コメディ・ライト小説(新)
- Re: 暁のカトレア ( No.79 )
- 日時: 2018/08/08 02:57
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 1Fvr9aUF)
episode.72 どうしようもない二人
トリスタンは意識のないゼーレをアニタの宿へと運んだ。マレイがシブキガニ退治に残ることを選んだからである。
ゼーレの応急処置は、既に宿に戻っていたアニタが行った。応急処置、と言っても、止血や傷口の消毒などの簡単な処置だけ。ではあるが、「取り敢えず死は免れただろう」と、トリスタンはほっとしていた。
もし仮にゼーレが命を落とすようなことがあっては、信じて託してくれたマレイに合わせる顔がないからである。
その後ゼーレは、アニタが気を利かせて用意してくれた一階の個室のベッドに、横たえられた。狭い部屋の中、トリスタンはゼーレが意識を取り戻すのを待つ。
「マレイちゃん……どうか無事で」
静寂の中、トリスタンは祈るように呟く。
たとえ離れた場所にいても、彼にとってマレイが大切な存在であることに変わりはない。だから、彼は今も、マレイの身を案じている。
それから、数十分ほど経過した時。
「……カトレア……」
ベッドに横たえられていたゼーレが、突然、はっきりしない声で何かを漏らした。
何を言っているのだろう、と疑問に思ったトリスタンは、ゼーレに近づき耳を澄ます。
「すみません……いつも……で」
ゼーレは、目は開いていないし、体が動いてもいない。それらのことから、トリスタンは、ただの寝言だろうと判断した。
「それでも……貴女が」
これ以上は耳を澄まして聞く必要もない——とトリスタンが思った刹那。
「……愛しい」
意識のないゼーレの唇から漏れた一言が、トリスタンを動揺の渦に巻き込んだ。平穏な街を突如嵐が襲ったかのように。
トリスタンは思わず立ち上がる。
今は弱者の立場にあるゼーレにだから手は出さない。だが、これがもし本調子なゼーレの発言だったなら、トリスタンは間違いなく手を出していたことだろう。
それほどに、トリスタンを動揺させる一言だったのだ。
その数分後。
ゼーレが唐突に、上半身をむくりと起こした。意識が戻ったようである。
彼はトリスタンの姿を発見するや否や、尋ねる。
「……ここは?」
それに対しトリスタンは、「宿だよ」とだけ返した。
そっけない言い方だ。その声は、マレイに話す時の優しい声とは別人のような、淡々とした声である。
「相変わらず愛想が悪いですねぇ……」
「偉そうなことを言わないでくれるかな。君をここまで運んだのは僕なんだから」
空気は凍りつくように冷たい。
もし仮に、この場にマレイがいたとしたら、きっと胃を痛めていたことだろう。
「ゼーレ。ちょっといいかな」
氷河期のような空気が漂う中、先に話を切り出したのはトリスタン。
「……何です」
「君はマレイちゃんのことが好きなの?」
トリスタンの真っ直ぐな問いに、割れた仮面の隙間から覗くゼーレの顔面が一瞬強張る。しかしゼーレは、すぐに、普段通りの表情に戻った。
「……はっ。馬鹿らしい。そんなこと、ありえないでしょう」
否定するゼーレに、トリスタンは言葉を重ねる。
「眠っている時、『愛しい』とか言っていたけど、あれは?」
「何です、それは。ただの聞き間違いでしょう」
「いや、間違いなく言っていたよ。だって、僕はこの耳で聞いたからね」
執拗に言われ、眉を寄せるゼーレ。
「私には意味が分からないのですが」
「だからね。君が眠っている時に、マレイちゃんのことを『愛しい』って言っていたんだよ。あれは何?マレイちゃんを好きってことじゃないの?」
するとゼーレは、急に態度を変える。
「もしそうだったら……どうするつもりです?」
ゼーレは片側の口角を微かに持ち上げ、ニヤリと怪しげな笑みを浮かべる。少し遊んでやろう、とでも思ったのかもしれない。
「僕としては、はっきりしてもらいたいところだね。好きなのか、そうじゃないのか、どっちなのかな」
トリスタンの表情は真剣そのものだ。
彼の青い双眸は、鋭い光をたたえながら、ゼーレをじっと見つめている。戦闘時ほどではないが、それに近しいくらいの、真剣な目つきだ。
そして、暫し沈黙。
長い静寂が部屋を包み込んだ。
トリスタンもゼーレも、何も言葉を発さない。先に口を開いた方の負け、というゲームをしているかのように、どちらも何も言わない。まさに黙り合いである。
もともと意地を張るようなところがある二人だ。こういうことになるのも仕方がない。
もっとも、マレイがいる時なら、話は別なのだろうが。
「……カトレアは今どこにいるのです?」
長い沈黙を先に破ったのはゼーレ。
黙り合いが始まり、既に十数分ほどが経った時であった。
「まだ砂浜にいるよ」
愛想なく答えるトリスタン。
「まったく、不愛想な男ですねぇ……ま、問いに答えるだけまだましですが」
そっけない態度をとられ続けているゼーレは、半ば独り言のような愚痴を漏らしていた。
しかしトリスタンは無視をする。
その態度に、「話にならない」と思ったのか、ゼーレは再び上半身を倒した。ベッドに横たわり、天井をぼんやりと眺めている。
一方のトリスタンはというと、室内にある椅子に腰をかけながら、瞼を閉じ、唇を一文字に結んでいた。ゼーレと関わりたくない、という気持ちが、態度に露骨に表れている。
その後も沈黙は続いた。
マレイのいない空間でゼーレとトリスタンが共存するのは、かなり難しいようだ。間に入るクッションのようなマレイがいれば何とかなるが、二人だけとなると、弾き合うばかり。
どうしようもない。
- Re: 暁のカトレア ( No.80 )
- 日時: 2018/08/09 00:18
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: .YMuudtY)
episode.73 優しい言葉と懐かしい香り
ゼーレをトリスタンに託した後、私はもうしばらく戦いを続けた。シブキガニからダリアを護るための戦いを。
その中で私は、フランシスカによる上空からの攻撃や、グレイブの迫力がある槍術を、じっくりと見ることができた。
シブキガニと戦いはしたが、最前線に合流したわけではなかったためだ。入った位置がやや後方寄りだったため、多少は余裕があったのである。
「大丈夫か、マレイ」
シブキガニ退治がある程度済んだ時、グレイブが私のところへやって来てくれた。
「あ、グレイブさん!はい。大丈夫です」
長きにわたる激しい戦いで、彼女は汗だくになっていた。だがそれでも美しい。汗で湿った黒髪が心なしか肌に張り付いている様は、言葉にならない色気を醸し出している。
「ゼーレは撤退したのだったな」
「はい。宿で手当てしてもらえていると思います」
「そうか。それなら——」
首を傾げていると、グレイブは私の肩をとんと押した。
「様子見に行ってやれ」
グレイブの血のように赤い唇から出たのは、思いの外優しい言葉。
彼女はゼーレを憎んでいる。そう思っていただけに、少々意外だ。
……いや、もしかしたら、彼女が気を遣っているのはゼーレでなく私なのかもしれないが。
「え、でも……」
「構わん、行ってくれ。ここは私たちに任せておいてくれればいい」
潤いのある漆黒の瞳は、私の姿をくっきりと映していた。それに気づくと、一層じっと見つめられているような気がして、何とも言えない気持ちになる。
「こちらのことは気にするな」
そう言って、ふふっ、と笑みをこぼすグレイブ。
いつも引き締まっている美しい顔が僅かにでも緩むと、なおさら魅力的に見える。完璧な者のちょっとした隙が良いのかもしれない。
「あ、ありがとうございます」
私はグレイブの言葉に甘えることにした。
戦場において、甘えなど許されたことではない。それは私だって分かっている。けれども、彼女が言ってくれたのだから、今くらいは甘えたって、ばちは当たらないだろう。
そして私は、高台の方へ走り出す。
目的地は、ゼーレがいるであろうアニタの宿だ。
アニタの宿へ着き、中へ入ると、料理中のアニタとばっちり目が合ってしまった。久々だからか少し気まずい。
「マレイ、久しぶりだね」
フライパンを動かし卵料理を作っている最中のアニタは、入ってきた私にすぐ気づいた。そして声をかけてきた。
私が少し気まずい思いをしていることなど、微塵も考慮しない。
「お久しぶりです、アニタさん」
「仕事頑張っているのかい」
「少しずつですが、頑張っています」
こうして言葉を交わす間も、アニタは、地道に料理を続けている。
スクランブルエッグの上にかける胡椒の香りが懐かしい。
「そうかい。それなら良かった」
彼女はそこで言葉を切った。トリスタンやゼーレのことは何も言わない。どうやら、こちらから聞かなくてはならないようだ。
なので私は尋ねてみる。
「少し前に怪我人が運ばれてきませんでしたか?」
いきなりこんなことを尋ねて、おかしくはないだろうか。そんなことを思い、一瞬躊躇いそうになってしまう。だが、だからといって放置するわけにもいかないので、はっきりと聞いてみた。
するとアニタは、思い出したように、はっとした顔をする。
「そうだった、忘れていたよ。怪我人の手当てはちゃんとしたから」
フライパンから皿へ、スクランブルエッグを移しながら、アニタは述べた。
そして、スクランブルエッグの乗った皿へ胡椒をかけつつ、続ける。
「あっちの個室へ案内したから。会いたきゃそっちへ行ってみな」
「ありがとうございます!」
アニタに言われた通り、私は一階の個室へと向かった。
一階にある個室は三つだけ。しかも、そのうち二つは客用ではない。だから、アニタが「そっち」と示す部屋がどこなのかは、すぐに分かる。一階にある唯一の客室は、一人客用の狭い部屋一つだけなのだ。
コンコン、と軽くノック。
そして、ゆっくりと扉を押し開ける。施錠されていて開かなかったら少し恥ずかしいなと思ったが、扉はいとも簡単の開いた。鍵はかかっていなかったようだ。
「マレイちゃん!」
室内へ入って数秒も経たないうちに、トリスタンの声が耳へ飛び込んできた。
「トリスタン!それに、ゼーレも!」
二人の姿を見つけ、私は思わず駆け寄る。
ゼーレは一つだけあるベッドの上で横たわっており、トリスタンはその付近に置かれた木製の椅子に腰かけていた。
無事な二人の姿を見ることができ、非常に嬉しい。
「トリスタン。運んでくれて助かったわ!ありがとう!」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
まず最初に、ゼーレをここまで運んでくれたトリスタンへ、感謝の意を述べる。するとトリスタンは、顔面に花を咲かせていた。
そして次はゼーレだ。
私はベッドの方へ視線を向け、仰向きでベッドに横たわるゼーレに声をかける。
「ゼーレ。体は平気?」
「……カトレア、ですか」
顔を覆っていた銀色の仮面は、やはり、ところどころ割れている。そのせいで、一部肌が露出していた。こちらをぼんやりと見ている瞳は、まだどこか虚ろだが、翡翠のような色である。
「やっぱりまだ辛い……わよね?」
「いえ。もう問題ありません」
ゼーレはきっぱりと答える。
だが、様子を見ている限り、「もう問題ない」といった感じではない。
「ごめんなさい、こんなことに巻き込んでしまって。どうか、せめて今はゆっくり休んで」
するとゼーレは、金属製の片腕を、音もなくそっと伸ばしてくる。
私はその手を握った。
彼の意図は不明だ。ただ、なんとなく、その手を握らなくてはならないような気がしたのである。これといった具体的な理由があるわけではないが、その手をとった方がいい気がした。
つまりは、「握りたくなった」ということなのかもしれない。
「……カトレア」
「何?」
「くれぐれも……自身を責めたりはしないで下さいよ」
なぜこんなことを言うのだろう。今私の脳内には、疑問符しかなかった。
ゼーレはひねくれた人だ。根っからの悪人ではないが、事あるごとに嫌みを言う、厄介な性格の持ち主。
そのはずなのに、どうして——。
- Re: 暁のカトレア ( No.81 )
- 日時: 2018/08/09 17:43
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: okMbZHAS)
episode.74 それでも思う
自身を責めるな、なんてゼーレらしくない。
ひねくれた性格の彼のことだから、「貴女のせいですよ」くらい言いそうなものなのに。
「らしくないわよ、ゼーレ。そんなこと言うなんて」
「そう……ですかねぇ」
「貴方が嫌みじゃないことを言うと、何だか不安になるわ」
何げに結構失礼なことを言ってしまっている気がするが、これはまぎれもない事実なのだ。
初めて出会った日から、つい最近まで、彼はいつだって嫌みを言っていた。どんな状況下であっても、彼の口がたどり着くのは、人を馬鹿にするような言葉。どうしようもないくらい、そうだった。
だから、嫌みのない発言をしている彼を見ると、不思議な感じがするのだ。良くないことの前兆、といった感じすらする。
「マレイちゃん。多分ゼーレは、嫌みを言う元気すらないんだよ」
一人不安になっていた私に、話しかけてきたのはトリスタン。
端整な顔立ちと、そこに浮かぶ曇りのない笑みが、極めて印象的だ。
「そうなの?」
「うん、多分ね。結構なダメージを受けているみたいだったし」
「そっか……」
トリスタンが教えてくれたおかげで、ゼーレが嫌みを言わない理由が分かった。それは良かった。だが、嫌みを言う元気すらない、というのは問題だ。そんなに弱っているのなら、放ってはおけない。
悶々としていると、唐突にトリスタンが質問してくる。
「誰がゼーレにこんなことを?あのカニ型?それともリュビエ?」
「ボスよ」
するとトリスタンは目を見開いた。中央に位置する青い瞳は震えている。
「ボスってあの、赤い髪の?」
「そうよ……って、どうして知っているの?見ていたから?」
「捕らわれていた時に、一度だけ会ったからだよ」
それを聞き、その発想はなかった、と感心した。いや、感心している場合ではないのだが。
「そうだったの!」
「うん。まぁ、会ったと言っても、ほんの少しだけなんだけどね」
「何か言っていた?」
少しでも何か情報があるかと、軽く尋ねてみる。
しかしトリスタンは首を左右に動かすだけだった。
「ううん。情報は何も聞き出せなかった」
「そう……」
トリスタンが得た情報を隠すということはないだろうから、本当に何も聞けなかったのだろう。一つか二つくらいは何か聞けたものかと思っていただけに、残念な気分だ。だが、仕方がない。
その時、しばらく眠りに落ちていたゼーレが、もぞもぞと動き始めた。
すぐに顔をそちらへ向ける。すると彼の翡翠色の瞳と目が合った。
仮面が割れたことで目と目が合いやすくなったのはいいが、彼と目が合うことにまだ慣れないので、変に緊張してしまう。トリスタンと、ならだいぶ慣れたのだが。
「そうだ。ゼーレ、その仮面、もう外せば?」
私は思いつきで提案してみた。
どのみちもう仮面を装着する必要はないだろうから、と。
しかしゼーレは首を横に動かす。
「それは……お断りします」
「どうしてよ。もう要らないでしょう」
それでもゼーレは頷きはしなかった。
「人前で表情を晒すなど……恥を晒すも同然ですからねぇ」
なぜそんなことを思うのだろう、と、不思議で仕方がない。
表情を晒すことが恥を晒すことと同義であるのなら、私を含む誰もが、仮面か何かで顔を隠しているはずではないか。しかし実際のところ、顔を隠している者などほとんどいない。それが、表情を晒すことと恥を晒すことが同義ではない、という証拠だ。
ただ、ゼーレは心からそう思っている様子。
ということは、もしかしたら、育ってきた環境による影響かもしれない。
「誰にそんなことを教えられたの?」
私はゼーレに直接聞いてみることにした。本人に尋ねるのが一番早いと思ったからだ。
すると彼は、静かな声色で答える。
「……感情は無駄だと、そう私に教えたのはボスです」
そう話すゼーレの翡翠のような瞳は、どこか悲しげな色を湛えている。
「ただ、問題はそれ以前に……私が感情を持っていたこと……」
「違う!」
私は思わず声をあげていた。周囲が驚くような大きな声を。
「あ……ごめんなさい。でも、違うわ、ゼーレ」
周囲は彼が感情を持つことを責めたかもしれない。
環境は彼が感情を持つことを否定したかもしれない。
だが、それは違う。
「いいのよ、泣いたって笑ったって。それが他人に見えたって、何の問題もないの」
「……はぁ」
彼はこれまで多くのものに否定されてきたのだろう。
それゆえにこれほどひねくれたのだと、私は思う。
だから、だからこそ、私は彼を肯定してあげたい。すぐにすべてを理解して肯定することはできずとも、少しずつでも近付けるように、そっと寄り添っていたいと思う。
「だから仮面を外して。貴方はもう、本当の貴方を見せていいの」
トリスタンは口出ししないで見守っていてくれた。ありがたいことだ。
「ね?」
私はゼーレの瞳をじっと見つめた。
思いが届くように、と。
暫し沈黙があった。
海のように深く、森のように静かな、そんな沈黙が。
ゼーレは私の顔に視線を向けている。眠っているわけではない様子だ。なのに何も言わない。それがよく分からなくて、この胸の奥に潜む不安を掻き立てる。怒らせてしまったのだろうか、などと余計なことを考えてしまう。
不安に駆られた私は、つい、彼から視線を逸らしてしまった。
怒らせただろうか。あるいは、傷つけただろうか。関係が壊れてしまったらどうしよう。そんな感情ばかりが込み上げてくる。
気になるなら聞けばいいじゃないか、と思われるかもしれない。だが、それはそれでできないのだ。尋ねようと思っても、「それによって余計に嫌われたら」と考えてしまうのである。
なんだかんだで、私は何も発することができずにいた。
やがて。
長い長い沈黙の果て、ゼーレはようやく口を開く。
「……ありがとう、ございます。ただ、私には……無理ですねぇ」
ゼーレは言いにくそうに、一言一言、紡いでいく。
「人はそれほど……すぐには変わりません」
最後まで言い切った後、彼はこれまでで一番切ない笑顔を作った。
それはまるで、世界の終焉の直前に見る、束の間の夢のようだ。儚さで作られたガラス細工のような、見る者まで切なくさせる表情である。
ただ、その何とも言えない表情は、ゼーレが変わったということを証明していた。
あの夜私からすべてを奪い、恐ろしい記憶を植え付けた男。彼はもう、この世界にはいない。私は今、迷いなくそう思う。
そんなことを言えば、あの夜犠牲となった者たちに、厳しく叱られるかもしれない。「許すのか!」と詰め寄られるかもしれない。
だがそれでも私は思う。
今この瞬間を生きるゼーレは、あの夜のゼーレではないのだと。
- Re: 暁のカトレア ( No.82 )
- 日時: 2018/08/11 23:09
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: lyEr4srX)
episode.75 じゃあさ
その日の夜。
私が宿泊するのは、二階の西寄りにある一室だった。
二人部屋のため、さほど広くはない。だが、なぜか二人部屋を私一人が使うという状況になっていたため、やや広く感じられた。ベッドも椅子も二つづつ。それなのに使うのは私一人。贅沢と言えば贅沢なのだが、できれば誰かがいてくれる方が良かった。一人きりは寂しい。
私は二つ並んだベッドの片方に、仰向けに寝転び、天井をぼんやりと眺める。その頭には、ゼーレやトリスタンのことが浮かんでいた。
……って、そんなことを言ったら男好きみたいじゃない。
一応弁明しておくと、単に男が好きというわけではない。
ただ、最近二人の様子が、妙に気になるのだ。気になって仕方がない。
休めと言われているにもかかわらず黙ってついてくるという、非常に大胆な行動をとったトリスタン。素直な発言をし妙に繊細な表情を浮かべる、今までと雰囲気が変わってきたゼーレ。
私には、二人がよく分からない。
コンコンと軽いノック音が聞こえてきたのは、私が、考え込んで悶々としていたちょうどその時だった。
こんな夜に尋ねてくるなんて誰だろう、と怪しみつつも、「はい。どなたですか?」と声を出してみる。もちろん扉は閉めたままで、だ。
すると、扉の向こうから、「僕だよ」と答える声が聞こえてきた。声は「トリスタンだよ。ちょっといいかな」と続ける。その声が彼のものであると判断した私は、偽者だったらどうしようと少々恐れつつも、扉を開けた。
「夜遅くに、突然ごめんね」
扉を開けると、そこには、トリスタンが立っていた。
それを目にして、私は内心、ほっと安堵の溜め息を漏らす。
一つに束ねたさらさらの長い金髪。浮世離れした端整な顔立ち。そして、薄暗い中でさえ目立つ、深海のような青の瞳。
これほど精巧な偽者が存在するわけがない。
「急にどうかしたの?トリスタン」
「ちょっと話があるんだ。今大丈夫かな」
「えぇ、大丈夫よ。入る?」
トリスタンはここへは来ていないという話になっているはずだ。だから、極力ばれない方がいい。
シブキガニとの戦闘が始まる直前に一瞬トリスタンを見てしまったフランシスカは、「気のせいだろう」と言っておくことで何とかごまかせた。しかし、もしこのシーンをグレイブに見られたりなんかすれば、間違いなくややこしいことになる。
だから私は、彼を、室内に入るよう促したのだ。
「マレイちゃんがそう言ってくれるなら、少しお邪魔するね」
トリスタンは案外すんなりと部屋に入ってきてくれた。
速やかに扉を閉める。
これでグレイブには見つかるまい。ひとまず安心だ。
「どこにいたらいいかな?」
「好きなところでいいわ」
「ありがとう。マレイちゃんは優しいね」
「優しいなんて言われるようなことは何もしていないわ」
そんな会話をしながら、トリスタンはベッドに腰かけた。
先ほどまで私が寝転んでいたのとは違う方のベッドに、彼は座っている。なので私は、先ほどまで寝転んでいた方のベッドの上に、そっと座った。
ベッドとベッドの間は二メートルほど離れているため、これなら近くなりすぎないのだ。もちろん遠すぎることもないため、話をするにはちょうど良い距離だと思う。
「それで、話って何?」
二人ともがベッドに座り、少し経ってから、私は改めて尋ねてみた。
夜分に部屋を訪ねてくるくらいだ、何か大切な話なのだろう。そう思ったからである。
「いきなりこんなことを聞くなんておかしいって思われるかもしれないんだけど、それでもいいかな」
口を開いたトリスタンの表情は真剣そのものだ。
「えぇ、もちろんよ。おかしいなんて思わないわ」
彼の真剣な表情に戸惑いつつも、はっきりと返した。
すると彼は、決意したように一度頷き、唇を動かす。
「マレイちゃんは、ゼーレのことをどう思っているの?」
「……え」
「ゼーレのこと、男の人として見ているのかな」
私は暫し何も返せなかった。
だって、トリスタンからそんな問いが出てくるとは、ほんのひと欠片も思わなかったから。
予想外のことに素早く対応するのが苦手なのだ、私は。
「最近仲良くしてるよね。マレイちゃんがゼーレに対して抱いているものって、もしかして、恋愛感情?それとも、ただの仲間意識?」
冗談を言ってごまかせる空気ではなかった。
だが——そんなことを急に聞かれてもよく分からない。
「こんな聞き方は直球すぎかなとも思ったんだけど、ちょっと、気になって」
トリスタンの整った顔は、じっとこちらを向いている。目は心なしか伏せ気味だが、私から視線が逸れるといったことはない。
「何かあったの?」
時間稼ぎも兼ねて聞いてみた。
すると彼は、シーツをぎゅっと握りながら、小さな声で返してくる。
「……ゼーレがマレイちゃんのことを『愛しい』って言っていたんだ。半分寝言みたいな調子ではあったけど。でも、完全な寝言にしてははっきりしていてね」
私は思わず怪訝な顔をしてしまう。ゼーレがそんなことを言っているところなんて、まったく想像がつかないから。
「本当にそんなことを?」
「間違いないよ。付き添っていた時に聞いてしまったんだ」
「ゼーレは結構重傷だったもの、夢でも見ていたんじゃない?」
それ以外の可能性など、どうやっても考えられない。
だってゼーレは言っていたではないか。運命が許さない、と。あれほど迷いのない口調でそう言っていたゼーレが、私を愛しく思っているはずなどない。
人はそれほどすぐには変わらない——これもまた、彼が述べた言葉だ。
「きっと夢を見ていたのよ」
「僕は違うと思う。ゼーレは、君に優しくしてもらって、勘違いしているんだよ。きっとそうだ」
私は咄嗟に首を横に振る。
「いいえ!それはありえないわ!」
普通に言ったつもりだったが、予想外に大きな声が出た。私はすぐに「ごめんなさい」と謝る。
「あのね、トリスタン。私はゼーレに優しくしてなんてないの」
私は彼を何度も傷つけてしまった。
たとえば、トリスタン救出の後、グレイブと三人でいた時。私は保身のために心ない言葉を吐いた。
列車の中での喧嘩だって、私がきつく言い過ぎたことが原因だ。
「ゼーレのこと、何度も傷つけたわ。それについて言及してはこなかったけれど、それは彼が優しいから。多分……私のこと、あまり好きじゃないと思うわ」
そこまで言いきった時、トリスタンは唐突に立ち上がった。何事かと思っていると、彼はこちらへ歩いて接近してくる。意図が掴めない。
「じゃあさ」
戸惑っているうちに、ベッドの上に押し倒される。
たいして筋肉質でもないように見えるトリスタンだが、男性なだけあって、意外と力が強い。さほど力のない私などでは、抵抗できそうになかった。
「ゼーレのことは忘れて、僕だけに集中してくれる?」
- Re: 暁のカトレア ( No.83 )
- 日時: 2018/08/12 16:39
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: KnTYHrOf)
episode.76 流れる星に願うのは
頬にひんやりとしたシーツの感触。私は今、トリスタンによって、ベッドの上で押し倒されているのだ。
彼らしからぬ積極的な近寄り方に、私はただ、呆然とすることしかできなかった。
「……ち、ちょっと。どうしたの?」
ベッド上で馬乗りになってくるトリスタン。
「何?何なの?」
「ゼーレとマレイちゃんが仲良くしているのを見ると、何とも言えない複雑な気持ちになるんだ」
トリスタンのさらりとした金髪が、私の顔に触れる。こそばゆい。
だが、至近距離で見ると、その髪は本当に美しかった。ほんの少しの明かりを照り返し、薄暗い中でも煌めいている。存在感が凄まじい。
「マレイちゃんをゼーレに取られてしまうような気がして……もやもやする」
唇を微かに開いたまま、トリスタンはこちらをじっと見つめてきた。その青い瞳の奥には、熱いものが燃えている。
「だから、ここではっきりさせよう」
「え?」
「マレイちゃんが誰のものなのか」
トリスタンは片腕を私の首へ回す。そして、顔を近づけてきた。
均整のとれた彼の顔は、近くで見ても粗が目立たないほどに整っている。そもそも一つ一つの具が良い形をしていて、それらが合わさり一つの完成された容貌を作り出している。
だが、いくら美しい顔をしているからといって、言いなりになるわけにはいかない。
「止めて、トリスタン。これ以上近づかないで」
「マレイちゃんは……僕のこと嫌い?」
状況が掴みきれない。
今のトリスタンは、まるで、酔っぱらって正気を失っているかのようだ。
「嫌いとかじゃないわ。でも、こんなことをするのは止めてほしいの。私たち、そんな関係じゃないでしょう」
ある意味では師弟、ある意味では仲間。
けれども、私たちの間に男女の関係なんてものはない。そんな関係、存在するわけがないではないか。
「トリスタンはこんなことをするために、わざわざ部屋まで来たの?」
彼の青い瞳をじっと見つめながら尋ねてみる。
すると彼は、はっ、とした顔をした。心の振幅が面に滲み出ている。非常に分かりやすい。
数秒して、彼は慌てた様子で私の上から離れる。
「ご、ごめんっ!」
かなり焦った顔をしている。
「マレイちゃん、痛くなかった!?大丈夫!?」
トリスタンは飛ぶように退くと、慌てているのがよく伝わってくる声色で言った。らしくなく、瞳が揺れている。
私はゆっくりと上体を起こすと、「大丈夫よ」と答えた。
押し倒されただけで、まだ何もされていない。だからセーフだ。ややこしいことになる前にトリスタンが引いてくれて良かった。
それから少しして、彼は、気まずそうな視線をこちらへ向けてくる。
「嫌われちゃった……よね。ごめん」
何というか、いちいち面倒臭い。
「ごめん。帰るよ」
まるで逃げ出すかのように、素早く立ち上がるトリスタン。
その背中に私は言う。
「待って!」
部屋から出ていこうとしていたトリスタンは、びくっと身を震わせ足を止める。そして、悪事がばれた人のような顔で振り返る。
そんな顔しなくても、と思ってしまったくらいだ。
「……マレイちゃん」
「トリスタン、あまり無理しちゃ駄目よ。もやもやするのは、多分、疲れているからだと思うの。だから、本当に、ゆっくり休んだ方がいいと思うわ」
さっきの彼の言動は、どう考えても不自然だった。彼がするとは到底思えないようなことを、彼は躊躇いなく行ったのだ。それは恐らく、色々あったせいで疲れているからだろう。
「様子を見に来てくれたのは嬉しいけれど、やっぱり、トリスタンは先に帰って休むべきよ。私たちはまだ帰らないし……」
私は自分の意見を述べた。
トリスタンは本来、帝都にある基地で休養する予定である。休養するよう言われているのに無理して行動するのは、あまり褒められたことではないと思う。
すると彼は、少し目を伏せてから、静かにこくりと頷いた。
「……そうだよね。うん。マレイちゃんの言う通りにするよ」
海のように深みのある青をした瞳は、どこか悲しげな色を湛えている。
私は、そんな彼の手を、そっと握った。
彼の手は私のそれより大きい。けれどもどこか頼りない雰囲気を漂わせている。もしかしたら、今の彼の心を映し出しているのかもしれない。
「私を大切に思ってくれるのは嬉しいわ。でも、無理はしないでちょうだいね」
疲労は身体だけでなく精神にも影響を及ぼすものだ。疲れが溜まったことによって、もやもやしたり憂鬱になることもあるだろう。
トリスタンが何とも言えない複雑な気持ちになっているのも、恐らくは、疲労の蓄積が原因だと思われる。美味しいものを食べ、ゆったりと過ごし、しっかり眠る。それだけで、いくらか楽になるはずだ。
「……うん」
トリスタンは小さく答えた。
「ありがとう、マレイちゃん。急にあんなおかしなこと……どうかしていたよ。ごめんね」
「いいえ、気にしなくていいわ。私たちは仲間だもの」
私は敢えて明るく言い放つ。
「困った時はお互い様よ」
彼が私を何度も救ってくれたように、私も彼を救いたい。
いや、救う、と言うのは大袈裟かもしれない。正しくは、できるなら力になりたい、という意味である。
困った時はお互い様。
だって私たちは、同じ部隊に所属する、共に戦う仲間だもの。
トリスタンが部屋から去っていった後。
私は一人、窓辺で、夜空を眺めた。
暗幕を張ったような、真っ黒の夜空。そこにはいくつかの星が浮かび、生き生きと瞬いている。「私を見て、私を見て」と言わんばかりに。
そんな星空を、突如、一筋の光が駆けていく。
一際明るく輝く流れ星だ。
「どうか」
私はすぐに手を合わせる。
そして、そっと囁く。
「早く平和が訪れますように」
叶う保証はないけれど、それでもただ、願うのだ。
化け物が消えて、あのボスという人とその仲間も攻撃してこなくなった、平和そのものの世界をイメージしながら。
- Re: 暁のカトレア ( No.84 )
- 日時: 2018/08/13 17:30
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: xPB60wBu)
episode.77 楽しむことも悪くない
翌朝、宿の一階に集まると、グレイブより本日の予定について連絡があった。
「まずは朝食を済ませろ。その後は海岸の警備にあたりつつ、カニ型が来るまで自由時間とする」
やはりゼーレは来ていない。あの怪我では朝食は無理だったのだろう。
そんなことを考えていると、隣の席のフランシスカが、こそっと話しかけてくる。
「自由時間、やったねっ」
少女風の愛らしい顔に浮かぶ笑み。それは、向日葵のように明るい雰囲気を漂わせている。ほんの少しの自由時間を喜ぶなんて可愛い、と内心思ってしまった。
化け物狩り部隊の隊員たちのためにアニタが作ってくれた朝食は、私が予想していたより、ずっと豪華だった。
ガーリックの香りが食欲をそそるスライスパン。アニタお得意の胡椒がかかったスクランブルエッグ。ハム入りのサラダにはオリーブのドレッシングがかかっていて、おしゃれな味わいだ。
「マレイちゃんっ。この魚、美味しいね!」
言いながらフランシスカが指差したのは、テーブルの上の大皿。表面だけ軽く炙った魚の切り身をトマトソースで和えた料理が乗っていた。この大皿は一つのテーブルに一つである。
「生っぽい魚ってあまりたべたことなかったけど、結構いいね!」
珍しい魚料理に、フランシスカはご機嫌だ。
「そういえば、帝都は肉が多いわよね」
「うんっ。帝都じゃ魚は、ほぼ、干したものだけだしっ」
同じレヴィアス帝国といえども、ダリアと帝都では環境がかなり異なる。食事の内容に差があるのも当然だろう。
「マレイちゃんも食べたら?美味しいよっ」
フランシスカは笑顔で勧めてくれる。断るのも申し訳ないので、食べてみることにした。
トマトソースのかかった魚の切り身を口へ運ぶ。切り身が舌に触れた瞬間、トマトの酸味が鼻に抜ける。
「どう?」
心なしか残っているトマトの皮の食感は多少気になる。だが、魚の身も一緒に噛むため、不快感を覚えるほど気になるということはない。許容できる範囲だ。
「美味しいよねっ?」
フランシスカが聞いてくる。
しかし私は、すぐには答えられなかった。食べることに意識が傾いてしまっていたためである。
魚の身は絶妙の食感だった。
炙られた表面はホロリと崩れる。だが、それ以外の生に近しい部分は、しっかりと歯応えがある。これは、間違いなく、調理法が生み出した奇跡だ。
思う存分堪能した後、フランシスカに目を向けて言う。
「美味しいわ!」
すると彼女は両の手のひらを合わせた。
「だよねっ。フランもこんなの作れるようになりたいな!」
ミルクティー色の髪がふわりと揺れる。
まるで天使のようだと、私は思った。
「さぁぁぁーっ!いよいよこの時が来ましたねぇぇぇーっ!」
海に面した砂浜に立ち、地平線に向かって叫ぶのはシン。太陽の光は眩しいくらいに降り注いでいる。
「海遊びぃぃぃぃぃっ!!」
カニ型化け物——通称シブキガニはまだ現れそうにないため、海辺で少しばかり遊ぶことになったのだった。
ちなみに、フランシスカの提案である。
彼女はこういう場合に備え、水着を持ってきていたらしい。それを知り、私は驚くばかりだった。彼女の準備の良さには頭が上がらない。
「キタアァァァー!!」
「……黙れ、シン」
「あっ。グレイブさん。す、すみません」
凄まじい咆哮をあげていたシンは、グレイブに淡々とした調子で制止され、申し訳なさそうに身を縮める。
グレイブはシンを止めてから、私の方を向いた。
「フランはまだ来ていないのか」
「はい。多分今着替えているかと……」
スカイブルーのカッターシャツを着たグレイブは、はぁ、と溜め息を漏らす。
「提案しておいて集合に遅れるとは、まったく、自由すぎだな」
長い黒髪を耳にかける仕草をしながら、彼女は、そんな文句を呟いていた。
確かに、提案者が遅れるというのは、普通は起こりそうにないことだ。だが、提案者が自由人のフランシスカだから、十分に起こり得ることだと思う。
そんなことを考えていると、可愛らしさのある高い声が聞こえてきた。
「ごめんなさーいっ!」
声がした方へ視線を向ける。すると視界にフランシスカの姿が入った。
「遅いぞ!フラン!」
グレイブは少し不機嫌そうに振る舞う。
だが私にとっては、グレイブの機嫌やフランシスカが遅れてきたことなど、どうでもよかった。それよりも大きな驚きがあったのである。
それは、フランシスカが水着で走ってきていることだ。
「お待たせしました!」
「まったく。水着に着替えるのは勝手だが、待たせないでくれ」
「ごめんなさいって言ってるじゃないですかっ」
フランシスカは桃色のビキニを身にまとっていた。
青に包まれたこの場所では、桃色が非常に目立つ。
「まぁそうだな。これ以上言っても仕方がない。仕事ではないし、今回は許すとしよう」
「グレイブさんって、正直、いちいち面倒臭いですね!」
明るい笑顔でばっさりと言い放つ。
しかし、今の私にとっては、そんなのは些細なこと。それよりも、フランシスカが恥ずかしげもなく露出の多い格好をしていることの方が、ずっと気になる。近くには男性もいるというのに、惜しげもなく肌を見せるなんて、私には考えられない。
さすがはフランシスカ、という感じだ。
「そうだ、マレイちゃん」
「何?」
フランシスカが急にくるりとこちらを向いたので「何だろう?」と思っていると、彼女は両手をこちらへ差し出す。その手には真っ赤な水着。
「これ着てよっ」
……え?
一瞬私は固まる。話に頭がついていかない。
「どうせ水着なんて持ってないんでしょ?フランの貸してあげる!」
「え、私が……これを?」
「そうだよっ。着てみてよ!」
無理だ。人前で水着を着るなんて、できるわけがない。
なんせ私は、フランシスカのように自分に自信があるタイプではない。意味もなく肌を他人に晒すなど、絶対に嫌である。
「い……嫌よ。水着なんて」
「マレイちゃんったら、何言ってるの!可愛い水着は女の子の特権だよ!?」
それはそうかもしれないが……。
だが、私には、露出の激しい格好をする勇気などない。
何とか断ろうとしていると、彼女は赤い水着を私に押し付けてくる。よほど私に水着を着せたいらしい。けれど、こればかりは、大人しく従うことなどできない。
「どうして嫌がるのっ?」
「露出が激しい格好は嫌なのよ」
「いやいや!これはワンピースタイプだし、全然露出とかないよっ!?」
確かに、ビキニよりかはましかもしれないが、それでも脚や腕は派手に出るではないか。それに、ワンピースではなく、あくまでワンピースタイプの水着だ。体のラインも出る。ラインが出たりなんかすれば、たるんでいる、と笑われそうだ。
「ほらほらっ」
「嫌!水着は着ないわ!」
いくら圧力をかけられようが、こればかりは絶対に下がったりしない。
「どうしてっ?絶対似合うのに!」
「いや、だから、似合う似合わないの問題じゃなくて」
そんなことで揉み合うことしばらく。
ようやく、グレイブが口を挟んでくれる瞬間が来た。
「フラン。無理矢理というのは問題だ」
淡々とした声に、私は内心安堵の溜め息を漏らす。
グレイブが参加してきてくれて助かった。今、グレイブは私にとって、救世主である。
「えー。でもせっかく持ってきたのにっ」
「そうだな。それはある。だから一つ提案だ」
……ん?
「私が着る、というのはどうだ」
えぇ……。
大人のグレイブが真っ赤なワンピースタイプは厳しくないだろうか。
いや、もちろん一部の層には人気が出そうな気がしないこともないが。美人だから何でも似合うだろうし。
- Re: 暁のカトレア ( No.85 )
- 日時: 2018/08/13 23:00
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Oh9/3OA.)
episode.78 水着、砂浜、そして審判
フランシスカの圧力から私を庇い、赤いワンピースタイプの水着を着ることとなったグレイブ。彼女は、水着を受け取りすぐに着替えると、みんなの前に現れた。
「ちゃんと着たぞ。これで文句はないだろう、フラン」
真っ赤なワンピースから伸びる脚は白くて長い。不要な肉はないが、筋肉がそれなりにあるため、健康的なほど良い太さの脚をしていた。また、腹部は引き締まっていて、水着の布越しにでもはっきりとしたくびれがあることが分かる。
スレンダーでかっこよく、美しい体型だ。
グレイブは文句のつけようのない体つきをしている——が、色気はあまりない。
「は、は、はわわぁぁぁ……」
だが、それでもシンは、顔を赤く染めていた。頬がリンゴ飴みたいだ。
彼にとってはグレイブの水着姿であることが大切で、色気の有り無しはそんなに関係ないのかもしれない。
真っ赤になりつつも興奮気味なシンとは対照的に、フランシスカは笑い転げていた。グレイブがワンピースタイプの水着を着て現れた瞬間から現在まで、ずっと笑い続けている。
「おい、フラン。なぜそんなに笑う」
「いやいや!だってグレイブさんったら、大人なのにワンピースとか!似合わなすぎですよっ!」
「待て、お前が着させたのだろう」
「フランが頼んだわけじゃないですけどー?」
何とも言えない空気になってくるフランシスカとグレイブ。
あぁもう、といった気分だ。
なぜ良い空気を保とうと努力しないのか。私には理解ができない。
「それはそうだが……」
「じゃあ、フランのせいみたいに言ったことを謝って下さいねっ」
「いや。そもそもの原因を作ったのはお前だろう」
グレイブは、腕組みをしながら眉をひそめている。一方フランシスカの方はというと、不満げに頬を膨らませていた。
二人ともそう容易く折れる気はなさそうだ。
もし仮に折れるとすればグレイブの方だろう。しかし、今回ばかりは、グレイブもすんなり謝りはしなさそうである。
「フランはマレイちゃんに親切にしてあげただけですけどっ?」
「その親切とやらがマレイを困らせていることに、なぜ気づかなかったんだ」
厳しい顔つきとワンピースタイプの水着。
言葉にならない馴染まなさだ。
「はいー?グレイブさんに何が分かるんですかー?」
フランシスカは、両手を腰に当て、体を前方へやや倒しながら言う。
その声色は「まさに嫌み」といった感じのものだ。
言われるのがグレイブだから辛うじてこの程度で済んでいるが、もっと血の気の多い相手だったなら、間違いなく大喧嘩に発展してしまっていたことだろう。
「部外者がいちいち出てこないで下さいねっ!」
満面の笑みで嫌みを吐くフランシスカ。
ばっさりいくところが彼女らしい。なんせ彼女の口は、いろんな意味で恐ろしいのだ。
「……そうか。ま、それも一理あるかもしれないな」
「じゃあ謝って下さいっ」
フランシスカは再び謝罪を求めた。
年上の女性にここまで強く出られるフランシスカは、ある意味凄い人かもしれない。
「いちいち言わなくて大丈夫だ、ちゃんと謝るさ」
「亀みたいにもたもたしないで下さいねっ」
「あぁ。先ほどは、不快にするようなことを言ってすまなかった」
グレイブは頭を下げることはしなかったが、ちゃんと謝罪の言葉を述べていた。表情も真剣そのもの。これならフランシスカも許すだろう。
「構いませんよー。ちゃんと謝ってくれるなら、それ以上は言いませんからっ」
両手を腰へ当てたまま、桃色のビキニに包まれた胸を張り、満足そうに言うフランシスカ。ミルクティー色の髪から漂う甘い香りは健在だ。
「じゃ、遊びましょっか!」
彼女はそれから、その愛らしい顔を私へ向け、「マレイちゃんも!」と声をかけてくれた。躊躇いなくばっさりいくところは少々怖いが、こんな風に巻き込んでいってくれるところは好きだ。
「何をするの?フランさん」
「うーん。何がいいかな。たとえば……スポーツとか?」
浜辺でスポーツとは、何とも健康的である。
だが、それなら水着を着る必要性はないように思うが。
「他にも、貝殻を拾うとか魚をとるとか、できるんじゃないっ?」
フランシスカは楽しげに笑う。
数年ダリアで生活していた私にすれば、海も砂浜も、何の特別感もない。当たり前にそこにある光景だ。だが、帝都で育ってきたフランシスカにとっては、海は特別なものなのかもしれない。
「スポーツをするならぁぁぁ!審判は任せて下さいよぉぉぉーっ!!」
私とフランシスカの会話にいきなり乱入してくるシン。彼の叫びは、相変わらずの大迫力だ。
「黙れ、シン」
「いえぇぇ!黙ってなんていられませんよぉぉぉっ!」
シンは、制止しようと声をかけたグレイブに、凄まじい勢いで迫っていく。だが、慣れゆえかグレイブは落ち着いており、眉一つ動かさない。彼女は冷静さを保ち続けている。
「このシン・パーンの名にかけてぇ、審判役から外れるわけにはぁぁ、いきませんよぉぉぉっ!」
「そうか、そうだな。だがまずは落ち着け」
「無理ですぅぅぅ!いくらグレイブさんのお言葉でもぉぉ、そればかりは無理ぃぃぃー!」
一向に止まりそうにないシンを見て、グレイブは、やれやれ、といった顔をする。もはや怒る気にもならない、という様子だ。呆れきっている。
シンの言動はいつだっておかしい。明らかに普通の人ではない、と見る者に感じさせる。
けれども私は、その騒がしさが、意外と嫌いでない。
珍妙な彼の言動は、いつだって場の空気を面白くしてくれる。その大声は沈黙を破り、そのユニークな容姿と振る舞いは深刻な雰囲気を掻き消してくれるのだ。
生死が傍にあるような厳しい世界にこそ、彼のような人間は必要なのだ。私はそう思う。
- Re: 暁のカトレア ( No.86 )
- 日時: 2018/08/14 21:55
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 32zLlHLc)
episode.79 兎のような猫
あれから私たちは、砂浜で、自由な時間を過ごした。
みんなでスポーツをしたり、漂着したガラス瓶の中の手紙を読んでみたり、眩しい太陽光を浴びたり。
シブキガニの出現を待っているとは到底思えないような、明るくて楽しい時間だった。
だが、結局シブキガニが姿を現すことはないままに、日は落ちて。私たちは、一人二人だけ見張りを残して、宿へと戻った。
「でね。フランさんとグレイブさんの水着姿を見ることができたの。盛り上がったわ」
「……はぁ。そうですか」
海での自由時間を終え、夜。私は今、ゼーレが寝ているベッドのある、一階の個室にいる。
なぜ私がかというと、トリスタンが帰ったために、ゼーレの様子を見守る者がいなくなったからである。
「どうでもよさそうね」
「えぇ。女性の水着など興味がありません」
ベッドの上で上半身を起こしているゼーレは、どうでもよさそうな声で言った。
私はそれを聞き、何となく意味深な発言だと思ってしまう。だが彼のことだ、単に言葉通りの意味なのだろう。それを意味深だと捉えてしまうのは、私が少しおかしいだけだと思われる。
「それはそうよね。変な話をしてごめんなさい」
「……いえ」
この前ボスに割られた仮面を、彼はいまだに装着している。装着していても顔が半分近く露出しているというのに。それでも着けていたい、ということなのだろうが、私にはよく分からない。
彼の顔を眺めながらそんなことを考えていると、ゼーレが唐突に話かけてくる。
「カトレア……そういえば、トリスタンはどうなったのですかねぇ」
「えっ?」
急だったため、すぐには返事できなかった。
「今日になってからはトリスタンを見かけませんでしたが……彼はどこへ?」
ゼーレの翡翠のような瞳は、私の姿をそっと捉えている。
それにしても、少し意外だ。ゼーレはトリスタンのことなど気にしないものと、当たり前のように思っていたからである。
「トリスタンは帝都の基地へ帰ったわ。疲れているみたいだったから、昨日の夜に『帰った方がいい』って言っておいたのよ」
事の成り行きを簡単に説明すると、ゼーレは翡翠のような目を細めて怪訝な顔をした。
「夜に……彼と会ったのですか?二人で?」
「えぇ。ちょっと用事があるって、トリスタンが私の部屋を訪ねてきたの」
「……用事?」
ますます訝しむような顔になるゼーレ。
「そうよ。ま、たいした話じゃなかったのだけれど」
このタイミングでこんなことを言えば、ごまかそうとしているかのようだが、これは真実だ。実際、これといった重要な用件があったわけではなかったのだから。
「まったく。相変わらずお人好しですねぇ……。どうしようもない」
「何よ、その言い方」
「貴女がお人好しだと言っているのです」
「だから、どうしてそんなことを言うのよ?」
すると彼は、はぁ、と、わざとらしく大きな溜め息を漏らす。金属製の腕を組み、呆れている感が満載だ。
「トリスタンとて男なのですよ?何かあったらどうするつもりだったのですかねぇ」
ドキッ!
……いや。あれは忘れるべきことだ。
「貴女はもう少し、男というものを警戒するべきです」
アニタみたいなことを言うなぁ、と、私は密かに思った。
私を長い間雇い続けてくれた、第二の母親とも言えるような女性であるアニタ。彼女も、男性との接し方には、非常に厳しかった。
私が男性の宿泊客と少しでも親しくしていると、彼女はすぐに注意してくる。そして、後から厳しく叱られた。だが、そんな日々も、今や懐かしい。既に過去の思い出である。
「分かりますかねぇ……」
「えぇ。分かるわ。昔から、よく言われてきたもの」
するとゼーレは、ふっ、とさりげなく笑みをこぼす。
少しばかり馬鹿にされているような気もするが、まぁ仕方ない。
「そんなことだと思いました。これからは気をつけるようになさい」
妙に上から目線だが、不思議なことに腹は立たなかった。ゼーレがこんなことを言うのは私の身を案じているからだと、分かっているからだ。
「そうね。貴方の言う通りだわ」
「おや、妙に物分かりが良いですねぇ。不気味。悪いことが起きそうな気がして仕方ありません」
冗談混じりに述べるゼーレ。
何もそこまで言わなくても、という感じはするが、言い返すことはしないでおいた。気まずい空気を作りたくないからだ。
それからも、私はゼーレと細やかな会話を続けた。
朝食が美味しかったことや、海で遊んで楽しかったこと。また、グレイブの水着姿にシンが大興奮していたことなど。
私が話したのは、ゼーレにとってはどうでもいいような内容ばかりだ。しかし、彼にしては珍しく、ちゃんと話を聞いてくれた。不思議なこともあるものだなぁ、と思ったが、穏やかで楽しい時間を過ごすことができて満足だ。
——だが。
そんな穏やかな時間は、そう長く続きはしなかった。
「こーんばーんはっ」
私とゼーレだけしかいなかったはずの部屋に、突如として現れたのは、見知らぬ少女——いや、少年だ。
見た感じは十二歳くらい。背は低めで、頭部からは大きな白色のネコ耳が生えている。ふわふわの短い髪は真っ白、目元を隠すアイマスクサイズの仮面の隙間から見える瞳は真っ赤だ。
一見うさぎのようだが、ネコなのだろうか……。
「貴方は?」
私は恐る恐る尋ねてみた。
というのも、可愛らしい容姿のわりに、ただならぬ殺気を放っていたからである。
すると少年は、屈託のない笑みを浮かべつつ答えてくれる。
「ぼく?えっとねー、ぼくの名前はクロ!」
明るさが逆に不気味だ。
「えへへっ。白いのに変だよねー」
ベッド上のゼーレを一瞥すると、彼も警戒した表情を浮かべていた。それを見て、私は、より一層警戒心を強める。
すると、目の前の少年——クロは、安心させるような笑みを浮かべた。
「もーお姉さんったら。そんなに警戒しなくていーいよっ。だって」
そこまで言って、クロは一瞬言葉を切った。
数秒の空白。
そして、ニヤリと笑った。これまでの純真な笑みとは真逆の、不気味さを感じさせる笑みだ。まるで死神のようである。
「ぼくのお仕事に、お姉さんは関係ないからさっ」
最初は、油断させるさせるためにそんなことを言っているのだと、そう思った。だが、クロの様子を見ている感じ、私を騙そうとしているとは思えない。どうも、本当に私狙いではなさそうだ。
「ならどうしてここへ?」
二度目の質問。
だが、今度は答えてくれなかった。
「お姉さんに話すほどのことじゃなーいよっ」
クロはまた、可愛らしい純真な笑みを浮かべている。
だが、不気味に思えて仕方がない。
リュビエが何度か来たように、私を狙って現れたのなら分かる。そういうことにはもう慣れてきた。けれども、今回の彼は、どうもそうではなさそうである。
「ぼくはただ、お掃除に来ただけなんだよねっ」
刹那、クロはベッド上のゼーレに向かって駆け出した。
——そうか。
駆け出すクロを見て、ようやく気がついた。
クロの狙いが私でないというのなら、彼が狙っているのは、他ならぬゼーレ。この部屋には私とゼーレの二人しかいないのだから、当然ではないか。
「裏切り者は、ちゃーんとお掃除しないとねー」
「ゼーレ!」
ただ叫ぶことしかできなかった。
狙われるのがゼーレのパターンなど、微塵も予想していなかったからである。
- Re: 暁のカトレア ( No.87 )
- 日時: 2018/08/16 01:14
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Jolbfk2/)
episode.80 覚悟を
ゼーレに向かって駆け出した、ネコ耳の少年クロ。
彼はベッドの方へ接近しながら、両の手の爪を伸ばす。これまた信じられないことだが、本当に、爪が一メートルほどに伸びたのだ。こんなことができるとは、もはや人間ではない。
「ばいばーい!」
クロは、長い爪のついた両手を、ベッドに向けて振り下ろす。
だがゼーレは、咄嗟にベッドから飛び降りていた。さすがの反応速度だ。しかし着地の際、顔に苦痛の色を浮かべる。
「……くっ」
「あははっ。痛そーだねー」
笑いながらすぐに再びゼーレの方を向くクロ。
「次、いっくよー!」
クロはさらに迫ってくる。
ゼーレはまだ立てない。ボスにやられた傷が深いからだろう。
このままではまずい——その思いが、私の体を動かした。
「止めて!」
ゼーレとクロの間へ入る。
しかし、本気でゼーレを狙いに来ているクロが、動きを止めるわけもない。鋭い爪が私の胸元へと近づいてくる。
「カトレア!」
耳に飛び込んできたのは、緊迫したゼーレの声。
クロの素早さは、私の想像を遥かに越えていた。腕時計に指を当てる時間なんて、あるわけがない。だが、何としても直撃だけは避けなくては。その一心で、私は体をひねる。
「……あっ!」
結果、クロの長い爪は、私の左腕と脇腹を抉った。
赤い飛沫が視界に散る。
一瞬後から襲ってくる痛みに、そのまま倒れ込んでしまう。
「カトレア!」
ゼーレの声が再び耳に飛び込んできた。
「何をしているのです!馬鹿ですか、貴女は!」
その声は、らしくなく荒れている。いつもとは違い、激しい調子だ。
「あっちゃー。やっちゃった。お姉さん、ごめんねー?」
起き上がろうとしている私に、クロは軽いノリで声をかけてきた。さほど悪いとは思っていなさそうな雰囲気である。
「でもぼくは悪くなーいよー。お姉さんが急に入ってきたせいなんだからねっ」
……やはり、反省していない。
だが、こんなことをしている場合ではない。クロはまたゼーレを狙うだろうから、早く体勢を立て直さなくては。
しかし、体が思い通りに動かなかった。
脇腹の方はまだしも浅いが、左腕に負った傷は結構深そうだ。少なくとも、私が今までに受けた傷の中では、一番の酷さである。
ただ、それでも止まってはいられない。
私は可能な範囲で上半身を起こし、左手の指を腕時計の文字盤へと当てる。そして、右腕をクロへと向けた。
「なーんのつもりかなっ?お姉さんったら、ぼくに攻撃する気ー?」
クロはまだにこにこしている。余裕どころか、私のことなど微塵も警戒していない様子だ。
これだけ油断している相手なら、もしかすれば、一撃くらいは当てられるかもしれない。倒せるかどうかは別として、退けられる確率はゼロではないはずである。
「おもしろーい。お姉さんって、冗談が楽し——」
最後まで言わせないタイミングで、光球を叩き込む。
しかしクロは、高いジャンプでしっかりかわしていた。
「って、もしかして本気ー?」
近距離から仕掛ければ命中するかと思ったのだが、そう簡単にはいかないようだ。だが、一度で諦める私ではない。
「これってー、もしやもしやー、冗談じゃなかったってことなのかなっ?」
「……ゼーレを狙うのは止めて」
その瞬間、クロのネコ耳がピクッと動く。
「へー。お姉さん、結構言うんだね。面白いや」
——直後。
クロがその場から飛び上った。
その赤い瞳は、今度は私を捉えている。どうやら、狙いが私に変わったようだ。良いのか悪いのかはよく分からないが、これでゼーレは助かるかもしれない。そういう意味では良かった、と私は思った。
両手の爪を下へ向けながら、私の頭上から下りてくるクロ。
私は咄嗟に体を動かし、立ち上がれないままではあるが、彼の着地を避けた。危ないところではあったが何とか回避。爪の餌食にはならずに済んだ。
だが、ゼーレと分断されてしまう。
「気に入ったから、お姉さんを先にやっちゃうねっ」
クロは標的を完全に私に変えた。
危険は伴う。けれど、私が相手なら、殺しにはこないだろう。生かしてはおくはずだ。
本気でかかってこられない分こちらが有利——なんて思ってはいたのだが。
「うあっ!!」
見えないほどの速度で接近してきていたクロ。
その爪が、再び私の左腕を切り裂いた。
「カトレア!すぐに止めますから!」
ゼーレの声だ。だが、物凄く遠くで聞こえたような気がする。
「さっせなーいよー」
クロは愉快そうに言った。
それから彼は、白いネコを大量発生させる。
普通のネコのようにも見えるが、一斉にゼーレの方へ向かっていったことを思うと、恐らくは化け物の一種なのだろう。ネコ型化け物といったところか。
「お姉さん。これでぼくと二人きりだよっ」
確かに、クロの言う通りだ。
あれだけのネコ型化け物に邪魔をされては、いくらゼーレといえども、こちらにまで手を回せはしないはず。
もはや私とクロの一対一。これは結構まずいことになってしまった。
「大人しくしてねっ」
「い、嫌よ!」
こんなものはただの強がりにすぎない。だが、こうでもしていないと、心が折れそうになるのだ。だからこうして、強気な発言をする外ないのである。
「そっかー。じゃあ仕方ないねっ」
楽しそうに言いながらさらに近づいてくるクロに向け、赤い光線を放った。しかし、やみくもに放った光線が命中するはずもなく、いとも簡単にかわされてしまう。
迫るクロの爪。
もはや私に反撃の手などありはしない。
「動かなかったら、苦しまずにすーむよっ」
苦しまずに済む——ほんの一瞬だけ、その方がいいのではと思ってしまった。
このまま痛みに苦しみ続けるより、終わってしまった方が幸せなのではないか、と。
けれども、私の本能は、それを許さなかった。
「……いいえ」
まだだ。私はここで終わるわけにはいかない。
しなくてはならないことや、したいことが、私にはまだたくさんあるのだ。
「貴方の思い通りになんてならない!」
私は覚悟を決めた。
クロを倒す、という覚悟を、だ。
彼との距離は数メートルしかない。数秒後には爪が突き刺さることだろう。
しかし、爪が刺さることはもう怖くない。いや、怖くないと言えば嘘になるが、それよりも「クロを倒す」という決意の方が強いのだ。目的を達成するためなら、痛みなど厭わない。
私はただ、クロの姿を懸命に捉えるように努めた。
「おしまいだねっ!」
——来る。
狙うのは、クロの爪が私の体に刺さる直前。
つまり、彼の気が緩む瞬間だ。
- Re: 暁のカトレア ( No.88 )
- 日時: 2018/08/16 17:09
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: OZDnPV/M)
episode.81 優しさに触れたら
覚悟はできた。たとえどんな目に遭おうとも、私は目の前の敵を倒す。今はただ、それだけだ。
「もう動けないのかなー?」
クロの爪が迫る。もうまもなく、私の腕に突き刺さるだろう。
——だが、そこがチャンスだ。
距離が近づき、敵も油断している。その瞬間を狙えば、この危機から逃れられる確率は高い。
「ばーいばーいっ」
至近距離にまで迫ってくるクロに、私は、右手首の腕時計を向ける。
そして、光線を放った。
腕時計より溢れた赤い光。それは一筋の太い光線となり、一メートルほどしか離れていないクロの体を貫いた。私がやったとは到底思えぬ、見事な直撃だ。
クロの小さく軽そうな体は勢いよく吹き飛ぶ。そして壁に激突した。
「よし、当たった……」
気が緩み、倒れ込みそうになった瞬間、黒いマントがひらめくのが視界の端に入った。
「カトレア!」
駆けてきたのはゼーレ。
彼は私のすぐ横へ座り込むと、翡翠のような瞳で見つめてきた。
「無事でしたかねぇ」
「え、えぇ。私は無事よ。ゼーレこそ、大丈夫なの?」
なぜか私が心配されてしまっているが、本来心配すべきなのはゼーレの方なのだ。ゼーレは既に怪我しているところにこの襲撃。私より彼の方が大変なのは目に見えている。
「私はべつに……何の問題もありません。この身で戦わずとも、蜘蛛を戦わせられますからねぇ」
そうか。
確かに、それなら本人が動けずとも戦える。
「まったく、あのトリスタンとかいう馬鹿は……本当に使い物になりませんねぇ。わざわざ来ておきながら……非常時には帰っているなんて」
「ごめんなさい、ゼーレ。私がトリスタンに帰るよういったから……」
するとゼーレは淡々とした調子で返してくる。
「いえ。べつに貴女を責めているわけではありません」
彼の声色は静かだ。危機の中にいるとは思えぬほどに落ち着いている。
だが、それだけではなく、優しさも微かに感じられた。彼は不器用だが、不器用なりに私を思いやってくれているのだろう。
「……優しいのね」
私は半ば無意識にそんなことを言っていた。
こんな言葉がするりと出たのは、多分、彼の優しさに触れたからだろう。ゼーレの言動から思いやりを感じられたからこそ、私も素直になれたのである。
「ゼーレ、貴方って本当は優しい人よね」
すると彼は、頬をほんのり赤らめつつ、ぷいっとそっぽを向いてしまった。どうやら照れているらしい。少し可愛いと思ってしまった。
「私は優しくなどありません」
「そう?」
「忘れたのですか、カトレア。私は貴女からすべてを奪った人間です」
彼の発言は間違ってはいない。
だが、いくら辛いことだったからといって、過去に囚われ続けるのはナンセンスだ。
「貴女は本来……私を憎むべきなのです」
ゼーレはきっぱりと言った。その言葉と声色は、一切迷いがないように感じさせる。
しかし、彼が憎まれることを望んでいないということは、表情を見ればすぐに分かった。彼はこんなことを言ってはいるが、実際のところ憎まれ続けたいと思っているわけではないのだと、表情から伝わってくる。
「どうして?今はもう仲間じゃない」
「……ほう。なるほど。相変わらず、救いようのないお人好しですねぇ」
「何とでも言ってもらって構わないわ」
仲間なら、ちょっとやそっとの喧嘩くらい、起きたって悪くはない。そうやって仲は深まっていくものなのだから。
その時。
壁に激突して動かなくなっていたクロが、その小さな体をむくりと起こした。白い毛に包まれたネコ耳も、ピクピク動いている。
「うぅーん……結構やられちゃーったなー……」
赤い光線が直撃したのだ、そこそこ大きなダメージを与えられているはずである。しかしクロは呑気な喋り方のまま。ダメージを受けた様子はあまり見受けられない。
「やっぱり、ボスの命令に逆らうようなことをしたらー、痛い目に遭うってこーとかなっ?こわーいなー」
クロは、雪のように白い髪を風になびかせつつ、ゆっくりと立ち上がる。
「効いてなかったってこと……?」
「効いていないということはないはずですがねぇ」
至近距離から攻撃を叩き込めば大ダメージを与えられると思っていただけに、少々ショックだ。こんなにあっさり立ち上がってこられるとは、予想していなかった。
「やっぱ目標は、一人に絞ろーっと」
クロの狙いが再びゼーレに戻ってしまった。
これでは最初に逆戻りではないか。
「まだ来る気のようですねぇ……仕方ありません」
ゼーレは呟き、蜘蛛型化け物を自身の前へ呼び集める。
彼自身は怪我で上手く動けない。だから、蜘蛛型化け物たちに戦わせるつもりなのだろう。
「いきなさい!ただし、火は使わないこと!」
そう指示が放たれた瞬間、蜘蛛型化け物たちは一斉に動き出す。床を不気味に這いながら、近づいてくるクロを迎え撃つのだ。
そして、蜘蛛型化け物にクロの相手をさせておきながら、ゼーレは私の方を向く。
「カトレア、ここから出ていって下さい」
「……え?どうして?」
彼の瞳は真剣な色を湛えていた。
「あれの狙いは私です。貴女を追いかけはしないでしょう」
「待って。どういうことよ」
「先にここから去りなさい、と。そう言っているのです」
割れた仮面の隙間から覗く翡翠のような瞳。それは、今までで一番美しく、鮮やかな色をしていた。
なのに、なぜだろう。
今ここで別れたら、もう会えないような気がした。
具体的な根拠があるわけではない。会えないような気がする理由がする理由もない。ただ、『そんな気がする』というだけのことだ。
……でも。
「嫌よ。私、貴方をここに置いてはいけない」
クロの爪に抉られた脇腹と左腕は、少し時間が経った今でも、じくじくと脈打つように痛む。出血は止まってきているものの、赤いものが流れた跡はくっきりと残っている。
辛くて、逃げ出してしまいたい。こんな厳しい状況下で戦い続けるなんて嫌だと、そう思う。
けれども、ゼーレを放って逃げ出すのは、もっと嫌だ。
「私はまだ戦える。だから、今のうちに、早く倒してしまった方がいいわ」
するとゼーレは呆れたように返してくる。
「強情な女ですねぇ……分かりました」
珍しく、早く理解してくれた。純粋に嬉しい。
「無理だけはしないで下さいよ」
「えぇ!もちろんよ!」
体内の血を結構な量失ったからか、なんとなく寒い感じがする。それに加え、脇腹は痛いし、左腕は動きにくいし。これまでに体験したことのない、調子の悪さだ。
だが、ゼーレが私の意見に賛同してくれたという事実は、弱った体に元気を注ぎ込んでくれた。不思議なことに、胸の奥から力が湧いてくる。
これなら戦える。
私は今、一切の迷いなく、そう思えた。
- Re: 暁のカトレア ( No.89 )
- 日時: 2018/08/17 17:46
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 50PasCpc)
episode.82 襲撃などに屈しはしない
あの夜、私からすべてを奪った張本人の、ゼーレ。彼とこうして肩を並べる日が来るなど、誰が想像しただろうか。いや、誰一人として想像しなかったに違いない。
実際、私だって、そんな可能性を考えてみたことはなかった。
しかし、今、私とゼーレは共にある。敵同士としてではなく、共通の敵を倒さんとする仲間として。
ただ意外にも、私の胸中は、ダリアの空のようにすっきりと晴れ渡っている。ゼーレを訝しむ感情など、欠片もありはしない。こうして共にあれることが嬉しいくらいだ。
「私の蜘蛛に動きを止めさせます。貴女はそこへ、可能な限り攻撃を叩き込んで下さい」
「分かったわ。任せて」
クロはかなり強い。
人間を遥かに超越したスピード、異常な長さを誇る爪の攻撃力。それらが上手く組み合わさり、見事な戦闘力を生み出している。
だが、あくまでそれは、一対一の時にこそ大きな力となるのだ。
スピードも爪も、多数の敵を相手にするのに向いているとは、あまり言えない。
もちろん、素人が相手ならば余裕だろう。しかし、ある程度戦える者たちに一斉にかかってこられた時にどうかと言えば、話は変わってくる。
「拘束しなさい」
ゼーレが冷たい声で命令すると、既にクロの相手をしていた蜘蛛型化け物たちの動き方が急変した。
このような光景を見ると、まるでゼーレが大軍の将であるかのように思えてきて、何だか面白い。
「うわ、うわわっ。気持ち悪ーい」
大量の蜘蛛型化け物に絡まれたクロは、不快感を露骨に表しつつ言っている。
それはそうだろう。
こんな大量の蜘蛛に張り付かれるなんて、私だったら発狂していたに違いない。
「カトレア、もう少しです」
「分かったわ。よくなったら言ってちょうだい」
「そちらこそ……準備しておいて下さいねぇ」
黒い蜘蛛たちがわさわさと動き、クロの全身を包んでいく。
今は味方だと思っているから耐えられている。だが、もしいきなりこの光景を見せられたとしたら、悲鳴をあげて逃げ出していたことだろう。それほどに凄まじい光景である。
「うわっ。や、やめっ、うわぁ」
クロは四肢をじたばたさせて抵抗しようとする。けれど、ゼーレの兵たちの前では、そんなものは無力だ。手足を動かすくらいの力では、蜘蛛型化け物の群れからは逃れられない。
やがて、ゼーレが口を開く。
「……もうそろそろ良いでしょう」
翡翠色の瞳は、私を確かに捉えていた。
「では頼みますよ」
「えぇ」
頷き、右手首の腕時計へ意識を集中させる。
先ほどの光線は、至近距離から食らわせたにもかかわらず、致命傷を与えるというところまでいかなかった。それゆえ、今度は先ほどよりも威力を上げなくてはならない。だが、威力を操作するなどできるのかどうか……。
そんな風に考え込んでいた私に、ゼーレが声をかけてくる。
「力むのは不格好ですねぇ。普段通りで問題ありませんから、もっと気楽にいきなさい」
光線を発射する直前、彼の言葉が耳に入った。
その優しい言葉は、私の強張っていた心を、一瞬にしてほぐしてくれる。まるで、冬の氷を解かす春の陽のように。
「……そうね。そうよね!」
ゼーレへ返事をするのとほぼ同時に、腕時計から赤い光線が放たれた。目標であるクロに向け、光線は一直線に宙を駆ける。
——どうか、これで終わりますように。
私はただ、それだけを願った。
これ以上戦いが続くのはもう嫌だ。身体的なこともそうだが、精神的にも厳しい。早く平穏を取り戻したい。
赤い光線は、蜘蛛型化け物に取り押さえられているクロに突き刺さり、そして彼の身を貫く。これまでにないほどの力強さで。
起こる爆発。
煙が立ち込める。
それから数秒が経過し、その煙が晴れると、力なく倒れるクロの体が視認できた。
「今度こそ……やった?」
白い髪は埃にまみれたように灰色に染まっている。
ネコ耳も動いてはいない。
先ほどもしばらくしてから動き出したため、油断は禁物だが、どうも動きそうな気配はない。
「ほう……なかなか凄まじい威力が出ましたねぇ……」
すぐ隣にしゃがみ込んでいたゼーレが、心なしか動揺したような声で言った。続けて、負傷している体を重そうに持ち上げる。そして、クロの方へ歩み寄っていく。私はそんなゼーレを追って歩いた。
「そんな普通に近寄って大丈夫なの?」
「まぁ、あれだけの威力の光線ですからねぇ……問題ないかと」
倒れているクロに接近すると、ゼーレはその場へ腰を下ろす。そして、その機械の腕でクロの体に触れた。
すると驚いたことに、クロの体が、すうっと霧状に散る。
「……今度こそ、終わりましたか」
クロの体は塵となり消えた。
それは、化け物を倒した時とよく似た消滅の仕方であった。
「倒したのね」
「そのようですねぇ……」
ゼーレの言葉を聞いた途端、この胸に、嬉しさが溢れてくる。倒した、やってのけた、という達成感が大きい。
もちろん傷は痛かったが、それはさほど気にならなかった。
「やったわね!ゼーレ!」
私は夜に相応しくない大きな声を出してしまい、数秒後、慌てて口を塞ぐ。こんな大声を出しては怒られてしまう、と思ったからだ。
「あ……いきなり大声出してごめんなさい」
一応謝っておく。
するとゼーレは、一度呆れたように溜め息を漏らした後、私から視線を逸らして述べる。
「ま、よく頑張ったと思いますよ」
その後、アニタが部屋に訪ねてきた。
赤く濡れた室内や、出血によって血まみれになってしまっている私を見て、彼女はかなり驚いていた。それはもう、失神しそうなほどに。
アニタは私の腕や脇腹の傷の手当てをしっかり行ってくれた。
だが、やはりそれだけでは終わらず、説教もがっつりついてくるという悲劇。頑張って戦ったにもかかわらず叱られるのだから、何とも複雑な心境だ。
彼女の中の私は、きっと今でも、昔の私のままなのだと思う。
それから数時間。朝が来てから、私とゼーレは、グレイブらに、昨夜襲撃があったことを伝えた。狙いがゼーレであったことも含めて。
- Re: 暁のカトレア ( No.90 )
- 日時: 2018/08/18 17:04
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: JIRis42C)
episode.83 暫し、別れ
「基地へ帰還!?」
突如グレイブから告げられた言葉に、私は、暫し脳が思考停止してしまった。
今朝のミーティングによれば、シブキガニ退治は、かなり進んではいるものの、完全に終わってはいないということだった。にもかかわらず基地へ戻らなくてはならないなんて、私にはどうしても理解ができない。
「そうだ。その怪我ではまともに動けまい」
「ですがグレイブさん。まだ終わっていないのでは……」
「もちろんだ。私たちはもうしばらくここへ残る」
淡々と話すグレイブ。
その漆黒の瞳は、夜の湖畔のように静かな雰囲気を醸し出している。
「だがマレイ。お前はその怪我だ、それではまともに戦えまい」
彼女の視線は私の左腕に注がれていた。
確かに、彼女の発言もあながち間違ってはいないのかもしれない。
だが、手当てはちゃんと行っているし、痛みも既に落ち着きつつある。動かすと痛むことは痛むが、戦えないほどの激痛ではない。それに、怪我したのは、幸い、利き手の右手ではなかった。
それゆえ、まだ戦えると思うのだが。
「私、まだ戦えると思います」
一応言ってみる。だがグレイブは首を左右に振るだけ。
「戦えなくなるまで、無理をして戦い続けることはない」
「ですが……」
私が言葉を返そうとすると、グレイブはそこへ重ねてくる。
「心配するな。もちろん、一人で帰れとは言わない。ゼーレも帰らせる」
「二人で帰るということですか?」
「そうだ。二人とも負傷組だからな、先に退いておいてくれ」
なぜだろうか。
形容し難いもやもや感が、胸の奥に広がる。
そういうことではない、と分かってはいるのだが、「もう必要でない」と言われているかのような感覚だ。仲間外れにされてしまったような気がして、正直、少し辛い。
そんなことを思い俯いていると、グレイブは、軽く首を傾げながら尋ねてくる。
「どうした、マレイ」
紅の唇から出る声は、芯はありつつも優しげな、温かみのあるものだった。そこから、負の感情が伝わってくるといったことは、少しもない。にもかかわらず憂鬱になるのは、多分、私の考えすぎなのだろう。
「何だか暗い顔をしているな。怪我のせいか?」
グレイブの発想はややずれていた。
強い心を持った彼女には、きっと、私の心など分かりはしないのだろうな。そんな風に思うと、どこか寂しくも感じられた。
私だって、私が面倒臭い人間だということは、嫌というくらい分かっている。それなのに理解してほしいと思うのは、贅沢だろうか。
……いや、考えるのはもう止めよう。
こんな答えの出ないことを考え続けている場合ではない。いくら頑張っても答えが出ないことを考え、それによって憂鬱になるなんて、損としか言い様がないではないか。この考え事は、もう止めにしよう。
それより、もっと意味のあることを考える方が、ずっと有意義だ。
「いえ。何でもありません」
だから私は、グレイブの顔を見つめて、あっさりと返した。
「では荷物をまとめてきますね。ゼーレにも伝えておきます」
「そうか。それは助かる。ではよろしく頼む」
こう言うだけで良かったのだ。
たったこれだけで話がスムーズに進むのなら、もっと早くこう言っておけば良かった——そんなことを思ったりした。
話が終わり、私が席から立とうとした瞬間、グレイブは述べる。
「それと、帰還にはフランも同行する。怪我人二人では心もとないだろうからな」
ということは、私とゼーレとフランシスカの三人で、帝都の基地まで帰るということか。
ゼーレとフランシスカは、また喧嘩しそうだ。
だが、たまには騒々しいのも良いかもしれない。今はなぜか、そんな風に思う。
グレイブとの話を終えてから、ゼーレがいるはずの部屋へ行き、基地へ帰還しなくてはならなくなったことを伝えた。それに対して彼は、「そんなことだろうと思いました」と、嫌み混じりに呟くだけだった。
その後、私は荷物を置いている自分の客室へと戻り、トランクにすべての持ち物をしまった。こんなことになってしまったがために、結局使わずじまいの物もたくさんだ。念のため、と持ってきた物の多くは、ただ持ってきただけになってしまい、非常に残念である。
ゼーレは動くのがしんどいらしく、蜘蛛型化け物の上に乗って移動していた。彼の場合は、昨夜のクロの襲撃だけではなくボスにやられた傷もあるため、仕方ない。
私とゼーレは、基地へ戻る準備が済んでから、フランシスカと合流。
アニタにお礼を述べて、宿を後にした。帝都行き列車に乗るべく、乗り場へと向かったのである。
「マレイちゃん、怪我は大丈夫なのっ?」
列車へ乗り込み、席につくなり、フランシスカが話しかけてきた。
「えぇ。このくらいなら」
「へーっ!マレイちゃんも強くなってきたねっ」
私とフランシスカ、そしてゼーレ。三人は、二人席が向かい合う形にセットされた、四人用の席に腰かけている。通路側の列に私とフランシスカが向かい合わせ、ゼーレは私の隣の窓側。そういった位置である。
「それにしても、ゼーレ狙いの襲撃だったんだっけ?巻き込まれて災難だったね」
「えぇ。本当に驚いたわ。でも、ゼーレが一人の時じゃなくて良かった」
するとフランシスカは、目をぱちぱちさせる。
「え?そうなの?」
「そうよ」
「でもでも、ゼーレがいなかったら襲われずに済んだんじゃないのっ?」
「それはそうだけど……。でも、一番怖いのは、ゼーレが一人の時に狙われるパターンよ」
私とフランシスカが話している間、ゼーレはというと、やはり窓の外を眺めていた。金属製の指に乗った一匹の小さな蜘蛛型化け物も、脚をちょこちょこ動かしながら、窓の方を向いている。小さな蜘蛛と一緒に外を眺めるなんて、少し可愛らしい。
そんなこんなで、私たち三人のダリアから帝都へ帰る列車の旅は、まったりと続くのであった。
- Re: 暁のカトレア ( No.91 )
- 日時: 2018/08/18 18:04
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: JIRis42C)
episode.84 左腕を診てもらう
帝都にある基地へと戻った私は、フランシスカの提案もあって、医師に診てもらうことになった。無論、この左腕の傷を、である。
私は、フランシスカに、医師がいる部屋まで案内してもらった。
なんせ、そこへ行くのは今日が初めてなのだ。
「こんなくらいで行ってしまって本当に大丈夫なの?」
「もちろん!十分な怪我だよっ」
確かに、私にとってはこれまでにないほどの重傷だ。しかし、それはあくまで私史上のことであって、この程度の傷はよくあることかもしれない。こんなくらいで騒ぐなんて馬鹿だ、と思われないか若干心配である。
医師がいるという部屋に着くと、フランシスカは、その扉をコンコンと軽くノックする。それから、「失礼しまーす」と言って、扉を開けた。
「……マレイちゃん?」
直後、私の名を放つ声が耳へ入ってきた。
なんという偶然だろうか、と私は驚く。トリスタンがいたからである。彼は医師と思われる人と向かい合わせに座っていた。
「トリスタン!」
私が彼の名を呼ぶより早く、フランシスカが口を開く。睫毛に彩られた丸い瞳は、いつになく輝いている。真夏の太陽のように。
だが、トリスタンの表情はというと、フランシスカのそれとは真逆だ。
「あぁ。君も一緒だったんだ」
「トリスタン、体調は大丈夫っ?困ったことがあったらフランに言って!協力するからっ」
「ありがとう。多分頼まないと思うけど」
相変わらずフランシスカにはそっけないトリスタンだった。
この時ばかりは「さすがにもう少し優しくしてあげても……」と思ってしまった。フランシスカだって明るく振る舞っているのだから、少しは親しみを持って接してあげればいいのに。
「マレイちゃん、どうしてここに?」
トリスタンはフランシスカを通り過ぎ、金の髪をなびかせながらこちらへ歩み寄ってくる。穏やかな色が浮かぶ彼の顔は相変わらず整っていて、見惚れてしまった。
「ちょっと怪我したの。それで、フランさんが、診てもらっておいた方がいいって」
「け、怪我!?そんな!!」
「待って、落ち着いて。トリスタン、落ち着いて!」
慌てた様子の彼を制止してから、すぐに医師の方を向く。
トリスタンと話しにわざわざここまで来たのではない。私がここへ来たのは、傷の状態をチェックしてもらうためである。
「あの、今診ていただいても大丈夫でしょうか?」
すると、私たちがどたばたしているのを微笑んで眺めていた老齢の医師は、こくりと頷いた。
「もちろんもちろん。怪我かな?体調不良かな?」
「怪我です」
「おぉそうかい。ではここへ座ってもらえるかな?」
「はい。ありがとうございます」
心の広そうな人で、私は内心ほっとした。「このくらいで来るな!」と怒られたらどうしよう、と密かに不安だったからである。
「では傷を見せてくれるかな?」
「はい」
トリスタンやフランシスカも見守る中、私は制服の左袖をめくり上げる。アニタが応急処置で巻いてくれた包帯に包まれた腕が露わになると、トリスタンが動揺したように呟く。
「そんな。マレイちゃんが本当に怪我を……」
老齢の医師は、私の左腕をそっと掴むと、「少々失礼するね」と告げてから包帯に手をかける。そして、慣れた手つきで器用に包帯を解いていく。
こんな上手な解き方、私にはできそうにない。
さすがは医師、といったところか。
やがて、包帯がすべて外れると、切り裂かれたような傷のある皮膚が露出する。クロの爪にやられた傷は、見た目が派手だった。自分でこんなことを言うのなんだが、かなり痛そうな見た目をしている。
「おぉ……」
何とも言えない、といった顔をする老齢の医師。
表情はただの優しいおじいちゃんのそれだ。
しかし、目つきはただのおじいちゃんのものではない。彼の目からは、傷に向き合う真っ直ぐな心が伝わってくる。私の左腕を見つめる、彼の鋭い眼光は、非常に印象的だった。
「これは結構派手にいったね。よし、まずは消毒しようか」
「お願いします」
「すこーし沁みるかもしれないけど、我慢してね」
「はい。分かりました」
傷を左腕の傷を消毒してもらった。
それから、うっかり忘れかけていた脇腹の方も診てもらう。老齢の医師によれば、脇腹の方は比較的軽傷らしい。
それを聞いて、私はほっとした。
もしここで重傷だなんて言われたら、トリスタンやフランシスカを心配させてしまう——そんなのは嫌だったから。
「でもマレイちゃん、軽傷で良かったねっ」
「えぇ。ほっとしたわ」
診察室を出ると、私は、トリスタンとフランシスカと三人で、食堂へ向かった。食堂でなら喋りつつ休息できるかな、と思ったからだ。
「怪我なんて慣れないから、本当は少し心配だったの。だから、フランさんが『診てもらった方が』って言ってくれて、凄く助かったわ」
するとフランシスカは、腕組みをしながら、顎をくいっと持ち上げる。誇らしげな表情だ。
「でしょ?フラン、役に立つでしょ!」
「えぇ。本当に」
「これからもどんどん頼ってくれていいからねっ」
なぜだろう。今日は妙に親切だ。
そこへ口を挟んでくるのはトリスタン。
「役に立つと言うのなら、マレイちゃんを怪我させないでほしかったな」
トリスタンの言葉は、フランシスカへ向けられたものだった。不満の色に満ちた、静かながらも鋭さのある言葉である。
「怪我させておいて、役に立つなんてよく言えるね」
「……ごめん」
フランシスカはらしくなく落ち込んだ顔をした。お気に入りの異性から鋭い言葉を浴びせられるのは堪えるのかもしれない。
だが、これはさすがに、フランシスカが可哀想だ。だから私は、トリスタンへ声をかけた。
「トリスタン、フランさんは悪くないのよ。怪我したのは私が弱かっただけだわ。フランさんは私に的確なアドバイスをしてくれたの。だから、そんな言い方をしないで」
するとトリスタンは、暫し、考え込むように口を閉じた。
私が言っていることを理解してくれればいいのだが……。
「心配してくれているのは嬉しいわ。でも、他の人を責めるのは止めてちょうだい」
「……そうだね」
やがて口を開くトリスタン。
その表情は、柔らかなものだった。
「ごめん。マレイちゃんがそう言うなら気をつけるよ」
- Re: 暁のカトレア ( No.92 )
- 日時: 2018/08/19 17:45
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: /ReVjAdg)
episode.85 正しくは
私は、トリスタンとフランシスカと三人で、食堂にて話を続けた。
当たり障りのない話題がほとんどだが、それでもやはり楽しい。
化け物のいない空間で仲間と共に過ごす時間は、何にも代え難い幸せだ。贅沢な食事も、豪華な衣装も要らない。ただ、こうして落ち着ける場所があるだけで、十分である。
「そういえば、ゼーレはどこに行ったんだろっ?」
話題を振ってきたのはフランシスカ。
言われてみれば、確かに、ゼーレがどこにいるのか不明だ。
一旦別れる時、彼は「基地内をぶらつきでもしておきます」と言っていた。だから基地の中にはいると思うのだが、具体的に今どこにいるかまでは分からない。
「そういえばそうね。早く会いたいわ」
「あんなやつに会いたいなんて、マレイちゃん、やっぱり変わってるね!」
ばっさり言われてしまった。
私はやはり、少しおかしいのだろうか……。
「マレイちゃんは普通だよ!」
フランシスカの発言に対し、トリスタンはガタンと立ち上がった。彼の眉はいつもよりつり上がっているように見える。
「駄目よ、トリスタン!きつい言い方は駄目!」
私は慌てて制止した。
これ以上フランシスカがトリスタンに当たられては可哀想である。
「あ……ごめん。つい……」
トリスタンは気まずそうに漏らす。
「分かってくれればいいのよ」
「マレイちゃんはさすがに心が広いね……!」
深海のように青い双眸を輝かせながら、こちらを見つめてくるトリスタン。理由は分からないが、妙に嬉しそうだ。
その時。
ゴソゴソという音と共に、蜘蛛型化け物に乗ったゼーレが現れた。
ナイスタイミングである。
「用は終わったのですか?カトレア」
蜘蛛型化け物が移動するため、ゼーレは歩かなくていい。そういう意味では、化け物を操れるというのも便利そうだ。乗り物も要らないし、手間もさほどかからない。極めて効率的である。
「ゼーレ!」
「終わったようですねぇ」
「えぇ、そうよ。さっき終わったの」
トリスタンは眉間にしわを寄せ、訝しむように、ゼーレをじとっと見つめている。
今の彼の顔は、いつも私に向けるような柔和な表情ではなかった。やはりゼーレのことが気に入らないのだろうか。
「傷は……どうでした?」
ゼーレは静かな声で尋ねてくる。
私はそれに、はっきりと返す。
「そんなに酷くはないわ。脇腹も軽傷という話よ」
するとゼーレは、少しほっとしたように、溜め息を漏らした。
「ほう。ま、それなら良かったです」
「心配してくれていたのね。ありがとう」
真っ直ぐに見つめながらお礼を述べると、ゼーレはぷいっとそっぽを向いてしまった。
「まさか。心配してなどいません」
せっかく良い感じだったのに、台無しだ。
……いや、この方が彼らしくて良いのかもしれないが。
「相変わらず素直じゃないねっ」
私とゼーレのやり取りを近くで見ていたフランシスカが、呆れたように笑みをこぼしながら言う。もはや安定の、はっきりした物言いだ。
それから数秒が経った頃、トリスタンが唐突に腰を上げた。
何事かと思い戸惑う私をよそに、彼はゼーレの方へ寄っていく。彼の青い瞳から放たれる、刃のように鋭い視線は、ゼーレに突き刺さっている。ただ、さすがはゼーレ。その程度では怯まない。
「……何です?」
高さ一メートルほどの蜘蛛型化け物に座ったまま、ゼーレはトリスタンを睨む。いまだに装着している割れた仮面の隙間から見える翡翠色の瞳からは、ただならぬ威圧感が漂っていた。
「マレイちゃんを護るんじゃなかったのかな」
トリスタンとゼーレ——二人の間に漂うのは、殺伐とした空気。
交差する視線が火花を散らし、私はもちろんフランシスカでさえ入っていけない空気だ。
「どうしてマレイちゃんがこんな怪我をしたのか、ちゃんと説明してもらわないと困るよ」
「貴方は関係ないでしょう。いちいちでしゃばってこないで下さい……正直、鬱陶しいです」
「鬱陶しいと思われたっていいよ。そんなことよりも、どうしてマレイちゃんを怪我させたのかの方が大事だから」
黙ったまま、フランシスカへ目を向ける。彼女はやれやれといった顔をしていた。同感だ。
「まったく、うるさい男ですねぇ。貴方には関係な——っ!」
ゼーレは急に言葉を詰まらせる。
その喉元に、トリスタンの剣の先が突きつけられていたのだった。
「説明しないつもりなら、容赦はしない」
白銀の剣の刃は、獣の牙のように、ぎらりと輝いている。
食堂という場所には似合わない。ただ、もしここが戦場であったなら、勇ましく美しく感じたことだろう。
「勘違いしないでほしいね。僕は君を仲間だとは思っていないよ」
いきなり武器を取り出したことに驚いたらしく、フランシスカは、口をぱくぱくさせていた。恐らく、制止しようとでもしたのだろう。制止しようとして、しかし、できなかった。そんな感じである。
「動かない方がいいよ。喉を斬られたくないならね」
「……野蛮人が」
剣先をゼーレの喉元へ当てたまま、さらに接近していくトリスタン。
「さて、答えてもらおうか」
「剣を下ろしなさい。そうすれば……答えて差し上げても構いませんよ」
「随分余裕だね」
「貴方が私を斬ることはない。それは分かっていますからねぇ」
ゼーレの口角がクイッと持ち上がる。余裕に満ちた笑みだ。
この状況——見た感じトリスタンが上に立っているようだが、案外そうではない。ゼーレはトリスタンを見抜いている。そういう意味では、ゼーレの方に分がありそうだ。
「カトレアの目の前で私を斬るなど……貴方には無理でしょう」
「みくびらないでもらえるかな」
トリスタンの目つきがますます鋭くなる。
「私はただ、真実を述べたまでですよ。できるのならば、とっくに斬っていたはずですからねぇ」
これにはトリスタンも口をつぶる外なかった。
そうだった、と、私はこの時になって思い出す。
ゼーレは戦闘能力も高いが、口喧嘩は特に得意なのだ。彼はリュビエさえも圧倒する口を持っている。
不快感を露わにしながらも言葉を詰まらせているトリスタンに対し、ゼーレは続ける。
「……無意味な争いは止めましょう。心配せずとも……貴方の質問には答えますから」
するとトリスタンはやっと口を開く。
「言ったね。今度こそ約束は守ってもらうよ」
「もちろんです。しかし……前は約束を破ったような言い方は、止めていただきたいものです」
「マレイちゃんを護らなかったのは、事実じゃないか!」
「そうやってすぐに怒らないで下さい」
攻撃的な態度をとるトリスタンとは対照的に、ゼーレは冷静に振る舞っている。
今ゼーレが攻撃に転じれば、すぐに戦いが始まることだろう。
だが、ゼーレは攻めには出そうにない。無益な争いを避けようとしているのもあるだろうが、自身の体調を考慮して、という部分が大きいのではないかと私は思う。
「カトレアを負傷させたことは謝ります。ただ……」
ひと呼吸空けて、ゼーレは続ける。
「勘違いしないで下さい。正しくは、『護らなかった』でなく、『護れなかった』なのです」
- Re: 暁のカトレア ( No.93 )
- 日時: 2018/08/19 23:04
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: gK3tU2qa)
episode.86 その腕の話
トリスタンは白銀の剣を下ろし、ゼーレの喉元から剣先を離す。
そして、怪訝な顔で尋ねる。
「どうしても護れない状況だったってこと?」
ゼーレはわざとらしく、片手で、喉元をパッパッと払う。まるで、不潔な者に触られたかのように。
「そういうことです。私にでも、できることとできないことがありますからねぇ」
あの時ゼーレがクロと交戦できなかったのは、ボスにやられた傷があったせいだ。だから仕方なかったのである。
「さすがにこの状態では……他人を護る余裕はありませんでした」
だがトリスタンは納得しない。
「護れないと判断したなら、せめて、その場から逃がすくらいすべきだったんじゃないのかな」
「当然逃がそうとはしました。しかし、カトレアが拒否したのです」
ゼーレを乗せている蜘蛛型化け物は、脚をさりげなく動かし、軽く足踏みしている。地味な動きが微妙に愛らしい。
「そうでしょう?カトレア」
なっ……!
私に話を振ってくるとは。
しかし私は、心を落ち着けて、冷静に返す。
「そういえば、そうだったわね。あの時は勝手言っちゃって、ごめんなさい」
「いえ。謝ることはありません」
ゼーレは視線を再びトリスタンへと戻した。
「そういうことです。納得していただけましたかねぇ」
トリスタンは眉間にしわを寄せたまま言葉を返す。
「……分かった」
ようやく、トリスタンの攻撃的な態度が緩んだ。刃のように鋭かった目つきは、ほんの少しだけ軟化している。
「まぁ、過ぎたことを責めても仕方ないからね。今回だけは許してあげることにするよ」
ゼーレに対してだけは妙に上から目線なトリスタンである。
「その代わりと言っては何だけど、気になっていたことを聞かせてもらってもいいかな」
気になっていたことってなんだろう?私はそんなことを思いながら、トリスタンとゼーレの話の行く末を見守り続けた。
今ばかりはフランシスカも、私と同じように、黙って二人を見守っている。
「……何です?」
軽く首を傾げるゼーレ。
それに対してトリスタンは、真剣な顔つきで、ゆっくりと唇を動かす。
「その腕のことなんだけど」
「腕?」
「君の腕、明らかに人間のものじゃないよね。それは何?」
意外なところを突っ込んだトリスタンに、私は衝撃を受けた。
てっきり、また、恋愛感情だとか違うだとかについて質問するのだろうと、想像していたからである。
腕の話が来るとは、夢にも思わなかった。
「それは何、とは……どういう意味です?」
ゼーレは困惑の色を浮かべている。トリスタンが言った質問の意味が、いまいちよく分からなかったようだ。
「どうしてそんな腕なのか、少し気になってね。教えてくれるかな」
トリスタンは躊躇いなく切り込んでいく。
日頃は優しい彼が、意外にも複雑なところを尋ねたものだから、聞いていて不思議な気分になった。私に接する時の柔和な雰囲気とは真逆で、興味深い。
ただ、ゼーレが不快感を抱いていないか、若干心配だった。
それから少しして、ゼーレは答える。
「……分かりました」
ゼーレにしては珍しく、すんなりと言った。
彼のことだから、色々と嫌み混じりの言葉を吐くものと思っていたのだが、そんなことはなかった。私の脳は、少し、ゼーレと嫌みを関連づけすぎているのかもしれない。
ちなみに、今のところゼーレは、不快の色を浮かべてはいない。
「初めてボスに会ったのは……確か、二十年ほど前でしたかねぇ」
二十年も前——それは、私が生まれる前。レヴィアス帝国に化け物が現れるようになったのよりも、ずっと前である。
話し出したゼーレの言葉を、トリスタンは真面目な顔つきで、黙って聞いている。余計なことを言わない方がいいな、と判断し、私も静かに聞いておくことにした。
「ある夜、私がいた島は襲撃に遭い、あっという間に陥落した……そんな感じだったはずです。もちろん、今やその頃の記憶は、あまりありませんがねぇ」
——同じだ。
私の村が一夜にして壊滅したのと。
「島を護ろうと抵抗した大人たちはボスの手にかかり死に、戦いに参加しなかった幼い子どもはその身柄を拘束されたのです」
話を聞くトリスタンの顔がほんの少し険しくなる。
「私もその中にいました。子どもたちを拘束したことをボスは、『来るべき日のための準備』と言っていた……もっとも、その意味など知る由もありませんでしたがねぇ」
それはそうだろう。
突然現れた謎の敵に身柄を拘束されて、『来るべき日のための準備』なんて言われても、誰だって困惑する外ない。もし仮に、その子どもの中に私がいたとしても、「何の話?そんなのいいから、早く解放してよ」程度のことしか思わなかったはずだ。
純粋な子どもには、大人の考えはそこまで分からないものだ。
特に、穢れた大人の思惑などは、読み取れるはずがない。
「それから十年ほどは、『来るべき日のため』とだけしか聞かされないまま、訓練を受けていましたねぇ。その中でぽんぽん死んでいったのは……懐かしい思い出です」
ぽんぽんって……。
表現はユニークで面白いが、内容は微塵も笑えない。
いくら子どもだとはいえ、そんな簡単に死ぬような訓練、もはや訓練の域ではないではないか。内容の詳細までは知らないが、子どもに対してそんなに厳しい訓練を受けさせるなど、あまりに残酷だ。
「訓練で脱落する者もいれば、化け物研究のために実験体となり果てる者もいましたが……私は運が良かったので最後まで生き残ることができました。かくして、私はボス直属の部下となる権限を得たわけです」
「それで、腕は?」
「腕がこんなことになったのは、その後です。偶然ボスの意図を聞いてしまった私は、逃亡を試み、しかし結局捕まりました。そして、逃亡しようとした罪とのことで、気づけば両腕をちょっきりいかれてしまっていたのです」
ちょっきり、とは、これまた独特な言葉選びだ。言葉自体は軽い響きだが、意味を考えると何とも言えない心境になる。
「意識が戻った時には、既にこの腕になっていましたねぇ」
ゼーレはそこまで話すと、自嘲気味に笑うのだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.94 )
- 日時: 2018/08/20 18:04
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: V7PQ7NeQ)
episode.87 楽しく過ごそうよ
帝国軍基地内にある食堂にて、今私は、ゼーレの失われた腕に関する話を聞いている。既に昼時は過ぎ、夕食まではまだしばらく時間があるという、中間的な時間帯であるため、食堂は空き気味だ。営業してはいるものの、人が少ない。
「そして、ボスは私に言ったのです。人の心を捨て、絶対服従することを条件に、命だけは見逃してやってもいい、と」
ゼーレは己の機械風の腕を一瞥し、ふっ、と息を漏らした。まるで、過去の自分を軽蔑するかのように。
そこへ、怪訝な顔をしていたトリスタンが、口を挟む。
「その条件を飲んだということなのかな」
「そうです。そして、化け物を生み出し操る力を授けられたのも、その時でした」
放たれた問いに対し、ゼーレは首を縦に振る。
その瞬間、トリスタンの整った顔に、憤りの色が浮かんだ。青い瞳は燃えている。
「じゃあ君は、自分が助かるためだけにボスについたんだ。そして、化け物を使ってたくさんの人を殺めた」
トリスタンの声は静かだった。けれども、噴火する直前の火山のような、得体の知れない力を感じさせる。
「許されることじゃないよ、それは」
「まぁ……そうでしょうねぇ」
蜘蛛型化け物の上に座ったままゼーレが返した刹那、トリスタンがテーブルを強く叩いた。
「どうしてそんなに飄々としていられるのかな!君は!」
トリスタンの口から放たれた叫びは鋭く荒々しいものだった。嵐の夜の海のような激しさである。
「死んだんだよ!人が!それもたくさん!」
「そうですねぇ。しかし、私が生きるためのやむを得ない犠牲でした」
「……生きるため?ふざけたことを!」
今にも殴りかかりそうになるトリスタンを、私は咄嗟に制止する。
「待って!トリスタン!」
比較的空いている時間とはいえ、周囲に人が一人もいないわけではないのだ。こんなところで乱闘騒ぎが起きれば、私もゼーレも、また目をつけられてしまう。それだけは避けたい。
「トリスタン、喧嘩は駄目よ」
私は彼の片腕を掴み、じっと見つめて、落ち着かせるように努めた。
「でもマレイちゃん……」
「言いたいことがあるのなら、落ち着いて言ってちょうだい」
視線の先にあるトリスタンの瞳は揺れていた。
その美しい瞳は、鏡のように、彼の心を映し出しているのだろう。
「……マレイちゃん、君の村や大切な人たちもゼーレにやられたんだよ」
「そんなことは分かっているわ」
一メートルも離れていないトリスタンの瞳を、真っ直ぐに見つめることは、私にはできなかった。
無論、いつもなら何も考えずに目を向けられただろう。
しかし、この静寂の中で、彼を直視することは、今の私には難しかったのである。
「なら、どうしてゼーレに優しくする必要があるのかな」
「お願い。そんなことを言わないで。ゼーレは変わったの。もうあの頃の彼とは違うわ」
私がそこまで言うと、トリスタンは黙った。
さらなる静寂が私たちを包み込む。
いつもは活気のある食堂なのに、よりによって今は、人がほとんどいない。一番端の席に座っている大人しい二人組くらいしか見当たらないという状況だ。
こういう時にこそ騒がしさが必要なのに、と、私は心の中で呟いた。
もっとも、心の中での呟きなど、何の意味もないのだけれど。
——長い沈黙。
それまで激しく言葉を発していたトリスタンが黙ったことにより、その沈黙はより一層深まった。
トリスタンは今、微かに俯き、憂いを帯びた表情で黙っている。そんな彼にかける言葉を、私は持っていない。ゼーレは自分を乗せている蜘蛛型化け物を撫でながら、静寂が過ぎ去るのを待っている様子だ。
この沈黙が永遠になったらどうしよう——そんな風に思ってしまうほど、重苦しい空気が漂っている。
「ねぇ」
そんな沈黙を、やがて一つの声が、破った。
「どうしてみんな、そんなにややこしいのっ?」
声の主はフランシスカ。
私を含む三人のごたごたに若干巻き込まれた彼女は、呆れ顔だった。
「ゼーレを仲間に加えるって言ったのはグレイブさんだよ?あの超化け物嫌いのグレイブさんが決めたんだし、もうこれ以上何だかんだ言っても無駄なんじゃないのっ?」
それはそうかもしれない。
「せっかくの休める時間なんだからさ、せめてその時くらいは楽しく過ごそうよっ」
「フランには関係ない」
トリスタンは冷たい態度をとる。
それに対し、負けじと言い返すフランシスカ。
「あるっ!全然関係なくない!」
制止していた空気が、少しづつ少しづつ、再び動き始める。
「だから、喧嘩はここまで!取り敢えず甘いもの貰ってくるから、それ食べて休憩!分かったっ!?」
フランシスカは、席から立ち上がると、両手を腰に当てながらそう言った。兄弟喧嘩を収めようとしている母親のように。
それから彼女は席から離れた。
場には三人だけが残される。気まずさは最高潮に達している。
「トリスタン、取り敢えず一旦座りましょ」
「……そうだね」
私は先にトリスタンへ声をかけ、彼を席につかせた。
刹那、ちらりと彼の顔を見る。
顔色を見る感じでは、だいぶ落ち着いてきているようだった。凄まじい迫力を醸し出す憤りの色は、既に消えている。これなら、平和的に進めていけそうな気が、しないこともない。
続けて私は、ゼーレの方へと目を向ける。
「ゼーレ、体調は大丈夫なの?」
蜘蛛型化け物を愛しそうに撫でていたゼーレは、さりげなくこちらへ視線を向けると、口を開いた。
「問題ありません」
淡々とした調子で言った後、彼は再び、視線を蜘蛛型化け物へと戻す。
ゆったりとした、柔らかな手つきで撫でてもらった蜘蛛型化け物は、脚をくいくいと動かして喜びを表している。何だか妙に幸せそうだ。
眺めている方まで幸せな気分になってくるような光景である。
こうして、本格的な喧嘩にまで発展することはなく済んだ。
今回は、一歩誤れば殴り合い、というところまでいきかけていた。にもかかわらず、大喧嘩にならず済んだのは、フランシスカのおかげだろう。
- Re: 暁のカトレア ( No.95 )
- 日時: 2018/08/21 22:30
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: gK3tU2qa)
episode.88 辛さの意味
それから三日。
シブキガニを殲滅するべくダリアへ行っていたグレイブたちが、帝都へと戻ってきた。
その夕方、今回の任務に関する報告とのことで、召集がかかり、私は指定の部屋へと向かう。指定されていたその部屋は、シブキガニ殲滅の任務が始まる前に一度呼び集められた部屋と、同じところだった。
さすがに二度目は早く行ける。
「こんばんは!」
扉を開け、元気よく挨拶をする。
今は夕方で、昼という感じでも夜という感じでもない。そのため、「こんにちは」か「こんばんは」か迷った。が、外が暗くなりつつあることを考慮し、一応「こんばんは」を選択した。
しかし中には誰もいなかった——いや、それは間違いだ。
椅子がいくつも並んだその部屋の一番端、かなり目立たない位置に、ゼーレが座っていたのだ。
つまり、正しくは「誰もいなかった」でなく、「一人だけいた」だったのである。
「……カトレアですか」
彼はほんの一瞬こちらを一瞥し、ぽつりと呟いた。しっとりとした小さな声で。
「もう来ていたの?早いのね、ゼーレ」
「早くはありません。既に、開始予定時刻の二十分前ですからねぇ」
「二十分前って、だいぶ早いと思うわよ……」
ゼーレは割れた仮面をまだ着用している。もはや顔の半分ほどしか隠せていないというのに、彼はまだ、着けたままだ。隠せているつもりなのだろうか。
「その仮面、外さないの?」
私は彼が座っている方へ歩いていきながら、気になったことを尋ねてみた。そして、彼の隣の椅子に腰かける。
「今のところ……外す予定はありませんねぇ」
「なぜ?」
外す気は微塵もなさそうな様子を不思議に思い、さらに尋ねてみた。
すると彼は、愚痴を言うような声色で答える。
「じろじろ顔を見られると不愉快だからです」
それを最後に、場は静まり返ってしまった。
私とゼーレ二人だけでは、なかなか話が続かない。
どうにかしようと話題を探してみたけれど、結局良さげな話題は思いつかなかった。何を話しても彼を傷つけてしまうような気がして、こちらから話を振る気にはなれないまま、ただ時間だけが流れていく。
「……カトレア」
やがて、口を開いたのはゼーレ。
気まずそうな顔をしながらも、視線はこちらに向けている。
「一つ、質問をしても構いませんかねぇ」
「もちろん。構わないわよ。何?」
私は彼の翡翠のような瞳へ視線の先を向けた。
それにより、ゼーレの顔に浮かぶ気まずさの色は、さらに濃くなる。何だか少し申し訳ない気もするが、彼から視線を逸らすことはしなかった。
「もし仮に」
仮面の隙間から視認できるゼーレの唇が、控えめに動く。その息遣いからは、緊張している様子が窺えた。
「私が貴女を愛していると言ったら……貴女はどうします?」
聞いた瞬間、心臓が大きく鳴った。
ゼーレの質問があまりにも予想外のものだったからである。
「どうしてそんなことを聞くの?」
私は、動揺を必死に抑えつつ、彼を見つめて問う。
きっと冗談なのだろう。本気になって馬鹿らしい、と私を嘲笑うための質問に違いない。だって、それ以外に、彼がこんなことを問う必要性がないから。
けれども、私の目に映る彼の表情は、真剣なものだった。
他人を馬鹿にするための冗談を言っているとは到底思えない、繊細な表情をしている。
「ゼーレ、冗談なら止めて。そんな冗談……笑えないわ」
そう言うしか、私には手がなかった。
でも、仕方がないのだ。急に意味の分からないことを言われたのだから。
「この程度で本気になって馬鹿らしい、って、私を笑うつもりなのでしょう」
今だけは、馬鹿だと笑ってほしかった。そんなわけないでしょう、と、いつものように嫌み混じりで言ってほしかった。
そうでなくては、彼の意図が微塵も理解できない。
「……そうですねぇ。私も……そうやって笑えたなら良かったのにと思います」
ゼーレはほんの僅かに俯いていた。
その口元には、寂しげな笑みが、うっすらと浮かんでいる。
「出会いたく……なかった」
彼の口から零れ落ちた言葉に、私は戸惑うしかなかった。
「え、何?いきなりどうしたの?」
私は敢えて、何事もなかったかのように尋ねてみた。戸惑いは隠し、平静を装って、口を動かす。
所詮私が行うことだ、薄っぺらい演技の域を出ない。
だが、それでも少しは、この激しい動揺を隠せているはずだ。
「……辛いのです。もう、貴女といることが……」
「辛いって……どうして急にそんなことを言うの?もしかして私、何か嫌なことをしてしまっていた?」
「……そういうところです」
「へ?」
つい情けない声が出てしまった。
このタイミングで情けない声は、正直少し恥ずかしい。
「そうやって優しくされるから、辛いのです!」
「えぇ!?」
ますますわけが分からなくなってきた。優しくされるのが辛いだなんて、明らかに変だ。
「優しくされればされるほど貴女が頭から離れなくなるから嫌なのです!」
ゼーレは口調を急激に強める。怒った時のトリスタンをも凌駕するほどの迫力に、私はただ、慌てることしかできない。何がどうなっているのか分からないからである。
「え。え。ちょ、どういうこと……」
「分からないでしょうねぇ、貴女には!」
「ご、ごめんなさいっ!?」
もはや、なぜ謝っているのかも分からない。
これは何なの!?
「あのっ、えと……ごめんなさ……」
彼を本気で怒らせたら、何をされるか分かったものでない。だから私は、ゼーレを落ち着かせようと、取り敢えず謝っておく。
するとゼーレは、やっと言葉を止めた。
己の額へ手を当て、少しして、はぁ、と溜め息を漏らす。
「失礼。少々取り乱しました……」
どうやら冷静さを取り戻したらしい。
私は内心、安堵の溜め息を漏らした。二人きりの時に怒らせてしまうというのは怖いものだ。
それからゼーレは、わざとらしく、一度咳払いをした。
「どうやら察してはいただけないようですねぇ……」
おっ、ゼーレの嫌みが……!
「仕方ありません。この際、直球でいきましょう」
「ちょ、直球?」
「そうです。貴女の物分かりが悪すぎるからですよ」
おぉ……!
ゼーレの性格の悪さが戻ってきた……!
なぜか少し嬉しい。旧友と再会したような気分だ。
「分かったわ!何でも言って!」
やっぱりゼーレは嫌みを言っている方がいいわ。その方が安心して話していられるもの。
直後、仮面の隙間から見える瞳が、私を直視した。
まるで、この胸を貫くかのように。
「こんなことを言う資格はないと分かったうえで言わせていただきます」
そこで一旦言葉を切り、心を整えるように深呼吸を行うゼーレ。
口の器用な彼が、わざわざ深呼吸してから言わなくてはならないようなことだ。きっと、とても大事なことなのだろう。
「私は貴女を、愛してしまったかもしれません」
……えっ。
- Re: 暁のカトレア ( No.96 )
- 日時: 2018/08/22 21:05
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 6Bgu9cRk)
episode.89 さらなる刺客
突如放たれたゼーレの言葉に、私は言葉を失った。何も返せず、ただ、彼の顔を見つめ続ける。
そんな私に、彼は口を動かす。
「驚いた顔をしていますねぇ……ただ、これはまぎれもない真実です」
室内には私とゼーレしかいない。完全な二人きりだ。聞いている者も誰もいないだろう。そんな静まり返った部屋の中、ゼーレの静かな声だけが空気を震わせる。
「べつに、受け止めろとは言いません。貴女にそんな酷なことを求める気はありませんから」
言いながらゼーレは、壁に掛けられた時計をちらりと見ていた。時間を確認しているものと思われる。
その頃になり、ようやく脳が動き出してきた私は、口を開く。
「あ、いえ。ごめんなさい。少しびっくりしてしまっただけよ」
口から滑り出たのは、そんな、何でもないような言葉だった。暫し頭が真っ白になっていた私には、この程度が限界だったのである。
「でも、愛してしまったかもしれないって、どういうこと?仲良くしたいと思ってくれているなら、それに越したことはないけれど……」
「仲良く?貴女は本当に子どもですねぇ」
どうしてそんなこと言われなくちゃならないのよ!
……なんて、言えるわけもなく。
「私が求めているのは、そんなものではありません」
「じゃあ、貴方が求めているものは何?」
開始予定時刻まで、あと十分ほど。
この時間になってまだ誰一人来ないというのは妙だが、もうまもなく誰か来るはずだ。ゼーレがここへ来ていた以上、集合場所を間違えているという可能性は低いし、全員が遅刻ということも考え難い。
「私が求めているのは——貴女の隣です」
ゼーレは私の問いに答えた。迷いのない、しっかりとした声色で。
「私の、隣?」
「そうです」
「どうして?今既に隣にいるじゃない」
意味が分からず首を傾げていると、ゼーレはやれやれといった顔をした。完全に呆れられてしまっている。
だが仕方がないではないか。私の脳では処理しきれないことを言われたのだから。
「まったく……貴女は疎いですねぇ。私が言っているのは、そういう意味ではありません」
「え。違うの?」
「私が言っているのは、物理的な位置のことではなく——」
ゼーレが言いかけた時。
「心の距離、でごわすな」
突如、どこからともなく、聞き慣れない声が聞こえてきた。低く極太の、いかにも男性らしい声質だ。
そして、その直後。
天井の一部がパカッと開き、ドシン、と黒い何かが落下してきた。
黒い何かが落ちてきたのは、部屋の中央辺り。だから、私とゼーレがいる場所からは多少距離がある。しかし、敵の可能性もあるため、油断はできない。
やがてむくりと起き上がる黒い何か。
「ゼーレ、あれは敵?」
「そんな感じがしますねぇ……」
私は椅子から立ち上がった。
もし敵だったなら、怪我しているゼーレを護らなくてはならないからだ。
最悪私一人で戦わなくてはならない可能性もある。そのため、私は、心を強く持つよう意識した。
何が待ち受けるにせよ、心の準備は必要だ。
「まさかここでゼーレ殿の恋心を聞いてしまうとは……」
黒い何かは完全に起き上がる。
その正体は男だった。
髪とそこから繋がるように生えた顎ひげは真っ黒で、まるでゴリラのような男だ。肩と腕の筋肉が抜きん出て発達しているらしく、上半身が山のように盛り上がっている。
そんな彼は、ゼーレをびしっと指差して言い放つ。
「しかーし!安心していただきたいでごわす!」
何だろう、この人……。
「おいらは他人の恋について、勝手に広めたりはしなーい!」
椅子から蜘蛛型化け物の背へと移ったゼーレは、ゴリラ風の男を鋭く睨む。
「……何者です」
警戒したようにゼーレが聞くと、男は筋肉のついた腕を振り回しながら答える。
「おっと、自己紹介が遅れて申し訳なかったでごわすな。おいらの名はシロ!黒いけどシロでごわす!」
恐ろしいほど似合わない名前だ、と思った。
「リュビリュビ様の命により、ゼーレ殿を抹殺しに参ったのでごわす!」
その言葉が発された瞬間、室内の空気が急激に引き締まる。
目の前のゴリラのような男——シロは、先日のクロと同じで、ゼーレの命を狙っているようだ。
最近はこんなことばかりで、嫌になってくる。……もっとも、散々狙われてきた私が言えたことではないのだが。
「抹殺……!ということはやっぱり、ボスの手下!?」
「最終的にはそういうことでごわすな」
シロは肩回しを豪快に行い、その後、指をバキバキと鳴らす。威圧的な音だった。
そして彼は、再び、こちらへ指を差す。
「しかーし!おいらが働くのは、正確には、ボスのためではなーい!」
「だったら何のためにこんなことをしに来たの……?」
「教えて差し上げよう!すべては愛しのリュビリュビ様のためでごわす!」
言いきってから、一人満足そうに頷くシロ。
その表情は、すべてに満ち足りたようなもので、凄く幸せそうだった。
「……リュビエの手の者ということですか」
ゼーレは、はぁ、と溜め息を漏らしつつ述べた。今の彼には呆れしかなさそうだ。
「その通りでごわす。しかーし!リュビリュビ様のことを呼び捨てにするとは、許せないでごわす!」
シロは鼻息を荒くして憤慨する。敬愛するリュビエを呼び捨てにされたのが不愉快だったのだろう。しかし、私からしてみれば、『リュビリュビ様』などという愛称のようなもので呼ぶというのも失礼だと思うのだが。
そんなことを考えていると、シロは急に、はっきりと宣言する。
「というわけで、ゼーレ殿。お命、頂戴致す!」
いきなり戦闘体勢をとるシロ。
彼は本気でゼーレを倒すつもりのようだ。
「カトレア……貴女は外へ出て下さい」
「駄目よ!ゼーレも逃げた方がいいわ!」
「もう貴女に……これ以上迷惑はかけられません」
ゼーレは深刻な顔をしていた。
「早く行って下さい」
「嫌よ!」
「意地を張らないでいただけますかねぇ……」
「逃げるなら一緒に!」
彼一人をここへ残して、私だけ逃げるなんて、そんなことはできない。
なんせゼーレは負傷者である。蜘蛛型化け物がいるとはいえ、命を狙っているような者と一対一で戦わせるなど、絶対に嫌だ。
- Re: 暁のカトレア ( No.97 )
- 日時: 2018/08/23 17:50
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 59tDAuIV)
episode.90 妄想風船
「おっと。そう簡単に、逃がしやしないでごわすよ?」
私とゼーレのやり取りを聞いていたシロは、不愉快そうに顔を歪めながらぼやく。
そして、続けて叫ぶ。
「行かせてもらうでごわす!」
床を揺らすほどの叫び。
そして彼は、私たち目がけて走ってくる。
「来たわ!ゼーレ!」
「……カトレアは下がっていて下さい」
ゼーレは小さく返すと、その金属製の両腕を伸ばす。すると、床から、かなりたくさんの蜘蛛型化け物が現れた。詳しい仕組みは分からないが、かなり迫力のある光景だ。
「時間を稼ぎなさい」
淡々とした調子で命ずるゼーレ。
蜘蛛型化け物たちは、命に従い動き出す。半分は壁を作り出し、もう半分は近づいてくるシロを待ち受ける。
だがシロはそんなことは気にしていないようだ。やや猫背気味の格好はそのままに、両腕をブンブン振り回しながら迫ってくる。
勢い任せのシロ、配置を意識する蜘蛛型化け物。正反対ではあるが、どちらも凄まじい迫力だ。
その光景を少し感心しながら見ていると、ゼーレが声をかけてくる。
「ここは一旦退きましょう、カトレア」
割れている仮面の隙間から覗く翡翠のような瞳は、私をじっと見つめていた。その色は、真剣そのものである。
「え、退くの?」
「このスペースでは……さすがに不利ですからねぇ」
目を細めながらゼーレは答えた。
「そういうこと。分かったわ。じゃあゼーレが先に……」
言い終わるより早く、私はゼーレに抱き上げられた。
この体勢は俗に言う『お姫様だっこ』というものだろう。しかし、実際にされてみた気分は、お姫様というより子どもだ。
何とも言えぬ、複雑な心境である。
「揺れますから、そのつもりでいて下さい。くれぐれも……情けない声など出さぬように」
背にひんやりとした感触。
その原因は、ゼーレの金属製の腕が触れていることだと思われる。
「ちょっと、何をする気?」
「突破します」
「と、突破って?」
私はゼーレの腕から降りると、蜘蛛型化け物の上に座った。
「一旦この部屋から出ます。ここは基地内ですからねぇ……敢えてリスクを負う必要もないでしょう」
なるほど、それもそうだな。そんな風に思った。
重さに差はあれど私もゼーレも負傷している。敵地でもないのに無理して戦うというのは、賢明な選択とは言えない。
今は、ゼーレが言うように、一旦逃げるのが得策だろう。
「そうね。じゃあ任せるわ」
私はゼーレと目を合わせる。そして、お互いに見つめあったまま、頷く。それとほぼ同時に、私たち二人を乗せた蜘蛛型化け物は動き出した。
——だが、シロとてそう易々と見逃しはしない。
「逃がさないでごわすよ!」
私とゼーレが部屋の出口に向かっていっていることに気づいたシロは、蜘蛛型化け物の群れから目を逸らし、体をこちらへと向ける。
そして、私たちの方へ突進してきた。凄まじい勢いだ。
「ゼーレ!来てるわ!」
そう叫んだ——直後。
突進してきていたシロの体が、宙に浮いた。筋肉隆々の太い腕を振り被っている。
私は反射的に身を縮めた。
「おるゅああぁぁぁぁ!!」
鼓膜を貫くは、凄まじい雄叫び。
私は迫力に圧倒されて、その場で身を伏せる。それにより、シロの拳を浴びることは辛うじて免れることができた。
しかし。
シロの拳は、ゼーレへと突き刺さる。
「……っ!」
ゼーレは詰まるような息を漏らす。
彼は胸の前で両腕を交差させ、ぎりぎりのところでシロの拳を防いでいた。常人を遥かに超越した反応速度は、さすがとしか言い様がない。
ただ、防ぎはしたものの、拳の勢いを殺しきれてはいなかったようだ。
ゼーレの体は吹き飛ばされた。そして、信じられないほどの速度で壁に激突。ほんの数秒のことだった。
「……くっ」
何とか立ち上がるも、よろけてまともに動けないゼーレ。そんな彼の腹部に、シロの拳が突き刺さった。
今度こそは直撃。
これにはさすがのゼーレも顔をしかめる。
「ゼーレ!」
慌てて蜘蛛型化け物から降りようとした私に向け、ゼーレは鋭く叫ぶ。
「来る必要はありません!!」
予想外にきつい言い方だったため、私は、その場から動けなくなる。
そんな中、体をくの字に折り曲げたまま叫ぶゼーレの片方の腕を、シロが掴むのが見えた。
「ゼーレ殿も不幸でごわすなぁ」
嫌らしく、にやにや笑うシロ。
「このような腕では、想い人を抱き締めることさえままならない」
シロの心ない言葉に、ゼーレの瞳が揺れた。
なぜそんなことを平気で言えるのだろう。そんな思いが、私の胸中を満たしていく。
ゼーレは望んで腕を捨てたわけではない。それはシロだって分かっているはずだ。にもかかわらず、敢えて傷を抉るような真似をする理由は、私には分からなかった。
「喧嘩だけは、一人前に売りますねぇ……」
ゼーレは、一時こそ動揺したような顔をしていたものの、既に落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
切り替えの早さは、見事である。
「死ぬ前に教えて差し上げるでごわすよ」
「…………」
「人の腕もない、愛されたこともない。そんなゼーレ殿には、恋なんて無理でごわす」
言いきった後、シロは、ゼーレの腕をねじ曲げる。
そもそも負傷していたゼーレが、筋肉隆々なシロから逃れられるわけもない。ゼーレはただ、苦痛に耐えるしかなかったことだろう。
そんなゼーレを見て、シロは既に勝った気でいる様子だ。
「最期に何か、言い残すことはあるでごわすか?」
「……そうですねぇ」
「遺言は、おいらがちゃーんと、聞いて差し上げるでごわすよ」
既に勝った気になられ、不快そうに顔をしかめるゼーレ。
「そしーて!ゼーレ殿抹殺に成功したおいらは、むふふ、リュビリュビ様に気に入られ、ぐふっ、リュビリュビ様と晴れて結ばれるのでごわす!むふふふふ」
シロはゼーレ抹殺後に思いを馳せ、鼻の下を長くしていた。黒い顎ひげが目立つ顔面は赤らみ、鼻息は荒くなっている。
「むふふむふふむふむふむふふふふふ!ぐふふっ!ぐふふふふ!」
彼はよほどリュビエを愛しているのだろう。リュビエのことが好きで好きで堪らない、ということだけは、ひしひしと伝わってくる。
……ただ、この光景をリュビエが見たら、シロに対して少なからず嫌悪感を抱くことだろう。
「早くリュビリュビ様に褒められたいでごわーす」
妄想にふけるあまり、ほんの一瞬、ゼーレの腕を掴むシロの手が緩んだ。
その隙を、ゼーレは見逃さない。
「……妄想が好きですねぇ」
汚いものを見るような視線をシロに向けつつ、ゼーレはぽそりと吐き捨てる。
——次の瞬間。
閃光の如く放たれたゼーレの蹴りが、シロの胸部へ命中した。
- Re: 暁のカトレア ( No.98 )
- 日時: 2018/08/23 20:44
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: aOQVtgWR)
episode.91 私が叩き潰すとしよう
「ぐぎゃっ!」
妄想にふけっていたシロは、突如叩き込まれた蹴りに、情けない悲鳴をあげた。
無防備になっていたところに攻撃を受けたのだ、悲鳴をあげてしまうのも無理はない。しかし、それにしても、何とも言えないかっこ悪さである。
シロの手が離れた隙に、ゼーレはその場から離れた。
「ががーん!やってしまったでごわす!」
惜しいところで獲物を取り逃がし、顔面蒼白になるシロ。
「ゼーレ!こっちへ来て!」
私は、蜘蛛型化け物の上に乗ったまま、ゼーレに対して言い放つ。
この大きなチャンスを、逃すわけにはいかない。
「……そうします」
ゼーレは時折よろけながらも、自力でこちらへ歩いてくる。その間、先ほどゼーレが生み出した蜘蛛型化け物たちは、シロに襲いかかっていっていた。
シロが蜘蛛型化け物たちに翻弄されているうちに、ゼーレは私のいるところへたどり着く。
「ゼーレ、平気?」
手を差し出すと、彼はこくりと頷く。
「この程度なら……どうということはありません」
「本当に?」
「もちろんです」
ゼーレは私の手を取ると、蜘蛛型化け物の上へ上がってきた。慣れが伝わってくる動きだ。
蜘蛛型化け物の上に二人が揃うと、私たちは顔を見合わせる。
「このまま逃げるの?」
「そうです。どのみち追ってくるでしょうが……ひとまず退きましょう」
「分かったわ」
私たちは、最低限の言葉だけを交わす。
そして、今度こそ部屋を脱出した。
外へ出れば何とかなる。いくらでもいる隊員に助けてもらえる。
そんな風に思っていた頃もあった。
しかし、シロの前から脱走した私たちに突きつけられたのは、厳しい現実。
「そんな……!」
襲撃を受けているのは、私たちだけではなかったのだ。
耳をつんざくような警報音がけたたましく鳴り響き、廊下を隊員らが駆けていく。帝都ではなく、基地自体が襲撃を受けているようである。
私はすぐに、ゼーレの方へと視線を向けた。
「これは……襲撃よね」
「どうやら、あの男一人ではなかったようですねぇ」
仮面の隙間から覗くゼーレの顔は、いつもより強張っていた。いくら心の強い彼でも、この状況にはさすがに動揺しているのかもしれない。
「さて、どうしたものですかねぇ……」
ゼーレは溜め息を漏らす。
私は、場のただならぬ緊迫感に、まともに呼吸ができない。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、何か考えなくてはならないはずなのに、何も考えられない。
「……カトレア?」
負傷者を連れているのだ、私がしっかりしなくては。そう思うのに、思いとは逆に、心はどんどん縮んでいってしまう。
この期に及んで、この様だ。
もはや、情けないとしか言い様がない。
「どうしたのです?……本物の馬鹿にでもなりましたか」
ちょっぴり棘のある言葉を吐いてくるゼーレ。
だが、今の私には、言い返す余裕などない。
「ごめんなさい、ゼーレ。私、段々よく分からなくなってきたの」
「どういう意味です?」
「考えようとすればするほど、頭がこんがらがって、何から考えればいいか分からなくなるの」
取り敢えず、今の状態を素直に話してみた。気の利いたことなんて言えないから。
するとゼーレは、そっけなく、「一度落ち着けるところへ行きましょうか」と言う。
決して温かな声色ではなかったけれど、それでも、彼の存在は私の支えになってくれた。一人でいるより二人でいる方が、ずっと気が楽である。
行く先をゼーレに委ね、暫し時が流れた。
私たちは偶然、長槍を持ったグレイブに遭遇する。
「グレイブさん!」
彼女の姿を見るや否や、私は、半ば無意識に呼んでいた。
しっとりとした長い黒髪。凛々しい顔立ち。血のような紅の塗られた唇。今はただ、そのすべてが頼もしく感じられた。
「おぉ。マレイか」
長槍を握ったグレイブは、私の呼びかけに反応して振り返る。黒髪が、華麗にひらりと揺れていた。
「ゼーレも一緒か。二人とも、そんなところで何をしている」
グレイブの問いに答えるのはゼーレ。
「指定された部屋で待っていたところ……曲者に襲われましてねぇ」
「指定された部屋?報告会を予定していた部屋のことか」
眉をひそめるグレイブ。眉間にしわがよってもなお、その容貌は美しい。
「そうです」
「まだそこにいたのか?」
「皆さんが遅いので、仕方なく待っていたのですがねぇ……」
ゼーレはグレイブをじっとりと睨んでいる。
ちなみに、睨んでいると言ってもそんなに鋭い睨み方ではない。鋭利というよりは、重苦しいような睨み方だ。
「おかしいな。襲撃のため中止だと、放送を流したはずなのだが」
「聞いていませんねぇ……」
確かに、中止の知らせなど聞いた覚えはない。
「そうか、ミスかもしれないな。すまなかった。それでその——」
グレイブはひと呼吸空けて続ける。
「曲者とは、どんなやつだったんだ?」
彼女の漆黒の瞳はゼーレを捉えていた。彼女の勇猛さが肌で感じられるような目つきである。
なんというか、凄くかっこいい。
「詳しくは知りませんが……いかにも野蛮の極みといった感じの人間でしたねぇ。あまり関わりたくない感じの輩でした」
物凄く同感だ。
あんな凶暴な男とは、もう関わりたくない。
だが、運命は残酷だった。
苦難からそう易々と逃れさせてはくれない。
「逃がさんでごわーっすっ!!」
ドスドスと激しい足音を立てながら、凄まじい勢いで走ってくるシロが見えた。やはり諦めてくれはしなかったようだ。
「来たわ!ゼーレ!」
「はぁ……鬱陶しいですねぇ……」
ゼーレは漏らす。その顔には、疲労の色が濃く浮かんでいる。
「ほう。あれが例の曲者なのだな」
駆けてくるシロを見て、口を開いたのはグレイブ。
「では私が叩き潰すとしよう」
彼女は長槍を構えた。
黒い髪がしゃらんと揺れる。まるで、夜の始まりを告げるかのように。
- Re: 暁のカトレア ( No.99 )
- 日時: 2018/08/25 00:23
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: noCtoyMf)
episode.92 戦闘の行方
凄まじい勢いで駆けてくるシロ。グレイブはそれを、長槍を構えて待ち受ける。
そんな彼女の存在に気がついたシロは驚きの声をあげた。
「えぇっ!何で他のやつがいるのでごわすか!?」
ここは基地なのだから、他の者がいるのは当然だろう。そう突っ込みたくなるのをこらえつつ、私は様子を見守る。
「貴様がマレイたちを狙う曲者だな」
「曲者とは失礼でごわすな。おいらはただ、リュビリュビ様の命により、ゼーレ殿の命を頂戴しに参っただけでごわす」
シロとグレイブは言葉を交わす。
対峙する二人の間には、緊迫感のある空気が流れていた。そこにいるだけで肌がぴりぴりするような空気である。
「貴女は関係ない者ゆえ、本来なら戦わなくていいでごわす。しかーし!任務の邪魔をするというのなら、遠慮なく倒させてもらうでごわす!」
「そうか。ならば倒してみるがいい」
グレイブの赤い口角が微かに持ち上がる。
「倒せるのなら、な」
そう言って挑発的な笑みを浮かべるグレイブを目にし、シロは体勢を戦闘モードへと切り替えた。
すぐにでも走り出せそうな体勢だ。
「おいらを馬鹿にしていると、痛い目に遭うでごわすよ!」
「できるのなら、やってみるがいい」
「うぐぐ……。か、覚悟しろでごわす!おおおっ!!」
シロは地響きがするような雄叫びをあげ、隆起した筋肉の目立つ上半身を大きく仰け反らせる。そして、分厚い胸板を、両拳で交互に叩く。
「本気でいかせていただくでごわす!」
宣言とほぼ同時に、グレイブに向かって駆け出すシロ。
「おおおぉぉぉっ!」
シロはパンチを繰り出す。
しかしグレイブは、ひらりと一歩下がり、気迫の乗った拳を軽々と避けた。
そして素早い切り返し。
グレイブは長槍をひと振りし、シロの片腕を叩き斬った。
「うぐぅぎゃっ!」
彼の腕は太いため、さすがに切断とまではいかない。けれども、彼の腕が赤いものでびっしょりと濡れる程度には、傷つけることができていた。
私はグレイブの強さを再確認し、密かに安堵の溜め息を漏らす。
「あの女……さすがにやりますねぇ」
一緒に蜘蛛型化け物に乗っているゼーレが、珍しく、素直に感心していた。彼を認めさせるとは、グレイブはやはり凄い。
「えぇ。尊敬だわ」
「敵だと厄介ですが……味方であれば便利です」
「もう!便利とか言わないの!」
私とゼーレが話している間にも、グレイブとシロの戦いは続いていた。
激しい攻防が繰り広げられている。だが、どちらかといえばグレイブの方が優勢だ。
「ぐぬぬ……!捉えられんでごわす……!」
「力しかないような男には負けん」
「うっ!お、おのれ……」
グレイブの槍は、シロの身を貫き、急所を抉る。
そこに容赦なんてものは存在しない。
「はぎゅあぁっ!」
長槍を叩きつけられたシロは、小動物のような悲鳴を吐く。理解できないほどの、かっこ悪さである。
ここまでダメージを与えれば、グレイブの勝利はほぼ確定——とはならなかった。
「やーっと隙を見せたでごわすな」
ほんの一瞬。
グレイブの攻めの手が緩んだのを、シロは見逃さなかったのである。
「どりゃす!」
シロはグレイブの腹部に向けて、拳を突き出す。グレイブは長槍の柄で防ぐが、そこへさらなる攻撃が降り注ぐ。
「くっ」
グレイブは咄嗟に長槍を消す。
一発目、低めの拳は片膝で防御。続く二発目、顔面狙いの拳は、上半身をひねって回避。そして三発目、肩付近への拳は、片腕を上手く使って受け流す。
グレイブは肉弾戦もそれなりに強く、シロに負けてはいない。
ただ、先ほどまでと形勢が変わったということは、誰の目にも明らかであった。
「どりゃす!どりゃす!どりゃーっす!」
仕返し、とばかりにグレイブへ猛攻を加えるシロ。その筋肉まみれの太い腕から繰り出されるパンチは、一撃一撃がかなり重そうだ。グレイブも反応速度自体は劣っていないが、パンチの凄まじい威力ゆえか、何度か、防ぐ瞬間に顔を強張らせていた。
接近戦になれば、グレイブの長槍は役に立たない。
いや、もちろん、まったくの役立たずになってしまうわけではないが。しかし、彼女の長槍が本領を発揮するのは、中長距離戦においてである。
怪しい雲行きになってきた。
そんな戦いの行方を見守るゼーレの表情にも、心なしか陰りが見える。形勢の変化を、彼も察しているのだろう。
「これで終わりでごわす!」
シロは飛びかかるような動作でグレイブの背後へ回る。そして、彼女を羽交い締めにした。
「くっ……!」
グレイブの視線の鋭さが増す。
彼女はシロから逃れるべく、身を振り、激しく抵抗した。だが、笑えるほど筋肉がついているシロの腕からは、そう簡単には逃れられない。
「邪魔をした仕返しでごわす!」
シロは、羽交い締めにしているグレイブの片腕を乱暴に掴み、握力を徐々に強めていく。グレイブの肘は、ミシミシと、痛そうな音を立てている。
「グレイブさん!」
助けないと。
そう思った私は、腕時計へ指を当て、シロの背に向かって赤い光線を放つ。
「ぴぎゃあっ!」
まさかの、だが、命中した。
背に光線を浴びたシロは、甲高い悲鳴をあげる。グレイブを羽交い締めにしていた体勢も崩れた。
自由を手に入れたグレイブは、視線をこちらへ向ける。
「感謝する」
紅に彩られた口元が、微かに緩む。
彼女の瞳に見つめられると、なぜか、胸がバクンと鳴った。
「い、いえ……」
私は小さな声で、さりげなく答える。妙に緊張して、それしか言えなかった。
「よくもやってくれたな……」
グレイブは前に垂れていた長い黒髪を、手で、さらりと背中側へ流す。そして、再び長槍を取り出した。
「覚悟しろ。野蛮人め」
漆黒の瞳から放たれる視線は、胸の奥まで突き刺さる刃のよう。
どうやらシロは、グレイブの本気スイッチを入れてしまったみたいだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.100 )
- 日時: 2018/08/25 17:19
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: CwTdFiZy)
episode.93 宣戦布告
それからのグレイブは凄まじかった。
目から放たれる本気の視線。しなやかさと豪快さのある槍術。そして、敵に反撃の隙を与えない位置取り。それらすべてが合わさり、今のグレイブは、シロを圧倒するほどの強さとなっている。
もはや私が援護する必要もない——戦闘の光景を遠巻きに見ていた私が、迷いなくそう思ったほどだ。
一度不利な状況に陥ったことが、彼女を本気にした。
そういう意味では、この流れは良かったのかもしれない。
「終わりだ」
紅の唇から言葉がこぼれる。
そして、グレイブの長槍が、シロへと振り下ろされた。
「……やられ……ごわ……す……」
シロからあふれ、飛び散る、赤い液体。
それは、槍の先やグレイブの純白の制服すらも、真っ赤に染めた。
「リュビリュ……ビ……さ……」
場が赤黒く染まる様は、見ているだけで恐ろしい。
しかし、その中に落ち着き払って立っているグレイブも、常人ではない雰囲気を漂わせている。返り血に濡れた彼女は、まるで、一輪の赤薔薇のようだった。
少しして、シロの生命活動が完全に停止したことを確認すると、グレイブは、私とゼーレがいる方へと歩いてくる。「もう白には戻らないのでは」と思うほど赤く染まった制服と、不気味なくらい艶のある黒髪がさらりと揺れるところが、非常に印象的だ。
「マレイ。良い援護、感謝する」
グレイブの第一声はそれだった。
それまで無表情だった彼女の顔に、今は、軽い笑みが浮かんでいる。
世間一般の人々と比べれば、あまりにさりげない、控えめな笑みだ。けれども、彼女の凛々しい顔立ちには、このくらいの笑みがちょうどいい。ほんの少し、口角を上げて、頬を緩めるだけ——その程度の笑顔が、彼女を一番魅力的にするのだから。
「襲撃してきたのがゴリラ型であったことを考えると、今回はこれで終結することだろう。マレイ、もう心配は要らない」
「本当ですか!……良かったです。ありがとうございます」
「例の報告会は後ほど改めて開くこととする。予定が決まり次第、また伝えるからな」
「はい!分かりました!」
蜘蛛型化け物の上に乗ったまま、頭を下げる。シロに襲われるのを助けてもらった感謝を込めて、しっかりとお辞儀をした。それから私は、すぐ隣にいるゼーレへと視線を向ける。
「助かって良かったわね」
さりげなく声をかけると、彼は微かに頷いて、「そうですねぇ……」と返してきた。素直に「良かった!」と言わないところがゼーレらしい。
「素直に良かったねって言えばいいのに」
「……そうですかねぇ」
「せっかく助けてもらったのだから、ありがとうくらい言ったら?」
私は冗談めかして言ってみた。
だが、彼の顔は笑わない。まだ真剣な顔をしている。妙だ。
「ゼーレ?どうしたの?」
シロはグレイブが倒した。この目で見たのだから、それは間違いない。
ゼーレだって、グレイブがシロを倒すところは、その目で見届けたはずだ。なのに、なぜ少しもリラックスした表情にならないのか。実に謎である。
「ねぇ、ゼーレ。本当に、どうしちゃったの。何だか様子がおかしいけど」
不思議に思いながら彼を見つめた。
すると彼は、静かな淡々とした声で、そっと述べる。
「まだ……何やら気配がします」
「えっ」
「終わってはいないのやも……しれませんねぇ」
——彼が言い終わり、数秒。
蜘蛛型化け物に乗っている私たちやグレイブから、数メートルほど離れた場所の空間が、突如ぐにゃりと曲がった。
見覚えのある光景だ。
そう、あれは、トリスタンを助けに行く時にゼーレが使った空間を移動できる技と同じ。
詳しいことは分からないが、それと同じ類のものであることは確かだ。
「どうも」
しっとりした女性の声が耳に入ってくる。
そして現れたのは——リュビエだった。
全身を包む黒いボディスーツはすっかり綺麗になっていて、穴どころか傷一つ見当たらない。はっきりと体の凹凸が視認できる。また、灯りを照り返して、艶めかしく輝いている。
「リュビエさん!?」
私は思わず声を出してしまった。
本当なら、言葉を交わすことも視線を交えることもなく、気づかなかったふりをして逃げ出すべきだったのだろう。一刻もこの場から離れるのが、私にとって望ましい選択肢であったことは間違いない。
けれども、名を呼んでしまった。
だからもう、気づかなかったふりはできない。
「あら。また会うなんて、偶然ね。マレイ・チャーム・カトレア……この前やってくれたことは忘れていないわよ」
ゼーレは警戒した顔をし、グレイブは長槍を構えて戦闘態勢に入る。空気が再び固くなった。
「貴様、何者だ」
槍の先端をリュビエへ向け、睨みを利かせながら問うグレイブ。
「あたしはボスの優秀な部下であるリュビエ」
優秀な、を強調しているところが、珍妙だ。自らそこを強調する必要性がいまいち分からない。
「一つ、お知らせにやって来たの。ボスからのお言葉よ、しかとお聞きなさい」
相変わらずの上から目線である。
なぜこうも偉そうな話し方ができるのだろう。そういう質なのか。
「聞く気などない」
「あらあら。そんな態度でいいのかしら。聞く気がないのならこのまま帰ってあげても構わないけれど……重要な予定を聞かなくて、本当にいいのかしら?」
「どういう意味だ」
グレイブはリュビエへ槍の先を向けたまま、怪訝な顔をしている。リュビエの意味ありげな発言に、その真意を知りたくなっているのだろう。
「聞いてくれるのかしら」
「重要な予定、とは何だ。くだらぬことであれば許しはしない」
なかなか厳しいグレイブである。
「偉そうな口の利き方ね」
他人のことは言えないと思うが……。
「ま、いいわ。ボスからの命令だもの、今ここで伝えるわ」
リュビエは、うねりのある緑の髪を、一度わざとらしく掻き上げる。それから右足をほんの少しだけ前へ出し、腕組みをして、ふふっと怪しげな笑みをこぼす。
そして、口を開いた。
「本日より一週間以内に、マレイ・チャーム・カトレア及びゼーレの捕獲作戦を決行する」
色気のあるリュビエの声が告げた瞬間、空気が凍りつく。
やはりまだ狙って——私はショックを受けた。
本当ならショックを受ける理由なんてなかったはずだ。ボスが私を狙っていることは、ずっと前から知っていたのだから。なのに、そのはずなのに、なぜか非常にショックだ。
「これは、ちょっぴり早めの宣戦布告よ」
リュビエは動揺する私たちを楽しんでいるようだ。愉快そうに笑みを浮かべている。
「弱い弱いお前たちに、ボスは、準備時間を与えることになさったのよ。感謝なさい」
「準備時間?私たちも舐められたものだな」
「あら。舐めるも何も、お前たちが弱いのは事実じゃない」
見下した表情で口を動かすリュビエ。それに対しグレイブは、その美しい顔面に不快の色を浮かべる。
「貴様…!」
「図星だからって怒らないでちょうだい」
「いい加減にしろ!」
「ふふっ。あたしはお前と言い争う気はないわ」
怒りを露わにするグレイブの発言を軽く長し、リュビエは手を伸ばす。すると空間が歪んだ。
「それじゃ、今日はこれで失礼するわね」
数秒後、リュビエは跡形もなく消え去る。
残されたのは、私たち三人と、殺伐とした空気だけだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.101 )
- 日時: 2018/08/26 01:05
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: jhXfiZTU)
episode.94 よく分からなくなってくる
「一週間以内、か」
誰もいない夜の食堂。私は一人、呟いた。
私がわざわざ食堂まで来た理由は一つ。
寝つけなかったから、だけである。それ以外に理由はない。
化け物狩り部隊の人間の半数は、この時間だと、帝都の警備や化け物の殲滅を行っていることだろう。そして、非番の者は自室にいる。
つまり、この時間帯に食堂にいる者はいない、と言っても過言ではないのだ。
「これからどうなってしまうのかなっ?……なんて」
思ったことをすべて口から出している私は、端から見れば、結構な変わり者だろう。だが、今は、こうでもしていないと落ち着きを保っていられないのだ。変わり者だと思われてもいい。本当に気が変になるくらいなら、他者から変わっていると認識される方がましだ。
「そもそも、どうして私を狙うのよ……」
食堂の営業時間内ではないため、料理やスイーツは頼めない。しかし、セルフサービスのコーナーにある紅茶やコーヒーだけは、夜中でも淹れられる。なので私は、そこに置いてある紅茶を飲むことにした。
白いカップを一個手に取る。ティーバッグは、種類を選ばず適当に一つ。そして、それらを使い、適当に紅茶を入れた。湯は近くに備え付けられているポットのものだ。
席に戻ると、カップから立ちのぼる湯気をぼんやりと眺める。
「あぁもう!分からない!」
衝動的に、カップの中の紅茶を飲み干す。
「って、熱っ!!」
舌に走るのは、焼けるような感覚。
そうだ。淹れたばかりの紅茶だった。と、後悔しても、時既に遅し。舌の先から喉の奥まで、ひりひりする。
「……うぅ」
冷水を飲みたくなるが、取りに行くのも面倒臭い。だから私は、そのひりひりする痛みを我慢することに決めた。
舌を歯に当ててみると、感覚がだいぶなくなっていることに気がつく。
ただ、こんなのはよくあることだ。神経質になって気にすることではない。
せっかく紅茶を淹れたカップは、空になってしまった。
露わになったカップの底を、私は、意味もなく見つめ続ける。ほんの少し紅茶の色が残る底は、私の浮かない顔を映していた。
そんな風にして時間を潰していると、突然、視界の端に人の姿が入る。こんな時間に珍しいな、と思い、私は視線をそちらへ向けた。
「トリスタン?」
目を向けた先にいたのは、彼だった。
帝国軍の制服でもある白い衣装を身にまとい、一つにまとめた金の髪をなびかせて歩く様は、ダリアで初めて会った日の彼を彷彿とさせる。
何だか懐かしい光景だ。
「……マレイちゃん?」
少し遅れて私に気づいたトリスタンは、その足を止めた。
深海のような青の瞳は、今日も変わらず綺麗だ。大自然を思い起こさせるような色をしている。
「こんな時間に、どうして?」
彼は少々気まずそうな表情で、そう尋ねてきた。
「ちょっと眠れなくて」
私は正直に真実を答える。
飾る必要はない、無理に理由を作る必要もない、と判断したから。
「不眠症?」
「違う!」
「そ、そっか。ごめん」
「いいえ。こちらこそ、ごめんなさい。気にしないで」
何だかぎこちない会話になってしまっている。どうにか普段通りの楽しい会話へもっていきたいのだが、なかなか上手くいかない。
「……眠れないのも仕方がないよね。これだけ色々あったら」
十秒ほどの沈黙の後、控えめな声でトリスタンが言った。
「宣戦布告の話は、グレイブさんから聞いたよ。マレイちゃんとゼーレを狙っているらしいね」
「えぇ、そうなの」
「マレイちゃんが狙われていることは前から分かっていたけど、ゼーレもなんだ」
「そうよ。ボスからすれば、彼は、反逆者で裏切り者だもの」
この短期間で、ゼーレを消すための刺客を、二人も送り込んできたのだ。ボスの手の者は、また襲ってくるに違いない。
これまでのところは、何とか切り抜けられてきた。が、今後現れる刺客から確実に逃れられるという保証はどこにもないのである。いつ誰に襲われ、どんな目に遭うか、分かったものでない。
「ボスはゼーレを殺すつもりだわ。私は彼に、そんな険しい道を歩ませてしまった……」
するとトリスタンは問う。
「後悔してるの?」
淡々とした調子で問うトリスタンには、妙だと感じるほどの落ち着きがあった。この前ダリアで迫ってきた彼とは、別人のようである。……もっとも、あの時の彼がおかしかっただけかもしれないが。
「マレイちゃんは、ゼーレをこちら側へ引き込んだことを後悔してるの?」
「……今は、少しだけ」
正しいことだと思っていたのだ、あの頃は。
悪人として一生を終えるより、今からでも善き人となって生き直すべきだと、そう信じて疑わなかったのだ。
でも、今はよく分からなくなった。
これが本当にゼーレにとって、最善の幸せな道なのか、もはや私には分からない。
「変よね。今になって、過去の行いの善し悪しについて悩むなんて」
そう呟くと、トリスタンは首を左右に動かす。
「マレイちゃんは変なんかじゃないよ。ただ、理想を追いすぎているようには思うけどね」
「理想を追いすぎている、って?」
「何もかもが最善になる選択肢を、君は探している。でも、そんなものは、この世界にはほとんどない。君の中の理想と、この世界の現実には、大きな差があるんだよ」
トリスタンの言葉は、私の胸に突き刺さる。
しかし、その理由を私は知っている。
浴びせられた言葉に、胸がこんなにも痛むのは、その言葉が正しいからだ。真実だからこそ、的を得ているからこそ、言われるのが辛いのだろう。
「確かに、ゼーレはこちら側についたことで、ボスから命を狙われる立場になってしまった。でも彼は、それ以上のものを手に入れたんじゃないのかな」
それはそうなのかもしれない。
けれど、私がしたことによってゼーレが狙われているという事実に、耐えられないのだ。
「それでも嫌!」
私は思わず声を強めてしまった。
「確かに、ゼーレは色々なものを手に入れたかもしれない。でも、だから狙われても仕方ないなんて、言いたくない!」
トリスタン以外に誰もいないというのも手伝って、私は、いつもより、きついことを言ってしまっているかもしれない。
「理想と現実の差なんて関係ないわ!たとえ理想には届かないとしても、そこへ少しでも近づけるように努力するべきじゃない!」
「努力ではどうしようもないことだってあるんだよ。マレイちゃんには分からないかもしれないけど……」
「えぇ!ちっとも分からないわ!」
——まただ。またしても、当たり散らすようなことを言ってしまった。
こんなことをトリスタンに言ったって、何も変わりはしない。それを分かっていながら、彼に酷い言葉を吐いている。
なぜ、こんな風にしか言えないのだろう。こんなはずではなかったのに。
「そもそも、化け物がこんなに蔓延り続けているのだって、誰も世界を変えようとしないからでしょ!?」
「マレイちゃん……」
「化け物を倒す術を持っていながら、いつまでも、毎晩ぷちぷち倒すだけで!状況を改善しようともしないで!」
「違うよ、それは……」
私を見つめるトリスタンの瞳は揺れている。
しかしそれでも、この胸に込み上げるものを、抑えられはしなかった。
「何が『違う』よ!ふざけないで!」
必死に止めようとした。
だがもはや、自力で止められる範囲ではない。
「口では綺麗なことを言っても、本当は、民間人が何人かやられるくらいならいいって思っているのでしょう?大勢の死者が出さえしなければいい、帝都に甚大な被害がでなければまぁいいやって、そう思っているのでしょう?」
だから——と言いかけた瞬間。
突如、トリスタンが抱き締めてきた。
「ごめん」
耳元で囁かれるのは、息の混じった声。弱弱しく、震えていた。
「あの夜、僕が間に合わなかったから……君にそんな思いを背負わせてしまったんだよね。本当に、ごめん」
- Re: 暁のカトレア ( No.102 )
- 日時: 2018/08/27 00:43
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: s/G6V5Ad)
episode.95 君だけじゃなくて
トリスタンは私の背に回した腕を離さない。
これまでにも抱き締められることはあった。だから、彼に抱き締められること自体は、さほど驚くことではない。
しかし、彼の様子は、これまで抱き締められた時とは違っていた。
「許してくれとは言わない。でも、本当にごめん」
「ちょっと、トリスタン?」
「あの夜、僕がもう少し早く着いていたなら、マレイちゃんが一人になることはなかったんだよね。失うことも傷つくことも知らず、幸せに生きられたかもしれなかったのに……」
トリスタンは謝り続ける。
謝ることではないのに、と私は内心思った。
あの夜、彼が間に合わなかったのは、色々な事情が絡んでのことだろう。トリスタンのせいではない。
それに。そもそも、彼が私の村を絶対に護らねばならないといった契約は、交わされていなかったはずだ。
私が助けてもらえたこと——それだけでも、十分奇跡なのである。
「あ、あの、トリスタン……謝らなくちゃならないのは、私の方よ」
すべてが失われたあの夜、トリスタンが助けに来てくれたから、私はこうして生きられている。私が今、こうやって話したり動いたりできているのは、彼のおかげだ。
だから、先の無礼はちゃんと謝らなくては。
「さっきは酷いことを言ってしまって、ごめんなさい」
勇気を出して、謝罪の言葉を述べた。
「トリスタンは何も悪くないのに、感情的になって当たり散らすなんて、最低よね」
するとトリスタンは、私を抱き締めた体勢のままで返してくれる。
「ううん。最低じゃないよ」
彼は迷いのない調子で言うと、数秒間を空けてから、腕の力を緩めた。密着していた体が、ようやく離れる。
それから、彼は二三歩下がった。
トリスタンの整った顔には、穏やかさの感じられる表情が浮かんでいる。
「最低なんかじゃない。マレイちゃんはいつだって最高だよ!」
……へ?
今の心境を素直に表現すると、「え、ちょ、何?」といった感じである。突如飛び出した予想外の発言に、脳がついていかない。
「可愛いし、謙虚だし、思いやりがあるし、可愛いし、非も認めるし、優しいし、温かいし、可愛い。だから、マレイちゃんは最低なんかじゃないよ」
トリスタンの海底のように青い双眸は、穢れのない輝きを放ちながら、こちらをじっと見つめていた。
それにしても、これほど褒め言葉をかけられ続けるというのは、どうも少し違和感がある。
胸の奥に湧きくのは、嬉しいような恥ずかしいような複雑な感情。だがそれだけでもない。というのも、どこか他人事のような感じがする、という部分が結構大きいのだ。
「トリスタン……ありがとう。でも、無理矢理褒めようとしてはくれなくて大丈夫よ。最低なんかじゃない、だけで十分嬉しいわ」
すると、トリスタンは眉をひそめる。
「え。無理矢理褒めようとなんて、していないよ。僕は本心を言っているだけなんだけど、ちょっと伝わりにくかったかな?」
珍妙な動物を発見した人のような顔だ。
私の発言は、そんなに謎に満ちたものだったのだろうか。私としては、いたって普通のことを言っただけのつもりなのだが。
「じゃあ改めて言うね。さっき言ったことは、全部僕の本心だよ」
「本当?それはちょっと、おかしいと思うわ」
私がそう言うと、トリスタンは困ったように苦笑する。リラックスしていることが伝わってくる笑い方だ。
「そういうもの?べつにおかしくはないと思うけど」
「変よ。だって私は、可愛くなんてないし、謙虚でもないわ。それに、思いやりだって、評価してもらえるほどないわよ」
トリスタンは少し黙った。
そして、十数秒ほど経過してから、口を開く。
「マレイちゃんは少し、自己評価が低すぎると思うな」
そうだろうか。
私はそうは思わない。
個人的には、私の自己評価が低すぎるのではなく、トリスタンが高く評価しすぎているだけなのでは、と思う。もちろん、低い評価をされるよりかはずっと良いのだが。
「もっと自信を持っていいと思うよ」
柔らかな顔つきのトリスタンから放たれる言葉。それは、春の木漏れ日のように優しい。木々の隙間から差し込む太陽光のように、しっとりと心へ沁み込んでくる。
「……ありがとう」
なんとなく気恥ずかしくて、彼の顔を真っ直ぐに見ることはできない。
ただ、感謝の気持ちを伝えたい、という思いは、この胸にしっかりと存在している。それだけは確かだ。風に煽られふっと消えるような、曖昧な存在の仕方ではない。
「私が貴方に返せるものはないけれど、その、心から感謝しているわ」
文章にして口から出してしまうと、薄っぺらいものになってしまわないか不安ではある。だが、胸の内にしまい込んでおくだけでは、相手には伝わらない。だから私は、こうして口から出してみたのである。
たとえ薄っぺらい言葉と認識されたとしても、黙っていて一切伝わらないままという状態に比べれば何十倍もましだと、私は思う。
「ありがとう、トリスタン」
勇気を出して、そう告げた。
すると彼は、ガシッと手を掴んでくる。
「こちらこそありがとう。これからも僕はずっと君の傍にいるから」
私の手より一回りほど大きなトリスタンの手。いかにも男、といったごつごつ感はないけれど、それでも頼もしさは感じられた。
すっと伸びる指と、女性に比べれば筋張ったラインのギャップが、握る者の心を惹きつける。トリスタンは、そんな、不思議な魅力のある手をしている。
「もしマレイちゃんが望むのなら、君だけじゃなくてゼーレも護るよ」
「えっ?」
「マレイちゃんがもう二度と何も失わずに済むように、僕も頑張る。君の心を護るためなら、化け物とだってボスとだって、いくらでも戦うから」
トリスタンがふっと笑みをこぼすと、彼の絹糸のような金の髪はさらりと揺れた。幻想的だ。
「でも、怪我は?足首とか痛めていたんじゃ……」
「そんなのは気にしない。完治してはいなくても、戦えないわけじゃないから。できる限り戦うよ」
なぜ彼はこうも親切なのだろう、と密かに思った。
「だから、安心してね」
そう言って、トリスタンは笑う。
彼の浮世離れしてしまうほどに美しい顔立ちを見るのは、何だか、久しぶりな気がした。
- Re: 暁のカトレア ( No.103 )
- 日時: 2018/08/27 00:44
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: s/G6V5Ad)
episode.96 甘い、想い
その頃、リュビエはボスの間へと向かっていた。現在の状況について、ボスに説明するためである。
「失礼致します、ボス。報告に伺いました」
ボスから入室許可を得ているリュビエは、彼の部屋——通称ボスの間へ入ると、丁寧に述べる。
すると、黒いベールのかかったベッドの奥から、ボスが姿を現した。
のっしのっしと現れたボスは、襟を立てた白いシャツと黒のズボンだけという薄着だ。しかも、白シャツは彼の体よりずっと小さなサイズで、前面のボタンを留めることはできていない。それゆえ、胸から腹にかけ、見事に肌が露出していた。
「リュビエか。話すがいい」
「ありがとうございます」
慣れた様子でボスの前にひざまずくと、リュビエは口を開く。
「一つ目。ゼーレを殺害すべく送り込んだクロとシロがやられました。二者とも、復帰は不可能と思われます」
淡々とした口調で告げるリュビエ。
クロとシロがやられたことなど、彼女にとってはどうでもいいことのようだ。二人の敗北を伝える彼女の顔に、特別な色は微塵も浮かんでいない。
「二つ目。マレイ・チャーム・カトレア及びゼーレの捕獲作戦について、伝えて参りました」
リュビエが二つの報告を終えた瞬間、それまで黙っていたボスが突然述べる。
「そうか。ご苦労だったな」
ねぎらいの言葉をかけてもらうことができたリュビエは、ほんの少し頬を赤らめ、言葉を詰まらせた。そんな彼女へ、ボスはさらに言葉をかける。
「リュビエ。お主はあの男などと違い、優秀だな」
「い、いえ……」
ひざまずいた体勢のまま、恥ずかしそうに身を縮めるリュビエ。
今の彼女は、どこにでもいるような、いたって普通の恋する乙女だった。マレイらと接する時の彼女とはまるで別人のような、初々しい雰囲気をまとっている。
「我の悲願を叶えるべく、今後も存分に働くが良い」
「もちろんです。あたしはただ、ボスのためだけに。貴方へ、この生涯を捧げます」
リュビエは迷いなく忠誠を誓った。
それによって機嫌が良くなったボスは、片膝を床につけてひざまずく彼女の喉元へ手を伸ばす。そして、彼女の頭部を、くいっと上げる。
これにはリュビエも戸惑った顔をした。
「な、何でしょうか」
「そう、それでいいのだ。物分かりのいい女で助かる」
「もったいないお言葉です……」
ボスに素手で直接触れられたリュビエの頬は、リンゴ飴のように赤く染まり、火照っている。ゴーグルのようなものを装着しているため目元は見えないが、多分、今の彼女は恋する乙女の瞳をしていることだろう。
「頼りにしているぞ」
「ありがたきお言葉。感謝致します」
リュビエは礼を述べてから、少し間を空けて続ける。
「それで、作戦の決行はいつになさるおつもりなのですか?」
「うむ……」
「一週間以内、とのことでしたが、正確には何日後辺りを予定なさっていますか?」
彼女が再び尋ねると、ボスはやっと重い口を開いた。
「実はな」
ボスはリュビエの前に仁王立ちをしたまま、男性らしい声を出す。地鳴りのような、低く太い声である。
「今回は我も参加するつもりでいるのだ」
「なっ……!」
問いの答えとは多少ずれているが、そんなことはどうでもよくなるほどに、リュビエは驚いていた。
だが、当然といえば当然だ。
ボスが自ら動くなど、極めて稀なことなのだから。
「なぜですか?もしや、あたしが頼りないから——」
まさか、と、焦りの色を浮かべるリュビエ。
しかしそれは違ったようで、ボスは首を左右に動かしている。
「すべてをお主一人に押し付けるわけにはいかんからな。それに、正直なところを言うなれば、我も久々に暴れたくなってきたのだ」
ボスは楽しげな声で言いつつ手と手を合わせ、ポキポキと、指から威圧的な音を鳴らす。
リュビエは慣れているから何も思わないようだ。しかし、もしこの場にボスとリュビエ以外の者がいたとしたら、きっと恐怖感を抱いていたことだろう。ボスは、それほどにパンチのある音を、一切躊躇いなく鳴らしていた。
「暴れたく?では、あたしがお付き合い致しましょうか?」
「いや、お主は休め。この前あの小娘にやられたダメージが、まだ残っているだろう」
「あんなくらい、たいしたことは……!」
「いいや。今は無理をすべき時ではない。お主は休め」
拒まれたリュビエは、不満げに頬を膨らます。
もしこの光景をマレイが見たとしたら、きっと口が塞がらなくなるだろう。一体どうしたのか、と、リュビエの頭を心配するかもしれない。
それほどに、普段とは違った様子のリュビエである。
「いいな、リュビエ。大事な時に力を発揮できるようにしておけ」
「……分かりました」
一応首を縦に動かしたリュビエだったが、明らかに納得していなさそうだ。表情はもちろん、声色にまで、それが滲み出ている。
だがそれでも、リュビエはボスに逆らったりはしない。
彼女のボスへの忠誠心は本物。たとえ少しくらい納得がいかずとも、それによって崩れるような柔なものではなかった。
「それではボス、そろそろ失礼致します。また何かありましたら、いつでもお気軽に」
リュビエは一度、その場でボスにひざまずく。そして、数秒経ってから立ち上がる。
立ち上がった彼女の姿勢は、まるで美しい彫刻のようだった。
女性特有の、凹凸のあるライン。猫背でもなければ反り返りすぎてもいない、真っ直ぐ伸びた背筋。そして、すっと伸びる長い脚。
スタイル抜群な彼女の立ち姿は見事としか言い様がない。どんな文句言いでも、この立ち姿には何も言えないはずだ。
「ゆっくりお寛ぎになって下さい」
「気遣い感謝する」
短い言葉だけを交わし、リュビエはボスの間から退室した。
結局はぐらかされてしまい、作戦決行の正確な日は知れずじまい。けれども、彼女には不満など欠片もなかった。それどころか、満足感がじんわりと広がっている。
「……触れていただけるなんて」
リュビエは一人になってから、胸の前で片手をきゅっと握る。
全身を満たす、ケーキのように甘い感情を、再確認しながら。
- Re: 暁のカトレア ( No.104 )
- 日時: 2018/08/27 00:45
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: s/G6V5Ad)
episode.97 少し面倒な男
翌日から、帝都にある帝国軍基地では、警備が強化されることとなった。リュビエから宣戦布告があったからである。いつ襲撃されるか分からない以上、仕方のないことだ。
「あー、やだやだっ。フラン、こういう空気嫌いっ!」
「……愚痴ばかり一人前に。うるさいですねぇ」
「何それ!感じ悪いっ!」
私は今、フランシスカとゼーレとトリスタンの三人と共に、食堂で過ごしている。
席順はというと、私の左右にゼーレとトリスタン、向かい側にはフランシスカだけ。どう考えても不自然な座り方だ。そこからも分かるように、何とも言えない微妙な関係性の四人ではあるが、嫌な感じはしない。
……ただし、喧嘩が起こらないよう気をつけなくてはならない。
「そういえばトリスタン、昨夜は当番だったんだよねっ?」
パンケーキを頬張りながら尋ねるフランシスカ。
トリスタンはそれに対して、テンションの低い静かな声で返す。
「そうだけど」
私と話す時とは大きく異なる面倒臭そうな態度だ。直接関係していない私でさえ、ひやひやしてしまう。
「確か、足首痛めてたよね?大丈夫だったのっ?」
「君に心配されるようなことじゃないよ」
トリスタンは相変わらず冷たい。
だが、フランシスカの心は強かった。一瞬言葉を詰まらせこそしたものの、笑顔はまったく崩さず、話を継続する。
「そうなんだ!大丈夫だったなら良かった!」
彼女はそう言って、小さめになったパンケーキを口へ運ぶ。フォークを持つ右手が綺麗だ。
パンケーキを非常に美味しそうに食べる彼女を眺めていると、自然と、こちらまで食べたくなってきた。
「トリスタンは昨日どのくらい倒したのっ?」
「狼型を三十三」
「へぇー!凄いっ!さすがトリスタン!」
フランシスカは明るい声色で大袈裟に褒める。
トリスタンに気に入られたいがためなのか、空気を明るくしようとしてなのかは、分かりようがない。だがいずれにしても、彼女の存在が場を華やがさせてくれていることに変わりはないのだ。
向日葵のような明るさを持つ彼女もまた、このような暗い世界には欠かせない種類の人間だと、私は思う。
「べつに凄くなんてないよ。ただ、狼型に慣れているだけだから」
「慣れてたって、三十三は凄いよ!だってフラン、前に狼型と戦った時、五匹くらいの群れに超苦戦したもんっ!」
「いや、それは君が接近戦に弱いからってだけだと思うよ」
トリスタンはばっさりと言った。相変わらず、フランシスカに対してだけは厳しい。
「ちょっとトリスタン!それはさすがに酷いっ!」
「僕は事実を述べただけだけど」
「真実だとしても、言って良いことと悪いことがあるんだよっ!?」
確かに、と思わないことはない。しかし、私は気軽に首を突っ込める立場ではないので、ひとまず傍観しておくことにした。
ぼんやり過ごすというのも、時には悪くないものだ。
そんなことを思いながら、隣の席のゼーレへ視線を向ける。
彼は非常に退屈そうな顔をしていた。ふわぁ、とあくびをしている。こんなにのんびりしたゼーレを見るのは、初めてかもしれない。
少しして私が目を向けていることに気づいたらしいゼーレは、すぐに、すっと背を伸ばす。だらしない姿を見られたくなかったのかもしれない。
「何です?」
澄まし顔で口を開くゼーレ。
直前まであくびをしていた人と同一人物だとは到底思えぬ、凛とした振る舞いである。ここまで急に変わると、もはや愛らしさすら感じられる。
「いえ。ただ、何かお話しようかなって、そう思っただけよ」
特に何か用があったわけではない。
「……そうですか」
小さな溜め息を漏らしつつ応じるゼーレの表情は、どこか残念そうだった。
何を残念に思っているのかまでは分からない。ただ、もしかしたら、先ほどの私の発言は、彼の望んでいた答えではなかったのかもしれない。
「ゼーレ、どうしてそんなに残念そうなの?」
彼の心を理解しようと、質問してみる。
本当は、こんな質問をするのは失礼なことなのだろう。分からないからといって気軽に尋ねていいようなことではない、ということは私にも分かる。
だが、それでも私は尋ねた。
最終的に、分からないことを放置しておくことの方が失礼だろう、と判断したからである。
「残念そう……とは?どういう意味です?」
私の質問に対し、ゼーレは首を傾げた。
問いの意図が分からない、といった顔つきをしている。
「えっと、だから、その……」
いざ聞かれると返答に困ってしまった。
だって、私自身が勝手に「残念そうな表情をしているな」と思って尋ねただけだから。彼から「残念だ」と言われたわけではないから。
単に私の考えすぎという可能性だってある。
もしそうだったら、自意識過剰のようで、少々恥ずかしい。……いや、少々ではない。個人的には、かなり恥ずかしい。
「私が残念そうな顔をしていた、ということですかねぇ?」
「そ、そう!そんな気がしたのよ!でも……気のせいだったのかもしれないわ」
焦りがあったせいか、ぎこちない話し方になってしまった。
ゼーレに笑われたらどうしよう、という、小さな不安の芽が生まれる。
けれども、彼は笑ったりはしなかった。
「そうでしたか……今後は気をつけます」
落ち着いた声でそう述べる彼の顔を見た瞬間、「笑われたらどうしよう」という不安の芽は一瞬にして消え去った。彼の顔に浮かぶ表情が真面目なものだったからである。
そこへ、口を挟んでくるフランシスカ。
「なになに?どうしたのっ?喧嘩?」
フランシスカは、私とゼーレを交互に見つつ、何やら楽しげな顔をしている。その口振りからして、喧嘩を期待しているようだ。
しかし、残念ながら喧嘩ではない。
「マレイちゃんは優しいから、喧嘩なんかしないよね」
続けて口を挟んできたのはトリスタン。
彼は「優しい」と言ってくれるが、昨夜散々当り散らしてしまった件があるため、何とも言えない複雑な気分だ。
「えーっ!そうなの?マレイちゃんって喧嘩しないのっ?」
「ちょっと待ってくれるかな、フラン。君はマレイちゃんを、喧嘩なんて野蛮なことをする人だと思っていたの?」
「べっ、べつに、野蛮なことをする人だなんて思ってはいないけどっ……」
弁明しようとするフランシスカへ、訝しむような視線を向けるトリスタン。
「本当に?少しは思っていたから、『喧嘩?』なんて聞いたんじゃないのかな」
「違うよっ」
フランシスカは首を大きく左右に振る。だがトリスタンは納得しない。
「心の奥に聞いてごらん?本当に思っていなかったのかな?」
「待って待って!トリスタン、ストップ!」
ややこしいことを言いだす彼を、私は慌てて制止する。
これ以上放っておいたら、危うくまた揉め事になるところだった。
「トリスタンは、それ以上何も言わないでちょうだい」
「でもマレイちゃん……」
「いいの。私のことは心配しないで」
「分かったよ」
何だろう。この流れ、経験したことがあるような気がする。
「……まったく。いちいち面倒臭い男ですねぇ……」
私たちが騒いでいるその横で、ゼーレは一人、呆れたように漏らしていた。
もしかしたら、彼が一番大人かもしれない。
- Re: 暁のカトレア ( No.105 )
- 日時: 2018/08/27 08:49
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: AQILp0xC)
episode.98 足手まとい?
「はーっ!美味しかった!」
パンケーキを完食したフランシスカは、満足そうな顔で、気持ち良さそうな大きな背伸びをした。向日葵のような笑顔が花開く。
彼女を見ていると、いつの間にかパンケーキを食べたくなってきた。不思議なものである。
そんなことを考えていた時、ゼーレがフランシスカに向けてこう言い放った。
「……よくそんな甘いものを食べられますねぇ」
フランシスカはゼーレをキッと睨む。
「悪いっ?」
睨んでいても可愛らしい顔だ。
丸みのある輪郭と、柔らかそうな肌。それらは、見る者に、無垢な少女のような初々しさを感じさせる。
しかしゼーレは、そんな可愛らしい彼女に対してでも、まったく遠慮しない。
「いえ、べつに」
淡白な声色でゼーレは述べた。
これ以上関わりたくない、という彼の心情が透けて見える。
「……もうっ」
フランシスカは気を悪くしたらしく、頬をぷくっと膨らませていた。
よく分からない態度をとられては、気を悪くするのも無理はない。怒りが爆発しなかっただけ幸運だったのだろうな、と私は思った。
——そんな時だ、突如警報音が鳴り響いたのは。
けたたましい警報音は、鼓膜を貫きそうな大きな音。空気を激しく揺らす。
「襲撃っ!?」
目を見開き、立ち上がるフランシスカ。その愛らしい顔には、驚きと焦りの混じった色が滲んでいる。
「まだ夜じゃない、けど……」
動揺しているのはトリスタンも同じだった。
何の前触れもなく突然警報音が鳴り出したのだ、動揺するのも無理はない。現に、私だって平静を保ててはいないのだから。
「例の作戦が決行されたということ?」
私は落ち着いているように見えるように振る舞いつつ、トリスタンに質問する。
すると彼はすぐに答えてくれる。
「分からない。でも大丈夫だよ、マレイちゃんは僕が護るから」
言いながら、トリスタンは私の手を握る。意図が掴めず首を傾げていると、彼はそこから、流れるように抱き締める体勢へ移行する。
「ありがとう、頼りにしているわ」
もちろん、ただ護られるだけの人間でいるつもりはない。でもできることがあるならば、それは進んでやる。彼の後ろに隠れ続けるような狡いことは、極力したくないから。
だが、今の私には、腕と脇腹の傷がある。これが戦いにどのような影響を与えるかは分からない。それゆえ、一人で化け物と戦うというシチュエーションは、避けたいところだ。
「任せて」
トリスタンはしっとりした声でそう言うと、ふふっ、と幸せそうな笑みをこぼす。
その様子を凝視していたゼーレが、唐突に漏らす。
「……仲が良いですねぇ」
何やら不満げな声色だ。
もしかしたら、トリスタンと親しくしているのが気に食わないのかもしれない。もっとも、私が自意識過剰なだけ、という可能性も否定はできないが。
「ごめんなさい。気を悪くさせてしまった?」
「……いえ、べつに」
「ゼーレ、言いたいことは言っても良いのよ」
「気にしないで下さい。べつに……たいしたことではありませんから」
そんな風に私とゼーレが話していると、フランシスカが急に、耳に着けた小型通信機を手で押さえた。
「はいっ!こちらフラン!」
どうやら、誰かと通話しているようだ。
「はい。はいはい、そうですねっ、はい、……えっ」
小型通信機を通して誰かと会話していたフランシスカの顔が急に強張った。両の眉頭は寄り、瞳は震えている。彼女の心が波立っていることは、聞かずとも明らかだ。
「はい……はい。分かりました。……では」
フランシスカの声は、みるみるうちに弱々しくなっていく。
そして、小型通信機を介した会話は終わった。
「何て?」
トリスタンが怪訝な顔で問う。それに対しフランシスカは、固い表情のまま返す。
「何体かに入り込まれたって……」
そんな馬鹿な。
警備を強化していたにもかかわらず突破されたというのか。
「マレイかゼーレのところへ向かっていると思われる、って、グレイブさんが」
「なるほど。つまり、ここが狙われるってわけだ」
「これって、逃げた方がいいのかなっ……?」
「いや」
弱気になっているフランシスカとは対照的に、トリスタンはやる気に満ちていた。彼の青い双眸は、刃のような鋭い光を宿している。まさに、戦士の目だ。
「ここで迎え撃つ」
言いながら、トリスタンは立ち上がる。
「戦うの?」
私はやる気満々な彼に尋ねてみた。すると彼は、一度、しっかりと頷く。迷いのない動きだ。
「ならトリスタン、私も一緒に戦うわ!」
しかし、今度は首を左右に振られてしまう。
「戦うのは駄目だよ、マレイちゃん。負傷しているのに無理はさせられない」
「でもトリスタン……!」
「大丈夫。僕を信じて」
トリスタンの両眼は、私一人だけをじっと捉えていた。
その水晶玉のような瞳には、不安げな顔つきをした私の姿がくっきりと映っていて、少しばかり恥ずかしい。
「もちろん信じているわ。けれど、トリスタンに任せっきりは嫌。もう貴方に迷惑をかけたくないの」
「それはおかしいよ、マレイちゃん。もう、なんて言ったら、前にも迷惑をかけたみたいに聞こえる」
本当は論争している暇なんてないのだが……。
「そうよ、前にも迷惑をかけたわ」
「迷惑をかけられた覚えなんて、僕にはないよ?」
「私を庇って、怪我したり、誘拐されたりしたじゃない!」
「そんなことが、君の言う迷惑なの?」
逆に、迷惑でないとしたら何なのか。若干そう聞いてみたくなった。だって、怪我したり誘拐されたりすることが迷惑でない、なんてことを彼は言うのだから。
「ま、とにかく護るよ。侵入者の相手は僕がするから、心配は要らないよ」
トリスタンは言いながら、こちらへ優しげな眼差しを向け、にこっと微笑む。水彩画のような柔らかな表情だ。
彼は少ししてから、今度はフランシスカへと視線を向ける。彼の視線は一瞬にして、戦士のそれに戻った。
「やるよ。フラン」
「そ、そうだねっ。フランも頑張る!」
フランシスカは素直に頷く。
顔筋の強張りこそあるものの、弱々しさは徐々に薄れつつある。
「私は……何をすれば良いのですかねぇ」
立ち上がったトリスタンとフランシスカを交互に見ながら、ゼーレが呟く。彼にも「何かしよう」という気持ちがあると判明し、地味に嬉しかった。
「何もしなくていいよ」
ゼーレの呟きに応じたのはトリスタン。
「……ほう。足手まといだと?」
「違うよ。僕がやるから君は無理しなくていい、ってこと」
「やはり足手まといと……」
執拗に言うゼーレに対し、トリスタンは調子を強める。
「そうじゃない」
後ろ側で一つに束ねた絹糸のような金の髪は、こんな時でも美しい。この世のものとは思えぬ幻想的な雰囲気を醸し出している。
「マレイちゃんを護るついでに、君も護るってこと」
その後、トリスタンは腕時計から白銀の剣を取り出し、敵の出現に備えていた。
- Re: 暁のカトレア ( No.106 )
- 日時: 2018/08/27 23:36
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: YJQDmsfX)
episode.99 滑ってくるやつ、要注意
トリスタンは白銀の剣を、フランシスカは二つのドーナツ型武器を、それぞれ持ち、戦う準備は完全に整っている。この状態ならば、敵が来たとしても十分応戦できることだろう。
もしかしたら、二人がいてくれることがこんなにも頼もしいと思ったのは、初めてかもしれない。
もちろん、助けてもらったことはこれまでにもたくさんあった。だが、今は、過去に助けてもらった時とは異なる感覚を覚えている。
その時、フランシスカが叫んだ。
「来たっ!トリスタン!」
彼女の声に反応して、遠く離れた廊下の向こうへ視線を向ける。すると、何かがこちらへ進んできているのが見えた。恐らく、それらが敵なのだろう。
トリスタンは威嚇するように白銀の剣を構えたまま、二三歩前へと進み出る。
「フラン。ここからは援護、頼むよ」
「うん!トリスタン、無理しちゃ駄目だからねっ」
短く言葉を交わすフランシスカとトリスタン。日頃は何もかもがすれ違っている二人だが、戦闘となれば一応協力はするようである。
護ってもらう立場の私が言うのも何だが、トリスタンがフランシスカの存在を多少は考慮しているようで安心した。
床を滑るようにして迫ってきたのは、アザラシ。
いや、アザラシ型化け物、と言うのが正しいだろうか。昔何かの本で見かけたアザラシという生き物に、とにかくそっくりである。
「先手必勝!」
トリスタンよりほんの少し後ろの位置にいるフランシスカが、勇ましく叫ぶ。
「行くよーっ!!」
そして、持っているドーナツ型武器を二つ同時に投げた。
二つのドーナツ型武器は、宙に大きな弧を描きながら、アザラシ型化け物へと飛んでいく。
凄まじい勢いだ。
私だったら絶対にかわせない、と確信を持てるほどの速さである。
——直後。
二つのドーナツ型武器がアザラシ型化け物の体を切り裂く。
彼女は一瞬にして、迫ってきていたアザラシ型たちを一掃した。さすがは化け物狩り部隊の隊員、といったところか。
「はーいっ!命中っ!」
フランシスカは、顔に笑顔の花を咲かせながら、可愛らしい声を出す。彼女は時に、周囲の空気を明るく変えてしまうから、不思議だ。はつらつとした表情や発声が、非常に印象的である。
「どう?トリスタン。フラン、強いでしょーっ」
胸を張り、自身に満ち溢れた顔つきで言う、フランシスカ。その表情からは、「これでも弱いと言える?」というような、挑戦的な雰囲気が漂っている。
「いや、べつに」
「ええっ。何その言い方ーっ!これでもフランが弱いって言えるの!?」
「弱い、なんて言うつもりはないよ」
「じゃあ強いって言ってよっ!」
「今回の戦闘の中で、もっともっと活躍したらね」
「もう!何それっ!」
敵に向かう二人は、続く第二波に備えつつ、そんな会話をしていた。
認められたいフランシスカと、認めたくないトリスタン——二人は、なんとなく似ているような気がしないこともない。……いや、気のせいかもしれないが。
そんな中で、独り言のように呟くゼーレ。
「……元気な二人ですねぇ」
彼はすっかり呆れ顔。
多分フランシスカとトリスタンの会話を聞いていてのことだろう。
そこへ、さらに敵がやって来る。またしてもアザラシ型化け物だ。
ただ、先ほどのそれとは、外見が少しばかり違っていた。先ほどのアザラシ型化け物たちは白や灰色といった自然な色合いだったが、今来ているのはやや赤みを帯びている。女性に人気がありそうな、淡く可愛らしい色味だ。
しかし、そんな柔らかな体色とは裏腹に、獰猛そうな顔つきをしている。
大きく見開かれた血走っている目。獲物を殺す気に満ちているかのような激しい動作。そして、涎がだらだらと垂れている口。
淡く可愛らしい体色とは対照的な、狂気を感じさせる様子である。
「ええっ!?今度のは可愛くないっ!!」
「これは僕の出番かな」
剣の柄を握る手に力を加えるトリスタン。
彼の本気の戦闘を見るのは久々な気がする。
個人的には、痛めていた足首は本当にもう大丈夫なのか、ということが気になる。ただ、トリスタンならきっとやってくれることだろう。
そう自分を納得させつつも、腕時計に指先を当て、いつでも援護できるように準備する。何事も、備えておくに越したことはない。
「やってやる」
一言とともに、トリスタンの顔から柔らかさが消えた。
深みのある青色の両眼から放たれる視線は、まるで念入りに研いだ刃のよう。向かってくるものなら、一切の躊躇いなく切り裂きそうな、そんな目つきをしている。
そんな彼へ、接近していくアザラシ型化け物。
両者ともただならぬ雰囲気を持っていて、私なんかは入り込めない空気だ。
「はぁっ!」
気迫の声とともに剣を振り抜くトリスタン。
その剣先は、アザラシ型化け物の一体をしっかりと捉えた。見事に斬られた一体は、一瞬にして塵と化す。
だが、トリスタンへと迫るアザラシ型は一体ではない。何体もが同時に進んできている。複数で一斉に襲いかかり数で有利に立つ、という作戦に違いない。
確かに、一斉に襲いかかられれば、いくら腕の立つトリスタンと言えどもすべてを捌くことは難しいだろう。
数で押して勝とうという考えも、あながち間違ってはいないのだ。
——もっとも、この場にもう一人の戦士がいなければの話だが。
「させないよっ」
フランシスカはちゃんと見ていた。
そして、アザラシ型化け物の狙いをしっかりと読み取っていた。
「数で勝とうなんて、卑怯すぎ!」
彼女が投げたドーナツ型武器が、アザラシ型化け物の戦闘能力を徐々に削っていく。
最初に現れたアザラシ型とは違い、一撃で消滅させることはできないようだ。しかし、ダメージを与えることはできる。だから彼女は、回数当ててじわじわ削る戦法に切り替えたのだろう。
「トリスタンに怪我なんてさせないんだからっ」
懸命に援護するフランシスカを見て、私は、「彼女もまた、一人の立派な戦士なのだな」と思った。そして、それと同時に、彼女に尊敬の念を抱いた。
これぞ、フランシスカ・カレッタ。
そんな彼女の真髄を垣間見ることができたと思った瞬間であった。
- Re: 暁のカトレア ( No.107 )
- 日時: 2018/08/28 06:22
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: w93.1umH)
episode.100 距離
フランシスカの援護を受けつつ、トリスタンはアザラシ型化け物を斬っていく。
その剣捌きは、見ている者が思わず唾を飲み込んでしまうほど、華麗だ。襲いかかってくる敵を一体一体確実に仕留めていく様は勇ましく、剣を振り抜く動作は力強い。
不安と感心が入り交じる心でトリスタンを見つめていると、隣のゼーレが唐突に口を開いた。
「なかなか……やりますねぇ」
ゼーレの翡翠のような瞳は、アザラシ型化け物と交戦するトリスタンに向いている。興味がある、といった感じだ。
「トリスタンのこと?」
ふと思い尋ねてみると、ゼーレはハッとした顔をする。
「あ、いえ。べつに、何でもありません」
「なかなかやる、って、トリスタンのこと?」
「まさか。あり得ないでしょう」
ぷいっとそっぽを向いてしまうゼーレ。
「じゃあ、あのアザラシみたいな化け物のこと?」
さらに質問してみるが、返答はない。ゼーレはそっぽを向いたまま黙り込んでしまった。
聞かない方が良かったのだろうか、と不安になる。だが、そんなに際どい問いではないはずだ。黙るということは聞いてほしくない内容だったということなのだろうが、なぜ聞いてほしくないのかが謎だ。
私が一人そんな風に思考を巡らせていると。
それまで一切私を見ようとしなかったゼーレが、その面を、ゆっくりとこちらへ向けた。やや細めた瞳が、本当は言いたいことがある、と訴えているかのようだ。
「ゼーレ?」
「……トリスタンのことです」
「え?」
「先ほどの答え……トリスタンのこと、が正解です」
言ってから、彼は機嫌を窺うような目つきでこちらを見てくる。
ゼーレは他人のことなどあまり気にかけない質だと思っていた。それだけに、今の彼の目つきには少々驚きである。彼からこんな視線を注がれるというのは、不思議な感じがした。
「やっぱりそうだったのね」
私がそう返すと、ゼーレは、アザラシ型化け物との戦いを継続しているトリスタンへと目をやる。
「なんというか……嘘をついてすみません」
今日の彼は妙に正直だった。
こんなにすんなりと謝罪するゼーレなんて、ゼーレらしくない。
「気にしないで。私だって、嘘をつくことはあるわ」
私はそれだけ返した。
人間なら誰だって、一度くらい嘘はつくものだろう。生涯一度も嘘をつかなかった正直者なんて、ほとんど存在しないはずだ。だから、私はそんなに気にはならなかった。
他人の人生を壊すような嘘や命を奪うような嘘なら「気にならなかった」で済まされるものではないだろうが、今彼がついたような小さなものならば、激怒するほどの内容ではない。時にはそういうこともあろう、といった感じである。
「愛する者に嘘をつくのですから……救いよう馬鹿です。私は」
勇ましく戦うトリスタンと、それをサポートするフランシスカ——二人の戦う様をじっと見つめながら、ゼーレはそんなことを呟いていた。
私を一瞥しさえしないということは独り言なのだろうが、それにしても寂しそうな言い方だった。冬の夜に一人ぼっちで道を行く人、といったような哀愁が漂っている。
そんなゼーレを放っておきたくない。
わけもなくそう思った私は、彼に対して言葉を発する。
「いいえ、貴方は馬鹿なんかじゃないわよ」
こんなありふれた言葉で彼を救えるとは思えない。励ませるとも思えないし、そもそも、彼が求めているのはこんなものではないのかもしれない。そういう意味で不安はあったけれど、今私にできることはこれしかないと思ったから、勇気を出して言ってみたのである。
「貴方がトリスタンを認めてくれるなんて、凄く嬉しいわ」
「……おかしなことをいいますねぇ」
「おかしくなんてないわよ、トリスタンは私の師匠だもの。師匠が褒められて弟子が嬉しいのは当然のことよ。もちろん、逆もだけれど」
「……はぁ。そうなのですか……」
ゼーレは理解しきれていない様子だった。
でも、今はそれでいい。すべてを理解しあうことはできずとも、僅かにでも相手を理解しようとする心があるならば、きっと上手くいくはずだもの。
それから数秒が経って、ゼーレは小さく口を動かす。
「……ありがとうございます」
唐突に放たれた予期せぬ言葉に、私は暫し戸惑いを隠せなかった。
「私がここにいられるのも、貴女のおかげです」
追い打ちをかけるように告げられ、私はますます混乱する。
耳に入ってくる言葉がゼーレによるものだと、どうしても理解できないからだ。
素直でないことが特徴、と言っても過言ではない彼が、「貴女のおかげ」などと言ってくるなんて。到底現実だとは思えない。夢でも見ているのだろうか、と自分の感覚を疑ってしまいそうになる。
「あの……どうしてそんなことを?」
私は思わず尋ねてしまった。
それに対し、ゼーレは静かな声色で答える。
「罪人でありながら私が生きていられているのは、カトレア、貴女の温情ゆえ。にもかかわらず、まともに礼を言ってこなかったなと思ったので」
こうしてゼーレと喋っている間にも、アザラシ型化け物は減ってきていた。トリスタンとフランシスカが頑張ってくれているおかげだ。後で思いっきり感謝の意を伝えなくては。
「お礼なんていいのよ。私はただ、貴方と敵対したくなかっただけだもの」
「……なぜ?」
「理由なんてないわ。でもね、貴方とはきっと分かり合えるって、勘が教えてくれたのよ」
私の適当すぎる説明に、ゼーレはふっと笑みをこぼす。
「……勘、ですか。そんな曖昧なもので憎むべき敵を許すとは……貴女はやはりお人好しですねぇ」
「その通りだわ。あの頃は、私自身でさえ、よく分からなかったもの」
ゼーレは、私から大切なものを奪った。だから、生涯かけて憎むべき敵——のはずだったのだ。
なのに。
それなのに、私はいつしか彼を憎く思わなくなった。むしろ、親しみを覚えるまでになっていた。
「ねぇ、ゼーレ」
もちろん私は、彼を許したことを悔やんではいない。彼だって人だもの、幸せに生きてくれる方が良いに決まっている。当然だ。
ただ、この胸に一つだけ、小さなわだかまりがある。
私がこちらの陣営へ引っ張り込んだせいで、ゼーレがボスから狙われる身になってしまった。そのことに関する、わだかまりだ。
「一つ、聞いても構わない?」
「構いませんが……急にどうしたのです」
このわだかまりを消し去るためには、ゼーレ本人から直接話を聞く外ない。
「ゼーレはこちらについたことで、ボスに狙われるようになってしまったでしょう。そのことについて、貴方は何か思っている?」
「一体何を……」
「私の選択のせいで貴方が危険な目に遭うことになってしまった。それを考えたら、私の選んだ道は間違っていたのではないかって、不安になるの。私はゼーレを不幸にしてしまったのかもしれないって、そんな風に思う時があるのよ」
この際、隠すこともない。いっそすべてを話してしまえばいい。すべてを打ち明けて、その後のことは後で考えよう。
私は自分へそう言い聞かせて、ゼーレとの会話に挑んだ。
「本当の気持ちを聞かせて」
もっとも、それでも不安が軽くなることはなかったのだが。
- Re: 暁のカトレア ( No.108 )
- 日時: 2018/08/28 19:39
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: DT92EPoE)
episode.101 わだかまりを消すには
すぐ近くではトリスタンらが化け物と戦っている。それゆえ、辺りを包む空気は、針が肌を刺すようなぴりぴりとしたものだ。そんな中、今私はゼーレに問いを放っている。私にとっては重要な問いを。
「本当の気持ち……ですか」
「えぇ」
「難しいことを聞きますねぇ……」
私の問いに対してゼーレは、すぐには答えられない、というような顔をしている。本当の気持ち、なんて、こんなに気軽に尋ねていいものではなかったのかもしれない。
だがこれは、この胸に存在するわだかまりを消すために必要な問いなのだ。
ゼーレの本心を、彼自身の口から聞く。それが、今の私に一番必要なことだ。それさえ済めば、もしその答えが悪いものであったとしても、少しはすっきりするはずである。
「いきなりこんなことを聞くなんて悪いとは思っているわ。でも、知りたいの」
私は正直に言った。
ゼーレは少しの間黙っていたが、しばらくしてから、ようやく口を開く。
「こんな質なので……上手くは言えませんが」
翡翠のような瞳が、私の顔をじっと見つめてくる。
彼の愁いを帯びた双眸から放たれる視線は、私の胸をぎゅっと締めつけた。もちろん理由は分からない。ただ、何とも言えない切なさが、泉のように湧いてくる。
「私は、この道を選んだことを後悔してはいません」
ゼーレの声ははっきりとしたものだった。
そこからは、ほんの僅かな後悔さえ感じられない。まるで、真っ直ぐ伸びる一本道のようだ。
「本当……に?」
「当然です」
「でも、私が余計なことをしなければ、貴方がこんな目に遭うことはなかったわ。私が貴方を巻き込んでしまったのよ」
すると、彼はきっぱり言い放つ。
「カトレアは関係ありません。この道を選んだのは私です」
淡々とした調子で放たれる言葉。そこには、得体の知れない、凛とした強さがあった。その強さとは、恐らく、幸福とはとても言えない人生を歩んできたからこそ生まれたものなのだろう。
「ですから、貴女が悔やむ必要などありはしないのです」
そう言って、ゼーレはほんの少し微笑んだ。
微笑むことに慣れていないからか、やや強張った感じの笑みになってしまっている。口角も、目じりも、ぎこちない。
だが、彼が笑おうと頑張っていることはひしひしと伝わってくる。
「……何を黙っているのですか、カトレア。私は間違っていましたかねぇ」
「あっ……、いいえ。間違っているとは思わないわ」
「でしょうね。私は間違ってなどいませんから」
間違っていないと分かっているのなら、間違っていたか、なんて聞く必要はなかっただろうに。
何とも言えない微妙な気分になる発言だと思った。
「もう分かりましたかねぇ」
「どういうこと?」
念のため尋ねてみると、彼は呆れたように溜め息を漏らす。
「はぁ……やはり物分かりが悪いですねぇ」
つまり、と彼は続ける。
「私のことで貴女が悩む必要など、ありはしない。そういうことです」
その瞬間、胸の奥にずっと存在していたわだかまりは消えた。熱湯に投げ込んだ氷がみるみるうちに溶けるのと似た感覚である。
色々考えてみるならば、ゼーレが私に気を遣ってこんなことを言っているという可能性だってゼロではない。
だが、そんなものは表情を見れば分かる。
今のゼーレは、明らかに、気を遣ってなどいない顔つきだ。だから、私に気を遣って、という可能性は、ほぼないと思って間違いないだろう。
「ゼーレ……ありがとう」
私はいつの間にか、そんなことを言っていた。
別段意識してはいなかった。にもかかわらず感謝の言葉がするりと出たのは、それが、まぎれもない本心だったからだと思う。
「優しいのね」
「……っ」
ゼーレは唐突に、目を細め、視線を逸らす。それに加え、気まずそうな表情になってしまった。割れた仮面の隙間から露出する頬は、ほんのりと赤みを帯びている。
「ごめんなさい、ゼーレ。私、もしかして、何か失礼なことを言ってしまった?」
視線を合わせてくれない彼の顔面を覗き込む。
「嫌なことは嫌と言ってくれて構わないのよ?」
すると、数秒経ってから、彼は答える。
「……いえ。嫌なのではありません。ただ……」
「ただ?」
「カトレアにそんなことを言われると……胸が痛いです」
視線をほんの少しだけこちらへ向け、数回まばたきするゼーレ。その雰囲気といえば、まるで初々しい乙女のようである。
「愛している人から『優しい』だなんて……」
何これ?本当に乙女なの?
ゼーレの発言を耳にし、私は思わずそんな風に言いたくなった。無論、口から出しはしなかったが。
その時、トリスタンとフランシスカがやって来た。どうやら、アザラシ型化け物との戦いを終えたようだ。
「マレイちゃん、大丈夫だった?」
先に声をかけてきたのはトリスタン。
整った美しい顔の至る所に、汗の粒が浮かんでいた。また、前髪が額に張り付いている。長時間の戦闘だったため、結構汗を掻いているようだ。
「えぇ、無事よ。ありがとう」
「僕の剣捌き、見てくれた?」
あっ……。
ゼーレと話していて、見逃していた……。
けれども、そんなことは絶対に言えない。
もし私がそんなこと言ったら、トリスタンは嫉妬の塊になってしまうかもしれないから、である。
「え、えぇ。じっくりではないけれど、見たわよ」
苦しい答えを返す。
するとトリスタンは、ぱあっと明るい顔になる。
「本当!?嬉しいよ!!」
さらに突っ込んだ質問をしてこられたらまずい、と思っていたのだが、何とかセーフのようだ。
「戦いをマレイちゃんに見てもらえるなんて、嬉しいよ!」
トリスタンの瞳は希望に満ち、キラキラと輝いている。何がそんなに嬉しかったのかは分からないが、嬉しくて嬉しくて仕方がない、というような表情だ。
——と思っていると、彼は急に抱き締めてきた。
「頑張ったかいがあったな」
瞬間、隣のゼーレが鋭く叫ぶ。
「カトレアを抱き締めないで下さいよ!」
しかしトリスタンは怯まない。私を抱き締めたまま、ゼーレをジロリと睨む。
「いきなり何かな」
「……女性をいきなり抱き締めるなど、問題です」
「ふぅん。嫉妬してるんだ?」
トリスタンは勝ち誇ったようにニヤリと笑う。
極めて彼らしくない笑い方だ。
「なっ……!まったく、不躾な男です。私は嫉妬など——」
「してるよね」
淡々とした声で返されたゼーレは、暫し唇を閉ざした。
だが、十数秒ほど経ってから、詰まり詰まり述べる。
「まぁ……構いませんよ、そういうことでも」
- Re: 暁のカトレア ( No.109 )
- 日時: 2018/08/28 22:23
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: z5ML5wzR)
episode.102 囮だって何だって
その日の襲撃は、さほど大事にならず終了した。
敵の数からしても、恐らく、小手調べのようなものだったのだろう。
しかしながら、襲撃してきた化け物が私とゼーレを狙っていたことは確かだ。そんな中で、ターゲットである私とゼーレが危険な目に遭わずに済んだのは、偏に、トリスタンとフランシスカが戦ってくれたおかげだと思う。二人には、本当に感謝しかない。
それから数日が過ぎた、ある昼下がり。私はグレイブに呼び出された。唐突に呼び出すということは、きっと何かしら重要な話があるのだろう。そう思い、一人で彼女のもとへと急行する。場所は、彼女の自室のすぐ近くにある部屋だ。
二三回軽くノックしてから、静かに扉を開け、中へと入る。
五人が限界、というくらいの広さしかない室内には、グレイブとシンの姿があった。
「来てくれたか、マレイ」
「ふぅわぁぁぁー!待っていましたよぉぉぉーっ!!」
「シン、黙っていてくれ」
グレイブはシンともはやお馴染みのやり取りを済ませた後、私へと視線を移す。
漆黒の瞳から放たれる槍のような視線に、私は一瞬、身を貫かれたかのような感覚を覚えた。それほどに、彼女の視線は鋭いものだったのである。
「急に呼び出してすまない」
「いえ。気になさらないで下さい。……それで、私に何か用事でしたか?」
狭い空間の中でグレイブといるというのは、妙な圧迫感を覚えてしまう。理由はよく分からないが、彼女の放つただ者でないオーラに圧倒されるからかもしれない。
「あぁ。実はだな、あのボスとやらを倒すべく、作戦を立てているんだ」
「作戦を……?」
「そうだ。奴らにはこれまで好き放題されてきた。だが、それもそろそろ終わりにせねばと思ってな」
グレイブの言葉を聞いた時、心が一気に軽くなった。
彼女は、この永遠に続く夜を終わらせるため、動き出している。その事実が嬉しかったのだ。
もちろん、終わらせることは簡単ではない。それを承知の上で、グレイブは作戦を立ててくれているのだろう。私としては、こんなに嬉しいことはない。
「そこで、マレイに協力してほしいんだ。嫌だと言うなら強制はしないが……どうだろうか」
協力すれば、険しい道が待っているかもしれない。戦いが、そしてそれが生む闇が、この身を苦しめるかもしれない。だが、長らく夜の闇に覆われ続けてきたこの国に、暁が訪れる日が来るのならば——それは、私の願いが叶うということだ。
「協力させて下さい。私にできることがあるのなら」
少し考えてから、はっきりとそう答えた。
一瞬は迷いもしたが、今さら逃げる気になんてなれなかったからである。
それに、もし仮にここで逃げても、どのみち私は狙われる。私が私である限り、ボスの魔の手からは逃れられはしない。いつまでも追われ襲われ続けるだけだろう。それならいっそ、正面きって戦う方がいい。
こそこそ隠れて生きるなんて、絶対にごめんだ。
「よろしくお願いします」
すると、グレイブの表情がほんの僅かに柔らかくなる。
「そう言ってくれると信じていた。感謝する」
「さすがですぅぅぅーっ!」
「いいから、シンは黙れ。いちいち騒ぐな」
「は、はいぃぃぃ……」
静かに叱られたシンは、しゅんとして肩を落としながら、四方八方にはねた髪の毛の先を指でいじっていた。
そんな彼を無視し、話を進めていくグレイブ。
「念のため確認しておくが、危険な役目を負うことになっても構わないか」
「危険な役目……具体的には、どのような役目ですか?」
一応確認しておく。自分が一体どんなところへ向かっているのか、把握しておく必要性があると思ったからである。
——数秒の静寂。
その後、グレイブは紅の唇を開く。
「囮だ」
赤い唇から放たれた言葉が耳に入った途端、全身の血液が熱くなるのを感じた。
心臓の鳴りも、みるみるうちに大きくなる。
「おと……り?」
話についていけぬまま、オウム返しをしてしまった。
「その通り。ボスはマレイを欲しがっているだろう?そこを利用する」
「なるほど」
混乱する脳を懸命に落ち着かせようとしつつ、グレイブの話をしっかりと聞く。大事なことだ、聞き漏らすわけにはいかない。
「この作戦において、マレイには、暫しボスと共に過ごしてもらわねばならん」
「えぇっ!?」
「数時間ほどな」
「あ、何日もではないんですね。良かった」
数時間で良かった、と安堵する。
何をしてくるか分からないボスと一緒に何日も過ごすなど、怖すぎて失神しそうだ。それに、数日となれば、生きていられるものかどうか不明である。
「それも踏まえて……どうだろうか」
「やります」
ここで「やっぱり止める」なんて言ったら、囮役に怖気づいたかのようではないか。
「囮役だって、何だってやります!」
一度やると決めたなら、最後まで絶対にやりきる。今はその覚悟がある。今後挫けかけることもあるかもしれないが、それでも、何度だって立ち上がってやる。
そのくらいの心意気でいよう。
そうでなくては、こんな試練は乗り越えられない。
「二言はありません」
するとグレイブが、ふふっ、と笑みをこぼした。彼女の頬が緩むなんて、珍しい光景だ。なかなか見れるものではない。
「結構な決意じゃないか。これは楽しみになってきた」
「楽しみぃぃぃーっ!」
突如叫んだシンを、グレイブはパシンと叩いて黙らせた。もはや注意する気にもならなかったようだ。
「ではマレイ、協力してくれるということで話を進めるからな」
「はい!」
私が返事をすると、彼女はパンと手を合わせた。
「では、これにて終了とする」
グレイブの話したいことはこれだけだったようだ。
そんなこんなで、私はグレイブの作戦に参加することとなった。
囮役なんて重要な役が私に務まるのかは不明だが、この国のために戦えるのなら、それは何より嬉しいこと。だから、後悔はしていない。
- Re: 暁のカトレア ( No.110 )
- 日時: 2018/08/29 18:47
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 393aRbky)
episode.103 絡まれる彼
グレイブとの話を終え、私は真っ直ぐに自室へ帰ることにした。夕食の時間まで、まだしばらくあるからである。一旦帰り少し休憩してから、また食堂へ行けばいい。そう思ったのだ。自室までは少々距離があるが、それでも、そんなに長い時間はかからない。だから、ゆっくりと自室へ戻る道を歩いた。
歩くことしばらく。
ゼーレの姿を見かけた。黒いマントに、顔全体の半分くらいしかない仮面。間違いなく彼だ。
しかし、珍しく一人でない。彼の周囲には数名の女性がまとわりついている。
彼のことだから言い寄られているということはないだろうが……何だろう。疑問に思った私は、そちらへ近づいていく。
——そして、気づいた。
彼にまとわりついている女性が、前に私に絡んできた品の良くない三人組だと。
また絡まれては困る。そんな思いが、私を物陰に隠れさせた。
「貴方って、マレイさんとはどういう関係なの?」
「……答える必要はありません」
「もしかして、公共の場では言えないような関係なのかしら?」
「……鬱陶しいので離れて下さい」
私は物陰から様子を窺う。
どうやら、今度はゼーレがあの三人組に絡まれているようだ。茶髪の女性から私との関係について執拗に聞かれていることが、見ているだけで十分に分かる。
「言える関係なんなら言えよー」
つけ睫毛が本来の睫毛のラインからずれている女性も元気なようだ。
「黙っていたら、悪い噂が広まるわよ。マレイさんがふしだらな女性だと有名になっていいのかしら?」
「そんな噂……誰も真に受けたりはしないと思いますがねぇ」
「今の状態でならそうかもしれないわね。でも、あくまでそれは、今の状態でなら、のことよ。噂が広がってくれば、信じる者も出てくるはずだわ」
ぱさついた茶髪の女性は、にやりと笑う。性格の悪さが凄まじく滲み出た笑い方だ。こんな笑い方をできる女性というのは、かなり稀だろう。ある意味、凄い女性かもしれない。
「そんなことになれば、マレイさんに居場所はなくなるわよ。それでも良いのかしら」
「黙って下さい。不愉快です」
ゼーレはそっけなく返しながら、三人組を振り払うように前進していく。しかし、数歩進んだところで、ついに茶髪の女性に腕を掴まれてしまった。反応が遅れたゼーレは、茶髪の女性に身を引き寄せられる。
「ほんの少しお付き合いいただければ、マレイさんの悪い噂を流すのは止めて差し上げるわよ」
「……何を企んでいるのです」
いきなり体を引き寄せられたゼーレは、警戒心を剥き出しにしている。目つきは鋭く、全体的に固い表情だ。
「ちょっと協力してほしいの。本当に数分だけだから——」
ぱさついた茶髪の女性が無い色気を懸命に押し出しながら言いかけた、その瞬間。ゼーレが女性を突き飛ばし、叫ぶ。
「いい加減になさい!」
それまで淡々としていたゼーレが突如発した叫びには、茶髪の女性もさすがに怯んだようだ。さりげなく、一二歩退いていた。
ようやく大人しくなった茶髪の女性を、ゼーレは凄まじい形相で睨みつける。
「もう二度と絡まないで下さい」
静かながらも熱いものを感じさせる低い声。それには、さすがの女性三人組も圧倒されていた。
今のゼーレは、この世を怨む鬼のような睨み方とあいまって、尋常でない威圧感を漂わせている。
「私にも……カトレアにも」
この世のあらゆる闇を集めたかのようなゼーレの目つきに、ぱさついた茶髪の女性とつけ睫毛がずれた女性は言葉を詰まらせた。そんな二人の後ろに立っているあまり目立たない女性は、肉食獣に狙われた小動物のように、その手足を震わせている。
「……では、失礼します」
強制的に会話を終わらせ、ゼーレは進行方向を向く。そして、女性三人組のことなど微塵も気にせず、歩き出す。
「まっ、まだ話は終わっていないわよっ!?」
「おい!逃げてんじゃねーよ!」
だいぶしてから、ぱさついた茶髪の女性とつけ睫毛がずれた女性が、ほぼ同時に言い放った。とうに歩き出しているゼーレの背に向かって、である。だが、もちろんゼーレは無視していた。
「……おや」
ゼーレと女性三人組の一部始終を物陰に潜んで見ていた私は、突然声をかけられ、びくっと身を震わせてしまう。どうしよう、何と言おう、と少々焦る。誰かが私に声をかけてくる可能性など、すっかり忘れてしまっていたから、なおさら焦ってしまった。
だが、その声の主に気づいた瞬間、焦りは消えた。
「カトレアではないですか」
「あ。ゼーレ」
私に声をかけてきたのがゼーレだと分かったからだ。
「そんな物陰で……一体何を」
「女の人に絡まれていたでしょう。大丈夫だったの?」
「……見ていたのですか」
見ていた、なんて言われると、覗いていたかのようで何とも言えない気分だ。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。責められているわけでもないのだし、気にするだけ無駄である。
「えぇ。偶然あの人たちと話すゼーレを見つけて、気になって少し見ていたの。覗き見るみたいになってごめんなさい」
一応謝っておくが、それに対してゼーレは、首を左右に動かした。先ほどまでとは一変、穏やかな表情に戻っている。
「いえ、それは構いませんが……ここにもあのように品の良くない者がいるのですねぇ」
「あの人たちは、ああいう人らしいわよ」
「ほう。そうでしたか」
それからしばらく、しん、としてしまった。話題がなくなったため、話し続けることができないという悲劇的状況である。ゼーレはもちろん、私も何も言い出せなかった。
ただ、その途中で、ふと思ったことがある。今日は蜘蛛型化け物に乗っていないなぁ、ということだ。負傷してからというもの、彼はずっと蜘蛛型化け物の上に乗って行動していた。それだけに、彼が自分の足で歩いているという光景には、不思議な感じがしたのだ。
いつまでもこのまま沈黙というのも問題なので、私は、そのことについて話を振ってみることにした。
- Re: 暁のカトレア ( No.111 )
- 日時: 2018/08/30 11:14
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: YJQDmsfX)
episode.104 化け物は消えた方がいい?
「そういえばゼーレ、今日は、蜘蛛に乗っていないのね。どうかしたの?」
いきなりこれだと、話題がくだらない、と呆れられてしまいそうだが、勇気を出して話を振ってみた。すると彼は、一瞬戸惑いの色を浮かべたが、すぐにさらりと返してくる。
「たまには自分の足で歩かねば、と思いましてねぇ」
確かに。
蜘蛛型化け物に乗ってばかりいると、脚力が低下しそう。
「このまま老後のような生活を送るならともかく……普通に生きていくのなら、歩く力は必要ですから」
ゼーレが放つ現実的な言葉を聞いていると、何だかおかしくて、くすっと笑ってしまった。妙に真面目なところが、言葉にならない愉快さである。
「……何を笑っているのです」
「ごめんなさい。ゼーレが真面目に現実的な話をしているものだから、おかしくて」
「心外ですねぇ。貴女は私を、不真面目な人間だと思っていたのですか?」
「違うの!そういうことじゃないのよ」
私とゼーレはたわいない会話を続けた。
今ここで絶対に行わなければならない話ではない。この話をしなくては誰かが死ぬというわけではないし、明日でも明後日でも構わない話だ。
それでも私たちは、このどうでもいいような会話を、止めはしなかった。
それは多分、こうして過ごす時間が楽しかったからだろう、と思う。ゼーレがどうだったかは分からないにせよ、少なくとも私はそうだった。
しばらく話していると、次はゼーレが話題を振ってくる。
「ところで、囮役のことに関する話し合いは終わったのですか」
最初は、ゼーレがその件を知っていることに驚いた。しかし少し経つと、驚きから、彼はそれをどこで知ったのだろう?という疑問へと変わっていく。グレイブが自らゼーレへ伝えるとは考え難いだけに、どのような経路でゼーレがその件を知ったのか、不思議だった。
「どうしてそれを?」
直球で尋ねてみると、ゼーレは落ち着いた様子のまま答える。
「実は……私も、協力するか否か聞かれたのです」
「グレイブさんに?」
ゼーレは腕組みをしながら、ゆったりと頷く。その動作からは余裕が窺える。
「それで、協力するって言ったの?」
「もちろん。今さら引き返すなど、不可能ですからねぇ」
彼の答えに、私は安堵した。今さら敵同士になる、なんていう最悪のパターンとならずに済んだからだ。
「そこで、あの黒い髪の女から、カトレアを囮役とする作戦について聞きました。若い娘に何をさせるのか、と一応抗議したのですが……さすがに私には、意見が通るほどの力はありませんでしたねぇ……」
ゼーレは不満げな顔でぼやく。
しかしそれとは逆に、私は嬉しい気持ちになっていた。私の身を案じ、危険な役を負わせることに抗議してくれたのだから、嬉しくないわけがない。
もっとも、私は囮役をするつもりでいるので、彼に心配をかけてしまうわけだが……。
「で、カトレアは囮役を受けたのですか?」
「えぇ」
「ボスのところへ行くのでしょう?本当に大丈夫なのですか」
翡翠みたいな彼の瞳には、不安の色が浮かんでいる。危険な場所へ行こうとする子の身を案じる親のような、優しくも不安が滲む目だ。
「平気よ。べつに何日もじゃないもの。何時間かだけなら、きっと、たいしたことは起こらないわ」
「それはそうかもしれませんが……あのボスが貴女に何をするか、分かったものではありませんよ」
まだ不安の色が消えないゼーレに対し、私は述べる。
「……そうね」
まったく怖くない、と言ったら嘘になる。私だって敵の中へ入るのは怖い。いかにも強そうな敵の中へ行くのだから、当然だ。
「でも、いいの」
けれども、怖いからと逃げてはいたくない。
現実から目を背けることは簡単だ。辛い現実には目もくれず、都合のいいことにだけ意識を向ける。そんな選択肢だってあるだろう。
だが、それでは駄目なのだ。
厳しい現実から逃げているだけでは、この世界は何も変わらない。
「帝国軍に入ると決めた時から、危険な目に遭うかもしれないことは覚悟していた。それでも平和のために戦おうって決めたの。だから、囮役だって何だってやってみせるわ」
ゼーレは、微かに目を伏せながら返してくる。
「……随分立派な覚悟があるのですねぇ」
それに対し、私は苦笑した。
私はまだ、発言に伴った行動はできていないと思うから。
「立派風なことを言っていても、まだ、口だけだけれどね」
「でしょうねぇ」
「ちょ、酷いわね」
「それでも……言わないよりはましだと思いますよ」
口だけ認定をされた時には一瞬焦ったが、後からフォローを入れてくれて良かった。最後のフォローがなかったら、かなり切ない目に遭うところだ。
「ありがとう。化け物がいなくなった素敵な世界を見られるように、これから頑張るわ」
言いながら、ふとゼーレの顔を見て、「やってしまった」と焦る。彼が悲しげな表情をしていたからである。
「……あ」
ゼーレが可愛がっている蜘蛛も、化け物の一種。化け物のいない世界には、ゼーレの蜘蛛だって存在しない。それは、ゼーレを、長年可愛がってきた蜘蛛たちと引き離すことと同義。
そこを少しも考慮せず、迂闊に発言してしまったことを後悔した。
「ごめんなさい。貴方の蜘蛛も化け物だもの……不愉快だったわよね」
しかし、ゼーレは意外にも、首を左右に振った。
そして、きっぱりと述べる。
「気にしないで下さい。化け物は消えた方がいい——それは、まぎれもない事実ですから」
それから少し俯いて、彼はふっと小さな笑みをこぼす。哀愁の漂う、大人びた笑みだった。
今、彼の中には、どんな感情が渦巻いているのだろう。また、何を思い、何を考え、何を望んでいるのだろうか。
それを知りたいと思った。
彼の心の周囲には頑丈な壁があり、外から内を覗くことはできない。もちろん、誰だって心というものはそうだが、彼の場合その壁が特に分厚い。
だからこそ、気になって仕方がないのである。
- Re: 暁のカトレア ( No.112 )
- 日時: 2018/08/30 11:15
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: YJQDmsfX)
episode.105 説明会
その日の夜、隊員らの夕食が大体終わったであろう時間に、再び召集がかかった。召集をかけたのはまたまたグレイブ。だが今回は、昼の時とは規模が違っていた。指定されたのが狭い個室ではなかったことからも分かるように、結構な人数が呼び出されている。
私が指定の部屋へ入った時には、既に、結構な数の隊員が集まっていた。その多くは男性だが、女性隊員の姿もちらほらと見受けられる。女性隊員の知り合いといえばフランシスカとグレイブくらいしかいないが、他にも女性隊員はいるのだと、改めて知った。
私は、空いていた後ろの方の席へこっそりと座る。
すると、まるで見計らっていたかのようなタイミングで、グレイブとシンが姿を現した。
それから少しして、話が始まる。
「では、今回の作戦の概要を大まかに説明しよう」
グレイブが話し始めると、それまで私語をしていた隊員も黙った。
人が話し始めたら黙るというのは、当たり前と言えば当たり前のことだ。だが、注意せずとも人を黙らせることができるグレイブは凄いな、と私は思った。
「今回の作戦では、ボスの殺害を行う」
いきなりの直球。
急に聞かされた隊員らは狼狽え、ざわめく。
グレイブは落ち着いた表情のまま騒ぎを鎮めると、何事もなかったかのように作戦に関する話を継続する。
「リュビエの話から推測するに、もう数日以内には、マレイとゼーレを狙いに攻めてくるはずだ。その時に、マレイには一旦、あちらへと連れていかれてもらう」
彼女が告げた言葉に、またしても動揺の波が広がる。
「え……いいの?そんな作戦って酷くない……?」
「えげつねぇよな……」
説明を受けている隊員たちは、そんな風に、ひそひそ言っていた。急展開に驚きを隠せない、といった感じだ。
「そこぉぉぉっ!静かにぃぃぃーっ!!」
ひそひそ話をする隊員らに対し、シンの鋭い注意が飛ぶ。大声で注意された隊員たちは、白けた顔をしながら口を閉ざした。
一方グレイブはというと、そんなやり取りには一切意識を向けず、静かになったタイミングを見計らって話を続ける。冷淡、と言っても過言ではないほどに、落ち着いた様子だ。
「もちろん本人の同意は得ている。そこは誤解のないように」
紅の唇から発される声は、感情を少しも感じさせないものだった。
「ゼーレは既に死んだということにし、マレイだけを連れ帰ってもらう。そして、その後、我々が逆に向こうの基地へと攻め込む」
私はボスに連れていかれる役なのだ。そう思うと、正直、恐怖心を覚えてしまった。
だが、すぐに首を左右に振る。
怖いなんて言っている暇はないのだ、と。
「そこから先は二班に分かれての行動となる。一班は先に仕掛けて騒ぎを起こす。二班はマレイによって一人になったボスを一斉に襲う」
マレイによって一人になったボス、って……。
それはつまり、私が何とかして、ボスを一人にしなくてはならないということか。なにげに結構ハードなことを求められている気がして仕方がない。
「これが予定してある大まかな流れだ。その他の細かな動きなどは、これより個別に連絡する。では、全体への説明は終了だ」
おっと、もう終わってしまった。
本当に大まかな説明だけだったことが、少々驚きである。
その後、私はグレイブから個別に説明を受けた。
ゼーレより聴取したというボスの基地——飛行艇の内部の図面を見ながらの説明である。図というものが苦手な私は、なかなか理解できなかったが、彼女が根気強く説明してくれたおかげで、最終的には何とか理解できた。
私はボスと二人きりになり、彼を指定された中庭にまで連れていく。それが、連れ去られた後の私がすべき仕事だという話だ。
果たして私に務まるのか。そんな不安が、この胸を包み込む。
それでもやるしかない。やるしかないから——私は首を縦に動かした。
「聞いたよ!マレイちゃんが囮だなんて、本当に大丈夫なのっ!?」
グレイブからの個別説明を終えると、待ってくれていたらしいフランシスカが声をかけてきた。かなり慌てたような顔で。
「えぇ。やるしかないわ」
「でもでも、ボスを動かすなんて、マレイちゃんにできるのっ!?」
「それは分からないわ」
するとフランシスカはぐいっと顔を寄せてきた。
「じゃあ駄目だよ!できるかどうか分からないことを作戦に組み込むなんて、おかしいっ。今からグレイブさんに言ってくる!」
早速歩き出そうとするフランシスカを、「待って!」と言って制止する。
私がやると言ったのだ、グレイブは悪くない。
「フランさん、待って。グレイブさんは悪くないの」
「そうなの?」
きょとんとした顔でこちらを見つめてくるフランシスカ。華やかな睫毛に、紫色の丸い瞳——顔の愛らしさは健在だ。
「えぇ、グレイブさんはちゃんと確認してくれたの。それで、私が頷いたの。だから、グレイブさんは悪くないわ」
「でもでも、マレイちゃんだけに重荷を背負わせるなんてっ……」
「ありがとう。……でも、それは気にしないで」
私はこれまで迷惑ばかりかけてきた。だから、せめて最後くらいは役に立ちたいのだ。危険だとしても、成功するか分からなくても、そんなことは関係ない。
とにかくやる。それしかない。
「……そっか。マレイちゃんは本気なんだね」
「えぇ」
その瞬間、フランシスカの愛らしい顔が一気に明るくなった。
「じゃ、応援するよっ!」
凄まじい変わりように多少困惑したが、すぐに言葉を返す。
理解してくれたことへの感謝を込めて。
「ありがとう。嬉しいわ」
素直に礼を述べるのは、少しばかり恥ずかしい気もした。
だが、感謝の意を伝えることは人を幸せな気分にしてくれる。言われた者はもちろん、言った者も温かい気持ちになれるのだから、「ありがとう」とは魅力的な言葉だ。
「フランが応援してあげるんだから、頑張って、絶対に成功させてよっ」
こんな言い方をできるのは、彼女が自分に自信を持っているからだろう。見方によれば過剰な自信家とも取れないことはないが、今の私の目には、眩しく輝いているように映った。
- Re: 暁のカトレア ( No.113 )
- 日時: 2018/08/30 11:16
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: YJQDmsfX)
episode.106 穏やかな日々に戻りたい
フランシスカと話をしていると、ゼーレとトリスタンがどこかから帰ってきた。二人が喧嘩せず一緒に行動しているというのは、結構珍しい光景だ。
「マレイちゃん!」
「……カトレア」
トリスタンとゼーレは、ほぼ同時に私の名前を述べる。
まるで練習していたかのような揃いようである。これを練習なしでやったのだとしたら、かなり凄いと思う。もういっそ双子にでもなってしまえば、という感じだ。
「聞いたよ!マレイちゃんが、ボスを殺害場所まで引き寄せるための囮になるんだって!?」
早速言ってきたのはトリスタン。表情を見た感じ、彼も、今さっき知ったところのようだ。ということはやはり……このことを前以て聞いていたのは、ゼーレだけだったようだ。
「マレイちゃん、本当に引き受けたの!?」
トリスタンはかなり狼狽えている。
「危険すぎるよ!」
「分かっているわ、トリスタン。でも私はやるの。そう決めたのよ」
一応説明をしてはみたものの、今の彼は、到底話を聞いてくれそうな状態ではなかった。多分、今はいくら丁寧に話したとしても、右から左へ通り抜けておしまいだろう。だから、それ以上説明するのは止めることにした。
「とにかく、私はできる限りのことをするわ。決めたことだから」
私はそれだけ言って、話を変える。
せっかくなのでゼーレに話を振ることにした。
「ところで。ゼーレ、貴方はどんな話を聞いてきたの?」
すると、それまで無言だったゼーレが、腕組みしながら口を開く。
「私ですか?私は……隊員を飛行艇内へ連れていく手順について、シンとかいう男から話を聞いていました」
「グレイブさんじゃなかったのね」
「当然ではありませんか……彼女は貴女の担当だったでしょう」
言われてみればそうだ、と思った。
私に説明をしてくれていたグレイブが、ほぼ同時にゼーレにも話をしていた可能性なんてゼロだ。そんな簡単なことも見落として言葉を発してしまったことに、私は内心、恥ずかしさを覚えた。
「確かにそうね。……それで?ゼーレの方も問題はなさそう?」
「えぇ。特別問題はありません。襲撃中は隠れておき、後から隊員らを飛行艇内部へと送る。それだけですから」
ゼーレは、淡々とした調子で自分の役割について話していた。彼はさすがだ、結構しっかりと分かっている。
「ただ問題なのは……向こうが来るのがいつなのかが分からない、というところです。それがはっきりすればより分かりやすくなるのですが」
「いつ来ても良いように準備しておいて、と言われたわ」
私はしばらく、指定の部屋に二人の隊員と共にいておかなくてはならない。特に夜間は、絶対にそこから離れてはならないそうだ。ボスに連れ去ってもらい逃すわけにはいかないからである。
「……はぁ。滅茶苦茶ですねぇ。ということは……カトレアは今晩からその部屋へ?」
「そうみたい」
ゼーレに対して話をしていると、フランシスカがすかさず挟んでくる。
「えぇっ!?何それ!フラン聞いてないっ!」
そういえばそうだった。先ほどフランシスカと話した時には、このことは言わなかった。
もちろん、隠そうとしていたわけではない。意図的に言わなかったのではないのだ。単に、そういう話の展開になっていかなかったから、というだけのことである。
「マレイちゃんったら、どうしてフランには言ってくれなかったの!?もっと早く言ってくれたら、その一緒にいておく隊員の枠、フランが貰ったのにっ!」
そんなこと言われても……。
私が決めたわけではないので、私に言われてもどうしようもない。そういった類の相談は、グレイブ辺りにすべきだと思うのだが。
「それで、来る敵みんな、ぶっ潰したのに!」
フランシスカは頬を丸く膨らませつつ漏らす。愛らしい顔に浮かぶ表情からは、沸々と湧く不満が感じられる。
「いやいや。それじゃ意味ないよね」
敵をぶっ潰す、などという勇ましい発言をしたフランシスカへ突っ込みを入れたのは、トリスタン。急に話に参加してきた。
「えっ、何?フラン、おかしかったかなっ」
「うん。おかしかったよ」
「えー?どこが?」
「いろんなところ。でも特に、敵をぶっ潰すなんて言っているところ」
トリスタンはらしくない無表情な顔で、フランシスカのおかしな点を厳しく指摘する。
アザラシ型化け物との戦いによって多少は友情が芽生えたかと思ったが、案外そんなこともなかったようだ。トリスタンのフランシスカに対する態度は、さほど良くなっていない。ほんの少し長文を話すようになったかな?というくらいのものである。
「どうして?敵を倒すのは普通だよっ」
「いや、今回だけは倒しちゃ駄目だから。抵抗しつつも負けてマレイちゃんを奪われてしまう、っていうシナリオがあるから」
「あー……そっか」
フランシスカは意外にも納得している。
そんな説明だけでいいのか、という突っ込みを入れたくなるが、それはぐっとこらえた。
今は呑気に突っ込んでいるような時ではないからだ。
その後、私は予定通り、襲撃を待つ部屋へと移動した。
そしてそこで、護っていると見せかける役の隊員二人と顔を合わせる。
一人は男性、もう一人は女性。どちらも見たことのない隊員だ。しかし結構気さくな人たちだったため、ほぼ初対面の私に対しても躊躇うことなく話しかけてくれた。それが私にどれだけ勇気をくれたかということは、もはや言うまでもない。
しかし、私の心は重いままだった。
いつ起こるか分からない、もしかしたら数日後かもしれない——そんな襲撃を待つのだから、胃が痛む。私としては、なるべく早い方がいい。そうすれば、何もかもが早く終わるから。
少しでも早く作戦を終えて、穏やかな日々に戻りたい。
今私の胸にある思いは、ただそれだけだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.114 )
- 日時: 2018/08/31 04:09
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: xXhZ29pq)
episode.107 眠たい、眠たすぎる
結局、その夜は何も起こらなかった。
小さな窓、テーブルと椅子、そして壁に掛かった時計。それ以外には何もない殺風景なこの部屋で、私は、二人の隊員と共に一晩過ごした。
全員が眠ってしまうと、もしもの時に対応が遅れるので、交代で少しずつ寝る。そんな夜だった。
——そのため、非常に眠い。
夜が明けて、小さな窓から柔らかな朝日が差し込んでも、この寝不足による眠気は消えてくれなかった。瞼の奥が重く、頭もすっきりしないという、何とも残念な状態になってしまっている。
大事な仕事が待っているというのに。数分後にその時がくるかもしれないのに。
……こんな調子では駄目だ。
そんなことを思いつつ、血行が悪くなっていると推測される目元を擦っていると、黒いショートヘアが綺麗な女性隊員が声をかけてくる。
「マレイちゃん。目、そんなに擦っちゃ駄目よ。あまり刺激すると腫れてしまうわ」
女性隊員は、口元に優しげな笑みを浮かべながら話しかけてくれる。彼女だって昨夜はあまり眠っていないはずなのに、弱っていそうな感じは微塵もない。
「あ、気をつけま……ふわぁぁ」
ついあくびをしてしまった。
その様子をしっかり見ていた女性隊員は、軽く握った拳を口元へ添え、くすっと笑う。
「凄く眠そうね」
「眠いです……ふぁ」
「交代で眠ることにはあまり慣れていなかったのかしら」
「はい。あまり経験がなくて」
私は連続であくびをしそうになるのを、苦笑いでごまかす。……いや、ごまかせてはいないか。
しばらく時間経って、今度は男性隊員が話を振ってくる。
「にしても、昨夜は何もなかったなー。いつになったら攻めてくるんだか、って感じやわ」
彼の印象的なところは、坊主頭。つるりとした頭部は形がよく、まるで、滑らかな彫刻のようだ。髪の毛が一本もないが、哀愁は漂っていない。
「ですね」
リュビエの宣戦布告が偽りでなかったとすれば、あの日から数えて一週間以上経つことはないはずだ。そのことから考えれば、二三日以内には攻めてくるはずである。
もっとも、リュビエの宣戦布告が偽りであったなら、話は大きく変わってくるわけだが。
「マレイさんはさぁ、早いのと遅いのとどっちがいい系?」
「襲撃が、ですか」
「そうそう。どっち派なんかなーって思って」
こんな時だというのに、男性隊員は明るい顔をしている。深刻な表情にならないところが不思議だ。
「早い方がいいです」
私が答えると、男性隊員は目をぱちぱちさせながら言う。
「へーっ、そうなんや!案外積極的なんやね。怖ないん?」
いやいや、怖くないわけがないだろう。
そんな突っ込みを入れたい衝動に駆られつつも、なるべく平静を保つよう意識して返す。
「まさか。怖いですよ、かなり。だからこそ、早く済ませてしまいたいんです」
嫌なことを後回しにするというのは、胃を無駄に痛めるだけでしかない。楽しいことなら待っている間もワクワクするだろうが、嫌なことの場合はその逆である。
「ふふっ。そりゃそうよね」
「えっ、そうなん!?」
「嫌なことは先、嬉しいこと楽しいことは後。それが普通よ」
「えー!そうなんー!」
女性隊員と男性隊員が仲良く話しているところを眺めていると、自然と穏やかな気持ちになった。
今私は、いつ仕事が始まるか分からないという状況のただなかにある。その緊張感といえば、かなりのものだ。だからこそ、こんな風に、ただの会話だけで和めるのかもしれない。
そんなことをしているうちに、凄まじかった眠気も段々ましになってきた。
瞼の重苦しさは変わらない。しかし、あくびは止まってきたし、曖昧だった意識も鮮明になってきた。これならボスが来ても大丈夫そうだ。
何だかんだでようやく元気になってきた私に、女性隊員が尋ねてくる。
「マレイちゃん、今からはどうするのかしら」
首を傾げる瞬間、顎くらいまでの丈の黒髪がさらっと揺れる。凄く綺麗だと思った。
「今から……何も考えていませんでした」
「ここにいとく?」
「あ、はい。いつ始まってもいいよう、ここにいておきます」
「じゃあ、寝る?」
「そうします!」
こればかりは即答だった。
始まってしまえば、どれだけ長引くか分からない。しばらく眠れない可能性だってあるのだ。
だから、寝不足は、なるべく今のうちに解消しておかなくては。
「即答ね」
私が即座に答えたのを受け、女性隊員は言った。珍妙な芸を見でもしたかのように、くすくすと笑っている。
「はい。寝不足では十分働けるか分からないので……」
「確かに。それもそうね」
「けど、本当に寝ても大丈夫なんですか?」
いつ襲撃が起こるかも分からないのに、私だけ呑気に寝ていていいのか?
そんな疑問が芽生えたのだ。
私の問いに、女性隊員は落ち着いた声色で答えてくれる。
「いいのよ。ほら、寝るなら今のうち」
落ち着いているが、明るさのある声だった。
その声からは、女性隊員の優しさが、ひしひしと伝わってくる。
「では、少し眠らせていただきます……」
とはいえ、椅子に座った体勢で眠らなくてはならない。そのことに今さら気づいてしまった。
言ったはいいが、ちゃんと眠れるのだろうか……。
椅子に座ったまま、漠然とした不安を覚える。
しかし、目を閉ざしてぼんやりしているうちに、何となく眠くなってきた。一度は目が覚めたような気がしたものの、やはり眠いことに変わりはなかったようである。これなら無事眠りにつくことができそうだ。
どのくらい長く睡眠をとれるかは分からないが、今はただ、全力で眠るのみ。
——次に目を覚ましたら、戦いが始まっているかもしれない。
そんなことを頭の片隅で考えつつも、私は、あっという間に眠りについたのだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.115 )
- 日時: 2018/08/31 04:10
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: xXhZ29pq)
episode.108 その時は来る
ふと目を覚まし、壁に掛けられた時計へ目をやる。そうして、短針が指し示す数字を見た瞬間、私は驚きを隠せなかった。
既に夜だったからである。
私が眠りについたのは、まだ、柔らかな朝日が降り注ぐ時間だった。なのに、気がつけば日が沈んだ直後。
この状況で驚かない人がいるわけがない。
……いや、広い世の中には驚かない人もいるのかもしれない。だが、かなり稀だろう。
「おっ。起きたんや!」
目覚めたばかりの私に声をかけてきたのは、綺麗な形の坊主頭が特徴的な男性隊員。
他人が起きたことに、ほんの数十秒程度で気がつくなんて、結構鋭い人だ。ふとそんなことを思った。
「あ、はい。起きました。何か変化はありましたか?」
念のため尋ねてみると、男性隊員は首を左右に振る。
「いや、まだ何もないで」
「そうですか……」
「なんや、残念そうやな。何もなかったら、ラッキーやんか」
普通に考えれば、確かにそうだ。襲撃なんてない方がいいし、何も起こらない穏やかな生活をしていたい。敢えて言うまでもない、当たり前のことだろう。
だが今は、早く終わってほしいという気持ちの方が大きい。
早くすべてを終わらせるためにも、さっさと襲撃してきてほしい——そんな風にさえ思ってしまう。
「そうですよね。確かにその通りだと思います。ただ……」
言いかけた時、女性隊員が室内へ駆け込んできた。
「マレイちゃん!始まったわ!」
襲撃の始まりを知らせてくれた彼女は、緊張感のある表情をしている。
もっとも、敵襲となれば、顔が強張るのも無理はないが。
「うわ……いよいよ始まったんや……」
女性隊員からの知らせを受け、坊主頭の男性隊員は顔をしかめる。嫌だなぁ、というような表情だ。かなり分かりやすい。
「マレイちゃんを護るふり、するわよ」
「護りきったらあかんとこが辛いわ」
「それは私だって同じよ。でも仕方ない。決められたことだから、やるしかないのよ」
坊主頭の男性隊員と、黒いショートヘアの女性隊員は、そんな風に言葉を交わしていた。その様子からは、二人の暑苦しすぎない絆が感じられる。
「ま、取り敢えず待とか」
「えぇ。外の隊員が敵をここまで誘導してくれるはずだもの」
二人の会話を傍で聞きながら、私は、いよいよこの時が来たのだと再確認した。
もうまもなく、その瞬間が来る。
私が捕らえられ、ボスのところへ連れていかれるであろう、その瞬間が。
数秒先も見えない。そんな状況におかれた私を襲うのは、言葉では形容することのできないほどの不安。
そして、その瞬間が来るという恐怖だ。
だがそんなものに負けるわけにはいかない。心を落ち着かせようと努力していると、女性隊員がふいに振り返り、私に声をかけてきてくれる。
「マレイちゃん、大丈夫?」
「あっ……はい」
私は慌てて頷く。
だが私には、平静を保てていないことを隠すほどの力はなかったようだった。
「凄く強張った顔してるわよ?」
「あ……」
何も返せない。
彼女の言うことが、まぎれもなく真実だったから。
やると決めたのにまだ不安に圧されていることが不甲斐なくて、言葉を失ってしまう。黙って俯くことだけしかできない。
そんな私に対し、女性隊員は微笑みかけてくれる。
「大丈夫よ。幸運なマレイちゃんなら、きっと無事でいられるわ」
……幸運な、か。
確かに、私は何度も窮地を脱してきた。だが、その中で失ってきたものも多い。だから、単に幸運だとは言えないと思う。
ただ、自分は不幸だと信じ込んでしまうよりかは、幸運だと思っている方が良いのかもしれない。自分が幸運な人間だと思うことで引き寄せられてくる幸運だって、一つ二つはあるだろうから。
「……そうですよね」
だから今は信じることにした。
何を、って?
私が幸運な人間だということを、である。
「頑張ります!」
私がはっきり述べると、女性隊員は、私と目を合わせたままこくりと頷く。
気さくで優しく、だがしっかりとした芯がある。そんな彼女に、私はいつの間にか憧れていた。知り合って一週間も経たないような関係ゆえ、彼女のすべてを理解したわけではない。だがそれでも、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「こんばんは」
黒いショートヘアが印象的な女性隊員へ視線を向けていた私の耳に、突然、聞き覚えのある女声が入ってくる。いきなりのことに戸惑いつつ声がした方を向くと、視線の先には、リュビエの姿があった。
私とほぼ同時にその存在に気づいた隊員二人が、固い表情で、すぐさま立ち上がる。
「見つけたわよ、マレイ・チャーム・カトレア。今日こそ捕らえさせていただくわ」
蛇のようにうねった緑の髪が目立つリュビエが言った。それに対し、女性隊員が鋭く返す。
「勝手なことを言わないで!マレイちゃんは化け物狩り部隊の一員よ!渡さないわ!」
しかしリュビエは、ただ嘲笑するだけ。
「お前に聞いてなどないわ」
「帰ってちょうだい!」
「いいえ、それはできないわ。何せ今日は」
リュビエがそこまで言った時、どすん、と床が揺れた。何事かと思っていると、リュビエの背後から大きな影が現れる。
——その影の正体は、ボスだった。
背はかなり高い。それに加え、がっしりした体つきで、頭部を除いて全身を灰色の甲冑で覆っている。赤みを帯びた髪は非常に派手で、正面から見ると獅子のようだ。
「我が直々に迎えに来てやったぞ、マレイ・チャーム・カトレア。さぁ、我のところへ来い」
「い……嫌」
ボスの威圧感に圧倒されつつも、勇気を出して、何とか返す。しかしボスは、私の言葉など微塵も気にかけない。
「案ずることはない。我のところへ来れば、良いことがたくさんあるぞ」
それに対しては、男性隊員が返す。
「嘘臭いことばっかり言うなや!」
彼は木製の剣を握り、ボスに向けて構えている。
作戦のこともあるため倒すつもりではないだろうが、十分戦う気満々に見えた。彼は意外と演技が上手い。
「女の子を狙って、罪悪感とか感じへんのか!」
坊主頭の男性隊員が叫ぶと、リュビエは「失礼な!」と声を荒らげた。そんな彼女をボスは制止する。
「お主は我に逆らうつもりか」
「間違ってることは間違ってるって言う。それだけや」
「逆らうのだな……ならば仕方ない」
数秒後。
木製の剣が床へ落ち、カランと虚しい音を立てる。
男性隊員が倒れたのだ。
ボスが放った、目にも留まらぬ一撃によって。
- Re: 暁のカトレア ( No.116 )
- 日時: 2018/09/01 06:10
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: fhP2fUVm)
episode.109 いつか明けを見るために
木製の剣を構えていた坊主頭の男性隊員は、ボスの一瞬の攻撃によって、胸元から血を流して倒れた。
「……っ!」
その光景を目にした女性隊員は、愕然として言葉を失っていた。顔面蒼白になり、両手で口元を覆っている。仲間が一瞬にしてやられたという事実を、受け入れきれていないのだと思う。
「何てことをするの!」
私は思わず叫んでいた。
心ないことをしたボスに対して、である。人を人とも思わないような行いは、許されたものではない。私欲のために他者を傷つけるなんて、論外だ。
続けて私は、腕時計をはめた右手首をボスの方へと向ける。
「貴方の狙いは私でしょう!他の人を巻き込むのは止めて!」
ボスの視線が私へと向く。
その瞬間、悪寒が走った。
彼の目つきは極めて鋭いものではない。なのに、信じられないくらいの恐怖感を覚えてしまう。
だが、その程度で怯んでいるようでは駄目だ。そんな弱い私では、この先待ち受ける苦難を乗り越えてはゆけない。
「さすがだな、マレイ・チャーム・カトレア。やはりお主は、我の目的達成のために必要な娘だ」
その瞬間、リュビエの鋭い視線が飛んでくる。嫉妬をはらんだような視線が肌に触れると、チクッと痛んだ。ある意味恐ろしい。
「では連れ帰るとしよう」
「させないわ!」
ボスが私のいる方へ一歩踏み出す。女性隊員はそれに反応し、すぐさま、私とボスの間へ入る。
「マレイちゃんは渡さないわよ」
黒いショートヘアが印象的な女性隊員は、険しい表情でボスを見つめていた。演技のはずなのに、演技とは到底思えないリアルな表情だ。
それから彼女は、手首に装着した腕時計へ指を当てて銃を取り出し、胸の前で構えた。そこそこな大きさのある銃器は、まるで敵を威圧するかのように黒光りしている。
銃口を向けられたボスは、すぐ後ろに控えているリュビエを一瞥し、彼女に、小さな声で「やれ」と命じる。
そんなボスの指示に対し、軽く頭を下げつつ「はい」と答えるリュビエ。やがて彼女は、ゆったりとした足取りで、ボスより前へ歩み出る。
「我が偉大なるボスに逆らったこと、地獄の果てで後悔なさい」
そう吐き捨てたリュビエの手には、赤く細い蛇が絡みついていた。前に見たことのある、蛇の形をした化け物だ。
狙いは私なのか、あるいは女性隊員なのか。その答えは分からないが、いずれにせよ、危険であることに変わりはない。
「……蛇?」
女性隊員は眉間にしわをよせ、怪訝な顔をして呟いた。
それに対してリュビエは、見下したような笑みを浮かべる。嫌な感じの笑みを。
「その通り」
「何をするつもりなの……?」
「偉大なボスに逆らった愚か者を断罪する。ただそれだけのことよ」
リュビエがまとう黒一色のボディスーツは、てかてかしており、何とも言えぬ不気味さを漂わせている。
「それがあたしの役目よ」
うっすらと笑みを浮かべつつ述べるリュビエ。彼女の視線は、今、女性隊員へと向いている。ということは、リュビエの狙いは女性隊員なのだろう。
「さて、話もここまで。とっとと片付けさせていただくわ」
ふふっ、と笑みをこぼし、リュビエは続ける。
「消えなさい!」
言葉が威勢よく放たれると同時に、大量の蛇が現れた。急に現れた個体は、すべて、直径五センチ程度太さだ。
どうやら、赤く細い蛇の出番はまだのようである。
女性隊員は負けじと銃口を上げ、弾丸を放って対抗した。光輝く弾丸は大量の蛇を消滅させていく。
だが——彼女は既に、リュビエの罠にはまっていた。
「えっ」
女性隊員の首筋には、いつの間にか、赤く細い蛇が這っていた。そのことに気づいた女性隊員は、すぐに、払い落とそうと試みる。しかし既に遅かった。
彼女はカクンと膝を曲げ、床に倒れ込む。
トリスタンでも耐えられなかった毒だ、彼女が耐えられる可能性はかなり低い。
そんな光景を見つめていたところ、いつの間にやら接近してきていたボスに手首を掴まれてしまっていた。その力の加え方から察するに、私の手首を折るつもりはなさそうだ。
「……離して」
「残念だが、それはできない」
ボスは静かな声で答える。
乱暴さは感じられない声だが、地鳴りのような低音が不気味だ。
「お主には、我のところへ来てもらわねばならんのだ。お主の力が必要なのだ」
そんなこと言われても、ちっとも嬉しくない。
人を傷つけ、世界を壊す。そんな邪悪な者に必要だと言われても、喜びの感情など微塵も芽生えない。むしろ不快感が湧くだけである。
ただ、今回はボスに誘拐されることが私の仕事だ。だから、下手に抵抗するというのは良くない。ここは大人しくしておく方が賢いのかもしれない、と思った。
「傷つけるつもりは毛頭ない。だが、抵抗するというのならば、傷つくこととなるだろうな。マレイ・チャーム・カトレア、利口なお主になら、どうするのが正しいかくらい分かるだろう」
山のように大きな体をしたボスは、低い声でそんなことを言っていた。
やはり、傷つけること自体が目的ではないようだ。それなら、ここは大人しくしておく方が賢明だろう。
「……分かったわ」
これからどうなってしまうのだろう、という不安は付きまとう。けれども今は、私がすべきことだけに集中しなくてはならない。それが最優先である。
「その代わり、もう誰にも手を出さないで。それを約束してくれるなら、貴方についていってもいいわ」
するとボスはゆっくりと頷く。
「いいだろう。お主が我のところにいる間だけは、襲撃はしない。それで文句はないな」
「いいえ。ずっとよ。二度と誰にも手を出さないと誓って」
少々強気に出てみる。
今ならいける気もしたのだが、これにはさすがに頷いてもらえなかった。もっとも、当たり前といえば当たり前なのだが。
「残念ながら無理な願いだ。お主が我のところにいる間、に限定する」
……まぁそれでもいいだろう。
ずっと襲撃され続けるよりかはましだ。
こうして私は、いよいよ、ボスに連れていかれることとなった。
当然不安はある。先の見えぬ道を行くことに対する恐怖感も大きい。
だがそれでも、今の私は、やる気に満ちている。私は決して強くなどないけれど、自分にしかできないことがあるのだから、やるしかない。いや、やってみせよう。やり遂げてみせよう。
そして、私は必ずこの目で見るのだ。
——この国の夜明けを。
- Re: 暁のカトレア ( No.117 )
- 日時: 2018/09/02 03:26
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: UIQja7kt)
episode.110 ついていきたい、ついていかせて、ついていく
マレイが連れていかれたのと同じ頃。化け物を片付け終えたばかりのグレイブのもとへ、様々な用事で走り回っていたシンがやって来る。
「グレイブさぁぁーん!!」
「シンか。どうした」
長槍を構えていたグレイブは、漆黒のロングヘアをふわりとなびかせて、シンの方へと目を向ける。
「ついにーっ!マレイさんがぁぁぁーっ!」
「そうか」
淡々とした調子で返し、片手でシンの口を塞ぐグレイブ。
「上出来だな」
「で……ですねぇぇぇ……」
シンの四方八方に跳ねた柿渋色の髪は、汗によって、額や頬にぺったり張り付いている。いかにも汗臭そうな見た目だ。しかし、グレイブが不快な顔をしていないことを思えば、汗臭さはさほどないのだろう。
「よし。順調だな」
「けどぉぉ……マレイさんについていた隊員のお二人がぁぁぁー……」
「何?」
シンの発言に眉をひそめるグレイブ。
彼女が発した言葉に対し、シンは言いにくそうな顔で答える。
「男性隊員がぁ……やられてしまったみたいでぇぇ……」
シンが言った瞬間、グレイブの美しい顔が強張る。
「何だと!?」
紅の唇から飛び出したのは、はっきりとした声だった。そこには、彼女の驚きやら何やらが詰まっている。シンから男性隊員がやられた報告を受け、彼女がどれほど動揺しているのか。それがはっきりと分かるような声色だった。
「もう一人はどうなったんだ」
「女性隊員の方ですかぁぁぁー?」
「あぁ。そうだ」
「彼女は、毒を受けたようでしたよぉぉぉ……一応、既に救護班によってぇぇー処置が施されてぇぇーいると思いますぅぅぅ」
グレイブは静かに、そうか、とだけ返した。
それから数秒空けて、シンに向かって述べる。
「では私は、トリスタンたちの方へ向かう。シン、お前はここを頼む」
「…………」
しかしシンは返事をしない。俯き、黙り込んでしまっていた。
いつもは迷惑なくらい騒がしいシン。大きな声が凄まじいシン。そんな彼が、今、黙り込んでしまっている。何一つとして言葉を発さない。
その様には、グレイブもさすがに不自然だと思ったようで、彼女は首を傾げつつ尋ねる。
「どうかしたのか?」
シンは答えなかった。
俯き黙るという、先ほどの様子のまま、制止している。まるで、彼だけの時間が止まってしまったかのような、そんな雰囲気だ。
そんな彼の様子に、グレイブはますます怪訝な顔になる。
「何を黙っている。言いたいことがあるのなら、さっさと言え」
それでもシンは黙っていた。
ただ、唇が震えている。何か言いたいことがある、と主張したそうに。
けれど、グレイブがそんな小さなことに気づくはずもない。当然だ、俯いている者の唇にまで注目するような人間なんて、滅多にいないのだから。
「おい、シン。もういいのか?」
「…………」
「そうか。言いたいことがあるわけではなかったのだな。では私は」
言いながら、グレイブがシンに背を向けた——その瞬間。
それまで何一つ動きを見せなかったシンが、突如、グレイブの上衣の裾を掴んだ。声は発さず、片手でそっと。
そのことに驚いたらしいグレイブは、顔面に戸惑いの色を浮かべながら、体を再びシンの方へ向ける。
「何だ」
グレイブが低い声を発した。
それに対し、シンはようやく面を持ち上げた。
「……グレイブさん」
瞳は潤み、目の周囲はほんのりと赤みを帯びている。鼻からは心なしか鼻水が垂れており、鼻から口までの間を濡らしていた。また、口角は下がり、お世辞にも明るいとは言い難い顔つきだ。
そんなシンの顔の状態に、グレイブは、暫し困惑した表情のままだった。
——直後。
「嫌ですよぉぉぉーっ!!」
それまでずっと黙っていたシンが、急に、大声をあげた。
獣の咆哮にも負けぬほど凄まじい叫び声が、辺りの空気を派手に揺らす。
突如放たれた、人の叫びとは信じられぬような叫びには、グレイブも驚きを隠せていない。目を見開き、言葉を失ってしまっている。彼女は、シンの奇妙な言動には慣れている。が、予告もなしにここまで巨大な声を出されては、さすがに、すぐに言葉を返すことはできないようだ。
「グレイブさん!ボクを残して戦いになんてぇぇぇー!行かないで下さいぃぃぃーっ!!」
シンは叫びながら、グレイブの両肩を手で掴み、彼女の激しく前後に振る。
「ま、待て!止めろ!」
あまりに激しく動かされるものだから、グレイブは、肩を掴むシンの手を鋭く払った。
「いきなりそんなことをするな!首を痛めたらどうしてくれる!」
「あ……うぅ……」
グレイブが言い放った厳しい言葉に、シンは身を縮めた。彼女に叱られると畏縮してしまうのは、いまだに変わらないようである。
「言いたいことがあるのなら、暴れずに言え!普通に言ってくれ!」
するとシンは、ついに、泣き出してしまった。
「ず……ずびばぜん……ぼぶばだだ……」
涙ながらに話すシンだが、何を言っているのかまったく聞き取れない状態だ。
「ぐれびぶざんでぃ……ぶりじでぼじぐなぐで……」
「おい、まったく聞き取れん」
「ぼんどうでぃ……だだぞれだげでぇぇぇー……」
まったく意味が理解できない状態に呆れたグレイブは、その白色の上衣についたポケットからハンカチを取り出す。そして、シンの顔へガッと押し当てる。
「貸してやるから、まずは拭け。いいな。それから話すんだ。でなくては、何を言っているのかまったく分からん」
「ば……ばびぃぃ……ありばどう……ござびばず……」
それからシンは、グレイブに命ぜられた通りに、ハンカチで顔を拭いた。涙やら鼻水やらで濡れた凄まじい状態の顔を、彼女に借りたハンカチで、丁寧に拭っていく。
やがて、ようやく落ち着いてくると、彼は言った。
「ボクもグレイブさんとぉぉぉ……一緒にぃぃ……戦いたいですよぉぉぉー……」
彼はただ、そう言いたかっただけのようだ。それだけのためにこんなに時間をかけるとは、さすがはシン、としか言い様がない。
「戦場へ同行したい、ということか」
「はいぃぃぃー……」
「なるほど。だが、今回は特に、お前には向いていない任務だと思うが」
シンはそこで口調を強める。
「でもぉぉぉー!一緒にぃぃぃーっ!行きたいんですよぉぉぉーっ!」
まるで、おもちゃ屋へ行きたいとごねる子どものようだ。
グレイブはすっかり呆れ顔。ただただ呆れる外ない、といった表情をしてつつ述べる。
「分かった分かった。いいだろう、そんなに行きたいなら、連れていってやる」
「え。……い、いいんですかぁぁぁーっ!?」
「時間がないからだからな、勘違いするなよ」
「やっ……やったぁぁぁーっ!ああぁぁぁぁーっ!!」
「叫ぶな、耳が痛い」
そんなこんなで、グレイブについていく許可を何とか得た、シンであった。
- Re: 暁のカトレア ( No.118 )
- 日時: 2018/09/03 00:47
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: HijqWNdI)
episode.111 決行まで
グレイブと、彼女に同行させてもらえることになったシンは、トリスタンらが待機している場所へと急行した。
今回の作戦の出発場所でもある、待機場所。そこには、既に、作戦に参加する隊員の多くが集合していた。まだ全員が集まっているわけではないようだが、それでも、結構な数の隊員が集まっていることに変わりはない。
「予定通り、マレイがボスに捕まってくれた」
グレイブが皆に告げると、一番に声を出したのはトリスタン。
「……マレイちゃんは、本当に大丈夫なんですよね?」
静かな声だ。しかし、その声からは、トリスタンが抱く不安が滲み出ている。それはもう、誰にでも分かるほどに。
「あぁ。彼女ならやってくれるはずだ」
グレイブは淡々とした調子で答えた。
それを聞き、トリスタンは俯く。
マレイを利用する。マレイをわざと危険な目に遭わせる。そんなことを黙って見ているしかないという事実が、彼の心を痛めているのだろう。
「そう……ですよね。マレイちゃんなら、きっと無事でいてくれる……」
まるで自分を励ますかのように呟くトリスタン。
そんな彼の様子を目にし、グレイブは確認する。
「トリスタン、大丈夫か?」
明らかに普段とは違う表情をしているトリスタンだが、グレイブの問いには小さな声で「はい」と答えた。
だが、どこからどう見ても大丈夫そうではない。
「マレイが心配なのは分かるが、しっかりしてくれよ。トリスタン」
「はい」
「ボスを倒しに行くのだからな、弱っている暇などない」
「……分かっています」
「そうか、ならいい。ではまた後ほど」
グレイブはトリスタンとの会話をそこで切り、他の隊員のところへと足を進めた。長い黒髪をさらりと揺らしながら。
落ち着き払っているグレイブが前からいなくなった後、トリスタンはその均整のとれた顔を俯けた。一つにまとめた長い金の髪も、彼の頬に添うようにして垂れている。表情ゆえか、髪まで元気がないように見えた。
そんな、不安に塗り潰された暗い表情のトリスタンに、ゼーレが声をかける。
「……何をそんなに弱っているのです?」
それに対し、冷たい態度をとるトリスタン。
「放っておいてくれるかな」
「そんな調子では勝てませんよ……ボスを倒すのでしょう?」
「放っておいてよ!」
執拗に聞いてこられることに苛立ったらしく、トリスタンは声を荒らげた。彼の青い瞳は、ゼーレを鋭く睨みつけている。
「君には分からないよ!僕の気持ちなんて!」
「……すぐに怒るのは止めて下さい」
「マレイちゃんを心配する僕の気持ちは、君には分からない!」
トリスタンが鋭く言い放った——刹那。
ゼーレは金属製の手で、トリスタンの腕をガッと掴んだ。
さすがのトリスタンもそれには驚いたらしく、目を大きく見開く。深海のような青をした瞳は、動揺を表すように、小刻みに震えている。
「……私とて、カトレアの身を案じてはいます」
夜の闇のように静かなゼーレの声に、トリスタンは言葉を詰まらせた。
言いたいことはたくさんあるが、言えない。そんな顔つきだ。
「カトレアの身が心配……それは分かります。しかし……今は弱っている場合ではないでしょう。一刻も早く作戦を完了させる。今の私たちにできることは……それしかありませんからねぇ」
珍しく長文を話すゼーレのことを見つめていたのは、トリスタンだけではない。今からの作戦に参加する一人であるフランシスカも、ゼーレの顔をじっと見つめていた。
「ふぅん。ゼーレも心配とかするんだねっ」
やがて、フランシスカが言った。
トリスタンとゼーレを包む沈黙を破ったのは、彼女の言葉であった。
「……私ですか?」
「うんっ。他人の心配なんてしないんだと思ってた」
「……なかなか酷いですねぇ」
フランシスカにはっきりと言葉をかけられたゼーレは、さりげなく顔をしかめる。超直球の発言に困惑しているのかもしれない。
「ま、だからってフランは信用しきったりはしないけどねっ」
あっさりと嫌みを吐くフランシスカ。
彼女らしいと言えば彼女らしい発言である。躊躇いなく本心の述べられるというところが、彼女の大きな特徴なのだ。
ただ、今から協力して戦いに挑むというこの時に発するべき言葉でないことは確かだ。それをあっさりと言ってのける彼女は、単に空気を読めない質なのか、わざと空気を悪くしようとしているのか……。
「言いませんよ、信用しろなんて。元々敵だった者を信用するなど、不可能だと分かっていますからねぇ……」
ゼーレは諦めたようなことを言いつつも、どこか寂しげな表情を浮かべていた。翡翠のような瞳も、マレイといる時のように生き生きとはしていない。
「とにかく……役目を果たしてさえくれれば、それ以上は言いません」
「何それっ!どうしてそっちが上なのっ!?」
「……勘違いしないで下さい。私とて、貴女方を救うためにここにいるわけではありませんから」
その瞬間、トリスタンが急に口を開く。
「どういう意味?」
あちゃー、というような表情を浮かべるゼーレ。
恐らく、面倒臭いトリスタンが話に参加してきたことへの気持ちが、顔に出たのだろう。
「私が力を貸すのは、あくまで、カトレアが辛い思いをし続けなくて良いようにするため。それだけ」
「マレイちゃんのことはちゃんと大事に思っているんだね?」
トリスタンの確認に対し、ゼーレは静かな声で返す。
「……そういうことです」
淡々とした声色だが、その奥には、熱く燃えるものが潜んでいる。誰にでもそれが分かるような、迷いのない言い方だった。ゼーレを少しでも知る者ならば、この言葉が嘘でないということが容易に理解できるはずだ。
「分かった。マレイちゃんを大事に思う気持ちが嘘じゃないってことは信じるよ」
「……相変わらず、上から目線なことを言いますねぇ」
「余計なことを言わないでくれるかな。怒るよ」
「……仕方ありませんねぇ」
ゼーレは無表情のまま、そっと頷く。
「しかし……貴方が喧嘩を売ってこないとなると、また少し、不思議な感じがしそうです……」
心なしか挑発的な言葉が耳に入ったトリスタンは、ゼーレをキッと睨む。
顔立ち自体は美しく柔らかな雰囲気だ。にもかかわらず、睨む時には刃のような鋭さが顔全体から溢れ出す。それが、トリスタンの不思議なところの一つでもある。
「その代わり、ちゃんと生きてよ。君が傷つくことでマレイちゃんが傷つくのは嫌なんだ」
「実に偉そうですねぇ……」
「勝手に死ぬのだけは止めてね。マレイちゃんが傷つくからさ」
「ふん。私とて……進んで死にやしませんよ」
漂うのは、言葉では形容できないような、微妙な空気。険悪とまではいかないが、決して良い感じでもないという、微妙としか言い様のないような空気である。
そんな空気に包まれたまま、作戦決行の瞬間が近づいてくるのだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.119 )
- 日時: 2018/09/04 04:59
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: JbPm4Szp)
episode.112 ボスの迎え入れ
ふと目が覚めた時、視界に入ったのは赤い布。赤と言っても、ワインレッドのような暗めの赤である。
ゆっくりと体を起こす。
すると、聞き覚えのある低い声が耳に入ってきた。
「おぉ。起きたようだな」
大きな影が視界を暗くする。それに気づいて顔を上げると、立ったまま私を見下ろすボスの姿が見えた。
「……っ!」
思わず身を固くしてしまう。
私は今、敵の手中にある。それを改めて感じたからだ。
「何も怯えることはないぞ。抵抗さえしなければ、乱暴な手段をとったりはしない」
ボスは落ち着きのある低音で述べる。
今までとは違うどこか柔らかさのある声に、私は戸惑いを隠せない。しかし、ボスは私が戸惑っていることなどには関心がないらしく、そこに触れてはこなかった。
「ドレスは気に入っていただけただろうか」
「ど、ドレス……?」
言いながら自身の体へ目をやり、その服装の変化に驚く。
「え!服が!」
帝国軍の白い制服を着ていたはずなのに、いつの間にか、血のように赤いドレスに変わっていた。
襟にはビーズで刺繍が施されており、肩回りが大きく露出している。また、スカート部は、体の外線が軽く出るマーメイドラインのもの。丈は足首辺りまである。するりとした滑らかな触り心地から察するに、生地は結構高級そうだ。
「これ、貴方が……」
「いいえ」
私が言い終わるより早く、ボスの後ろからリュビエが姿を現した。
「心配は不要よ。お前を着替えさせたのは、あたしだから」
よ、良かった……。
私は内心、安堵の溜め息を漏らす。
「ボスに着替えさせていただけるなんて思わないことね」
リュビエはそう言って、ふん、と顎を持ち上げる。見下されている感が凄まじい。
私はすぐさまボスへと視線を戻した。
そして問う。
「ドレスなんて着せて、私をどうするつもり?」
問いに対し、ボスのすぐ横に立っていたリュビエが、「無礼者!」と叫んだ。だがボスは、「止めろ」とリュビエを制止する。彼はそれから、「しかし……」とまだ何か言いたげなリュビエの頭を、そっと撫でた。
「お主は何も言わなくていい。黙って見ていてくれれば、それで構わん」
「しかし……!」
「我に逆らうのか?」
「い、いえ……」
若干調子を強められたリュビエは、身を縮めて後ろへ下がる。
それから、ボスは改めて私の方を向いた。
「まずはここに慣れてもらうことが先決かと思ってな。そのドレスも、お主を迎える時にと思いリュビエに作らせたのだ」
「そ、そうだったの……」
案外悪い人でもないのかもしれない。一瞬、そんなことを思ってしまった。だが私は、すぐに、心の中で否定した。この国に悲劇をもたらし、ゼーレの人生を滅茶苦茶にした、そんなボスが善人なわけがない。
「それで、私に何をさせるつもり?」
「お主には、これから、化け物開発に力を貸してもらう」
今から私をどんな目に遭わせるつもりなのだろう。
「人体実験でもしようって?」
「いいや。心配せずとも、そんな乱暴なことはしない。ただ、お主が持つ力について調べさせてほしいだけだ」
「調べる?」
「その通り。そのためにも、まずはここに慣れてもらう」
すぐには何も始まらないようだ。
これなら、まだ、希望があるかもしれない。ボスを中庭へ誘導できる可能性も、ゼロではないだろう。
「マレイ・チャーム・カトレア。何か必要なものがあれば言え」
「今?」
「いいや、いつでもだ。この部屋にいる間だけはな」
私は捕らわれた身。捕虜のようなもの。だから、酷いことをされる可能性があることだって理解していた。それでもいい、と思って、ここへ来たのだ。
それゆえ、この待遇の良さには戸惑いを隠せなかった。
それからどのくらいの時間が経過しただろうか。
部屋には時計がないため、正確な時刻を知ることはできないが、恐らく、二時間くらいだろうと思う。
私はずっとベッドの上。だから、退屈をまぎらわすために、指で遊んだり軽く脚を上下させたりしていた。もっとも、ボスとリュビエも同じ室内にいるのであまり暴れることはできないのだが。
——そんな時だった。
最初にガチャンと扉の開く音がして、続けて、タッタッタッと足音が聞こえてくる。
「リュビエさん!第一工場にて、異常が発生しました!」
「何ですって?」
ついに始まったのか——作戦が。
ここからが本当の戦いだ。そう思うのとほぼ同時に、全身の毛穴が締まるような感覚を覚えた。
私がしっかりしなくては、今回の作戦は成功しない。その重圧が、今さらのしかかってくる。
けれど、もはやそんな重圧などに負けている暇はない。
ここまで来たら、後は、やるべきことをやるまでである。
「つい先ほど、第一工場付近に、突如として侵入者が現れたのです!リュビエさん、来て下さい!」
「侵入者くらい、お前たちでどうにかなさいよ」
「しかしっ……数が多すぎるのです!」
私はベッドに横たわっているふりをしつつ、聞き耳を立てる。
リュビエらがいる場所まではさほど離れていないため、聞こうと意識しさえすれば結構普通に聞こえてくる。
「皆を集結すれば問題ないでしょ?あたしはボスについておかなくちゃならないの。そんな小さなことで呼ばないでちょうだい」
そっけない態度を保ち続けるリュビエ。
彼女にとって一番大切なものはボス。それゆえ、工場になど興味がないのだろう。
「……って、ああっ!第二第三も!侵入者が広がってきています!やはりリュビエさん、貴女のお力が必要です!」
「まったく……仕方ないわね」
聞こえてくるリュビエの声は、やれやれ、といった雰囲気をはらんでいた。
「ボス。行っても構わないでしょうか」
「あぁ。構わん、行け」
「ありがとうございます。それでは、失礼致します」
ベッドの周囲に垂れるベール越しに、リュビエが部屋を出ていくのが見えた。
これでいよいよ、ボスと二人きり。ここからが正念場だ。
- Re: 暁のカトレア ( No.120 )
- 日時: 2018/09/04 05:01
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: JbPm4Szp)
episode.113 中庭
「あ、あの……」
私は勇気を出して、ベール越しにボスへ話しかけてみた。
胸の鳴りが加速する。額からは汗が吹き出す。全身の筋肉が強張る。
緊張は最高潮に達しているが、今さら引くことなどできない。ここまで来たのだ、後はひたすらに進むのみである。
「ちょっと……構わない?」
私の言葉に反応し、山のような影が近づいてきた。
ボスだろう。ボスの体の大きさは他とは比べ物にならないほどだ。それゆえ、影を見るだけで、接近してきたのが彼だと分かる。
やがて、ベッドを取り囲むベールがサッと開けられた。
「何だ」
視界に入ったのは巨体。
灰色の甲冑をまとった、隙などどこにもなさそうなボスである。
「何か、必要なものがあるのか」
低い声で問われると、私は、本当にこんなことを言っても良いのだろうか、と思ってしまった。
作戦だとは言え、彼を騙すのだ。もし途中で彼が私が騙されていることに気づいたなら、私は容赦なく叩き潰されることだろう。それ相応の覚悟をしなくてはならない。
「中庭を……見てみたいの」
「何だと?中庭?」
「えぇ。まだゼーレが生きていた頃、彼から聞いたの。飛行艇にある中庭は、凄く素敵な場所だ、って」
ほぼ嘘である。
しかし、私はボスを中庭まで誘導しなくてはならない。だから、こうして嘘をつくのも仕方ないこと。
すべて仕事のうちだ。
「だから……見てみたいと思って」
少しの沈黙。
その後、ボスは私を見下ろしたまま口を開く。
「そうか。ならば連れていってやろう」
「本当!?」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を押さえた。
その時に偶然右手首を見て、腕時計が外されていることに気がつく。しかし、そんなことは重要ではない。
「本当に、連れていってくれるの?」
「お主がそれを望むのなら、連れていくくらいはしてやっても構わん」
「ありがとう!嬉しいわ!」
演技臭くなってはいないだろうか。それだけが心配だが、今のところボスの様子に変化はない。それを思えば、まだばれていない可能性もある。
私はベッドから勢いよく立ち上がって、言う。
「一度行ってみたいと思っていたの!」
真っ赤なドレスは予想していたより丈が長く、立ち上がった瞬間に転びそうになった。しかし、咄嗟にベッドを包むベールを掴んだため、転倒は免れた。
「何をバタバタしている」
獅子のように王者の風格があるボスは、慣れないドレスにあたふたしている私を、冷めた目で見ている。
何となく、悔しい。
「ごめんなさい。すぐに行くわ」
「我は待つのが嫌いだ。なるべく早く歩くように」
妙に偉そうな言い方に、若干腹が立った。
「……分かったわ」
こうして私は、ボスと二人で、中庭へと向かうこととなった。
作戦は順調。このまま彼と二人で中庭へ行けば、私の役目は、ひとまずそこで終わる。その後どうなるかは分からないが、他の隊員たちも合流する分、楽にはなるだろう。
それからしばらく、私は、ボスの後ろについて歩いた。
金属製の壁や床に包まれた通路は、何となくひんやりしている。私が露出の多いドレスを着ているせいかもしれないが、結構肌寒い。
そして、一歩踏み出すたびにカンと鋭い音が響くのが、不思議な感じだ。帝国軍基地の床はこういった素材ではなかったためか、どうも慣れない。
「早くしろ。我は不必要に待つのが嫌いなのだ」
「待って!速すぎよ!」
「ここは我が地。それゆえ、お主が合わせるのが当然だろう」
巨体を揺らしながらずんずん歩くボスは、私の方を振り返ることさえせずに、口を動かしている。
「そう……そうね」
「納得がいかない、といった声だな。何か言いたいのか」
「べつに。何もないわ」
「本当か」
少々面倒臭い。執拗に聞いてくるのは止めていただきたいものだ。
「私がそんな嘘をつくと思う?」
「いいや。ならいい、気にするな」
それからは沈黙だった。
先は見えず、静寂だけが私を包む。何とも過ごしづらい空気である。
そんな空気の中、私はただ歩く。歩き、歩き、歩き続けた。歩く以外に、今できることはなかったから。
「着いたぞ。ここが中庭だ」
数分歩き、中庭へようやく到着した。
そこは、信じられないほどに美しい場所だった。
若草色の大地に、煉瓦造りの花壇。そして、そこに咲き乱れる色とりどりの花。花を求めひらひらと舞う蝶さえ、この目には魅力的に映る。
美しい——その一言しか思いつかない光景だ。
「凄い……!」
私は思わず、目を何度もぱちぱちさせた。
飛行艇内にこんな美しい場所があったなんて。そんな思い、そして感動が、胸の内を満たしていく。
この美しい場所を今から血に染めると思うと、残念でならない。
だが、それは仕方のないこと。
レヴィアス帝国は、帝国に暮らす人々は、これまで多くの血を流してきた。化け物によって、数多の命が理不尽に奪われた。
そして、それはこれからも続くだろう。
だからこそ、今、化け物を送りこの帝国を悲劇へ引きずり込んだボスを倒さねばならない。そうすることでしか、私たちの暮らす帝国に明けをもたらすことはできないから。
「蝶も……飛んでいるのね」
「もう満足したか」
「いいえ……もう少し待って。もう少し、ここにいたいわ」
中庭の中央には噴水があった。
私は石造りの噴水の縁に座り、中に溜まっている水を手ですくう。ひんやりとした水が、指先と手のひらを濡らす。
「ボスはなぜ、私たちを狙うの?」
水面に映る自分の姿をじっと見つめながら、私はボスに質問した。
すると、彼は、淡々とした調子で答える。
「帝国を我が手の内に入れるためだ」
もしかしたら、ボスを説得するという選択肢もあるのかもしれない。ゼーレにしたように、温かく寄り添って理解しあうことも、一つだったかもしれない。
そんな風に思った瞬間もあった。
けれど、それは多分無理だ。
ボスはゼーレとは違う。
だから——説得することはできない。
- Re: 暁のカトレア ( No.121 )
- 日時: 2018/09/05 06:39
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: zh8UTKy1)
episode.114 あの人はいなくなっちゃった
飛行艇内にある化け物製造工場の一つ、第三工場。
フランシスカは、そこにいた。
「第一を落としました!」
「はいはーいっ」
化け物を製造する工場を攻めるのが一番早い。フランシスカにそう教えたのは、ゼーレだ。
彼はボスのもとで働いていた身である。それゆえ、どこを重要視しているのか、どこから攻めるのが効果的か、そういうことは知り尽くしている。
だから、フランシスカも、嫌々ながら彼の言葉に従ったのだ。それが一番効率的だから。
「本当にこれでいいのっ?リュビエ、まだ出てこないけどっ」
フランシスカは、後ろにこっそり控えるゼーレに、そう尋ねた。
「えぇ……じきに現れることでしょう」
「でも、もう第一を潰したんだよっ?なのに出てこないなんて、おかしくないっ?」
「リュビエは遅れて現れると……そう思いますが」
面倒臭そうな顔のゼーレ。彼を信頼しきれないフランシスカ。
二人の会話はぎこちない。
「本当にっ?怪しいー」
「……失礼ですねぇ」
「何?フランが悪いって言うのっ!?」
話せば話すほど、空気は悪くなっていく。
「フランだって、べつに、ゼーレといたくなんてないよ!トリスタンに協力したいだけだもんっ!」
頬を膨らませ言い放つフランシスカは、まるで幼い少女のようだ。実年齢は大人に近い彼女だが、その愛らしい容姿と言動からして、少女、という印象が強い。
「……結局、あの男ですか」
「そうだよ。悪いっ?」
「いえ……べつに」
フランシスカとゼーレが言葉を交わす周囲では、今も、化け物と化け物狩り部隊の隊員らとの戦いが続いている。製造工場を潰していっているにもかかわらず、化け物が減ることはない。
「俺はこっちをやる!お前はあっちの援護へ回れ!」
「おっす!」
「お腹空いてきたんですけどー」
「それぐらい我慢しろっ!」
辺りには、隊員たちの叫び声が響いている。大騒ぎだ。
しかし、襲撃により騒ぎを起こすことが目的のため、問題はない。
「貴女はなぜ……トリスタンに執着するのです?」
喧騒の中、ゼーレが尋ねた。
「彼はいつも、貴女に対して冷たい態度をとっている……あれを見れば、彼が貴女に気を持っていないということは……誰だって分かるでしょう」
挑発や嫌みではない、真剣さのある静かな声だ。それゆえ、フランシスカも怒って終わりとはいかなかったようで、彼女にしては真面目に答える。
「フランの婚約者、トリスタンに似ていたんだっ」
そう言って、フランシスカは切なげに笑った。
彼女の繊細な表情には、ゼーレも何かを感じたらしい。神妙な顔でさらに問う。
「婚約者に?その婚約者は、どうしたのです?」
フランシスカは、すぐには答えなかった。ゼーレの問いに対し、しばらく黙り込んでしまう。その問いの答えが、さらりと口から出せることではなかったからだろう。
「……言いたくないのなら、無理に聞こうとは思いませんが」
喋ることが得意なタイプのフランシスカが黙り込んだことに違和感を感じたらしく、ゼーレは、気を遣うような表情で言う。
——だが、フランシスカはやがて答えた。
「死んじゃったの」
ほんの僅かに顎を引き、目を伏せるフランシスカ。その哀愁を帯びた表情は、どこか大人びていて、見る者に、先ほどまでとは真逆の印象を与える。
「フランを庇って、あの人はいなくなっちゃった」
「……化け物に?」
「そうだよっ。夜道を二人で歩いていた時に襲われて、ね」
フランシスカの話を聞いたゼーレは、ほんの少し、瞳を揺らした。今の彼には、罪悪感というものがあるのかもしれない。
「その後、帝国軍に入ったの。そこでトリスタンに出会って、婚約していた彼にそっくりだったから嬉しくて。そのうちに、かっこいいなぁって思うようになったんだっ」
時折周囲に目をやりながらも、ゆっくりと打ち明けるフランシスカ。
「でも……分かってる。トリスタンはマレイちゃんが好きなの。だから、フランの出る幕はない……」
「そんなことは分かりませ——」
「いいのっ!」
ゼーレの言葉に被せるフランシスカ。
その顔には、寂しげな笑顔が浮かんでいる。
「マレイちゃんと一緒になれば、トリスタンはきっと幸せになれる!今はそう確信してるからっ」
フランシスカは「無理しているのでは」と心配になるほど明るい声で言った。その言葉に対し、ゼーレは首を左右に動かす。
「……違います。そうではありません」
「急に何?」
きょとんとするフランシスカに向けて、ゼーレは言い放つ。
「私は……トリスタンとカトレアが一緒になる話など聞きたくないのです」
「え。何それ」
若干引いたような顔をするフランシスカ。
「……もちろん、カトレアが幸せになることを望んでいないわけではありません。ただ……彼女がトリスタンの手の内に入ってしまうというのは……想像するだけでも、胸が痛むのです」
ゼーレの発言を聞いたフランシスカは、突然、ぱあっと明るい顔つきになった。そして言う。
「はいはい!なるほど!そういうことなんだねっ」
どうやら、ゼーレが言わんとしていることを察したようである。
「そっかそっか、分かった。その話はしないようにするよっ」
「……何やら楽しそうですねぇ」
「楽しいよっ。当たり前でしょ」
「……複雑な心境です」
向日葵のような眩しい笑顔を取り戻したフランシスカとは対照的に、ゼーレは苦瓜を食べたような顔をしていた。
——刹那。
目にも留まらぬ速さで、ゼーレに向かって何かが飛んできた。細い紐状の何かが。
「……これは」
ゼーレは手で首元に触れ、そこにある感触に顔を強張らせる。
「……蛇?」
「正解よ」
女性の声がゼーレに答えを返した。
フランシスカは、驚きに満ちたまま、声がした方へと視線を向ける。その先にいたのは——リュビエ。緑色のうねった髪を持つ、ボスの忠実な部下である。
「ゼーレ。お前、やはり生きていたのね」
しかし今のリュビエはいつもと雰囲気が違う。フランシスカがこれまでに見たリュビエとは別人のようだ。というのも、今のリュビエは目の本気度が凄まじいのである。
「そんなことだろうと思ったわ。お前がいなければ、こんな無茶な作戦、決行されるわけがないもの」
リュビエの声は冷たい。それはもう、氷河期かというほどに。
「あたしが今からすることは一つ。ゼーレ、お前を殺す。それだけよ」
「そうはさせないっ」
ゼーレを庇うようにリュビエの前へ出るフランシスカ。彼女の丸い瞳は、リュビエを凝視している。
「殺すとか簡単に言わないで!フランがいるところで好き放題できると思ったら、大間違いなんだからっ!」
「何とでも言っていればいいわ……どのみちここで消えてもらうのだけれど」
- Re: 暁のカトレア ( No.122 )
- 日時: 2018/09/05 13:04
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 16oPA8.M)
episode.115 その力、誰が為に
向かい合うリュビエとフランシスカ。そして、フランシスカの後ろで小型の蛇に絡まれているゼーレ。三人を取り巻く空気といったら、それはもう、凄まじく冷ややかなものである。
「ボスの聖域を荒らす者は、誰であろうと容赦しないわ」
リュビエは銅のような赤茶色の蛇を発生させ、それを一本の杖へと変化させた。一メートルほどの長さの細い杖を片手で握ると、フランシスカに向けて構える。
「他人の国を荒らしておいて、よくそんなことが言えるねっ」
愛らしい顔に不快の色を浮かべつつ、フランシスカは、ドーナツ型武器を出現させる。それぞれの手に一つずつ持ち、準備万端だ。
いつでも戦いを始められる体勢になってから、フランシスカは背後のゼーレを一瞥する。
「そっちはそっちで頑張ってよっ」
それに対し、冷ややかな声で返すゼーレ。
「……言われずとも」
ゼーレのそっけない返事に、フランシスカは視線をリュビエへ戻す。彼女がゼーレに目をくれたのは、ほんの一瞬だけであった。
そんな二人の愛想ないやり取りの後、リュビエが静かに述べる。
「覚悟はいいわね」
対するフランシスカは、一度だけ小さく頷き、「もちろんっ」と答えた。その表情からは、決して揺らぐことのない「勝つ」という意思が伝わってくる。今の彼女は、女性である前に、一人の戦士だったのだ。
——かくして、フランシスカとリュビエの戦いが幕を開けた。
先に踏み出したのはリュビエ。
彼女は、ある程度訓練を積んだ人間であっても捉えられないほどの速度でフランシスカへ接近し、大きく振り上げていた杖を一気に振り下ろす。
だが、フランシスカはそれを読んでいた。両手に持った二つのドーナツ型武器を胸の前で重ねるようにし、リュビエの杖を防ぐ。
「勘違いしないでねっ」
リュビエの一撃目を見事に防いだフランシスカは、年頃の少女のようなお茶目さをまといつつ、くすっと笑った。肩よりほんの僅かに短いミルクティー色の髪が、ふわり、と風になびく。
「フランべつに」
言いながら、フランシスカはリュビエを突き飛ばす。
そして、大地を蹴った。
妖精のように。天使のように。フランシスカの体は、軽やかに宙へと浮き上がる。
「弱いわけじゃないからっ!」
言葉が発されると同時に、光弾の雨が降り注ぐ。
宙にいるフランシスカが放ったのは、桃色に輝く小さな光弾である。
一つ一つは小さく、威力もそんなにはないだろう。だが、これだけの数が一斉に降り注ぐのだ。下にいる者が浴びるのは、一発や二発ではあるまい。そして、そうなってくるとまた、威力も変わってくる。
けれども、リュビエは避けていた。雨の如く降り注ぐあれだけの数の光弾。それを一つも浴びていないとは、かなりの能力の高さである。
「似たようなパターンは止めた方がいいわよ。あたし、そこまで馬鹿じゃないわ」
「あっそ!何とでも言ってればいいよっ!」
フランシスカは高度を下げながら、地面へ降り立つより早く、ドーナツ型武器を投げた。目標はリュビエである。
「甘い。甘いわ」
リュビエはすぐに二匹の太い蛇型化け物を生み出し、飛んできたドーナツ型武器から身を守った。
「あたしに勝ちたいなら、もっと新しいことをしなさい。でないと、お前に勝ちはないわよ」
大きな弧を描いて戻ってきた二つのドーナツ型武器を空中でキャッチすると、フランシスカは再び大地を蹴り、宙へと飛び上がる。
「また同じことをするつもり?」
リュビエは、大きく舞い上がったフランシスカを見上げ、半ば呆れたように呟く。
対するフランシスカは、いたずらな笑みを口元に湛える。
「そーかもねっ?」
「……何よ、その言い方は」
「フラン知らなーい」
わざと挑発するような言葉を並べるフランシスカ。彼女は空中から、桃色に輝く光弾を、再び放った。ガラス片のような光弾は、一斉に、リュビエめがけて飛んでいく。
リュビエは華麗な動作でそれらをかわし、淡々とした調子で言い放つ。
「言ったはずよ。似たようなパターンは止めた方がいい、って」
「うん!だから、変えたよっ」
にっこり笑うフランシスカ。
その様子に不自然さを感じたらしく、リュビエは素早く、視線をゼーレへと向ける。
だが、既に遅かった。
「馬鹿な!なぜ!蛇毒を入れられれば動けないはずよ!」
リュビエの蛇に絡まれながらも、ゼーレは蜘蛛型化け物を生み出していたのだ。
「……でしょうねぇ。普通なら」
予想と異なる結果に動揺を隠せないリュビエを嘲笑うかのように、ゼーレは漏らす。
「化け物の毒を体内に入れる訓練……若いうちに受けておいてラッキーでした」
「ゼーレ、お前っ……!」
彼によって生み出された三メートル級の蜘蛛型化け物が、リュビエに向かって炎を吐き出そうとしている。
「まさかボスを裏切るだけではなく、奴らの味方をするまで落ちぶれていたとは!ますます許せないわ!」
「……何とでも言って下さい」
リュビエは盾を作るべく、大きく太い蛇型化け物を数匹生み出し、自身の前へ配置する。
それとほぼ同時に、三メートル級の蜘蛛型化け物が炎を吐いた。
リュビエへ向かう炎は、まるで紅い花のようだ。
かつてマレイからすべてを奪った炎が、今はレヴィアス帝国のために使われているのだから——不思議なものである。
蜘蛛型化け物から放たれる炎の威力は凄まじいものだった。あらゆるものを真っ赤に照らしながら、徐々に周囲を巻き込んで、豪快に燃え上がる。
「ちょっとゼーレ、何これっ!フランこんなの聞いてないっ!」
上空にいたフランシスカは、慌てて地面へ降り立つ。
「火を吐くなんて知らなかったよ!フランが上にいるの知ってたよねっ!?」
「それはそれは……失礼しました。臨機応変に動くことさえもできないような愚か者ではないだろう……と思っていたので」
「何それっ!感じ悪っ!!」
フランシスカからの文句に、ゼーレはしゃがみながら応じる。
その間も、三メートル級の蜘蛛型化け物は、リュビエに向けて炎を吐き出し続けていた。
- Re: 暁のカトレア ( No.123 )
- 日時: 2018/09/06 23:50
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: a4Z8mItP)
episode.116 小娘なんて呼ばないで
やがて。
凄まじい勢いで放たれ続ける炎を掻き分けるようにして、リュビエが姿を現した。
緑色の髪には炎が燃え移っている。なのにまったく気にせず、ゼーレとフランシスカの方へ走ってきていた。
「うそっ!あれに耐えられるなんて!」
これにはフランシスカも驚きを隠せない。彼女は、衝撃のあまり、口をぽかんと空けてしまっている。一方、ゼーレはというと、顔色を少しも変えないまま、リュビエを凝視していた。翡翠のような瞳は、ほんの数ミリも揺れていない。落ち着き払っている。
「この程度であたしを止められると思ったら大間違いよ」
ゼーレらに接近るしようと駆けてくるリュビエの声は、非常に冷たいものだった。いや、「冷たい」という表現は正確ではないかもしれない。どちらかというと、「感情がこもっていない」といった感じの冷たさである。
「ちょっとゼーレ!何か手はあるのっ?」
「……いえ」
「ええっ!じゃあどうするつもりよっ!」
「貴女に……お任せします」
「はぁぁ!?何それ、わけ分かんない!!」
ゼーレの考えていなさにうんざりしつつも、迫りくるリュビエへ目を向けるフランシスカ。
「でもまぁー……フランがやるしかないよね」
フランシスカはドーナツ型武器を両手に構える。
そして、リュビエへと狙いを定め——同時に投げた。
今回は二つの飛び方が異なっている。片方はいつものような大きめの弧を描く飛び方だが、もう一つは少し変わった動きだ。
「甘いわ」
いつものように大きめの弧を描いて襲いかかる片方のドーナツ型武器を、リュビエは杖で弾いて防ぐ。もはや見ずとも防げるらしく、ドーナツ型武器へ視線を向けることなく弾いていた。
「そうかなっ?」
「えぇ、そうよ。お前もゼーレと一緒に、あの世へ送ってやるわ」
リュビエのその発言を聞いた瞬間、フランシスカは突然、嫌悪感に満ちた表情になる。
「それは、それだけは、ぜぇーったいに嫌っ!」
——刹那。
普段とは異なった軌道を描いていた方のドーナツ型武器が、リュビエを背後から襲った。
命中するリュビエは、直前でその存在に気づく。咄嗟に身を返し杖で防ごうとするも、間に合わない。彼女の手から杖が落ちる。蛇型化け物を生み出そうにも、時間が足りない。
危機的状況に立たされたリュビエは、両腕を胸の前で交差させた。
彼女にできる対応は、それしかなかった。
「……くっ!」
ドーナツ型武器はリュビエの両腕を傷つけ、持ち主であるフランシスカの手元へと帰ってくる。フランシスカが上手にキャッチした時には、ドーナツ型武器は赤く染まっていた。
リュビエにダメージを与えることに成功したフランシスカは、胸を張り、自信満々な顔でゼーレに言う。
「見た?フラン、凄いでしょっ!」
「……見事ですねぇ」
ゼーレは半ば呆れたような声で答えた。
そして続ける。
「しかし……まだ終わってはいませんよ」
ドーナツ型武器の直撃を食らったリュビエ。彼女の両腕はかなりのダメージを受けたらしく、ほとんど動かせていない。だが、腕で防いだため、致命傷にはならなかったようだ。彼女の闘志はまだ消えていない。
「やってくれるじゃない……小娘の分際で!」
「小娘じゃなくて、フランだよっ」
「そんなことはどうでもいいわ!」
「よくないもんっ!名前は大事なものっ!」
フランシスカは小娘と呼ばれたことに憤慨していた。
「次ちゃんとフランって言わなかったら、許さないからっ」
フラン、という存在に自信を持っている彼女にとっては、小娘などという誰のことだかはっきり分からないような言葉で呼ばれることは、苦痛だったのだろう。
「そろそろ……終わらせた方が良いのでは?」
呼び方について必死になっているフランシスカに対し、ゼーレは、しゃがみ込んだまま言った。話がずれていることを注意したかったものと思われる。
「人任せにしないでよっ」
「私にできないから……貴女に言っているのですが」
「何それ、わけ分かんないっ!どうして全部フランに押し付けるの!?」
またしても憤慨するフランシスカ。
そんな彼女に対し、ゼーレは述べる。
「……私とて、無敵ではないのですよ」
静かだがどこか切迫した雰囲気を感じさせる声。そこから漂う普段とは違った空気に、フランシスカは、ゼーレの状態があまりよくないことに気がつく。
「体調が悪いの?もしかして、毒のせい?」
「えぇ……。弱音を吐きたくはありませんが……そのようです」
「そういうことなら先に言ってよっ!」
フランシスカは慌てて座り込み、しゃがんでいるゼーレの背中へ手を当てる。
「ゼーレがいなくなったら、フランたち帰れないんだからっ」
「……馬鹿らしい。そう易々とやられる気はありませんよ」
「いい?無理しちゃ駄目だからね?」
らしくなくゼーレに優しくするフランシスカを、リュビエは馬鹿にしたように笑う。
「敵前で慣れ合うなんて随分余裕なのね。……ま、いいわ。今のうちに倒させてもらうこととしま——」
「すみません!リュビエさん!」
リュビエが言いかけたのを遮るように、人の声が飛んでくる。新手かと思い警戒するフランシスカだったが、声の主は戦闘員という感じの人間ではなかった。いたって普通の男性である。
「ボスが多数の敵に取り囲まれている模様!援護お願いします!」
「何ですって……?」
「ボスは今、お一人なのです!あれだけの数とお一人で戦われるのはさすがに危険では、と思い、知らせに参りました!」
特徴のない男性が報告する言葉から、フランシスカらは、作戦が順調に進んでいることを知った。
「分かったわ。すぐに行く」
リュビエは男性にそう答えると、一度フランシスカらの方へ目をやる。そして、微かに顎を持ち上げ、吐き捨てるように言う。
「お前たち、命拾いしたわね」
その言葉を最後に、彼女は走り去った。
場に残されたフランシスカはぼそっと呟く。
「走っていくんだ、変なのっ。いつもみたいにぐにゃってする移動をすればいいのにっ」
フランシスカの呟きに、ゼーレは返す。
「……腕がやられるとあれは使えませんよ」
「え。そうなのっ!?」
「そうです。私も……以前食器洗いで腕を濡らしてしまった時、一時使えなくなりました」
「へ、へぇー」
例が妙なところには突っ込まないフランシスカであった。
その後、工場は残りの隊員たちに任せ、フランシスカとゼーレもボスのいる中庭へ移動することになった。リュビエがそちらへ行ってしまったからである。
- Re: 暁のカトレア ( No.124 )
- 日時: 2018/09/08 01:46
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: te9LMWl4)
episode.117 レアものの時間稼ぎ
時は少し遡り——まだフランシスカとゼーレがリュビエと戦っていた頃。
「帝国を手に入れるために……貴方は化け物を使って私たちを襲うの?」
すぼめた手のひらてすくい上げた水は、はらはらとこぼれ落ち、水面に当たってぱしゃんと切なげな音を立てる。
「そうだ」
「……どうして、そんな方法を選んだの。死者が出るような乱暴な手段で帝国を手に入れたって……何の意味もないじゃない」
「いいや。意味がないことはない。どんな手段を使おうが、帝国を我が手の内に入れることができればそれでいい」
「そんな!」
心無いボスの言葉に、私は思わず声を荒らげてしまった。
願いを叶えるためなら何人犠牲になっても構わない、というような言い方に賛同するような真似はできない。作戦中だろうが何だろうが、それだけは絶対だ。
「酷いわ!どうしてそんな風に思えるの!」
「騒ぐな」
注意されたため、私は声の大きさを小さめに調整する。
ここはボスのテリトリー内だ。それゆえ、彼を刺激しすぎてはいけない。うっかり怒らせてしまえば、倒すどころの話ではなくなってしまう。場合によっては、私の命さえ危ない。
「……そうね、ごめんなさい。でも……本当に、なぜそんなことを簡単に言えるの?誰かが死んだり、それによって悲しむ人がいたりするのよ。なぜ、それを問題だと思わないの?」
私はボスの顔色を窺いつつ口を動かす。
それに対してボスは、地鳴りのような低音で返してくる。
「そんなことは、お主と我が話すべきことではない」
「いいえ。話すべきことよ」
私もボスも無関係、というわけではないのだから、話したって問題はないはずだ。
「話すつもりは毛頭ない」
「そう……教えてくれないのね」
「お主はその力の研究材料となれば、それでいいのだ」
随分失礼な物言いである。
私だって人間だ、生活もあるし友人もいる。他の人間と同じように、毎日普通に生活しているのだ。
にもかかわらず、研究材料だなんて。失礼にもほどがある。
「貴女は私のことを道具としか考えていないのね」
今すぐ飛びかかりたい苛立ちぶりだ。しかし、今ここでボスに飛びかかっても何の意味もない。だから私は、ちょっとした嫌みを言うだけで済ませた。
「そうだ。だが、お主のような力の持ち主はなかなかおらん。そういう意味では、かなりレアものと言えるやもしれんな」
ボスは両手を腰に当てたまま、低い声でそんなことを言った。
重厚感のある声が空気を引き締める。だが、その程度で怯む私ではない。
「レアものですって?」
グレイブらが現れるまで、ボスをここに引き止める。それが、今私が、一番しなくてはならないことだ。そして、今回の作戦においての最重要部分でもある。
「失礼ね。他人を物扱いするなんて」
「お主の感覚からすれば、そうなのやもしれんな」
完全否定ではないところが、微妙に腹立たしい。他人事のように言うのは止めていただきたいものだ。
「——で、時間稼ぎはもう満足か?」
会話の途中、ボスが唐突に言った。
直後、私の首に刃が突きつけられた。銀色の、ぎらりと煌めく、よく斬れそうな刃だ。
ボス本人が突きつけているのではないが、恐らく、彼の手の者の仕業なのだろう。背後から伸びてきている。
「時間稼ぎ?どういうこと?」
「とぼけるなよ、マレイ・チャーム・カトレア」
恐る恐る、背後へと視線を向ける。すると視界に、銀色のロボットのようなものが入った。私の首に突きつけられている刃は、そのロボットのようなものが持つ剣の先のようだ。
「付近に刺客がいることは分かっているぞ。視線と気配でまるばれだ」
「……何のことだか分からないわ」
「あくまでとぼけ続ける気か」
ボスの視線からは、凄まじい迫力が感じられる。見る者が生命の危機を感じるほどの威圧感だ。
「ならば!」
口調を強めるボス。それとほぼ同時に、私の首もとに当てがわれていた刃が首に食い込む。ギリギリ斬れてはいないものの、ほんの少しでも動けば皮膚が斬れそうである。
「……っ!」
「容赦はしない。覚悟しろ、マレイ・チャーム・カトレア」
ボスは言い放ち、その後、中庭内のあらゆるところへ視線を向けた。ぐるりと一周見渡して、それから低い声で告げる。
「刺客よ、出てこい。出てこぬならば、この小娘を殺す」
グレイブらは本当に既に来ているのだろうか。ボスは視線や気配で分かると言うが、私にはちっとも分からない。今はただ、彼女らが来てくれていることを願うのみだ。
「今日は特別だ、十秒だけ待ってやろう。その間に出てくれば、この小娘の命を助けてやってもいい」
リュビエと同じく、ボスもかなりの上から目線である。
「十、九、八……」
ボスのカウントダウンが始まった。
カウントダウンもするのか……、という突っ込みはさておき。
「七、六、五……」
あっという間に半分。
これはそろそろ出てきてくれないとまずい。
ボスの言葉が本気かどうかは不明だが、カウントダウンが終われば私の首が飛ぶ可能性だってあるのだ。
「四、三、二……」
そこまでボスが数えた瞬間。
白い光が私に向かって飛んできた。
まるで、夜空を駆ける流れ星のように。
「お待たせ、マレイちゃん」
——気がつくと、私の前には、白銀の剣を構えたトリスタンが立っていた。
「トリスタン!」
「大丈夫だった?」
私が思わず名前を呼ぶと、トリスタンは首から上だけ振り返って尋ねてきた。私はすぐに頷く。
「えぇ、もちろん!もちろんよ!」
さらりと揺れる金の髪が、なぜか凄く懐かしい。前に見た時から時間はそんなに経っていないはずなのに、まるで旧友に会ったかのような気分だ。
「マレイちゃん、これを」
トリスタンが投げてきたのは腕時計。没収されていることを想定して、持ってきてくれていたのだろう。
「ありがとう!」
速やかに右手首に装着する。
「後は僕たちに任せて」
「できることがあるなら、私も手伝うわ」
トリスタンが来てくれたことで心に余裕ができたからだろうか、今は上手くいきそうな気がする。
- Re: 暁のカトレア ( No.125 )
- 日時: 2018/09/09 00:46
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: sE.KM5jw)
episode.118 銀剣士
私のすぐ前にトリスタン。彼と対峙するように立っているのは、ボスと、先ほど私に刃を突きつけていたロボットだ。ちなみにそのロボットは、全身に銀色を塗りたくった人間のような容姿である。
「お主が出てくるとはな。驚いたぞ」
ボスは低い声で述べる。
そこに優しさなんてものは微塵もない。
「今日こそくたばってもらうよ」
それに対しトリスタンは、白銀の剣を構えた体勢のままで返した。彼の深海のような青をした双眸は、ボスを鋭く睨んでいる。
「くたばってもらう、だと?笑わせるな。お主ごときが我をくたばらせようなど、百年早いわ」
「僕一人、だったらね」
言いながら、トリスタンはニヤリと口角を持ち上げた。
ちょうどそのタイミングで、反対側から、長槍を持ったグレイブが姿を現す。若草色の地面をバックに緩やかになびく黒髪は、こんな時でも艶があって凄く綺麗である。
「覚悟してもらおう」
淡々と言い放つグレイブ。
彼女の漆黒の瞳は、夜の湖の水面のように澄んでいた。
「化け物め!」
そう叫ぶと同時に、彼女は片手を掲げる。すると、それを合図に、大量の光の弾が飛んできた。そのすべてが、ボスへと向かっていく。恐らく、付近に隠れている隊員たちが放ったものなのだろう。
だがボスは慌てない。
彼は、ロボットに何やら指示を出した後、「ふんっ!」と叫びながら全身に力を加えた。光弾をすべて弾き返す。
そんなボスの様子を見つめていると、ロボットがこちらへ向かってきた。
トリスタンがすかさず対応する。
「……やるね」
ロボットが勢いよく振り下ろした剣を咄嗟に止め、ぽそりと呟くトリスタン。その均整のとれた顔には、ほんの少し、焦りの色が見える。冷静さをなくしてはいないが、多少動揺していることは確かだ。
「トリスタン!援護するわ!」
「マレイちゃんは下がっていて構わないよ」
「でも……!」
トリスタンとロボットは、剣と剣を交えた体勢のまま、動きを止めている。
両者の力は拮抗しているのだろう。それゆえ動くに動けない、という状態なのだと思われる。
……もっとも、あくまで私の想像だが。
「マレイちゃんは無理しなくていいよ」
トリスタンは一旦ロボットと距離をとり、剣を構え直す。
そんなトリスタンへ、さらに仕掛けてくるロボット。その動きは、立て直す暇を与える気はない、といった雰囲気である。
ロボットの鋭い剣撃。
トリスタンは咄嗟に白銀の剣で防ぐ。
「……この動き」
彼は小さく漏らしていた。何かに気がついたような顔つきだ。
援護しないと——そんな思いが、胸に広がる。
ここはまだ敵地だ。そこに立っていながら、私だけぼんやりしているなど、許されたことではない。たとえトリスタンが「いい」と言ったとしても、である。
私は腕時計に指先を当て、右腕をロボットへ向ける。
ここから光線を放てば、多少でもダメージを与えられるはず。そう信じ、赤い光線がロボットに命中するところをイメージしながら、意識を集中させていく。
この力を本格的に使うのは久々だが、いざやるとなると、案外できそうな気がする。不思議なものだ。
「行けっ!」
私はらしくなく叫んだ。
その声とともに、腕時計から赤い光が溢れる。光はいつしか線となり、ロボットに向かって真っ直ぐに進んでいった。
——そして、ロボットの銀色の腹部辺りを貫く。
「マレイちゃん……!?」
ロボットと戦っていたトリスタンは、こちらを見た。その青い瞳は、驚きの色に満ちている。予告もなしに攻撃したからびっくりさせてしまったのかもしれない。
「私も手伝うわ!」
「そんな。手伝いなんていいよ」
「いいえ!仲間だもの!」
するとトリスタンは、少し呆れたようにくすっと笑う。
「……そっか。分かったよ」
その顔つきには、どこか柔らかさがあった。
戦場にあっても微笑むことのできる強さには、純粋に尊敬する以外何もできない。
赤い光線を腹部付近に食らったロボットだが、まだ動きが止まってはいなかった。ダメージを受けた部分からは白っぽい煙が噴き出しているものの、まだ剣を持って、戦おうとしている。
「よし、後は僕が」
トリスタンは視線を私へ向けたままそう言って微笑んだ。そして、白銀の剣を手にロボットへ近づいていく。
一撃目、彼の大きな振りが、ロボットの右腕に命中。その肘より先を綺麗に斬った。続けて左腕にも深刻なダメージを与える。ロボットも一応抵抗しようとはするのだが、鋭く切れ味も最高な白銀の剣の前には無力だ。
今のトリスタンの戦い方は美しかった。
強いだとか、かっこいいだとか、そんな類のものではない。もはや芸術、といったレベルの動きである。
素早くもどことなく優雅さを感じさせる立ち回り。まるで舞っているかのように自由自在に剣を操る技術。そのすべてに華があり、彼の戦いは、舞踊を眺めているかのような気分にさせてくれる。
それと同時に、繊細さと大胆さを兼ね備えているところも印象的だ。
細やかな位置取りをしつつも、斬る時には剣を一気に振り抜く。その時には一切躊躇しない。そんな落差も独特である。
「終わらせてあげるよ」
トリスタンは呟く。そして、ロボットの銀色の体を、縦に真っ二つにしてしまった。
ロボットはついに沈黙した。
結構タフなロボットではあるが、体を真っ二つにされては、さすがにもう動けないようだ。
「やったわね、トリスタン」
私は勝利が嬉しくて声をかける。
もっとも、本命のボスはまだ倒せていないのだが、それでも今は、目の前のロボットを倒せたことが嬉しい。
「うん。サポートありがとう」
「どういたしまして」
……なんて和んでいる場合ではないのだけれどね。本当は。
「じゃあ次は本命だね」
「ボス?」
「うん。そうだよ」
しばらく見ていなかったボスの方へ視線を向けてみる。すると、ボスと戦う数名の隊員が見えた。
その中にはグレイブとシンもいる。
シンもいることが少々驚きだったのは、言うまでもない。彼はあくまで審判役なのだと、何となく思い込んでしまっていたのである。だが、よく考えてみれば、彼とて化け物狩り部隊の一員だ。戦えたっておかしくはない。
「なかなか苦戦してるみたいだね」
「そうね……ボスの力は圧倒的だもの」
「行ってくるよ」
トリスタンの意識は既にボスへと向いていた。
今はグレイブらが何とか倒そうと頑張ってくれている。が、このまま続けていればいつか力尽きて負けてしまいそうな雰囲気だ。
その状況を見て彼は、自分も早く参戦した方がいい、と判断したのだろう。
- Re: 暁のカトレア ( No.126 )
- 日時: 2018/09/09 00:47
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: sE.KM5jw)
episode.119 華麗なる黒鳥
「ひ、ひぃぃぃー!つ、強すぎですよぉぉぉーっ!!」
「シン!逃げ回るな!」
一番に耳に入ってきたのは、グレイブとシンの会話だった。これまでにもよく聞いたことのある、定番のやり取りである。もはや笑いが込み上げてもこない。
シンはボスが漂わせる迫力に気圧されているようだ。
……無論、実際の戦闘能力でも圧倒されているのだろうが。
だがそうなるのも仕方ないことだろう。かなりの強者であるグレイブを含む大勢で取り囲んでいるにもかかわらず、まだ倒せていないのだ。それほどの強さを持つボスに、いかにも戦闘向きでなさそうなシンが圧倒されるのは当然のことである。むしろ、そうでない方が違和感がある。
「でもぉぉぉっ!怖いんですよぉぉぉーっ!」
涙目になりながらグレイブに訴えるシンに、ボスの視線が注がれる。
「騒がしいやつだ」
「……ひっ!」
ボスの意識が自分へ向いていることを悟ったシンは、引きつったかん高い声を漏らす。みるみるうちに、顔全体から血の気が引いていく。
「だが愉快だ。少々遊ぶとしよう」
ニヤリと不気味な笑みを浮かべるボス。彼がその大きな手のひらを地面へ向けると、ずずず……、と謎の地鳴りが始まる。
新手の攻撃かと警戒した前衛の隊員たちは、一旦、ボスから距離をとった。もちろん、トリスタンもグレイブも、である。
しかし、シンだけはその場に立ったまま震えていた。
腕、肩、背、脚など、全身が激しく震える様は、まるで高熱が出る前の寒気に襲われている者のようである。
「おい、シン!何ぼさっとしている!」
その場で立ちすくんでしまっているシンのところへ、グレイブが走っていく。トリスタンは彼女の背に向かって「危険ですよ!」と叫んでいたが、彼女は何も応じなかった。それほどに、シンを助けることに夢中になっていたということだろう。
「ふふふ……始まるぞ。我が最高の出し物、存分に楽しむが良い」
出し物、て。
内心そう突っ込んでしまったことは私だけの秘密だ。
「シン。一体何をしている」
「ぐ、ぐぐ、グレイブさんっ……ボク、怖くてぇぇぇー……」
「泣くな。今は」
グレイブがそこまで言った刹那。
ボスの周囲の地面がごぼっと持ち上がり、ライオン型の化け物が現れた。
高さは、ボスよりほんの少し低い程度。つまり、かなり背の高い人くらいの高さはあるということだ。大型の化け物である。
「……ライオンか!」
驚きの声を漏らすグレイブ。
その時、ライオン型化け物の登場に、シンはふうっと気を失った。あまりに怖すぎて失神してしまったようだ。
グレイブは付近の隊員にシンを回収するように命じ、長槍の先をライオン型化け物へと向ける。
「何が出てこようが関係ない。ただ殲滅するのみ」
彼女の漆黒の瞳には恐怖など欠片も存在していなかった。目の前の敵を倒す。それだけしか頭にないような、そんな目だ。
「我の忠実な手下を倒せるか?女の分際で」
ボスは挑発するように言う。
しかしグレイブは何も返さない。ほんの一瞬睨んだだけだった。それほどに集中しているのだろう。
直後、ライオン型化け物はグレイブへ、一気に襲いかかる。
だがグレイブは冷静さを失わない。前足から放たれた打撃を長槍の柄で受け流し、すぐに反撃に転じる。長槍を素早く一周回転させ、一瞬にして構え直すと、ライオン型化け物の一本の足を薙ぎ払った。
ライオン型化け物は転びそうになりながらも、速やかに体勢を立て直そうとする。
だが、それを許すグレイブではない。
「ふっ!」
彼女は二三歩でライオン型化け物の背後へ回ると、その腰部辺りに長槍を突き刺した。
「凄い……」
大きな化け物相手に怯まず戦うグレイブを見て、私は思わずそう呟いてしまっていた。
先ほどの、トリスタンのロボットとの戦いも、なかなか華麗で美しかった。つい見惚れてしまったのが、記憶に新しい。
しかし、今のグレイブの戦いも、トリスタンとは別の意味で尊敬に値する凄さだと思う。槍の長さを活かした大胆な攻撃は、これまた印象的である。
グレイブはライオン型化け物の腰部から槍を抜いた。それにより動けるようになったライオン型化け物は、先ほどまでよりも大きな咆哮を発しながら、グレイブに向かっていく。口を限界まで開け、鋭い牙を剥き出しにして、襲いかかる——その様は、もはや言葉にならないほどの迫力であった。
そんな恐ろしい状況におかれてなお、グレイブは口角を持ち上げる。
「ふ……仕上げといこうか」
グレイブは持っていた長槍を、ライオン型化け物の開いた口に縦向けに突き立て、つっかえ棒のようにした。急に口を閉じられなくなったライオン型化け物は、戸惑った様子で、ふがふがと情けない声を漏らしている。
——だが、長槍がなくなったらどうやって戦うのだろう?
私は一瞬そんな疑問を抱いた。しかしその疑問は、すぐに消えることとなる。
というのも、グレイブは再び長槍を作り出したのだ。どうやら、一本だけしか作れないというわけではなかったようである。
……私は少し、頭が固いのかもしれない。
そんなことを思っているうちに、グレイブは跳び上がった。ジャンプ力が半端でない。
「はぁっ!」
そして、勇ましい叫びと共に、長槍を勢いよく振り下ろした。
槍の先端が肉を裂く。薄紫色の粘液が辺りに飛び散る。
返り血ならぬ返り粘液を浴びたグレイブは、その白い制服が白に見えなくなるほど、薄紫色に染まっている。
そして、グレイブが地面に着地するのとほぼ同時のタイミングで、ライオン型化け物は消滅した。
これはグレイブの完全勝利と言っても問題ないだろう。
「あまり強くはなかったな、ライオン型は」
頬についた粘液を手の甲で拭いながら、紅の塗られた唇を動かすグレイブは、不気味なほどに美しく見える。
「す、凄いわね……グレイブさん……」
「容赦ないぜ……」
たまたま私の近くにいた隊員は、グレイブの凄まじい戦いぶりに、驚きを隠せていない。声からも言葉からも、驚き戸惑っていることがひしひしと伝わってくる。
けれど、私としては、ボスが次にどう動くかの方が気になるところだ。
これで終わりということはないだろう。次はどんな手を使ってくるのか。どんな敵が現れるのか。そこが一番気になるところなのである。
- Re: 暁のカトレア ( No.127 )
- 日時: 2018/09/11 01:09
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 5TWPLANd)
episode.120 繋がれた腕
グレイブとライオン型化け物の戦いに決着がつき、辺りが静かになった、その時だった。
突如左腕を掴まれるような感覚を覚え、私は反射的に振り返る。するとそこには、ボスが立っていた。私の腕を掴んでいるのは彼だったようだ。
「……いつの間に」
私は思わず漏らした。
移動する気配なんてまったく感じなかったにもかかわらず背後に回られていたことに、私はただ驚くことしかできない。
ボスほどの大柄な者が動くのを誰一人気づかなかったなんてことはあり得ないはずだ。にもかかわらず、今私が気づく瞬間まで誰も何も言わなかった。それはもう、謎としか言い様がない。
「この我を騙そうとした罪、その身をもって償ってもらおう」
「……っ!」
ボスの言葉に、私は思わず身震いしてしまった。
この期に及んで恐怖心を抱いてしまうなんて情けない。こういう時こそ強くあらなければならないというのに。
「……離して下さい」
私は何とか平静を装い、言ってやる。
怖くて怖くて、怖いけれど。でも、だからといって、弱気になるわけにはいかない。
グレイブもトリスタンも他の隊員たちも、怯まず戦っているのだ。フランシスカやゼーレも、ここにはいないけれど、きっと頑張ってくれていることだろう。なのに私だけ恐怖心に負けるなんて、許されないことだ。
「マレイちゃんに触れるんじゃない!」
私がボスに左腕を掴まれていることに気づいたトリスタンは、白銀の剣を手にしたまま鋭く叫ぶ。
しかしボスは何も返さない。ただ、ほんの一瞬目を向けただけだった。
「マレイ・チャーム・カトレア。我に逆らうことがどれほど愚かなことか、今から教えてやる」
「……何するつもり?」
「言うほどのことではない。ただ——」
刹那、ボスに体を引き寄せられる。顔と顔が一メートルも離れていないくらいの距離に近づく。ボスの口からは酒の香りがした。
「見せてやるだけのことだ」
一体何を。
不安で胸の鼓動が加速する。
「マレイちゃんを離せ!」
耳へ飛び込んでくるのはトリスタンの鋭い叫び声。それに対し、ボスは不快そうに顔を歪める。
「……騒ぐな」
ボスは、不快感に顔を歪めると同時に、地鳴りのような低い声でそう言った。静かながらも迫力のある、威圧的な言い方だ。
「そのように騒ぐのならば、この小娘を酷い目に遭わせてやる」
「そうはさせない!」
脅すような発言をするボス。だがトリスタンは、そんな適当な脅しに怯むような人間ではなかった。
「返してもらうよ!」
彼は白銀の剣を握ったまま、ボスのいる方へと駆けてくる。腕時計で身体能力を強化しているからだろう、かなりのスピードだ。
しかしボスは、眉一つ動かさない。トリスタンの方へ視線を向けたまま、じっと動きを止めていた。
トリスタンは、そんなボスへ、あっという間に迫る。
「覚悟!」
白銀の剣を大きく振り上げ、勢いよく振り下ろす。その様は、まるで白い閃光が走ったかのようだ。
猛スピードでの接近。そして、至近距離からの一撃。これを防げる者は、この世にはいないだろう。いくらボスでも、さすがに対応できないはずだ。
——そう思っていたのだが。
「遅いぞ」
ボスはしっかりと対応していた。
私の腕を掴んでいない空いている方の手で、白銀の剣の刃の部分を握っていたのである。
「……止めた!?」
これにはトリスタンも驚きを隠せない。
「お主の攻撃パターンは、すべて把握している」
ボスの剣先を握る手から、血は一滴も流れていなかった。
素手で刃物を握ったりすれば、普通なら、血が出ることは避けられないだろう。それも、勢いよく振り下ろしている途中で握ったのだから、出血する可能性はなおさら高くなるはずである。
しかし、ボスの手からは何も出ていない。妙だ。
「……それは嘘だね」
「いいや、嘘などではない」
静かな声で述べるや否や、ボスは握った剣先を軸にして、トリスタンを地面へ叩きつけた。ダァン、と痛々しい音が響く。
「止めて!」
私は思わず叫んだが、ボスは何も返してくれなかった。もはや私と話す気はないのかもしれない。
地面に叩きつけられながらも、トリスタンはすぐに立ち上がった。だが、彼が立ち上がった瞬間を狙い、ボスはトリスタンへ手のひらを向ける。何だろう?と思っていると、ボスの手のひらから波動のような何かが飛び出した。
「くっ……」
トリスタンは咄嗟に白銀の剣を前に出し、ボスが放った波動のような何かを防ごうとする。
「そんな!」
けれど、無意味だった。
ボスが手のひらから放った波動のような何かは、白銀の剣の刃部分を、ほんの数秒で砕いてしまったのである。
防御する術を失ったトリスタンは、波動のような何かをもろに浴びてしまう。そして、その場に倒れ込んだ。
「う、ぐ……」
半ば横たわるような姿勢になり、肩を抱えて震えるトリスタン。トリスタンだとは到底思えないような、弱々しい様子だ。均整のとれた美しい顔も、苦痛に歪んでいる。
「トリスタンに何をしたの!」
思わず口から滑り出ていた。
言うべきではなかった、と後悔しても、時既に遅し。
「……何をした、だと?」
「私はまだいいわ。でも、トリスタンにまで酷いことをするのは止めて!」
するとボスは、私の左腕を掴む手に力を加えた。
ミシミシと軋むような音が鳴る。強く握られた左腕に、折れてしまうのでは、と思うような痛みが走った。
「……痛っ」
「マレイ・チャーム・カトレア、お主は大人しくしているがいい。後で思う存分楽しませてやる」
「……大人しくなんて、しないわ」
左腕が自由になれば腕時計の力を使える。そうすれば、ボスに一撃浴びせることができるかもしれない。倒すことはできずとも、多少ダメージを与えるくらいは可能なはずだ。
ただ、この凄まじい握力からどうやって逃れるかが問題である。
「マレイちゃん!無理しなくていいよ!」
色々と考えていた時、弱々しく地面に倒れ込んでいるトリスタンが、そんなことを言ってきた。
「君一人で解決しようとしないで!僕もできることはするから!」
「トリスタン、でも……!」
「みんなで一つの作戦をやり遂げる!それでいいんだ!」
こんな時でも温かな励ましの言葉をかけてくれるトリスタンには、感謝しかない。彼と仲間で良かった、と、心からそう思った。
「僕もまだ戦えるから!」
そう言ってゆっくり立ち上がるトリスタンを、ボスはギロリと睨んだ。その迫力といったら、もはや言葉にならないほどの凄まじさである。
「お主は黙っているがいい……!」
「悪いけど、君に従うわけにはいかない」
トリスタンは再び、白銀の剣を抜く。新たに作り直した、新品同様の剣だ。
「僕は君を倒す。そして、マレイちゃんを助け出す」
「ふん……身のほど知らずの愚か者が」
こうして、トリスタンは再び立ち上がるのだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.128 )
- 日時: 2018/09/11 01:10
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 5TWPLANd)
episode.121 戦いは終わらない
立ち上がったトリスタンは、白銀の剣を手に、再びボスへ挑んでいく。勇敢なその姿は、まるで伝説の英雄が出てきたかのようだった。
「総員、攻撃!ただし、マレイに当てないように!」
トリスタンの諦めず挑んでいく姿に触発されたのか、グレイブが命じる。その命を受け、それまで動きを止めていた隊員たちは攻撃を再開する。
無数の光弾が降り注ぐと同時に、前衛の隊員らが一斉にボスへ襲いかかった。
「面倒なやつらめ……」
ボスは「ふんっ!」と攻撃を跳ね返しながら、不愉快そうに顔をしかめる。食事中にハエが飛んできた時のような表情だ。
「こっ、攻撃が効きませんっ!」
「硬すぎる!」
「跳ね返されちゃいますよー!」
隊員らは口々に訴える。
しかしグレイブは、「攻撃の手を緩めるな」と指示するだけで、それ以上手を打つことはしない。
「ふんっ!」
「きゃああっ」
「ふんっ!」
「え、ちょ、うわぁっ」
「ふぅぅんっ!!」
「はわわー」
そのうちに隊員らはボスの反撃を受け、次から次へとやられていってしまった。
ちなみに、やられて、と言っても死んだわけではない。戦闘を続行することはできそうにない状況になってしまった、ということである。
「グレイブさん、何か手を!このままでは埒が明きませんよ!」
ボスと一旦距離をとったトリスタンが叫ぶ。
「……だが」
「放っておけば、どんどんやられてしまいます!」
「それもそうだな……」
トリスタンとグレイブが言葉を交わすその間にも、隊員たちは次から次へと倒されていっていた。いくら腕時計による身体能力の強化があろうと、ボスの圧倒的な力の前には無力である。
「ふん。弱い、弱いぞ。我に敵う実力者はおらぬものか」
口元に余裕の笑みを湛えつつ、ボスはそんなことを言う。
彼の言うことも間違いではない。実際、これまでの戦いで彼に勝てそうな隊員はいなかった。
しかし、普通はそんなことは言わないだろう。思ったとしても、心の中に留めておくはずである。それを何の躊躇いもなく平然と言ってのけるボスは、かなりの自信家だと思われる。
そんなことを考えていると、ボスは突然、私へ視線を向けてきた。
「……何ですか」
「我と渡り合える者がいるとすれば、お主くらいだろうか」
はい?という感じだ。
なぜボスの中の私の評価がそんなに高いのか、理解に苦しむ。
「何ならやってみても構わんぞ」
「……え?」
「お主の力、今ここで我に見せてみてもいいぞ」
急にそんなことを言われても、という感じだ。心の準備くらいはさせていただきたいものである。
「どうする?マレイ・チャーム・カトレア」
ボスは落ち着きのある声色で尋ねてきた。
しかし、すぐに答えることはできなかった。
しばらくまともに使っていないこの力を、ボスの前でちゃんと使える自信はなかったからである。
だが——ある意味では、これはチャンスだ。今ここで私が頑張れば、作戦成功に一歩近づけるかもしれない。
「分かった、やるわ」
悩み悩んだ末、私はそう答えた。
「見せてあげる!」
するとボスは、眉を上げ、ニヤリと笑みを浮かべる。
「ふっふっふっ……良かろう」
何やら愉快そうに笑った後、ボスは私の左腕から手を離す。
よし、これで自由の身だ。
「ならばやってみるがいい」
「えぇ!やってやるわよ!」
一応強気に言っておく。
というのも、強気な発言をしておかなくては、弱い私が出てきてしまいそうな気がするからである。
私は右手首にはめた腕時計の文字盤へ指を当て、ボスに向けて構えた。狙うはボスの胸部。この際、すべて消し去るくらいの心持ちでいく。
「消えて——!」
念じるのとほぼ同時に、腕時計から赤い光が溢れ出した。その光は一本の線となり、ボスへと真っ直ぐ突き進んでいく。
そして、赤い光線はボスの胸部へと命中した。
だが、胸部には甲冑があるため、貫くことはできない。赤い光線は甲冑によって防がれてしまっている。
「ふぅんっ!」
ボスはまたしても力む。
すると、腕時計から放たれていた赤い光線は、一瞬にして消えてしまう。
「そんな!」
驚きのあまり、言葉が滑り出てしまった。
本気で放った一撃が、一瞬にして防がれてしまうなんて。そのことに、私は、密かに大きなショックを受けた。
「さすが我が目をつけた娘。なかなかの威力だったぞ」
今この状況で褒められても、ちっとも嬉しくない。
だって、私の弱さが証明されたところなのだから。
ボスに傷をつけるには、もっと威力を高めなくてはならない。そうでなくては、みんなの役に立てない……。
そんな思いが津波のように押し寄せてくる。
「だが、我を傷つけるに至るほどではないな。さすがに我と渡り合うという段階ではなかったようだな」
「まだよ!」
「何だと?」
——でも、まだ諦めるわけにはいかない。
「次は、次こそは、絶対に!」
諦めたら、すべては終わる。
ここで終わりにするわけにはいかない。絶対に。
「やってやるわ!!」
言葉と共に、腕時計から、再び赤い光が迸った。
長い夜を終わらせて、レヴィアス帝国に夜明けを迎えさせる。私たちは、そのために今ここにいるのだ。
「マレイちゃん!何するつもり!?」
トリスタンが動揺したように叫ぶのが聞こえた。
でも、それに答えることはできない。今何が起きているのかなんて、私にもよく分からないから。
「おぉ……まだやる気のようだな」
ボスは目を見張りながら、感心したように述べていた。その様は、新種の生物を発見した学者のようである。
「もう誰も傷つけさせはしない!もう誰も殺させたりしない!あんな悲劇は、もう二度と起こさせない!」
不思議な感覚だ。
私はこんなことを叫べるような勇敢な人間ではない。にもかかわらず、私は叫んでいる。一切躊躇いなく、ボスに向けて言葉を発しているのだ。
まるで、何者かが取り憑いているかのようだと、密かに思ったりした。
「全部ここで終わらせる!!」
口から言葉が出た刹那、腕時計から放たれる赤い光は、これまで見たことがないくらいの規模に広がる。
——そして、視界全体が紅に染まった。
- Re: 暁のカトレア ( No.129 )
- 日時: 2018/09/11 01:13
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 5TWPLANd)
episode.122 誰もが笑っていられるような
目を覚ますと、懐かしい香り。
そして、暖かな日差しを肌に感じた。
私は記憶を辿る。
そう、私は——飛行艇の中庭でボスと戦っていたはずだ。
周囲を見回してみる。しかし、ボスもトリスタンたちも見当たらない。若草色の地面も、噴水も、視界には入らない。今私がいるのは、飛行艇の中庭ではなさそうである。
そうだ、と思い立ち、自分の体を見下ろす。
すると、赤いドレスを身にまとっていることが分かった。襟には華やかな刺繍と、飴玉のように輝くビーズ。やはりこれは、ボスに着せられた赤いドレスだ。
服装は明らかに先ほどまでの続き。なのに場所は飛行艇の中庭ではない。
私は夢でもみているのだろうか……。
それから私は、再び、辺りを見回してみた。
地面は舗装されていない。ほぼ土のままで、ところどころに小石が転がっている。周囲には様々な形の木々が生い茂っており、どこか懐かしさを感じさせる風景だ。暖かな太陽光が差し込む空は、青く、澄みきっている。
「綺麗な……ところ」
私は半ば無意識で呟いていた。
それと同時に、目から涙がはらりと落ちる。
悲しいことがあったわけではない。にもかかわらず、自然と涙がこぼれたのは、視界に入る景色があまりに美しかったからだろう。
ちょうど、そんな時だった。
「マレイ」
どこからともなく聞こえてきた声に、私は驚き周囲を見回す。驚いたのは、その声が、聞き覚えのある声だったからである。
「……母さん?」
涙を拭いて、キョロキョロと目を動かしてみた。だが、母の姿は見当たらない。
ただ、再び声が聞こえた。
「マレイ。ここよ」
「……母さん?どこなの?」
「ここよ」
その瞬間、手の甲に何かが優しく触れるのが分かった。温かな感触に、また涙がこぼれそうになる。
「後ろ。マレイの後ろにいるの」
母の声が耳元で聞こえ、私は恐る恐る背後へ視線を向ける。するとそこには、あの夜と何も変わらない母の姿があった。
「母さん……なの?」
「大きくなったわね、マレイ」
すべてが炎の餌食となったあの日。すべてが失われたあの夜。私の目の前で塵と化したはずの母が、今、目の前にいる。その事実を、私は、すぐには理解できなかった。
「そして、強くなったのね。昔は泣いてばかりだったのに」
母はそう言って、私の瞳を見つめながら笑う。
「石ころにつまづいて、転んで、いつも泣いていたのが懐かしいわ」
昔の私を知る者は、今やこの世にはいない。それだけに、母が昔の話をしてくれることは嬉しかった。もちろん、過去を思い出してしまうわけだから、切なくもあるけれど。
「母さん。私は……死んだの?だから、母さんのところへ来れたの?」
それまでは少しも思わなかったけれど、母と言葉を交わした瞬間、急にそんなことを思ったのだ。私が死んだから、母のもとへ来れたのではないか、と。
だが、母は首を縦には振らなかった。
「それは違うわ。マレイは死んでなんていない」
「じゃあ、私はどうして……こんなところにいるの?死んでいないのに母さんに会えるなんて……変よ」
母は死んだ。そして、死人が生き返ることはない。
それは、決して揺らぐことのない事実だ。
「それはね、マレイ。貴女がそれを望んでくれたからよ」
「私が……望んだから?」
「そうよ。貴女が望んでくれたから、今こうして、話すことができているの」
そう言って、母は私をそっと抱き締めてくれる。体全体に、言葉にならないほど心地よい、温かな感触が広がった。
「待って。そんな非現実的なこと……理解が追いつかないわ。望んだら死人に会える、なんて聞いたことがないもの」
すると母は、ゆったりと頷きながら言葉を発する。
「そうね。でも、世の中には非現実的なことだってあるのよ」
……そういうものなのだろうか。
確かに世の中には、人間には到底理解できないような不可思議ことがたくさんある。私だって、それを知らないわけではない。
だが、死んだはずの人とこうして話すというのは、どうも慣れない。
「こんなことを面と向かって言うのは少し恥ずかしいけれど……可愛い娘にまた会えて、幸せよ」
「……私も会いたかった」
母の優しい言葉に、私は本心を返した。
これまでずっと、忘れよう忘れようとしてきたけれど。でも、完全に忘れることはできなくて。心のどこかでは、母にもう一度会いたいと思っていた。その願いがこんな形で叶うとは夢にも思わなかったけれど——嬉しいことに変わりはない。
「母さんに会えて、嬉しい。ずっと寂しかった。いつかまた、どこかで会えたらって、本当はそう思っていたの」
幼い日に感じた温もりを、こうしてまた感じられている。懐かしい香りに包まれながら、大切な人と言葉を交わせる。
凄く幸せなことだ。
この時間が永遠になればいいのに、と思った。
——でも。
ふと、私の脳に、そんな言葉が浮かんだ。
それと同時に、幸福に溺れていた私の脳は、現実へと引き戻される。
そうだ、私は帰らなくてはならない。トリスタンやグレイブのいる、あの中庭へと。そして、すべての元凶であるボスを倒さねばならないのだ。
だから私は、その身を母の胸から離した。
「ありがとう、母さん。また会えて、本当に嬉しかったわ」
「……マレイ?」
「でも私、いつまでもこうしてはいられない」
やっと再会できたのにまた別れなくてはならないなんて、寂しいし、悲しいし、切ない。
けれど、私は行かなくてはならないのだ。
「みんなのいるところへ、帰らなくちゃ」
「マレイ……ずっとここにいてもいいのよ?そうすれば、戦うことも傷つくこともなく、幸せに暮らせるわ」
「ううん。母さん、私は、みんなのところへ帰るわ。早く帰って、ボスを倒さなくちゃならないの」
すると母は、切なげな眼差しでこちらを見つめながら、静かに微笑んだ。
「そう……いい仲間に出会えたのね」
母の言葉に対し、私は強く大きく頷く。
「そうなの!みんないい人ばかり!全部終わったら、母さんにも紹介したいわ」
「……良かった」
「え?」
「良かったわ。貴女が暗闇を歩き続けずに済んで」
母が笑ってくれると、私も嬉しい気持ちになる。
「ありがとう、母さん」
そう、笑っている方がいい。
みんなが笑顔で過ごせる世界の方が、ずっと素晴らしい。
「またね」
だからこそ、私は戦う。
誰もが笑っていられるような、平和な世界を作るために。
- Re: 暁のカトレア ( No.130 )
- 日時: 2018/09/11 01:14
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 5TWPLANd)
episode.123 毒
「……ん」
気がつけば私は、飛行艇の中庭へと戻ってきていた。人の声が飛び交っていて、何やら騒がしい。
ゆっくりと瞼を開く。
すると、すぐそこに、私の顔を覗き込むゼーレの顔があった。
「えっ!?」
私は思わず大きな声を出してしまう。
まさかゼーレがいるなんて、欠片も想像していなかったからである。トリスタンやグレイブならともかく、ゼーレがいるとは、衝撃だ。
「カトレア!気がつきましたか!」
ゼーレはゼーレで、私が急に目覚めたことを驚いている様子だった。
「えぇ」
「良かった……!」
私が小さく返事をすると、ゼーレはほっとしたように溜め息を漏らす。額も頬も汗にまみれているが、瞳には安堵の色が滲んだ。
「……心配させないでいただきたいものですねぇ」
「ごめんなさい。心配させてしまって」
「……目覚めたので、許して差し上げます」
相変わらずの物言いだ。だが、日頃なら複雑な心境になったであろう物言いさえ、今は微笑ましく感じられる。
私はすぐに体を起こし、周囲を見回す。どうやら、まだ戦いは続いているようだ。
「どういう状況なの?」
速やかにゼーレに尋ねた。
すると彼は、青白くなった顔に浮かぶ汗を黒いマントの端で拭きつつ、口を開く。
「私は……フランと共に、リュビエを追ってここまで来ました。私たちが中庭へ着いた時は、貴女が力を使った後だったようでしたが……あのボスが、珍しくダメージを受けていました」
彼の簡単な説明からすべてが分かるわけではない。しかし、私が力を使ったということは確かのようだ。そして、それによってボスにダメージを与えたということも、事実のようである。
「現在は……トリスタンらが、ボスやリュビエと戦っているようですねぇ……」
「そうだったのね」
「もうひと頑張り、というところでしょうかねぇ……っ」
そこまで言った時、ゼーレは突然、手で額を押さえた。
「ちょっ、ゼーレ!?」
いきなりのことに、私は慌てることしかできない。
本来はこういう時こそ冷静に対処すべきなのだろう。しかし、私はそこまでしっかりした人間ではない。情けないことだが。
「どうしたの!?」
「……いえ。放っておいて下さい。何でもありません」
「嫌よ!放ってなんておけないわ!」
「カトレア……貴女は自分の心配をしなさい……」
そう述べるゼーレの声は、弱々しかった。
彼は私が心配することを望んではいないのだろう。しかし、私は弱った彼を心配せずにはいられない。
「何かあったの?もしかして、また怪我を?」
「……いえ」
「ストレスで胃が?」
「……いえ」
「悪寒とか?関節痛とか?」
「……馬鹿ですか、貴女は。風邪をひいてなど……いません」
思いつく限りの辛いことを聞いてみたが、ゼーレは、そのどれにも頷かなかった。はぁはぁと荒い息をしながら、首を左右に動かすばかりである。
「だったら、何なの!?」
焦りやら不安やらによって落ち着きを失ってしまった私は、つい調子を強めてしまう。
するとゼーレは一瞬口を動かしかけた。が、すぐに黙り込む。凄く気まずそうな顔をしている。
「何があったの?」
私はもう一度尋ねる。
今度は小さな声になるように意識して尋ねてみた。
すると、しばらくしてから、ゼーレはやっと答える。
「……毒で」
「毒!?」
思わず大声を出してしまい、慌てて口を塞いだ。
「毒って、一体?」
「……リュビエの蛇の毒です」
「そんな!元仲間にまでそんなことを!?」
リュビエの蛇、と聞くと、思い出すのはトリスタンだ。彼が蛇の毒を受けて連れ去られた時のことが、脳内に浮かんできた。
だが、まさかゼーレにまで、毒を食らわせるなんて。
「ゼーレはかつての仲間じゃない!」
「かつての仲間……リュビエにしてみれば、そんなものは関係のないことです」
ひと呼吸おき、ゼーレは続ける。
「……敵、ですから」
夜の湖のように静かな声で述べるゼーレ。その声は、どこか寂しげな空気をまとっていた。もしかしたら、本当は少し、寂しいと思っているのかもしれない。
——刹那。
「ゼーレ、ごめんっ!一匹そっち行った!!」
耳に飛び込んできたのは、フランシスカの高い叫び声。
そして、それとほぼ同時に、こちらへ迫ってくる一匹の蛇型化け物が見えた。
「……厄介……ですねぇ……」
ゼーレは掠れた声で漏らしながら、迫りくる蛇型化け物へと視線を向ける。そして、よろけながら立ち上がると、高さ一メートル程度の蜘蛛型化け物を二匹作り出した。
彼は全身に毒が回り弱っているはず。しかし、蜘蛛型化け物を作り出す速度は普段と少しも変わらない。
「カトレアをやらせはしません……!」
向かってくる蛇型化け物は、これまでに見たものたちと比べても、かなりの大きさだった。
輪切りにした断面は直径一メートルほどあるだろう、と推測される太さ。成人男性四人分くらいはありそうな長さ。
それらが見た者に与える衝撃といったら、もはや言葉にならぬほどの、凄まじいものである。
「……護りなさい!」
ゼーレが指示を出す。
すると、二匹の蜘蛛型化け物は、蛇型化け物に向けて炎を吐き出した。あの夜私の村を焼き払ったのと同じ炎だ。
蛇型化け物は、炎に包まれ、じたばたと悶えるように動く。
しかし、しばらくすると、一気にこちらへ進んできた。体に移った火は消えきっていないにもかかわらず、である。
「来たわ!ゼーレ!」
「……カトレアは下がっていて下さい」
「どうして!下がっていなくちゃならないのはゼーレの方よ!」
「まったく……うるさいですねぇ……」
そんな風に言い合いをしている間にも、蛇型化け物は近づいてきた。火をまとっているため、先ほどまでよりも危険度が増してしまっている。
そもそも負傷しており、毒でさらにダメージを受けてしまったゼーレでは、この敵には勝てない。そう判断した私は述べる。
「退いて、ゼーレ。私が」
——だが、言い終わるより先に、彼は私を突き飛ばした。
想定外の突き飛ばし方をされた私は、何もできぬまま、その場で転倒してしまう。
「……どうして。どうして、そんな乱暴なことをするの?」
問ってみるが、ゼーレは何も答えない。彼の瞳は、すぐそこへ迫る蛇型化け物だけを捉えている。
次の瞬間、蛇型化け物はその大きな尾を、ゼーレに向けて振り下ろした。
「ゼーレ!!」
あんな太い尾を叩きつけられたら、いくらゼーレとはいえ無事ではいられないだろう。良くて軽傷、悪ければ死亡だ。
不安に駆られながらも、勇気を出して、思わず閉じてしまっていた瞼を開く——そして、視界に入った光景に驚いた。
ゼーレの金属製の両腕が、蛇型化け物の尾を掴んでいたのである。
「……焼きなさい」
彼の口が微かに動く。
直後、二匹の蜘蛛型化け物は、蛇型化け物とゼーレに向かって炎を吐き出した。
「駄目よゼーレ!危ないわ!」
彼がしようとしていることに気がついた私は、咄嗟に叫ぶ。
「貴方まで巻き込まれる!」
でも、もう遅かった。
彼を止めることは、私にはできなかったのである。
- Re: 暁のカトレア ( No.131 )
- 日時: 2018/09/11 15:28
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SqYHSRj5)
episode.124 覚悟とか忠誠とか
二匹の蜘蛛型化け物が放った炎は、敵である蛇型化け物を、ゼーレ諸共包み込む。その瞬間、私の脳裏に蘇ったのは、あの夜の光景だった。
すべてが燃え、焼けて、最後には目の前で母が塵となる——。
私が何よりも恐れていたあの光景が、今再び、鮮明に蘇った。
何度も夢に見たほど、恐ろしい光景。毎晩私を恐怖のどん底へと突き落とした、呪いのような光景。帝国軍へ来てからは忙しい毎日で、しばらく忘れていたけれど、思い出してしまった。
「……ゼーレ!」
絞り出すようにして叫ぶ。
今はただ、彼の声が聞きたかった。嫌みでもいい。傷つくようなことでもいいから、声を聞かせてほしい。
——お願いだから、私を遺して逝かないで。
少しすると、炎が収まった。
そこに蛇型化け物の姿はなく、ただ黒いものだけが残っていた。
「ゼーレ!」
私はすぐにそこへ駆け寄る。そして、焼け焦げた黒いマントの下にある人間の体を、そっと抱き上げた。
「大丈夫?生きている……わよね?」
彼の体は、想像以上の重さだ。動くことはない。
「……ゼーレ。ねぇ、何か言って」
見下ろす彼は死体のように静かだった。ただ、冷たくはなっていないことを思うと、まだ辛うじて生きているのだろう。
そうよ、ゼーレが死ぬはずがない。こんなくらいで、こんな炎くらいで。
私は心の中で呟き、自分を励まそうと試みる。しかし、込み上げてくるものを止めることはできなかった。
目からは無数の涙の粒が、はらはらとこぼれ落ちる。こんなことをしている場合ではない、と目元を拭っても、感情の波は収まることを知らず、涙の粒はどんどん溢れてくる。
そんな私の頭に、ふと、何かが触れた。
今まで経験したことのない感触に、戸惑いつつも面を上げる。そして目にしたのは、蜘蛛型化け物の脚だった。
「え……」
蜘蛛型化け物が、私の頭を撫でてくれていたらしい。まるで親が子を撫でるかのように、優しく、頭を触ってきている。
「励まして……くれているの?」
言いながら、私は、「やはりゼーレは生きている」と確信した。
前にクロやシロを倒した時、その後に彼らが作り出した化け物を見かけたことはなかった。作り出した本人が消えた後は、大抵何もなくなっていた記憶がある。
しかし、今はそれらの時とは違い、蜘蛛型化け物がこうして存在している。ということは、恐らく、ゼーレはまだ生きているのだろう。
ゼーレが死んだと思いたくない私の都合のいい解釈かもしれないが、まんざら間違ってもいなさそうな気がする。彼の体にまだ温かさが感じられる、ということもあるし、ゼーレがまだ生きている可能性は高い。
ただ、動けるような状態でないことだけは確かだ。
「ゼーレ……終わらせてくるわ」
私は彼の体をその場に置く。それから、近くにいる二匹の蜘蛛型化け物へ「お願いね」と言って、立ち上がる。
「貴方の優しさを無駄にはしない……だから、すべてが終わるまで待っていて」
横たわるゼーレへ告げ、私はトリスタンたちがいる方へと歩き出す。
リュビエを、そしてボスを、ここで倒す。決着をつける。
その覚悟は固まった。もう決して揺るがない。これまで何度も覚悟をする瞬間はあったけれど、これが最初で最後の——本当の覚悟だ。
「マレイ!気がついたのか!」
「起きたんだね、マレイちゃん。でも、まだあまり動かない方がいいよ」
「そうだよっ!まだじっとしていなくちゃ!」
戦場へと歩いていった私に向かって、グレイブとトリスタン、そしてフランシスカが、そんなことを言っていた。
だが、今の私には関係ない。
心を決めたのだ。戦うと。だから、じっとなんてしていられない。
「戦うわ、私も」
今は腕時計があるから、私だって戦える。
「ここですべてを終わらせて……一刻も早く帰りたいの」
すると、トリスタンが微笑しながら口を開いた。
「もちろん。僕も同じ気持ちだよ。マレイちゃんの言う通り、こんなところでもたもたしてはいられない」
繊細な容貌ながら、その笑みには芯がある。その芯とは、戦場に生きてきた者の、決して折れることのない強さだ。
「トリスタンがそう言うなら、フランも賛成!確かに、こんな時間は勿体ないもんねっ!」
「マレイ、お前はなかなか良いことを言うな。さすがだ」
フランシスカとグレイブも頷く。
「よし。マレイの言う通り、これで決着をつけよう」
グレイブは前へ垂れてきていた髪を片手で背中側へ流すと、長槍の柄を握り直す。
「ボス!リュビエ!そろそろ消えてもらう!」
勇ましく叫ぶグレイブ。
その声に反応し、リュビエがボスより数歩前へと歩み出す。
「お前たちにボスを倒すことはできないわ。あたしが、そんなことはさせないもの」
リュビエは淡々と述べる。
だが、落ち着きのある態度とは裏腹に、既にかなり傷ついているようだ。
蛇のようにうねった緑の髪は、下の方が、まるで火に炙られたかのように黒くなっている。また、体のラインが出るボディスーツには、ところどころに焼けたような跡があった。
「化け物工場は壊れちゃったしー、体力も消耗しちゃってるしー、もういい加減諦めてもいいんじゃないっ?」
フランシスカの発言に、リュビエの表情が鋭くなる。
「黙れ!工場も蛇型も関係ない!」
「えー。本当にっ?」
「お前らごときがボスを倒そうだなんて、百万年早いわ!思い上がるんじゃないわよ!」
リュビエが珍しく荒れている。これだけ冷静さを失っているということは、彼女としても、追い込まれつつある自覚はあるのだろう。だからこそ、こんな激しい物言いになっているに違いない。
「それ以上余計なことを言うなら、承知しないわ!」
憤りで落ち着きをなくしつつあるリュビエに、ボスが声をかける。
「リュビエ、落ち着くがいい」
「お言葉ですが、ボス!落ち着いてなどいられません!この無礼者をどうにかしない限り、落ち着いてなど!」
リュビエはらしくなくボスに口答えした。すると、ボスのリュビエを見る目が、急激に冷ややかなものに変わる。
「黙れ、女ごときが」
氷で形作られた剣の先を突きつけるような視線と、まったく温かみのない言葉。先ほどまでとは別人のようなボスの態度に、さすがのリュビエも動揺しているようだった。
「し……失礼致しました、ボス。しかし、その……身のほどをわきまえぬやつらには……」
動揺のあまりか、リュビエの発する言葉は、途切れ途切れになってしまっている。ボスにまた怒られたら、という恐怖もあるのかもしれない。
「身のほどをわきまえぬやつはお主だ、リュビエ」
「……え?あ、あたし……ですか……?」
「そうだ。お主は役立たずだ」
ボスの棘のある言葉に、リュビエはふらふらと後ずさる。
「も、もしあたしに無礼があったのなら……謝ります!何がお気に障ったのでしょうか!?」
「すべてだ」
ボスの発する言葉、その一つ一つが、リュビエを痛めつけていく。
「お主はろくに任務もこなせず、いつも負けばかりで戻ってくる。ずっと無能だと思っておった」
「無能……確かに、それは……その通りやもしれません……」
リュビエは唇を震わせながらも、必死に言葉を紡いでいた。その様からは、精神的ダメージの大きさが窺える。
「だが、その忠誠心だけは評価して、いつも大目に見てやっていたのだ」
「は、はい!ボスへの忠誠でなら、誰にも負ける気はありません!」
「しかし、先ほどのような口答えをした。それはつまり、お主が我に絶対的な忠誠を誓ってはいないということだ」
「いえ!あたしのボスへの忠誠は、決して揺るぐことのないものです!」
リュビエはボスに捨てられまいと必死だ。懸命に言葉を発している。
だがボスは、非情にも、残酷なことを命じた。
「ならば、ここで自害してみせよ」
- Re: 暁のカトレア ( No.132 )
- 日時: 2018/09/11 15:47
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SqYHSRj5)
episode.125 リュビエ
「ボス……。一体、何を……」
残酷な命令を受けたリュビエは、唖然としながら呟く。
ヒールの高いロングブーツを履いた脚が、微かに震えていた。
「ちょっと!いきなり何てこと言うのっ!?」
ボスの「自害してみせよ」などという滅茶苦茶な命令に、一番に抗議したのはフランシスカ。言われたのが敵であるリュビエだとしても、許しはできない——フランシスカはそんな顔をしていた。
「仲間にそんなことを命じるなんて、どうかしてるっ!」
「お主には関係のないことだ」
だが、フランシスカの抗議をボスが真摯に受け止めることはなかった。
「我が手の者がどうなろうが、お主らには関係のないことよ。参加してくるな」
「確かに関係はないのかもしれないけどっ……でも!仲間に対して自害を命じるなんて変だよっ!」
フランシスカはさらに続け——ようとしたのだが、リュビエがそれを制止した。
「……お前には関係のないことよ。口出ししないで」
「あんなこと言われて腹立たないのっ?」
「腹なんて……立たないわ」
リュビエは感情のこもらない声でフランシスカにそう言った。何もかもを諦めたかのようなその声には、さすがのフランシスカも言葉を飲み込む。
それからリュビエは、口を閉ざしたまま、ボスの前へと赴いた。彼の目の前に着くと、リュビエはすっとひざまずく。
「……承知致しました、ボス」
静かにそう述べたリュビエは、何も思い残すことはない、といった風な様子だった。
彼女はすべてを捨てるつもりなのだろうか——ボスのために。
「侵入者どもを排除した後、速やかに自害致します」
彼女の言葉からはとてつもなく強い決意が感じられた。
だがそれは、逆に、「己の生命など、もうどうとでもなれ」という、一種の諦めのような感情から来たものなのかもしれない。今はなぜか、そんな気がする。
そしてリュビエは立ち上がった。
「リュビエ……」
諦めの境地に達しているようにも見えるリュビエ。彼女を不安げに見つめているのは、意外にもフランシスカだった。
フランシスカはトリスタンに好意を抱いている。だからこそ、ボスを敬愛するリュビエが今どれほど辛い思いをしているのか、察することができているのかもしれない。
同じ恋する女性として、フランシスカはリュビエを心配している。そんな風に感じた。
「……何なの、その目は」
「えっ?」
「同情してあげている、みたいな目であたしを見ないで」
「べっ、べつにフラン、そんな目で見てないっ!」
するとリュビエは、吐き捨てるように「まぁいいわ」とだけ言った。
そして、動かしにくそうな右手を胸元へ当てる。
「もう……終わりだもの」
ゆっくりと唇が動く。
直後、非常に強い緑色の光が放たれた。
眩しさに思わず瞼を閉ざし、次に目を開けた時、そこにリュビエの姿はなかった。代わりに、一匹の巨大な蛇が佇んでいる。
「リュビエが蛇にっ!?」
一番に驚きの声をあげたのはフランシスカ。
彼女の言葉で、気がついた。目の前にいる蛇が、リュビエが変化したものなのだと。
その巨大な蛇は、フランシスカに迫っていく。
「やっぱりフランを狙ってくるよねー……」
言いながら、フランシスカはドーナツ型武器を二つ出現させる。そして、かつてリュビエだった巨大な蛇をターゲットとして、投げた。
だが、巨大な蛇はそれらをするりとかわす。まるで、その軌道を読んでいたかのように。
「フラン!援護する!」
無防備な状態で襲われそうになっているフランシスカを見、長槍を持ったグレイブがそう叫んだ。腕時計によって身体能力が強化されているグレイブは、一度地面を蹴るだけで、槍先が届くくらいまで巨大な蛇に接近した。凄まじい脚力だ。
「はぁっ!」
巨大な蛇に向けて、グレイブは長槍を振り下ろす。
それにすぐ気がついた巨大な蛇は、するりとすり抜けようとした。が、ほんの僅かに間に合わず、尾の先端を数十センチほど切断されてしまった。
けれども、巨大な蛇は尾の先の切断など微塵も気にかけない。何事もなかったかのように、フランシスカに迫る。
「来ないでっ!」
フランシスカは大量の光弾を発射する。
光弾一つ一つは小さいが、数が物凄く多いため、結構ダメージを与えられそうな感じだ。
——しかし。
「そんなっ。無視なの!?」
かつてリュビエだった巨大な蛇は、光弾を避けようともしない。光弾の嵐を躊躇いなく浴びながら、フランシスカへ突っ込んでいく。
巨大な蛇は、今、フランシスカしか見えていないのだろう。フランシスカを倒すことに、異常なほど執着しているように見える。
このままではフランシスカが危険だ。
彼女のためなら私も援護したいけれど、その隙にボスに逃げられては困るのでできなかった。今はただ、援護に回ったグレイブを信じる外ない。
フランシスカが放つ無数の光弾を浴びながらも、巨大な蛇はどんどん彼女へ近づいていく。そしてついに、巨大な蛇が攻撃に出た。尾で殴る攻撃だ。
「……んっ!」
放たれた一発目を、フランシスカは、両手に持ったドーナツ型武器で防ぐ。狙いが胸辺りだったため、何とか防ぐことができたようだ。
しかし、すぐに二発目が迫る。
「……あ」
体勢を立て直すのが間に合わず、フランシスカは巨大な蛇の尾に殴り飛ばされてしまった。
私が思ったほどの距離は飛ばなかったが、地面に倒れたフランシスカは動けそうにない。うつ伏せに横たわったまま、指先だけを震わせている。
「貴様っ!!」
その直後、グレイブの長槍が巨大な蛇を貫く。そして最終的には、巨大な蛇を真っ二つにした。
真っ二つにされてしまった巨大な蛇は、すうっと体が透き通り、やがてリュビエの姿へと戻る。リュビエの姿へ戻ると、彼女は地面にドサリと倒れた。
「ボ……ス」
そう一言だけ呟いた後、彼女の体から力が抜けた。素人と変わらない私が見ても分かるほど、分かりやすい脱力の仕方だ。
息絶えたのかどうかは分からないが、これで、リュビエが立ち上がることはもうないだろう。
残るは、ボス一人。
彼を倒しさえすれば、この戦いは終わる。そして、帝国を覆う夜の闇も消え去ることだろう。
- Re: 暁のカトレア ( No.133 )
- 日時: 2018/09/11 21:59
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 4V2YWQBF)
episode.126 これが最後かもしれないし
「使えぬやつだったな、リュビエも」
脱け殻のように地面へ倒れ込んだリュビエを目にしても、ボスはただぽそりと呟くだけ。あれほど自分を慕い、傍で熱心に働いていた女性がやられたにもかかわらず、彼はほんの少し悲しむことさえなかった。
「それだけ?君は本当に、人の心がないね」
そんなボスの態度に不快の色を見せたのはトリスタン。
白銀の剣をしっかり構え、いつでも戦える、というような顔つきをしている。
「人の心、だと?」
「そうだよ。君には人間らしさというものが欠落している。仲間がやられたっていうのに、平気で『使えぬやつ』なんて切り捨てるところとかね」
「……ほう。確かにそうやもしれん。だがな」
ひと呼吸空けて、ボスは続ける。
「心などというものは、人を弱くすることしかない。まったくもって無意味なものだ」
ボスはやはりボスだった。
彼には人の心はない。ゼーレもリュビエも持っていたけれど、ボスはそれを持っていないようである。
人間らしさを持たぬ彼と分かりあうことはできない。
改めて、そう感じた。
「そういう考え方、僕は一番好きじゃない!」
「お主の好き嫌いなど、聞いてはおらん」
「ま、でもその方がいいよ。その方が……躊躇わずに斬れるからさ!」
言い切ると同時に、トリスタンは地面を蹴った。白銀の剣を手に、再びボスへ戦いを挑んでいくつもりのようだ。
けれど、まともにやり合えば、トリスタンが勝てる確率は低い。ボスはトリスタンの動き方を記憶しているから。
「待って、トリスタン!貴方の動き方は把握されているわ!」
素早くボスの背後に回り、白銀の剣を振る。だが、その振りさえ読まれていたらしく、ボスに片足で止められていた。やはり、このまま一対一でやり合うだけでは、トリスタンに勝ち目はなさそうだ。
「けどマレイちゃん!やるしかないよ!」
「分かっているわ!だから——」
腕時計を装着した右腕をボスへ向け、光線を発射する。
比較的細い光線だったため、甲冑にあっさり弾かれてしまった。だがボスの意識をこちらへ向けさせることはできたので、上出来だ。
「私も一緒に!」
トリスタンの青い瞳は、確かに私を捉えている。
「……そうだね」
「えぇ!」
今、私たちの心は一つ。
ボスを倒す。それだけを目指し、ただ戦うのだ。
「マレイ・チャーム・カトレア、お主に何ができる」
私とトリスタンが離れた場所で頷きあうのを見てか、ボスはそんなことを言ってきた。
「できるわ。何だって」
短く答えると、ボスは眉間にしわをよせる。
「お主は甘い。我を甘く見すぎだ」
「そう?でも、さっきの一撃にはダメージを受けたんじゃないの?」
「確かに。あれは強烈であった。だがしかし、もう一度あれほどの力を使うことはできまい」
それはそうかもしれない。
ボスの言うことも、完全な間違いではないと思う。
先ほどボスにダメージを与えた一撃は、無意識に放った攻撃だった。だから、あれを意図的にもう一度やれるかと聞かれれば、「もちろん」と自信を持って答えることはできない。
単なる奇跡だったのかもしれないから。
「そうかもしれない。でも、やってみなくちゃ分からないわよ」
トリスタンと視線を交える。
それが——終わりの始まり、その合図だ。
こうして始まった最後の戦いは、これまでに体験したことがないくらい壮絶なものだった。戦いの途中で現れた様々な種類の化け物はグレイブに任せ、私とトリスタンは、ボスと懸命に戦った。逃げることも諦めることもせずに。
その努力が実を結んでか、圧倒的と思われていたボスにも、綻びが目立つようになってきた。
もちろん、すぐに倒せるほどの大きな弱点ではない。
だが、ほんの少しの綻びが、「倒せるかもしれない」という微かな希望を抱かせてくれた。
——どのくらい時間が経っただろう。
もはや時間の感覚というものがなくなってきた。心にあるのは、ボスを倒すことと、ゼーレが生きているだろうかということだけ。
ボスはまだ動きを保っている。
しかし、最初に比べれば遅くなってきたことも確かだ。ボスも、まったく疲労しない、というわけではないらしい。
「大丈夫?マレイちゃん。だいぶ力を使ってるみたいだけど」
「えぇ、平気。これはさほど疲れないの」
私は主に、光線によるサポートを行っている。だからさほど動かない。それゆえ、体力の消耗は少なかった。
それとは逆に、トリスタンは剣での戦いを繰り広げているため、動きが激しい。
「体力は私よりもトリスタンの方が心配よ」
「そう?」
「えぇ。これだけ動き続けていたら、さすがに辛いでしょう」
ボスとまともにやり合っているトリスタンが、疲労していないわけがない。何度かボスの手から出る波動を受けてしまったりしていたし、トリスタンの体にもダメージが溜まっているはずだ。
「今は大丈夫」
「本当に?休むならグレイブさんに……」
「いいよ。僕は平気だから」
それに、と彼は続ける。
「君に僕の戦いを見てもらえるのも、これが最後かもしれないしね」
どういう意味?私はそう尋ねようと思ったが、トリスタンは再びボスに仕掛けに行ってしまった。仕方がないから、私は光線を放つ体勢へと戻る。サポートをしなくてはならないからだ。
「ふん、まだ来るか」
「もちろん。何度だっていくよ」
私の光線でボスの意識を逸らし、そのうちにトリスタンが剣を叩き込む。これが定番のパターンだ。
だから私は、定番通り、ボスの意識を逸らすような位置へ光線を放つ。直後、トリスタンが、ボスの甲冑に護られた体へ剣を叩き込む——と、信じられないことが起こった。
「……よし」
「ぐぬっ!?」
甲冑の一部が割れたのである。
割れたのは、右上腕部辺り。トリスタンが何度も攻撃していた部位だ。
「せあっ!」
右上腕部を覆っていたパーツが割れたことに、ボスは戸惑っている。そのうちに、トリスタンはそこを斬った。赤い液体が飛び散る。
「ぐぅっ!?」
トリスタンは着地して数歩下がると、私に、光線を撃つよう口の動きで指示してきた。
甲冑に護られていない右上腕部に向かって撃て、ということなのだろう。そこが狙い目だ、と言おうとしているに違いない。
——狙うは、ボスの右上腕部。
私は光線を放った。
- Re: 暁のカトレア ( No.134 )
- 日時: 2018/09/12 16:44
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Bf..vpS5)
episode.127 もしも違ったら、なんて考えて
私は赤い光線を放った。
一筋の光線は宙を駆ける。真っ直ぐ、ボスに向かって。
それはまるで涙のよう。
化け物により犠牲になった者。故郷や身近な人を失った者。彼らが流した血が涙に混ざり、頬を伝っていく——その光景を見ているかのように感じられた。
だが、そんなことを考えたのも束の間。
光線がボスの右上腕部へ突き刺さり、爆発が起きた。凄まじい爆風が辺りの空気を激しく揺らす。
「……凄っ」
思わずそんな風に呟いてしまった。
激しい風に見舞われ、赤いドレスの裾がこれでもかというほど揺れる。襟のビーズはいくつか弾け飛んだ。
しばらくして爆風が止む。
ようやく静かになって、私は細めていた目を開く。そうして視界に入ったのは、灰色の甲冑をほぼ失ったボスだった。
どうやら、今の一撃でボスの甲冑を大破させることができたようである。
「トリスタン、これでいいの」
確認のため尋ねると、トリスタンは頷く。そして、親指と人差し指で丸を作って見せてくれた。多分「これでいい」という意味なのだろう。
「お主ら……調子に乗るなよ」
数秒して、ボスは低い声で言ってきた。
地底から聞こえてくる声はこんな感じだろうな、と思うような声だ。
「マレイ・チャーム・カトレア……お主がここまでやる小娘だとは思わなかったぞ」
「私一人の力じゃないわ」
「ふん。随分余裕ありげな言い方だな」
「余裕なんてないわよ」
いつ何を仕掛けてくるか分からないボスと戦っているのだ、余裕なんてあるわけがない。
「……でも、一人じゃないから。信頼できる人がいてくれるから。前を向いて戦える」
こんな演劇みたいなことを言うなんて、正直、私らしくないと思う。私は他人に偉そうな物言いをできるほど立派な人間ではない。
すると、ボスは突然笑い出した。はっはっはっ、と、腹の底から溢れてくるような笑いだ。
「そうかそうか。それは立派なことだな」
……馬鹿にされている気しかしない。
「一人じゃない。信頼できる人がいる。確かに聞こえはいい。だが、所詮は綺麗事よ!そんなものは理想論に過ぎぬ!」
ボスは急に調子を強めた。脅すような強め方だ。
だが、もう怖くはない。
今の私が目の前の巨体に対し恐怖心を抱くことはなかった。
むしろ、可哀想とすら思ってしまう。すべてを理想論と吐き捨て、誰の手も取ろうとしないなんて、憐れとしか思えない。
彼にだって機会はあったはずなのだ。誰かの手を取り、幸福に満ちた人生を歩む機会は。
すぐ傍に手を差し出している人がいたのだから、もしその手を取っていれば、彼も少しは変わっていたかもしれない。そんな風に考える時、私はほんの少しだけ、切なさに襲われる。
——あったかもしれなかった可能性に、思いを馳せてしまうから。
もし彼が、襲撃を途中で止めていたならば。
もし彼が、どこかで人の心を手に入れていたならば。
こんな結末を迎えることはなかっただろう。私たちがボスを倒すなんて、しなくて良かったに違いない。
「マレイ・チャーム・カトレア。お主が信じているものも、所詮すべては幻想よ」
「いいえ……幻想などではないわ」
「今から我が証明してやろう!お主の信じているものを壊すことでな!」
信じているもの。
その言葉を聞き、私は咄嗟に叫ぶ。
「トリスタン!」
ボスは先にトリスタンを潰すつもりだと気づいたのだ。
「……マレイちゃん?」
「逃げて!」
ボスが全身の筋肉に力をこめるのが分かった。ボスは本気でトリスタンを潰しにかかる気なのだろう。
「早く!!」
直後、ボスは両の手のひらをトリスタンへかざした。
そして、力む。
「ふぅん!」
ボスの手のひらから、波動のようなものが放たれる。
トリスタンは咄嗟に白銀の剣を体の前へ出す。それにより、波動のようなものを辛くも防いだ。ずずず、と数メートルほど後ろへ下がらされてしまっていたものの、体がダメージを受けることはなかったようである。
私は安堵した。
……けれど、それは間違いだった。
「終わらせてやろう」
ボスはその巨体を低く屈め、握り拳で、トリスタンの腹部を突き上げる。対応しきれず打撃をもろに受けたトリスタンはふらつく。
そこへ、もう一方の拳が迫る。
「ふぅん!」
凄まじい鼻息と共に放たれたボスの二発目のパンチは、トリスタンの脇腹に命中。トリスタンの体は紙切れのように飛んでいってしまった。
「トリスタンッ!」
成人男性をこうも容易く殴り飛ばすとは、想像するだけでも恐ろしい。もしあれを私が食らえば、再起不能になることは間違いないだろう。それだけは絶対に避けなくては。
「なんてことをするの!」
私は思わず言い放った。
ボスからしてみれば、トリスタンは敵。だから、ボスがトリスタンに攻撃するのは、当然ともいえるのだ。
だがしかし、「何もここまでしなくても……」と思ってしまう部分はある。
「酷いわ!!」
感情的になっても、良いことは何もない。それは分かっている。でも、それでも、沸き上がる感情を抑えることはできなかった。
私は、大切な仲間が目の前で傷つけられて黙っていられるほど、大人ではなかったのだろう。
だがボスはというと、私の言葉に対しては何も答えなかった。彼は倒れ込んだトリスタンへ近づくと、その背中を片足で踏む。
「止めて!」
「いいや、止めん」
トリスタンの身を、ボスは、まるで道端のごみのように扱う。その行為はさすがに許せず、私は右腕をボスへと向けた。
「なら死んでもらうしかないわ!」
こんなことを言うなんて、らしくないとは思う。でも、トリスタンを助けるには、私がボスを倒す外ない。
言葉は時に夢を現実へと変化させる——。
今は、そんな僅かな可能性にもすがりたいような気分だったのだ。
「ふん……小娘の分際で偉そうなことを。お主ごときに我が倒せるものか」
誰だってそう思うだろう。
巨体のボスと、ただの女の私。二人がぶつかり、そのどちらが勝つかと問われれば、多くの者がボスを選ぶに違いない。
けれど、奇跡が起きることだってあるはずだ。
だから私は諦めない。最後まで、諦めたくない。
「そう思われるのは当然だわ。でも……倒してみせる!」
告げた瞬間、腕時計が再び赤く輝いた。
- Re: 暁のカトレア ( No.135 )
- 日時: 2018/09/12 16:45
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Bf..vpS5)
episode.128 一と一
腕時計から赤い光が溢れる。見覚えのある光景だ。
そう、確かあれは、ダリアでシブキガニと戦った時。初めて一対一で化け物を倒した、記念すべき日だったと思う。
あの日、私は、今と同じ光景を目にした。
私の意思に関係なく、腕時計から当然光が放たれるという光景を。
もしこれが、あの時と同じなのだとしたら、この赤い光がやがて剣となるはず。シブキガニと戦ったあの時以来、この現象が起きたことは一度もないけれど、可能性はゼロではない。
「……何だと?」
これにはさすがのボスも怪訝な顔をする。今までの光線とは違う、ということを、薄々感じているのだろう。
「お主、何をするつもりだ」
私に聞かれても。
それが本心だ。いや、もちろん、そんな返答はしなかったけれども。
「さぁね」
一応返しておく。
言ってから、かっこつけすぎたかもしれないと少し思ったりしたのは、秘密にしておこう。
そのうちに赤い光は、一ヶ所に集まっていく。そしてついに、剣の形へと変化していき始めた。
予想通りだ!と、嬉しい気持ちが込み上げてくる。だが今は、そう呑気に喜んでいる場合ではない。剣を取り、戦う。そしてボスを倒さなくては、何の意味もないのだから。
光が去り、剣は私の手元へ落ちてくる。私は落とさないよう、何とかキャッチした。
刃部分は細く、銅のような赤茶色。持ち手は赤で、華やかな装飾が施されている。どこの誰が作ったのかは知らないが、個人的には、結構綺麗な剣だと思う。
「ほう、剣か」
剣を手に取る私の姿を見て、ボスは低い声でそう述べた。
「光だけではないのだな。実に興味深い」
研究したい、みたいな目で見るのは止めていただきたいものだ。
そんなことを思っていると、ボスは唐突に話しかけてきた。
「マレイ・チャーム・カトレア」
先ほどまでとは打って変わって穏やかな表情になっている。非常に不気味だ。
「……何?」
「もう一度だけ問おう。我につく気はないか」
ボスの言葉に、私はただ唖然とすることしかできなかった。
何を今さら——。
そんな思いだけが、心を満たす。
「お断りよ。残念だけど、貴方につく気はないわ」
「我が研究に協力する気はないか。お主の力を研究すれば、新たな化け物を生み出すことができるやもしれぬ。そうすれば、お主も多くのものを手に入れられるぞ」
「いいえ。人を傷つけることしか頭にない貴方に、協力することはできない」
何と言われようが、それだけは譲れない。
私も、化け物狩り部隊のみんなも、そしてゼーレも、ボスに多くのものを奪われてきたのだ。それを忘れ、彼につくなんて、できるわけがない。
するとボスは、はぁ、と溜め息を漏らす。
「……そうか、残念だ」
言い終わるや否や、ボスは私へ手のひらを向けてくる。
波動のようなものを使った攻撃だろう。
「ふぅん!」
先ほどトリスタンがやられた時の光景を、忘れてはいない。私は咄嗟に足を動かし、その場から離れる。
赤いドレスは布が重くて走りにくい。
だが、早めに走り出したため、何とかかわすことができた。ギリギリセーフである。
「逃がさんぞ!」
ボスの鋭い声が飛んできた。
その声に怯みそうになりながらも、「しっかりしなくちゃ!」と自身を鼓舞し、走り続ける。
手には剣。そして腕時計。
私が使える武器はそれだけしかない。少し離れた場所にいるグレイブを呼びにいく暇もない。
「我に手を貸さぬなら!ここで消し炭にしてやろう!」
今やボスは、私さえ殺す気のようだった。思い通りにならない者を生かしておく価値はない、ということなのだろう。
けれど、そう易々とやられる気はない。
そのうちに、ボスは再び狙いを私へ定め、手のひらを向けてきた。
ここから力み、波動のようなものを出す、という流れだろう。波動のようなものの威力は結構なものだ、油断はできない。しかし、力んだ後しばらくはボスはその場に停止するので、その瞬間は逆に、攻撃を当てるチャンスとも捉えられる。
「ふぅん!」
ボスの手のひらから、波動のようなものが放たれた。
それを見て、私は駆け出す。ボスに向かって、一直線に。服装のせいであまり速度が出ないけれど、懸命に駆けた。
もちろんボスも馬鹿者ではない。すぐに視線を私へ向けてきた。ボスの肉食獣のような目つきには、思わずゾッとしてしまったほどだ。
それでも走り続け、あと数メートルというところまで接近した時、ボスが私の方へと体を向けた。
完全な戦闘体勢をとられてしまっていては、私に勝ち目はない。いや、私が勝つ可能性もゼロではないだろうが、かなり低くなってしまうことは確かだ。
とにかく崩さなくては。
しかし、必要な時にパッと名案を思いつくような賢い頭脳を持ってはいない。なので取り敢えず、ボスの顔面に向けて光線を発射してみる。
ボスはもちろん避けた。
だが、その眩しさに目を閉じてしまっている。
チャンス!と思った私は、剣を手に、ボスに向かって跳んだ。
前へ突き出した剣の先が、ボスの胸元に突き刺さる。
まるで、厚いステーキにフォークを突き刺したかのよう。まさか、という光景だった。
「な、に……!?」
ボスの目が見開かれる。
彼は驚いた顔をしているが、本当に驚いたのは私の方だ。やみくもに行った一撃が胸に命中したのだから、驚かないわけがない。
「ぐ……ふんっ!」
ボスは動揺を隠せぬ顔をしながらも、私を振り払った。
私の体はぽぉんと飛んで、ぽとんと地面へ落下する。地面で尾てい骨を打った。正直、痛い。
「ふぅぅんっ!」
——そこへ、波動のようなものが飛んでくる。
避けなくちゃ、と思ったけれど、間に合わず。結局そのまま、まともに受けてしまった。
「……あっ」
全身に激痛が走る。引っ掻かれるような痛みと、骨を砕かれるような痛みが、同時に襲ってくる。
こればかりは「もう駄目かもしれない」と思ってしまった。
こんなに激しい痛みを体験するのは、生まれて初めてだ。これまでも怪我はしてきた私だが、脳裏に死がよぎるほどの苦痛は、これが初めてな気がする。
「マレイ・チャーム・カトレア……道連れにしてやろう」
- Re: 暁のカトレア ( No.136 )
- 日時: 2018/09/12 16:46
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Bf..vpS5)
episode.129 この剣のひと振りで
地面へ座り込んだまま痛みに震えていると、ボスが歩み寄ってきた。山のような巨体が近づくにつれ、尋常でない殺気が私の肌を粟立てる。一刻も早くこの場から離れなくては、という危機感を覚えた。
「……っ!」
気づくと、ボスの片足が私を睨んでいた。
私は腕の力を利用して立ち上がり、踏みつけられそうになるのを何とか回避する。しかし、またそこから転倒という、笑い話のようなことになってしまった。着なれないドレスなこともあり、すぐには体勢を立て直せない。
まずい、心が折れそうだ……。
それが今の私の本心だった。
胸に剣を突き刺すという奇跡的な成功を収めはしたものの、ボスを倒すには至らず。結局またこんな風に追い回されて。
もはやどうしようもない状況である。
「逃がすものか!」
「止めてっ……」
「我にこのようなことをして、ただで済むと思うなよ!」
ボスの胸元の傷からは、とくとくと脈打つように血液が流れ出している。にもかかわらず、ボスはまだ動きを止める気配がない。血が出続ければ人はいずれ動けなくなるはずなのだが。
——と、そこへさらにボスの足が迫る。
「止めてっ!」
私は咄嗟に、剣を振った。
剣先がボスの足を薙ぎ、赤い飛沫が飛び散り、頬を濡らす。
「うぐっ!?」
「お願い、ボス!もう止めて!」
「何を……馬鹿なことを……」
このまま放っておいても、ボスはいずれ息絶えるだろう。胸を刺され、あれだけ出血すれば、息絶えるのも時間の問題だ。だが、放置しておくこともできない。というのも、放置していたら、ボスが息絶える前に私がやられてしまうのである。
私がやられないためには、早く止めを刺さなくてはならない。それに——早く楽にしてあげた方が良いだろう。
「もう終わりにしましょう!こんなこと!」
「ほざくな!小娘が!」
憤ったボスが突っ込んでくる。
狙うなら、今。
剣の柄を握る指に力を込めた。
すべてを終わらせる。
この剣のひと振りで。
「……な」
刃はボスの首を掻き切った。
私の力では、首と頭を離すことはできなかったが、それでも深く斬ることはできたようだ。
「馬鹿……な……」
赤いものが噴き出すのを、私は、見ることができなかった。私はそんなに度胸のある人間ではないから。
背後でどしゃりと、大きなものが崩れる音がした。
足が震える。肌は粟立ち、寒気すら感じた。これまで一度も体験したことのないような悪寒が、背筋を駆け抜けていく。
やがて、そんな私の耳に、グレイブの声が飛び込んでくる。
「終わったのか、マレイ」
聞き慣れた声が聞こえたことで正気を取り戻した私は、初めて体を後ろへ向けることができた。
「グレイブさん!」
「マレイが倒すとは、夢にも思わなかった」
苦笑いしながら、彼女が歩み寄ってくる。
私は、その時初めて、すぐそこに転がるボスの姿を目にした。既に息絶えたボスの骸は、まるで捨てられた人形のよう。
「おかげで、こちら側の隊員はほぼ全員無事だ。最後の最後に協力してやれなくてすまなかったな、マレイ」
「い、いえ……」
「私はまだ後始末が残っているが、マレイは、これで後は撤退するのみだ」
グレイブの漆黒の瞳は私をじっと見つめている。
「動けるか?引き上げる準備をしよう」
彼女は相変わらず淡白だ。大きな戦いが終わった直後だというのに、嬉しそうな顔すらしていない。
そんな彼女に、私は尋ねる。
「あ、あの、ゼーレは……?」
すると、ちょうどそのタイミングで、大きな声が聞こえてきた。
「ゼーレさんはぁぁぁーっ!生きてますよぉぉぉーっ!」
この騒がしさ、間違いない。シンだ。
そう思いながら、声がした方へ目を向ける。すると、シンと、ゼーレを乗せた蜘蛛型化け物の姿が見えた。先ほどの大声を発したのは、やはりシンだったようだ。
シンに対し、グレイブはほんの少し口角を持ち上げつつ、問う。
「おぉ、シン。ゼーレの様子はどうだ」
「ちゃんと意識戻りましたよぉぉぉーっ!」
意識が戻った——その言葉を耳にした瞬間、胸の奥から明るい光のようなものが込み上げてきた。
「そうか。それなら良かった」
「でもでもぉぉー!蜘蛛怖いですよぉぉーっ!」
「よし、もう離れていいぞ」
「いいんですかぁー!?わぁぁーいっ!!」
グレイブに許可を得たシンは、その場から走り去る。どうやら、蜘蛛型化け物が怖かったようだ。
シンが離れていくや否や、蜘蛛型化け物の上にいたゼーレがむくりと起き上がる。
「……騒がしい……です、ねぇ……」
「ゼーレ!」
私はすぐに彼へ駆け寄ろうとしたのだが、途中で足が絡まり、頭から転がってしまった。こんな何もないところで転んでしまったのは、疲れのせいだろうか。
「……何を、して……いるのですかねぇ……」
転んで情けない格好になってしまっている私の頭上から、ゼーレの掠れた声が降ってくる。顔を上げると、彼の顔が私を見下ろしていることが分かった。
「ゼーレ!動けるのね!?」
「えぇ……今さら、気がつきました……」
そう話すゼーレは、顔色こそあまり良くないものの、意識自体ははっきりしている様子。私は内心安堵の溜め息をついた。
私はその場で立ち上がると、彼の体を抱き締める。
「良かった!」
彼の体を抱き締めると、ようやく「終わったのだ」という実感が湧いてきた。言葉にならない不思議な感情が込み上げてくる。
「生きてて……良かった」
私のせいで誰かが命を落とすなんて、もうごめんだ。
そんな経験は二度としたくない。
「……何です、カトレア。そんなことを言うとは……らしくありませんよ……」
「そうかもしれないわ。でも、でも、嬉しいの。貴方が生きていてくれて、本当に良かった」
するとゼーレは黙ってしまった。
彼は口を閉ざし、それから十秒ほどして、ようやく言葉を発する。
「……ありがとうございます」
ゼーレの頬が、熱を取り戻したように、ほんのり紅潮するのが見えた。
可愛らしい、なんて思ってしまったが、それは黙っておいた。そんなことを言うと、彼の機嫌を損ねてしまうような気がしたからである。
だが、戦いは終わった。
今はそれだけで十分。私はそう思う。
- Re: 暁のカトレア ( No.137 )
- 日時: 2018/09/12 20:49
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: u5wP1acT)
episode.130 さようなら、夜の闇
ゼーレの体をを抱き、戦いが終わったことを噛み締めていると、突如脱力してしまった。
「……カトレア!?」
予期せぬ脱力に見舞われた私は、蜘蛛型化け物の上に座っているゼーレにもたれかかるような形になってしまう。そのせいか、ゼーレだけではなく蜘蛛型化け物も、驚いた様子だった。
「……どうしたのです、いきなり」
ゼーレは怪訝な顔をしながら尋ねてくる。
「ごめんなさい、ちょっと、安心したら力が」
「……情けないですねぇ」
このタイミングでそんなことを言う!?と、心の中で密かに突っ込んでしまった。
生命を脅かされるような数多の危機を乗り越え、こうして、ようやく再会できたのだ。少しくらい優しくしてくれたっていいのに、と思ってしまう。だが、良い空気の場面で敢えて余計なことを言うというのも、彼らしいと言えば彼らしい行動だ。そういう意味では、これで良いのかもしれない。
「……乗りますか」
「え?」
「……何度も、言わせないで下さい。貴女も乗るか、と……聞いたのです」
一瞬彼の発言の意味が理解できなかった。しかし、数秒してから、その意味に気がついた。彼は多分、私を、蜘蛛型化け物に乗せてくれようとしているのだろう。
「いいの?」
「えぇ……構いません」
「でも、二人も乗って大丈夫?」
「……そんなに柔では……ありませんよ」
「じゃあ、お願いするわ」
私は歩けないような怪我をしているわけではない。それゆえ、あまり甘えるのは良くないと思う気持ちもある。
だが、ゼーレが好意で言ってくれているのだから、きっぱり断るというのも申し訳ない。そのため、乗せてもらうことにした。
ゼーレに手を貸してもらいながら、蜘蛛型化け物の上へと登る。若干ゆらゆらと揺れているのが不思議な感じだが、決して悪い乗り心地ではない。
「……この飛行艇が消えるのも、時間の問題です。引き上げに……かかりましょう」
私がちゃんと乗ったことを確認すると、ゼーレはそんなことを言った。
「飛行艇が、消える?」
「……この飛行艇は、ボスが生み出したもの……ボスが死ねば……いずれは消えます」
「そうなの!?」
まさか。
その発想はなかった。
ゼーレの話に寄れば、この飛行艇は、化け物を生み出すのと同じ要領でボスが作ったものらしい。だから、ボスが息絶えれば飛行艇も消える。そういう仕組みのようだ。
「グレイブさんたちは、そのことを知っているの!?」
「……えぇ。先ほど伝えて……おきました」
もし知らなかったら、早く伝えなくては。そう思ってたのだが、どうやら、知らないということはないらしい。
「良かった」
「……相変わらずですねぇ」
安堵の溜め息を漏らしているとゼーレがそんなことを言ってきた。
相変わらずなのは彼の方だと思うのだが。
「どういう意味よ」
「……相変わらずお人好しだと、思いましてねぇ……」
「なぜ?」
「この期に及んでまだ……他人の心配をするのですから。お人好し以外の何物でも……ないでしょう」
ゼーレはそこで一旦言葉を切り、その金属製の片手で、私の焦げ茶色の髪をそっとすくう。
そして再び口を開く。
「もっとも……そういうところが魅力的、とも……言えるわけですが」
そう述べる彼の表情は、柔らかいものだった。
一応まだ着けている仮面に隠れていない瞳は、木々が溢れる大自然のような色。それに加え、口角は微かに持ち上がり、頬は緩んでいる。
いつからこんなに優しい顔をするようになったのだろう——なんて、ほんの少し思ったりした。
それから私たちは、飛行艇から撤退することとなった。
隊員の多くは、負傷してこそいたものの、命に別状はなしという状態だったらしく、ゼーレが開いてくれた扉から、帝国の基地へと帰還。蛇となったリュビエの尾による打撃で腰部付近を負傷したフランシスカや、ボスの拳を腹部に受けたトリスタンも、基地へと無事送還された。
基地でならちゃんとした手当てを受けることができるはずだ。手当てを受けさえすれば、フランシスカもトリスタンも、命を失うなんてことはないだろう。
一方、工場の方で戦っていた隊員らの中には、数名の犠牲者がいたらしい。ほんの数名だけれども、敵と交戦する中で命を落とした者がいたというのは、残念としか言い様がない。
犠牲となった彼らのためにも、生き延びた私たちが未来を創っていかなくてはならない——改めて、そんな風に感じた。
「よし、大体終わったな」
ほぼすべての隊員を飛行艇から帝国にある基地へと返した後、まだ飛行艇に残っているグレイブが言った。近くにはシンの姿もある。
「終わりましたねぇぇぇー!」
「うるさい、シン」
「今日くらいはぁぁー!いいじゃないですかぁぁぁーっ!」
相変わらずのテンションのシンを見て、グレイブは呆れたように口元を緩める。
「……そうだな」
日頃なら厳しく叱る彼女が許したことに、シンは驚いた顔をする。いや、驚いた顔というよりかは、きょとんとした顔と表現する方が相応しいかもしれない。
「たまにはいいかもしれないな。そういう騒がしさも」
グレイブは、穏やかな朝のような、落ち着いた笑みを浮かべていた。
ボスを倒したからといって、失われたものが戻ってくるわけではない。既に失われた命は、失われたままだ。
けれども、ほんの少しは救いとなったかもしれない——遺された者にとっては。
「わぁぁぁーいっ!許可が出るなんて最高ですよぉぉぉーっ!!」
突如として叫び出すシン。
戦いの時はあれほど弱々しかったというのに、今は活力に満ちている。
「グレイブさぁーん!帰ったらみんなでぇぇお祝いぃぃしましょうねぇぇぇーっ!!」
近くにいるだけで鼓膜が破れるのではないかと思ってしまうほどの、凄まじい大声だ。
「そうだな、シン」
「はいぃっ!」
「では、シン。お前は先に帰っておいてくれ」
「はいぃぃぃっ!!」
空気を振動させるほどの大声で返事をし、シンは飛行艇から去っていった。
ここに残ったのも、ついに、私とゼーレとグレイブの三人だけ。
寂しくなってしまった。
「ゼーレ。お前はどうするつもりだ」
静かに問うグレイブ。
「この先、お前は帝国で暮らすのか」
「……どうしましょうかねぇ」
ゼーレは蜘蛛型化け物の上に座った体勢のまま、わざとらしく、考えるような動作をとる。
「残念だが、リュビエは死んでいた。ボスもリュビエもいなくなった今、お前が頼れる者などいないだろう」
「……二人を頼るつもりなど……毛頭ありませんがねぇ……」
「ならやはり、帝国で暮らしていくつもりなのだな?」
「それしか……なさそうです」
言い終わると、ゼーレは断りもなく、私の体を引き寄せる。
私はいきなりのことに戸惑いを隠せなかった。ただ、そっと優しくだったため、敢えて抵抗することはしなかった。
「……彼女に頼ることにしますかねぇ」
するとグレイブは、ふっ、と小さく笑みをこぼす。そして、少し間を空けてから、「なるほど」と呟いた。なんとなく面白そうなものを見たような顔つきで。
「よし。では帰るとしよう」
グレイブは黒い髪をひらめかせながら、ゼーレが作った扉を抜けて、帝国にある基地へと戻っていった。
飛行艇から去る間際、私は一度、静かに振り返る。
ところどころ赤い染みの広がる台地に、煉瓦が崩れた花壇。そして、乱雑に乱された、土と色とりどりの花。
最初に見た時とは、すっかり様子が変わってしまった。
それでも、蝶だけは変わらず舞っている。それが凄く印象的だった。
「戻りますよ……カトレア」
さよなら、飛行艇。
さようなら、夜の闇。
「えぇ」
——これでようやく来る、暁が。
- Re: 暁のカトレア ( No.138 )
- 日時: 2018/09/13 02:09
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: iXLvOGMO)
episode.131 貴女も
長い夜は終わった。
これでもう、化け物と戦うこともないだろう。
残党がいる可能性はゼロではないため、恐らく、ではあるが。しかし、それでもいいのだ。化け物を生み出し襲撃してきていたボスがいなくなったのだから、もし仮に残党がいたとしても、じきに現れなくなるだろう。
長かった。
ここまでの道のりは、信じられないくらい長かった。
けれども、この道を選んだことを、後悔はしていない。むしろ、この道を選んで良かったと思っているくらいだ。
「……朝ね」
飛行艇から帝国軍基地へと戻った後、私は窓から、夜が明けるところを見る。
「……朝ですねぇ」
地平線から陽が覗き、空を、大地を、ほのかに照らす。
その光景は、まるで水彩画のようだ。藍と橙の絵の具を紙の上で馴染ませれば、きっとこんな感じになるのだろう——そんな色みをしている。
隣にいるのがゼーレなのが少し不思議な感じだけれど、誰かと並んで眺める夜明けは、言葉では形容し難い美しさだった。
「……カトレア?」
つい見惚れてしまい、窓の外を凝視していると、隣のゼーレが尋ねてくる。仮面の隙間から見える、その翡翠のような瞳は、穏やかな色を湛えていた。
「何を……ぼんやりしているのです」
「綺麗だな、って」
夜明けも綺麗だけれど、ゼーレも瞳も綺麗よ。……なんてね。言えるわけないか。
「……貴女も綺麗ですよ」
言われた!
私が考えていたパターンに、そっくりなこと言われた!!
なぜだろう、妙に悔しい。
「何それ。おかしなことを言うのね」
「……事実を述べたまでです」
「疲れてるんじゃない?」
「……もう結構です……皆のところへ、合流しましょう」
「それがいいわね」
私はゼーレとたわいない会話をしながら、グレイブらがいる方へと向かった。静寂から喧騒へと、戻っていく。
この日見た夜明けを、私は、一生忘れないだろう。
それから私は、簡単な検査を受けたが、身体的なダメージはほぼなかった。もちろん軽度の負傷はあったけれど、フランシスカやトリスタンに比べればずっとましだ。
一方、ゼーレはというと、蛇型化け物による毒素は消えていたらしい。恐らく、蛇型化け物を生み出したリュビエが絶命したからだろう。
ただ、毒が消えたといっても火傷のダメージがあるわけで、しばらくは治療に専念する必要がありそうだった。
二日後。
深い眠りから目を覚ました私は、医務室の近くの、負傷隊員用の部屋へ向かった。そこへ行けばトリスタンやフランシスカに会えるかもしれない、と思ったからである。
扉を開けると、広い部屋が視界に入る。壁も天井も床も白く、まさに病室といった感じの部屋だ。
区画ごとにカーテンで仕切られ、それぞれが一人でいられるようになっている。また、その仕切りのカーテンには、黒ペンで名前を書いた紙が貼りつけてあった。おかげで、姿は見えずとも、誰がどこにいるのか分かりやすい。
私は、奥へと歩を進めながら、見知った名前を探す。
しかし、なかなか見つからない。ゆっくりと歩いているため、見逃してはいないと思うのだが、なかなか知った名前を見かけない。
もしかして部屋を間違えたのだろうか——と思っていた時。
「マレイちゃんっ?」
弾むような愛らしい声が耳に入り、振り返る。するとそこには、フランシスカが立っていた。驚いたように、丸い目をぱちぱちさせている。
「フランさん」
「聞いたよっ。マレイちゃんがボスを倒したって!」
作りたての綿菓子のようにふんわりとしたミルクティー色の髪は、今日も変わらず柔らかそうだ。思わずぱふっと触りたくなるような髪質をしている。
「凄いねっ」
フランシスカは向日葵のように明るく笑う。
「怪我、もう大丈夫なの?」
私はそう尋ねてみた。
すると彼女は明るい表情のまま「大丈夫だよっ」と言う。そして、数秒してから、「ま、まだ痛いけどねっ」と付け加えた。
正直に「まだ痛い」と言うところがフランシスカらしい。
「それよりマレイちゃん、これ見てっ!」
フランシスカは急に話題を変えてくる。何だろうと思っていると、彼女は甲を上にして両手を差し出してきた。そうして視界に入った、フランシスカの両手の爪は、綺麗な桃色をしている。
「これは?」
「ネイルだよっ」
目を凝らすと、桃色の爪に柄が描かれていることが分かった。白いラインが見える。
「ネイル?確か、前にネイルサロンとか言っていた、あれ?」
「うんっ。そういえば、前二人で、ネイルサロン見たよねっ」
あれは、私が帝都へ来てまもなかった頃。フランシスカと二人で外へ出掛けて、そこで、ネイルサロンという言葉を教えてもらったのだ。
「行ってきたの?」
「ううん。これは自力でやったの!」
「へぇ、凄いわね」
純粋に尊敬した。
戦いが終わってからまだ数日だというのに、爪を飾ることへ意識を向けられるなんて。
「下手だけどねっ。今度マレイちゃんにもやってあげる!」
フランシスカは満面の笑みで言ってくれる。彼女はやはり優しい——改めて、そう感じた。
「マレイちゃんってぱっとしないから、ネイルとか興味なさそうだね!」
……感動が台無しだ。
いや、まんざら間違いでもないのだが。ただ、もう少し柔らかく言ってほしいと思ったりもする。
「それでマレイちゃん、今さらだけど、ここに何しに来たのっ?」
「フランさんとかトリスタンに会えるかな、と思って」
「そっか!」
いつもおしゃれな格好をしている彼女らしくなく、長袖シャツに緩そうなズボンという服装だが、それでも彼女は愛らしい。意外と小さくはない胸からさえも、少女のような初々しさが漂っている。
「トリスタンのところへ連れていってあげるよっ」
「ありがとう。助かるわ」
「フランについてきて!……迷わないようにねっ」
「えぇ」
フランシスカの背中を見ながら、私は、部屋の奥へと歩いていく。
どうやら、トリスタンがいるのは、もっと奥だったようだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.139 )
- 日時: 2018/09/13 02:09
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: iXLvOGMO)
episode.132 いい娘?悪い娘?
「トリスタン!マレイちゃんが来てくれたよっ!」
フランシスカがカーテンをシャッと開けると、ベッドの上で横たわっているトリスタンの姿があった。だが、仰向きに寝ている彼の表情は、どこか不満げだ。遊びにいきたいのに行かせてもらえない少年みたいな顔つきをしていた。
しかし、フランシスカの発言を聞くや否や、素早く上半身を起こす。
「マレイちゃん!来てくれたんだ!」
トリスタンはその青い双眸を輝かせていた。
元気そうで何よりだが、もう少し大人しくしていた方が良いような気がする。負傷しているのだから、安静にしておくべきだろう。
「嬉しそうだねっ」
「うん。そりゃあね」
トリスタンは、やはり、フランシスカに対しては冷たい。
だが、前に比べると、冷たさはましになっているような気もする。もしかしたら、心の距離が少しは縮まったのかもしれない。共に戦った効果だろうか。
そんなことを一人で考えていると、トリスタンが私へ話しかけてくる。
「マレイちゃん、ボスとやり合ったって聞いたけど、怪我はなかった?」
トリスタンはこの期に及んでまだ私の心配をしてくれているのか。自分の方が負傷しているというのに。
「えぇ。平気よ」
そう答えると、彼はふぅと、安堵の溜め息を漏らした。
「それなら良かったよ」
「心配してくれてありがとう」
「いやいや。お礼を言われるようなことじゃないよ。むしろ、僕が謝らなくちゃならないくらいで」
トリスタンはそんなことを言った。
だが、私には意味がよく分からない。トリスタンが私に謝らなくてはならない要素が、一体どこにあるというのか。
「その……最後まで護りきれなくて、ごめん」
トリスタンは、先ほど起こした上半身を前へ倒し、そんな風に謝罪した。だが、謝られる意味が分からない私は、ただ戸惑う外なかった。
「どういう意味?なぜ謝るの?トリスタンは何も悪くないじゃない」
「また君を護れなかった……これは、謝らなくてはならないことだよ」
なんというか、正直少し面倒臭い。
「トリスタン。そういうの、面倒臭いよっ」
おっと、フランシスカが私の心を代弁してくれた。
こういう時はありがたい。
「君に言われたくないな」
「何それっ!」
トリスタンにあっさりと返されたフランシスカは、眉間にしわをよせ、頬を膨らませる。渋いものを食べてしまったかのような表情が、これまた愛らしい。
「それに、マレイちゃんは面倒臭いなんて思わないよ。マレイちゃんはそんな冷たい娘じゃないから」
「誰だって面倒臭いと思うことはあるよっ!」
「君は、だよね」
「フランが悪いみたいに言わないでっ!」
トリスタンとフランシスカが話している様子を眺めていると、なぜか自然と穏やかな気持ちになったりする。
そんなことをぼんやり考えていると、トリスタンの視線がこちらへ向いた。
「マレイちゃんは面倒臭いなんて思わないよね」
うっ……。
実は少し思ったけれど、「思った」なんて言えない。
「ま、まぁ、そんなに気にはなりませんでした」
私は曖昧な言葉を返し、何とかごまかす。
演技の下手な私のことだから、ばれてしまうかもしれないという不安もあった。だが、トリスタンの表情から察するに、ばれてはいないようである。
「そう言ってくれると思っていたよ。やっぱりマレイちゃんはいい娘だね」
トリスタンは首の後ろへ手を回し、乱れた金髪をくくり直す。
彼の場合は、髪の長さがそこそこあるだけに、放っておくとぐしゃぐしゃになってしまいやすいのだろう。
私にはない大変だな、と感じた。
「そんなことはないわ。私はべつに……いい娘なんかじゃないわ」
「謙遜しなくていいんだよ?」
「いいえ、謙遜なんかじゃないわ。私よりフランさんの方がいい人よ」
正直、という意味では、フランシスカはかなりの善人だと思う。時折ストレートな物言いをするところはたまに傷だが、悪人でないことは確かである。
「ほらっ、マレイちゃんも言ってる!フランは悪い娘じゃないって!」
「マレイちゃんは優しいからね」
「えぇっ。これでもまだ納得しないの」
フランシスカとトリスタンの軽やかなやり取りは、相変わらず、見ている者をほのぼのした気分にさせてくれるものだった。
こんな風にのんびり言葉を交わせるのも、戦いが終わったからこそ。
平和であることのありがたさを、改めて感じた。
フランシスカやトリスタンと楽しい時間を過ごした後、私は負傷隊員用の部屋から出る。
今度はゼーレに会いに行くためだ。
しかし、彼の居場所を私は知らない。誰かに聞いてみなくてはならないのだが、どうすればいいのか……そんな風に迷っていると、背後から声が聞こえてくる。
「マレイ、何をうろついているんだ」
振り返ると、帝国軍の白い制服をまとったグレイブが立っていた。さらりと伸びた長い黒髪と、真っ赤な口紅を塗った唇。そのコントラストが印象的だ。
「グレイブさん!」
「どこかへ行くところか?」
「ゼーレがどこにいるのか、どなたかに聞こうと思って……」
するとグレイブは、ふっ、と笑みをこぼす。
「なるほど、そういうことか」
なぜ笑みをこぼすのかがよく分からないが、取り敢えず頷いておく。
「連れていこう。こっちだ」
「いいんですか!?」
「もちろん。すぐに着く」
「ありがとうございます!」
私はグレイブの背を追って歩き出す。
誰かに聞いてみようと思っていた矢先に、グレイブの登場。これは幸運だった。まるで、目には見えない何かからの贈り物のようである。
「それにしても、怪我人に会いにいこうとは……やはり仲良しだな。マレイとゼーレは」
歩きながら、グレイブはそんなことを言ってきた。何やら少し楽しそうな表情だ。
「それほど仲良しではありません……私たちは」
「そうなのか?十分親しそうに見えるが」
「ただ、信頼しあってはいると思います」
あくまで私の感覚だが、嘘にはなっていないはずである。
- Re: 暁のカトレア ( No.140 )
- 日時: 2018/09/13 02:10
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: iXLvOGMO)
episode.133 普通の蜘蛛と間違えないように
グレイブに案内されてたどり着いたのは、医務室からはそこそこ離れた場所にある、個室だった。負傷者を寝かせておくのに相応しいとは思えない場所なので、正直少し意外だ。
部屋の前まで来ると、扉を開け、グレイブは中へと入っていく。私はそれに続いた。
「……触れないでいただけますかねぇ」
「じっとして下さいっ……すぐ終わりますからっ……」
「触るなと言っているのです!」
室内に入ると、いきなり、言い合いしている声が聞こえてきた。白いカーテンがあるため視認はできないのだが、恐らく、声を荒らげている方がゼーレだろう。
あまり迷惑をかけていないと良いのだが……。
そんなことを思いながら、グレイブの後ろを歩いていく。するとやがて、グレイブがカーテンを開けた。
そこにいたのは、ベッドに横たわりつつも不機嫌さを顔全体から溢れさせているゼーレと、負傷者を介抱する係と思われる女性。
「……何の騒ぎだ?」
グレイブが呆れ顔で尋ねる。すると、女性はすぐに顔を上げ、グレイブに向けてお辞儀をした。
「騒がしくして、申し訳ありませんっ!」
女性は丁寧に謝罪し、十秒ほど経って頭を上げると、説明し始める。
「ゼーレさんの体の包帯を変えようとしていたのですが、下手だったもので、痛いところを触ってしまったようでして……」
「あれはわざとでしょう!」
どうやら、今のゼーレはかなり機嫌が悪いようだ。声色はもちろん、発する言葉まで刺々しい。
さらに、彼の枕元には小さな蜘蛛型化け物がいて、前方の脚を持ち上げて威嚇している。小さい体を懸命に動かし、主人を護ろうとしているのかもしれない。
「あ、あの……」
ゼーレに鋭い言葉をかけられた女性は、今にも泣き出しそうな顔になりながら、オロオロしている。状況を説明しようにもゼーレが怖くてできない、といった様子だ。
「事情は後で聞こう。他のところでな」
「ありがとうございますっ!グレイブさん!」
「よし。では、マレイ。後はゼーレと仲良くな」
グレイブは私へ視線を向けると、微かに口角を持ち上げ、女性と共に部屋を出ていってしまう。意味深な笑みが謎だ。
こうして、私はゼーレと二人きりになってしまった。
狭い部屋に、二人きり。
しかし、いきなりすぎて、何を話せば良いのか分からない。
どうしよう、と悩んでいると、ベッドに寝ていたゼーレが小さく声をかけてくる。
「……カトレア」
彼の方へ視線を向ける。
すると彼は小さく続けた。
「少し……起き上がっても、構いませんかねぇ……」
「構わないとは思うけれど、起き上がれるの?」
「……えぇ。しかし……起き上がるなと言われるのです」
じゃあ、起き上がっちゃいけないんじゃない?本音はそんな感じだ。だが、あまりはっきりと言うのも可哀想な気がするので、柔らかい言い方にしておく。
「なら仕方ないわよね。横になっておいた方が良いと思うわ」
「……そうです、か」
ゼーレは残念そうだ。
「仕方ありませんねぇ……起きるのは止めておきます」
止めるのか、と、内心突っ込んでしまった。
だが、何だかんだで言いつけを守る真面目なゼーレは、微妙に愛らしい。愚痴を漏らしつつもちゃんとしている様は、愛嬌たっぷりだ。
私はゼーレが寝ている隣まで歩いていく。物理的に距離が縮まれば、話せることも増えるかな、なんて思ったからである。
「ゼーレ、さっきはどうしてあんなに怒っていたの?」
わけもなく尋ねた。
すると彼は、翡翠のような瞳だけをこちらへ向け、返す。
「……見苦しいところを見せてしまい、失礼しました」
彼の枕元にいる小さな蜘蛛型化け物は、いつの間にか大人しくなっている。威嚇するのは止めたようだ。
「上手く意志疎通ができなかった、とか?」
「……包帯を、変えようとしてくれたのは、良かったのですが」
「何か問題があったのね?」
ゼーレは大人しくなった蜘蛛型化け物を手に乗せると、もう一方の手で優しく撫でる。撫でてもらえた蜘蛛型化け物は、すっかりご機嫌で、ちょこちょこと脚を動かしていた。
「……あの女、痛いところばかり触るのです。それも、『そこは痛い』とはっきり言っているにもかかわらず、です」
「そう……それは辛いわね」
女性は、しなくてはならないことだから、と必死になっていたのだろう。そのせいで、ゼーレが痛いと訴えるのを聞けなかった。
多分、そんなところだろうか。
「そのうえ……この可愛い子に危害を加えようとしたのです」
ゼーレが述べると、彼の手に乗っている小さな蜘蛛型化け物は「そうそう」と言わんばかりに脚を動かした。
「危害、って?」
「……枕元にいたこの子を、叩き潰そうとしたのです」
「普通の蜘蛛と間違えたんじゃない?」
するとゼーレは、はっきり、首を左右に振る。
「そんなこと……あり得ません」
なぜそんなに自信満々で「あり得ない」と言えるのかが、私には理解不能だ。
ゼーレの蜘蛛型化け物は、限りなく蜘蛛に近しい容姿をしている。体つきも、脚の形も、普通の蜘蛛にそっくりだ。特に、小さい個体になると、動き方を見ない限り、ただの蜘蛛とほぼ同じである。
それゆえ、間違われることは多々ありそうだと思うのだが。
「あり得ないことはないと思うけど……」
私がそう言うと、ゼーレの手に乗っている蜘蛛型化け物は、その小さな体を震わせた。ぷるぷる、ぷるぷる、と。
怒っているのか、怯えているのか、よく分からない動作だ。
ゼーレは、蜘蛛型化け物が平常心を損なってしまっていることに気がつくと、その背中を人差し指でこする。
「……貴女がそう言うのなら、あり得るのかもしれませんねぇ……しかし、乱暴するなんて許せません」
「きっと悪気はなかったはずよ」
「……ですかねぇ」
ゼーレはまだ、納得がいかない、といった雰囲気を漂わせていた。
「私はそう思うわ」
「……ならば、そうなのやもしれませんねぇ」
とにかく、と彼は続ける。
「お騒がせして……失礼しました」
素直に謝罪するゼーレなんて、何だか不思議な感じがする。まるで、彼の皮を被った別人を見ているかのような、そんな感覚だった。
- Re: 暁のカトレア ( No.141 )
- 日時: 2018/09/13 14:35
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: JbPm4Szp)
episode.134 幸せにしたい
「それでゼーレ。貴方はこれから、どうするの?」
私は疑問に思っていたことを質問してみた。
ゼーレが悪に手を染めることは、もうないだろう。彼に悪事を強制する者がいなくなったのだから、当然だ。
だが、それだけですべてが解決するわけではない。
彼はこれから先、あまり馴染みのないこの帝国で暮らしていかなくてはならないのだ。帝国に住み、生活するとなれば、職を見つけるなり何なりしなくてはならないだろう。そうなった場合、つてのない彼は、普通の人たちよりも不利だと思われる。
「帝国で暮らしていく予定?」
するとゼーレは小さな声で返してくる。
「……まだはっきりとは、分かりませんが」
横たわりながらも、彼の瞳はしっかりと私を捉えていた。
「……この国の人間ために、何かできることがあればと思います」
「帝国に仕えるの?」
「……私は国を傷つけた身。それゆえ……帝国に仕えるなど、許されたことではないでしょう」
どうやら、帝国に仕える気はさらさらないようだ。言い方を聞けば、それはすぐに分かった。
「なら、どこかで働く?」
「……しかし当てがありません。貴女以外には」
そこまで聞いた時、ゼーレが言わんとしていることはすぐに分かった。
彼は多分、私を当てにしているのだろう。頼れる者が誰もいないにもかかわらず、彼がこんなに余裕に満ちているのは、私に頼れると思っているからに違いない。
「私以外、ってことは、私を当てにするつもりなの?」
当たっている保証はないが、そう発してみた。
すると彼は、静かに、こくりと頷く。
「やっぱり!?」
「……働く場所を紹介してはいただけませんかねぇ」
「え、ちょ、本気で私を当てにしていたのっ!?」
「貴女なら……紹介してくれるかと思いまして」
やはり私の勘は当たっていたようだ。こんな風に一方的に頼られるというのは、極めて嫌なことはないが、そんなに嬉しくもない。
「待って、ゼーレ。無理よ。私だって、人脈はそんなにないもの」
今でこそ帝国軍の化け物狩り部隊という居場所があるが、私だって、ほとんど居場所のない人間だったのだ。その私が、ゼーレに職を紹介するなんて、できるわけがない。
そう、思っていたのだが。
「……宿屋があるじゃないですか」
ゼーレは自ら提案してきた。
積極性に驚きを隠せない。
もしかして彼は、アニタの宿屋に勤めたいと思っているのだろうか?……いや、でもあんな田舎へわざわざ行きたいと言うタイプには思えないし。いやいや、自ら言ってくるくらいだから、本当にアニタの宿屋に勤めたいということも……?
私はぐるぐると頭を巡らせる。
「……駄目、ですかねぇ」
残念そうにゼーレは呟いた。
違う!今は考え事をしていただけ!と言いたいところだが、そんなことを言えるわけもなく。
「ゼーレは宿屋で働きたいの?」
「えぇ」
「ダリアにあるアニタの宿屋で?」
「……はい」
理解できない。
なぜ敢えて宿屋を選ぶのか、私には分からない。
「どうして?もっと夢のある仕事に就きたいとは思わないの?」
愚痴るようで失礼かもしれないが、アニタの宿屋での仕事は、正直かなりきつかった。
来る日も来る日も、ほぼ同じ内容。しかも、その多くが、物を運ぶというような体力を消耗しやすいものだ。それに加え、アニタに常に急かされるため、精神的な摩耗も大きい。
ゼーレは、そんな大変な仕事に就きたいと言うのか。
「宿屋の仕事、かなり大変よ」
しかし彼は諦めない。
「少しは……学びになるかと思いましてねぇ」
アニタの宿屋に勤めて、何の学びをするつもりでいるのかが、かなり謎だ。
「学びって、何の?」
「……帝国で暮らすことの、です」
真面目だ……。
彼は私が思っている以上に真面目なのかもしれない。
「何それ。ゼーレは少し変わっているわね」
「……普通です」
「いやいや、普通とは思えないわよ。だって、暮らすことに学びなんていらないじゃない」
確かに、文化などという面では、よく分からないこともあるかもしれない。だが、わざわざ宿屋に勤めて学ぶほどのことはないはずだ。
私はそう考えていた。
しかし、ゼーレはまた違った考えを持っている様子。
「……いえ。色々なことをしっかりと学んでおかなくては……将来的に困りますので」
将来的に、という言葉が引っ掛かった。まるで、宿屋で学んだ先に目指す何かがあるような言い方だったから。
「将来的に?もしかして、何か大きな夢でもあるの?」
私は純粋に気になったこと尋ねた。
すると彼は気まずそうな顔をする。視線をこちらから逸らしたい、という思いが滲み出ているような顔つきだ。
言いたくないことを聞いてしまったのだろうか……と私が不安になっていると、ゼーレは重々しく口を開く。
「……はい。あるのです……いずれ叶えたい夢が」
彼らしくない、控えめな言い方だ。
「そうなの?夢があるなんて素晴らしいわね」
ゼーレに叶えたい夢があったなんて。正直、意外だ。彼は夢なんてみない質だと思っていたからである。
「それで、どんな夢?」
「……貴女、と」
「え?」
「カトレア……貴女を幸せにしたいのです」
「はい!?」
この時ばかりは、思わず本心を漏らしてしまった。
日頃なら口から出さないようにしただろう。が、今回はあまりに急だったので、発するのを止めきれなかったのだ。
「……突然どうしました?」
怪訝な顔で凝視されてしまった。
やはり、いきなり「はい!?」は、私らしくなかっただろうか。
「あ、ごめんなさい。ちょっと聞こえなかったわ」
何とかごまかす。
かなり苦しいごまかし方だが、こうなってしまった以上、仕方がないから。
「……何度も言わせるつもりですか」
ゼーレの眉間のしわが濃くなる。
「貴女はなかなか……良い趣味をなさっていますねぇ」
「趣味なんかじゃないわ、本当に聞こえなかったのよ。なのに、どうしてそんな言い方をするの」
今この空間には、私たちの声以外に音はない。防音の部屋ではないだろうに、外から聞こえてくる音は皆無だ。足音くらいは聞こえてきそうな気がするだけに、不思議である。
「恥ずかしいではありませんか……何度もあのようなことを、言うなんて」
ゼーレは詰まり詰まり述べる。
「ですが……仕方ありません。……特別に、もう一度、言うことにしましょう」
何だかんだでもう一度言ってくれるようだ。ありがたい。
「カトレア……私はいずれ、貴女を幸せにしたいのです」
- Re: 暁のカトレア ( No.142 )
- 日時: 2018/09/13 14:36
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: JbPm4Szp)
episode.135 貴方の想いと私の心と
「私を?」
「……そうです」
一つの部屋に、私とゼーレは二人きり。
第三者がいないのはありがたい。おかげで、躊躇うことなくすべてを話せるから。周囲に気を遣わなくていい、というのは、精神的にはだいぶ楽だ。
だが、私かゼーレかどちらかが何かを発し続けなくては、すぐに静寂が訪れてしまう。そこが若干苦しい。
「……いや。このような言い方では……貴女には伝わらないのでしたねぇ」
ゼーレはベッドに横たわり、小さい蜘蛛型化け物を指で優しく撫でながら、告げる。
「カトレア。私と……共に生きてはくれないでしょうか」
思いの外、直球だった。
まさかこれほどストレートに言ってくるとは。予想外の展開だ。
「……我ながら単純だとは思います。ほんの少し優しくされたくらいで……愛してしまうなど」
表情を見ると、ゼーレが本気であることはすぐに分かった。彼は、冗談混じりの発言をする時には、こんな顔はしない——私にはそれが分かる。
だが、どのような反応をすれば良いのか……。
「……答え、聞かせていただいても構いませんかねぇ……」
私は答えなくてはならない状況に追いやられてしまった。もはや逃げ場なんてものはない。
——落ち着こう。
一旦心を落ち着けて、自身の心を整理するのだ。
まず、ゼーレのことは嫌いではない。むしろ親しみを抱いているくらいだ。けれども、それが恋愛という意味なのかどうかと聞かれたら、すぐに「はい」とは答えられないだろう。四六時中傍にいたいというような気持ちでもないから、微妙なところなのである。
脳内がある程度整理されたところで、私は正直な気持ちを述べることにした。
「私……よく分からないわ。もちろんゼーレのことは好きだけれど、それが『共に生きていきたい』ような好きかと言われたら、答えられないの」
ゼーレは、彼自身の心を、包み隠さず話してくれた。だから、私もちゃんと話そうと思う。今の私に話せることは、すべて伝えるつもりだ。
「……それは、どういった意味の回答なのです?共に生きていくなんて無理、と……暗にそう言っているのですか?」
「ち、違うの!そうじゃなくて!」
「……ならば何なのです」
ゼーレは不満げに口を尖らせる。
「だから、その……共に生きていくってことは、結婚するってことでしょう?ゼーレとそういう関係になりたいかどうか、まだはっきり分からないのよ」
「……やはり私が言った通りではありませんか」
まずい。ゼーレの機嫌が悪くなってきた。
「嫌なのならば、嫌だとはっきり言いなさい……!」
こちらを見つめる翡翠のような瞳には、苛立ちの色が滲んでいる。目は口ほどに物を言う、とはこのことか。
「違う!違うってば!」
「ならば、ちゃんと説明なさい……!」
上から目線な物言いをしているわりに、その声は震えている。微かではあるが、普通に聞いていて分かるくらいの震えだ。それに加え、まばたきの回数が徐々に増えていっている。
ゼーレの手のひらに乗っている蜘蛛型化け物は、様子がおかしいゼーレを、不安そうに見つめていた。
「違う、だけでは、何も分かりません!」
ついに爆発したゼーレは、上体をガバッと起こす。
——だが。
次の瞬間、彼は体を折り曲げた。
苦しそうに、詰まるような息を吐き出す。
明らかに不自然な動作だ。恐らく、怪我している部分が痛んだのだろう。痛むのが、以前受けた傷なのか今回の火傷なのかは、不明だが。
「傷が痛むの!?」
咄嗟に質問したが、ゼーレはまだ苦しいらしく、言葉を返してはこない。それどころか、起こした上体を前に軽く倒して、はぁっはぁっ、と荒い息をしている。
「ゼーレ、ちょっと我慢していて」
私は医療に関する知識が乏しい。それゆえ、こういった時に対処する方法を知らない。少しでも楽になれるよう、何かしてあげたいのだが、逆効果になるようなことをしてしまいそうで、動けないのである。
しかし、このまま放置というのも気が進まない。
となると、私にできることは一つだけ。誰か頼りになりそうな人を呼んでくること、だ。
「今、人を呼んでくるから」
ゼーレの背中をぽんぽんと軽く叩いた後、人を呼びにいくべく歩き出す——が、上衣の裾をゼーレに掴まれた。
「……結構、です」
彼のために行こうとしたのに、彼に止められてしまった。
「……もう少し、傍に……っ!」
言いかけて、ゼーレは再び顔をしかめる。私の上衣の裾を掴んでいるのと逆の手は、下半身にかけられたブランケットを、かなり強く握り締めていた。
「痛いの?」
私は一旦、人を呼びにいくのを中止し、ゼーレの横辺りに移動する。
「火傷したところ?」
「……恐らく」
今度は答えてくれた。
だが、ゼーレの言葉は私の胸を締めつけた。
彼が火傷を負ったのは、私を護ろうとしてのこと。だから、今彼が苦しんでいるのは、私のせいなのだ。
「ごめんなさい。こんな辛い思いをさせてしまって」
猫背のように丸まった彼の背中をさすりつつ、小さな声で謝る。
すると彼は、ゆっくりと、首を左右に動かした。
「……貴女のせいではありません」
さらに、苦痛に歪んでいた面を懸命に持ち上げると、微かに笑みを浮かべる。
らしくない下手な笑みだが、それでも、彼が持つ思いやりの心は伝わってきた。常に見えてはいないけれど、本当は持っている優しさが、私の胸を打つ。
「急に大きく動いたせいです……気にしないでいただきたいものですねぇ……」
「えぇ、分かったわ。でも、本当にこのままで平気なの?」
「……はい」
そうこうしているうちに、ゼーレはだいぶ落ち着いてきた。長引いた苦痛も、ようやく消えつつあるようだ。
悪化する一方でなくて良かった、と、私は内心、安堵の溜め息を漏らした。
「もう……落ち着いてきました」
「それなら良かったわ」
「……色々と、失礼しました」
「いいえ、気にしないでちょうだい」
よし、そろそろ話を戻せそうだ。
「それで——これからの私たちの関係についての話なんだけど」
ゼーレは、乱れたブランケットを直しつつ、視線を私へ向けてきた。
「少しだけ、考える時間を貰ってもいい?」
私とゼーレのこれからを決める、大切なことだ。
だからこそ、適当に決めたくはない。
「じっくり考えてみようと思うの」
それに対してゼーレは、穏やかな口調で述べる。
「……構いませんよ」
彼はもう、いつもの冷静さを取り戻している。
「……急かすつもりはありません。あくまで、いつか叶えたい夢ですから。考えていただけるのなら……もちろん待ちます。良い答えを楽しみに……待ちます」
- Re: 暁のカトレア ( No.143 )
- 日時: 2018/09/14 03:18
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 3i70snR8)
episode.136 名誉章受章
あれから数日。
ゼーレの件に関する答えは、まだ出そうにない。
そんな微妙な心境のまま、私は、皇帝に謁見することとなった。というのも、名誉章を受章できることになったからである。帝国を脅かす化け物を消し去ったということで、化け物狩り部隊の隊員の中の特に活躍した数名に与えられることとなったそうだ。
そして、その中にはなぜか私も入っていた。
そういうわけで、私も皇帝のところへ行かなければならなくなってしまったのである。
受章する数名の中には、幸い、グレイブとトリスタンも入っていた。おかげで一人にならずに済んだのは、良かったと思う。
「マレイちゃん、どうしたの?」
皇帝との謁見の直前、豪華絢爛な扉の近くで待っていた時、トリスタンが声をかけてきた。
「トリスタン?」
「何だかぼーっとしてるけど、大丈夫?体調が優れない?」
帝国軍の白い制服をきっちりと着た彼は、私へ、不安げな眼差しを向けている。
自覚はないのだが、何かおかしかっただろうか……。
「私?普通よ。元気いっぱいよ」
はっきりとそう答えた。
しかしトリスタンはというと、納得できないような顔。元気なわけがない、とでも言いたげな表情を浮かべている。
「私、そんなにぼーっとしてた?」
改めて尋ねると、彼はこくりと頷いた。
自覚はないが、トリスタンがそう言うのだから、本当にぼーっとしてしまっていたのかもしれない。少なくとも、客観的に見ればぼーっとしていたのだろう。
なぜだろう——べつに、考え事をしていたわけでもないのに。
そんなことをしているうちに、謁見の時がやって来た。豪華絢爛な扉が開かれる。私たちは係の者に案内され、皇帝が待つ間へと、歩みを進めた。
「どうしたんだ、マレイ。そんな情けない顔をして」
謁見終了後。
建物内にある二つ並んだ椅子の片方に座っていると、グレイブが声をかけてきた。彼女は、奇妙なものを見るような眼差しを向けてきている。
「あ、グレイブさん」
「何をそんなにぼんやりしている?」
まただ。
謁見の直前にトリスタンに言われたのと同じようなことを、またしても言われてしまった。
「ぼんやりしていたつもりはなかったのですが……」
「居眠りでもしているのかと思ったぞ?その様子で無自覚は、さすがにまずいだろう」
確かに、グレイブの言う通りだ。自覚なく居眠りしているような状態になっているというのは、さすがに少し問題がある。
「先日は、フランからも、マレイがぼんやりしていると聞いたが……何かあったのか?」
グレイブの表情は真剣そのものだ。漆黒の瞳から放たれる視線も、胸を貫かれそうなほどに真っ直ぐである。
「いえ、べつに何も……」
「まさか、ゼーレか?」
ドキッ!!
ゼーレという言葉を耳にした瞬間、まるで雷に打たれたかのような衝撃が全身を駆け抜けた。今まで経験したことのない、極めて妙な感覚だ。
グレイブは隣の椅子に腰を掛けると、私の顔を、覗き込むようにして見つめてくる。
「やはりか!」
まだ答えていないのに……。
「ゼーレと二人の時間を過ごしたと思われるあの日以来、ぼんやりしている時が増えた。そうフランが言っていたのでな、奴があやしいと思っていたんだ」
うぅ……。
話が勝手に進んでいく……。
「私で良ければ話を聞こう。悩みがあるのなら、一人で悩まず相談してくれ」
ゼーレの件によってぼんやりすることが増えた、というのは、あながち間違いでもないかもしれない。答えの出ない問いについてぐるぐる考えてしまっている、という可能性はゼロではないからだ。
だが、もし仮にそうだとしても、それをグレイブに相談するなんて恐ろしすぎる。
ゼーレを嫌っていたグレイブに対し、「共に生きてくれ」と言われた話なんて、打ち明けられるわけがない。そんなことを打ち明けた日には、とんでもないことになりそうだから。
「あ……いえ、結構です」
「一人では答えの出ないことであっても、二人で考えれば答えを出せるかもしれないぞ?」
そんなことを言われても。
心の準備もせずに相談なんて、できるわけがないではないか。
「大丈夫です」
「そう言うな。悩みは、大きく膨らむ前に話した方がいい」
「いえ、悩みなんて大層なものではありませんから……」
グレイブは、彼女にしては珍しく、結構粘ってくる。が、私はただひたすらに断り続けた。恐ろしくて言えないから。
「悩みというほどのことではないのだな?ではなおさら、今がもってこいじゃないか。悩みになる前に相談して解決するのが、一番の理想形だ」
それでも彼女は粘る。かなり執拗に、悩みを聞き出そうとしてくる。
私とゼーレのことがそんなに気になるのだろうか?
「いえ、本当に大丈夫なので……」
「そうか!ゼーレに口止めされているのだな!?」
おかしな誤解が!
このままでは、ゼーレの立場が悪くなってしまう。彼に罪はない、ということだけは、何としても伝えなくては。
だから、私は返した。
「違いますっ!」
はっきりと述べた。
「それだけは違います!ゼーレは悪くないんです!」
するとグレイブは驚いた顔をする。私がいきなり大声を出したことに驚いたものと思われる。
「……あ、その、騒がしくしてすみません。でも、ゼーレは悪くありません」
ここは基地ではない。皇帝が暮らす、厳かな空気に包まれた場所だ。その中で突然大声を発するなど、何とみっともないことか。叱られても仕方のないことをしてしまった、と、私は内心後悔した。
「ここにはゼーレはいない。だから、本当のことを言ってくれ」
「本当に……何でもありませんから」
その時、グレイブはハッとした顔をした。何かに気づいたような顔つきだ。
「もしや、私には話しづらいことなのか?」
「そ、そういうわけでは……」
実際には「はい」と答えるべきだったのだが、さすがにそんな答え方はできなかった。
「では、トリスタンに相談するか?」
駄目!それは絶対に駄目!
私は咄嗟に、首を左右に動かす。首を痛めそうなくらいの勢いで、首を振る。
ゼーレとの将来に関する悩みなんて、トリスタンに相談できるわけがない。それならグレイブの方がまだましだ。
「じゃあ、グレイブさんでお願いしますっ!」
口から言葉が滑り出た。
なんてことだ。
やってしまった……、と、言ってしまってから凄く後悔した。
- Re: 暁のカトレア ( No.144 )
- 日時: 2018/09/14 03:19
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 3i70snR8)
episode.137 分からないことだらけでも
それから私は、ゼーレとのことについて、グレイブに話した。
彼がアニタの宿屋に勤められないかと思っている様子だったこと。それに加え、「共に生きてくれ」と言われたこと。
一部だけ隠すなんて面倒なので、思いきってすべてを話すことにしたのだった。
私の話を聞いたグレイブは、始終、驚いた顔をしていた。
あれほど嫌みばかり言う性格だったゼーレのことだ、この話を聞いてグレイブが驚くのも無理はない。むしろ、当然と言っても過言ではないくらいだ。
「なるほど、そういうことだったのか」
「はい」
隣同士の椅子に腰掛けながら、私とグレイブは話す。
「彼が宿で働きたいというのは、正直意外だな」
「ですよね」
「だが、まともな職に就くというのも悪くはないかもしれない。立派な一つの道だ」
グレイブは赤い唇を動かし、話を続ける。
「しかし……『共に生きてくれ』は気が早くないか?まだ二十歳にもなっていない娘に、そんなことを言うものだろうか」
「難しいです」
「だろうな。私がマレイであったとしても、答えられなかったと思う」
そんな風に言葉を発するグレイブは、意外にも、涼しい顔をしている。
化け物やそれに関わる者へ憎しみを抱いている彼女だから、もう少し厳しいことを言われるかと予想していたのだが、案外そうでもなかった。彼女は、私が思っているよりずっと大人なのかもしれない。
「で、マレイの気持ちはどうなんだ?」
「よく分からないんです」
「ゼーレのこと、大切に思っているのか?」
大切なのだろうか。
彼が命を落とすかもしれないと思った時は、本当に辛かったし、悲しくなって仕方がなかった。
そこから察するに、どうでもいい、ということはないのだと思う。
けれども、それが、共に生きていきたいと願うほどの感情なのかどうか。そこがいまいちよく分からない。
「嫌いでは……ないです。でも、これがどの程度の想いなのか、よく分かりません」
率直な心境を述べた。
するとグレイブは、さらに尋ねてくる。
「一緒にいると楽しいか?彼のいない生活を想像できるか?……など考えてみてはどうだ」
「それはもちろん、一緒にいれば楽しいですし、死んでしまったら嫌です」
もう二度と、大切な人を失いたくない。私一人だけが遺されるなんて、絶対にごめんだ。
——って、あれ?
今、私……ゼーレのことを大切な人って思った?
ということはやっぱり、ゼーレは私にとって大切な人なのだろうか。別段意識はしてこなかったけれど、いつの間にか大切になっていたということも、考えられないことはない。
「やっぱり……大切なのかも、しれません」
戸惑いの海に溺れかけながらも、私は述べた。
私が突然そんなことを言い出したからか、グレイブは目を見開く。
「そうなのか?」
「よく分かっていませんでしたが……今、大切かもしれないと気づきました」
散々分からないなどと言っておきながら、いきなりこんなことを言い出したのだ。驚かれるのも無理はない。
だが、グレイブはすぐに切り替え、ふっと余裕のある笑みをこぼす。
「そうか。なら簡単だな」
楽しいものを見たような、含みのある笑みだ。
「もう答えは出ただろう?マレイ」
グレイブはその凛々しい顔に笑みを浮かべたまま、そんなことを言ってきた。すべてを見透かしているかのような眼差しを向けられると、何だか不思議な気分になってくる。
「えっと、あの……」
「あと必要なのは、勇気だけだ。頑張れ」
「え……?」
グレイブが言おうとしていることは、薄々察することができる。が、彼女がそんなことを言うということ自体が信じられず、私はただ、困惑する外なかった。
化け物を、化け物と繋がりのあるゼーレを、あんなに嫌っていたグレイブなのに——今、私の心は驚きに満ちている。
「特に何かをしてやれるというわけではないが、応援しているからな」
「え、あの」
「大丈夫だ!あのボスを倒したマレイなら、きっと上手くやれる!」
胸の前で拳を握り、はきはきとした調子で述べるグレイブ。
ノリが男前すぎて、もはや言葉で表することはことはできそうにない。
「私は賛成だ、マレイ。お前は誰かと幸せになった方がいい」
いきなり言われても……。
私の胸の内は、今、そんな思いで満ちていた。
これまでずっと相談してきたというのなら、熱くなるのも分かる。他人のことであっても、熱心に取り組んでいたのなら、熱くなる場合だってあるだろう。
だが、今回の件は違う。先ほど初めて打ち明け、相談したばかりだ。
にもかかわらず、これほど熱心になってくれるというのは、不思議な感覚である。少なくとも、私の頭の中には、こういった展開は存在していなかった。
「あ、ありがとうございます……」
私が返せる言葉はそれだけしかない。
いや、もしかしたらもっと相応しい言葉があったのかもしれない今の私の頭では、ぱっとは思いつかなかったのである。
私は、ややこしいことになるのが嫌で、これまで誰かに相談することはしなかった。
けれど、今回、グレイブに話してみて良かった、とは思う。
というのも、これまでずっとよく分からずにいた、私の中でのゼーレの存在というものに、気がつくことができたからだ。
一人でいくら考え続けても、答えが出ないことはある。だが、誰かと一緒に考えれば、意外な形で、思いの外簡単に答えが出ることもある。それを改めて感じた出来事だった。
戦いは終わり、この国を覆う長い夜も終わって。
でも、私の人生はまだ終わらない。
ここからまた、新しい物語が始まるのだと、確信している。
- Re: 暁のカトレア ( No.145 )
- 日時: 2018/09/14 21:31
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: eldbtQ7Y)
episode.138 ケーキの中から魚の骨
受章式典を終え、基地へ戻った私たちのもとへ、一番に現れたのはフランシスカ。彼女は、私たちが帰ってくるのをかなり心待ちにしていたようだ。迎えてくれた時の眼差しといったら、真夏の太陽のように、キラキラと輝いていた。こんなに温かく迎えてくれる人がいるということに気づき、私は内心とても感動した。
「トリスタン!どんなの貰ったのっ!?」
「君に見せる気はないから」
「えぇっ!でもでも、フラン見たいよぉっ!」
「ごめん。今、そういう気分じゃない」
フランシスカが一番に絡んでいったのは、やはりトリスタンだった。
だがトリスタンは、そんな彼女を、冷たくあしらうのみ。何とか引き止めようとするフランシスカには応じることなく、淡々とした足取りで歩いていっていた。
この前負傷隊員らのいる部屋で話した時には、二人の距離が少しは縮んだかと思ったのだが、案外そうでもないようだ。……いや、二人にはこういう関わり方しかない、という可能性もあるのだが。
「もー。トリスタンったら、酷いー!」
「あいつは相変わらずだな」
トリスタンが構ってくれないことに不満を漏らすフランシスカへ、グレイブが苦笑しながら言葉をかける。
「本当ですよっ。何なんですかね!?あれは!!」
女の子らしいフランシスカには似合わない、大きな声を出していた。
結構真剣に怒っている様子だ。
「本当に……何だろうな、あれは」
「感じ悪すぎですよねっ!」
「そこまで言うならフラン。そろそろ諦めるというのはどうだ?」
グレイブは驚きの提案をした。
だが、もちろんフランシスカは頷かない。
「諦めるなんて嫌ですっ!」
躊躇いの「た」の字もないほどきっぱりと返したフランシスカ。まさに女の子、という雰囲気を持ちながらも、決して弱々しくなどない彼女を、上手く表している言動だと思った。
「そんなの、負けたみたいじゃないですかっ!」
丸く大きな瞳に、ミルクティー色のボブヘア。そして、そこから漂う、シャンプーの素敵な香り。
まさに女性の中の女性という感じのフランシスカだが、「負けたくない」と思う心だけは、男にも負けないほどに強そうだ。……なんて、ふと考えたりした。
「そういうものなのか……?」
「フラン、絶対諦めないことだけには自信があるんですっ!」
「なるほど。では、よく分からんが、頑張れ」
正直面倒臭い——グレイブはそんな顔つきをしていた。
トリスタンとフランシスカの関係には、あまり関心がないのかもしれない。表情を見る感じ、なんとなくそんな感じがする。
「で、マレイちゃん!名誉章貰えたのっ?」
「えぇ。いただいたわ」
「謁見もあったって聞いたよ!びっくりしたっ」
「私も驚きだったわ」
謁見の時には緊張で胃が痛くなった。
何かやらかしてしまったらどうしよう、みたいなことを考えすぎたせいだ。
だが、実際にやらかしてしまうことはなかったし、胃が痛くなっただけで済んだので、まだ良かった方だと思う。何事もなく終了して、本当に良かった。
「でも凄いよねっ。マレイちゃん、ここに来て一年も経っていないくらいなのに、名誉章なんて貰っちゃうなんて!フラン、羨ましいよっ!」
そんな風に言葉を発するフランシスカは、真夏の昼間のように明るい顔つきだった。また、その丸く愛らしい瞳は、雲一つない空のように、透明感に満ちている。
フランシスカは名誉章を受章するに至らなかった。受章したグレイブやトリスタンや私とほぼ変わらないくらい、しっかりと戦ってくれていたにも関わらず、だ。相手が皇帝でなければ文句を言いたかったほどのおかしな判断だと、私は思う。
きっと彼女だって同じ気持ちのはずだ。
なぜ自分だけが受章できないのか。そんな疑問を抱いているに違いない。
にもかかわらず、受章した私たちを妬むようなことはせず、逆に笑顔で祝ってくれる。温かい言葉をかけてくれる。
彼女のそういうところには、尊敬するに値すると思う。
「ありがとう。フランさんにそう言ってもらえると、嬉しいわ」
「でしょ!フランに褒められたら、やっぱり嬉しいよねっ」
そんなことを平気で言えてしまうなんて……。
「じゃ、謁見のこと色々聞かせてねっ!」
唐突に話題が変わる。驚いた。
「え。私なの?」
「うん!もちろん!」
「けど私、たいしたことはしていないわ。聞くならグレイブさんとかの方がいいんじゃない?」
緊張でガチガチになっていたため、謁見の時のことは、あまりはっきりと覚えていない。なので、フランシスカに「聞かせて」と言われても、話せることは限られている。
「だってグレイブさんは忙しいもん!」
「じゃあトリスタンに……」
「トリスタンは教えてくれそうにないもん!」
「だから私なの?」
「そうだよっ。マレイちゃんなら仕事もないし、暇そうだもんっ」
グサッ。
胸に何かが突き刺さった気がした。
暇そう……いや、それは事実だ。ボスを倒すという役目が終わった今、私にはこれといった仕事はない。つまり、暇。することの何もない、完全な暇人である。
だが、私だって、望んでそうなっているわけではないのだから、そんなにはっきりとは言わないでほしかった。
——なんて思っても、何の意味もないのだけれど。
「いいよねっ?」
「え、えぇ。ちゃんと伝えられるか分からないけど、それでも良かったら」
「もちろん!分かる範囲でいいよっ!」
ひと呼吸空け、フランシスカはさらに続ける。
「フランだってべつに、マレイちゃんが全部しっかり分かってるなんて思ってなかったからっ」
またしても、グサッ、と何かが刺さったような気がした。
フランシスカが発する言葉は、やはり、安定の鋭さを持っている。
それはまるで、柔らかいケーキの中から魚の骨が出てきたかのよう。突如現れる鋭さだから、余計に威力があるように感じられるのだ。
- Re: 暁のカトレア ( No.146 )
- 日時: 2018/09/14 21:31
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: eldbtQ7Y)
episode.139 取り戻しましょう、幸せを
受章式典を終え、基地に帰ったその日は、フランシスカによって終わってしまった。彼女から色々尋ねられたので、それらに答えていたところ、いつの間にやら夜になっていたのである。
ゼーレとも一言くらいは交わせれば良いなと思っていたのだが、自由の身になった時には既に夜遅くだったため、その日は、そのまま自室へと向かった。
ボスとの、あの壮絶な戦いから、まだ数日しか経っていない——。
そう考えると不思議な感じだ。飛行艇へ攻め入り、ボスを倒した日が、ずっと昔のように思える。なぜだろう、よくは分からないけれど。でも、少なくとも数か月は経っているような、そんな感覚だ。
この夜、私は、久々にゆっくりできた気がした。
一人自室で寛いでいると、次から次へと、今までの戦いの記憶が蘇ってくる。化け物やリュビエ、そしてボス。これまで敵として向かい合った者たちの姿が、脳裏に浮かんでくるのだ。
だが、もう戦いは終わった。
その事実が、私の心を救ってくれる。
化け物狩り部隊のみんなと一緒に戦うことがなくなるのは、少し寂しい気もしないではないけれど。
それでも、今はただ、平穏が嬉しい。
翌日。いつの間にか寝てしまっていたらしく、寝る前の記憶がないが、気づけば既に朝が来ていた。
背伸びをして、乱れた暗い茶色の髪を整える。服はこのままで出歩けそうだ。自室から出る準備には、意外と時間がかからなかった。良いことなのか悪いことなのか、よく分からないけれど、個人的には幸運だと思う。
そして私は向かった。ゼーレのいる、あの部屋へと。
さすがに二度目は案内なしでたどり着くことができた。予想していたよりも、早く着いたような気がする。一度経験した道のりで、慣れたからかもしれない。
飾り気のない扉の前まで来ると、私は、二回ほど軽くノックした。
予告もなしにいきなり入っていくのは失礼かな、と思ったからである。
ノックに対する返答は特になかった。まだ寝ているのかもしれない、と思ったが、一応確認することに決め、ゆっくりと扉を開けてみる。そして、狭い隙間から部屋の中を覗く。
今の私の行動は、傍から見れば完全に不審者だろう。
しかし、幸運なことに、付近に人はいない。そのため、遠慮なく、扉の開いた細い隙間から中を覗くことができた。
照明は消えているらしく室内は薄暗い。また、白いカーテンがきっちりと閉ざされているせいで、ベッドは少しも見えない。もちろん、ゼーレの姿も捉えられなかった。物音もしないので、ゼーレはまだ寝ている可能性が高いと思われる。
そんな風にあれこれ考えていると。
「……カトレアですか」
突如、ゼーレの声が聞こえてきた。
「もしそうなら……何をそんなところで覗いているのです?普通に入ってくれば……良いではありませんか」
ゼーレは何と勘が良いのだろう。
妙なところで感心してしまった。
「入ってもいいの?」
「えぇ……お入りなさい」
「ありがとう!」
なんだかんだで部屋に入る許可を得ることができたため、静かに入室する。あまり騒がしくすると不快がられる可能性が高いので、なるべく音を立てないよう気をつけつつ入った。
「照明は点ける?」
部屋に入ってすぐの場所に、照明を点けたり消したりするためのスイッチが備え付けられている。だから一応尋ねてみた。
だが、返ってきたのは曖昧な返事。
「……貴女のお好きなようになさい」
「じゃあ点けるわね」
「……点けるのですか」
「どっちなのよ」
「貴女が明るい方が良いなら……点けてもかまいませんよ」
どちらでもいいような口振りだ。
なので私は照明を点けることにした。明るい方が過ごしやすから。
それから、ゼーレのいるベッドの方へと歩いていく。白いカーテンを開けると、そこには、ベッド上で横になって寛いでいるゼーレの姿があった。小さい蜘蛛型化け物と戯れているようだ。
「遊んでいたの?」
尋ねると、ゼーレは一瞬焦りの色を浮かべる。しかしすぐに冷静さを取り戻し、何事もなかったかのように私へと視線を向けた。
「……眠れなかっただけです」
蜘蛛型化け物と戯れている姿を、見られたくなかったのかもしれない。
「……それで。受章とやらは……どうでした?」
「知っていたのね」
「えぇ……世話役の女性から聞きました。カトレアは何とか章を受章した、と……」
「名誉章よ」
「……ほう。なかなか大層な名の章ですねぇ」
言いながら、ゼーレは上半身を起こす。
あの直後は上半身を起こすことさえ厳しい状態だったが、数日経ったことで、上半身を起こすくらいはできるようになったようだ。一応回復しつつあることが分かり、私は密かに安堵の溜め息を漏らした。
少しでも回復してきているのなら、いずれほぼ完治することだろう。
「まぁ、あのボスを倒したのですから……妥当と言えるやもしれませんが」
ゼーレはぽそっと付け加える。
彼のことだから素直に言いはしないけれど、少しは私の頑張りも認めてくれているようである。
もちろん、認めてもらうために頑張ったわけではないが、彼に認めてもらえたのは嬉しい。なかなか人を認めないような彼に、だからこそ、認めてもらえた嬉しさもひとしおだ。
「ありがとう」
「……べつに。当然のことを言ったまでです」
当然のこと、だなんて。ますます嬉しいではないか。
「ありがとう!」
「止めて下さい……そのような笑顔、不気味です」
「……酷いわね」
せっかく良い流れだったのに、笑顔が不気味発言のせいで、すべてが台無しだ。
そんな何とも言えない流れになりつつも、私はすぐに気を取り直し、述べる。
「そうだ、ゼーレ。あれから色々考えたのだけれど」
今日ここへ来たのは、この話の続きをするため。彼の褒め言葉やら嫌みやらに振り回されるためでは決してない。
「私、やっぱり、貴方のことが大切だわ。だから、貴方の望みを少しでも叶えたいと、そう思うの」
ゼーレはこれまで、幸せな人生ではなかったはずだ。だからこそ、ここから先、その不幸分を取り戻せるような日々を過ごしてほしいと思う。望むことをして、楽しいことを探して、一人の人間として普通の暮らしを体験させてあげたい。
もちろん、普通の暮らしだって大変なことは多いけれど。
でも、そんな日々で、微かに煌めくものを探していってほしい。
「だから、これから色々協力するわ。仕事確保も、私にできる限りのことをさせてもらうわね。……それでいい?」
するとゼーレは口を開く。
「……構いませんよ。むしろ、よろしく頼みたいところです」
珍しく素直だった。
ゼーレがすんなりとまともな返答を述べると、何となく不思議な感じがする。
「それと……共に生きていただけるのかどうかも気になりますねぇ……」
ゼーレはしっかりと確認してきた。やはり、そこを答えないままというわけにはいかないようだ。無理もない、そこは特に重要なところなのだから。
もはやごまかしなど利かない。
逃げ道だってありはしない。
ならば、今私にできることはただ一つ。
自分が導き出した答えを、口から発する。それだけだ。
「えぇ。そのつもりよ」
私の言葉に、ゼーレの翡翠のような瞳の中に浮かぶ瞳孔が大きくなる。他人の瞳孔をこれほどはっきりと見たのは、生まれて初めてかもしれない。
「貴方を支えると誓うわ」
被害者だった私と、加害者だった彼。私たちは真逆の立ち位置だったけれど、共通点がないわけではない。まともな幸せを手にできなかった——それは、私と彼を繋ぐ、大きな大きな共通点だ。
「取り戻しましょう。幸せを」
それだけが、今の私に言えることだった。
- Re: 暁のカトレア ( No.147 )
- 日時: 2018/09/15 15:35
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: YohzdPX5)
episode.140 平和的で得意なこと
私が言葉を発した後、暫し、ゼーレは黙っていた。
だが、いまだに装着している割れた仮面の隙間から覗く瞳は、私をじっと見つめている。まるで、私の心を奥底まで見通そうとしているかのように。
自分の発言の後に沈黙が訪れるというのは、何ともいえない息苦しさを感じる。悪いことを言ってしまったのだろうか、なんて考えてしまうから。
そんな複雑な心境のまま、待つことしばらく。
ゼーレはゆっくりと口を動かした。
「……事実ですか、それは」
彼は私の言葉を信じきれてはいないようだ。
こちらへ向けている彼の視線からは、まだ、訝しんでいるような雰囲気が漂っている。
「後から悔やんでも、遅いですよ」
「えぇ。今さら逃げるつもりはないわ」
「……本気なのですか」
「そうよ、決めたの。私は自分の選択を後悔なんてするつもりはないわ」
かつては、ゼーレをこちら側へ引き込んだことを後悔しかけていたこともあった。だがあれは、成り行きでそういう形になってしまったという部分もあったからであって、今回の件とは違うパターンだ。今回の答えは、私が悩み、私が考え、私が出した答え。それゆえ、後悔なんてするわけがない。
「貴方こそ、本当にそのつもりなのよね?」
逆に問う。
するとゼーレは、静かに、首を縦に動かした。
「当然です」
小さい蜘蛛型化け物がベッドの上をうろついているのが、微妙に気になるが、今はそちらに構っている暇はない。
「今さら逃げ出すほど情けない男ではないと……自負していますからねぇ」
「そうね。なら決まりだわ」
はっきり言ってくれると、話がスムーズに進むのでありがたい。しかも、色々探らずに済むから、変に頭を使わなくてよくて楽だ。
「じゃあ、改めて」
私はそう言って、上半身だけ起こした体勢のままゼーレに、片手を差し出す。
「……何のつもりです?」
「改めてよろしく、の握手よ」
「……そうですか」
いきなり私が手を差し出したことに戸惑ってか、ゼーレは一瞬怪訝な顔をした。だが、私がその意味を説明すると、彼は納得したような表情で、その手を掴んでくれる。指先にひんやりとした感覚が広がる。
「よろしくね」
「……こちらこそ」
気まずそうな顔をしつつも言葉を返してしてくれる真面目さが、微笑ましい。
「じゃあ取り敢えず、ゼーレがちゃんと動けるようになるまでの間に、宿屋に連絡しておくわ。雇ってもらえるかどうか、聞いてみるわね」
「……えぇ」
「何か、伝えておいた方が良いことはある?」
「いえ……べつに、何も」
小さな蜘蛛型化け物は、ゼーレの気を引こうとしてか、彼の腰辺りを細い脚でこすっていた。が、まったく相手してもらえていない。その様子を目にすると、少し可哀想な気もした。
「得意な仕事の分野とかは?」
「戦闘ならば、できますが」
「それは駄目よ。もっと平和的なことで得意なことはないの?」
たとえば掃除が得意とか、重い荷物を運べるだとか。そういった強みがあれば、雇ってもらいやすいかと思ったから、聞いてみているのだ。
「……平和的、ですか」
考えるのが面倒臭い、といった顔をするゼーレ。
「えぇ。何かない?」
「そう……ですねぇ……」
ゼーレが考えている間も、小さな蜘蛛型化け物は、彼の腰付近を足でこすっていた。気を引こうと、懸命に努力している。恐らく、私との話が長くて退屈しているのだろう。
いつまでも放置、というのも少し気の毒な気がする。
極力早く話を終わらせるようにしよう、と私は思った。
「料理なら……少しはできますが」
「りょ、料理!?」
家庭的なのがきた!
宿屋で働くにはもってこいの特技ではないか!
「……いきなり大声を出すのは、止めて下さい」
冷静に注意され、私は思わず、口を手のひらで塞ぐ。
「ご、ごめんなさい。びっくりして、つい……」
「……失礼ですねぇ」
ゼーレは眉間にしわを寄せていた。
言われてみれば、ゼーレが料理が得意ということにこんなに驚くのは、変かもしれない。
ただ、これまで私が抱いていたイメージと、大きな差があったのである。
「でも、ゼーレが料理が得意だなんて知らなかったわ」
「ま、得意というほどではありませんがねぇ……」
「できるだけでも凄いわよ。私なんて、ほとんど何もできないもの」
「でしょうねぇ。貴女が不器用だということは、私でさえ知っています」
「ちょっと、失礼よ!」
確かに私は不器用だ。宿屋にいた頃もたいして役には立てていなかったことが、すべてを物語っている。だから、ゼーレの言うことも間違いではないのだ。
けど!
べつに、改めて言わなくてもいいじゃない!
「すみませんねぇ、失礼な人間で」
「本当よ!」
つい、日頃より強い調子で言ってしまった。言ってから、「やってしまった」と焦る。
ゼーレは案外繊細だ。何げない一言であっても、傷つく可能性は十分にある。せっかく素直になってきたというのに、そんな小さなことでまたひねくれてしまったら、大変だ。
「でも、そういうところも嫌いじゃないわ」
速やかにフォローを入れる。
「ゼーレらしくて、微笑ましいもの」
苦しすぎる発言だと、自分でも思う。けれど、今の私に入れられるフォローはそれしかなかったのだ。
するとゼーレは、呆れた顔をしながら低い声で返してくる。
「構いませんよ、フォローなど入れなくても」
う。ばれてる。
だが、このくらいで挫けたりはしない。ゼーレを扱うのが難しいことは知っているし、こういった流れになることも想定の範囲内だ。
「フォローなんかじゃないわ。本当のことよ」
「……怪しいですねぇ」
だから負けない、挫けない。
「私を疑うの?」
「いえ。疑うも何も……嘘臭さ満点ですから」
「ちょ、何よ、その言い方は」
「分かりやすいですねぇ……」
く、悔しい。
だが、ゼーレの方が一枚上手かもしれない、と思った。私には勝てそうにない。
「さ、さすがね!よく見てるじゃない!」
「……やはり」
「でも、完全な嘘ではないのよ。ゼーレが嫌みを言ってくれていると安心するの」
そう、これはまぎれもない事実。
思いつきで発した嘘などではない。
- Re: 暁のカトレア ( No.148 )
- 日時: 2018/09/16 01:58
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: u5wP1acT)
episode.141 三週間が過ぎて
その後、私はダリアにいるアニタと連絡を取り、電話でゼーレのことについて話した。彼が宿屋で働きたいと言っていることを、である。最初は突然のことに戸惑うアニタだったが、彼女はそれでも、ちゃんと話を聞いてくれた。ありがたいことである。
話し合いの末、ゼーレがまともに動けるようになったら彼を連れてアニタの宿屋まで行く、ということになった。そこで少し話をし、雇うかどうか決める、とのことだ。
これで約束は完了。
後は、上手くいくことを願うのみである。
——その後、またたく間に三週間ほどが経過した。
そんなある日の朝。
私がいつものようにゼーレの部屋へと向かっていると、途中でフランシスカに遭遇した。彼女は私を見つけるや否や、手を大きく振りながら駆け寄ってくる。
「マレイちゃん!」
「あ、フランさん!」
こんなところでフランシスカに会うなんて、珍しい。
「会えて良かったぁ」
フランシスカはその愛らしい顔に明るい笑みを浮かべていた。丸い瞳はきらきらと輝いている。
「どうかした?」
「今マレイちゃんを呼びに行こうと思ってたんだっ!」
よく分からないが、何か用があるようだ。
「どこかへ行くところっ?」
「ゼーレの部屋へ行こうと思っていたの」
「ちょっと、食堂まで来てもらってもいいっ?」
一体何なのだろう。ゼーレの部屋へ行くことよりも大切なことなのだろうか。
そんな疑問を密かに抱きつつも、私は頷く。
「えぇ、行くわ」
「大丈夫っ?」
気を遣っているようなことを言いつつも、さりげなく断れない空気を出してくる辺りが、フランシスカらしい。
「えぇ、大丈夫よ。でも、何かあったの?」
「ううんっ。ちょっとした用事だよ!」
ちょっとした用事でわざわざ呼びに来てくれるなんて不思議だが、ありがたいとは思う。
こうして私は、フランシスカと共に、食堂へと向かった。
朝食時ゆえ賑わっているものかと予想していたのだが、食堂は意外と空いていた。隊員の姿がまったくないというわけではないのだが、まばらだ。ずらりと並んでいる椅子のうち、半分以上が空席である。
そのせいか、いつもと変わらない食堂がとても広く見える。
「こっちこっち!」
フランシスカは軽い足取りで歩いていく。私はそれについていった。何が待っているのだろう——心の隅でそんなことを思いながら。
少し歩いていくと、見慣れた顔が視界に入る。
「おぉ、来たか。マレイ」
一番最初に私に気づいたのは、グレイブ。
こちらを向く瞬間、彼女の長い黒髪は、はらりと揺れた。いつもは男らしいグレイブなのに、今はなぜか、とても女性的な魅力を感じる。戦士の風格を漂わせていないからかもしれない。
「ちゃーんと連れてきましたよっ!」
「フラン、ご苦労」
「はいはーいっ」
フランシスカに私を迎えに行くよう命じたのは、グレイブだったようだ。
「マレイちゃん。待ってたよ」
グレイブの次に私に話しかけてきたのは、トリスタン。
あれから三週間が経過し、彼もだいぶ回復してきたようだ。ボスにやられた時はどうなることかと心配したが、命に別状はなさそうで、何よりである。
「トリスタン!みんな集まって、何が始まるの?」
「ちょっとしたイベントだよ」
いまいち分からない。
「イベントって?」
「食事会だ」
私の問いに言葉を返してきたのはグレイブ。
朝から食事会って……、と思ってしまった。が、口からは出さない。そんな雰囲気を壊すようなこと、言えるわけがないから。
だが、食事会とは、何を食べるのだろう?
みんなで食堂に集まり、いつものメニューから選んだものを食べるだけなのだろうか?
……いや、それだけのことをわざわざ「食事会」なんて言いはしないはずだ。だって、もしそれを「食事会」と言うのなら、毎日が「食事会」ではないか。
「食事会なんて、珍しいですね」
「あぁ。そうだな」
「何を食べるんですか?」
すると、驚きの答えが返ってきた。
「カレーだ。ゼーレのカレー」
グレイブが発したその言葉に、私は暫し戸惑いを隠せなかった。
彼が料理を得意としていることは前に聞いたが、まさかみんなのために作るなんて、思いもしなかったからだ。
「毒とか入ってないといいけどねっ」
トリスタンの隣の席に座り、フランシスカがそんなことを言う。
「さすがに大丈夫だと思うけど」
「え。あ……トリスタンがそういうなら、きっと大丈夫だよねっ!」
慌てて返すフランシスカは、女の子らしくて、可愛い感じがした。
「マレイも席につけ」
「あ、はい。ありがとうございます」
私はフランシスカの横に座った。
トリスタンとは、間にフランシスカを挟む形である。
それから私は、しばらく、隣の席に座っているフランシスカと話して時間を潰した。本来なら話すのはトリスタンでも良かったのだが、彼はどこか暗い顔をしていたため、話しかけずらかったのだ。
それから数分が経過して、食堂の厨房からゼーレが鍋を持って現れた。その後ろには、いつも食堂の厨房で働いているおばさんがついてきている。彼女は、ご飯の盛られた皿がいくつか乗ったお盆を持っていた。
「……お待たせしました」
真っ白な布製の帽子とマスクをつけ、ひよこ柄の水色のエプロンを着ているゼーレを見て、私は吹き出しそうになってしまった。
こんなに似合わない服装を平気でするなんて、ある意味凄い。
「おおっ!本当にカレーだねっ」
焦げ茶色のカレーが入った鍋を見て、フランシスカはそんなことを言った。だがゼーレは何も答えない。黙ったまま鍋をテーブルに置く。
「何それ、無視しないでよっ」
フランシスカは不満をぶつけるも、ゼーレは何も返さない。
おばさんがテーブルにお盆を置くと、彼は、そこに乗っている皿へ、カレーをかけていく。既にご飯は盛りつけられているため、空いているところへ上手く注いでいっている。
その手つきは、いかにも慣れている風だった。
すべての皿にカレーを注ぎ終えると、ゼーレは、私たちそれぞれの前へ皿を置く。
「……お待たせしました」
愛想なくそう言いつつ彼が出した皿からは、カレーの良い香りが立ちのぼってきていた。食べる前から美味しいのだろうなと分かる。
- Re: 暁のカトレア ( No.149 )
- 日時: 2018/09/16 01:58
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: u5wP1acT)
episode.142 カレーが美味しすぎたせい
目の前に置かれた、カレーとご飯が乗った皿。焦げ茶色のカレーと白色の米、という色みが、いかにも美味しそうだ。それに加えて、立ち上るコクのある香りがこれまた美味しそうで、食欲をそそる。
朝からカレーなんて。
そんな風に思っていた心は、一瞬にして吹き飛んでいってしまった。
今はただ、目の前に出されたものを食べたい、という欲に満ちている。目と鼻からの情報だけでも、絶対に美味しいと確信が持てるほどのカレーだ。食べたくならないわけがない。
「マレイちゃん、どうかしたのっ?」
カレーの乗った皿を凝視しているのを不思議に思ったらしく、フランシスカが尋ねてきた。眉をひそめ、怪訝な顔をしている。
「あ、いえ。何でもないわ」
「本当にっ?」
一応答えはしたのだが、フランシスカは「信じられない」といった顔をしたままである。
確かに、仲間が周囲にいるにもかかわらず皿だけを凝視している人なんて、明らかにおかしな人だ。そう考えると、フランシスカが訝しむような顔をするのも無理はないのかもしれない。
「えぇ、本当よ」
私がもう一度答えると、鍋の前に立っていたゼーレが口を挟んでくる。
「……カトレアはカレーに夢中なのでしょう」
ゼーレの発言に、フランシスカはその愛らしい顔を持ち上げ、「あ、そうなの?」と返す。彼女が目をぱちぱちさせると、丸い瞳を彩る睫毛が大きく動いて、とても華やかだ。
「えぇ……恐らく」
ゼーレは呟くような小さな声で述べ、それから、私の方へと視線を向ける。そして、ニヤリと笑った。マスクを装着しているため口元を視認はできないのだが、それでも彼の表情が変わったことは、容易く分かった。
「……でしょう?カトレア」
馬鹿にされている感が否めない。
だが、露骨に無視するのもどうかと思ったため、仕方なく答える。
「そうよ。美味しそうだったんだもの、仕方ないじゃない」
するとゼーレは軽く目を伏せる。
「……やはり。そんなことだろうと思いました」
そう言ってから、ゼーレは一人、「ふふ」と笑みをこぼしていた。彼が笑うなんて、不気味だ。
「やはり食欲に敵うものはありませんねぇ……」
「な、何よ!食い意地が張っているみたいに言わないでちょうだい!」
「……何を必死になっているのです?カトレア。食欲旺盛なのを悪いことだと言ってはいませんが」
ひよこ柄の水色のエプロンを着ているが、やはり、ゼーレはゼーレだった。根っこの性格というものは、服装くらいで変わるものではないらしい。
そんな風に言葉を交わしながらのんびりと過ごしていると、それまで黙っていたトリスタンが、突然口を開いた。
「ところでマレイちゃん。ゼーレと一緒に行くって、本当?」
えええっ!?
どうしてトリスタンが知ってるの!?
……なんて驚いたのは隠し、まるで平静を保てているかのように振る舞いつつ返す。
「その話、どこで聞いたの?」
まだトリスタンには話していなかったはずなのに。
一体どんな経路で情報を入手したのやら……。
「先に僕の質問に答えてほしいな」
「そ、そうね……」
こんな時に限ってトリスタンは厳しい。
「本当なのかな?」
トリスタンの青い双眸から放たれた視線は、まるで胸を貫くかのように、真っ直ぐ向かってきている。彼に真剣な眼差しを向けられると、ごまかせる気がしない。
「えぇ……本当よ」
非常に言いにくいが、嘘をつくわけにもいかない。
今私は、ただ、真実を述べるしかなかった。それ以外に選ぶことのできる道など、存在しなかったのだ。
私の返答に、トリスタンは微かに俯く。
辺りの空気が一気に冷えた気がした。
「……そっか」
私はゼーレを選んだ。彼と生きる道を選んだ。だからもう引き返せはしない。それに、もし仮に引き返せるとしても、そちらを選択することはないと思う。
トリスタンには、ずっと世話になってきた。だから、こんな形で彼を傷つけてしまうのは、心苦しいものがある。
でも——。
もし今ここで、私が、曖昧な態度をとったら。
彼に希望の欠片を残すような態度をとったとしたら。
余計にトリスタンを傷つけてしまうことは、間違いない。
選んだ道を告げることは辛くて、罪悪感もある。けれど、はっきりと告げるのが、一番トリスタンのためになるだろう。
だから私は正直に告げたのだ。
「それが君の、マレイちゃんの、選んだ道なんだね」
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。君は、君が望む人生をゆけばいいんだから」
トリスタンは優しかった。
彼の優しさに、何度も救われてきた。
「僕はマレイちゃんに幸せになってほしい」
そして今も、私は、その優しさに救われている。
切なげに伏せられた青を見ると胸が痛くなるけれど、トリスタンが私の選んだ人生を受け入れようとしてくれていることは、純粋に嬉しく思う。
「だから、謝らなくていいよ」
「……ありがとう」
今は、躊躇いなく、感謝を述べることができた。
トリスタンが温かく受け止めてくれたからだ。
「さ!カレー食べよっか!」
私とトリスタンの会話が一段落する時を見計らっていたのか、言葉が途切れるなりフランシスカが言った。彼女らしい、はつらつとした声色だ。
「そうだな。美味しそうなカレーだ」
「いっただっきまーすっ!!」
グレイブとフランシスカがそれぞれ述べていた。
私は、スプーンに山盛りになるくらいがっつりすくったカレーを、一気に口に含む。重い気分を振り払うかのように。
濃厚な汁と甘みのあるご飯が、絶妙の組み合わせだ。にゅるりととろける玉ねぎ、ほくっとしたジャガイモ、そして柔らかくてほろりと崩れる肉。
ゼーレのカレーは美味だった。
「へぇー、案外美味しいね……って、マレイちゃん!?」
「え?」
フランシスカは私の皿を見て、何やら驚いている。
「食べるの早くないっ!?」
「そう?」
まだ半分くらい食べただけなのだが……。
「早いよ!早すぎだよっ!」
なぜ、と思ったが、周囲の皿を見て納得した。確かに、みんなはまだ半分も食べていない。ということは、フランシスカが言う通り、私は食べるのが早いのだろう。
だがそれは、私が食い意地が張っているからではない。カレーが美味しすぎたのが原因だ。
- Re: 暁のカトレア ( No.150 )
- 日時: 2018/09/16 15:30
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: HijqWNdI)
episode.143 私の理想の世界
ゼーレお手製のカレーを堪能した後、食事会は終わり、解散になった。実にあっさりした、不思議な会だったが、結構楽しかったことは事実だ。美味しいカレーを食べることができて、満足である。
……ちなみに、念のため言っておくが、食い意地が張っているわけではない。
美味しいものを食べると嬉しいのは、人間の本能。老若男女問わず、本能には抗えないものだ。だから、カレーに夢中になるのは、人間として当然のことである。
食後、私がまだ席でぼんやりしていると、グレイブが話しかけてくる。
「ゼーレと行く件、トリスタンに伝えない方が良かっただろうか」
伝えたのは、貴女だったのね!
そう叫びたい衝動をこらえつつ、私は返す。
「いえ、べつに大丈夫です」
まさかトリスタンが知っているとは思わなかったので、話を振られた時に驚いたのは事実だ。しかし、私自ら言い出すなんてことは、絶対にできなかっただろう。それを考えると、グレイブが伝えてくれていて良かったのかもしれない、と今は思う。
ただ、伝えたなら「伝えた」と言っておいてほしかったことは確かだが。
「急に驚いただろう?すまなかったな」
「いえ。いずれは話さなくてはならないことでしたから」
「そうか」
グレイブはいつも忙しく動き回っているのに、今は、食堂の片隅で寛いでいる。彼女が寛いでいるところを見るのは、とても珍しい。
今、私とグレイブは、向かい合わせの席に座っている。
それゆえ、顔と顔の距離が非常に近い。こんな近くで人の顔を見るなんて滅多にない、というくらいの至近距離だ。
ただ、彼女の顔立ちは、至近距離で見てもかなり整っている。
しゅっと高い鼻も、凛々しさのある目も、紅の塗られた唇も。そのすべてが、素直に「美しい」と言えるくらい整った形だ。もはやいちゃもんのつけようがない容貌である。
「本当は先にマレイに言っておかねばならなかったのだが、すまなかった」
「いえ。本当に、謝らないで下さい」
そんな美貌の持ち主に謝罪されると、何とも言えない不思議な気分になってしまう。それこそ、謝らせて申し訳ない、といった気分になるのだ。
「気にしていませんから。むしろ、ありがとうございます」
私がそんなことを言っていると、突如、大きな声が聞こえてくる。
「グレイブさぁぁぁーんっ!」
声に続き、ドカバタドカバタという足音。
信じられないくらいの騒々しさに、シンがやって来たのだとすぐに気づいた。
全力疾走してきていた彼は、グレイブの目の前で、急に止まる。
「少しよろしいでしょうかぁぁぁ!?」
「どうした、シン」
シンとグレイブの、声の温度差が、妙に笑えた。
さほど面白いことではないはずなのだが、今はなぜか笑えて仕方ない。
「あのぉぉ……書類のぉぉ中にぃぃぃ間違いがぁ……ありましてぇぇぇーっ!」
最初は小さく。後半「ありまして」の部分だけを急激に強める。
シンの言葉の発し方は、日頃滅多に聞かないような流れなので、ある意味新鮮な気持ちになれる。しばら く続くと、くどくて嫌になってきそうだが、少しだけなら悪くはない。
「修正を手伝ってぇぇぇ下さいませんかぁぁぁーっ!?」
やはりまた、「下さいませんか」の部分だけを急激に強めている。
先ほどと同じパターンだ。
「そうか。分かった、すぐに行こう」
「ありがとうぅぅぅ……ございぃぃますぅぅぅー……」
グレイブは立ち上がると、こちらへ視線を向けてくる。
「ではマレイ、少し失礼する。また後ほどな」
「あ、お疲れ様です」
「ゼーレの片付けもそろそろ終わるだろう。二人の時間を楽しむといい」
え。
グレイブがそんなことを言ってくるのは、何だかおかしな感じ。
「ではな」
「ありがとうございます。さようなら」
こうして、私はグレイブと別れた。
それにより、遂に一人になってしまった。人の少ない食堂で一人というのは、どうしても、寂しさを感じてしまう。戦いが続いていたころは食堂ももっと賑わっていた。それだけに、寂しさがあるのだ。
騒がしいくらいだったあの頃を思い出すと、わけもなくしんみりしてしまう。
だが、帝国が平和になったのだから、今のほうがずっと良い。
もう化け物は現れない。もう戦い続けなくていい。もう誰も傷ついたり命を落としたりしない。
私が望み続けてきた世界が、今ここにある——それは、何より嬉しいことだ。
たとえ、少し寂しくなったとしても、これでいい。これがいい。これこそが、私の理想の世界なのだから。
「カトレア」
寂しくなった食堂に一人残っていると、後片づけを終えたらしいゼーレが、声をかけてきた。私をカトレアと呼ぶのは彼しかいない。それゆえ、一言だけで、声の主が彼であると分かった。
顔を上げると、ゼーレの姿が視界に入る。
彼はまだ、帽子とマスクを着用している。もちろん、ひよこ柄のエプロンも。
「ゼーレ。片付け、終わったの?」
「えぇ。それにしても……浮かない顔をしていますねぇ」
「……そう?」
自分ではよく分からない。自分の顔面は、鏡でもないかぎり見えないから。
「えぇ。あまり楽しくなさそうな顔です」
「……ごめんなさい」
「カレー、実はあまり美味しくありませんでしたか?」
それには首を左右に動かす。
ゼーレのカレーは美味しかった。最高、と言っても過言ではないレベルの料理だったと思う。
「いえ、断じてそれはないわ」
「……本当のことを言って構わないのですよ?」
「本当に美味しかったわよ。これまで食べた食事の中で一位二位を争うくらいの美味しさだったわ」
良く言いすぎだろう、と思われるかもしれない。だが、食べてみれば誰だって、私の言葉の意味が分かるはずだ。きっと「同感」と言いたくなるに違いない。
「それなら……安心しました」
ゼーレは小さく安堵の溜め息を漏らす。
「……気を遣っているのでは、と思いましたよ」
「まさか。そんな気の遣い方はしないわ」
「……ま、そうでしょうねぇ。貴女は嘘をつけるような器用な人間ではない」
凄く不器用な人みたいに言わないでほしいわ。ちょっと心外よ。
「もっとも……」
ゼーレは呟くように言い、数秒間を空けてから続ける。
「そういうところが魅力でもあるわけですが」
素直でないゼーレの口から飛び出した、とびきり素直な言葉。
それは、私の胸に突き刺さった。
まるで矢が的を射抜いたかのように。
- Re: 暁のカトレア ( No.151 )
- 日時: 2018/09/16 15:31
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: HijqWNdI)
episode.144 いつしか雨は止んで
その心は、土砂降りだった。
家を、人を、大地を、ずぶ濡れにしてしまうほどの大雨が、彼の心の中では降り続けていた。
——トリスタンの心の中でのことだ。
彼は今、中庭を一望できるテラスにいる。三人ほど並んで座れるであろう木製のベンチに、一人で腰を掛け、明るい日差しによって華やいだ中庭を眺めていた。
基地内にある中庭は、中庭と聞いてぱっと思い浮かべるような、美しく素敵な場所ではない。無数に生える雑草は刈り取られこそしているものの、一応ある花壇は古ぼけてほったらかしにされ、一本の花さえ植わっていないのである。
眺めるには、あまりに殺風景な中庭。
だが、彼の青い双眸は、そんな風景をじっと見つめていた。
時折吹き抜ける柔らかな風が、トリスタンの長い金髪とふわりと揺らす。そんな中で、風に揺られて髪が乱れても、彼は直そうとすらしない。ただ、殺風景な中庭を見つめ続けるだけだ。
「はぁ」
何もない場所を眺めながら、トリスタンは小さな溜め息を漏らす。
その時だった。
「トリスタン!ここにいたんだねっ」
テラスを包み込む静寂を破ったのは、明るく晴れやかな女声。
フランシスカが姿を現したのだった。
「……どうしてここに」
「トリスタンいなかったから、探してたの。そしたら、ここに着いたんだよっ」
向日葵のように明るい笑みを浮かべるフランシスカを目にしてもなお、トリスタンの表情が晴れることはなかった。ほんの少し面倒臭そうな顔になっただけだ。
「どうしてそんなに暗い顔してるのっ?」
そんなことを言いながら、フランシスカはトリスタンの方へと歩み寄っていく。その足取りに、躊躇いなんてものは微塵も感じられない。
「もしかしてー」
そして彼女は、ついに、トリスタンの隣に座った。
「マレイちゃんのことで悩んでるっ?」
フランシスカは、躊躇なく接近し、トリスタンの暗い顔を覗き込む。
トリスタンはというと、突然近寄ってこられたことに戸惑っているようだった。だが、冷たい言葉を発する気力もないのか、何も言わず黙っている。
「フランでいいなら、お話聞くよっ」
「……要らない」
トリスタンがようやく発した言葉は、それだけだった。
「えー、何それー。さすがに強がりすぎじゃない?」
「君には関係ないことだから」
「関係ないことないよ!フラン、トリスタンが弱ってると心配だもんっ!」
「心配しなくていいよ。関係ないから」
「だーかーらー!フランは関係なくなんてないのっ!」
頬を膨らませ、口調を強めるフランシスカ。
だがトリスタンの表情は変わらない。彼は、眉一つ動かすことをしなかった。
「いい加減、意地張るのは止めてよっ!」
「君に何が分かる!!」
突如トリスタンが叫んだ。
これには、さすがのフランシスカも驚いたらしく、言葉を失ってしまう。
「君には分からない!僕の気持ちなんて!」
彼は怒っているように見える。だが本当は泣いていたのかもしれない。他人にはそれを見せないけれど、心の中では嗚咽を漏らしていたのかもしれない。
「……もう放っておいてよ」
彼の心には、今も雨が降り続けている。
その雨は止むことを知らない。
「……ごめん。ごめんね、トリスタン」
今度はフランシスカまで暗い顔になってしまった。彼女はすっかり落ち込んでいるようで、肩を落としている。
テラスに再び静寂が戻った。
それから数分時間が経って、フランシスカが再び口を開く。
「トリスタン、あのね」
彼女らしからぬしっとりとした声に、トリスタンは戸惑いの色を浮かべつつ、フランシスカへ視線を向ける。
「フラン分かるよ。好きだったけど、もう叶わない気持ち」
「……分かるわけがない」
「ううん。分かるの。フランも昔、そういう経験したから」
フランシスカは控えめな声で言いながら、ミルクティー色の髪を指で触っている。
「だからこそ、トリスタンに寄り添えるよっ」
優しく語りかけるような調子で声をかけるフランシスカ。そんな彼女に対し、トリスタンは、またしても冷たい態度をとる。
「……君がいても何の意味もない」
だが、少し冷たくあしらわれたくらいでめげるフランシスカではない。
彼女は黙って、そっと、トリスタンの手を握った。
「嫌になるよね、何もかも。分かる。でもね、トリスタン。一つ辛いことがあったからって、全部を諦めていたら何の意味もないんだよっ」
テラスを吹き抜ける風は優しく、それでいて冷たい。
「辛いことはフランに話して?きっと楽になるから。一人で抱え込むのは一番良くないよっ」
「言いたくないよ、君なんかに」
「そっか……そうだよね。今じゃなくてもいいよ」
トリスタンは冷たい態度をとり続けているが、その一方で、手を握るフランシスカの手を払うことはしなかった。口では拒むようなことを言っているが、本当は、嫌がってはいなかったのかもしれない。
「話せるようになった時でいいからねっ」
そう言って微笑むフランシスカの顔は、天使のようだった。
柔らかく、優しげで、穏やかな笑み。向けられたのがトリスタンでなかったならば、きっと、すぐに恋に落ちていたことだろう。
「……言っておくけど、僕は話す気はないから」
トリスタンはやはり冷たい態度をとっている。だがしかし、真夜中のように暗かった彼の顔に、少し光が戻ってきていた。フランシスカが、冷淡に接されても挫けずに、頑張って声をかけ続けたからからだろうか。
「もー、どうしてそんなことばっかり言うの?まったく、素直じゃないなぁ!」
少し強い風が吹き抜ける。
そのせいで心なしか乱れた髪を、フランシスカは手で整えていた。
「騒がしい人は嫌いなんだ」
「何それ!励ましてあげてるのにっ」
まったく感謝の色が見えないトリスタンに少々苛立ったのか、フランシスカは頬を膨らます。元々丸みを帯びている顔が、ますます丸くなる。例えるなら、風船みたいだ。
「そういう上から目線なところが好きじゃないんだよ」
「う。……ま、まぁ、ちょっと上から言いすぎたかもだけどっ……」
「僕は上から物を言われるのが嫌いなんだ」
「それはごめん……」
上から目線に聞こえる発言について厳しく突っ込まれると、さすがのフランシスカも言い返せなかったらしく、素直に謝った。
「まぁ分かればいいよ」
「ありがとうっ!トリスタン、優しいっ!」
謝罪に対し、許す発言をしたトリスタンに、フランシスカは抱きつく。体と体が密着するほどに、ぎゅっと抱きついている。
「ちょっと!いきなり何をするのかな!」
突然抱き締められたことに驚いたトリスタンは、鋭く言い放った。そして、フランシスカの体を振り払おうと試みる。だが、思いの外強く抱きつかれていたらしく、振り払えなかった。フランシスカの腕の力は、案外、強いのかもしれない。
「優しいトリスタン、好きっ!!」
「いきなり何!?離してよ!」
「フラン、もう離さないもんっ!!」
状況についていけていないトリスタンは、目を大きく見開いている。
「止めてくれないかな!」
「止めないもん!絶対離さないからっ!!」
いくら言葉を発しても、抱き締めることを止めてはもらえない。トリスタンは、苦虫を噛み潰したような顔になっている。とにかく不快感に満ちたような表情だ。
だが——彼の心に降る雨は、その時既に、止んでいた。
- Re: 暁のカトレア ( No.152 )
- 日時: 2018/09/17 03:40
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: w93.1umH)
episode.145 暁を行く
数日後。私はゼーレと共に、ダリアへと向かった。
そして、アニタと三人で会い、話をした。
他人と接することがあまり得意ではないらしいゼーレは、最初のうちは気まずそうにしていたが、時間が経つにつれ話すようになっていく。アニタとは意外に気が合うようだった。
それもあってか、アニタは、案外あっさりとゼーレを雇うことに決めてくれ、話はまとまった。
ゼーレの雇用開始は三日後。
予想外に順調で不気味な気さえする。だが、話が上手く進んで何よりだ。
そして一旦基地へと戻る。
基地へ戻る列車の中で、ゼーレは言った。
「……私が今生きているのは、カトレア……貴女のおかげです」
ゼーレは妙に素直だった。
二人ずつの座席に座っているため、他の人に見られることはない。それゆえ、恥ずかしいということはないのだが、素直なゼーレには違和感を覚えてしまう。
いや、実際には、ここのところゼーレは素直なことが多い。だが、前の、嫌みばかり言うイメージが強すぎるのだ。
「どうしたの?今さらそんなことを言って」
「いえ……こうして生きていられているのも貴女のおかげだと、そう思ったもので」
ゼーレの口調は静かな空気をまとっていた。
「そう?でもべつに、私のおかげなんかじゃないと思うわよ。ゼーレが私たちにつくことを選んでくれたからじゃない」
「それを選ばせてくれてたのは……貴女です」
窓の方へ顔を向けながら、妙に真剣な雰囲気でそんなことを言うゼーレを見ていると、何だか笑えてきてしまう。
もちろん最初は、失礼だろうと思って笑うのを我慢していた。真剣な人の発言に対して笑うなんて、申し訳ない気がするから。だが、しばらくするとついに耐えきれなくなって、「ぷぷぷ」と息を漏らしてしまった。
「……なぜ笑うのです」
「ごめんなさい。でも、何だかおかしくって」
するとゼーレは、はぁ、と呆れたように溜め息を漏らす。
多分、彼には私が笑ってしまった理由が分からないのだろうと思う。
「……おかしいですか、私は」
「いいえ。でも、何だかとっても素直だから、不思議な感じがしたのよ」
ゼーレだって人間だ。時には素直になる日もあるだろう。何も特別なことではない、いたって普通のことである。
ただ、今までのゼーレの性格を知っているだけに、彼が素直な発言をしている光景を見ると面白く感じてしまうのだ。
「まったく……失礼ですねぇ」
「そうよね、分かっているわ。ごめんなさい」
「……まぁいいでしょう」
そんなたわいない会話をしながら、列車内での時間を過ごした。
ダリアから帝都までは結構な距離があり、かなり時間がかかるのだが、彼といると時間は気にならない。これといった重要なことを話していたわけではないのだけれど、案外退屈しなかった。
それからの二日は、あっという間に過ぎ去った。
そして、約束の日が来る。
帝都にある帝国軍基地から出る直前、私はグレイブに挨拶をした。今までお世話になった感謝を込めて。
「これまで、ありがとうございました」
化け物がいなくなった今、私が帝国軍にいる意味はない。
必要とされる場所に生きるのが、私には合っている。
「あぁ、そうか。今日出発だったのだな」
「はい。本当に、ありがとうございました。お世話になりました」
グレイブは落ち着いていた。
「少しばかり……寂しくなるな」
「私もです」
トリスタンに連れられて初めて帝都に来た日のことを、私は今でも、鮮明に思い出せる。人の多さに戸惑ったり、最先端技術がたくさん使われていることに驚いたり。始めはそんな慣れないことばかりで。でも、いつしかここでの暮らしに慣れていた。
「マレイさぁぁぁーんっ!行ってしまわれるのですかぁぁぁーっ!?」
……と、突然シンが現れた。
ついさっきまで近くにはいなかったはずなのに、どのようにして急に現れたのか。謎としか言いようがない。
「シンさん。ありがとうございました」
私が彼に礼を述べるや否や、後ろにいたゼーレが口を開く。
「嫌ですねぇ……騒がしい男は」
「えぇぇ!?その言い方は酷くないですかぁぁぁ!?」
「……なぜ黙れないのです」
「別れしなまで冷たいことを言わないで下さいよぉぉぉーっ!!」
相変わらず尋常でないテンションの高さを誇るシン。やや暴走気味の彼を、グレイブは「おい、落ち着け」と制止する。だがシンは、注意されてもなお、「感動のシーンなんですよぉぉぉ!?」などと騒いでいた。そのせいで、ついにグレイブに頭をはたかれてしまう。少々気の毒な気もするが、自業自得かもしれない。
「とにかくマレイ。今まで、本当にご苦労だった」
「いえ。平和になって良かったです」
「そうだな。……マレイのおかげだ」
「その通りですよぉぉぉーっ!!」
「黙れ、シン」
「は、はいぃぃぃー……」
それからグレイブは、ゼーレへも視線を向ける。
「捕虜時代には傷つけてすまなかったな。謝らせてくれ」
「……もはやどうでもいいことです」
グレイブは謝ろうとしていたのだが、ゼーレはどうでもいいといったような顔つきをしていた。過去のことへの関心など、ありはしないのだろう。
——その時。
「いたいたっ!マレイちゃんたち、発見っ!」
突如として耳に飛び込んできたのは、フランシスカの高い声。軽やかで、跳ねるような、明るい声だ。
声がした方へ視線を向ける。
すると、フランシスカと、彼女に手を引かれているトリスタンの姿が見えた。
「マレイちゃん!」
「あ。フランさん」
「もうそろそろ行くのっ?」
「えぇ。そのつもり」
フランシスカの表情は、今日も、向日葵のように明るい。
「間に合って良かったー!」
言いながら、彼女は、私の体をぎゅっと抱き締めてきた。
腕の力が思いの外強くて、驚く。
「トリスタンもいるよっ」
「一緒に来てくれたのね。ありがとう」
十秒ほどして、フランシスカが私から離れると、彼女の背後に立っていたトリスタンが発する。
「向こうに行っても元気でね。マレイちゃん」
ゼーレはトリスタンをじとっと睨む。
「その目、何かな」
「……べつに。意味などありません」
二人はやはり仲良くはなれないのか——そう思っていると。
「安心して下さい……カトレアを不幸にはしませんから」
それまでトリスタンを睨んでいたゼーレが、急に、少し柔らかい口調でそんなことを言った。それに対しトリスタンは、「不幸にしない、じゃ駄目だね。幸せにする、でないと」と言い返す。するとゼーレは、「では、幸せにする、と言っておきます」と言い直した。
「マレイちゃん。幸せに暮らしてね」
「何それ、変なの。死に別れるみたいなことを言うのね」
「そう?おかしかったかな」
「……いいえ。トリスタンも、今まで本当にありがとう」
彼には、数えきれないほどの恩がある。
「戦いを教えてくれて、嬉しかったわ」
今彼に伝えるべきことは、もっと色々あったのだと思う。しかし、ぱっと口から出せたのは、それだけだった。
かくして、私はゼーレと共に、再びダリアへと向かった。
新しい一歩を踏み出すために。