コメディ・ライト小説(新)

星下荘の日常 弐 ( No.10 )
日時: 2018/11/20 13:33
名前: りあむ ◆raPHJxVphk (ID: OLpT7hrD)



 それから本当に、驚くほどの速さで回復した。

 ふと目覚めてしまったいずみは早朝の布団の中で、あっという間だったこの一週間を思い返す。

 おじいさんが帰ったその日のうちには一日半眠りこけていた青年も目を覚ました。目覚めてそのままこちらに駆けてきたらしく、部屋に入ってくるや否や腕の中に飛び込んできた。そのすぐに潤み始める瞳を見て思わず笑いながら、 改めて心からお礼を言った。案の定泣かれた。
 その後、青年は千歳と名付けられ、ずっとくっついてそばを離れない彼に、ナナミさんが苦笑しつつも任せるわ、と言ったことで半ば強制的に彼にお世話になりながら(着替えや身体を拭くのは丁重にお断りした)、ナナミさんに服や髪を整えてもらったり、動けるようになってからは直さんに改めて住人や星下荘を紹介してもらったりして日々を過ごしていた。
 直さんの本名は深瀬ふかせ直巳なおみさん、ナナミさんの本名は七海ななうみれんさんで、名字をナナミと読ませているらしい。あとは稜葵いつきさんと、その双子である水葵みずきさんの四人の星下荘に、いずみと千歳が転がり込み、計六人で共同生活が始まった。

 初日に全く動けなかったのが嘘のように、二日後には起き上がれるようになり、早一週間が過ぎた今では誰の助けもいらずに問題なく動き回れるようになっていた。

 おじいさんの薬は本当によく効くようだ。原料は知らないが。



 いろいろ考えていると目が冴えてしまった。眠りが浅いのか、寝てもすぐに起きてしまうのが続いている。寝転がっていればまた眠れるかと思ったが、どうやらそうはいかなかったようだ。
 いずみはそっと起き出し、ナナミさんがどこからか調達してくれた、スタンドカラアのシャツに松葉色の木綿の半着、くり色の木綿の袴を履くと、静まり返った屋敷の中を物音を立てないように移動する。顔を洗うためだ。まだ夜が明けきらない空気中にはたくさんの"モノ"が浮遊している。夜が明けたら多くが消えるはずだ。いずみはふにふにしたそれらを手で避けながらそっと屋敷を抜け出した。

 外に出て、小さな井戸のそばまで来る。辺りはまだ暗いが、視界に困るほどではない。柄に止まっていた変な大きな虫のようなモノを追い払い、常備されている桶の水で呼び水をして、ぎっこんぎっこんと水を汲み上げ、設置されている、円柱を縦で割ったような形の石の台にバシャバシャとあける。初めは戸惑ったが慣れたものだ。暑い夏の間でも、ここの水は常に冷たい。
 音に引き寄せられたのか、モノ達が集まってきていた。興味深そうに飛び出してくる水を覗き込んでいる。いずみが水をすくうために手を近づけると、サッと散った。


 屋敷の中にも洗面所はあるが、いずみは余計な物音で他の住人を起こしたくなかった。
 気が済むまで冷水で顔を洗うと、台の縁に手と体重をかけ、暗く翳る水面を見下ろす。見慣れない顔がそこにはあった。
 いずみは自分が一体いくつなのかわからなかったが、既に成人済みだという星下荘の住人は漠然と年上の人間だと感じる。まだ成人ではないのだろうと思う。それどころかおそらくまだ多くの人から見れば子どもだと感じるはずだ。しかし。

 いずみは重く垂れるぼさぼさの髪の中から、こちらを見返すやけに鋭く冷たい紅い瞳から目を逸らした。

 腰に下げてきた手ぬぐいで顔を拭いながら屋敷に戻るため歩き出した。

 一体自分は何者なのか……。ここでの生活が落ち着いてくればくるほど考えないことは無い。相変わらず、出くわせばこちらを探るように警戒してくる稜葵さんの顔が思い浮かぶ。こちらの隠し事か何かを疑っているようだが、そんなのこちらが知りたいくらいだ。
 気になって目が冴え眠れないこともあるけれど、気づかれないように振舞っても青年には心配そうにされてしまうし、ナナミさんがそっと声をかけてくれることもある。その優しさに心が温かくなりながら過ごしているものの、果たして自分にそんなに優しくされる価値があるのだろうか……。


 屋敷に戻ると、直さんがすでに起き出していた。その姿を見た訳ではないが、朝ごはんのいい匂いがしているのでわかるのだ。直さんはあんな顔をして料理上手で、星下荘の料理番なのである。いずみは男性で料理する人を初めて見たのでとても驚いた。果たして記憶をなくす前はわからないが。
 モノ達も、小気味よい音とおいしそうな匂いにつられて移動している。こんな朝ともいえぬ時間から直さんが動き出すとは、みんな今日も朝が早いらしい。

 おいしそうな匂いを嗅ぐうちに、いつもぐるぐると鬱屈した思考は霧散してしまう。手伝わなきゃ……。
 その匂いを辿って、いずみは厨房に向かうのだった。