまったが、すぐに首を振り、「大丈夫」と自分に言い聞かせた。
——刹那。
狼型の化け物がトリスタンに向かって走り出す。爛々と輝く瞳と、鋭い白色の牙が、大迫力だ。離れたところから見ているだけでもゾッとする。
しかし、トリスタンは冷静そのものだった。
狼型化け物が飛びかかってくる瞬間に狙いを定め、彼は、白銀の剣を下から上へと一気に振り上げる。輝く刃が化け物の身を裂く。
「よし」
トリスタンは納得したように小さく漏らす。
だが、それだけでは終わらなかった。トリスタンが襲いかかる狼型化け物を斬った直後、周囲に何匹もの狼型化け物が現れたのである。
一匹で突っ込んでくるただの馬鹿ではなかったらしい。
「囲まれてるわ!」
すぐには気づけなかったのだが、狼型化け物は、私たちを取り囲むような位置についていた。
「ど、どうする?」
「どうもしない。撃退するだけだよ」
「でも、数が多いわ」
額に冷や汗が浮かぶのを感じる。
敵に取り囲まれているという事実は、私の強くはない心をぐりぐりと痛めつけてきた。
「マレイちゃんは光球を連射して、化け物を極力寄せ付けないようにしてくれるかな」
「分かったわ、やってみる」
右手首の腕時計に指を当て、トリスタンに指示された通り、赤い光球を放つ。グレイブとの実力試験の時を思い出して、連射し続けた。
命中率はあまり良くない。というより、もはやほとんど命中していない。撃ち出す光球の八割以上が、化け物本体ではなく地面に当たっていた。
「ごめんなさい、トリスタン!当たらないわ!」
威力自体は実力試験の時より上がっている気がする。それは恐らく、実力試験の時より危機的状況だからだろう。だが、いくら威力があろうとも、当たらなければ意味がない。地面に当たったところで、砂煙を巻き起こすだけである。
「大丈夫、続けて」
トリスタンは冷静だった。そして、彼が冷静でいてくれるおかげで、私も何とか取り乱さずに済んだ。二人でいたことは正解だったと思う。
狼型化け物は恐ろしい。
だが、きっと大丈夫だ。
私は心を落ち着けるよう意識し、赤い光球を放ち続けた。
- Re: 暁のカトレア ( No.44 )
- 日時: 2018/06/17 14:50
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 4mrTcNGz)
episode.39 背中合わせ
私の光球が砂煙を舞い上げる中、トリスタンは狼型化け物を斬っていく。
砂煙のせいもあり、視界は極めて悪い状況だ。それはきっと私だけではないはず。トリスタンも同じだろう。
けれど、そんな環境下でも、トリスタンの動きは衰えてはいない。彼の青い双眸は、迫りくる化け物たちを確実に捉えていた。
帝国軍の制服でもある白色の衣装をまとったトリスタンは、宙を舞い、剣を振り、人間離れした動きで化け物を圧倒していく。一つに結われた金髪は、体の動きにあわせてなびき、黄金の弧を描いている。
つい見惚れてしまうような、美しい光景だった。
刹那。
「マレイちゃん!後ろ!」
トリスタンの叫び声が、耳へ飛び込んでくる。彼らしからぬ鋭い叫びだった。
半ば反射的に振り返る。
すると、狼型化け物の一体が、私に向かって迫ってきているのが見えた。白い牙を剥き出しにしている。今にも噛みついてきそうな勢いだ。
「……っ!」
私は詰まるような声を漏らしつつ、右腕をそちらへと向け、赤い光球を撃ち出す。離れた的を狙い撃つほどの精度はないが、この近距離なら掠りくらいはするだろう、と思ったからである。
右手首にはめた腕時計から放たれた光球は、襲いかかってくる狼型化け物の体に命中した。
私にしては大成功だ。
だが、一発で倒せるほど、狼型化け物は弱くなかった。
胴体部分に光球を受けながらも、そのままこちらへ突っ込んでくる。
「トリスタン!助けて!」
真後ろで剣を振るうトリスタンに叫んでみたが、声は届かなかった。その間にも、化け物は接近してきている。
——自力で何とかするしかない。
私は覚悟を決めた。
すぐトリスタンに頼ろうとしてしまうのは、私の悪いところだ。今は化け物狩り部隊の一員として戦場に立っているのだから、彼に頼るなど許されないことである。新米だとか、初めての戦場だとか、そんなことは関係ない。
「やるしか……ない」
独り言のように呟いた後、身構える。
こちらへ迫りくる狼型化け物とは、もう数メートルほどしか離れていない。私に与えられた猶予は、長く見積もっても十秒くらいだろう。
化け物が近づく恐怖が全身を駆け巡る。
けれど、これはただの危機ではない。危機は危機でも、ある意味ではチャンスなのだ。ここまで近ければ、私の光球はほぼ確実に当たる。
「お願い。当たって!!」
私は半ば神頼みのような発言をしながら、赤の光球を再び撃ち出す——つもりだった。
しかし、放たれたのは光球ではなく、光線。
炎のように赤く、目が痛むほどに眩しい。そして、太い。ダリアで巨大蜘蛛の化け物に襲われた時に、奇跡的に放ったあれに似ている。
そしてその光線は、気づけば、目の前の狼型化け物に突き刺さっていた。
「え……?」
思わず情けない声を漏らしてしまう。思っていたものと違うものが出たからだ。
襲いくる化け物は退けられた。
ただ、化け物を退けられたことよりも、光球でなく光線が出たことの方が驚きである。
そこへ、敵を斬り終えたトリスタンが戻ってくる。
白色が美しい帝国軍の制服をまとい、長い金の髪をなびかせる彼は、戦いの直後とは思えぬ涼しい顔だ。若干息が乱れていることを除けば、普段とほぼ変わらないと言ってもおかしくはない。
「やったね、マレイちゃん」
彼はさりげなく褒めてくれた。
こうして褒めてもらえると、やはり嬉しい。実力ではなく奇跡だと分かってはいても、嬉しいことに変わりはない。
「ありがとう、トリスタン」
「感謝されるほどのことじゃないよ」
私が感謝の意を述べると、トリスタンははにかみ笑いを浮かべる。
いつもの穏やかな笑みとはまた違った雰囲気があって、これはこれで魅力的だと思った。
そんなことで安堵したのも束の間。
またしても狼型化け物が現れた。数は先ほどより少ないが、威嚇する表情の迫力は凄まじい。
「まだ来るの!?」
「マレイちゃん、落ち着いて。動きは把握したから、もう大丈夫だよ」
やはりトリスタンは冷静だ。
だが、息があがっているのが、どうしても気になってしまう。
あれだけ動いたのだから当然と言えば当然なのだが、呼吸が乱れているというのは、どうしても不安な気持ちになる。
「まだ戦える?」
背中合わせに立ちながら、背後の彼に向けて尋ねてみた。
すると彼は、真剣な表情で頷く。
「問題ないよ。僕はまだいける」
白銀の剣の、細く長い刃には、薄紫色をした粘液がこびりついている。恐らくは化け物を斬った時に付着したものだろう。
「だからマレイちゃんは、自分の身を護っていて」
「トリスタンの援護は?」
「大丈夫。狼型となら、僕一人でも十分戦える」
はっきりと述べるトリスタン。
しかし私の心には不安が渦巻いている。トリスタンがやられたらどうしよう、なんて必要のない不安が、湧き上がってきて仕方ない。
けれど、止めるわけにはいかないのだ。
化け物と戦うことは、トリスタンの仕事。だから、たとえ不利であったとしても、そんな理由で引き留めるというのは違う。「戦うな」と言うことは、「働くな」と言うことと同義なのだから。
「……分かったわ。でも、気をつけて」
念のため言っておく。
これは、彼が必要としている言葉ではないだろうが、私にはこれくらいしか思いつかなかったのだ。
「うん。ありがとう」
するとトリスタンは、そう言って、ほんの少し笑みを浮かべる。ほんの少し恥じらうような、繊細な表情だ。
そして彼は、剣を抱え、再び戦いの場へと飛び出す。
私は、言葉では表し難い不安を抱きながらも、トリスタンを見送った。彼ならきっと大丈夫。そう信じて。
- Re: 暁のカトレア ( No.45 )
- 日時: 2018/06/18 21:27
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: gF4d7gY7)
episode.40 緑の女と空飛ぶ少女
白銀の剣を手に、トリスタンは化け物を確実に切り裂いていく。その華麗な動きといったら、彼の美しい容姿と相まって、まるで神聖な舞のようだ。
私は言葉を発することなく、彼の戦う姿を見守っておく。
そんな時だった。
狼型化け物の一体が、彼の背後に迫る。
「トリスタン!危ないっ!」
私は半ば無意識に叫んだ。
その声を聞き、トリスタンは振り返る。しかし、間に合わない距離まで接近されていた。
このままではトリスタンが怪我をする、と思い、私は咄嗟に右腕を伸ばす。そして光球を放つ。
放たれた深紅の光球は、狼型化け物の足下を掠める。化け物の意識がこちらへ向く。
……よし!
今度は私が危険な状況に陥っていることは間違いない。だが、既に何体もの化け物を相手にしているトリスタンがさらに背後から狙われるよりかは、ましだろう。
狼型化け物は、目標を、トリスタンから私へと変える。
「マレイちゃん!?」
私の方へ向かう狼型化け物の姿を見、トリスタンは驚きの声をあげた。信じられない、といった風に目を見開いている。
「こっちは大丈夫!」
根拠のないことを叫んだ。
私は弱い。大丈夫な保証など、どこにもありはしない。それでも私は、迷いのないはっきりとした声で言った。
第三者には馬鹿だと笑われるかもしれない。ただ、それが今の私にできるすべてだったのである。
それからどのくらい経っただろう。どこからともなく、カツンカツンという足音が聞こえてきた。
「見つけたわよ。マレイ・チャーム・カトレア」
振り返ると、女性の姿が視界に入った。
蛇のようにうねった緑色の髪。黒いボディスーツに包んだ凹凸のある体。全身から溢れ出るミステリアスな色気。
間違いなくリュビエだ。
「リュビエさん……!」
トリスタンはまだ気づいていない様子である。
「久しぶりね」
「……何のご用ですか」
私は身を固くしつつ、低い声で尋ねる。
彼女はどんな手を使ってくるか分からない。だから、ほんの一瞬さえ警戒を怠るわけにはいかない。
「マレイ・チャーム・カトレア。今日は覚悟してもらうわよ」
「狙いは……私?」
「そうよ。あのゼーレとかいう馬鹿が何度も逃すものだから、ボスがお怒りなの。だからあたしがこうして迎えに来たってわけ」
リュビエは不満げに話す。ゼーレが私を捉え損ねたことに苛立っているのだろう。
「さ。一緒に来てちょうだい」
「お断りします」
「ふん。そう言うと思ったわよ」
リュビエへの警戒は続けたままで、後ろのトリスタンを一瞥する。
距離がそこそこあるため詳しくは見えないが、どうやら、まだ狼型化け物と戦っているようだ。
「だから、強制的に連れていくわ」
彼女は長く美しい指のついた手を、私がいる方に向けて出す。
すると、それを合図として、細い蛇の化け物たちがこちらへ向かってくる。一匹一匹は細いが、数が凄まじい。
ゼーレの蜘蛛に比べればまだましだが、かなりえげつない光景だ。
「強制できるものではありません!」
私は敢えて強気に言い放つ。
そして、右手首の腕時計から、赤い光球を撃ち出した。
「来ないで下さい!」
トリスタンの力を借りられない危険な状況にあるからというのもあってか、光球はそこそこの威力を持っていた。
次から次へと迫りくる蛇たちを、光球は、確実に潰していく。
「あらあら。少しはやるようになったわね。でも……、その程度では、あたしからは逃れられないわよ」
見下したような笑みを浮かべつつ述べるリュビエ。
「いいわね」
冷ややかな声を放ちながら、次はリュビエ本人が私へと迫ってくる。
細い蛇は何とか倒せた。しかし、私一人で彼女を倒すというのは、恐らく不可能だろう。なんせ、彼女の戦闘能力は未知数で、しかも、ゼーレのような隙が見当たらないのだ。勝ちようがない。
ただ、このまま大人しくしていては、本当に連れていかれてしまうことだろう。それは避けなくてはならない。
「マレイ・チャーム・カトレア、覚悟なさい!」
よりによって一対一。
なんてついていないのだろう。
「……っ」
リュビエが目前まで迫る。
このままでは確実にやられる——そう思った時だった。
「マレイちゃん!いくよっ!」
ちょうど私の真上辺り、上空から、愛らしい女声が聞こえてきた。
そして数秒後。
桃色に光る小さな弾丸が、リュビエに向けて、大量に降り注いだ。
「何事!?」
降り注ぐ弾丸に素早く気づいた彼女は、咄嗟に後ろへ下がる。
素早い判断と動作によって、リュビエは、降り注ぐ弾丸の多くをかわした。だが、さすがにすべてを避けることはできず、いくつかだけ食らってしまったようだ。
被弾したリュビエが静止している間に、一人の少女が舞い降りてくる。
天使のように地上へ降り立ったその少女は、フランシスカだった。
「えっ!フランさん!?」
「マレイちゃん、怪我はないっ?」
ミルクティー色の柔らかな髪に、整いつつも浮世離れはしていない愛らしい顔立ち。
見間違えるはずがない。彼女はフランシスカだ。
しかし、彼女がなぜここにいるのか、疑問でしかない。彼女は今夜は非番だったはずなのである。それなのに今ここにいるのは、おかしい。
「フランさんがどうしてここに!?非番なんじゃ……」
すると彼女は、軽やかな口調で返してくる。
「マレイちゃんのことだからピンチになるだろうと思って、こっそり見てたんだよっ。やっぱりピンチになったね」
グサリと刺さる発言に、何とも形容し難い、複雑な気持ちになった。
「でも、もう大丈夫!安心して!怪しいやつはフランが叩きのめしてあげるからっ」
フランシスカは、屈託のない笑顔で、意外と過激なことを言う。彼女らしいと言えば彼女らしいが、リュビエを不必要に刺激してしまいそうなところは不安だ。
ただ、トリスタンがこちらへこれない今、フランシスカの存在はかなり大きいと思われる。
フランシスカの強さは知らない。だが、私一人でリュビエに挑むよりかは、ずっとましなはずだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.46 )
- 日時: 2018/06/20 22:10
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: lDBcW9py)
episode.41 続く戦闘
「伏兵を忍ばせていたとは。なるほど、だから余裕があったのね。マレイ・チャーム・カトレア、お前……少しは考えたってわけね」
「何それっ。フラン、伏兵とかじゃないし!」
リュビエと対峙するフランシスカの細い右手首には、私やトリスタンと同じように、腕時計が装着してあった。
「フランが来ていたのは、あくまでフランの意思!マレイちゃんを卑怯者みたいに言わないで!」
謎に満ちたリュビエが相手であっても、フランシスカは躊躇いなくはっきりと物を言う。思ったことをこうもストレートに言えるというのは、ある意味、一種の才能かもしれない。
「そうね、べつにどちらでも構わないわ。これだからこう、ということは何もないもの」
蛇のようにうねった緑の髪を揺らしながら、リュビエは、私たちの方へ歩みを進めてくる。
その様子を見たフランシスカは、小さな光る弾丸を、リュビエに向けて大量に放った。先ほどフランシスカが上空から放ったものと、同じものだと思われる。
しかしリュビエはしっかりと対応した。
大型の蛇の化け物を召還し、それを盾のように利用しつつ、フランシスカへ接近する。
「それはもう見たわ」
冷ややかな声で言い放ってから、リュビエはフランシスカに接近する。
「邪魔者は消えなさい」
「は?フラン、邪魔者じゃないけどっ!?」
リュビエは蹴りを繰り出す。
フランシスカは、両腕を胸の前で交差させ、リュビエの蹴りを防いだ。だがかなりの威力だったようで、顔をしかめている。
「お前、あまり強くないわね」
「何でそんなこと言われなくちゃなんないの!?」
「あたしはただ、純粋な感想を述べたまでよ」
リュビエとフランシスカでは、女性同士とはいえ、結構な体格差がある。
フランシスカとて小柄というわけではないが、女性らしく、愛らしい背丈だ。対するリュビエは背が高い。ハイヒールであることを除いても、フランシスカよりはずっと高身長に違いない。
だから、肉弾戦になれば、リュビエの方が明らかに有利であろう。
「消えてちょうだい」
リュビエは、背筋が凍りつくような冷ややかな声で、短く言った。
そして、先ほどまで縦のように扱っていた大蛇を、フランシスカに向かわせる。その勢いは凄まじい。
彼女は恐らく、邪魔者であるフランシスカを本気で潰しにいくつもりなのだろう。
「舐めないでよね!」
大蛇が迫ってきても、フランシスカは怯まない。
二本の指を速やかに腕時計へ当て、桃色に輝く武器を二つ取り出した。
その武器というのは、若干薄くなったドーナツのような形をしている。円盤の中心を円形にくり抜いたような武器だ。小さめなことを考えれば、飛び道具だろうか。
「それっ!」
フランシスカは両手に一つづつ持った武器を投げた。
円盤の中心を円形にくり抜いたような形のそれは、彼女の手から離れると、軽やかに宙を飛ぶ。そして大蛇へと向かっていく。
そして数秒後。
ドーナツ型をしたフランシスカの武器は、大蛇の体を傷つけた。ダメージを受けた大蛇は、呻くように、苦しそうに、うねうねと動いている。
さほど大きくはなく、薄くて軽そうなため、威力自体はあまりないだろうと予想していた。しかし、その予想は誤りであったのだろう。というのも、大蛇は結構なダメージを受けた様子だったのである。
「まだまだっ」
大蛇を傷つけた二つの武器は、ブーメランのように弧を描き、フランシスカの手元へと戻ってくる。彼女はそれを、すぐに、もう一度投げた。
だが、対象は先ほどと異なる。
次なる目標は、リュビエ本人だった。
既に十分なダメージを与えることができた大蛇は放っておいても問題ない、と判断したのだろう。
——しかし、リュビエは焦らない。
焦るどころか、余裕のある笑みを口元に湛えていた。
「無駄よ」
リュビエは一度高くジャンプし、宙へと浮いて、フランシスカが投げた武器をかわす。背があるわりには身軽だった。
そして、大きく一歩を踏み込む。
一気にフランシスカへと近づき、高いヒールのついたブーツを履いた足で、フランシスカを蹴る。
フランシスカは、一応リュビエの動きを読んではいた。
だが予想以上の速度だったらしく、防ぎきれない。
「……あっ」
フランシスカの腹部に、リュビエのヒールが命中する。
「いっ……」
「もう大人しくしていてちょうだいね」
その勢いに乗り、リュビエはフランシスカを蹴り飛ばす。蹴られた彼女の体は吹き飛び、軽く数十メートルは離れた場所の大きな樹に激突する。
信じられないくらい、凄まじい威力の蹴りだった。
食らってはいない——ただ近くで見ていただけの私にでさえ、その圧倒的な力は分かる。あんなものをまともに食らえば、すぐには立ち上がれないことだろう。
蹴りを受けたのが私だったら。
考えてみるだけで、恐ろしくてゾッとする。
「これで邪魔者は消えたわね」
リュビエはどうやら、フランシスカにはまったく興味がないらしい。蹴り飛ばした後、飛んでいった彼女に目をくれることは一切なかった。
今、リュビエの意識は、完全に私へ向いている。装着されたゴーグルのせいで目元は露出していないが、リュビエは、間違いなく私の方を見据えていることだろう。
ぞわぞわするほどのただならぬ威圧感を感じることを思えば、視線を向けられていることは確実と言って、差し支えないと思われる。
——ちょうど、その時だった。
「マレイちゃんっ!」
後ろからトリスタンの叫び声が聞こえてくる。狼型化け物をようやく殲滅しきり、こちらへ戻ってきたのだろう。
帝国軍の制服である白い衣装を身にまとった彼は、華麗な身のこなしで、私とリュビエの間に入った。
絹糸のような滑らかな髪も、穢れのない白色の衣装も、握っている剣の長い刃も。すべてが薄紫色の粘液で汚れている。薄紫色の粘液というのは、私が母を失ったあの夜も見た、化け物を斬った際に出る不気味な液体だ。
言うなれば、薄紫色の粘液は、化け物と戦った証である。
「マレイちゃん、怪我はない?」
「えぇ。何とか。フランさんが来てくれたおかげよ」
私は正直に話した。
今こうして負傷せずにいられているのは、間違いなく、フランシスカのおかげだ。
「フランが?そっか。でも、マレイちゃんに怪我がなくて良かった」
「私一人だったら危なかったわ」
「だね。でもフランじゃ心もとなかったんじゃない?ここからは僕が君を護るから、もう安心してくれていいよ」
安心なんて、そう簡単にできるわけがない。
トリスタンの強さを疑うわけではないけれど、彼は、ここまでの戦闘によって疲労しているはずだ。まだほとんどダメージのないリュビエと戦い、絶対に勝てるという保証は、どこにもない。
「あらら、今度は騎士さん?本当に、厄介なのがいっぱいね」
片手を口元へ添え、わざとらしく述べるリュビエ。
彼女はまだまだ余裕がありそうだ。
「そこを退いてはもらえないかしら」
「退かないよ」
「ま、そうよね。……仕方ない」
ならば、と彼女は続ける。
「騎士さんごと確保するまでよ」
リュビエは、トリスタンもろとも私を捕らえるつもりのようだ。
そんなことが可能とは思えない。だが、もし仮に秘めた力があるのだとすれば、可能なのかもしれない。
- Re: 暁のカトレア ( No.47 )
- 日時: 2018/06/22 15:26
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 9j9UhkjA)
episode.42 いいことを思いついたわ
トリスタンと向かい合うリュビエの腕から、唐突に、一匹の蛇が発生する。銅のような赤茶色をしたその蛇は、ぐんぐん伸び、やがて一本の杖となった。一メートルくらいの長さの、細い杖だ。
白銀の剣を構えたまま、トリスタンは眉を寄せる。
リュビエは完成した杖を片手に握り、ふふっと口元に笑みを湛えつつ、改めてトリスタンの方を向く。
「騎士さんは剣を持っているものね、あたしも武器がなくちゃ」
だからといって自力で武器を作り出すとは。
もはや人になせる業ではない。
「だから杖ってわけだね」
「そうよ」
余裕のある声でそう言い、すぐに一歩踏み出すリュビエ。トリスタンは咄嗟に防御の体勢をとる。
——数秒後。
場に、かん高い音が響く。
「剣と剣では、面白くないもの!」
リュビエは握った杖で、トリスタンに襲いかかっていた。
しかしさすがはトリスタン。剣の刃部分で、リュビエの杖を、確実に防いでいた。一瞬にして迫られたにもかかわらず、である。
あれだけ細いものをしっかりと防いだトリスタンの能力に、私は正直感心した。
「防ぐとはやるじゃない?」
「こういう攻防は慣れているからね」
だが一度で諦めるリュビエではない。
彼女は隙をみて距離をとり、そこから、再び仕掛けていく。
剣と杖が触れる度、カァン、と高く鋭い音が鳴る。鼓膜をつんざくような痛々しい音の連続に、私は、思わず耳を塞ぎたくなった。それほどにうるさい。
しかし、当の二人——リュビエとトリスタンは、そんな音など微塵も気にしてはいない。
もっとも、正しくは「気にする暇などない」なのかもしれないが。
「トリスタン!無理しちゃ駄目よ!」
私は背後から叫ぶ。
彼が本当は疲れているということに気づいていたからだ。
トリスタンは、涼しい顔で、リュビエとやり合っている。一見本調子なように見える様子だ。
だが、それは違う。
これまで幾度も彼の戦いを見てきたからこそ分かることだろうが、今の彼は、かなり疲労が蓄積してきている。息の仕方や足取りを見れば、ほんの一瞬で分かるのだ。
「大丈夫だよ、マレイちゃん」
リュビエと剣を交差させていたトリスタンは、数歩退いてそう答えた。汗は額から頬へと流れ、肩で呼吸をしている。剣を扱う動作自体はそれほど変わっていないようにも見えるが、疲労が感じられるところが心配だ。
狼型化け物との長い戦闘を終えてからの、リュビエとの交戦。これはトリスタンでも厳しいものがあるかもしれない。
「まだまだいくわよ!」
距離をとり少しほっとしたのも束の間、リュビエはトリスタンへと向かってくる。トリスタンに回復の時間を与えはしないつもりなのだろう。
「受けてたつよ」
再び仕掛けてくるリュビエに気づいた瞬間、トリスタンの目つきが鋭く変化する。
そして、かん高い音。
リュビエの杖とトリスタンの剣先が触れ合ったのだ。二人の戦闘が、再度始まる。
私はその様子を、ただ見守ることしかできなかった。
一度は、赤い光球でトリスタンを援護することを考えてもみた。だが、逆に彼に迷惑をかけてしまいそうな気がして、実行はできなかった。それでなくともギリギリの戦いだ。ほんの少しの手出しがトリスタンを不利にするかもしれない。そう考えてしまい、私は助力することを諦めた。
今私が彼のためにできるのは、彼の足を引っ張らないこと。そして、彼の弱点とならないこと。
もはや、それしかない。
それからしばらく、リュビエとトリスタンの戦いは続いた。
どちらかが圧倒的に強いといったことはない。そして、二者とも、まったくと言って過言ではないほど引かない。だから終わりがこない。
だが、少し距離をとって見ている私には、トリスタンの方が追い込まれつつあるのだということが分かる。というのも、剣の振りにいつものような切れがないのだ。そして、速度も若干遅いように感じられる。
一方リュビエは、まったくと言っていいほど、疲れの色を見せない。
ハイヒールのブーツを履いているにもかかわらず、しっかりとした踏み込み。力強さのある落ち着いた足取り。杖の操り方も安定している。
「ちょっと遅れてきたわね」
激しい攻防を繰り広げながら、リュビエはそっと呟いた。
それを聞いたトリスタンは、少々、眉間のしわを深くする。
「もうそろそろ体がきついかしら」
「…………」
「答える余裕すらないみたいね」
トリスタンが弱りつつあることを見抜いたリュビエは、攻勢を一気に強める。彼女の動作が、ここにきて、また一段と速まった。
「……くっ」
何とかさばきつつ、声を漏らすトリスタン。彼の表情に余裕の色はない。追い込まれてきている自覚はあるようだ。
ただ、だからといって諦めるトリスタンではない。
「無理はしない方が体のためよ」
「……うるさいよ。余計なお世話」
トリスタンは険しい顔つきで返した。
その様を見たリュビエは、愉快そうに口を動かす。
「生意気な騎士さんね。でも——」
彼女は言葉を一旦切った。
そして、銅のような赤茶色の杖を、大きく振り上げる。
「これでおしまい」
色気のある唇が動いた。
そして、その直後に杖が振り下ろされる。
「……しまった」
焦った顔で呟くトリスタン。
そんな彼の額を、リュビエの杖の先が殴った。
「——っ!」
白銀の剣がトリスタンの手から落ちる。彼は殴られた痛みに、暫し身動きをとれなくなった。両手を殴られた額に当て、彼は苦痛の息を漏らす。
「トリスタン!!」
私は思わず叫んだが、彼からの返事はなかった。
意識がないわけではなさそうなので、強い痛みによって返事ができないものと思われる。
「ふふ。良いことを思いついたわ」
突然リュビエが独り言を言い出す。
何事かと訝しんでいると、彼女は急に、トリスタンの脇腹辺りを蹴った。痛む額に集中していた彼は、無防備なところを狙われ、地面に倒れ込む。
フランシスカの時とは違って吹き飛びはしなかったが、これはこれで痛そうだ。
「考えてみれば……マレイ・チャーム・カトレアだけがすべてではないわよね」
地面に伏したトリスタンの背を、リュビエは強く踏みつける。走る痛みにトリスタンが身をよじっても、彼女は足の力を弱めたりはしない。むしろ、さらに強めるくらいだ。
「いいことを思いついたわ。これは名案ね」
ふふっ、と楽しそうに笑いながら、リュビエはそんなことを呟く。
妖艶さのある唇に、大人びた声色。それらが、彼女の不気味さを、余計に高めていた。
- Re: 暁のカトレア ( No.48 )
- 日時: 2018/06/23 05:48
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: hZy3zJjJ)
episode.43 蒼い夜
地面に伏したトリスタンの背を、リュビエは躊躇いなく踏みにじる。彼女は楽しんでいるようにさえ見えた。トリスタンを倒したという満足感に満ちているのかもしれない。
「マレイちゃ……ん、逃げて」
地面に押さえつけられたまま、トリスタンは言った。
絞り出すような声は、聞くだけで胸が痛む。それと同時に、無力さを改めて突きつけられた気がして、心の中にある「情けない」という気持ちが、どんどん膨らんでいく。
「優しいのね。騎士さんは」
リュビエは片手を口元へ添え、くすくすと控えめに笑った。
上品な笑い方ではあるが、その顔には、嘲りの色が濃く浮かんでいる。
それから彼女は、トリスタンの背を踏む足に、再び力を加える。トリスタンの白い背は、徐々に茶色く汚れてきていた。リュビエのブーツの裏についていた土が、トリスタンの衣装にも付着したものと思われる。
「でも、他人より自分の心配をするべきだと思うわよ」
冷ややかに言い放った後、リュビエは、トリスタンの髪の房を掴み、彼の体を持ち上げる。
「……髪を引っ張らないでくれるかな」
「あら、生意気」
「……こんなくらいじゃ、生意気とは思えないんだけどね」
トリスタンの、先ほど杖で殴られた額には、切り傷ができていた。さほど深そうではないものの、傷からは多少血が流れ出ている。痛そうに見える。
「黙ってちょうだい」
リュビエは声を強めた。
それから彼女は、トリスタンの首元に、小さな蛇を這わせる。
「止めて!」
小さな蛇を目にした瞬間、私は叫んだ。
前のことを思い出したからだ。
あの時の小さな蛇は赤かった。しかし、今トリスタンの首元を這っている蛇は、赤ではなく、暗い緑色をしている。色の気味悪さから言えば前の赤の方が上だが、今回のものも油断はできない。
「……何なの?マレイ・チャーム・カトレア」
彼女はゆっくりとこちらへ顔を向ける。
純粋に鬱陶しいと思われていそうな感じだ。
「トリスタンに何をする気ですか!」
「そんなこと、お前には関係ないでしょ。黙っていてちょうだい」
「関係はあります!」
前にも誰かに、こういうことを言ったことがある気がするが、それがいつだったか今は思い出せない。
いや、思い出す必要もないだろう。そんなに大事なことではない。
「リュビエさんの狙いは私なのですよね?だったら、どうしていつもトリスタンに手を出すんですか。私を直接狙えばいいでしょう!」
「お前、案外愚か者ね。邪魔者を放っておけるわけがないじゃない」
——愚か者、か。
確かにそうかもしれない。私は愚か、それは一つの真実だ。
口では頑張る頑張ると言っておきながら、ろくに戦えず、周囲に迷惑をかけるだけ。フランシスカやトリスタンを巻き込み、痛い目に遭わせて、そのくせ自分だけは無傷でいる。
「お前が大人しくあたしに従えば、誰も巻き込まれずに済んだのよ。全部お前のせいよ、こんなことになったのは」
リュビエはトリスタンは担ぎ上げる。
トリスタンは、意識はあるものの、抵抗するほどの力はないらしい。浅い呼吸をしながら、私の方を見つめている。
「トリスタン!待ってて、今助けるわ!」
私はすぐに、指を腕時計の文字盤へ当て、右腕をリュビエの方へ向けた。
そして、赤い光球を放つ。
しかしリュビエには当たらなかった。
彼女が素早く生み出した大蛇が光球を防いだからだ。
ダリアで巨大蜘蛛の化け物を倒した時のような、光線。あれが出せたなら、大蛇を貫き、リュビエにまでダメージを与えられたかもしれない。だが、リュビエが私に攻撃の意思を抱いていないせいか、あれほどの力は出せなかった。
巨大蜘蛛の化け物の時みたいな力を発揮するには、もっと、私自身が危険な状態に陥らなくてはならないのだろう。
私は何とかトリスタンを取り戻そうと、大蛇に向けて赤い光球を何度も放った。数回の内に大蛇は倒せ、塵にすることができたが——時既に遅し。
リュビエとトリスタンは消えていた。
「……そんな」
場に一人残された私は、誰もいないその空間を、信じられない思いで見つめることしかできなかった。
トリスタンがいなくなった。
その事実を理解できず、ただひたすらに、呆然として立ち尽くす。
「どうして」
ダリアで初めて出会ったあの日から、ずっと変わらず優しくしてくれたトリスタン。彼は私を、新しい世界へ連れ出してくれた。それからも、護ってくれて、傍にいてくれて、いつだって私を理解しようとしてくれて。
彼は良い人だった。
なのに、そんな善人の彼が、私のためにリュビエに連れていかれてしまうなんて。
『お前が大人しくあたしに従えば、誰も巻き込まれずに済んだのよ』
真っ白になった頭に、リュビエの冷ややかな言葉がこだました。
なぜ彼が。
そんな思いが、胸の内に、少しずつ広がっていく。
ちょうどその時。
耳に飛び込んできた声に、私は正気を取り戻す。
「マレイちゃん!どうなったの!?」
「フラン……さん」
「え?え?トリスタンは?」
フランシスカはトリスタンの姿がないことに戸惑い、きょとんとした顔で辺りを見回している。
リュビエに蹴り飛ばされたわりには元気そうだった。
「あの女もいないし。これ、どうなってるのっ?」
フランシスカは、睫毛のついた愛らしい目をパチパチさせながら、尋ねてくる。まだ状況が飲み込めていない様子だ。
「トリスタンは……リュビエに」
私は説明しようと言葉を紡ぐ。
だが、その唇さえ震え、言いたいことが上手く言えない。
「えっ?マレイちゃん、今何て言ったの?」
「リュビエに……」
その先が言えない。
一部始終を見ていた私がフランシスカに状況を説明するのは、当然のことだ。仲間なのだから、分かっていることはすべて話すべきだと思う。
けれども、口が動かなかった。
私の情けなさを明らかにするかのように思えて。
「マレイちゃん?」
フランシスカの柔らかな髪から漂う甘い香りさえ、今は悲しい気持ちを掻き立てる。
「どうしたの。そんなにぼんやりしてたら、かっこ悪いよ?」
「ごめん……なさい」
半ば無意識に、私は地面にへたり込む。
脚が震えて、真っ直ぐ立っていられなくなったのである。
「ごめんなさい」
傍にいることが当たり前。いつでも話せることが普通。
心のどこかで、そう思っていたのかもしれない。だから、今私は、こんなにもショックを受けているのだろう。
失って初めて大事さに気づく、とは、こういうことを言うに違いない。
記念すべき初陣の日。
初めての夜は、大切な人と引き離される痛みを思い出す、悲しい夜となった。
- Re: 暁のカトレア ( No.49 )
- 日時: 2018/06/24 05:17
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: hZy3zJjJ)
episode.44 有るのか無いのか
あの後の記憶がない。
気づいた時には、既に、基地内へ戻ってきていた。
付き添ってくれていたフランシスカによれば、私は、ぼんやりとしてはいたものの歩いて基地まで帰ってきたらしい。気を失ったり倒れたりはしていないようだ。
にもかかわらず記憶がないのはなぜなのか……。
それは一つの大きな疑問だ。
けれども、今はそんなことよりも、リュビエにさらわれたトリスタンの身を案じることの方が、必要なことである。トリスタンがどんな目に遭わされるか分からないから。
トリスタンが連れていかれてから、ちょうど一日が経過した夜。
「マレイちゃん、会いに来たよっ」
一人自室でどんよりとした空気に包まれていると、何の連絡もなく唐突に、フランシスカがやって来た。恐らく、精神的に落ちている私を心配して、会いに来てくれたのだろう。
「……フランさん」
寝巻きのままベッドにもたれかかっている私を見た瞬間、彼女は目の色を変える。
「どうしてそこなの!?」
フランシスカは当たり前のように室内へ入ってくる。
そして、ぼんやりしている私に接近すると、立つように促してきた。
「せめてベッドの上で休みなよ!ほら、立って。ねっ?」
「ここが落ち着くの……」
「駄目駄目!そこじゃ休まらないよっ!」
いや、ここが気に入っているのだが。
「ちゃんと立って、ベッドの上に移動してっ」
フランシスカはかなり厳しい。従わない限り、永遠に言われ続けそうな気すらする。
だから私は、ついに妥協し、立ち上がった。
言われるままに、ベッドの上へと移動する。
「トリスタンがいなくなったのがショックなのは分かるよ?でも、それでマレイちゃんが自暴自棄になるのは駄目。トリスタンがそんなことを望むわけがないのは、分かるよね?」
彼女はなぜこうも上から目線なのだろう。
「……分かるわ」
私は、小さな声で返し、ベッドに横になる。
横になった方がいい空気だったからだ。
それから暫し沈黙があった。
フランシスカは、私が横になるベッドの傍で、何も言わずにじっとしている。いつもは活発でお喋りな彼女が大人しいと、不気味な感じさえした。
そんな不気味な中で、私から話を振るというのは難しい。だから私も、ベッドに横たわったまま、口をつぐんだ。
そして、沈黙はまた続く。
——どのくらい経っただろうか。
二人きりの沈黙に耐えられなくなった私は、ついに口を開く。
「トリスタンは……どこへ行ってしまったの」
彼女の聞いたところで、トリスタンの行方が判明するわけもない。聞くだけ無意味なことだ。しかし、思いつく話題がこれくらいしかなかったので、この話題を選んだのである。
「フランに聞かれても分かんない」
「そうよね……」
なんとなく気まずい空気になってきた。
フランシスカは、あまりご機嫌ではなさそうだ。
「グレイブさんがゼーレのところへ行くって言っていたから、情報を聞き出してくるんじゃないかな」
その言葉を耳にした瞬間、それまですっかり忘れていたゼーレの存在を思い出した。
「そうだ!ご飯!」
よく考えてみれば、今日一日彼に会っていない。一度も食事を持っていっていないことに気づき、青ざめる。お腹を空かせて弱っていたらどうしよう、と思ったからだ。
私は慌てて状態を起こし、転がるようにベッドから下りる。
その様を見たフランシスカは驚いた顔をして言う。
「ちょっと、いきなり何っ!?」
目を見開き、口をあんぐりと空けている。よほどびっくりしたらしく、可愛くおしゃれな彼女には似合わない、情けない顔つきをしていた。
「ゼーレの食事!」
「え?え?」
「持っていって、食べさせないと!」
速やかに靴を履き、部屋から出ようとした時、フランシスカが私の片腕を掴んだ。
「待って、マレイちゃん。そんなに慌てないで」
早く行きたい衝動をこらえ、フランシスカへと視線を向ける。
すると、彼女の真剣な表情が見えた。
華やかな睫毛に彩られた瞳が、こちらを真っ直ぐに見据えている。心配しているような色がほんの少し滲み、しかし曇りのない瞳。それはまるで、トリスタンの瞳のようだった。
「牢番の人があげてるから、多分大丈夫だって!マレイちゃんが無理することないよっ!」
私は何も言い返せない。
フランシスカとトリスタンが重なって見えたからだ。
「……そうね」
私は大人しく引き下がった。
地下牢にいるゼーレの様子が気にならないと言えば嘘になる。だが、フランシスカを振り払ってまで彼に会いにいく気にはならない。
「ゼーレだって、マレイちゃんに会いたいとか思ってないって!」
グサッ。
何かが胸に突き刺さる、鈍い音が聞こえた気がした。
「そう。そうよね」
私は呟く。自分を納得させるように。
……いや。そもそも、「ゼーレは私に会いたいと思っていない」ということに納得できない心が存在する理由が、まったく分からないのだが。
そこへ、フランシスカが突っ込んでくる。
「どうして残念そうな顔してるのっ?」
純真な眼差しを向けられた。
しかもきわどいところを突いてくる。
「もしかして、ゼーレに特別な感情を抱いているとかじゃないよね?」
お願い、それだけは言わないで。
そんなことはあり得ないし、許されたことではない。
「まさか」
私はフランシスカの丸い瞳を、迷いなく真っ直ぐに見つめ返す。
「役割だから、ってだけよ。それ以上のものなんてないわ」
ゼーレは敵。あの夜、私からすべてを奪った、最大の敵だ。
生まれ育った村を焼いた彼を、人々や私の母を残虐に焼き殺した彼を、許すなんて絶対許されないこと。
——そのくらい、分かっているわ。
- Re: 暁のカトレア ( No.50 )
- 日時: 2018/06/26 02:17
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: KnTYHrOf)
episode.45 運命が許さない
結局私はゼーレのところへは行かなかった。というのも、夜が明けるまでずっと、フランシスカが私の部屋へ居座り続けていたからだ。
彼女の目がある中でゼーレに会いに行きなどすれば、誤解はますます深まることだろう。そんなことになっては堪らない。そして、もしも私がゼーレに情を抱いているなんて噂が広まれば、それこそ私がここから追い出されてしまうことだって考えられる。
特に、擁護してくれそうなトリスタンがいない今は、私の立場が危うくなる可能性が高い。気をつけなくては。
翌朝、フランシスカが自室へ帰ったタイミングを見計らい、私は地下牢へと向かった。朝食の時間でもあるこの時間帯なら、怪しまれもしないだろうから。
太陽が出始めている朝でも、地下牢内は変わらず薄暗い。
不気味な通路を、私は一人で歩いていく。
そして、やがてゼーレのいる牢まで到着すると、軽くノックをしてから扉を開けた。世話係ということで鍵は受け取っている。だから、面倒な手間なく扉を開けられるのだ。
「おはよう」
いつもより明るい声で挨拶する。
ゼーレと二人で顔を合わせる時は、今でもまだ緊張する。何か仕掛けてくるのではないかと考えて、不安になってしまう。
だからこそ、挨拶は明るく。
湧き上がる不安を拭い去れるように。
誰かに言われたわけではないが、個人的に、そう心がけている。
「……懐かしい、声ですねぇ」
私が個室内に入ってから少しすると、ゼーレの声が聞こえてきた。
拘束されたゼーレは、上半身を折り曲げ、地面に横たわっている。これまでは座る体勢のことが多かったため、寝そべっていることには正直驚いた。
「昨日は来れなくて、ごめんなさい」
「べつに。約束などした覚えはありませんが」
相変わらずそっけない。
「確かに約束はしていなかったけれど、でも、ご飯困ったでしょ?」
するとゼーレは、横たわっていた体を起こしながら返してくる。
「一日くらい……どうということはありません。そもそも、そこまで期待していませんから」
冷たくも受け取れそうな言葉だが、私には、彼なりの優しさに思える。
トリスタンがいなくなったショックでおかしくなっているだけかもしれないが。
「大変だったのでしょう?貴女も」
「……えぇ。そうなの。トリスタンが——」
「聞きました」
ゼーレは、私の言葉を最後まで聞くことはしない。
「昨夜はあの黒い髪の女と話をしましたから。彼のことは、その時に聞きました」
「グレイブさんと話したの?」
「えぇ。それはもう、じっくりと」
彼女のことだから、きっと、乱暴な手段も使ったことだろう。ゼーレが昨夜どんな目に遭っていたのか、あまり考えたくはない。
一人暗い気持ちになっていると、ゼーレは口を開く。
「何です、その目は」
「えっ?」
「マレイ・チャーム・カトレア。貴女のその、憐れむような目つきは嫌いです」
そう言って、仮面の下の顔をしかめるゼーレ。
どうやら彼は心配されるのが嫌らしい。心配され慣れていないからだろうか。だとしたら、少し可哀想な気もする。
「それで、何をしに来たのです?食事でもないようですしねぇ。情報を吐かせに来たのですか?」
「吐かせるなんて、そんな言い方しないで。私はただ、ゼーレが元気かどうか、様子を見に来ただけよ」
すると彼は、くくく、と自嘲気味な笑みをこぼす。
「なるほど……、一晩拷問された私がどんな様子かを確認しに来た、ということですねぇ。実に良いご趣味で」
ゼーレは、なぜこうも、ひねくれているのだろう。
私にそんな奇妙な趣味がないことくらい、知っているはずではないか。それなのに彼は、敢えて、私が奇妙な趣向の持ち主であるかのように言う。
どこまでも嫌みな男だ。
「どうしてそんな言い方をするの?」
「そんな言い方も何も、真実ではないですか」
このまま話し合っても平行線になりそうなので、私は話し合うことを諦めた。ひねくれた彼とは、まともな話し合いなど無理だ。
「……まぁいいわ。それで、昨夜は大丈夫だったの?」
「貴女は他人の心配をしている場合ですか」
「どうしてそうなるのよ!」
「私の心配をするくらいなら、トリスタンの身を案じなさい」
ゼーレは座る姿勢を整えながら言う。淡々とした声だが、冷たくは感じない。
「心配して……くれているの?」
もしかして、と思い尋ねてみる。
すると彼はそっぽを向いてしまった。
「馬鹿らしい。そんなわけがないでしょう。まったく貴女は、お人好しですねぇ」
銀色の仮面を装着した顔はそっぽを向いたままだ。彼は私に目をくれようとはしない。
「そうね。でも私、貴方を悪い人とは、どうも思えないの」
憎むべき敵だと頭では理解しているのに、だ。
「貴女がお人好しだからでは?」
吐き捨てるように言われてしまった。
ゼーレはいつもこうだ。あと少しで理解の手が届きそうなのに、もう少しというところで、心の壁で遮ってくる。それは誰だって、心の奥に触れられたくはないだろうが……少しくらい開いてくれても良いのに。
「そうかもしれないけれど……リュビエに無理矢理されている私を助けてくれたでしょ。あの時ゼーレが現れてくれなかったら、私、あのまま腕を折られていたわ」
私が言うと、彼は呆れたように溜め息を漏らす。
「はぁ。助けた覚えはありませんがねぇ」
「助けられたことは事実よ。ありがとう」
「……気持ち悪いですねぇ。トリスタンを失い、気が狂れでもしましたか」
酷い言われようだ。
けれど、もしかしたらそれもあるのかもしれない。
トリスタンと離れてしまった不安から、今度はゼーレに頼ろうとしている——そういうことも考えられる。
「分かっているのですか?マレイ・チャーム・カトレア。貴女が私と親しくするなど、あり得ぬことなのです」
「あり得ないことはないわ。こうして話していれば、いつか分かりあえるかもしれな——」
言いかけた時、ゼーレの声色が急激に鋭くなる。
「馬鹿らしい!いい加減になさい!」
どうしてそんなに怒るのか、私には理解できなかった。
私はゼーレと友好的な関係を築くよう努めている。それなのに、ゼーレはなぜそんなに嫌がるのか。
「トリスタンがいなくなった途端こちらへ擦り寄ってくるのは、止めていただきたいものですねぇ。私は貴女の寂しさを埋めるための代用品ではありませんから」
彼はどこか怒っているみたいだ。
機嫌を損ねるような言動をしてしまったかもしれない。
「それに」
ひと呼吸空けて、彼は続ける。
「私と貴女の関係など、運命が許しませんから」
- Re: 暁のカトレア ( No.51 )
- 日時: 2018/06/27 02:14
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: idHahGWU)
episode.46 連れられた先にて
その頃、リュビエに連れていかれたトリスタンは、見知らぬ場所で目を覚ましていた。
「……ここは」
トリスタンは首を傾げながら、一人呟く。そして、黒い床を撫でてみる。ひんやりとしていた。金属製なのだろうな、とトリスタンは思う。だからどうといったことはないが。
それから彼は、周囲をぐるりと見渡したが、人一人いない。
存在するのはだだっ広い空間と高い天井だけだ。
静寂の中、トリスタンはマレイのことを思い出しているのだろう。自身が育てている大切な人に思いを馳せる彼の瞳は、どこか寂しげな色を湛えていた。
そこへ、一人の女性が現れる。
カツンカツンと足音を立てながら、トリスタンの前まで歩いてきたのは、リュビエ。うねった緑の髪と黒いボディスーツが印象的な女性である。
「目が覚めたみたいね」
「……リュビエ」
執拗にマレイを狙ってきていた女の姿に、トリスタンは険しい表情になる。
彼の整った顔は、黙っていると女神のよう。微笑んでいる時などは天使のよう。けれども今は、そんな柔らかさはない。
「ここは?」
トリスタンはリュビエへ鋭い視線を向け、低い声で尋ねた。
するとリュビエは、ふふっ、と色っぽく笑う。
「興味があるのね。意外だわ」
「そういうのは要らない。質問に答えてもらえるかな」
きっぱりと言い放つトリスタン。
今の彼には、マレイに接する時のような優しげな雰囲気は、欠片も存在していない。顔つきも、声色も、敵と戦う戦士のそれだ。
強気に出たトリスタンに対し、リュビエは威嚇するように言い放つ。
「ほざくんじゃないわよ」
彼女はトリスタンのすぐ近くにしゃがみ込む、彼の顎をクイッと持ち上げる。
「ここがどこか、ちっとも分かっていないようね」
トリスタンはすぐに、彼女の手を払い除けた。
強気な姿勢は崩さない。弱さを見せないよう振る舞い、同時に、今自分が置かれている状況を判断しようとしているのだと思われる。
「だから聞いているんだけどね」
彼らしくない、挑発するような口調だ。
リュビエは挑発を軽くかわし、落ち着いた調子で返す。
「そんな偉そうな口を利ける立場じゃないのよ、お前は。ここじゃお前は一番下。もっと礼儀正しくなさい」
「言っている意味が分からない。僕は僕だよ。自分の好きなように振る舞う」
「お前っ……!」
ここまできて、リュビエはようやく怒りを露わにした。
急激に機嫌が悪くなった彼女は、トリスタンの白い衣装の襟を、乱雑に掴む。女性らしからぬ乱暴な動作だ。
「今からボスのところへ行くのよ!無礼は許されないわ!」
脅すように激しく述べるリュビエ。
しかしトリスタンは、この程度で怖がりはしなかった。
長年化け物のいる戦場に立ち続け、何度も死線を越えてきたのだ。少々大きな声を出された程度では、怯みさえしない。痛くも痒くもない、というやつである。
「君のボスかもしれないけれど、僕のボスじゃない。だから無礼も何もないと思うけどね」
「黙りなさい!レヴィアス人風情が!」
リュビエが吐いた罵声に、トリスタンの表情が変わる。
「レヴィアス人……風情だって?」
直後、トリスタンはリュビエの脚に蹴りを加えた。
襟を掴む手の力が微かに緩んだ瞬間を見逃さず、彼女から距離をとる。
そしてすぐさま、腕時計を着けている左手首へ右手を伸ばす。
——その瞬間、異変に気づく。
「……ない!?」
左手首に間違いなく装着していたはずの腕時計が、こつぜんと姿を消していたのだ。腕時計が無くては化け物とはまともに戦えない。さすがのトリスタンも、焦りを見せる。
彼はすぐに周囲の床へ視線を向けた。落としたのかもしれない、と思ったのであろう。しかし、床にも見当たらなかった。
先ほどまでとは別人のように焦燥感を露わにするトリスタンを見て、リュビエはくすくすと笑う。口元に手を添え笑う様は一見上品にも感じられる。けれども、その笑い自体は嘲りに満ちていて、上品などといったものではない。
「何をそんなに慌てているのかしら?」
「……まさか」
その時になって、トリスタンはようやく気づく。意識がない間にリュビエに奪われたという可能性に。
「まさか、何よ?」
「腕時計は今は君が持っているのかな」
するとリュビエは、突然、高らかに笑い声をあげた。
「何よ、それ!まさかなんて話じゃないじゃない!そうに決まっているでしょ!?」
広い空間に、リュビエのかん高い笑い声が響く。
「何を言い出すかと思えば、それ!?やぁね!武装解除するのは当たり前よ!」
トリスタンは大笑いされる屈辱に何も言い返さず耐えた。ここでカッとなれば相手の思うつぼだと判断したのだろう。腕時計を奪われたことでかなり焦っている彼だが、こんな見え透いた罠にかかるほど未熟ではない。
「腕時計は君が持っているんだね」
「そうよ。だったら?」
リュビエは余裕に満ちた表情で髪を掻き上げる。
身体能力を強化していないトリスタンなど敵ではない、と思っているような顔つきだ。
「……なら、取り返すまで」
トリスタンは固さのある声で述べた。青い瞳は、リュビエの姿だけを捉えている。
「腕時計無しで、あたしとやり合うつもり?無理しない方が良いわよ」
リュビエはトリスタンを見下したように笑う。
しかしトリスタンは落ち着いた表情を崩さない。彼女の姿を真っ直ぐ見据えたまま、戦闘体勢をとっている。
——数秒後。
トリスタンは床を蹴り、リュビエに向かって駆けていく。
「美しい男にだって、あたしは手加減しないわよ」
リュビエは細い蛇の化け物を作り出し、トリスタンを迎え撃つ。
対するトリスタンは、細い蛇の化け物たちを軽やかにかわしていく。そして、あっという間にリュビエとの距離を縮める。
腕時計による身体能力の強化はない。しかしそれでも、能力が高いことには変わりがなかった。
「返してもらうよ」
「身の程知らずはいい加減にしてちょうだい」
こうして、腕時計の無いトリスタンとリュビエの戦いが、幕を開ける。
- Re: 暁のカトレア ( No.52 )
- 日時: 2018/06/28 21:41
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 7hcYnd26)
episode.47 すべてを削いでも、生き残る
命の次に大切と言っても過言ではない腕時計を取り戻すべく、トリスタンは、リュビエに無謀な戦いを挑む。
リュビエの戦闘能力は、人間を遥かに超えている。人間の女性のような姿かたちをしているが、人間ではないということなのだろう。そんな彼女に何の強化もない体で挑むとは、トリスタンらしからぬ無謀さだ。
そんな明らかに不利な状況にあっても、トリスタンは懸命に戦った。怯まず、持てる力をすべて出し、勇敢に向かっていったのである。
——けれども、残念な結果に終わってしまった。
「レヴィアス人風情にしては頑張ったと思うわよ。でも、あたしの相手にはならなかったわね」
リュビエは笑みを浮かべながら、黒い床に倒れ込んだトリスタンの右足首を曲げる。
本来曲がるのとは逆の方向に。
「……くっ」
トリスタンは、その整った顔を歪めた。
額には汗の粒が浮かんでいる。
「力の差は歴然。これに懲りたら、無駄な抵抗は止めることね」
「抵抗は止めない」
「まだ分からないというの?ならばお前が理解するまで痛い目に遭わせてあげるわ!」
鋭く言い放ち、トリスタンの足首を強く曲げるリュビエ。苛立ちも加わっているからか、先ほどよりも曲げ方が大きい。
しかし、大人しく痛めつけられ続けるトリスタンではない。
彼はリュビエに掴まれていない方の脚を反らせ、大きく振りかぶる。そして、遠心力を利用しつつリュビエの喉元を蹴った。
直前で気づいたリュビエは、咄嗟に手を離す。
二人の距離が離れた。
「この期に及んでまだ抵抗するのね」
「言ったはずだよ。抵抗は止めない、って」
トリスタンは速やかに体勢を整え直す。
一つに結われた金の髪がさらりと揺れた。
「馬鹿ね、お前は」
強気な発言を耳にしたリュビエは呆れたように言う。やれやれ、といった雰囲気で、首を左右に動かしている。
「大人しく助けを待つ方が賢いんじゃないかしら?」
「みんなに迷惑はかけられないからね」
「しっかりしているのね。でもそれは、無謀だとしか思えないわ。この飛行艇から自力で逃れるなんて不可能よ」
二人きりの空間に漂う空気は真冬のように冷たかった。そしてもちろん、冷たいのは空気だけではない。金属製と思われる床も、氷のようにひんやりしている。
「仮にあたしを突破できたとしても、逃れられはしないわ。ここにはいくらでも兵がいるもの」
「兵?」
「お前たちが化け物と呼ぶ生き物たちよ」
トリスタンは立ち上がろうとするが、右足首の痛みに、膝を軽く曲げてしまう。しかし彼は挫けない。数秒後には、精神力だけで無理矢理立ち上がった。
「剣のないお前など、牙のない獣も同然。何もできやしないわ」
「それは、やってみないと分からないと思うけどね」
彼の肉体は既にかなりのダメージを受けていることだろう。
細い蛇の雨を浴び、蹴られ、しまいには足首を強く折り曲げられたのだ。ダメージがないわけがない。
今彼がこうして立てているのは、ひとえに、心の強さゆえだと思われる。容姿の繊細な美しさからは想像もつかないような、人を越えた太い心が、彼にはある。
「ならば試してみても良いわよ?」
「初めからそのつもりだったんじゃないのかな」
「ふふ。気づいたことは褒めてあげる」
リュビエがパチンと指を鳴らすと、一面の壁がガガガと音を立てつつ上がった。
そこにいたのは——狼型化け物。
前に戦い、激しい戦闘の末倒したものと、同じタイプの化け物だ。
「これだけ貸してあげるわ」
目の前に現れた数匹の狼型化け物に身構えるトリスタンへ、リュビエは一本のナイフを投げた。彼はよく分からぬままナイフを手に取る。開いた手の手首から指先程度の刃渡りの、決して長くはないナイフだ。
「何のつもりかな」
「あたしからの贈り物よ。何も無しじゃ、すぐに殺されて終わり。そんなのは面白くないものね」
「要らない。心配しなくていいよ、素手でもそう簡単にはやられないから」
ナイフをリュビエへ投げ返そうとするトリスタンだったが、リュビエはそれを制止する。
「贈り物を返すなんて禁止よ。ありがたく受け取っておきなさい」
彼女は黒い笑みをこぼす。
「それにね、単なる好意ってわけでもないのよ。それを使って抵抗すれば、恐怖を覚える時間が増えるでしょう?ボスがそれをお望みなの」
「……ボスが?」
「そうよ。だから精々抵抗することね。その方が、ボスはお喜びになるわ」
「ボス、嫌なやつだね」
トリスタンは吐き捨てるように言った。
「足が潰れるが先か、心が潰れるが先か……楽しみにしているわね」
冷たい空気に満ちた空間の中、狼型化け物たちの瞳は爛々と輝いている。今にも襲いかかりそうな表情だ。戦う気は満々の様子である。
「化け物が潰れるのが先、が有力だと思うよ」
トリスタンはリュビエから受け取ったナイフを握り直す。
目つきは研がれた刃のように鋭い。青い瞳に優しさはなく、それこそ人を捨てたような、そんな顔つきをしている。
腕時計による強化ができない。白銀の剣も使えない。けれども何体もの化け物と戦わなくてはならない。負ければ待つのは死。あまりに厳しすぎる条件が、彼から人の心を奪いつつあるのだろう。
「それじゃ。精々頑張って」
他人事のように言い、リュビエはその場から去っていった。恐らく、巻き込まれないようにだろう。
冷たい場に残されたのは、狼型化け物たちとトリスタンのみ。
「生きて帰る。絶対」
トリスタンは高い天井を見上げて、神に誓いでもするかのように呟く。小さな声だが、そこには、彼の決意のすべてが存在していた。
「早く帰ってマレイちゃんの指導をしないと」
目を閉じて深呼吸をした後、彼は目を開く。その瞳に迷いはなかった。
化け物たちへの恐怖もすべて消え去った。彼にはもはや、恐れるものなど存在しない。
「……待っててね」
トリスタンの口元にうっすらと笑みが浮かぶ。
それは、彼から人の心が消滅しつつあることを映し出す、不気味な笑みだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.53 )
- 日時: 2018/07/01 18:06
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: qRt8qnz/)
episode.48 おやつの時間
あれから何日が経ったのだろう。
トリスタンがいない。ただそれだけのことなのに、胸の内の寂しさは日に日に膨張していく。このままではいつか胸が張り裂けてしまうのではないか、と不安になるほどに。
そんなある日の午後、フランシスカからおやつの時間に誘われた。多分、陰鬱な様子の私を見兼ねて、誘ってくれたのだろう。
私は気が進まなかった。
けれども、せっかくのお誘いだ。断るのも申し訳ない気がする。
食べたり話したりすれば、もしかしたら、少しは楽しい気持ちになるかもしれない。この胸に広がる灰色の雲が晴れるかもしれない。いずれにせよ、参加する意味がまったくない、ということはないだろう。
だから私は、おやつの時間に参加することにした。
フランシスカと一緒に食堂へ向かうと、グレイブとシンの姿があった。
なぜただの審判であるシンもいるのかは不明だ。
「来たな、マレイ」
「マレイさぁぁーん!待ってましたよぉぉーっ!」
「黙れ、シン」
いきなり大声を出したシンは、グレイブに叱られていた。
今に始まったことではないが、彼のテンションの高さは、謎としか言い様がない。
「グレイブさんもいらっしゃったんですね」
私が小さく言うと、彼女は冗談混じりの声色で返してくる。
「もしかして、私はいない方が良かったか?」
「い、いえ!そんなことはっ……!」
慌てて首を左右に振る。
するとグレイブは、愉快そうにくすくす笑った。
彼女の顔立ちは、整い過ぎていて、近寄り難いくらいだ。しかし、こうして笑っていると、いたって普通の女性にも見える。
「慌てるところが可愛いな」
「へ?」
「実に興味深い。さ、とにかく座れ」
グレイブに促され、私は、彼女の向かいの席へ腰掛けた。フランシスカは私の隣に座る。
「せっかくだ、私が貰ってきてやろう。マレイ、何を食べるんだ?」
「えっと……」
「飲み物は確か、レヴィアススカッシュだったな。マレイはレヴィアススカッシュが好きだと、トリスタンから聞いている」
レヴィアススカッシュ、と聞くと、前にトリスタンと二人で飲んだ記憶が蘇った。たわいないことを話し、笑いあう、楽しかった記憶が。
「……はい。前に飲んだ時、美味しかったです」
胸がズキンと痛む。
そこへ、フランシスカが口を挟んでくる。
「あーっ!グレイブさん、思い出させちゃ駄目ですよっ!」
「な、何だと?どういう意味だ」
困惑した顔をするグレイブ。
「トリスタンのこと思い出させたら、マレイちゃんが弱るからっ!面倒臭いから、止めて下さい!」
相変わらずはっきりとした物言いだ。真実なのだが、正直グサリときた。いつものことながら、フランシスカは鋭いところを突いてくる。
「そうか……それもそうだな」
グレイブは納得したように頷いた。
そこへ、シンが大きな声を挟む。
「えっ!えぇっ?何の話ですかぁぁーっ!?」
「黙れ。シン」
グレイブは呆れ顔になりながら、静かな声でシンを制止した。
子どもではないため大声を出したりはしない。だが、その静かな声には、得体の知れない威圧感がある。
シンは黙った。
それから数秒して、グレイブは立ち上がる。
「よし。では飲み物を持ってこよう」
だが、その直後にフランシスカが腰を上げた。明るい声で「フランが行きますっ」と言う。まるでグレイブの行動を読んでいたかのようなタイミングだ。
いきなりのことにきょとんとした顔をするグレイブ。
「あ、あぁ。そうか。では任せよう」
「フランのとマレイちゃんのだけですよねっ?」
「その通りだ」
「ではでは、行ってきます!」
フランシスカは軽やかな足取りで席から離れていく。
私は、結局何も言えぬまま、彼女の背を見送った。
グレイブとシンは知り合いだ。だから、三人になってしまうとどうしても、一対二のように感じてしまう。
敵対しているわけではない。なので、本来、さして問題はないはずなのだ。しかし、アウェイ感がどうも気になって仕方がない。
「……マレイ。大丈夫か?」
場に居づらい顔をしてしまっていたのか、グレイブが心配したように尋ねてきた。
黒い瞳がこちらをじっと見つめている。
「えっ。私、ですか」
「そうだ。トリスタンがさらわれて、早数日。さぞ寂しい思いをしていることだろうが、平気か?」
ちょっぴり失礼な発言。
しかし、そんな小さなことにいちいち腹を立ててはいられない。
「はい。私は大丈夫です。それよりも、トリスタンが痛い目に遭っていないかが心配です」
心配するべきは私ではない。トリスタンだ。
「それもそうだな。あいつらのことだ、どんな酷いことをするか分からん。やはり……一刻も早くゼーレから情報を」
「怪我させるのは駄目ですよ!」
半ば無意識に、私にしては大きな声を出してしまっていた。
情報を聞き出す——そのためなら、グレイブはゼーレの体のことなど、微塵も考慮しないだろう。もし彼が吐かなければ、かなり残酷な手段でも使うに違いない。
ゼーレは既に傷を負っている身。あれ以上のダメージは危険だ。
こんなことを言えば、「なぜ敵であるゼーレを庇おうとするのか」と思われるだろう。
正直、はっきりとした理由など私自身にも分かっていない。
だが、ただ一つ分かることはある。それは、ゼーレとて悪魔ではないということ。彼は素直でないし性格も口も悪い。けれども、人の心を失ってはいない。
それが、この数週間、一日ほんの数時間だが近くで接してきて、私が抱いた思いだ。
「何だと?」
グレイブは眉頭を寄せ、訝しむような顔をする。
そんな表情をしている時ですら美人なのだから、彼女の美しさは凄まじいものだと思う。もっとも、あくまで私個人の意見だが。
「ゼーレをあれ以上傷つけるのは止めてほしいです」
私ははっきりと意見を述べた。
こんなことを言えば、グレイブは怒るだろう。ゼーレを憎しみをぶつける対象と認識している彼女が怒らないわけがない。
だから、怒られること覚悟の上で、私は言いたいことを言った。
それはかなり勇気がいることだった。けれども、自分の言いたいことを言うというのは、すっきりするものだ。後悔はしていない。
「……そうか」
恐る恐る、グレイブの顔へ視線を向ける。
強く恐ろしい彼女に対し歯向かうような発言をしたのだ、気楽ではいられない。
だが——グレイブは怒った顔をしていなかった。
「本来なら限界まで痛めつけるところだ。だが、お前がそれを嫌がるのなら、トリスタンも同じ思いでいることだろう」
怒りを露わにするどころか、彼女の整った顔は哀愁を帯びていた。やや伏せられた目は、大人びていると同時に、寂しげな色をしている。
「分かって……下さったんですか?」
控えめに言ってみる。
すると彼女は、憂いの色の滲む視線をこちらへ向けた。
「ゼーレの世話を任せてしまっているからな。そのお返しと言ってはなんだが、お前の意見も考慮しよう」
漆黒の瞳は瑞々しい。しかも、妙なほどに澄んでいて、私の姿がくっきりと映っている。嫌いな闇と同じ黒なのに、彼女の瞳には嫌なイメージを抱かない。不思議なものだ。
「ただ、一刻も早くトリスタンを助けなくてはならないことは、変わらない。そこで、だ」
「……何ですか?」
脳内にいくつもの疑問符が浮かぶ。
そんな私に対し、彼女ははっきりと述べる。
「マレイ。お前がゼーレから情報を聞き出せ」
- Re: 暁のカトレア ( No.54 )
- 日時: 2018/07/02 09:05
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 3edphfcO)
episode.49 役割
「え。私が、ですか?」
思わずそう聞き返してしまった。『お前がゼーレから情報を聞き出せ』なんて言われるとは、微塵も予想していなかったからだ。
「その通り」
グレイブは一度ゆったりと深く頷く。
彼女は一体、何を考えているのだろう。グレイブですら聞き出せないというのに、私に聞き出せるとは到底思えないのだが。
そこへシンが参加してくる。
「マレイさん!頑張って下さいよぉぉぉーっ!」
大きな眼鏡をかけた顔面を近づけられると、反射的に身を引いてしまう。
慣れてしまえばどうといったことはないのかもしれない。だが、まだ慣れられていない私にとっては、シンの接近は衝撃が強すぎだ。
「仲間の安否がかかってぇぇー、いますぅからぁぁねぇぇぇ!」
「は、はい……」
私は椅子に座ったまま、背を反らし、シンの顔面と距離をとる。
「頑張ってぇ下さあぁぁい!」
「シン。まず黙れ」
「は、はいぃぃぃ……」
グレイブに淡々と注意され、シンはしゅんと肩を落とした。発言することを許されなくなってしまった彼は、手元のコーヒーをちみちみと飲む。
「そういうことだ、マレイ。今晩、ゼーレから心当たりのある場所を聞き出せ」
そんな重要な役を任せられるなんて思わなかった。
だが、任せられた以上、やらないわけにはいかないというものだろう。
「分かりました。でも……」
「何だ。まだ文句があるのか?」
「いいえ。ただ、私にできるのかと思って」
すると彼女は、愉快そうに、赤い唇の口角を持ち上げた。
「できない、で許さることではない。方法はお前に一任するが、聞き出せなかった時は覚悟しろ」
落ち着きのある声と楽しげな笑みが混ざり合い、何とも形容し難い雰囲気が漂っている。
「今晩中にトリスタンが連れていかれた可能性のある場所を聞き出し、報告するように」
「は、はい!」
一応返事をしておく。
だが、この胸を覆う不安は消えない。ゼーレが簡単に情報を話してくれるとは、到底思えないからだ。
そこへフランシスカが戻ってきた。
一つはアイスティーの入ったグラス。もう一つはホットコーヒーのカップ。計二つを持っている。
「マレイちゃん、お待たせっ」
フランシスカの笑みは相変わらず明るい。向日葵のような、太陽のような、直視すると目を細めたくなるくらい眩しい笑顔だ。
「フランはコーヒー。マレイちゃんはアイスティー。これでいいよねっ」
「ありがとうございます」
「マレイちゃん、確か、コーヒー飲めないんだよねっ。味覚が子どもだからかなっ?」
失礼ね、飲めないわけじゃないわよ。
コーヒーよりは紅茶が好きというだけのこと。
しかし私は何も言い返さなかった。今私が発言すると、余計にややこしいことになりそうだからだ。取り敢えず、笑ってやり過ごす。
「あ、グレイブさん!お菓子、貰ってきますねっ」
「あぁ。助かる。ちょうど、もっと食べたいと思っていたところだ」
私はまだ一口も食べていないのだが……。
「何にします?」
「チーズケーキが理想だ」
「分かりましたっ。行ってきます!」
フランシスカは凄く働き者だ。
他者に従わない自由奔放な人といったイメージを持っていたため、少々意外である。
「フランさんって、善い人ですね」
再びフランシスカがいなくなった後、私はさりげなく、グレイブにそう言ってみた。深い意味などない。ただ話を振ってみただけだ。
するとグレイブは、苦笑しながらも穏やかに返してくれる。
「はっきりしすぎた物言いは、時に問題だがな」
いつまでもこんな風に、平和な時間が続けばいいのに——。
心からそう思った。
傷つけあうことも、戦うこともない、穏やかな日々。それさえ手に入れば、今よりもっと素敵な毎日が待っているに違いない。
……そのためにはまず、与えられた役目を果たさなくては。
その日の夕方、私はゼーレのいる地下牢へと向かった。
通い慣れた薄暗い通路を歩く。
慣れもあってか、ここしばらくは恐怖を抱かなくなっていた。もちろん、緊張感も消えてきていた。
だが、今は違う。頭頂部から足の先まで、緊張に包まれている。
今日は食事を運び食べさせるという内容ではない。固く閉ざされた金庫のようなあの口を、開けなくてはならないのだ。そんなことが私にできるのだろうか。正直、自信がない。
けれど、今さら逃げることなどできはしない——いや、逃げたりしたくない。
この役目から逃れる。それはつまり、トリスタンを助けない、ということだ。私を庇ったために敵に連れ去られてしまったトリスタンを見捨てることと同義である。
「……よし」
私は一人、そっと呟く。
それと同時に決意を固める。
——迷いは捨てよう。
トリスタンを救うためだ。ゼーレに情けをかけている場合ではない。
ゼーレがいる部屋に入る。
すると彼は、私が口を開くより先に言葉を発する。
「来ましたねぇ、マレイ・チャーム・カトレア」
まるで私が訪れた理由を知っているかのような言い方だ。いつも私が入っていった時とは反応が異なる。
「ごめんなさい。いきなり来てしまって」
殺伐とした空気になっても嫌なので、敢えて穏やかな口調で返す。
しかし、ゼーレの様子に変化はない。
彼は警戒心を剥き出しにしている。一体何があったのか、と首を傾げてしまうほどの変わりようだ。
「いいえ、謝ることはありません。上からの命なら仕方のないことですからねぇ。それで……用件は何です?」
やはり感づかれている。
これといった根拠があるわけではない。しかし、彼の口振りが昼頃までと明らかに異なっていることから、私は、「感づかれている」と判断したのだ。
「実は、少し話があって……」
「そんな前振りは結構です。早く本題に入りなさい」
ゼーレはきっぱりと述べた。
ここまで言われては仕方がない。私は観念して、本題を切り出す。
「教えてほしいの。トリスタンがどこへ連れていかれたかを」
本当は言いたくなかった。こんな尋問みたいなこと、したくはなかった。
でも、仕方がなかったの。
このままではトリスタンを助けられないから。
- Re: 暁のカトレア ( No.55 )
- 日時: 2018/07/05 21:42
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Jolbfk2/)
episode.50 なぜ好きなようにしないのです?
暫し、沈黙。
私は何とも言えない思いを抱いたまま、ゼーレの返答を待つ。
せっかくここまで築いてきた関係が崩れてしまうことを、私は、何よりも恐れていた。
彼がこれ以上傷つかないためにはこの道しかない。この道を選ばなくては、ゼーレがまた痛い目に遭う。だから、たとえ私たち二人の関係が壊れたとしても、これしかない。
一分くらい経ち、やがて、ゼーレは口を開く。
「構いませんよ」
仮面に隠された彼の口から出たのは、意外な言葉だった。
状況を理解しきれず、ただ彼の顔を見つめる。
「……なぜそんなに見つめるのです」
ゼーレは座り姿勢のまま、少し気まずそうな顔をした。
もっとも、顔は仮面に隠れているため、顔といっても雰囲気なのだが。
「あっ、ごめんなさい。でも、いいの?本当に教えてくれるの?」
彼の口が金庫のように固く閉ざされたものであることは、これまでの様子で分かっている。そんな彼が、こんなにもすんなり「構わない」など、明らかに不自然だ。疑いたくはないが、裏があるとしか思えない。
「リュビエがレヴィアス人を連れていくところなど、一つしかありませんからねぇ。貴女になら教えて差し上げても構いません」
「本当!?」
ゼーレは音もなくそっと頷いた。
妙に上手くいく。スムーズに事が運ぶのは、私としてもありがたいことだ。しかし、ここまでスムーズだと、さすがに少し戸惑ってしまう。
「ただ、二つだけ条件があります。それを飲んでいただけるのであれば、教えて差し上げましょう」
「条件?どんな?」
とんでもない条件を突きつけられたらどうしよう。そんな不安を抱きつつも、一応聞いてみた。何事も、聞いてみなくては始まらないからだ。
するとゼーレは述べる。
「一つは……私を自由の身にすること」
「拘束を解け、ということ?」
「そうです。いい加減、この暗闇にも飽きてきましたからねぇ。散歩でもしたいです」
ゼーレがここへ繋がれてから数週間が経過している。一日のほとんどの時間を拘束されたまま過ごしているのだから、退屈になるのも無理はないだろう。むしろ、よく今まで耐えたな、という感じである。
だが、拘束を解くなど、私の独断でできることではない。
相談もせずゼーレを解放したとなれば、グレイブに怒られるだろう。悪ければ帝国軍を追い出されるかもしれない。
「それは……グレイブさんに聞いてみないと」
「マレイ・チャーム・カトレア——貴女は、トリスタンよりもあの女が大切なのですか?」
「トリスタンの方が大切に決まっているじゃない。だって、何度も助けてもらった恩があるもの」
グレイブにお世話になっていないと言いたいわけではない。トリスタンにお世話になったことの方が多い、という意味だ。なんせトリスタンには、今まで何度も命を救われている。八年前のあの夜だって、そう。
「では彼を優先すべきではないですか」
「本当はそうしたいわ。でも、できないの」
「なぜです?」
「居場所がなくなるのが怖いの……」
狡い女だと思うわ、自分でも。
トリスタンはその身を痛めてでも私を護ろうとしてくれた。
それなのに私は、自分のことばかり考えて、トリスタン救出への一歩を踏み出せずにいる。
「笑いたければ笑えばいいわ」
私は勢いのままに吐き捨てた。
するとゼーレは、淡々とした声で話しかけてくる。
「らしくありませんねぇ、カトレア。板挟みでストレスが溜まっている、といったところですか」
「どうすればいいか分からない……」
ゼーレに対して弱音を吐くなんて、今日の私は本当にどうかしている。ゼーレは、私から大切な者を奪い、禍々しい記憶を植え付けた張本人。そんな憎むべき相手に弱さを見せるなんて、普通は考えられないことだ。
重い気持ちになっていると、ゼーレは唐突に言う。
「なぜ好きなようにしないのです?」
胸に突き刺さる言葉だった。
私だって好きなようにしたいわよ!と言いたくなるが、それはこらえる。上手くいかないからといって他人に当たるのは良くない。
「これまで貴女は好き放題してきたではありませんか。なぜ今になって迷うのですかねぇ」
「好き放題なんて……!」
「いいや。貴女は好き放題していました」
ゼーレは重ねてくる。
「貴女の好き放題があったから、今私はここにいるのだと思いますが?」
その言葉には何も言い返せなかった。
真実だったからだ。
「……悪かったと思っているわ。あの時は、こんなことになるなんて考えてもみなかったのよ。私はただ、話し合って理解できればと……」
はめてやろう、なんて気は微塵もなかった。あわよくば捕虜にしてやろうなんて気も。私はただ純粋に、落ち着いて話し合えればと思っていただけだったのだ。
私が言い終えて数秒後。
ゼーレは座った体勢のまま、呆れ顔になる。
「まったく、馬鹿らしい。そんな話ではありません」
「えっ?」
「好き放題できるのが貴女の良いところだと、そう言っているのです」
……意味不明。
分かりにくすぎる。この流れで「褒められている」と思える者など、存在するわけがない。
「そんなの分からないわよ!」
「すぐに怒らないでいただきたいものですねぇ」
冷静な声色で言われるから、余計に腹が立つ。
「ゼーレはいちいち分かりにくいの!」
「落ち着きなさい。近くで騒がれると耳が痛いです。うるささのあまり、耳が外れて、ポロリと落ちそうです」
何それ、怖い。
ゼーレが言うと笑えない。
「……もう。分かったわよ!」
灰色の大きな雨雲が風に流されていくような感覚。
馬鹿みたいなやり取りをしているうちに、心は段々軽くなっていった。そして、リラックスしてくると同時に、心は決まってくる。
「拘束を解くわ。その代わり、もし誰かに『なぜ』と聞かれたら、『脅されたから』と答えることにするから。それでいい?」
するとゼーレは、片側の口角を持ち上げ、ニヤリと笑みを浮かべる。
「構いませんよ」
- Re: 暁のカトレア ( No.56 )
- 日時: 2018/07/06 09:35
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 0dFK.yJT)
episode.51 今はただ、信じるのみ
トリスタン救出のための情報を教えるのと引き換えに、ゼーレが出した条件の一つ。それは、『拘束を解くこと』だった。
私一人では決められない。そう思った私は、すぐに条件を飲むことはできなかった。しかし、ついに覚悟を決める。
多少私の立場が悪くなろうが、そんなことは気にしない。トリスタンを救うためにできることはすべてする、と。
「拘束具の外し方を私は知らないわ。だから、これで壊すわね」
私は右の袖を捲る。そして、右手首に装着された腕時計の文字盤に、左手の人差し指と中指をそっと当てた。
「もし体に当たったらごめんなさい」
なんせ、まだまともにコントロールできないのだ。拘束具だけを狙い打ちするなど、ほぼ不可能である。
「べつに構いませんよ。どうせ、腕は機械ですから」
「体にも当たるかもしれないわ」
「お気になさらず」
ゼーレはあっさりとした調子で返してくれた。
私は右腕を、ゼーレの背中側にある拘束具へ向ける。
そして、光球を放つ——。
「……っ!」
衝撃に、ゼーレは身を縮める。
放たれた赤い光球は、拘束具を砕いた。それと同時に、彼の体に絡みついていた鎖もずり落ちる。
残るは足の拘束具のみ。
「平気?」
「問題ありません」
ゼーレは落ち着いていた。
今のところ怪しい動きはない。
次は足の拘束具を外すよう試みる。腕を拘束していたものよりかは頑丈だったが、赤い光球を三四回当てるうちに外れた。
これで彼は、完全に自由の身だ。
「外したわ。これで教えてくれる?」
ゆっくりと立ち上がろうとしているゼーレに声をかける。すると彼は「まだです」と返してきた。それを聞いて私は、彼が条件は二つと言っていたことを思い出す。
「そういえば、そうだったわね。忘れていたわ」
やれやれ、といった空気を全身から漂わせてくるゼーレ。
「もう一つの条件は、何?」
彼は立ち上がりきると、銀色の仮面に覆われた顔をこちらへ向ける。
「すべてが終わるまで、他の者に口外しないことです」
それには、さすがに戸惑いを隠せなかった。
他の者に言ってはならないのなら、私一人でトリスタンを助けに行かなくてはならないではないか。無茶だ。
「私に一人で行けと言うの?あんまりだわ!」
はっきり言い放つ。
すると彼は、静かな声で「まさか」と返してきた。
「馬鹿ですかねぇ?貴女一人が乗り込んだところで、救出など不可能でしょう」
くくく、と笑われる。
正直感じが悪い。
しかし、時折他人を小馬鹿にしたような態度をとるのは、彼の性分だ。だから気にすることはない。一応分かってはいるのだが、それでもイラッとしてしまう。
「どうして笑うのよ!」
「小さいですねぇ。すぐに怒らないで下さい」
「真面目な話をしているのよ!?笑ってる場合じゃ……」
すると彼は、金属製の手で私の片腕を掴んできた。
バクン、と心臓が鳴る。このまま誘拐されたらどうしよう、と脳裏に不安がよぎる。
しかし乱暴な手段をとられることはなかった。
ただ、一気に体を引き寄せられたために、顔と顔の距離が接近する。
「話を聞きなさい。私が同行すると言っているのです」
「……え。ゼーレが?」
「そうです。私ならまだしも怪しまれないでしょう」
顔と顔の距離が近いことに動揺し、話が頭に入ってこない。
トリスタンはあんな質だ。すぐに接近してくる。だから、トリスタンと距離が近くなることには慣れてきた。
しかし、ゼーレは違う。
彼とはこれまで、それほど近づいたことがなかった。なので、今こうして体が触れるほど近くにいることが、信じられない。緊張やら何やらで、全身が強張る。
「でも……私たち二人だけで基地の外へ出られる?」
「その心配は要りません」
「言うのは簡単だけど、結構きっちり閉ざされているわよ。何か策はあるの?」
ゼーレだって傷を負っている身だ。
こっそり基地から抜け出せるのかどうか怪しい。
「策無しではさすがに……」
言いかけた、その時だった。
ゼーレは仮面を着けた顔を私に近づけたまま述べる。
「気にすることはありません。ここから直通で行けますから」
「え。直通って?」
想像の範囲を軽く超えていくゼーレの発言に、私はただ戸惑うことしかできなかった。
この地下牢に外へ続く道などありはしない。罪人や捕虜を収容するための牢に、そんなものが存在するわけがないではないか。それなのにゼーレは「直通」なんて言う。理解不能だ。
「まぁ……説明するのも面倒です。見せて差し上げます」
彼は、その時になってようやく、私の腕を離した。
続けて金属製の右腕を前向けに伸ばす。すると、手の周辺の空間がグニャリと歪んだ。
「え、え、え」
私は思わず情けない声を発してしまう。
この世の現象とは思えない現象が、目の前で起こったからだ。これが現実に起きていることだとは到底理解できない。しかし、ゼーレが真面目な雰囲気でいるところを見ると、冗談やまやかしなどではなさそうだ。
そのうちに、歪んだ空間は大きくなっていく。
——そしてついに、人が通れるくらいの穴となった。
「えっ……穴?」
「そうです。通れます」
私は混乱しながらゼーレへ視線を向ける。
「どこへ繋がっているの?」
トリスタンが腕時計から白銀の剣を取り出したり、私の腕時計から赤い光が放出されたり。普通考えられないような現象は、これまでに多々見てきた。しかし、別の空間に繋がる穴を作る、なんて現象は見たことがないし理解できない。
「ボスをはじめ、我々が生活している基地です」
「トリスタンは……本当にそこにいるの?」
やはり疑ってしまう。
ゼーレは私をボスに差し出すつもりなのではないか、と。
「疑い深いですねぇ、カトレア」
「そこにトリスタンがいる保証があるの?」
彼は数秒空けて、静かに「恐らく間違いないと思います」と返してきた。淡々とした、真っ直ぐな声色だ。その声を聞く感じだと、嘘を述べているとは思えない。
「信じられないなら……止めますか?」
「いっ、いいえっ!行く!行くわよ!」
トリスタンを助けに行く。
今はそれが何よりも優先だ。私がどうなるかなど、関係ない。
「……良い覚悟ですねぇ」
「ちゃんと案内してちょうだいよ!」
「もちろん……そのつもりです」
今日のゼーレは、なぜか、いつもより素直な気がする。
不気味さはあるが、彼はきっと裏切ったりしないだろう。
いずれにせよ彼を頼る外ないのだ——だから、信じるしかない。
- Re: 暁のカトレア ( No.57 )
- 日時: 2018/07/08 22:01
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: rLG6AwA2)
episode.52 敵地へ乗り込む
ゼーレが開いた穴を通り、私は見知らぬ場所へと飛び込んだ。
そこは無機質な場所だった。
金属製と思われる真っ黒な床に立つと、靴を履いていても、足の裏まで冷たさが伝わってくる。そこに温かみなんてものは、ほんのひと欠片も存在していない。
「なるべく騒がないで下さいね」
「騒がないわよ!」
「ほら。すぐにそうやって大きな声を出すじゃないですか。止めていただきたいものですねぇ」
「……ごめんなさい」
私の心は不安に揺れていた。
まったく知らない敵地、というだけでも不安だ。それなのに、傍にゼーレしかいないのだから、なおさらである。
「ま、分かればいいでしょう。とっとと行きますよ」
ゼーレは歩き出す。妙に早足だ。私は慌てて彼の背を負う。
「待って」
「待ちません。面倒なことになりたくありませんから」
淡々と足を進めるゼーレ。その足取りに迷いはない。
そんな彼の背中は、なぜか、妙に逞しく見えた。
本来憎むべき相手のはずだったのに。
それからしばらく、私はゼーレの後ろについて歩いた。
黒いマントをなびかせて歩く彼は、私を待ってはくれない。しかし、一応速度は調節してくれているようで、ゼーレと私の距離は常に一定だった。
「ねぇ、ゼーレ。本当にこっちで間違いないの?」
「間違いありませんよ。疑い深いですねぇ」
ゼーレは、煩わしい、と言いたげに顔をしかめる。
「トリスタンに会える?」
「会えます」
「トリスタン……。怪我していないといいけど」
するとゼーレは吐き捨てるように言う。
「さすがに、無傷ということはないでしょう」
こちらが切なくなるほどに、冷ややかな声だった。
同情など、彼が一番嫌うことだ。それは分かっている。しかし、それでも私は、こんな風になってしまった彼を可哀想だと思った。
「どうしてそんなことを言うの!」
「だから騒ぐなと言っているでしょう」
「トリスタンが傷つくことを望むなんて、酷いわ!」
つい感情的になってしまった。無意識のうちに声が大きくなる。
おかげでゼーレに睨まれた。
「……勘違いしないで下さい」
低い声を出されると、自然と体が強張る。
「私は貴女への恩を返すだけ。レヴィアス人の味方になるというわけではありません」
なぜ平気でそんなことを言うのだろう。突き放すようなことばかり言って、自分を独りにして、寂しいとは思わないのだろうか。
少しくらい、寄り添うように努めればいいのに。
「じゃあゼーレは、これが終わったらもう、喋ってくれないの?」
数歩先を行く彼に尋ねてみた。
「ボスやリュビエのところへ帰ってしまうの?」
私の二度の問いかけに、ゼーレは答えなかった。
彼は進行方向だけをじっと見据え、歩き、沈黙を貫く。グレイブにやられた傷はまだ治癒しきっていないはず。それなのに背筋がぴんと伸びているから、不思議だ。
——そんなことで、彼からその答えを聞くことはできずじまいだった。
さらに歩くこと数分。
ゼーレと私は、扉の前へたどり着いた。
無知な私でも「鉄製だろうな」と想像のつくような、いかにも分厚そうな扉だ。全体的には灰色で、ところどころ赤茶色になっている。お世辞にも綺麗とは言い難い外観である。
威圧的な空気をまとった扉にゼーレは触れた。
ピコン、と可愛らしい音が鳴る。
「カトレア、心の準備をしておきなさい。トリスタンは恐らく、この先です」
「分かったわ」
私は心の準備をしながら、一度だけ深く頷いた。
その間も、ゼーレは手を扉に当てている。
「何をしているの?」
「ロック解除です。どうしても……少し時間がかかりますねぇ」
扉を開けるために、なぜ手なのか。
私は純粋に疑問に思った。
「扉を開けるなら、鍵じゃないの?」
「帝国ではそうなのでしょうねぇ。しかし、ここでは違うのです」
「そう。謎ね」
待つこと数十秒。
突然ガチャリと音がした。
これは私にでも分かる。鍵が開いた音だろう。
「もう開いた?」
「せっかちですねぇ……」
「何よ、悪い!?」
「いちいち怒らないで下さい。で、貴女が仰る通り、扉は開きました」
ゼーレは淡白に言うと、鉄製の扉を開ける。
キィィィ、と軋むような音が鳴り、私は一瞬耳を塞いだ。単純に耳が痛かったからである。すぐに元の体勢に戻る。
「ここは……部屋?凄く広いのね」
私は思わず感心の声を漏らした。
分厚い扉の向こう側に広がっていたのは、狭い牢屋などではなかったからだ。個人的にはゼーレが入れられていたような薄汚い部屋をイメージしていたのだが、扉が開かれた今、この目に映るのは、想像とは真逆の空間だった。
だが、こんなことに驚いて時間を潰している場合ではない。
一刻も早くトリスタンのもとへ行かねばならないのだ。一分一秒も無駄にはできない。
なので私は、ゼーレとともに、部屋の中へと足を進めた。
だが、そう簡単にはいかなかった。
「……化け物っ!?」
私たち二人の行く手を遮るように、化け物の群れが現れたのだ。
今回は狼型ではない。蜘蛛でも蛇でもない。
昔何かの本で見た悪魔のように鋭い羽を持ったこれは——コウモリ。洞窟なんかの天井にぶら下がると言われている、コウモリの形をしている。
「やはり罠がありましたか……」
ゼーレは、一人納得したように呟いている。
「罠がありましたか、じゃないわよ!可能性があるなら、先に教えておいてちょうだい!」
「細かいですねぇ、貴女は」
「べつに細かくなんてないわ!普通よ!」
「はぁ」
面倒臭そうな顔をされてしまった。
当たり前のことを言っただけなのに面倒臭そうな顔をされるというのは、少々悔しいものがある。文句を言ってやりたい気分だ。
けれど、そんなことをしている暇はない。
今はただ、目の前のコウモリ型化け物を殲滅することだけを考えなくては。
「ゼーレ!この群れはどうするの!?」
考えにずれがあっては後ほど困る。だから一応確認しておいたのだ。
すると彼は、落ち着きのある声で返してくる。
「一気に片付けます。貴女も協力なさい」
そんなことを言いながら、ゼーレは、高さ一メートルほどの蜘蛛の化け物を、四五体作り出した。
「えっ。私も!?」
「まったく馬鹿らしい。当然でしょう」
「わ、分かったわ!」
私は速やかに、赤い光球を放つ準備をする。
そのうちに、コウモリ型化け物の群れが、私たちをめがけて飛んでくる。予想外の速度だ。
だがゼーレは怯まない。蜘蛛の化け物たちへ素早く支持を出す。
そして支持を受けた蜘蛛の化け物たちは、炎を吹き出し応戦する。コウモリ型化け物もさすがに近寄れない、かなり強力な炎だ。
それを目にした瞬間、あの夜の禍々しい記憶が蘇った。
村が燃える。人々は泣き叫び、逃げ惑う。そして私の母は、この赤に飲み込まれて塵と化した。
すべてが失われたあの夜の、消し去ってしまいたいものが、次から次へと脳裏に浮かんでくる。そしてそれらの記憶は、ゼーレは憎むべき相手なのだと、繰り返し語りかけてきた。
分かっているのだ、そんなことは。嫌というほど分かっている。
それでも今は——トリスタンを助けるために、ゼーレを信じる外ないのだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.58 )
- 日時: 2018/07/10 18:12
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: yOB.1d3z)
episode.53 グレイブとフラン
その頃、帝国軍の基地は騒ぎになっていた。
理由は言うまでもない。地下牢にいたはずのゼーレが、マレイ諸共、忽然と姿を消したからである。ゼーレと共に消えたのが、彼に狙われていたマレイだっただけに、走る衝撃は特に大きかった。
「グレイブさん、どうします!?トリスタンに続けてマレイちゃんまでって、これはさすがに不味くないですかっ!?」
「……あぁ。不味いな。やってしまった」
もぬけの殻となった地下牢の個室で、グレイブとフランシスカは言葉を交わす。
「探しに行きますっ!?」
フランシスカはいつになく慌てた調子で述べる。
対するグレイブは、冷静さこそ保ってはいるが、その表情は険しかった。眉は寄り、目元に力が加わっているのが分かる。
「だが、慌てて動くのは危険だ」
「それはそうですけどっ……。トリスタンもいないのに、マレイちゃんまで!」
「落ち着け、フラン。捜索はする。だがまもなく夜だ、化け物が出る。朝を待つしかない」
落ち着いた口調で話すグレイブを見て、フランシスカは頬を膨らます。
「後回しってことですか!」
日頃はマレイに対してずけずけ物を言うフランシスカだが、マレイのことが嫌いというわけではなかったらしい。一応、マレイの身を案じてはいる様子だ。
「妙に大人しくしていると思ったが……」
グレイブは、独り言のように呟きつつ、個室の奥へと足を進める。そして床へしゃがみ込むと、砕かれた拘束具をそっと手に取った。
「そういう狙いだったか」
はぁ、と溜め息を漏らす。
そんな彼女の黒い瞳には、ゼーレへの憎しみの色が滲んでいる。熱い憎しみの炎は、今もまだ、彼女の内側で静かに燃え立っていた。
それからしばらくして、やがて、グレイブはゆっくりと立ち上がった。
それに気づいたフランシスカは、丸い目をぱちぱちさせながら、グレイブへ視線を向ける。
「グレイブさんっ?」
「何だ、フラン」
「暗い顔をなさっているので、どうしたのかな、と」
ストレートに聞かれたグレイブは、心なしか戸惑ったような顔をした。
しかしすぐに、口角を持ち上げる。
「いや。何も、たいしたことではない」
グレイブはフランシスカの直球には慣れている。だから、ちょっとやそっとで動揺したりはしない。
「人型の卑劣さを再確認しただけだ」
紅の唇から出るのは、刃物のように鋭い言葉。
グレイブから漂う異常なまでの威圧感は、フランシスカでさえゾッとするほどのものだった。熱いものが燃える瞳も、突き刺すような視線も、普通想像する範囲を遥かに超えた威圧感を放っている。
そんなグレイブを目にし、フランシスカは恐怖に近い感情を抱いた。
だからこそ、フランシスカは明るい声を出す。
「なるほどっ。分かりました!」
そして、普段と変わらない笑顔を、フランシスカは作った。いつもマレイに眩しさを感じさせている、向日葵のように晴れやかな笑みを。
向けられた明るい笑みに、グレイブは一瞬、目を見開く。
彼女にはこのような状況下で笑うという発想がなかったため、驚いたのかもしれない。
「いつも明るいな、お前は」
グレイブの頬がほんの少し緩んだ。
「フランが、ですかっ?」
「あぁ、そうだ。フラン……お前はなぜそんなにも明るいんだ」
意外な問いに、目をぱちぱちさせるフランシスカ。
「お前も確か、かつて化け物にやられたのだろう?」
「はいっ」
「家族……だったか?」
言いにくそうな控えめな声でグレイブは尋ねた。それに対し、フランシスカは首を横に振る。
「……婚約者ですよー」
そう答えたフランシスカの顔は、寂しげな色を湛えていた。薄く浮かんだ笑みが、物悲しさを余計に高めている。
「トリスタンみたいな綺麗な金髪をした人でした」
普通なら、しんみりするタイミング。
しかしグレイブは違った。
グレイブは、『失ったこと』にしんみりとするのではなく、『婚約者』に意識を向けたのだ。
「なっ……!その年で婚約者がいたのか!?」
「へ?」
ぽかんと口を開けるフランシスカ。話の急展開についていけていないようである。
「ふ、フラン!それはさすがに気が早くないか!?」
グレイブの心は、らしくなく揺れている。
「お前は確か、今まだ二十前だろう」
「そうですけど?」
「なのに、数年前に既に婚約者がいたなど、信じられん!」
やや興奮気味に話すグレイブに、フランシスカは一歩退く。
「何ですか、いきなりっ」
「私はこの年ですら独り身だぞ!なのに、なぜお前には婚約者などがいるんだ!」
「わけが分かりませんっ。ただ親が決めただけの婚約者です!」
思わぬ話題で言い合いになってしまう。
日頃、特別仲良しなことはない二人だが、喧嘩をするような仲の悪さではない。しかし、今回は、グレイブが進んで鋭い口調になったため、半ば喧嘩のような言い合いに発展してしまったのだ。
——けれど、二人も子どもではない。
少しして落ち着いたグレイブとフランシスカは、いつもの距離感に戻る。
「……少し言いすぎた。私はどうかしていたようだ」
グレイブは素直に謝罪する。
彼女は、そういうところはきっちりとした性格なのだ。
「そうみたいですねー」
微塵の躊躇いもなく返すフランシスカ。
フランシスカは、相変わらず相手のことをほとんど考慮しない発言をする。裏表がない、という意味では美点なのかもしれないが、少々困った部分といった印象である。
「とにかく、夜が明ければマレイの捜索をすぐに開始する。だからフランは心配しすぎるな」
「トリスタンもですよっ!」
鋭いところへ切り込んでいくフランシスカ。
その丸い瞳を見れば、トリスタンやマレイの身を案じていることがまる分かりだ。
「もちろん。一刻も早く探し出さなくては」
「何を今さらっ。遅いですよ!」
「フランは手厳しいな」
「全然進まないから言ってるんですっ!」
それからも、二人はしばらく、地下牢内で言葉を交わし続けた。
グレイブにとってもフランシスカにとっても、新鮮な体験だったことだろう。なんせ、二人はそこまで距離が近くなかったのだ。二人の距離が一気に縮まった——そういう意味では、マレイがいなくなったのも無意味ではなかったのかもしれない。
ただ、この時既にマレイがトリスタンを助けるべく戦っているとは、誰一人想像しなかったことだろう。
- Re: 暁のカトレア ( No.59 )
- 日時: 2018/07/11 21:55
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: HPUPQ/yK)
episode.54 迫りくる障害を越えて
私とゼーレは、やっとのことで、コウモリ型化け物の群れを殲滅し終えた。
もちろん私一人の力ではない。ゼーレの蜘蛛型化け物たちが、炎を吐き出し、結構な数を倒したのだ。
けれども、私が何もしなかったわけではない。もはやお決まりになりつつある赤い光球を連射する攻撃で、ゼーレと蜘蛛型化け物たちを後方から援護。その間に、コウモリ型化け物を何匹か倒しもした。
皆に胸を張って話せるほどの功績ではない。こんなことを、化け物狩り部隊の隊員に自慢げに話せば、「化け物を倒すのは当たり前」と呆れられるだろう。
小型の化け物を何匹か、ぷちぷちと倒したことなど、誇らしく他人に言うほどのことではないのだ。
ただ、未熟な弱者である私にとっては、自信に繋がることだった。
「大体……片付きましたかねぇ」
ゼーレは、付近にいた高さ一メートルほどの蜘蛛の化け物一体を、滑らかな手つきで撫でていた。
彼の手は機械のような金属製。それなのに、人の手と同じくらい優しげな動き方をしている。愛する人に触れるような、小さな生き物を愛でるような、柔らかい動作だ。
「貴方の蜘蛛、強かったわね」
「普通です。それより、呑気な話をしている場合ではありません。いそぎましょう」
そうだった。
コウモリ型化け物の群れを倒しきったことで、すっかり気が緩んでしまっていたが、油断は禁物だ。
ここは敵地。いつ次の敵が現れるか分からない場所なのだから。
「行きますよ、カトレア」
「そうね。急がなくちゃ」
「口で言っても……まったく意味がありませんねぇ。言葉ではなく行動で示して下さい」
ゼーレは先に歩き出しながら、そんな嫌みを言ってきた。
彼の背を追うように、やや早足で歩き出す。なぜ早足かと言うと、置いていかれたりはぐれてしまっては困るからである。
——しかし。
前を行くゼーレの足が、突如止まった。
軽く息が上がりそうな速さで彼の後ろを歩いていた私は、一瞬転びそうになりつつ足を止める。
「何よ急に!驚かせな……」
途中まで言って、言葉を飲み込んだ。
なぜなら、リュビエの姿が視界に入ったからだ。
独特のうねり方をした緑色の髪。目元を隠すゴーグルのようなもの。そして、全身のラインが視認できるほど体に密着した、黒いボディスーツ。
間違いない。
トリスタンを二度も傷つけた女——リュビエだ。
「こんばんは」
リュビエが足を進めるたび、ヒールが硬い音を響かせる。
淡々とした足取りで接近してくるリュビエに、ゼーレは身を固くしていた。
「来ると思っていたわ。裏切り者のゼーレ」
ゼーレとリュビエは、二人とも、ボスに使えている身だった。だから、私に力を貸すような真似をしたゼーレは、リュビエからしてみれば裏切り者なのだろう。
「そんな小娘につくなんて、甘々のお前らしいわね」
「何と言われようが……私には関係のないことです」
元から仲良さげではなかったが、二人の関係はさらに悪化していた。もっとも、片方が相手側として現れたのだから、当然と言えば当然なのだが。
「ゼーレ、お前……本当にボスを裏切る気?」
眉をひそめるリュビエ。
彼女が放ったその問いに、ゼーレは静かな声で返す。
「馬鹿らしい。いずれにせよ、切り捨てるつもりなのでしょう」
仮面越しでも分かる。ゼーレは悲しげな顔をしている、と。
地下牢で過ごすうちに彼は、ほんの少しずつではあるが、人らしくなってきた。もちろん初めが人でなかったと言うわけではない。操り人形だった彼が一人の人間に近づきつつある、という意味だ。
「やはり裏切る気なのね。なら、やむを得ないわ」
リュビエは片手を掲げる。
すると、掲げた手の指先から、細い蛇が大量に発生した。
その様は、泉から水が湧き出す光景を彷彿とさせる。もっとも、湧いてくるものが水ではなく蛇だから、泉よりずっと不気味な光景だが。
「ボスに逆らう者は、死あるのみよ」
「そう易々と殺られる気はないですがねぇ」
リュビエの残酷な発言に対し、ゼーレは強気に言い返す。
「殺られる気があるかないかなど関係ない!ボスへの反逆など許されたことではないのよ!」
珍しく声を荒らすリュビエ。
彼女はボスを心から尊敬しているのだろう。それはもう、ボスのために命を散らしても構わない、というほどに。だからこそ彼女は、ゼーレが私側にいることが許せないのだと思う。
あくまで私の想像だ。
けれども、おおよそ当たっているだろう。
リュビエが放った蛇の化け物は、一斉にゼーレへ向かっていく。ゼーレを先に潰すと決めたようである。
ゼーレは蜘蛛の化け物へ指示を出し、向かってきた細い蛇の化け物を退けていく。
「行きなさい、カトレア」
「え?」
「真っ直ぐ進めば、すぐに着くはずです」
脳内に疑問符が湧く。
この状況で言われても、十分に理解できない。
「待って。どういうこと?」
するとゼーレは、小声で返してくる。
「トリスタンを助けるのでしょう。早く行きなさい」
そこまで言われて、私はようやく理解した。ゼーレが言おうとしていることを。
だから私はしっかりと頷いた。理解した、ということが、彼にちゃんと伝わるように。
そして、一人走り出す。
トリスタンを助ける。その一心で。
「行かせないわよ!」
背後からリュビエの鋭い叫びが聞こえてきたが、振り返ることはせず、ただひたすらに前だけを見つめて走った。
- Re: 暁のカトレア ( No.60 )
- 日時: 2018/07/14 05:19
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: hVaFVRO5)
episode.55 ならば私が
リュビエのところへゼーレを残してきたことには、少々不安がある。
彼はグレイブの拷問に近しい行動によって、体のいろんなところに傷を負っていた。ある程度時間が経っているとはいえ、まだ完治してはいないだろう。
先ほどまでの動作を見ている感じでは、一応、何もなさそうではあった。けれども、完全に本調子とまではいかないだろう。
そんな状態の彼をリュビエと戦わせるのだから、どうしても不安だ。
だが、それでも私は進むことを止めなかった。
せっかくここまで来たのだ、絶対にトリスタンを助けなくては。
トリスタンを助けられなかった、なんてことになってはまずい。もしそんなことになれば、今度は私の身が危ないし、ゼーレに怒られそうだ。
黒い床を蹴り、駆けてゆく。
見つめるは前だけ。
広間をしばらく走り続けていると、やがて、鉄で作られた格子が視界に入った。どうやらここが行き止まりのようだ。これ以上直進はできない。
「これ以上は行けないわね……」
立ち止まり辺りを見回す。
そんな時、どこからともなく、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「マレイちゃん?」
それは、私が何よりも聞きたかった声。
優しく穏やかな、トリスタンの声に違いなかった。
「トリスタン!?トリスタン、どこにいるの!?」
私はキョロキョロしながら叫んだ。
精一杯見回してみても、トリスタンの姿は見当たらない。
先ほどの声が彼の声であることは明らかだ。だから、彼はこの近くにいるはずである。しかし見つけられない。
「トリスタン!どこ!?」
もう一度、声をかけてみる。
すると。
数秒経ってから返答が聞こえてきた。
「多分近いと思う。格子の奥だよ」
格子の奥。ということは、目の前の鉄格子を破壊して、中へ進まなくては会えないのだろう。
こんなしっかりとしたものを果たして壊せるのか?いささか疑問ではある。けれど、やるしかない。トリスタンを一刻も早く救出するためには、「壊せるのか?」と考えるよりも行動することの方が重要だ。
「待っていて、トリスタン!すぐに行くわ!」
私はそれだけ言うと、鉄格子を破壊するべく行動を開始する。
方法はゼーレの拘束具を破壊した時と同じだ。腕時計から赤い光球を放ち、対象物を砕くのである。私がとれる方法はそれしかない。
——鉄格子は予想以上に頑丈だった。
ゼーレの拘束具は数回で砕けたが、今回はそう容易く破壊できそうにはない。
だが、このくらいで諦めたりはしない。もう少しでトリスタンに会える。その想いだけで、私は頑張れる。私を新しい世界へ連れ出してくれたトリスタンのためだ。大丈夫、まだやれる。
「マレイちゃん、何をしているの?」
「今、格子を壊そうとしているところよ!」
「多分無理だよ。その格子、凄く硬いんだ」
「硬いかもしれないけど、トリスタンを助けなくちゃならないでしょ!まだ諦めないわ!」
もう止めてくれ、とでも言いたげなトリスタンの声に、私は少し腹が立った。
苛立ちと焦りが混ざり、光球が上手く格子に当たらない。コントロールが乱れてきてしまっている。そのことが、余計に私を苛立たせる。
「もうっ……」
早くしなくては。敵が来る前に、トリスタンを連れ出さなくては。
なのに、鉄格子が邪魔をする。
苛立ちがついに頂点へ達した私は、すべての苛立ちを込めた一撃を放つ。
「いい加減にしてっ!!」
そうして放たれた赤い光球は、苛立ちがこもっているゆえか、いつもよりも大きかった。おかげでそれは鉄格子に命中し、鉄格子を砕くことに成功。
これで中へ入ることができる。
予想以上に時間を使ってしまった私は、急いで、鉄格子の向こう側へと進んでいった。
「トリスタン!」
「マレイちゃん!」
私とトリスタンがお互いの姿を見、お互いの名を口から出したのは、ほぼ同時だった。
前にもこんなことがあった記憶がある。懐かしい。
「トリスタン!生きていたのね!」
私は、片膝を立てて床に座っていたトリスタンに、大急ぎで駆け寄る。
さらりと流れる金髪も、神の子と勘違いされそうな整った容貌も、健在だった。彼がちゃんと生きていたことを知り、私の中の喜びは大きく膨らむ。
駆け寄った私がトリスタンの手を握ると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「どうしてマレイちゃんが?」
「助けに来たのよ」
「ありがとう。それはもちろん嬉しいよ。だけどマレイちゃん、誰とここまで来たの?」
トリスタンの問いに、私は言葉を詰まらせる。このタイミングで「ゼーレと」なんて言いづらい。
けれども、それ以外に言えることなどありはしない。
だから私は、正直に答えることにした。
「ゼーレよ」
するとトリスタンは、困惑したように数回まばたきする。そして、私をじっと見つめてきた。
深みのある青い双眸に見つめられると、嬉しいような恥ずかしいような、何とも言えない複雑な心境になる。ただ、新鮮な果物のような瑞々しい感覚は、嫌いではない。
「ゼーレがこの場所を吐いたということ?」
「いいえ。一緒に来てくれたの」
私が簡潔に答えると、トリスタンは何か閃いたような表情になる。
「それって、マレイちゃんをはめるつもりなんじゃ……!」
誰だってそう思うだろう。元々は私を捕らえる任務を受けていたゼーレを信じられないのは仕方ない。いや、むしろ疑って普通だ。
だが、私には、ゼーレが騙そうとしているとは思えなかった。そもそも、あの不器用なゼーレに、他人を十分に騙す演技ができるとは、考えられなかったのである。
「それは違うと思うわ。ゼーレは信用するに値する人よ」
「信用するに値する?それは僕には分からないな」
トリスタンは納得がいかないようだ。
「ゼーレはこれまで何度も君を襲った。そして無理矢理連れ去ろうとしたよね。だから、僕は彼を信用できないよ」
「聞いて、トリスタン。彼は変わってきているの。もうあの時とは——」
言いかけて、口を閉じる。
というのも、私の背後から大蛇の化け物が現れたからだ。
「そんな……」
「下がって!マレイちゃん!」
「駄目よ!!」
私を庇おうと前へ出かけたトリスタンを、慌てて制止する。腕時計無しで大蛇の化け物と戦うなど、危険すぎるからだ。
それに加え、彼にあまり無理させたくないというのもある。
私の腕時計を貸せば、恐らくは戦えることだろう。しかし、体の状態が不明なトリスタンに戦わせるのは、嫌だ。
「駄目よ、じゃないよ。マレイちゃんまで巻き込むわけにはいかないんだ」
それは優しさなのだろう。
けれども、私が求めてはいない優しさだ。
「なら、私が戦うわ!」
無謀かもしれない。
でも、トリスタンに無理をさせないためなら、私はやってみせる。
「マレイちゃん、何を言って……」
「化け物は私が倒すわ」
「無理だよ!そんなの!」
トリスタンには何度も護ってもらってきた。
だから今度は、私がトリスタンを護る番だ。
「貴方に指導してもらってきたもの、大丈夫よ」
「だけど……」
「大丈夫。任せて」
戦闘の師であるトリスタンの目の前で、というのは緊張するが、これも運命なのだろう。
今こそ、成果を見せる時である。
- Re: 暁のカトレア ( No.61 )
- 日時: 2018/07/15 13:46
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: so77plvG)
episode.56 妥協点を探しつつ
目の前には大蛇の化け物。
頭部を勇ましく持ち上げたそれは、高さが二メートルくらいありそうだ。胴は太く、私よりも高い位置に頭がある。一般人が目にすれば、パニックになるか硬直するかの二択だろう。
それでも、あの夜私の生まれた村を焼いた巨大蜘蛛の化け物に比べれば、まだ小さい。この程度の大きさなら、何とかならないこともなさそうである。
「駄目だよ!マレイちゃん!」
背中側から聞こえてくるのはトリスタンの声。
焦ったような声色だ。
「君一人じゃあれには勝てない!勝てるわけがない!」
「それでも、ここでやられるわけにはいかないでしょ!?」
私は鋭い言い方をしてしまった。
心から尊敬するトリスタンに、鋭い調子で物を言うなど、本来ありえないことだ。けれど、その「本来ありえないこと」をしてしまった。それは、危機的状況にあったからだと思う。
……言い訳だと思われるかもしれないが。
「マレイちゃん、僕が!」
「動いちゃ駄目よ。トリスタンは無理しないで」
「僕は平気……っ」
トリスタンは大きな声を出しながら、立ち上がろうとして、すぐに膝を折った。手で右足首を掴み、顔をしかめている。どうやら右足首が痛むようだ。どこからどう見ても平気そうではない。
私は彼に駆け寄りたい衝動に駆られた。
痛みに苦しむトリスタンを一人にしておきたくない。せめて、傍にいて励ましてあげたい。
だが、そんな呑気なことをしている暇などない。
今は大蛇の化け物を倒すことに集中しなくては。
「トリスタンはそこにいて」
座り込んでしまっている彼を一瞥し、柔らかな微笑みを浮かべる。
少しでも安心してほしい。そんな思いからだった。
そしていよいよ、大蛇の化け物へ視線を向ける。大蛇の化け物もこちらを見ていたらしく、視線が交わった。背筋を冷たいものが駆け抜ける。
化け物と直接対決をするのは怖い。寒気がするほどに、恐ろしい。
けれども、今さら退くことなんて不可能だ。既に引き返せないところまで来てしまっているからである。ここまで来てしまったら、戦い、倒すなり何なりするしかない。
私は大蛇の化け物へ、腕時計を装着した右腕を向ける。戦いの幕開けだ。
「はぁっ!」
赤い光球を撃ち出す時、気合いのこもった声が自然に出た。
確かに私なのに、私ではないみたいな声だ。まったく別の誰かに操られているかのような、不思議な感覚である。
腕時計から放たれたいくつもの光球。それらは、大蛇の化け物に向かって、一斉に飛んでいく。
数秒後、私が放った赤い光球は、大蛇の化け物へ命中した。
ドドッ、という低音が響く。
これだけ浴びせれば、それなりのダメージは与えられただろう。もしかしたら虫の息にまで追い込めたかもしれない、とさえ思った。
その時。
「危ないっ!!」
耳に飛び込んできたのは、トリスタンの鋭い声。
私は咄嗟に身構える。
刹那、大蛇の化け物の尾が迫ってくるのが見えた。
——避けないと。
本能的にそう感じた。
あの太いものを叩きつけられては、間違いなく怪我をする。それも、大怪我になることだろう。そんな目に遭うのは嫌だ。
私はその場から離れようと試みる——より一瞬早く、トリスタンが私の体を抱いていた。彼はその体勢のまま、飛び退く。抱き締められているせいでトリスタンの白い衣装しか見えない。だが、衝撃がこなかったことを考えると、恐らく、尾はかわせたのだろう。
「大丈夫?」
床を転がり、その勢いに乗って中腰になると、彼は尋ねてきた。
「え、えぇ。平気よ。トリスタンは?」
「大丈夫だよ」
トリスタンは、こちらへ視線を向けて、優しく微笑む。
リュビエに連れ去られる前と変わらない、ふんわりとした笑みだった。眺めているだけで穏やかな気持ちになってくるのだから、凄いことである。
「やっぱり、マレイちゃんにはまだ無理だよ。ここからは僕が」
「いいえ。まだ戦えるわ」
「いや、後は僕がやる。君にこれ以上無理はさせられないからね」
「それはこっちの言葉よ」
私とトリスタンは、大蛇の化け物の動きが止まっている間、そんな細やかな言い合いをした。
こうして近くにいられること。触れ、言葉を交わせること。
一見当たり前のようだが、今はそれが、心臓が大きく鳴るほどに嬉しい。上手く言葉にはできないが、とにかく喜ばしくて仕方ないのだ。
「いいから、僕に任せて」
「嫌よ。私も役に立ちたいの」
こんなことをしている場合ではない。それは十分理解している。にもかかわらず、こんな無意味な言い合いを続けてしまうのは、トリスタンが近くにいるという安心感ゆえだろうか。
「とにかく、私も戦うから!」
「……そっか。そこまで言うなら仕方ないね」
トリスタンは、じゃあ、と続ける。
「二人で!」
それが彼の出した提案だった。
私はその提案に、首を縦に振る。
トリスタン一人に戦わせて私は何もしない、というのはもう嫌だ。私だって化け物狩り部隊の一員だもの、無力な存在ではありたくない。
けれど、二人で、というのは良いと思う。
二人で戦うのなら、トリスタンの負担を軽くするよう努められる。そして、私一人で戦うよりも、敗北するリスクは低い。お互いフォローしあえるというのは魅力的だ。
「そうね。そうしましょう」
「決まりだね」
二人で戦う、に決定。
しかし、次の疑問が生まれてくる。
「トリスタン武器は?素手はさすがにまずいわよ」
すると彼は、どこからともなく、ナイフを取り出してきた。
「これを使うよ」
装飾のない、短めのナイフだ。刃の部分に紫の粘液がこびりついているところを見ると、既に、化け物と戦うのに使用したものと思われる。
「それでいいの?」
「うん。マレイちゃんの援護があれば、これで十分」
トリスタンの均整のとれた顔には、余裕の色がはっきりと浮かんでいた。自身に満ちた口元と、凛々しさのある目つきが、印象的だ。
それから彼は、ナイフを持ち、構えをとる。
先ほど痛そうにしていた右足首が問題ないのか、少々気になるところではある。だが、今の彼を見ている分には、問題なさそうだ。だから、「大丈夫なのだろう」と前向きに考えるように心がけた。
今、二人の見つめるものは同じ。
目の前にいる大蛇の化け物を倒す——ただそれだけだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.62 )
- 日時: 2018/07/18 21:32
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: xPtJmUl6)
episode.57 合流
大蛇の化け物は視線を、私からトリスタンへと移す。
トリスタンが前へ出たため、彼を敵であると認識したのだろう。
「——行くよ、マレイちゃん」
寒い冬の夜のような、静かな声だ。その冷たさに、身が引き締まる思いがした。いつもは冷静でも優しさを忘れない彼が放つ、すべてが凍りつくような声には、不思議な力を感じる。
私はそっと頷き返す。
「えぇ。援護は任せて」
それを合図に、トリスタンは床を蹴った。
化け物特有の薄紫色をした粘り気のある液体が、べっとりとこびりついたナイフを手に、彼は勇敢に挑んでいく。
目つきは鋭い。
けれどもその青い瞳は、凪いだ海の如き静寂を映し出している。
腕時計がないため、今のトリスタンは、いつものようには跳べない。巨大な敵と互角に渡り合うほどの身体能力は持っていないのだ。それでも彼は迷うことなく、大蛇の化け物を真っ直ぐに見据えている。見上げた精神力である。
大蛇の化け物は尾を大きく振りかぶり、トリスタンに狙いを定める。恐らく薙ぎ払うつもりなのだろうが、そうはさせない。私は光球を放ち、バランスを崩させる。
「ナイス!」
光球を受けてバランスを崩した大きな隙を、見逃すトリスタンにではない。彼は一気に距離を詰め、大蛇の化け物にナイフを突き刺す。
深く刺された大蛇の化け物は、まるで悲鳴をあげるかのように、太い体をうねらせた。その動き方からは、最期の抵抗、といった必死感が漂っている。絶命する直前の者を見ているかのようで少しばかり胸が痛むが、同情している場合ではない。今だけは心を殺すよう努めた。
トリスタンは一度ナイフを抜く。
そして、再び突き刺す。これでもか、というほどの強い力を込めて。
「あと少し!?」
いつでも光球を放てるよう準備しておきながら、トリスタンに尋ねた。大蛇の化け物が懸命にうねる光景を見続けるのが辛かったからである。少しでもいいから早くこの時間が終わってほしい、と思った。
もちろん、大蛇の化け物に同情する必要性などない。それはまぎれもない敵なのだから。
そのこと自体は理解しているつもりだ。
それでも疼く、この胸の奥の一部は、良心という名の部分だろうか。
「すぐに終わるよ!」
トリスタンは答えてくれた。はっきりとした口調だった。
触れるほど接近している彼には、大蛇の化け物がもうすぐ消滅することが分かるのだろう。
——それから数秒。
大蛇の化け物は、トリスタンの予測通り、消滅した。
「終わったね」
目の前の敵を見事に倒したトリスタンが、粘液のついたナイフを片手に、こちらへと歩んでくる。黒の短い手袋を装着している彼の手も、ナイフと同じように、薄紫に濡れていた。
「えぇ。トリスタン、さすがね。私が出る幕なんてなかったわ」
すると彼は、柔らかく微笑んでから、首を左右に振る。
「ううん、速やかに終わったのは君のおかげだよ。バランスを崩してくれたのが大きかったから」
「そう?役に立てたならいいけど」
私は赤い光球をほんの数発放っただけだ。それ以外は何もしていない。
もっとも、正しくは「何もしていない」ではなく、「何かする暇がなかった」なのだが。
「凄く助かったよ」
言いながら近づいてくるトリスタン。
彼の穏やかな表情を目にし、安堵の溜め息を漏らしていると、彼は急に抱き締めてきた。トリスタンは、がっしりとした男性的な腕ではないはずなのだが、その力はというと結構なものだ。
全力で抱き締められると、私の力では抵抗できそうにない。
「……ありがとう」
抱き締める体勢のまま、トリスタンは私の耳元で囁いた。
それは、信じられないくらい弱々しい、消え入りそうな声。それは、日頃の穏やかで優しい声とも、戦闘時の勇ましく落ち着きのある声とも、違う。
「ちょ、ちょっと。いきなりどうしたの?」
突然の意外な声色に、私は動揺を隠せない。
弱さを感じさせるトリスタンを見るのは初めてで、彼が彼であると信じきれていない私がいる。
「寂しかったな」
「だから、急にどうしたのよ。何だか様子が変よ?」
「しばらく一人だったから……誰かに甘えたい気分なのかもしれないな。ごめんね、マレイちゃん」
謝りつつも離れないところがトリスタンらしい。
「……怒ってる?」
いかにも「怒っていない」という返事を聞きたいかのような問いが来た。
狙いが見え透いているところが何とも言えない。
「怒ってはいないわ。……って言ってほしいのよね?」
「あ。気づかれた?」
「分かるわよ、そのくらい。私だってそこまで馬鹿じゃないわ」
するとトリスタンは両の瞳を輝かせた。
深海の如き深みのある青が、希望という名の輝きで満たされていく様は、「美しい」という言葉が似合う。
「やっぱり!マレイちゃんは僕を深く理解してくれているんだね!」
……え。
いきなり、何を言い出すの。
「僕の深いところを見てくれるのは、やっぱり、マレイちゃんだけだよ。嬉しい」
「え?ちょっと待って、どういう展開よ?」
抱き締められたままなので、胸元が圧迫され息苦しい。私は「そろそろ離してちょうだい」と言いながら、体を軽く左右に振ってみる。すると、トリスタンは私の心に気がついたらしく、両腕を離してくれた。
ほっ、と安堵の溜め息をつく。
その時。
「終わったようですねぇ」
私たち二人の背後から声が聞こえてきた。聞き慣れた声だ。
振り返ると、そこにはゼーレが立っていた。
顔に装着した銀色の仮面には、先ほどまではなかったと思われる傷がいくつか刻まれている。リュビエとの交戦で刻まれたものだろうか。そして足下には、高さ一メートルの蜘蛛の化け物が、一体這っていた。
「ゼーレ!?」
現れたゼーレを視認するや否や、トリスタンは顔を強張らせる。声は鋭く、表情は固く、一瞬にして変化している。
「リュビエは?」
「何とか上手くすり抜けてこれました」
「倒したわけじゃないのね……」
「えぇ。私がリュビエを倒すなど、不可能です」
リュビエを倒しておいてくれたなら、少しはゆっくりできたのだが。
「今のうちに戻りましょう。カトレア」
ゼーレは淡々とした声色で言った。
それに、私は頷く。
意思疎通ができている私とゼーレを目にし、トリスタンは怪訝な顔になっていた。私が化け物側の者と普通に接していることに、戸惑っていたのかもしれない。
- Re: 暁のカトレア ( No.63 )
- 日時: 2018/07/19 17:25
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: n1enhNEv)
episode.58 二度手間は、避けるに越したことはない
リュビエが来る前にここから離れるよう提案するゼーレ。
しかしトリスタンは納得できない顔だ。ゼーレを信頼できない、ということなのだろうが、こんな時に頑固になるのは止めていただきたいものである。
「マレイちゃん、本当に信じていいの?」
「えぇ。今は彼を信じるしかないもの」
「それはそうだけど、でも、ゼーレはマレイちゃんを狙って……」
トリスタンはまだゼーレを信じられそうにない。
そこへ、ゼーレが口を挟む。
「余計なことは言わず、さっさとしなさい」
淡々とした声できっぱり言われ、眉間にしわを寄せるトリスタン。
「……何様のつもりかな」
不快そうな顔つきをしながらもトリスタンは落ち着きのある声を放っていた。しかし、声の落ち着いた響きとは裏腹に、今にも食ってかかりそうな感じだ。
だがゼーレは言い合いを望んではいないようで、トリスタンの言葉を無視した。
彼は機械の片腕を伸ばし、ここへ来た時と同じように空間を歪ませる。空間の歪みは徐々に広がり、人一人が通れる程度の大きさに近づいていく。
到底現実とは理解できないような現象に、私の横に立つトリスタンは、目を大きく見開いていた。よく考えてみれば、トリスタンはこれを見るのは初めてだ。驚くのも無理はない。
やがて、空間のゆがみが広がりきると、ゼーレは私たち二人の方へ視線を向ける。
「戻りましょう」
ここを通過すれば、基地の地下牢へ帰られるのだろう。
こんなところ、一刻も早く脱出したい。
「えぇ、そうね。それがいいわ」
私はすぐ横にいるトリスタンへ目をやり、それから、彼に向けて手を伸ばした。
「トリスタン、帰りましょ」
すると彼は、数秒してから、私の手をとった。
まだ納得しきれてはいない顔色だったが、「そうだね」と言ってくれる。
「それじゃあゼーレ。ここからは、よろしく頼むわ」
「えぇ……任せて下さい」
やや不満げな声なのが気になるが、まぁ、それほど気にすることでもないだろう。
こうして私たちは、基地への帰路についた。
——それから少しして。
気がついた時、私は、基地の地下牢に立っていた。詳しい場所を言うならば、ゼーレが拘束されていた個室を出てすぐのところ。扉のすぐ外側である。
「ここは……?」
私と手を繋いだままのトリスタンは、不安げな表情で辺りを見回している。理解不能の展開に動揺しているらしく、青い瞳が揺れていた。
「場所はここで良かったのですかねぇ……」
近くにはゼーレの姿もあった。
銀色の仮面、黒いマント、どちらも健在である。
「えぇ。ゼーレ、ありがとう」
私は素直に礼を述べた。
トリスタンも一緒にここへ帰ってこれたのは、ゼーレが私に協力してくれたおかげだ。本当に、感謝しかない。
「貴方のおかげで助かったわ」
そう言うと、ゼーレは気まずそうに顔を背ける。
「……別に。感謝されるほどのことではありませんがねぇ」
「相変わらず素直じゃないのね」
「うるさいですねぇ」
素直に「どういたしまして」って言えばいいのに。
……まったく、ひねくれているんだから。
「何よ、そんな言い方しなくていいでしょ。ねぇ?トリスタ……ひっ!」
思わず上ずった声を出してしまった。
というのも、トリスタンが凄まじい形相でゼーレを睨みつけていたからである。恐怖を覚えるほどの迫力が、トリスタンから溢れ出ていた。
「いつの間にそんなに仲良くなったのかな……?」
「何です。もしや嫉妬ですか」
ゼーレはこの期に及んでまだ余計なことを言う。
相手を刺激するような言葉を敢えて言うのは、ゼーレらしいと言えばゼーレらしい。ただ、正直迷惑なので、止めていただきたいものだ。
トリスタンとゼーレが険悪な空気になりつつあった、その時。
「……マレイちゃん!?」
唐突に可愛らしい声が聞こえてきた。
咄嗟に振り返ると、そこには、フランシスカの姿があった。ミルクティー色の柔らかな髪に包まれた愛らしい顔は、驚きの色に染まっている。
「どうして!?」
フランシスカはミルクティー色の髪を揺らしながら駆け寄ってきた。
「どうしてマレイちゃんがっ!?」
それから彼女は、近くにいたトリスタンとゼーレを見つけ、余計に混乱する。
「えっ、どういうこと?どうしてトリスタンもいるの!?トリスタンはさらわれたんじゃ」
長い睫毛をぱちぱち動かしながら、早口に言葉を放つフランシスカ。彼女は完全に混乱しきってしまっている。
「待って。フランさん、落ち着いて。今から説明するから……」
「しかもゼーレまで!どうしてっ!?」
このままでは収まらない。
そう判断した私は、鋭く叫ぶ。
「落ち着いて!!」
声は人の気配のない地下牢に響いた。
そして、静寂が訪れる。
トリスタン、フランシスカ、ゼーレ、私。四人だけの空間から、音は完全に消えた。
「フランさん、今からちゃんと説明するわ。何があってどうなったのか、一つ一つ、きっちりと説明するから。だから、聞いてほしいの」
一から話せば長くなるだろう。それは目に見えている。けれど、こうなってしまった以上、説明する外ないだろう。
「……う、うん」
ようやく落ち着いたらしいフランシスカは、少し目を細めながら、ゆっくりと頷いた。この様子なら、ちゃんと話せそうだ。
「じゃあ最初から……」
私が言いかけた時、フランシスカは「ちょっと待って!」と重ねてきた。
「どうせなら一回の方がいいだろうから、グレイブさんのところへ行かない?事情の説明、グレイブさんにも聞いてもらった方がいいよっ」
確かに、その通りだ。
今ここで説明し、後ほどグレイブにもというのは、完全な二度手間である。まとめて説明できるなら、それに越したことはない。
なので私は頷いた。
- Re: 暁のカトレア ( No.64 )
- 日時: 2018/07/20 20:37
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 0dFK.yJT)
episode.59 私には言えない
今後の予定をある程度考えた後、私たちは移動することとなった。
フランシスカは、グレイブに連絡しながら先頭を行く。その後ろにトリスタンと私。そして最後にゼーレ。ちなみにゼーレは、一人の牢番に見張られている。
リュビエに奪われたトリスタンの腕時計を、さりげなくゼーレが取り返していたことは驚きだった。
そんなことを考えつつ、私はトリスタンに話しかけてみる。
「あそこで一体何をされたの?怪我は?」
すると彼は、金の髪をなびかせて歩きながら、優しい声で答える。
「たいしたことじゃないよ。マレイちゃんに言うほどでもない、小さなことだから、気にしないで?」
「ごまかさないで」
トリスタンは私には隠すつもりなのだろう。
だがそんなことは許さない。
「ちゃんと教えてちょうだい。仲間でしょ」
「……そうだね」
廊下を歩きながら、トリスタンは諦めたように発した。ようやく話す気になってくれたようだ。
「いろんな化け物と戦わされてね、そのデータを記録されたんだ」
「トリスタンの戦闘データを?」
「うん。今後の化け物開発に使うとかなんとか」
つまり、トリスタンとほぼ同等の戦闘能力を持った化け物が開発される可能性がある、ということ。
それは、正直困る。
トリスタンの戦闘能力は、この化け物狩り部隊の中でも、かなり高い部類だ。そんな彼と同じくらいの力を持った化け物なんて、厄介としか言い様がない。
「それはグレイブさんに報告しておいた方が良さそうね」
「怒られないかな……」
「何を言ってるの。トリスタンは怒られなんてしないわ」
グレイブに怒られるとしたら、私の方である。
トリスタンは私を庇って連れ去られただけ。彼には何の落ち度もない。すべて私の力の無さゆえに起こったことだ。
「生きて帰ってきてくれただけで満足よ」
不安げな顔のトリスタンに、私はそっと微笑みかける。
彼の中の不安が少しでも和らぐことを願って。
いくらグレイブでも、私を庇っただけのトリスタンを怒るなんて、そんなずれたことはしないだろう。彼女とて馬鹿ではないのだから。きっと、「よく戻ってきた」と、温かく歓迎してくれるはずだ。
その後、グレイブと合流。そして私は、彼女に、ここに到るまでの一連の流れを説明した。
正しく伝わるよう、一つ一つ丁寧に説明するのは、なかなか大変だった。けれども、グレイブが落ち着いて聞いてくれたのは、良かったと思う。
結果的に、トリスタンはもちろん、私も怒られずに済んだ。
私は怒られるだろう、と予想していたため、少々意外な結果である。もっとも、怒られるより怒られない方がありがたいことには変わりがないのだが。
説明が一通り終わると、トリスタンはフランシスカに連れられて、救護班のもとへ向かった。傷の程度を確認し、必要な手当てを行うためらしい。
そうして部屋に残ったのは、私とグレイブ、そしてゼーレ。
三人だけになってしまった。しかも、何とも言えない気まずさのある、最悪な組み合わせだ。
「時にゼーレ」
沈黙を破ったのはグレイブ。
彼女は、私が座っている椅子の後ろに立たされているゼーレに、視線を向けている。漆黒の瞳から放たれる視線は、静かながら熱いものを感じさせる、不思議な視線だ。
「……何です」
「なぜマレイには力を貸した?」
壁や天井など、ほとんどが白い部屋では、グレイブの黒髪はよく映える。頭が動くたびにするんと揺れる髪は、艶やかで、大人の女性らしさを演出していた。
「トリスタン救出に協力する気は微塵もない、と言っていただろう」
「えぇ……その通りです」
「にもかかわらずマレイには力を貸した。その理由は何だ。彼女に恩を売りたかったのか」
グレイブとゼーレは話を進めていく。
私は放置だ。
「残念。惜しいですねぇ。正しくは、恩を返したかった、です」
「マレイに、か」
「カトレアには色々と世話していただきましたからねぇ」
ゼーレがそんなことを言うなんて。天変地異の前触れかと思ってしまうくらい珍しい。
しかし、私が彼へ目をやると、彼は顔を背けてしまった。
「なるほど。多少は恩を感じているのだな」
「だからといって貴女たちにつく気はありませんがねぇ」
ゼーレの発言に、グレイブは眉をひそめる。
「次は解放しろとでも言う気か」
彼はやはり、戻ってしまうのだろうか。リュビエたちのところへ、帰ってしまうのだろうか。
そうなれば、私たちとは、また敵同士だ。正直それは悲しい。
——そんなことを思っていると、無意識のうちに、目元が湿ってしまっていた。
「マレイ?」
私の異変に気がついたらしく、グレイブはこちらへ視線を向ける。訝しむような表情だ。
「どうした、マレイ」
指で目元の雫を拭うと、私は答える。
「ゼーレと……もう敵に戻りたくない」
言ってしまってから、後悔した。こんな発言、化け物絡みには特に厳しいグレイブが、許すわけがない。
「何だと?」
「あっ……あの、これは、違って……」
何とかごまかそうとして、余計に不審な言動をとってしまう。
「それはつまり、マレイはゼーレと仲間でいたいという——」
「違います!!」
私は心にもないことを言ってしまった。
「ゼーレを仲間だなんて!そんなこと、思っていません!!」
こんなことを言えば彼を傷つける。それを分かっていながら、私は、保身のためだけに酷い言葉を吐いた。
「それが本心でしたか」
ゼーレは腕を組みながら、ぽつりと漏らす。
金属製の腕が触れ合う音は、どこか物悲しい雰囲気を漂わせていた。
「やはり使い捨てだったのですねぇ。……そんなことだろうと思っていましたが」
——違うの。
そう言いたかったけれど、言えなかった。
あんなにはっきりと断言した直後に、「違うの」なんて……。
私には言えない。
- Re: 暁のカトレア ( No.65 )
- 日時: 2018/07/21 14:38
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: AQILp0xC)
episode.60 臣下は今日も騒がしい
ゼーレとの誤解は生じたまま、夜は明け、翌日が訪れる。
今日は特に仕事がないため、私は、訓練に励むことに決めた。しかしトリスタンは、さらわれていた間に負った傷の様子を見ておかなくてはならない。そのため、代わりにグレイブが付き合ってくれることになった。
場所は修練場のメインルーム。
誰もいないこの場所は、私たち二人で使うには広すぎる空間だ。
「よし。では早速戦闘を始めよう」
「はい!」
約束を破り勝手にトリスタン救出へ向かってしまったことを責められないか心配だ。
だが、今はそんなことを考えている暇はない。
「まずは腕時計を外せ」
「えっ?」
「腕時計無しで戦う、ということだが」
「えぇっ」
無茶だ。
光球を使わずにグレイブと渡り合うなんて、私にできるわけがない。彼女はいきなり厳しすぎる。
「もちろん私も腕時計は使わん。これで文句はないだろう?」
いや、そういう問題ではない。
グレイブは腕時計が無くともそれなりに強いだろう。それに比べて私は、腕時計無しでは無力。何もできないに決まっている。
「待って下さい!無理です!」
「何を言う。無理を無理でなくするのが訓練というものだろう」
「だからって、いきなりすぎます!」
私が意見を述べた、その瞬間だった。
「いきなりすぎないですよぉぉぉー!!」
突如修練場内に響いたのは、シンの大きすぎる叫び声。
そのうるささといえば、反射的に両耳を塞いだほどである。
「おぉ、シンか」
私は鼓膜を貫かれそうになっているというのに、グレイブは眉ひとつ動かさない。
この巨大な叫びに、耳が痛まないのだろうか。もしかしたら慣れれば大丈夫になるものなのかもしれない、と、私は密かに思った。
「お部屋にぃぃぃ!いらっしゃらなかったのでぇぇぇー!探していたらぁぁ、ここまでぇぇ、来てしまいましたぁぁぁ!」
「おい、シン。落ち着け。もう少し静かに話せ」
「できませんよぉー。グレイブさんがいなくなってしまったかとぉぉぉー」
シンは半泣きのようになりながらグレイブにもたれかかる。
だがグレイブは甘い女性ではない。もちろん、気安くもたれかかることなど許すような性格でもない。
そのため、彼女はシンを厳しく突き放していた。
「用があるならさっさと言え。何もないなら帰れ。今私はマレイの訓練中だ、ダラダラと話す暇はない」
血のように赤い唇からこぼれる言葉は、厳しく、そして冷たい。
まるで、棘に護られる気高き薔薇の花のよう。
「え……えぇとぉぉ……」
シンは、頭をくしゃくしゃと掻きながら、言葉を探していた。
それでなくとも豪快に外向きにはねている髪を、さらに手で乱すことによって、頭部が凄い状態になっている。
そのことに、彼は気づいていないのだろうか……。
「えぇとぉぉー……」
「速やかに言わないのなら、何もなかったと解釈するからな」
「そ、そんなぁぁぁー」
なかなか話し出さないシンに見切りをつけたグレイブは、何事もなかったかのように私へ視線を戻す。
真夜中のような漆黒の瞳に見つめられると、何とも言えない感覚を覚えた。
「よし。では開始しよう。マレイ、全力でかかってきて構わん」
「は、はい」
「何だ、その返事は。小さい!」
「あっ……はい!」
何だ、そのノリは。
「もっとはっきりと」
「はい!」
「もっと、だ」
ええっ。
大きな返事に意味はあるのだろうか。謎だ。
けれど逆らうというのも何なので、一応、しっかりと返事をしておく。
「はい!!」
するとグレイブは、ようやく満足したらしく、話を進める。
「よし、では訓練開始だな」
「頑張ります!!」
返事はいつもより大きめの声にしておいた。
また先ほどのように、「もっと」と言われる気がしたからである。もっとも、これといった具体的な根拠はないが。
そしてお昼頃。
訓練を終えた私は、グレイブやシンと食堂へ行く。
「マレイ、何を食べるんだ」
席につくや否や、グレイブが尋ねてきた。
「私ですか?」
「あぁ。貰ってきてやろう」
グレイブは妙に親切だ。
彼女は厳しい人だが、時にこんな風に親切なので、不思議な感じがする。クールビューティーとちょっとした優しさ。そのコントラストは、この心をときめかせて仕方ない。
そこへ、シンが乱入してくる。
「ではぁぁ!ボクはカレーライスでぇぇぇー!」
「マレイに言っているのだが」
「ボクもぉぉぉ、グレイブさんにぃ、貰ってきてほしいですよぉぉぉー!」
「断る」
ばっさりと拒否されたシンは、大袈裟に肩を落とす。ショボーン、という効果音が本当に聞こえてきそうなくらいの、派手な落ち込み方だ。
「で、マレイは何を?」
「カレーでお願いします……」
「分かった」
グレイブは一度頷くと、速やかに席を離れる。取りに行ってくれたようだ。ありがたいが、少し申し訳ない気もする。
シンも彼女についていき、私はその場に一人になってしまった。
賑わう食堂内で一人というのは、少々寂しさがある。けれど、今私がここから離れてしまっては、席を他の人にとられるかもしれない。だから私は、ぽつんと椅子に座ったまま、グレイブたちの帰りを待った。
そんな時だ。
見知らぬ女性三人組が話しかけてきたのは。
「ちょっといいかしら?」
最初に言葉を発したのは、三人組の真ん中の女性。パサついた茶髪が目立つ、二十代後半くらいのパッとしない女性である。
「マレイさんよね?」
「はい」
「貴女、トリスタンに構ってもらっておきながら、例の人型化け物にまで手を出したんですって?」
私は一瞬、何を言われているのか分からなかった。
手を出したなんて、まるで、私が悪い女であるかのような言い方ではないか。なぜそのようなことを言われねばならないのか、理解不能だ。
戸惑いのあまり言い返せずにいると、パサついた茶髪の女はさらに絡んでくる。
「貴女って、随分男好きなのね。どんな技で迫ったのか、ぜひ伝授いただきたいわ」
「え?何を……?」
彼女は一体、何を言っているのだろう。
まったくもって理解できない。
しかし、そんな中でも一つだけ、分かることがある。それは、目の前の女性たちが面倒臭い人たちだ、ということだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.66 )
- 日時: 2018/07/23 00:26
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 0dFK.yJT)
episode.61 散らかったカレー
「とぼけないでちょうだい!どうやってたぶらかしたのかって聞いているのよ!」
パサついた茶髪の女性は、やはり、まだ絡んでくるつもりのようだ。
何やら面倒事に巻き込まれた感じがする。
しかも、よりによってグレイブもシンもいないタイミング。恐らく、私が一人になるタイミングを狙っていたのだろう……実に鬱陶しい。
「あの、なぜそのような誤解が生まれたのか分かりませんが、私はたぶらかしてなんてないです」
そんな必死じゃないわ。
心の中でそう吐き捨てるように言ってやった。もちろん、口からは出さないが。
すると、茶髪の女性の背後に控えている女性の片方が、急に叫ぶ。
「嘘ついてんじゃねーよ!」
つけ睫毛が睫毛のラインからずれているその女性は、女性らしいとは到底言い難いような荒々しい声色を発した。唾を飛ばしながら叫ぶ彼女に、品なんてものはひと欠片も存在しない。
「若いからって、ちょーしに乗ってんじゃねーよ!」
「調子に乗ってなんていません」
念のため、はっきりと言っておく。
それを聞き、つけ睫毛がずれた女性は、さらに荒々しい声を出す。
「どー見ても乗ってんだろが!トリスタン様に世話になってながら、他の男にも手ぇ出すとか、調子に乗ってるとしか思えねーんだよ!」
嫉妬しているのがまる出しだ。
恥ずかしくはないのだろうか……。
「そうよ。二股する女なんて、帝国軍の淑女として認められないわ」
今度は茶髪の女性が言ってきた。
この人たちは、なぜこうも厄介なのか。べつに害を与えるわけではないのだから、放っておいてくれればいいのに。
「してません」
「あの程度は普通だと言うの!?嫌みな尻軽ね!!」
「一方的に尻軽だなんて、他人の名誉を汚す問題発言ですよ。いい年して恥ずかしくないんですか」
すると茶髪の女性は、ついに、掴みかかってくる。
彼女の握力は信じられないくらい強く、私が抵抗できるような力ではなかった。
だが、怖くはない。
恐怖など、これまで十分に感じてきた。大切な存在と引き離される怖さも、化け物と戦わねばならない怖さも、経験済みだ。だから、女性に襟を掴まれる程度、怖いの『こ』の字もない。
「離して下さい」
取り乱してはいけない。
そう思い、私は冷静に言った。
「離せ言われて離すんなら、最初からしないっつーの!」
返してきたのは、掴みかかってきている茶髪の女性ではなく、その後ろにいるつけ睫毛がずれた女性の方。品の欠片もない声色と言葉遣いで、すぐに判断できた。
やはり簡単に離してもらえそうにはない。
ならば別の作戦を——と思った瞬間。
「何様のつもりで騒いでいる」
聞こえてきたのは、よく研がれたナイフの刃のような、冷ややかで鋭い声。耳を通過し胸にグサッと突き刺さるような声色だ。
「あぁー?そっちこそ、何様の……」
つけ睫毛がずれている女性は、相変わらずの品のない言葉を吐きつつ振り返る。そして、視界に入った人物に、顔を真っ青にした。
「ぐっ……!グレイブ!!」
艶やかな長髪、漆黒の瞳。そして、色気漂う鮮やかさが印象的な、紅の唇。カレーライスの乗ったお盆を二つ持っているが、美麗な容姿は健在だ。
「またお前たちか」
グレイブの後ろにはシンの姿もある。
「耳障りだ。とっとと立ち去れ」
グレイブの声からはただならぬ威圧感を感じる。
面倒な女性たちも、さすがにグレイブに逆らいはしないだろう——そう思っていたのだが、それは間違いだった。
「うぜーよ、アンタは!遠征部隊の死にぞこないが!」
それにはシンが黙っていない。
「グレイブさんにぃぃぃ、何言ってくれるんですかぁぁぁー!!」
シンは、今にも飛びかかりそうな顔つきで、女性たちを睨んでいる。普段のシンからは想像し難い、獰猛な獣のような顔つきだ。パンチのある巨大な眼鏡をかけているのもあいまって、かなりの迫力である。
「落ち着け、シン。相手にするな」
冷静そのもののグレイブが制止しようとしても、シンは止まらない。
完全に怒ってしまっているようで、今度は歯茎を剥き出しにしている。この前戦った狼型化け物を彷彿とさせる、驚きの、豪快な表情だ。
「グレイブさんを侮辱はさせませんよぉぉぉーっ!!」
「いいから落ち着け」
「無理ですよぉぉぉ!」
はぁ、と呆れた溜め息を漏らすグレイブ。
「黙れと言っているんだ」
「だってだって、死にぞこないなんて言うんですよぉぉぉ!?」
怒りに震えるあまり、シンは、手に持ったお盆の上のカレーライスをこぼしてしまっていた。後々、掃除が大変そうだ。
「とにかく」
グレイブはお盆を近くのテーブルに置き、目線をシンから女性たちへと変える。
「マレイから手を離せ。……まだ従わないというのなら」
手首に装着した腕時計から、グレイブは長槍を取り出した。
かっこよく構える。
「強制的にいかせてもらうが」
漆黒の瞳が怪しく煌めく。
その様には、さすがの女性たちも、恐怖を抱いたようだ。
女性たちは口々に「覚えてろ」といった趣旨の発言をし、一斉にこの場から逃げていった。
厄介な女性三人組が逃げた後、グレイブは長槍をしまう。そして、床に転んでいる私に手を差し出してくれる。
「大丈夫か」
「あ……ありがとうございます」
その時のグレイブは、いつになくかっこよく見えた。そのかっこよさといえば、一瞬「トリスタンよりもかっこいいのでは?」と思ってしまったほどである。
「ああいう柄の悪い連中は、大概、ずっと訓練生をしている輩だ。大きい顔をしているがさほど強くはない」
「そうだったんですか」
「だからああやって群れている。しかし、それこそ、今のマレイでも勝てる程度の相手だ」
そういうことらしい。
もっとも、仕組みを理解しきっていない私には少々難しいが。
「それゆえ心配しすぎる必要はない。だが、目をつけられると厄介だからな。気をつけた方がいい」
「分かりました」
「何かあれば早めに言ってくれ」
「はい。ありがとうございます」
それから、「さて」と、グレイブはシンへ視線を移す。
「その散らかったカレーをどうしたものか……」
- Re: 暁のカトレア ( No.67 )
- 日時: 2018/07/24 20:52
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: aOQVtgWR)
episode.62 一触即発?ややこしい
一週間ほど経った、ある昼下がり。
私はグレイブから呼び出しを受けた。指定の部屋へ行くと、フランシスカやトリスタン、そしてなぜかゼーレまでもが、既にそこにいた。もちろん、その他の隊員も数名いる。
部屋に入るなり、ゼーレがこちらを向いた。酷いことを言ってしまった一件以来、私とゼーレは気まずいままだ。
「あ……ゼーレも来ていたのね」
「何か問題でも?」
「い、いいえ。珍しいなと思っただけよ」
それは嘘ではない。本当に、珍しいと思ったのである。
「この前は……ごめんなさい」
「べつに。気にしていません」
ゼーレはそっけなくそれだけ言った。彼は、それ以上言及してはこなかった。
「マレイちゃん、こっちこっち」
そう言って手招きするのはトリスタン。
一歩室内に入った辺りで動きを止めていた私に、彼は、ジェスチャーで席につくように言ってくる。私は彼がジェスチャーで指示する通り、彼とフランシスカの間の席へ座った。
「マレイちゃん、遅かったねっ」
私が椅子に腰掛けるや否や、フランシスカは明るい声で言ってきた。
「すみません」
「大丈夫だよっ。だって、まだ始まってないし!」
それなら「遅かったね」なんて言う必要はなかったのではないだろうか。そんな思いが湧き上がってきたが、敢えて口から出す必要もないと判断したため、胸に秘めたままにしておく。
そのうちに、グレイブが現れた。
顔に近づく髪の毛を払い除けるたび、黒く長い髪はするんと流れる。捕まりそうで捕まらない小動物のようだ。
「待たせてすまない」
書類を胸元に持ったグレイブは、さらりと謝りつつ、みんなの前へ立つ。
「では今回の件について」
なぜゼーレもいるのかが、微妙に気になる。
「今回の任務の主な内容は、近頃ダリアに発生しているというカニ型化け物の殲滅だ」
——ダリア。
私の中で、言葉が響いた。
ダリアは私がここへ来る前に暮らしていた場所だ。私が暮らしていた頃は、化け物の被害はほとんどない土地だった。
それなのに、今は化け物が発生している。少々ショックだ。
「証言によれば、群れをつくり、一斉に砂浜に上がってくるらしい」
「気持ち悪いですねっ」
フランシスカは言う。快晴の空のようにすきっとした声で。
……カニ型化け物が聞いたら、傷ついただろうな。
「攻撃性はそこまで高くないそうだが、観光客が減りつつあるという話だ」
淡々と述べるグレイブに、トリスタンが返す。
「確かに、それは帝国にとっても問題ですね。景気が悪くなったら困りますし」
気にするべきは、そこなのだろうか?
心なしか疑問だ。
「そういうわけで、ダリアに出向いてカニ型化け物の群れを殲滅する。それが今回の任務なわけだが……」
グレイブは一度言葉を切った。それから、軽く瞼を閉じ、ひと呼吸おいてから目を開ける。漆黒の瞳が湛える色は、真剣そのものだ。
「トリスタンは外す」
瞬間、室内がざわめく。
当たり前だ。実力者ポジションのトリスタンが外されたのだから、みんなが驚くのも無理はない。
事実、私だって驚いている。
「僕はパスですか」
「あぁ。トリスタン、最近のお前は調子が悪そうだ。ゆっくり休め」
「……分かりました」
意外にも、トリスタンはあっさり引いた。
「代わりにゼーレを連れていく」
グレイブが告げた瞬間、室内の空気が凍りつく。
隊員たちからの刺々しい視線が、一斉にゼーレへ向いた。
それらの視線は、私に向けられたものではない。それは分かっている。にもかかわらず突き刺さるような感覚が肌を駆けるのは、隊員たちの視線の刺々しさゆえだろう。
「グレイブさん……どうしてですかっ?」
氷河期のような沈黙を破り、口を開いたのは、フランシスカだった。彼女はゼーレを睨んではいない。しかし、その愛らしい顔には、困惑の色が浮かんでいる。
「グレイブさんはゼーレを嫌って……」
「そうだ。だが、利用することにした」
ますます困惑した表情になるフランシスカ。
「本人によれば、ゼーレは向こうに捨てられたそうだ」
それを聞いてふと思い出した。トリスタンを助けた夜、ゼーレが、『やはり使い捨てだったのですねぇ』などと言っていたことを。
詳しいことは分からないが……もしかしたら関係があるのかもしれない。
「そこで、こちらへ力を貸してもらうことに決めた。間違いないな?ゼーレ」
「……間違いありません」
ゼーレは静かな低い声で答えた。それにより、場の緊張感がさらに高まる。
「分かったな、そういうことだ。化け物と縁を持つ者を仲間に加えるのは不愉快極まりないが、この際、利用できるものは利用する」
「酷い扱いですねぇ」
「黙れ、ゼーレ。私は貴様を甘やかしはしない」
「勘違いしないで下さい。貴女のために助力するわけではありません」
ゼーレは、今日も変わらず、口が悪かった。相変わらずな言葉選びである。
「ちょっと、グレイブさん!やっぱり駄目ですよっ。こんな偉そうなのを仲間に加えるなんてっ!」
「フラン、そう言いたくなる気持ちは分かるが堪えてくれ」
室内は何とも言えない空気だ。フランシスカ以外の隊員たちは言葉を発しはしないが、ゼーレへ刺々しい視線を向けていることに変わりはない。彼らの中にも、ゼーレへの強い不信感があるということだろう。
「もし仮に裏切るような素振りをすれば、私が責任を持って彼を始末する。それで問題はないはずだ」
グレイブは淡々とした調子で言いきった。はっきりと、きっぱりと。
フランシスカはそれからは発言しなかったが、その顔には不安の色だけが浮かんでいた。丸みを帯びた愛らしい瞳が揺れる様は、こちらの心まで揺さぶる。
けれども負けてはいられない。この程度の不安で弱っているようでは駄目だ。
もっと強くならなくてはいけない。私も今は一人の隊員なのだから。
説明会終了後、珍しく、ゼーレが自らトリスタンに声をかける。
「ついに外されてしまいましたねぇ、トリスタン。しかし、良いタイミングです」
いきなり失礼なこと言われ、トリスタンはむっとした顔をする。それでも顔立ちは美しい。
「……喧嘩を売っているのかな?」
「まさか。私はただ、『ゆっくり休んでほしい』と思っているだけですよ」
いやいや。さすがにそれは汲み取れないだろう。
「ともかく、カトレアのことは任せて下さい。これからは……私が彼女を護ります」
ゼーレは、なぜか、勝ち誇った声色だった。
「君は相変わらず性格が悪いね」
「そうですねぇ。しかし、貴方のような無能よりはましです」
不快感を露わにするトリスタン。
挑発的な発言ばかりするゼーレ。
二人の間に漂う空気は、これまで経験したことがないほどに最悪だ。
そんな最悪の空気の中にいる私は、胃がキリキリと痛むのを感じた。一触即発というようなこの状況は、私には厳しすぎるようである。
- Re: 暁のカトレア ( No.68 )
- 日時: 2018/07/25 20:19
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 10J78vWC)
episode.63 海の街へと
数日後。
ダリアへ出発する朝が来た。
天気は見事な快晴。空は晴れ渡り、青く澄んでいる。日差しはかなり強いが、そんなことは少しも気にならないほどに、心地よい朝だ。
昨夜の夜警は、今回ダリアへ行かない隊員が務めてくれた。そのため、私たちは夜の間に睡眠をとることができ、助かった。恐らくみんな、ぐっすり眠れたことだろう。
普段通り、焦げ茶色の長くも短くもない髪を一つにまとめ、帝国軍の制服を身にまとう。私はそれから、荷物を詰めたトランク持って、集合場所へと向かった。
「マレイちゃーんっ!」
集合場所である、基地を出てすぐのところへ行くと、フランシスカが迎えてくれた。彼女は、朝早いとは思えぬ、晴れやかな顔つきをしている。
そして驚いたのは服装だ。
私はてっきり制服を着ていくものと思っていた。しかし、それは違ったらしい。というのも、フランシスカは私服だったのである。
彼女が着用しているワンピースは、初々しさのある桃色。丈は太ももと膝のちょうど真ん中くらいまで。丸みのある襟と、スカートに当たる部分に施された小花の刺繍が、非常に愛らしくて印象的だ。
あどけなさの残る、大人と子どもの狭間の女性——そんな雰囲気を演出するにはもってこいのデザインだと、私は思った。
「おはようございます」
「おはようっ」
「その服、可愛らしいですね」
「でしょでしょ!ありがとっ」
フランシスカは屈託のない笑みを浮かべる。今日の彼女は機嫌が良さそうだ。
「で、マレイちゃんはどうして制服なの?」
穢れなき笑顔のまま、痛いところを突いてくる。
さすがはフランシスカ。
「前にフランが買ってあげた服、着ないの?」
「いいえ。もちろんちゃんと持ってきているわ」
つい怪しい発言になってしまったが、嘘ではない。前にフランに買ってもらった服は、トランクの中にちゃんと入っている。
「着てくれば良かったのに!」
「ごめんなさい、フランさん。制服を着るものだと勝手に思い込んでしまっていたの」
するとフランシスカは、瞼を半分ほど閉じ、ジトッとこちらを見てきた。
「ホントにー?」
「嘘なんてつかないわ。本当よ」
「……なんてねっ。冗談だよ。びっくりした?」
そんなことだろうと思った。
彼女は、冗談とは思えない冗談を言う質である。
さすがにもう慣れたわ。
呑気にフランシスカと話していると、そこへ、グレイブがやって来た。
「マレイに、フラン。もう来ていたのか。早いな」
良かった!
グレイブも制服だった!
「どうしてマレイちゃんが先なんですかっ。フランの方が早く来てたんですけどー」
「そうだったのか、すまない。では、フランにマレイ、だな」
フランシスカの絡みを軽く流せるグレイブを、私は内心尊敬した。さすが大人、といった感じの対応だ。
私もいつかそんな対応をできるようになりたい、と思った。
それから、私たちはダリアへと移動することになった。トリスタンと帝都へ来た時と同じ、列車での移動だ。
二人ずつ座る席だったので、私はゼーレの隣に座った。彼の隣に座りたい者はいないだろう、と思ったから。
ちなみに、窓側がゼーレで、私は通路側である。
「そういえば……カトレア」
隣の席に座りはしたものの気まずくて、黙っていると、ゼーレが自ら話しかけてきた。彼から関わってくるというのは、新鮮な感じだ。
「何?」
「貴女が働いていた、あのオンボロ宿に泊まるそうですねぇ」
「そうなの!?」
「グレイブがそう言っていましたよ。カトレアの知人の宿だからだそうです」
知らなかった……。
ということは、アニタに会うということだ。久々でなんだか緊張する。
だが、この機に成長した姿を見せなくては!
「あのオンボロ宿……衛生管理はちゃんとしていますか?」
「え?」
「清潔にしているのか、と聞いているのです」
いきなりの問いに戸惑いながらも、私は、「えぇ」と答えた。
衛生管理、というのは難しくて分からない。しかし、不潔ではないということは、分かっているからである。
「なら良いですが」
ゼーレは銀色の仮面に覆われた顔を窓側へ向けつつ、独り言のように言う。
どうやら彼は綺麗好きらしい。正直ちょっと意外。新たな発見だ。
ちょうどその時、小さな男の子が、ててて、と走ってきた。茶色い髪の五歳くらいと思われる男の子だ。
その子は、私たちの席の近くにまで歩いてくると、立ち止まる。そして、ゼーレを指差した。
「怪しいやつがいるー!」
大声で言われたゼーレは、ガタンと座席から立ち上がる。
「何が怪しいやつですか!」
「落ち着いて。子どもよ」
しかしゼーレは止まらない。むしろ、さらにヒートアップしていってしまう。
「カトレア!貴女は、子どもなら何をしても許されると言うのですか!」
「叫ばないでちょうだい!」
私はついに声を荒らげた。
口調を強めなくてはゼーレは止まらない、と思ったからだ。
すると、ゼーレの怒りは少し止まる。
「……はいはい。分かりましたよ」
今度はいじけるモードに入ったようだ。窓の方を向き、手元に小さな蜘蛛の化け物を乗せている。私の方は一切見ない。
泣き出しそうになっている男の子に、私は優しめの声で話しかける。
「大丈夫?お父さんかお母さんは?」
「う、う……う……」
ついに泣き出してしまった。
「泣かなくていいわ。お父さんかお母さんのところへ帰るのよ」
「……うん」
それから一二分が経過した後、母親らしき女性が男の子を連れにきた。おかげで、親を一緒に探さなくてはならない状況は免れた。それは良かったと思う。
しかし——ゼーレの機嫌が悪くなってしまったのが厄介だ。
- Re: 暁のカトレア ( No.69 )
- 日時: 2018/07/26 15:11
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: GudiotDM)
episode.64 弾きあいつつも
無理矢理制止しようと強い調子で声をかけたため、ゼーレはすっかり不機嫌になってしまった。彼は窓の方を向きながら、自身が作り出した小さな蜘蛛型化け物と戯れている。こちらへ顔を向けようとは少しもしない。
「ゼーレ。さっきはきつい口調になって、ごめんなさい」
「…………」
「怒ってる?」
「…………」
完全に無視だ。
これだからゼーレは、と言いたくなるような、露骨な無視の仕方である。
なぜこうも分かりやすいのだろう。
「ゼーレ、こっちを向いて。怒らないで」
挫けずに声をかけてみるが、やはり返事は返ってこなかった。さすがにイラッときた私は、いけないと分かっていながらも、声を荒らげてしまう。
「もう!どうして無視するの!」
カッとなっていたのもあり、私は半ば無意識に、ゼーレの片腕を掴んでしまう。すると彼は、腕を掴む私の手を、パァンと払い除けた。
——そして、訪れる沈黙。
私とゼーレの間の空気が、冬のように冷えていく。どうしてゼーレとだけは、こうも上手くいかないのだろう。
アニタ、トリスタン、その他の隊員たち。今まで出会ってきたゼーレ以外の人たちとは、気まずくなることはあれど、派手に喧嘩になることはあまりなかった。
なのにゼーレとは、すぐに言い合いになってしまう。
「……酷い」
隣に座っているのがトリスタンなら、こんなことにはならなかったのに。
そんな風に思ってしまった。
「口を利いてさえくれないなんて、酷いわ」
段々泣きたくなってくる。
親しくなれてきたと思った。少しずつ距離は近づいていると、そう信じていた。
だけどそれは、私の勝手な思い込みだったのかもしれない。そう思った時、悲しみの波が押し寄せてきた。
言葉にならない鈍い痛みが、胸全体に広がる。
「どうしてよ……」
グレイブやシン、フランシスカなどを含む他の隊員たちは、自由気ままに寛いでいる。
持ってきたお菓子を食べる者。本を読んでいる者。隣の人と話す者。と、行動は色々だが、みんなリラックスした表情だ。
暗い顔をしているのは私だけ。
そんな時だった。
「どうしたのですかぁぁ?」
憂鬱な気分にさいなまれて黙り込んでいると、唐突に、誰かが声をかけてきた。いちびったような声だったので、声の主がシンだとすぐに気づく。
俯いていた面を持ち上げると、彼の大きめの眼鏡が、すぐ近くにまで接近してきていた。今日のシンは、いつもとはデザインが異なった眼鏡を装着している。今日の眼鏡は黒縁だ。
「シンさん……」
「浮かない顔をなさってますけどぉ、何かありましたかぁぁぁぁぁぁ?」
シンの独特の喋り方は健在のようである。
「特に何も……」
私が言いかけた瞬間、シンはさらに顔を近づけてきた。ぐいっぐいっ、と寄ってくる。かなりの迫力だ。
「嘘!それは嘘ですねぇぇぇ!」
声が大きい、声が。
「あ!もしかしてぇぇ、隣の彼と喧嘩ですかぁぁぁぁぁ!?」
「ちょ、ちょっと、静かにして下さいっ……!」
ヒートアップしてくるシンを、私は慌てて制止する。するとシンは、「そうでした」と言いつつ、大人びた咳払いをした。グレイブに怒られ慣れているからか、意外と素直だ。
「で、マレイさんがぁぁ、落ち込んでらっしゃる理由はぁぁ、何ですかぁぁぁ?」
「あの、気にしないで下さい。たいしたことはないので」
「けどぉ……心配ですよぉぉぉぉぉぉ。仲間ですからぁぁぁ」
なぜこうも首を突っ込んでくるのだろう、と不思議に思っていると、シンはゼーレの方へ目を向けた。
シンが余計なことを言わなければいいのだが。
「あのぉー、ゼーレさん。マレイさんに意地悪するのはぁ、止めて下さいぃぃぃ」
「余計な発言は慎んでいただきたいものですねぇ」
「で、ですがぁ、ゼーレさん。マレイさんが落ち込んでぇ……」
するとゼーレは、いつになく冷ややかな声を発する。
「黙りなさい」
ゼーレの金属製の腕に乗った小さな蜘蛛が、シンを威嚇するように動いていた。
その蜘蛛型化け物に気がつくや否や、シンは叫ぶ。
「うわあああぁぁ!虫は嫌ぁぁぁぁぁぁ!」
空気を震わせ、彼は大慌てで走り去る。半泣きになっていた。
シンが逃げていった直後、ゼーレは不満げにぽそりと呟く。
「蜘蛛は虫ではないのですがねぇ……」
突然の独り言に驚いてゼーレの方へ顔を向けると、ちょうど、彼もこちらを向いていた。彼は気まずそうな仕草をする。
しかし、少しして、彼は口を開く。
「先ほどは……その」
何やら言いにくそうにしている。
「すみませんでしたねぇ、無視して」
「え?」
思わず情けない声が出てしまった。ゼーレの方から謝ってくるなんて、夢にも思わなかったからだ。
「ゼーレ?今、何て……」
「何度も言わせないで下さい」
両腕を背中側へ回しつつゼーレは返してきた。
「どうしてよ。聞こえなかったの、もう一度言ってくれない?」
「聞き逃した貴女に問題があるでしょう」
「ごめんなさい。でも、ちゃんと聞きたいの。だからお願い。もう一度言って」
やや上目遣いで頼んでみる。こういったことには慣れていないが、せっかくの機会だから試してみたのだ。
すると、意外なことに、ゼーレは言う。
「無視して悪かった、と言ったのです」
やはり聞き間違いではなかったらしい。改めてほっとした。
「……私を責めますか?」
「いいえ。そんなことしないわよ。気にしていないもの」
責めたって、何にもならない。
「やはり……お人好しですねぇ」
「悪い?」
「いえ、べつに」
- Re: 暁のカトレア ( No.70 )
- 日時: 2018/07/27 18:54
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Re8SsDCb)
episode.65 ダリアに着いてから
長い列車の旅を終え、私たちはダリアに降り立った。
すっきりと晴れた空と、夏のような音を立てる海が、青一色で繋がっている。
帝都とはかなり異なる風景が懐かしい。が、その風景よりも、「懐かしい」と思ってしまう自分に驚く。ダリアから離れ、まだ半年も経ってもいないのに、こんなに懐かしいのが不思議だ。
「ここがマレイちゃんが暮らしてた街なんだねっ。凄い田舎だけど、綺麗!」
アニタの宿へ行く道中、隣を歩いていたフランシスカが言った。
凄い田舎、は余計だが、ダリアの美しさを分かってくれている様子なのは嬉しい。なんせ青が綺麗なのだ、この街は。
「マレイちゃんはこんな綺麗なところで、宿のお手伝いなんてしてたの?」
「えぇ。そうよ」
あっさり答えると、彼女は満面の笑みで述べる。
「もったいないことしてたんだね!」
はい?と言いたくなる気分だ。
とにかくどこかで働かなくては、生きていけない状況だったのだ。それに、職場を選ぶ余裕なんてなかった。そんな状況でまともな宿に勤められていたのだから、感謝しなくてはならない。
もっとも、ずっと帝都暮らしのフランシスカには分からないのだろうが。
少しして宿に着く。
なぜか私が先頭になってしまったため、恐る恐る、アニタの宿の入り口の扉を開ける。帝国軍の一員として泊りにやって来た私を見たら、アニタはどんな顔をするだろうか。
また何やら叱られそうな気もするが、今やそんなことは怖くない。
キィ、と音を立てて扉は開く。
するとそこには、懐かしい風景が広がっていた。宿泊客が食事をとる一階だ。
「こんにちはー」
私はやや小さめの声で挨拶をしてみる。
しかしアニタからの返事はない。
しばらく待ってみるも、誰も出てこない。それに、私が勤めていた頃より、空いている気がする。寂しげな空気が一階全体を満たしていた。
「……留守か?」
後ろにいたグレイブが、私の前辺りまで歩いてくる。
「マレイ、この時間は留守のことが多かったか?」
「いえ。お昼時は大体一階にいるはずなんですけど……」
おかしい。こんな昼間から、アニタが席を外すはずはない。だって、今の時間帯は、一番宿泊客が予約に来る時間だもの。アニタは、書き入れ時に外出するほど、マイペースな人ではないはずだ。
「もしかして……何かあったのかな?」
不安げな表情になるフランシスカ。
漂う空気が固くなっていく。
「よく分からないが、何かあったら問題だ。そこらまで様子を見てこよう。フランも来れるか?」
「はいっ」
「よし。では行こう」
グレイブはアニタを探しにいく気のようだ。
彼女の持つ、慣れない街でも怯まない行動力は、尊敬する。遠征部隊に所属していた頃に培った力だろうか。
宿を出ていくグレイブとフランシスカの後を、シンが追いかけていく。大きな声で「待って下さいよぉぉぉ!」などと言いながら。
なかなか珍妙な光景だ。
ダリアで暮らす人たちに、不審な集団と思われないといいが……。
グレイブらが出ていった後、私以外で唯一その場に残っていたゼーレが呟く。
「やれやれ。行ってしまいましたねぇ」
確かに、それは思う。
慣れていない街でいきなり動くなど、私だったらできない。
「行動が早いわよね」
「慣れない地では下手に動かない方がいいと思うのですがねぇ」
「……ゼーレにしては珍しく、まともなこと言っているわね」
「珍しく、は余計です」
そんな風に、ゼーレと冗談混じりの会話をしていると、トントントントン、と足音が聞こえてきた。それは、二階からの階段を降りる時の音だ。この宿屋で働いていたからこそ分かる。
アニタが降りてきた。
そう思い、階段の方へ顔を向ける——が、アニタではなかった。
さらりと流れる金の髪。
階段を降りてきたその人に、私は愕然とする。
「とっ、トリスタン!?」
暫し頭がついていかなかった。
休息するよう言われていたトリスタンがここにいるなんて、夢でも見ているのではないか、といった感じだ。
一つにまとめた長い金髪。深みのある青をした双眸。見慣れたトリスタンの容姿だが、今見ると、不思議という感じしかしない。
隣のゼーレを一瞥してみる。やはり彼も言葉を失っていた。
「びっくりさせちゃったかな?マレイちゃん」
トリスタンは柔らかく微笑みかけてくる。だが、私の心は疑問に満ちたままだ。
「どうしてトリスタンがここにいるの?」
「基地にいようと思っていたけど、やっぱりマレイちゃんに会いたくてね。ちなみに、宿泊費は自腹だよ」
マレイちゃんに会いたくて、は気恥ずかしいので止めてほしい。
特に、ゼーレがいる時は止めていただきたいものだ。というのも、ゼーレはそういったことに敏感なので、ややこしくなりがちなのだ。
「トリスタンも戦うの?」
「ううん、戦いはしないよ。なんせ休めと言われているからね」
一応分かってはいるらしい。
「ただ、マレイちゃんと離れるなんて嫌だったからね。つい来てしまったんだ」
つい来てしまった、でいいのか。大人なのにそれで大丈夫なのか。
突っ込みたいことは色々あるが、色々ありすぎて突っ込む気にもなれない。
「せっかくのマレイちゃんと楽しめる機会だからね」
トリスタンは私の手をとり、そっと握ってくる。
「戦えないにしても、来ないわけにはいかないよ」
「相変わらずね、トリスタン」
「え、そう?」
言いながら、首を傾げるトリスタン。その目つきは柔らかい。どうやらトリスタンは、無自覚でこのような発言をしているようだ。
トリスタンに会えたのは嬉しいが——少々疲れそうな予感がする。
- Re: 暁のカトレア ( No.71 )
- 日時: 2018/07/29 23:23
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: npB6/xR8)
episode.66 食べられる化け物
数分後。
フランシスカが宿へ帰ってきた。息が荒れているところを思うと、駆けてきたのだろう。
「マレイちゃんっ!」
彼女は私の近くにいるトリスタンを目にし、戸惑いに満ちたような顔をする。なぜトリスタンらしき者がいるのか分からないからだろう。
しかしフランシスカは、そのことに触れはしなかった。それより大切なことがあったからだと思われる。
「すぐ来れるっ!?」
慌てた様子のフランシスカに、ゼーレが怪訝な顔をする。異変を察知したようだ。
「……何かあったのですか?」
「カニ型化け物が出たの!この宿の主さんも巻き込まれてるっ」
それを聞き、私は思わず声をあげる。
「そんな……!」
アニタが化け物に襲われているということだろうか。だとしたら、少しでも早く助けに行かなくては。一刻も早く駆けつけて、助けなくてはいけない。
だって、アニタには凄くお世話になったから。
カニ型化け物か何か知らないが、恩のある人をそんなやつに傷つけさせるわけにはいかない。
「分かった。すぐに行くわ」
私はトリスタンを一瞥する。彼は「行って」というように、一度こくりと頷く。急なことではあったが、トリスタンは状況を理解してくれているようである。
「じゃあついてきてっ」
「えぇ、行くわ!」
先に走って行くフランシスカ。
私は、その背中を追った。
フランシスカの背を見失わないよう気をつけつつ、砂利道を懸命に走る。
帝都の道はもう少し整備されている。だから、整備されていない砂利だらけの道を走るのは久々だ。けれど、私の足は砂利道を駆ける感覚をしっかりと覚えていた。それゆえ、苦労なく走ることができる。
人生において、何の役にも立たない経験などありはしないのだと、今改めて感じる。
海の見える高台に着いた時、そこから見下ろす砂浜の光景に、私は愕然とした。というのも、アニタの宿に勤めていた八年間の中でも、一度も見たことのない光景だったからである。
「なっ、なにこれっ!?」
驚かずにはいられなかった。
なんせ、広大な砂浜にびっしりと、巨大なカニが現れていたのだから。
「あれが噂のカニ型化け物らしいよっ」
フランシスカが最小限の言葉で教えてくれた。
「あれが……。でも、カニにしては大きくない?」
「マレイちゃんったら、もう!カニじゃないって言ってるでしょ?あれは化け物の一種!」
あ、そうか。
それなら巨大なのも理解できる。蜘蛛型化け物の中に数メートルある個体がいるのと同じことだから。
そこへ、今になって追いついてきたゼーレが口を挟んでくる。
「実に多いですねぇ」
ゼーレが自ら絡んできたことに、戸惑った顔をするフランシスカ。
よく考えてみれば、その反応は真っ当だ。ついこの前まで敵だった者が当たり前のように話に入ってきたのだから、戸惑わないわけがない。
むしろ、なんとなく馴染んでいる私が変なのである。
「何それっ。他人事みたいで感じ悪いっ!」
「貴女は……カトレアと違ってうるさいですねぇ」
「マレイちゃんと比べないで!フランはフランなのっ!」
フランシスカとゼーレは、いつの間にやら険悪になっていた。
こうして見ていると、なかなか上手くはいかないものなのだな、と思う。
「……それより。倒さなくて良いのですかねぇ」
砂浜を見下ろしながらゼーレが漏らすと、フランシスカはむっとした顔をする。そして、鋭く言い放つ。
「ちょっとは協力しなさいよっ!」
ミルクティー色の髪は柔らかで、無垢な少女のように愛らしい顔立ち。睫毛は長く、瞳は丸い。そんなフランシスカだが、はっきりとした物言いには結構迫力があった。
「うるさいですねぇ」
フランシスカから鋭い声をかけられたゼーレは、「怒るまでもない」といったようにそう呟き、顔を私の方へ向ける。これ以降フランシスカを無視する、ということを暗に言っているような態度だった。
「効率的に行きましょう」
「取り敢えず砂浜の方へ行ってみる?グレイブさんの指示を待ち続けるだけというのもなんだし……」
「……分かりました」
ゼーレはなぜか素直だった。ひねくれ者の彼が素直な言動をとっていると、とにかく不思議で仕方がない。
その瞬間。
フランシスカが文句を言ってきた。
「ちょっと!フランを放って勝手に進めるとか!」
……あ。
正直に言うと、彼女の存在を忘れてしまっていた。
時折、傍にいる人の存在を忘れて話を進めてしまうのは、私の悪い癖だ。そんなのは失礼極まりない。
これからは気をつけよう、と、私は密かに思った。
「あっ……、勝手にごめんなさい」
「ま、分かればいいけどねっ」
良かった。許してはもらえそうだ。
「それじゃあグレイブさんからの伝言を伝えるねっ。マレイちゃんとそいつは——」
刹那、ゼーレがぐっと前へ出る。
「不躾ですねぇ。そいつ、などと言わないで下さい」
「うるさい。黙って」
またしても険悪な空気になるフランシスカとゼーレを、私は必死に制止した。
というのも、くだらないことでいちいち言い争っている暇はないと分かっているからだ。今は、砂浜を埋め尽くすカニ型化け物を倒すのが、最優先である。
「とにかく!マレイちゃんとその男は、地面から化け物退治をして!フランは上空から一気にいくからっ」
フランシスカの言葉に、私はハキハキと返す。
「えぇ、分かったわ!任せて!」
「なるほど……シブキガ二退治というわけですねぇ」
——数秒の間。
そして、私とフランシスカは同時に発する。
「「シブキガニ?」」
ゼーレがさらりと言った言葉に、反応したのだ。聞き慣れない言葉だけに、何かと思った。
「「シブキガニって?」」
私とフランシスカが再び尋ねると、ゼーレは答える。
「いちいち面倒ですねぇ……シブキガニというのは、あのカニ型の別名です」
なるほど、と感心する。
さすがあちら側にいた人間だけあって、化け物に詳しい。
「食用として開発された、珍しく食べられる化け物ですよ」
- Re: 暁のカトレア ( No.72 )
- 日時: 2018/08/01 12:56
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: xDap4eTO)
episode.67 シブキガニ
私とゼーレは、高台から、砂浜へと下りる。赤茶色をしたカニ型化け物——別名シブキガニの群れを退治するために。
ゼーレは蜘蛛型化け物に乗っての移動だが、私は走りなので、彼についていくのが大変だ。必死である。
けれども、ダリアのためアニタのためと思えば、少しくらい無理しても平気だ。
「待って!ゼーレ!」
「カトレア……急いで下さい。もたついていると、時間がもったいないですからねぇ」
ゼーレはこんな時にまで
「なら乗せてちょうだいよ!」
「それはできません。この子たちはデリケートなのです」
べつに悪いと言うわけではないが、過保護すぎる感が否めない。
砂浜に降り立つ。
改めて、シブキガニの大きさを感じた。高台から見下ろしても結構な大きさではあったが、同じ高さに立つと、より一層巨大に見える。日頃食べるカニとは、比べ物にならない大きさだ。
ゼーレは蜘蛛型化け物から降りる。
そして、高さ一メートル程度の蜘蛛型化け物を、四体作り出す。乗っていたものも含めると五体だ。恐らく、シブキガニと交戦する準備なのだろう。
「ではカトレア、行きま——ん?」
ゼーレは言いかけて、言葉を詰まらせた。何かを発見したような雰囲気だ。
何かと思い、私は目を凝らす。すると、明らかに化け物狩り部隊の隊員ではない人間が、数名、走ってくるのが見えた。そして、さらによく見ると、アニタの姿があることも視認できた。
「あれは……何です?」
「アニタもいるから、きっと街の人たちだわ」
「なるほど。しかし……シブキガニから逃れられないとは、何とも言えぬ弱さですねぇ」
馬鹿にしたような調子で、くくく、と笑うゼーレ。いろんな意味で彼らしい、嫌みのある笑い方だ。
「そんな言い方をしないでちょうだい」
「おや。私は事実を言ったまでなのですがねぇ」
「事実なら何でも言っていいわけじゃないのよ、ゼーレ」
「はぁ……いちいち面倒ですねぇ」
私とゼーレが言葉を交わしているうちに、一般の人たちは高台の方へ上がっていく。シブキガニは追ってきていない。にもかかわらず、彼らは必死になって走っていた。恐らく、シブキガニの群れから、早く逃げたかったのだろう。
その集団の中にアニタの姿もあったのだが、彼女が私に気づくことはなかった。
集団が目の前を通り過ぎた後、長槍を持ったグレイブが現れた。
長く艶のある黒髪、夜空のような漆黒の瞳、そして血のように真っ赤な唇。彼女を彼女たらしめる要素は、すべていつも通りだ。
「マレイにゼーレ。遅かったな」
私たちの姿を見つけるや否や、グレイブは声をかけてきた。
大量のシブキガニがいる状況下にあっても、彼女は冷静そのもの。その紅の唇からこぼれる声は、淡々とした調子である。
「巻き込まれた民間人の避難は完了した。ここからはカニ型の退治にかかる」
そう言って、グレイブは長槍を構えた。
——そして跳躍。
シブキガニとの距離を、一気に縮める。
「せいっ!」
グレイブは、手にした長槍で、シブキガニを上から殴る。殴られたシブキガニは、己より上にいるグレイブに狙いを定めて、プシューッと霧状のものを吐き出す。
「……そう来たか」
ぽそっと呟きながら、くるりと身を翻して飛沫をかわすグレイブ。
その身のこなしからは、軽やかさの中にもしなやかな強さを感じられる。ただ突撃するだけではない、というところが印象的だ。
シブキガニの背後の地面に降り立ったグレイブは、槍の先で、シブキガニの脚を切断する。トリスタンと巨大蜘蛛の戦いを彷彿とさせるような光景だ。
「お前たちも戦え!」
動きが止まっていた私たちに、彼女は鋭く叫ぶ。
私は咄嗟に「はい!」と答えた。
右手首の腕時計に指先を当て、攻撃の準備を行う。そして、徐々に前へと進む。
ここからが本当の戦いだ。
一体のシブキガニと対面すると、ばくん、と心臓が鳴った。
巨大な化け物と一対一という状況は、胸の奥の恐怖を掻き立てる。母を失ったあの夜を思い出すからかもしれない。
——だが、あの夜とは違うのだ。
今の私には戦う力がある。だからもう、一方的にやられるだけではない。気を強く持ち、できることをすべてする。今はただそれだけだ。
そんなことを考えている私に向けて、シブキガニは霧状のものを放ってくる。
咄嗟に横へ飛び退く——が、足にかかってしまった。
「あ!」
私のスピードでは避けきれなかったのだ。
しかし、痛みなどはなかった。ただ濡れるような感覚があるだけである。軽く濡れた足を指で触ってみると、微妙にべたっとしていた。
これは海水だろうか。
海から上がってきたシブキガニだから、海水ということも、あり得ないことはない。だとしたら、このまま動いても問題ないだろう。
右腕を伸ばし、シブキガニの脚の付け根辺りへ光球を放つ。
赤い光球は、狙い通りに飛んでいった。そして、シブキガニの脚周辺へ命中する。
「やった!」
上手く当たったことが嬉しくて、つい声を出してしまった。
しかし、少しして煙が晴れると、シブキガニの赤茶色をした体が視界に入る。まだ動いている。さすがに、私の力で一気に倒せるほど弱くはないようだ。
シブキガニはズシンズシンと低い音を響かせつつ近寄ってくる。
けれど、この程度で怯むわけにはいかない。
「……負けない!」
弱気になりそうになる私自身に、はっきりと言い聞かせた。
シブキガニは私に狙って霧状のものを吐き出してくる。今度の飛沫は薄い黄色をしていた。もしかしたら、先ほどまでとは違う成分なのかもしれない。
私は何とかすれすれのところでかわし、すぐに反撃に転じる。
気を強く持ち、放つのは、赤い光球——ではなく、赤い光線だった。
- Re: 暁のカトレア ( No.73 )
- 日時: 2018/08/02 13:35
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 3i70snR8)
episode.68 初勝利は刃とともに
突如、腕時計から放たれた、赤い光線。意図せず放出された一筋の光線は、シブキガニの赤茶色をした甲羅に、豪快に突き刺さった。甲羅はそれなりに硬いはずなのに、見事に突き刺さっている。
なぜこのタイミングで光線が出たのかは分からない。
ただ、一つだけ分かることは、チャンスだということだ。
いきなり甲羅への攻撃を浴びたシブキガニは、冷静さを欠いている。この状況なら、私にも勝ち目はあるかもしれない。
シブキガニは長い脚を掲げ、一気に振り下ろして叩き潰そうとしてくる。しかし、大振りな動作ゆえ、無駄が多い。私でも無駄が多いと分かるほどの、やけくそな動きだ。
私は、シブキガニが脚を持ち上げた隙に、その背後へ回る。
そして、気づかれるより早く、光球を撃ち出す。一気に決めたいので連射だ。
放った赤い光球は当たる。
今日は調子が良い。
後ろからの攻撃を受け、バランスを崩すシブキガニ。
次で終わらせる。
心をしっかりと決め、消滅するシブキガニをイメージする。
——その時。
腕時計が赤く輝く。ほんわりとしていて、しかしはっきりとした輝きだ。腕時計から溢れた輝きは、みるみるうちに形を変え、ついに剣状へ変形した。
突如として現れた剣。
その刃部分は、銅のような赤茶色。そしてかなり細い。持ち手は赤く、華やかさのある細やかな装飾が施されている。
全体的に赤みを帯びた色合いの剣は、宙で形になった後、私の足下付近へ落ちた。
私はそれを拾い上げ、握ってみる。
あまり重くはない。これなら私の力でも使えそうだ。と言っても、剣の扱いに慣れていないため上手には使えないかもしれないが。
ただ、一刻も早くシブキガニを倒さなくてはならないので、剣でいくことに決めた。
「……上手くいきますように」
祈るように呟く。
すると、銅色の刃部分から赤い光が溢れる。
その光景を目にした瞬間、私は、「いける」と確信した。これといった理由があるわけではない。確かな根拠があるわけでもない。けれども、その確信は揺るぎのないものであった。
私はシブキガニへ駆け寄り、背後から、その体に剣を突き刺す。赤い輝きをまとった剣先は、シブキガニの頑丈そうな甲羅を、いとも簡単に貫いた。
少ししてシブキガニは、ずぅん、と低い音を立てながら倒れ込んだ。以降、その体が動くことはなかった。
シブキガニは、これまで見た化け物たちとは違い、塵のようになって消滅しはしなかった。ゼーレが食用と言っていたことを思うと、シブキガニは、他の化け物とは違った体を持っているのかもしれない。
「やった……!」
こうして、初めて一人で化け物を倒した私は、暫し、満足感でいっぱいだった。安堵と達成感が混ざったものが、今、私の胸を温かく満たしている。
シブキガニは他種の化け物よりかは大人しかった。素早く近寄ってくることも、群れで迫ってくることもなかった。だから私にでも倒せたのだろう。
弱い種族の化け物を一体だけ倒したことなど、何の自慢にもならない。それは分かっている。しかし、それでも誇らしい。
ちょうどそこへ、ゼーレが合流してくる。
「ゼーレ!やったわ、私!」
思わずそんなことを言ってしまった。
なぜって、自分の力で倒せたことが嬉しかったから。
「……嬉しそうですねぇ」
呆れたように返されてしまった。
それもそうか。まだまだ敵はいるというのに、一体倒しただけで喜んでいる人間なんて、馬鹿としか言い様がないだろう。
「えっと、何だかごめんなさい。まだ一体しか倒していないのに喜んでいちゃ駄目よね」
私が言うと、ゼーレは小さな声で返してくる。
「いいえ。貴女にしては上出来です」
「え?」
耳を疑ってしまった。彼が「上出来」と言ってくれる可能性など、微塵も考えていなかったから。
「上出来だと言ったのです。……相変わらず耳が悪いですねぇ」
「あ……」
すぐに返答を発っすることはできなかった。言葉を詰まらせてしまい、妙に気まずい空気になってしまう。
だが、これだけはちゃんと言わなくては。
そう強く思い、数秒してから、しっかりと述べる。
「ありがとう」
馬鹿にされても仕方がないと思った。たいしたことをしたわけではないから。
だが、ゼーレは私を馬鹿にせず、褒めてくれた。
それは——本当に嬉しかったの。
「……何がありがとうですか、馬鹿らしい」
「貴方に褒めてもらえて嬉しかったわ」
「止めていただけますかねぇ。べつに……褒めたつもりはありません」
必死に否定するゼーレはどこか可愛らしく、つい、くすっと笑ってしまった。
彼は根は悪い人ではない。善い人と思われまいと振る舞っているだけだろう。これまで色々と接してきたから、私にはそれが分かる。
「素直じゃないのね」
「貴女は本当に……調子のいい女ですねぇ」
「そう?」
優しさを持ってはいて、でもそれを他人に隠そうとするところは、ゼーレの面白いところだ。ただ、素直になればいいのに、とたまに思う。
「まったくです。貴女はいつだって——」
言いかけて、ゼーレは突然こちらを向く。
「危ないっ!!」
「……え?」
突如のことに、私はぽかんとしてしまう。
そんな私を、彼は抱き締めるように抱えながら、跳ぶ。
——直後、凄まじい光とともに、轟音が響いた。
- Re: 暁のカトレア ( No.74 )
- 日時: 2018/08/03 15:22
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: CwTdFiZy)
episode.69 場面転換
何が起きたのか、暫し理解できなかった。あまりに突然のことだったから。
「……無事ですか」
「え、えぇ。一体何が?」
よく見ると、ゼーレがまとっている黒のマントは、半分ほど焼け焦げていた。白色の煙が漂っている。
「シブキガニとやりあっている場合では……なさそうですねぇ」
ゼーレは、振り返りながら、強張った声で述べた。彼が向いた方へ私も目をやる。
するとそこには、リュビエと見知らぬ男がいた。
見知らぬ男は背が高い。二メートルは軽くありそうだ。しかも、暗めの灰色の甲冑を身につけているため、なおさら大柄に見える。
そんな中でも、頭部だけは唯一露出しており、五十代くらいと思われるゴツゴツした顔が視認できる。
「お主が裏切るとは思わなかったぞ。ゼーレ」
地鳴りのような声で言う見知らぬ男。
ガシガシした毛質の真っ赤な長髪が印象的だ。
「な、何なの?」
「……下がっていて下さい」
状況が飲み込めないため尋ねてみたが、ゼーレは短く返してくるだけ。ほとんど何も教えてくれなかった。
「ゼーレ、ボスはお怒りよ」
リュビエは、見知らぬ男を『ボス』と呼んだ。ということは、目の前にいる彼こそが、『ボス』という人物なのだろう。
しかし、まさかいきなり現れるとは——驚きである。
「無駄な抵抗をせず、塵となりなさい」
「嫌です」
「ならば強制的に塵にする外ないわね」
ゼーレへかけられたリュビエの声。それは、信じられないくらい冷ややかなものだった。リュビエはもう、ゼーレを仲間だとは思っていないのだろう。
「ですよね?ボス」
リュビエが確認すると、ボスは低い声で答える。
「それもそうだが、ただ塵にするだけではつまらぬ。我を裏切った愚か者には、死より辛い目に遭ってもらわねば」
ボスの意思を聞いたリュビエは、彼にひざまずき、色気のある声色で「承知しました」と述べる。
「リュビエ。お主は、マレイ・チャーム・カトレアを捕らえよ。裏切り者は我がやる」
「はい。ボス」
ボスが傍にいるからか、リュビエの声はいつもより柔らかだ。特に、ボスへの言葉を放つ際には、他よりも女性らしさのある声色になっている。リュビエがこのような柔和な印象の声を出せるとは、少々驚きだ。
数秒後。
灰色の甲冑をガチャガチャと鳴らしながら、ボスはこちらへ歩み寄ってきた。ゆったりとした足取りだが、それがまた、不気味さを高めている。
私のすぐ前にいるゼーレの体が強張るのが分かった。
「大丈夫?ゼーレ」
「……貴女に心配されるほどのことではありません」
ゼーレは淡々とした調子で返してきた。だが、平静を装っているだけだと容易く判断できる。言葉こそ落ち着いているようだが、今、彼はかなり動揺していることだろう。
「お主はなぜゆえ我を裏切った」
少しずつ歩み寄りながら、ボスがゼーレに尋ねる。
地鳴りのような低い声だ。
「我への恩を忘れたか」
その声は、静かながらも、沸々と煮えたぎる怒りを感じさせる。
私はただ聞いていただけだが、ボスの声色から、地底で密かに燃えるマグマのようなものを感じた。凄まじい迫力だ。
「……恩、とは随分な言い方ですねぇ。私は貴方に感謝など、ほんのひと欠片もしていませんが」
「そうかそうか。では、命を見逃してやったことさえ、感謝していないというのだな」
「他人の両腕を奪っておいて……感謝などあるわけがないでしょう」
ゼーレは怯まずに言葉を返す。その様に、私は感心した。
なぜなら、このような恐ろしい雰囲気を持つボスに言い返せるなんて、凄いと思ったからだ。
私がゼーレの立ち位置だったなら、彼ほど強く出られたかどうか分からない。……いや、恐らく何も言い返せなかったことだろう。恐怖に支配されていたことと思う。
「両腕?そんなものが何だと言うのだ。お主には、両腕の代わりに、化け物を生み出す力を授けてやったではないか。それでもなお満足でないと言うのか」
この時になって、私は初めて知った。
なぜゼーレの腕が金属製で機械風なのかを。
彼の腕が人のそれでないことは、最初に出会った時から知っていた。人間に馴染まないそれは目立つからだ。けれど、なぜ彼の腕がそうなったのか、考えたことはあまりなかったように思う。
両腕を奪ったのが、まさかボスだったなんて……。
「お主の腕に価値などなかろう。今の状態の方が、お主の兵としての価値はずっと高い」
「……人間としての価値は、もはやゼロに等しいですがねぇ」
「そんなことはどうでもいいではないか。もはやお主に、人間として生きる道などないのだから」
ボスの心ない言葉を聞いた瞬間、私は、半ば無意識に放つ。
「そんな言い方しないで!!」
するとボスは私をじろりと見てきた。
悪魔のような目つきが非常に恐ろしい。
「マレイ・チャーム・カトレア。お主は黙っているがいい」
「いいえ!ゼーレにそんな言い方をされて、黙ってなんていられないわ!」
私の発言に、眉をひそめるボス。
怒っているというよりは、戸惑っているような表情をしている。
「何だと?」
「ゼーレは人間よ!感情も、優しさも、彼にはちゃんとあるもの!」
「面白いことを言う娘だ。ある意味気に入った。さらに欲しくなってきたぞ」
「そんな話をしているんじゃ——」
言いかけた瞬間。
耳に飛び込んできたのは、リュビエの鋭い声。
「黙りなさい!」
彼女は高くジャンプして、私とボスの間に降り立った。
黒いブーツは今日も、眩しいほどの太陽光を浴びて、てかてかと輝いている。スタイルの良さも健在だ。しっかりと凹凸のある体は、ダリアの陽のもとでも華やかさを失っていない。
個人的には、リュビエは、闇で忍び寄るアサシンのような印象が強かった。しかし、明るい戦場にいてもなお、彼女は魅力的だ。
……彼女を称賛するわけではないが。
「マレイ・チャーム・カトレア、お前の相手はあたしよ。ボスから直々に与えられたこの任務、必ず成功させるわ。今日こそは覚悟なさい」
ゼーレはボスと話している。だから、今彼は、私を助けることはできない。
それはつまり、私がリュビエと、一対一で戦わねばならないということである。
——だが。
今はできる気がする。戦える気がする。
先ほどシブキガニを倒したことで、自信はついた。
なので、私はもう怯まない。
戦いを望みはしないけれど、向こうが挑んでくる以上戦うしかない。だから、たとえ一人でもやってみせる。可能な限りの抵抗をしてみせるのだ。連れ去られないために。
- Re: 暁のカトレア ( No.75 )
- 日時: 2018/08/04 18:39
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: te9LMWl4)
episode.70 真紅の光は止まらない
ダリアの砂浜にて、今私は、リュビエと対峙している。
よく晴れた爽やかな空とは対照的に、私の心にはもやがかかっている。誰の助力も望めない状況で、リュビエと戦わなくてはならないからだ。
だが、それでも私は前を向いた。
魔の手から逃れる方法がそれしかないのならば、私は迷わずに戦う。それが、今の私にできる最善だから。
「覚悟なさい」
リュビエは冷淡な声で述べた。情など存在しない、と宣言しているかのような声色で。
そして、次の瞬間。
緑色の髪をなびかせながら、大きく、一歩、二歩、と接近してくるリュビエ。彼女は全身から、尋常でない迫力を放っている。
だが怯んでいるわけにはいかない。
私は心の中で「大丈夫」と呟き、自身を鼓舞する。
シブキガニとの戦いの時に発生した剣は消えてしまった。けれど、私には腕時計がある。だから最低でも光球は使える。攻撃手段があれば、ある程度は戦えるはずだ。
——とその時、リュビエの長い脚が回し蹴りを繰り出してきた。
私は咄嗟に数歩下がる。
それにより、すれすれのところで回し蹴りをかわすことができた。
「……よし」
攻撃直後を狙い、リュビエに向かって赤い光球を放つ。光球は炎のように輝きながら、リュビエへ迫る。
「遅いわ」
口元に余裕の笑みを浮かべるリュビエ。
彼女はしっかりと反応し、蛇の化け物を作り出す。そして、それで、私が撃ち出した光球を防いだ。
対応の早さには感心せざるを得ない。
「その程度じゃ、あたしからは逃れられないわよ」
「……でしょうね」
「そろそろ諦めればどう?」
「いいえ……諦めなんてしません!!」
私は日頃より調子を強めて言い放った。
そして、勝負に出る。
まずはジグザグにリュビエへと駆け寄っていく。捉えづらい動き方をすることで、少しでも翻弄できれば、と思ったからだ。
「そんな動きであたしを翻弄できると思ったなら、間違いよ」
リュビエは、淡々とそう言ってから、踏み込んでくる。この程度で下がってはくれないようだ。
ロングブーツを履いた美脚による蹴りがくる。
ジャンプしながらの、大振りな蹴りだ。
私はスライディングするようにして地面を進み、リュビエの背後へ回った。
私はつい、いつもこのパターンを使ってしまう。そのため、回を重ねれば重ねるほど、読まれる可能性は高くなる。しかし、慣れているためか、このパターンの成功率は比較的高い気がする。
そして放つ。光線を。
「馬鹿な!」
私の意思通り、腕時計から放たれたのは光線だった。赤くて太い、あの強力な光線である。
「このタイミングで光線っ!?」
胸の前で両腕を交差させて赤い光線を防ぎながら、動揺したように叫ぶリュビエ。かなり驚いているように見える。
だが、一番驚いているのは私だ。
これまで、自分の意思で光線を出すことはできなかった。しかし、今は間違いなく、私自身の意思によって光線を放った。
良い意味でかなり大きな変化だと思う。
「いけーっ!」
私は腹の底から叫んだ。
晴れたこの空に響き渡るほどの、大きな声で。
「……そんな」
リュビエの声が引きつる。
この時、ついに、リュビエの唇から笑みが消えた。
「馬鹿な!あり得ない!」
両腕で必死に防御していたリュビエだったが、耐え切れなくなり、数メートル後ろへ吹っ飛んだ。
リュビエの体が、派手に宙に浮く。
彼女の女性にしては大きな体を吹っ飛ばせるとは思わなかったため、少々驚いたが、今までにないくらいの好調だ。この波に乗っていけば、何とかなるかもしれない。
「くっ!」
地面を派手に転がるリュビエ。
さすがの彼女も、すぐには体勢を立て直せない。
そこを狙い、私は再び赤い光線を発射する。
「この……!」
リュビエは砂にまみれながらも、光線を避けようと、咄嗟に動く。地面の上を回転し、ぎりぎりのところでかわした。
今度の攻撃は避けられてしまった。しかし、諦めるにはまだ早い。まだチャンスはある。私の背を押してくれる勢いという名の波があるから、私はまだ戦える。
せっかくリュビエに攻撃を浴びせられたのだ、この機会は逃さない。
私はすぐに光球を放ちながら、リュビエへ接近していく。
「なめるな!」
鋭く叫び、たくさんの蛇の化け物を作り出すリュビエ。彼女はそれらの蛇型化け物によって、私の光球を一つ一つ確実に潰す。光球と蛇型化け物の数は互角だ。
このまま一気に近づき、至近距離から光線を叩き込む。
それなら、体格差も何もないはずである。
「なめてなんかいません!」
「調子に乗るんじゃないわよ!」
「放っておいて下さい!」
リュビエは既に立ち上がってきているが、まだ完全な体勢には戻っていない。叩き込むなら今がチャンスだ。
「覚悟!!」
右腕をリュビエに向けて伸ばし、腕時計に意識を集める。
——次は光線。
そう念じていると、念じた通りに、赤い光線が放たれた。
ダリアでトリスタンと共に巨大蜘蛛と遭遇したあの日。私の人生が動き始める原因となった、あの瞬間の軌跡——これは、その再来だった。
燃ゆるような真紅の光線は、まばゆい光をまといながら、立ち上がりかけのリュビエを襲う。
「……っ!」
さすがのリュビエも言葉を詰まらせていた。避けようと動くのではなく、身構えているところを見ると、かなり警戒しているようだ。
だが、身構えても無駄。
いくら体勢を整えていたところで、この光線を浴びて無事でいられるはずがない。
一筋の真紅は宙を駆ける。
そして、大爆発と共に、凄まじい砂煙が辺りを包み込んだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.76 )
- 日時: 2018/08/06 01:28
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Oh9/3OA.)
episode.71 ボスの判断
私が放った赤い光線が、爆発を起こし、砂煙が巻き起こる。今までに見たことのないような、大規模な砂煙だ。視界が一気にくすむ。
そして、待つことしばらく。
砂煙が晴れると、地面に座り込むリュビエの姿が目に映った。
彼女が着用している、肌にぴったり吸い付く黒いボディスーツは、ところどころ破れている。ナイフで裂いたような切れ目や、軽く焼け焦げたような穴が目立つ。
「やってくれたわね……」
リュビエは倒れきってはいなかった。
けれども、大きなダメージを与えられたことは間違いない。
これだけダメージを与えてさえいれば、まだ戦いが続くにしても、少しは有利に進められることだろう。
「なかなかやるじゃない」
「……ありがとうございます」
もっとも、敵に評価されても嬉しくはないが。
「だけどこんな奇跡、何度も連続はしないわ」
そうかもしれない。本当に、ただの奇跡かもしれない。だが、それでも私は、この波に乗っていく。奇跡を実力に変えることだって、不可能ではないはずだ。
「次はこちらの番ね。お返——ボス!」
リュビエが言いかけた刹那、ゼーレの方にいたはずのボスが、彼女のすぐ隣へやって来ていた。
ガシガシの赤い髪と灰色の甲冑が、相変わらず目立っている。
「何をしている」
ボスは低い声を出す。地鳴りのような、不気味な威圧感を含む声だ。
さすがのリュビエも、これには怯えたような表情を浮かべていた。彼女にも一応、恐怖という感情は存在するようである。
「し、失礼致しました……」
リュビエは少々慌てた様子で、頭を下げて謝罪する。
「必ずや任務は果たします!ですから、どうかお許し下さい!」
彼女はいつになく落ち着きのない状態だ。
ゼーレのように「使えない」として切り捨てられることを、恐れているのだろう。
リュビエはボスに仕えることを何より望んでいる。だからこそ、今こうして、焦り、怯えているのだと思う。
「どうか……!」
必死に許しを請うリュビエに、ボスはゆっくりと口を開く。
「……構わん」
「ありがとうございます……!」
不覚をとったことを許されたリュビエは、ボスの言葉を聞くや否や、ぱっと面を上げる。右手を胸元へ当て、軽く礼をする。先ほどまでの焦りや怯えは消えていた。
「ではあたしは、速やかにマレイ・チャーム・カトレアを——」
「いや。その必要はない」
「な、なぜです?あの役立たずに代わって彼女を捕らえるために、ここまでいらっしゃったのでは」
「いや。そのつもりだったが、もういい」
戸惑っているリュビエに対し、ボスはその逞しい首を左右に動かす。
「小娘はもう少し泳がせておいた方が……面白くなりそうだからな」
「そ、そうなのですか」
リュビエは戸惑った様子はそのままに、返事をしている。
いつも淡々としている彼女が、ボスの前ではこんなに焦ったり怯えたり戸惑ったりする。その事実は、なかなか興味深いと思えるものだった。
直後、リュビエがくるりとこちらを向く。
私は咄嗟に身構えた。しかし、どうも、再び挑んでくる気ではないようだ。
彼女は軽く顎を上げ、偉そうに言い放つ。
「ふん。そういうことよ」
この状況下においても、私に対しては高飛車な物言い。ボスと言葉を交わす時とはまったく異なった喋り方である。
「今回だけは見逃してあげるわ」
なんという上から目線。
思わず笑いそうになるくらいだ。
「ただ、逃れられるとは思わないことね」
そう吐き捨てると、リュビエは視線をボスへと戻す。
「では飛行艇へ戻られますか?」
「そうだな。そうしよう」
「招致しました。では、あちらまでご案内致します」
軽く礼をし、リュビエは片腕を伸ばす。すると、この前ゼーレがやってくれたのと同じように、空間がグニャリと歪んだ。歪みはみるみるうちに広がり、人が通れるくらいの大きさにまで広がる。
彼女もゼーレと同じく、あの術を使えるようだ。
それを考えれば、もしかしたらボスもできるのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、ボスとリュビエは砂浜から消えた。嵐が去るような、あっという間の退場だった。
二人が去り、少し心が落ち着いた頃、ゼーレの存在を思い出す。
私は彼の方へ視線を向ける。
——そして、愕然とした。
「ゼーレ!?」
彼が砂浜に倒れ込んでいたからである。
すぐに駆け寄る。
「ゼーレ!大丈夫!?」
俯きに倒れ込んでいる彼の体からは生気を感じない。金属製の腕も、二本の足も、力なくだらりと垂れている。
私は砂浜に座り込むと、彼の脱力した体を抱え上げる。
すると初めて反応があった。
「……カトレア」
これまでずっと彼の顔を覆っていた、銀色の仮面が、半分ほど割れていた。
仮面が割れた隙間から覗く肌は赤く染まっている。目は閉じているようだ。
「どうしたの!?あ、もしかして、あのボスとかいう人に?」
「少しばかり……油断しすぎましたかねぇ……」
ゼーレがこんなことを言うなんて、らしくない。
らしくなさすぎて不気味だ。
「一体何をされたの」
「愚かなことですが……一発食らっただけです」
「とにかくどこかへ運ぶわ。早く応急処置をしなくちゃ」
胸を上下させながら、ゼーレは小さな声を発している。
「……すみませんねぇ」
「そんなことを言わないで。らしくないわ」
「手間を……かけさせて」
「止めて!」
私は咄嗟に叫んでしまった。
「ゼーレはいつもみたいに、嫌みを言っていてくれればいいの」
シブキガニとの戦いを続けなくてはならないことは分かっている。けれども、こんな状態のゼーレを放置しておくことはできない。負傷した人を放って戦うなんて、私には不可能だ。
取り敢えず、ゼーレをこの戦場の外へ連れていかないと。
そう思って彼を持ち上げようと試みる。だが、上手く持ち上がらない。脱力した成人男性の体はかなり重かった。
「どうすれば……」
そんなこんなで困り果てている私の耳に、唐突に、聞き慣れた声が飛び込んでくる。
「マレイちゃん!」
声が聞こえた方を向くと、高台の上から階段を駆け下りてくるトリスタンが見えた。
「トリスタン!見ていたの!?」
「うん。何だか凄いことになっていたから、近寄れなくて。もっと早く来れなくてごめん」
よく晴れた空の青と、さらりとした金の髪。見事な組み合わせだ。何とも形容し難い美しさである。
「マレイちゃん大丈夫?」
「えぇ、私は。でも、ゼーレが……」
ゼーレは既に意識を失っていた。
頬をとんとんと叩いてみても、反応がない。
「怪我をしているの。でも私一人じゃ運べなくて」
するとトリスタンが、ゼーレの体に腕を回した。
「僕が運ぶよ。アニタさんの宿でいい?」
トリスタンの青い瞳が、真剣に見つめてくる。
それに対し、私はそっと頷いた。