コメディ・ライト小説(新)
- Re: 神雪を踏みしめるように。 ( No.6 )
- 日時: 2019/07/09 16:30
- 名前: モンキー★ファング (ID: eW1jwX0m)
「よっ、見てたぜさっきの。おっかないよなー、あの子」
用事でもあったのだろうか。隣に座る神田さんが席を立つと同時に、反対側のお隣さんが僕に話しかけてきた。僕よりもずっと背の高い、日焼けをした男の子だった。肩や胸のあたりの制服の布地が、腹の辺りと比較してみると少し窮屈そうで、よく鍛えられた健康な体らしかった。
卵みたいに綺麗なまんまるの坊主頭は、撫でてみると心地よさそうだった。身体と同じようにごついエナメルが足元に置かれていて、棒状の何かを細長いケースに収納していた。安直に野球部なのだろうかと考えてしまった。しかし、その時は当然、まだ一年生は部活動に所属していないので予測は外れた。一週間後にはそれが正しかったと肯定された訳ではあるけれど。
お世辞にもその顔立ちは恰好いいという言葉は似あいそうになかったが、快活で裏表の無さそうな、楽しそうな人だった。話しかけてきた時からずっと笑っていて、そこに一切の嫌味が無かった。僕が嫌いだった、かつての級友たちとは大違いだ。それだけで、僕が彼に心を許す充分な理由となった。
「ちょっとびっくりしちゃったけどね。何か大変そうだったし、不意に話しかけた僕が悪いよ」
「良い奴だなー、そう言うなんて。ま、別に俺もそこにいた子を悪く言うつもりは無いけど」
成程、どうやら感想の共有というよりむしろ、手ひどく拒まれた僕を慰めようとしてくれた訳だ。相手のことも考えず、衝動的に話しかけた僕なんかとはまるで違う。僕という人間は、言ってしまえば、顔色を窺った結果として打算的に言葉を口にしているものだが、この人は感情に身を任せてなおそう言える人間なのだと分かった。
「いやでも、ちょっと冷たい印象だけど凄い美人だよな、そこの子。かん、かん……」
「神田さん、だね」
やはり、彼女が綺麗だと感じるのは僕だけに限った話ではないのだと、この時知ることができた。早いうちにその裏付けがとれたのは僥倖と言えただろう。でも、僕が彼女に話しかけた理由はそんな軟派なものではないとだけは言い訳してもいいものだろうか。僕が耽美したのはあくまで、彼女に声をかけ、顔を上げてもらった時に目が合ってからのことだ。
僕はあくまで、彼女の姿勢に惹かれただけだ。纏う雰囲気が、彼女そのものを世界から隔絶する膜となっているような、その立ち居振る舞いを羨んだせいだ。
どうしたら、そんな風に在ることができるのだろう。どんな思考をしているのだろうか。知りたい。そう、願っただけの話だった。
この時間違いなく恋心は無かった。この時の僕が抱いていたのは、崇拝にも近い憧れだった。自分にはできないことを、できなかったことを、平然とやってのける存在に羨望と憧憬を向けた。ただ、それだけ。
僕は泥臭いスポーツマンなどではなくて、とても卑屈な人間だった。要領よく課題を終わらせるようなタイプでは無くて、小賢しく解答を盗み見ようと企て、他人の答案を覗く自己の卑怯を寛容できる凡人だった。
努力なんて一つもしたくなくて、他人にあやかって甘い蜜だけ啜りたい。そんな、どこにでもいるような一般人。言うなれば村人Aだった。
目の前にいるこの男子、名前を寺田といっただろうか。彼ならどう思うだろう、そんな卑しい僕の信条を。間違っている、そう断じることはないだろう。それはむしろ、彼の優しさに由来するものだ。僕が間違っていないのではなくて、彼が正誤を気にしない人間だという事実に起因する。
もし彼が僕の立場ならば。そう仮定し、シミュレーションを行うべきだろうか。とすればきっと、僕という人間との違いが如実に表れることだろう。尤も彼は孤独と名付けられた殻の中に引きこもろうとはしないだろうけど。それでも、彼が自分の世界に没頭しようとする時、その必要十分条件をカンニングしようとは思わないだろう。愚直に、正直だからこそ、自分だけの道筋を探し出すのだろう。
そんな彼のことも、僕は羨ましかった。僕が羨ましいと思えるような立派な人間に挟まれた僕は、白の石に挟まれた、オセロの黒石とは違って、反転することはない。変わりたいならば、自分から変わるしかない。
そうして、改めて僕は僕が嫌いだと再確認したところだった。ぐちゃぐちゃととりとめもないことばかり考えていたものの、僕の肉体はというと寺田くんの言葉に適宜相槌を入れていた。何を言われたかは、覚えていない以前に聞いていなかった。そんな折に、席を発っていた彼女が戻って来たのだった。
その横顔に、クラス内の男子が見惚れていた。世界そのものは確かに色とりどりだったけれど、彼女の周りの空間だけが、より鮮やかに照らされているように思えた。事実、そう見えたのだ。
誰も彼女に話しかけない。話しかける訳にはいかないと、暗黙のルールが秘密裏に締結されたようだった。足早に、しかし一定のリズムで歩を進める彼女は、寄り道することも無く自分の座席に帰るものだと、誰もがそう思っていた。
しかしその予想は裏切られる。ぴたりと、彼女は自分が据わるべき座席の一歩半手前で停止した。見下ろされる様な気配を感じたため、振り返ってみれば、なぜだか彼女は僕を見ていた。
目線が合った。かと思えば、向こうから逸らされた。その後落ち着きなく目が泳いでいるようであった。両手の指先を胸元の辺りで合わせて、所在なさげに佇んでいる。
本当に同一人物なのだろうか。その美貌が僕の疑問を解消してくれたのだけど、中身に関しては全くの別人が憑依したのではないかと思った程だ。
口を開く。先ほどは感じた、氷の刃のような鋭利で冷ややかな印象は、全て春先の雪のように融けてしまっていた。
「ごめん、朝はちょっとイライラしがちで……その、さっきは少し言い過ぎた。本当に、ごめん」
そういう訳で、僕から見た彼女の第一印象は、朝だけは機嫌が悪い人間であると登録されたのだった。