コメディ・ライト小説(新)

Re: 神雪を踏みしめるように。 ( No.3 )
日時: 2019/07/03 15:16
名前: モンキー★ファング (ID: eW1jwX0m)

 僕の初恋の相手は、朝機嫌が悪い一人の級友だった。出席番号順に並んだ時、要するにテスト座席では僕の左隣に座っていた。僕よりも窓に近い座席だから、初めて見た時には太陽の光が後光のように映ったものだ。とても綺麗な顔立ちをしていて、彼女は入学から数日経つ頃には学年中の注目を集めていた。
 僕という人間には、致命的に女性を褒める語彙が足りていない。綺麗だとしか言えないのだ。それは何も、人を評する時に限った話ではない。例え絶景を目にしようとも、名画を鑑賞しようとも、僕は胸の内に湧いたこの感動を、言語化できた試しがない。
 だから、驚くほどに短くて味気ないけれど、綺麗だという言葉は僕の発することのできる、最大限の賛辞だった。確かに、お人形さんみたいだとか、長い睫毛だとか、ありきたりな言葉で説明することはできる。でも、『だから』『どうして』美しいと思えるのかなんて、誰にも言い表せられないのではないかと、そう思う。
 そう、美しかった。綺麗だった。可愛いという言葉は似つかわしくなくて、流麗という言葉が似あっていた。詩のように掴みどころがなくて、小説のように明瞭なイメージを突き付けてくる。彼女が口から発した声が、それだけで音楽に思えるような、不思議な女性だった。
 それでもやはり、どれだけ同学年中にその美貌が伝わっていたとしても、僕の第一印象は朝だけは機嫌が悪い人だった。初めて話しかけたのは入学式の日だった。それも、下心など一片も持っていなかった。
 彼女は一心不乱にメモ帳に目を走らせていた。日焼けして、表紙の一部が擦り切れ、年季の入ったメモ帳だった。大人びた容姿の彼女が、おそらくは幼い日に買ったのであろう、昔から女児に人気のあるキャラクターが表紙を飾る、古ぼけた手帳。
 何が書いてあるのか、それはよく分からなかったけれど、血走ったような瞳で、周囲の視線にさえ目もくれず、自分の世界は其処だけに広がっているのだと声高に主張しているような、そんな姿だった。
 俯いていたせいで、その時はよく顔が見えなかった。しかし、そんな風に他者の干渉をものともせず、自分一人で完結している姿勢が羨ましくて、僕はほとんど反射的に声をかけていた。
「あの、何を読んでるんです、か……?」
 随分と、人付き合いを避けてきた僕だ。そんな僅かな問いかけでさえ、酷く怯えながらしか口にできなかった。声も震えていた。万全の体調なのに、声が掠れるかと思った程だ。
 なるようになれ。そう胸の内で己を鼓舞した。半分自棄だったと言ってもいい。殻にこもっているような彼女も、自分が呼びかけられていると気が付いたようで、ナイフのような視線を僕の方に寄越した。その、刺されてしまいそうな眼光よりも僕は、その存在に目と意識とを奪われた。
 呼吸さえ忘れていたかもしれない。雨上がり、灰色の雲の隙間から差し込んだ矢のような日差しに、虹がかかっていた景色を目にした時と同じだ。美しいと感じた時、人は、一瞬何もかもを忘れてしまうのかもしれない。
 正直なところ、無鉄砲以上に無神経で、悠長だったような気がする。その不機嫌に気づいていなかったのは。暴れる心臓が、胸を突き破らないようにと宥めながら、僕は初めて彼女の声を聞いたものだ。
 今だからこそ言える。最初の言葉からして、起きてすぐの彼女は、常ならぬ言動をしていた。
「ごめんなさい、朝は覚えることが多くて忙しいの」
 また後で相手をするから、邪魔しないでくれる?
 それが、神田(かんだ)さんの高校生活初めての会話だったという。