コメディ・ライト小説(新)

Re: Banka ( No.26 )
日時: 2019/07/23 21:22
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: D28jR39t)
参照: 友桃さんコメントありがとうございます!

「先輩、ありがとうございます……」
 僕は部室の鍵を内側から閉め、大きくため息をつく。茅野はいつも僕が座っている窓際の椅子に座っていて、僕のほうはその辺の適当なパイプ椅子に腰掛ける。
「あの人達、怖くなかったんですか」
「なめんなよ」
 デスク越しに座る彼女はこちらを向いたまま固まる。そしてしばらく目が合った後、あちらから目を逸らす。
 こんな言葉がいきなり口から出てきたことに一瞬自分で驚くが、流石にそれは僕を舐めすぎである。かつて僕がいた場所には、あんな奴らより一癖も二癖もあるような大人達で溢れていて、そんな集団の中で揉まれてきた僕が、たかだかこんな学校の一年生の女子に恐れるなんて、どう考えてもあり得なかった。
「いじめられてるのか?」
 カーテンが風で揺れる。練習中の野球部の声が遠くで聞こえてくる。
 直接的すぎたかもしれないが、今はそんな小さいことを気にしている状況ではない。
「いや、そういう訳ではないんですけど……、なんか教室にいにくいっていうか」
 僕は歯を食いしばっていた。
 教室にいにくい。そんなことは今まで想像すらしていなかった。僕は今まで放課後に何回、何十回と二人で会ってきたくせに、どうやら彼女の言動でそれを一ミリも察することができなかったらしい。そう考えると、自分が恥ずかしくなってくる。

「ごめん。気づけなかった」
 頭を下げると、彼女はすぐに席を立った。
「そんなこと……! 先輩が謝るような問題じゃないです」
 彼女は何かを強く訴える様子ではあるが、きっと悲しさとか苦しさとか恥ずかしさとか色々な感情が渦巻いていて、その気持ちを未だに整理できないといった感じだろう。
 確かに、彼女からしてみれば、僕なんかにあんな光景を見られたくはなかったはずだ。プライドなども勿論あるだろうし、教室に居づらいなんてことを誰かに打ち明けることが難しいことぐらい、僕にだって分かる。
 こんな状況、もちろん僕だって初めてに決まっている。とりあえず逃げるために部室まで来てみたものの、この先僕達はどうすればいいのだろう。僕はどうなってもいいが、とりあえず彼女がこれから順調に学校生活を送れるために、今何をするのが正解なのか、ずっと考えていた。

「どうしました?」
 茅野に言われ、目を逸らす。ふと彼女のほうをじっと見つめていたようだった。
 一カ所だけ開いた窓から入ってきた涼しい風が僕と彼女との間を直通する。そういえば、彼女と会ってから衝撃的なことばかり起きている気がする。それは周りの出来事もそうだし、彼女自身にもである。彼女には裏切られるようなことばかりだ。
 衝撃的すぎて、彼女と初めて出会ったときのことはまるで昨日のことのように思い出せる。一人でいつものように部室に籠もっていたある日、彼女が突如僕の目の前に姿を現した瞬間は、まるで部室に天使でも来たのかと本気で思っていた。が、彼女の第一声にてあっさりとそれを粉々に打ち砕かれたのだった。あのコメディはいつ思い出しても笑える。
 僕が初めて会った茅野都美という女子は、間違いなくそういう人間だったはずだ。それが、今に至るまで意外な一面ばかり見せられて、一体どれが彼女の本性なのか分からなくなってしまっている。
「部室、出ようか。コンビニにでも行こう」
 一応今、僕達は部室にいるのだが、部活っぽいことなど一つもしていない。顧問は例によって剣道部のほうへ行っているので、別に誰もとやかく言ってこない。
「……はい」
 窓を閉めに行くと、笑ってしまうほどいい天気の空が見える。振り返ると、彼女はこちらを見てなどいなかった。建設中の新校舎のほうを見ていた。

Re: Banka ( No.27 )
日時: 2019/07/31 12:57
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: v8ApgZI3)

「……先輩」
 ん? と返すと、彼女は紙パックのミルクティーを一口飲んだ。
 辺りには誰もいない。僕達は今、公園にいて、近くのコンビニで買ってきた物を飲み食いしていた。
「この件と先輩は無関係なんで、無理に関わろうとしなくていいですよ」
 紙パックを片手に持つ彼女はブランコを座り漕ぎしている。閑散とした公園では、呟くような声量でも少し離れた僕のほうまで届く。
「そんなこと言うなよ。あんな光景見ておいてそんなもん無理だ」
「それじゃ私が無理なんですよ。第一、私と先輩ってそんなに親しい間柄って訳でもないし、そんな大きなこと頼れないです。先輩はいじめられてるって思ってるかもしれませんけど、そこまでの酷いことはまだされてないので、このまま三月まで私が我慢してれば済む話ですし大丈夫です」
 キコキコ、と彼女のブランコの音が響く。僕はベンチを立っていて、彼女の側まで歩み寄る。ん、と彼女が声を漏らすと同時に、今まで揺れ続けていたブランコの動きが止まる。
 彼女の言うことはその通りだった。これは非常にデリケートな問題で、赤の他人の僕なんかがわざわざ関わるべきではないことぐらい、分かりきっている。

「茅野、……いや、都美」
「えっ、ちょっと、せんぱ」
 僕は彼女の両肩の上に手を置いていた。
「僕はただの君の所属する部の部長というだけで、教師ではないし、君の親でもない。だからこの問題の根本的な解決策を出してやることはできない。だけど放課後部室に集まって将棋を指したり、そうじゃなくても部室で駄弁ったりぐらいはできる。他人に色々と踏み込まれたくない気持ちは分かるからこれ以上は僕も関わらないけど、少なくともここにいる杉本という人間は君の味方だってことだけは覚えておいてほしい」
 言い終わってから、肩から手を離す。みやび、という呼び方は言い慣れなかった。頭の中で何度も反響する。
 彼女は絶句していた。僕は自分のこの対応が必ずしも正しいとは到底思わない。僕がもっと率先してあれこれ動くほうがきっとお互いのためになるし、事態が解決するのも早いだろう。が、それでも、これでいいと思った。
「先輩……」
 彼女の隣のブランコに座ってみる。ギー、と鎖から途轍もなく乾いた音が鳴る。ブランコの座高が低すぎて足が簡単に地面に付いてしまうので、足を伸ばすようにしてゆっくり漕いでみる。……なんだかめちゃくちゃ久しぶりに乗るブランコは、どこか新鮮だった。
 夕刻の公園は未だ人の気配すらない。隣の彼女は座ったまま動かない。高校の制服姿という、なんとなくこの公園とは不似合いな格好に思えるが、不思議と絵になっていた。
「ありがとうございます、助かります、凄く」
 彼女はまたミルクティーを口にしていた。ズズズ、と音がしていて、間もなくそれを飲み干したのだと分かった。
「教室にはいにくいかもしれないけど、部室にはいやすいでしょ? ずっと鍵開けとくからさ、何かあったときに逃げ込める所ぐらいに思ってもらえばいいよ。あんな辺境の地、誰も来ないだろうし」
「そうですね……」

「仕方ないですねー。じゃあ部室で童貞メガネの先輩の相手でもしてあげますか」
「はあ?」まだそのキャラ保ってたのか、と向くと、いつの間にか彼女はブランコから降りていて伸びをしていた。未だ座ったままの僕を見下ろす格好の彼女は、両手を真上に高く挙げている。向こうの空に見えた日差しは、彼女の体で遮られ、僕の座るブランコにちょうど影を作っていた。
「もう、夏ですね」
 彼女は伸びを終えた後、気持ちよさそうにまたブランコに座る。梅雨はもう過ぎたみたいだった。
「夏好きそうだね」
「私、夏大好きですよ! 冬の間だけ冬眠しちゃいたいくらい」
 彼女はそう言うが、その気持ちは僕にも分かる気がした。梅雨の間は本当に苦痛で、外に出るのも億劫だったのだが、やっとこれから清々しい夏空が毎日見られると思うと、自然と何かに前向きになれる気が僕にもした。
 ふと、この先夏が来ることに、しだいに血が騒いでいる自分がいた。澄んだ空はまだまだ日が落ちそうにない。もしかしたら、この夏なら何かが起こるのではと、漠然と思えた。今まで怠惰に生きてきた自分を変えてくれる何かが。

Re: Banka ( No.28 )
日時: 2019/08/01 13:56
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: /AHlo6jR)

「大会、今から楽しみです」
 隣で彼女が言い出したのとほぼ同時ぐらいに、公園に小学生ぐらいの子供達が入ってくる。彼らは一様に走っていて、帽子を被った先頭の子がサッカーボールを蹴っていた。
「楽しみ?」僕はその光景を見ながら、ふと聞き返す。というより、反芻してみる。いつまでもその言葉が引っかかった。
 子供達は次々と公園に入ってきて、最終的には十人以上集まっていた。そんな数の子供達が二チームに分かれてサッカーなんてするものだから、今まで僕らしかいなかったこの空間が急に活気に包まれたようで、何となく少し戸惑う。
 その光景を彼女もやはり見ていた。彼女は、嬉しいような、ちょっとだけ切ないような、微妙な面持ちのまま、目線を下に逸らした。
「先輩みたいな人には楽しみなんて感情湧かないでしょうけど、私なんて運で全国大会に行けたような物なので、優勝なんて狙ってませんし、何というか記念受験みたいな感じです」
 そう言い、また彼女は向こうでサッカーをする子供達へと目線を向けた。僕はとてもそれを本心からの言葉には思えなかったが、わざわざ聞き返すのも無粋だと思った。そして何となく向こうの夕焼けをぼんやり眺めようとしたが、幾つも動き合うあの子供達がどうしても視界に入ってきて鬱陶しくすぐに目線を戻す。彼女のほうはそのまま何秒間もあのくだらないサッカーを見続けていた。

「大会が楽しみなんて言う人初めて見たわ」
 言うと、彼女は笑いながらこちらを向くので、僕と目が合う。そしてそのとき初めて、無意識にずっと彼女を目で追っていたことに気づいた。
「確かに。私的にはお祭りに行くみたいなノリです」
 ははは、と笑う彼女につられ、僕も少し口元が緩む。どこからか吹いてきた風が僕らの間を抜ける。何というか、心地よい。いつまででもここで彼女と話していたい。
 しかし、そんな彼女の笑顔が止まったのは、突然だった。
「危ない」
 それは彼女のほうに向かっていた。僕は一心不乱に手を伸ばす。
 バン、とすぐに音がする。どうやら弾けたようで、反射的に顔の前に手をやっている彼女は無事そうだった。僕のほうは、サッカーボールが指に当たった感触の後に来た、刺すような痛みに違和感を覚えていた。彼女は目を丸くして、僕のほうを見つめる。
「すいません……。だ、大丈夫ですか?」
 指を見つめたままの僕に、彼女は横で心配そうに言う。まだ彼女は何が起きたのかいまいち飲み込めていないようだった。指は、見た目からは判断がつかないが、痛い。我慢できないほどではないが、このままは何となく気持ち悪い。
「すいませーん!」
 何人かの子供達が、ブランコの前の柵まで来ていた。ギリギリ足が届く範囲にボールが転がっていたので蹴ってパスをする。ボール飛んだなら何か叫べよ、と言おうとしたが、やめておいた。この指のことも、例えば体育の授業で怪我したのなら迷わず申し出たのだが、相手が相手なだけに言いづらい。見ると、その子供達はとっくに向こうに戻っていてサッカーの続きを始めていた。

「突き指か何かですか?」
「多分……」
 ダサすぎないか、と自分で突っ込んでみる。突然後輩のところに飛んできたサッカーボールを先輩が格好よく手で弾く! というところまでは良かったのだが、如何せんその弾き方が悪いせいで右の人差し指をユビしてしまっているという状況は、格好悪すぎて正直目も当てられない。
「なんかすいません……、すぐに病院行きましょう!」
「ああ、後で行くわ。多分そんなに急いで治療するほどのものでもないし」
 彼女は僕の怪我した指を大事そうに見たり恐る恐る触ったりしている。気を揉んでいるようなのが意外だった。
 おもむろにブランコを立ち上がった彼女は、歩み寄った近くのくず箱の前でまたミルクティーを一口飲み、捨てる。どうやらまだ持っていたらしい。ブランコに座っているとき、僕と反対側の手に持っていたようで気づかなかった。
 子供達は性懲りもなくまだサッカーをしている。タッチラインやゴールラインなど最低限の線さえ用いていない。簡易ゴールみたいなものはあるが、片方は木と木の間で、もう片方はベンチ自体に何となく当たったらゴール、という、そもそも得点になるシュートの基準が違うという致命的な欠陥を抱えていた。加えて、この公園の半分近くのスペースを占拠している。確かに、遊具のほとんどないだだっ広い公園は球技をするには最適だろう。

Re: Banka ( No.29 )
日時: 2019/08/05 19:25
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: D28jR39t)

 去り際の公園は、まるで別の場所のようだった。僕達が来たときと明らかに違っていたのは確かだったが、それが何なのか分からないまま僕は茅野に次いで公園を出た。
 その間なんとなく僕達は話さなかった。後ろで蝉のように騒ぐ子供達の声が、僕達の間の無言にさらに拍車を掛けていたのと同時に、陽と陰のコントラストを明確に形作っていた。
 彼女と何か話した訳ではないが、僕達は恐らく駅に向かっている。ここは高校と駅の中間ぐらいの場所で、ここから駅まではほど近く、学校から向かうより早く着く。
「先輩、今度私に将棋指導してくれませんか?」
「は?」足が止まってしまう。気づいた彼女も僕の少し前で立ち止まる。勿論それは意外すぎる発言だった。
「どうした? 急に」
 つい数週間前まで言っていたことと全く違うではないか、と思わず笑ってしまう。強くなった私を見てほしいから今はまだいい、との言葉を僕は確かに聞いた。事実、彼女の利用している将棋対局サイトによると、彼女は毎日平均十局近くネットで対戦しているらしく、もしかしたら彼女は僕を必要としていないのではと少し感じ始めてきた矢先だったので、尚更だった。

「別にいいけどさ」
 彼女が何か言いにくそうな顔をしていたので、すかさずフォローしてみる。言ってしまえば別に理由などどうだっていい。もう彼女とはしばらく指していないので、むしろ楽しみだった。
「私、もっと強くなりたいんです。もっと上に行きたいんです。……いつかは先輩に追いつきたいです」
 絶句して立ち尽くす僕の目の前まで、彼女は歩み寄る。背が低めの彼女は僕と頭一つ分差がある。というか、今や僕らの間を隔てるのはその身長差ぐらいで、異様なほど顔が近い。
 彼女はいつも、こういうときに真剣な眼差しで僕のほうを見る。時々忘れてしまいそうになるが、僕は将棋部の部長で、彼女は部員だ。なので僕は彼女の熱意に応えてやる義務があり、勿論僕もそのつもりでいるのだが、彼女のその眼差しの前ではどうも落ち着かない。何か、全てを見透かされているようだ。
「強くなりたい、か」
 なんとストレートな感情表現なのだろうと思った。そこまでひたすらなその言葉に僕は懐かしさすら覚えていた。確かに彼女にとっては今が一番将棋を楽しく思える時期だろう。やれることが増えてきて、成長も実感できているはずだ。
 ただ僕に追いつきたいとなると話が違ってくる。ここにたどり着くまでに僕が失ったものと同じくらい彼女も失うとなれば、僕はとてもそれを応援する気にはなれない。だから、ここ数ヶ月の彼女の将棋に熱中している姿は少し怖かったが、どうやらそんな僕の気持ちなどお構いなしに事態はどんどん深刻な方向に進んでいるらしかった。
 当の彼女は、未だ上目遣いで僕をじっと見つめていた。横を自転車が通る。高校生の男女がこの顔の近さで見つめ合っていると周りからはどう見られるのだろう、と少し冷静になる。
「僕の瞬きの回数でも数えてるのか?」
 茶化すように、一瞬両目を瞑ったまま少し離れてみる。
「数えてました。よく分かりましたね」
 数えてたのかよ。僕を笑う様子の彼女はゆっくりと背を向け、少し歩いた。肩に掛けているスクールバッグの香車キーホルダーが一瞬見え、揺れる。
「嘘ですよ」
「嘘かよ」
 なんだこの会話、とアホらしくなって道端の自動販売機でも観察してみる。さらっとしぼったオレンジが以前より高くなって、蓋付きになって復活していた。
 彼女は少し歩いた後、振り返って笑う。さっきユビした右の中指がチクリと痛む。

Re: Banka ( No.30 )
日時: 2019/08/08 14:05
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: /AHlo6jR)

「先輩、今日はありがとうございます。さっきも言いましたけど教室に居づらいことぐらい全然大丈夫なんで。それより将棋のほうがよっぽど大切です。今は、私には将棋しかないんです」
 前を進む彼女を追いながら聞くが、流石に背筋が凍る。もはや彼女の将棋に対する熱意は狂気的なレベルまで達しているのかもしれない。普通なら、なぜ急に将棋なのか、なんてことをずけずけと訊けただろうが、今となっては怖すぎて無理である。訊くにしても、もう遥かに手遅れだ。
 思えば、将棋部に突如現れたあの日から既に始まっていたことなのかもしれない。彼女は最初こそ何となく遠慮気味だったが、結局すぐ僕に対局を平手で挑んできたり、負けたら負けたで“リベンジする”なんて豪語してきたり、かなりアグレッシブになっていた。

 今にして思えば、初めて会った日、彼女は将棋のルールブックのようなもので駒の動きを覚えていたが、それは家からわざわざ持ってきて部室で読んでいたみたいだった。それも、まさに一読目といった感じで。今にして思えばそれは少し妙である。どうして家から持ってきたものなのに部室で初めて読むのだろうか。家で少しでも読んでおこうとかはなかったのだろうか。そのときは何も感じなかったが、今にして思えば少し不自然だ。
 妙なことは他に幾らでもありそうだった。というか彼女に関しては不明なことが多すぎて、もはやどこから手を付けていいか分からない状態にある。そしてそれは初めて会ったあの日から、今に至るまで全く変わっていない。

 駅はまだ空いていた。まだ仕事が終わるには早い時間なので、スーツ姿のサラリーマンなどは少なく、制服姿の高校生が圧倒的に多かった。
 彼女は駅中央の長い階段を少し上り、足を止める。
「あ、先輩は電車乗らないんでしたっけ」
「うん。ここから家が近いから歩いて帰る」
「……そうですか」
 じゃあまた学校で、と抑えめに手を振った彼女は、また階段を上り始めていった。そのときの微妙な表情と、どことなく物悲しそうな後ろ姿が印象的だった。僕は彼女が階段を一段一段上がっていく姿を、ただ見つめている。結局彼女は一度たりとも振り返ろうとはせず、やがて彼女が見えなくなっても未だ見つめたままの僕だけがこの場に残った。
 駅前の喧噪は止まることを知らない。よく分からない、僕は何がしたいのだろう。もはや自分で自分が分からない。
 ただ、いずれにしろ、謎が謎のままの茅野都美という人間に、僕は少しずつ惹かれていっているのかもしれない。彼女を深く知ることは、それなりの恐怖も勿論あったが、それよりも単純に彼女という人間そのものへの興味が勝っていた。



 そのとき、僕は部屋にいた。
 学校から帰ったばかりの僕は即、課題を終わらせ、そこからずっとゲーム実況の動画を見ている。以前茅野に言ったように、僕は家では将棋を指さない。一年ほど前は指していたのだが、今はもうめっきりなくなった。……というより、必要としなくなった。
 気づけばついさっきまで明るかったはずのこの部屋が真っ暗になっていて、パソコンの画面から出る光が唯一の明かりだった。今何時だろう、と気になって、間もなく八時だと気づく。
 また今日も一日を無駄にしてしまった、と自己嫌悪するが、まあ別にそこまで自己嫌悪に陥るほどのことでもないだろう、とすぐに思い至る。

「夕一、ご飯でも食べにいかない?」
「あ、うん」
 母親だった。彼女は部屋に入るなり「暗っ」とすぐに照明をつけ、ドアを開けっぱなしのまま部屋を出ていった。
 そういえば腹がめちゃくちゃ減っている。今までゲーム実況動画ばかりを食い入るように見続けていたが、それでも何時間も見ていたら流石に飽きてくる。僕はパソコンから目を離し、すぐ母を追いかけた。

Re: Banka ( No.31 )
日時: 2019/08/13 20:10
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: cfr4zh/q)

 リビングには、既に行く準備を終えていた母が待っていた。
「準備できた?」
 訊かれるが、何か喋るのも面倒くさいので、黙ったまま玄関まで歩いていく。
「そういえば、前誰か女の子来てたよね」
「あれは後輩」
 靴を履き、玄関のドアを開ける。母はまだリビングにいるが、ドアを開けっぱなしだと虫が入ってくるのですぐに出て閉める。アパートの二階から見下ろす真っ暗な景色は、いつもと変わらない。
 田んぼが近いので蛙の鳴き声がめちゃくちゃうるさいが、蝉の声と同様、すぐに慣れるところまでがセットである。
「後輩っていっても、家に連れてくるなんて普通の関係じゃないでしょ」
 いつの間にか出ていた母が家の鍵を閉めていた。確かにそう言われればそうかもしれないが、先輩後輩という関係に過ぎないのは事実である。

 階段を降りると駐車場の一番近い所に車が止まっている。乗ると、すぐに車は出発した。
「どこに行くの?」
 別に僕は何でもいいけど、と付け加える。母と二人でご飯を食べにいくことは多いが、どこに行くかは彼女のそのときの気分で選ばれることがほとんどだ。
「そうだなー、寿司でも行くか」
 彼女はそう言って、左後ろの座席の僕を一瞬見る。分かった、といつも通り返す。寿司の気分ではないが、別に何でもよかった。
 僕の位置からは、運転する彼女の顔がたまに見える。母はいつもこんな感じだ。何が起きても、いつもこんな感じで無表情で、マイペースに振る舞っている。例えそれがどんなに悲しい出来事だろうと、息子である僕の前では涙すら流さないような人だ。だから僕は、それが少しだけもどかしい。
 こういう人を、一般には強い人間というのだろう。実際には強くも何ともなく、ただそう装っているだけの悲しい人間というのを、僕は知っているのに。
 もうバレバレである。僕が気づいていないと本気で思っているのだろうか。彼女が弱い人間だと分かっているだけに、僕の前でだけそういう部分を隠そうとしている彼女を見ていると、かえって切なくなる。たった一人の息子にさえ心配をかけさせたくないなんて思う人間を、強い人間と呼べるはずがない。
 薄暗い車内で、ふと、あの日 ユビした右手中指を見てみる。丁寧にテーピングされているが側面には埃などがくっついていて汚い。あの日、あんなに痛かったこの指も、今ではほとんど痛みを感じなくなっていた。

 回転寿司屋は意外と混んでなく、順番待ちをせずにテーブル席に座れた。
「何食べる? というか店員さん来るか」
 僕は寿司屋特有の粉茶を作っていたが、母は熱いお茶が嫌いみたいで、向こうのウォーターディスペンサーまで行く。すぐ戻ってきたと思ったら、水を置くだけ置いてトイレに向かった。
 僕は一人で、ふう、とお茶を飲みながら、右側でいくつも流れている寿司を見てみる。……イカしか回ってこない。ここはイカゾーンなのか。
 注文でもするか、と思って寿司レーンの上のほうにあるタッチパネルを触ってみる。座ったままじゃパネルに手が届かず立ってしまっても低すぎるので、中腰というまあまあキツい姿勢でやらないといけないのが地味に嫌だ。

Re: Banka ( No.32 )
日時: 2019/08/23 12:25
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: t5qrQfWq)

「いらっしゃいませ。お客様、当店の注文方法などはご存知ですか?」
「あ、はい。今そのタッチパネルで注文したばかりです」
 タッチパネルで適当に注文したタイミングで後ろから声がした。ん? と僕はなんとなく違和感を覚えつつ、それに返事しながら椅子に座り直す。店員の人がテーブルの前まで来て、その店のシステムを説明するというありがちな光景なのだが、何故かその女性店員の声が引っかかった。というより、いかんせんこの声に聞き覚えがありすぎたので、顔を見る。
「茅野じゃん」
「せ、先輩……」
 それは茅野都美だった。制服姿だったので気づくのに一瞬の時間を要した。バイトとかしてたのか。しかも、よりによって勤務中に出くわすとは。
 彼女はみるみるうちに顔が赤くなっていき、持っていたメモのようなもので顔を隠す。まあ確かに予想はしていなかっただろうが、そこまで恥ずかしがるか、普通。
「どうして先輩が来てるんですか……」
「どうって、寿司食べたかったからだよ。親と一緒に来てる」
 というかなんだその質問、と笑ってみる。すると彼女はさらに恥ずかしがったみたいで、メモで顔を隠したまま、ときどき変な声を漏らしながら足早に去っていった。突き当たりを曲がる寸前ちらりとこちらを振り返り、目が合った瞬間、僕を睨みつけるなりすぐに角に消えていった。不審者にしか見えないが、大丈夫だろうか。
「どした?」
「あ、いや……」
 親が戻ってくる。彼女が去っていった方向と逆方向から来たので何も知らない様子だった。わざわざ言う必要はないだろうし、なんとなく母に茅野のことを話したくなかったので、黙っていた。
 少しして、ポケットのスマホが鳴る。見てみると「もう少しでバイト終わるので、それまで待っててくれませんか?」という彼女からのLINEだった。

「お待たせしました」
「……おー、いいよ」
 回転寿司屋の裏口のような所で待っていると、彼女が出てくる。無駄にだだっ広い裏口だが、ほとんど何もない。
 母には適当に理由をつけて歩いて帰ると言っておいたので、既にここには僕しかいない。ここから家までは歩くと結構かかるが、それより茅野のほうが大事だった。
「その髪型も似合ってるね」
「へ?! ……ありがとうございます」
 彼女は取り乱した後、普通に礼を言ってくる。実際彼女は綺麗だった。それは勤務中からそうで、制服であの変な色と形の帽子を被っていた段階でも誰よりも輝いていたので、脱げばもっと可愛いくなるのは当然ではある。
 今日の彼女は髪を下ろしていた。学校ではいつも髪を後ろでくくっていたので、こうして髪を結んでいない彼女は初めて見たかもしれない……というか、どうやらいつの間にか髪を切っていたみたいだった。今までより少し短めで、ボブぐらいの長さだった。どうやらこれが飲食店でも髪を結ばなくていいギリギリのラインらしい。
 髪型は変わったが、華奢で可憐な雰囲気は何一つ変わっていない。僕としては前の髪型も好きだったが、これはこれでお洒落でありだと思った。
「というか、その指、すみません……。私のせいで怪我しちゃって」
「いいって」
 あれから、会う度に彼女はこの指のことを謝るようになっていた。本当に大丈夫だから、もう止めてほしいのだが。

Re: Banka ( No.33 )
日時: 2019/08/19 13:32
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: /AHlo6jR)

「そんなことよりびっくりしたわ。ここでバイトしてたんだね、僕たまに来るよ」
「あー、そのことなんですが……。バイトしてるってこと、皆に言わないでくれたら嬉しいです」
 彼女は裏口のドアの前から、数メートル離れた僕の所まで歩いてくる。目を伏せていた。
「別にいいけど、なんで? 別に学校にバレても何もなくない?」
 僕らの通う高校では、別にバイトをするのに許可など必要ないので、バレたとしても何も起こらないはずである。それに、彼女の言う皆というのが誰を指しているのかよく分からない。共通の知人なども顧問の先生ぐらいで、彼女のクラスメイトにわざわざ言いふらしたりなんて僕はしないし、する意味がない。
「そうなんですけど……、ちょっと、学校の人とかにバレたくないなって。先輩以外の人に知られたくないんです。なんとなく」
 少しドキッとした自分を殴ってやりたい。僕は照れ隠しでポケットから出したスマホを適当にいじってみる。指紋認証に何度も失敗していると、しだいにiPhoneは僕の指紋を受け付けてくれなくなった。アホらしくなって、すぐにポケットにしまう。
「まあ誰にも言わないよ。今日はもう帰り? 家まで付いてくよ」
「いや、結構遠いから申し訳ないです」
「いいって」
 僕は手を横に振って拒否した。なんとなくまだ彼女と一緒にいたいと思った。彼女の家も見てみたかったし、単純に、今一人になるのは悲しかった。

 彼女は、すぐ近くの自転車置き場に止めてあった自転車を押していた。歩道に出る彼女に僕もついていく。
「家、どの辺?」
「あっちの方向に自転車で二十分ぐらい進んだ辺りです」
 彼女の押す水色の自転車には背中に学校指定のステッカーらしきものが貼られていたが、その校章は僕らの通う高校のものではなく、彼女が以前通っていた中学校のものらしかった。
 僕と彼女は自転車を挟んだ隣で歩いていた。少し広い歩道は僕達が並んで歩いてもまだ余裕がある。僕と彼女の距離は自転車一つ分離れていて、近いようで少し遠い。
 辺りにはほとんど誰もいなかった。誰ともすれ違わないまま数分が過ぎ、その間、僕達の間に会話はなかった。

 僕達はあれからひたすら真っ直ぐの道を歩いていたが、もう振り返ってもあの回転寿司屋は見えなくなっていた。
 横の彼女を見てみると、目は前だけを向いていて、口は岩のように堅く閉じられていた。つられて僕も前を向くが、片側二車線の道路をたまに通る自動車や、いくつかのレストランやコンビニなどしか見えない。彼女の目は未だ僕とは違う何かを見ているようで、この世界で彼女しか享受することができない何かをただその冷めた目でひたすらに傍観しているみたいだった。今、この世界で一番彼女に近い場所にいる僕でも、その彼女の見ているものが楽しいことなのか、悲しいことなのか、そんなレベルのことの想像すらつかなかった。

「二人乗り、するか」
「へ?」
 彼女はあからさまに驚いた表情を見せたが、僕は気にせずサドルに座る。彼女が少し躊躇いながら荷台と垂直に座ってくると同時に、急に車体が重くなる。彼女とは身長が十五センチほど違うのでこの自転車は明らかに僕の体に合っていないが、勢いもう戻れない。舵を取るが、最初のほうはスピードがあまりにも遅すぎたため、勢いがつくまで立ち漕ぎで運転する。
 勢いがついてからは速かった。少し操縦が難しいが、広くて人通りのない歩道とは相性がよかった。

Re: Banka ( No.34 )
日時: 2019/09/13 03:11
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: D28jR39t)

 いつもより重いペダルを漕ぎながら、そういえば二人乗りなどいつぶりだろうと考えてみる。確か中二ぐらいのときに、よく分からない金髪のヤンキーと二人乗りしたことがあった気がして、悲しいことに恐らくそれが僕の二人乗りデビューだったので、今、こうして塗り替えられてよかった。
 彼女の片腕は僕の腰に手を回している。さっき歩いていたときの何倍ものスピードで疾走する様は心地よかった。時々、後ろの彼女のほうを向くと、決まっていつも目を閉じていた。そのまま見続けていると流石に僕の視線を感じたのか彼女の目が見開き、そのまま僕と目が合う。今、僕は間違いなく茅野都美という人間を見ているが、彼女のほうは本当に僕を見ているのかと、こうしている今ですら気になって仕方ない。

「あっ! ここ右に曲がって下さい」
 急に大声を出されるので、おう! とつられてこちらも大声で返してしまう。このスピードのままだと畑に落ちそうなので、徐行しながら曲がってみる。
 畑すれすれで曲がりきり、タイヤが飛ばした砂が幾つも畑の中に飲まれていく。「危な」と口に出した声が何故か重複して聞こえ、間もなく彼女の声と被ったのだと分かると、ふと笑みがこぼれる。振り返ると彼女も笑っていて、それがどこまでも心地よかった。ずっと見ていると彼女が僕に前を向くようジェスチャーするので仕方なく前を向いてみる。彼女がここまで楽しそうにしているのを僕は見たことがなかったから、単純に驚いた、というより、見とれていた。

 夏はもう始まっている。田んぼに囲まれた道はどこか涼しく、時折吹く風はかすかに冷気を孕んでいた。
 大通りを一本でも中に入ると、雰囲気ががらりと変わった。車通りは全くなく、光といえば一定間隔の街灯と、遠くに見えるラブホテルの看板ぐらいである。
 彼女を深く知ることはこの世界の深淵に近づくこととよく似ている。でも、こんなことを考えるのは世界で僕だけでいいし、誰にも言わないほうがいいとも思ったのでいつまででも黙っておこうと思った。田舎の夜は本当の暗闇が蔓延っていて、まさしくこれがこの世界の深淵のようだった。

「……ふう、重いなあ」
 言うと、背中をグーで殴られる。まあまあの速度で走る自転車が揺れ、タイヤが少し逸れる。
「はあ? 私平均より全然体重下ですからね! モデル体型ってやつなんですけどキモオタの先輩は知らないんですか?」
 後ろの彼女は大きめの声で叫ぶように言う。マズい。そういう意味で言ったわけではないのだが、なんとなく口で説明しにくかったので押し黙る他なかった。
 彼女のグーパンは地味に痛く、この前、ユビした右手中指より全然ズキズキしていた。どうやら僕は見えない後ろ側を結構本気で殴られたらしい。
「っていうか先輩の家の方向からどんどん遠ざかってません?」
「あー大丈夫大丈夫。明日休みだから別に一時間でも二時間でも歩くよ」
「それ大丈夫じゃなくないですか……。すいません、いつの間にか家まで送ってもらっちゃって」
 そういえば彼女の家は僕とは逆方向だった。今、軽やかに自転車を飛ばして彼女の家を目指してはいるものの、段々不安になってくる。四、五駅ほどは離れているだろうから、そんな距離を歩いて帰るとなると一体何時間かかるのか。

「どの辺?」
「あ、もう近いです。ありがとうございます」
 近い、と言われて、それはそれで少し落ち込んでしまった自分がいて、いい加減そろそろヤバいのかもしれない、色んな意味で。
 気付けば辺りは田畑で囲まれていた。いつの間にか街灯は無くなっていて、本当に光という光がどこにも見当たらない。虫や蛙など、ありとあらゆる生き物の鳴き声だけが騒々しく響いているぐらいで、その他といえば、僕らしかいなかった。世界中に僕ら二人しかいないみたいで、それはそれはロマンチックだった。
 また、振り返る。田畑の間の道は自動車が二台通れるほどの広さだが、真ん中を通る二人乗りの自転車が独占しきっていた。
 僕はきっと茅野のことが好きなのだ。恐らく最近から。それが恋愛的な意味か、それとも人としてかは分からない。ただ好きであることだけは明確だった。ここまで親しい関係の人など親以外だと今は彼女だけなので、だからこそ大切にできるというのはあるのかもしれない。

Re: Banka ( No.35 )
日時: 2019/09/12 13:53
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: n8TUCoBB)

 田畑に囲まれた一本道を抜ける。急に漕ぐペダルが軽くなったと思ったら、彼女は突然自転車を降りていた。
 どうやら家が近いようで、僕を先導するように早歩きでいくらか進んだ後、止まる。そういえば先程よりは夜道も明るくなったようで、一定間隔の街灯がまた復活していた。
「ここです」
「へー、ここが都美の家」
 言われてそれを見てみるが、しばらく眺めた後、思わず目を逸らしてしまう。マジ? とでも聞き返してしまいたかったが、表札の「茅野」の文字を見てしまうと、途端に何も言えなくなってくる。その家は、めちゃくちゃ豪華で立派な家だった。
 外構を一目見るだけでその辺の家とは一線を画している。お洒落な赤レンガの塀は僕の身長よりも高く、それに囲まれた大小二つの門の存在感をより一層引き立てている。そして門の隙間からは、定期的に庭師が手入れをしていそうな広くて綺麗な庭がちらりと見え、その奥にメルセデス・ベンツのセダンが堂々たる風格で鎮座していた。
 敷地自体も恐らく学校の平均的な体育館ぐらい広そうで、どこを取っても豪華である。なんだかこの家は全ての物が自分を勝ち組であることを自覚しているように見えた。僕の家はきっと表札のフォントの時点で既に負けていて、茅野、の文字の荘厳さは、僕の家の杉本とはきっと天地の差がある。そしてそう考えるとなんとなくあのベンツも僕を見下しているように見えてきて、何故か無性に腹が立ってくる。

「せっかく送っていただいたんで、家でお茶でもどうですかって言いたいところなんですけど、ちょっと今は親がいるのでここまでで。すみません……」
 彼女はアパートの鉄骨階段付近まで歩き、振り返る。彼女の暗い表情を見たくなかった脳が本能的に目を逸らす。
 親がいるとダメ。それは少し意外な言葉だった。まあ家庭の事情はそれぞれあるのだろうが、別に、僕の家なら全然大丈夫なのに。
 彼女は、その赤レンガの塀に自転車を立てかけた。僕はまたここでその豪邸に目線を移してしまう。というか、ここら一体に他に大したものがないので、必然的にこの家ぐらいしか見るものがない。彼女のほうは、その異様な存在感の門を未だ一瞥もせずにいた。彼女の発言と、その小さな仕草だけで、彼女にとってここがどういう場所であるかぐらいは、なんとなく分かった。
 家門と正対する田んぼで延々と鳴き続ける蛙達の声は段々大きくなっていく。それは僕らの間を流れる空気ときっと真逆だ。ときどき吹く風で草木がざわざわと揺れる様子は、見ていて心地よくも思えるし、反対に何か物々しい雰囲気にも思える。
 彼女は一向に目を伏せたままばつが悪そうにしていて、それに対して僕がどう反応してあげればいいのか分からなかった。何か言おうとしても、それらは一向に声にならない。全く、せっかくさっきまで楽しい時間をお互いに過ごしていたのに、どうして突然こんな空気にならなくてはいけないのか。
「まあ、しょうがないよ。また学校で」
「……そうですね。また放課後に部室で会いましょう。バイトがあるからあんまり行けてなかったんですけどね」
 僕は絶句していた。そのときやっと一つの小さな謎が解けていたのだった。僕は毎日のように将棋部を開き、彼女を誘っていたのだが、彼女のほうは週に二、三日ほどしか来られないことに不思議がっていた自分を、殴ってやりたくなった。

「というか、今の時代に二人乗りってちょっと古いですね。今頃誰もやってないですよ」
 馬鹿にされるように言われ、確かにと納得する。そういえば最近自転車の二人乗りをめっきり見なくなった気がする。道路交通法が最近改正したらしいが、ずっと前から二人乗りは違法だったので無関係なはずである。
 確かに危険といえば危険なのだが、それはそれで街から消えていくのはどこか悲しい気もした。何というか、風情がなくなるみたいで。

Re: Banka ( No.36 )
日時: 2019/08/26 19:54
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: D28jR39t)

「付き合ってくれてありがとう」
「いえいえ! 凄く貴重で楽しかったです」
 そう言い切った後、彼女の口がわずかに動いたのを僕は見逃さなかった。いや、最初のほうはまだ音がかすかに聞こえたので、きっと途中から声を発するのをやめたのかもしれない。彼女は何と言いたかったのだろう。口の形から色々考えてみようと思ったが、ふと、彼女の言いたかったことがなんとなく悪い意味のことのように思えてきたので、すぐにやめた。これを詮索するのはやめたほうがいいと、本能が告げていた。

「もちろん先輩みたいなキモオタ童貞は女の子と二人乗りなんて初めてですよね。どうでした? 背中で感じた可愛い後輩の感触は」
 いつの間にか腕を組んでいた彼女は、悪戯めいた表情で見つめる。その目は明らかに自信満々で、なんだか、後ろの大豪邸も合わさってお嬢様が下僕に何かを命令している状況のようにも見えてくる。もしそうなら数秒後に僕は足蹴にされていそうだ。
 彼女のその僕に対しての嘲罵は、例によって何の前触れもなく始まる。もはや僕はこの状況にも慣れていて、彼女のこの言葉がどういう意図で発せられたか、なんとなく気付きつつある。
 彼女の言葉を少し考えてみるようとすると、先程から表情が変わらないまま腕を組んでいる彼女につられ、自然と僕もポーズを真似してしまう。確かに女子と二人乗りしたのは初めてだ。彼女は荷台と垂直に座っていたが、僕の腰の辺りを常に持っていて、寄り添うような姿勢だったので地味に上半身は密着していた。が、彼女の感触というと、その僕の腰に添えられた腕ぐらいのもので、なんとなく、肝心なところが欠如しているような気がした。だから、女性特有の膨らんでいる部分の感触は全くしなかった。
「んー、というか、当たったっけ? 胸とか」
「……殺します」
 え……、と思わず後ずさってしまう。それは確かに彼女の声のはずなのだが、今までの彼女のそれとは一ミリも似つかなかった。というよりもはや人間の声ではなく、僕の知る限りでは、日曜日の朝七時ぐらいにやっているようなテレビに出てくる化け物の声に一番近かった。そして明らかにこちらに敵意を持っていて、暴力的な目二つが僕をまっすぐに捉えている様は、いつ襲いかかってくるか分かったもんじゃなくて、恐怖しか感じない。
「許せません、人のコンプレックスをよくもズケズケと……」
「待って! ごめん、冗談だって!」
 彼女はお構いなしにズンズンこちらに進んでくる。説得しようとしても聞く耳を持ってくれないし、何より目が完全にイってしまっている。
 あまりの恐怖でそこに立ち尽くしてしまう。逃げようと思っても、足が思うように動かない。彼女はあっという間に至近距離まで近づいてくる。ようやく足が動き出したが足取りが覚束なすぎてすぐに転倒してしまう。振り向くとまるでお化けのような冷めた目の彼女が僕を見下ろしていた。しだいにもうここで終わりかもしれないと悟ってくる。何か言おうとしてもそれが声にならない。そうしている間にも彼女がこちらに近づいてくる。手足がわなわなと震え、腰を抜かしている僕はもはや抵抗する術がない。彼女の左ストレートが僕の顔面めがけて飛んでくる――。

 星が綺麗だった。田舎の空は、ときどき信じられないくらいの景色を映してくれる。後、もう何日かでこの空に花火が打ち上げられると思うと、言葉が出ない。
「まあ、とりあえずバイトお疲れ」
「疲れましたー。あのバイト入って三ヶ月ぐらいですけど毎日毎日カスみたいなお客さんばっか来るし大変ですよ、愚痴聞いてくれます?」
 待ってました、と言わんばかりに彼女は早口だったが、何故かそれが彼女の本心からの言葉には思えなかったのが不思議だった。むしろ、それなりにバイトをエンジョイできているようにすら見えた。
「今度ゆっくり聞くよ。今日はまあ、家の前まで来ちゃったし」
 そうですね、と彼女は少し寂しそうに、腕を組み直す。はあ、と吐いたため息がしばらくこの場にとどまった。

Re: Banka ( No.37 )
日時: 2019/09/12 13:51
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: n8TUCoBB)

「まあ、もう辞めるんですけどね」
「……えっ?」
 真剣な表情だった。咄嗟に出た僕の疑問にも、彼女は一向に返すのを躊躇った。次の言葉を待ってもずっと彼女は黙ったままで、このまま僕が喋らなければきっと何時間でも沈黙を貫いてきそうだった。
 この顔だ。この顔の彼女の発言は、いつも、凡人などには到底及びも付かないような深い意味の言葉に思えてきてしまうから、僕なんかがあれこれ考えても無駄だと思わされる。

 またここで、その豪邸に目を移す。よくテレビで世界の大富豪のお家訪問! みたいな感じの特集を見ることはあるが、それに勝るとも劣らないほどの豪華さだった。この様子ではきっと家の中も凄いのだろう。二階の電気が付いているので、茅野の家族は今あそこにいるのかもしれない。
 この家のことや、家族のこと。彼女には訊きたいことが山ほどあったが、彼女のその表情を見るだけで、踏み込んではいけないものだということはすぐに分かった。彼女は、あの雨の日のバス内で僕が隠し事を打ち明けたとき「フェアじゃないから、私もいずれ言う」と言っていたから、そのときまで待ってあげようと思えた。それがいつになるかは謎のままだったが、それはきっと彼女にとって本当に大きな痛みに立ち向かうことのような気がしたので、もう少しだけ事態を傍観すべきだと思った。

「まあ、じゃあこの辺で。僕は歩いて帰るよ」
「それマジなんですか……」
 よく分からないタイミングで切り上げた僕は、じゃあまた、と彼女に背を向ける。歩き出す瞬間、名残惜しいな、と少し思えてくるが、足を無理やり前に出す。田んぼ沿いは人の気配すらなく、百メートルほど先をときどき走る車の音が聞こえるほど静かである。
「ありがとうございます」
 彼女が叫ぶように言う。もうそんなに歩いたのかと驚くぐらい遠くから聞こえた。それでも尚、僕は歩き続ける。もしここで振り返ってしまったらもっと名残惜しくなってしまいそうなので、聞こえない振りをしてでも先に進むべきだと直感が告げた。
 今日、茅野都美という人間を少しだけ深く知れた気がした。でも、果たしてそれが彼女の何パーセントなのかは謎のままで、もしかしたら一パーセントにも満たないかもしれない。彼女の底知れなさはきっと僕が想像しているより遥かに巨大で、純粋に凄いと思うし、もはや人の皮を被った神様と言われても信じてしまいそうな自分がいる。
 僕はこれから家に着くまでに何時間かかろうが別にいいと思った。それよりこの時間を彼女といられたことのほうがずっと貴重だと思えたから、むしろ嬉しかった。

 田んぼに囲まれた道を幾らか進んだ後、ふと振り向くと、彼女の家はもう見えなくなっていた。この世界が本当に僕一人になってしまったみたいで、少し、切ない。
 コカ・コーラの自動販売機の周りには色々な虫が湧いていて、ちょっと遠巻きに素通りする。そんな些細なことで孤独を紛らわせながら、さっき二人乗りの自転車で軽快に飛ばしていった道をなぞるように僕は逆走している。彼女の叫び声が途絶えた後、辺りには止めどない蛙の声だけが響いた。元々暗かった夜道も、二人より一人で歩くとより一層暗く感じた。

Re: Banka ( No.38 )
日時: 2019/08/30 12:58
名前: をうさま ◆qEUaErayeY (ID: 4pC6k30f)

「東京?」
 大きくため息をつき、椅子に深く腰掛ける。机の上のデスクトップパソコンがスリープ状態になっていたので、キーボードの適当なボタンを押すと、やっとのこと起動してくる。
 そういえば帰宅したというのにまだ制服でいることに違和感を覚えてきたので、とりあえずスマホを持っていないほうの手でネクタイだけ外しておく。
「そう、東京です東京」
 茅野の声色はやけに明るい。そして先程から音が少し小さかったのでキーで音量を上げてみる。ついでにiPhone横のサイレントスイッチをオンにする。
「えっと、全然話が見えないんだけど」
 その声色が全く苛立ちを隠せていないのは自分でも分かっている。電話をかけてくるタイミングが家の玄関のドアを開ける寸前というのもそうだし、それをせっかく取ってやったというのにいきなりめちゃくちゃな日本語ばかりを並べられたら流石にうんざりしてくる。
「だから! 東京行きましょう!」
「はあ? 東京のどこに何をしに?」
 というより、彼女のテンションがいつまで経っても変わらないことに思わず吹き出してしまう。珍しく茅野からLINE電話がかかってきたと思ったらいきなり東京東京連呼されたり、その謎のハイテンションだったり、何というか支離滅裂である。今日の茅野はまるで別人のようだ。
 パソコンのモニターに目を移すと、とあるネット掲示板が表示されていて、バックにはiTunesの曲が流れ続けている。何となく気持ち悪いので曲を一時停止しておく。それがいつから流れているのか不明だが今はヘッドホンを外しているので全く聞こえていない状態にある。

「東京の将棋会館です!」
 ズキン、と心臓の辺りを鈍痛が走った。
 それはまるで落雷のように突然の出来事だった。重い骨と骨がぶつかるような暗く激しい痛みが僕を襲い、あまりの衝撃で体中の色んな感覚を失い、ついさっきまで耳に当てていたスマホがいつの間にか床に落ちていた。力が入らなくなった指は代わりに痙攣していて、スマホを持つジェスチャーをしたまま手が宙に浮いていた。
 怖い。いつかまたあの記憶を呼び起こされるだろうとは思っていたが、それがまさか今だとは。あの記憶は完全に忘れてちゃんと蓋をしたと思っていたのに、それは単なる思い込みだったらしい。自分の浅はかさにほとほと絶望する。
 体の感覚を失ったのは本当に一瞬の出来事で、すぐに何不自由なく動かせるようにはなったが、床に落ちたままのスマホを僕には拾える気がしなかった。彼女のその話の続きを聞くことを、体中の全細胞が拒否しているような気さえしてくる。
「……どうしたの?」
 見ると、母が部屋のドアのところで立っていて、床に放置されたままのスマホを不思議そうに見つめていた。
「ノックぐらいしてよ」
「したわよ。いるはずなのに返事なかったから入っちゃった」
 母はこちらまで歩み寄り、足元のスマホを取り、僕に差し出してくる。手の痙攣はもう治まっていた。「何、大丈夫?」
「あ、うん……。大丈夫」
 持つ感触がやけに新鮮だったスマホは、床の冷たさに同調してひんやりしていた。電話はもう切れていて、LINE画面では茅野からの僕を心配するメッセージが幾つも送信され続けていた。トーク画面のまま床に置かれていたので、それらのメッセージはすぐ既読になっている。
 母は心配そうというより、どちらかというと怪訝そうな表情で僕の顔をまじまじと見つめてくる。まあ、確かに母の目には今の僕は相当不審に映っているに違いない。