コメディ・ライト小説(新)

Re: 夏の虫は氷を笑った ( No.5 )
日時: 2021/01/18 22:25
名前: 立花 ◆FaxflHSkao (ID: vQ7cfuks)

 難しい単語を連ねていく三島先生の声はまるで呪文のようで、五時限目で暖かい陽気ということもあって起きている生徒は僅かだった。先生自身も特に生徒に何も言わないため、これが私たちの普通。寝ていて成績が落ちるのは、それは自己責任だと、多分そういうことなのだと思う。

 私の隣に座った茜が大きな口を開けて欠伸をしたあとに、私に四つ折りにした小さなノートの切れ端を投げてきた。「見て」と彼女は口パクでその切れ端を指さす。

「8月3日あけといて。一緒に海に行こう」

 その文字を見て、すぐに私は茜の顔を見た。にんまりと笑ったその表情は、とても愛らしくて可愛かった。

 授業が終わると、茜は勢いよく私の背中を叩いた。

「で、返事は?」
「うーん、私たち二人で海に行くの? 青山くんと二人で行ったほうが良くない?」
「まあ、もちろん二人で行きたいとは思うけど、今年から彼氏ができたから無理ってのはどうなのかなって」
「別に私はそれは仕方ないと思うけど」
「いや、でさ、それを春馬に話したら、春馬も岩田誘うから四人で行こうって話になってさ」

 第二理科室を出る足取りが軽い茜とは正反対に、私の足は鉛でも括りつけられたように重くて一歩を踏み出すのに時間がかかった。

「あんた、岩田のこと好きじゃん」

 茜のその言葉にびっくりして、私は茜の顔を凝視した。

「どうして、そんな風に思ったの?」
「だって、あんたいつも岩田のことばっか見てるじゃん」

 茜の声が遠くから聞こえたような、そんな錯覚に陥った。

 私の足はぱたりと止まって、茜の背中を目で追った。私の足音がしなくなったことに気づいたのか、茜がこちらを振り返って「早く」と叫ぶ。私は「ごめん」と謝って手に持っていた教科書たちをぎゅっと強く抱きしめて茜に駆け寄る。動揺してるとばれちゃいけなかった。

「そうなのかもね、私。岩田くんのこと、好きなのかも」

 私は茜に合わせて笑うだけで精いっぱいだった。

 










 ねえ、岩田くん。何してるの?


 何してるって、見てわかんないの?


 だってさ、それって。


 あんた、名前なんだっけ。あ、たしか、西倉だっけ




 岩田くんの声はとても優しくて、耳元で囁くように私の近くで「秘密だよ」と私に呪いをかけた。まるで口外したら殺すと脅されたみたいだった。私はその日から、彼の顔をちゃんと見られない。怖い、というか、彼の前では冷静を保てなくなる。でも、動揺してるとばれるときっと私はもっと強い呪いをかけられるんだ。



 スマホにメッセージが一件入っていた。
 お風呂上りに私はそれに気づいて、思わずスマホを落としてしまった。
 岩田棗からのメッセージ。短く「海、楽しみにしてる」と一言。ほらまた、私に呪いをかける。許してほしい、私は地べたに座り込んでちょっとだけ泣いた。
 ずっと私はこの男に恐怖して、この先の学校生活を送っていかなければいけないのだろうか。「秘密だよ」あの日の言葉が何度も何度も反芻する。
 頭の中に蘇っては、かぶりを振って無理にでも忘れようとした。だけど、もうどうしようもない。私は何者にもなれない。見てしまった、それが罪なのだ。

Re: 夏の虫は氷を笑った ( No.6 )
日時: 2021/01/18 22:27
名前: 立花 ◆FaxflHSkao (ID: vQ7cfuks)

 8月3日。雲一つない晴天、それくらいに澄み渡った青空の下、私はひとりで駅のベンチに座っていた。約束の時間の五分前なのに、まだ誰も来る気配がない。スマホで連絡の確認をしても、誰からも遅れるなんてメッセージはない。私は足をばたつかせながら、上手く塗れなかった足の爪をじっと見ていた。

「おはよ」

 さりげなく、気配もなく、彼が私の隣に座った。もちろん心の準備なんてできていなかった。
 おはよう、と私もそのとき当たり前のように笑って返せばよかったのに、私はひゅっと息が漏れて、そのまま呼吸がうまくできなかった。

「まだ二人は来てないの?」

 私の返事なんて気にせずに、私の隣に当たり前のように座った岩田くんはスマホをポケットから取り出してグループチャットにメッセージを打つ。
 岩田くんが来た時間はぴったり、約束の10時だった。

「あ、もう近くまで来てるって」
「そうなんですね」

 やっと声が出たと思ったら、岩田くんは私の方をじっと凝視した。見られて恥ずかしいとかそういうのじゃないけれど、私は視線に耐え切れずまた足下に目をやった。

「なんで敬語なの?」
「……え」
「いや、別に何でもない」

 岩田くんはそう言ってまたスマホに目を落とす。私は動揺してる自分が情けなくて、恥ずかしくて、岩田くんの顔がやっぱり見られなかった。
 それから会話は一切ない。だって私たちは友達じゃないから。友達の友達は果たして友達なのだろうか。私は否だと思う。友達の友達ってやっぱり他人だ。

 青山くんも茜も勝手だ。約束を簡単に破る。今日って決めたのも、この時間って決めたのも彼らなのに、ちゃんと守らない。でも、それくらいのことでいちいち目くじらを立てても仕方ないと分かっている。
 結局ふたりが来たのは約束の時間から二十分すぎたあとのことだった。「遅くなってごめんね」と笑いながら謝罪してくる姿に嫌な気持ちはぐるぐると私の心を侵食して、やがてゆっくり浄化されていく。「大丈夫だよ」とへらっと笑うのが私の使命だから。だって、それがお約束だから。

「暑かったでしょ。ごめんね、これ、飲んで」

 茜が近くの自販機で買ってきたジュースを私に渡した。キンキンに冷えたジュースは触れただけで気持ちよくて、キャップをあけて軽く口に含むと乾いた喉を一気に潤してくれた。これでちゃらだよね、と茜が笑う。私はそうだね、と相槌をうった。

「そういや聞いてなかったんだけど、今日はどこの海行くの? ここらへんって海浜公園とかあったっけ?」
「ああ、御崎海岸に行こうと思ってる」

 茜の言葉に、私は思わず静止した。
 自分の感情を口にしていいか考えて、また私は足下をみる。
 もうそれは癖みたいになっていた。

 御崎海岸は他の海水浴場と違って規模が小さく、そもそも海水浴をしていい場所ではなかった。ライフセイバーがいない上に、高い波が押し寄せるため危ない場所。小学生のころから先生に遊びに行ってはいけないと再三注意を受けていた。だけど、海自体はとても綺麗で、高い波を求めてサーフィンを楽しむ若者も少なくない。それほど危ない場所ではないという認識が強かった。

 ここで私が海水浴は禁止の場所じゃなかったっけ、なんて言ったら空気が読めない女と思われるだろうか。きっと、そう思われる。
 唇をきつく結ぶ。大丈夫、と自分に言い聞かせるだけで精いっぱいだった。


 私は三人が進んでいく背中を追ってまた歩き出した。夏の日差しがきつくて、汗が首筋から背中に向けて伝っていく。呼吸はちゃんとできている。大丈夫、私はまた弱い自分に言い聞かせた。

Re: 夏の虫は氷を笑った ( No.7 )
日時: 2021/03/22 00:15
名前: 立花 ◆FaxflHSkao (ID: vQ7cfuks)

 電車を乗り継いで一時間ほどで御崎海岸に辿り着いた。遊泳禁止という看板から目を逸らして私たちは足を進めていく。青山くんの腕にひっついた茜が楽しそうにけらけら笑っていて、その後ろを私と岩田くんが歩いている。ちらりと岩田くんの方を見ると、前の二人を冷めた目つきで見つめていた。私はそれが、睨んでいるようにも見えた。

「……暑いですね」

 やっとのことで声が出た。勇気を振り絞って、心の中で何度も練習した言葉を口にする。ちらりとこちらを見た岩田くんは、自分に話しかけられたことに気づくまでに五秒ほど時間があって、やっと理解してくれたのか「そうだな」と返事をくれた。だけど、そこから会話を続ける能力が私にはなく、また沈黙が続いた。前の二人みたいに笑いながら会話なんて死んでもできないと思った。

「詩織も泳ごうよ、ほら脱いで」

 水着に着替えた私たちは御崎海岸の小さいけれど綺麗な海に見とれた。ここの海岸はごみゼロ運動が盛んで、近くの小学校などが協力して毎月掃除をしているらしい。綺麗な白い砂浜、照り付ける太陽。絶好の海日和だと思った。
 私は水着に着替えたものの貧相な自分の体が恥ずかしくて、持ってきていた少し大きめなパーカーを羽織って外に出た。同じタイミングで着替えをしていたトイレから出てきた茜は赤いビキニを身に包んでいて、豊満な胸やきゅっと引き締まったくびれ、すらっと長い足が女の私でも見とれるくらいに美しかった。
 
「ああ、また詩織はそんなの着てえ」
「ははっ、ごめん、やっぱり恥ずかしくて。それより茜のその水着可愛いね」
「でしょ。春馬に見てもらうためにこの前買ったの。可愛いでしょ」

 茜の太陽のような明るい笑顔に癒されて、私たちは男子たちのもとに向かった。
 御崎海岸には人はほとんどいなかった。近くに遊びに来ている家族が見えたけれど、遊泳禁止のこともあり砂浜あたりで遊ぶくらい。同じように水着に着替えた青山くんと岩田くんと一緒に私たちは海に向かった。

「あれ、西倉は泳がねえの?」

 海に走って向かおうとしていた青山くんが振り返ってこちらに尋ねる。

「うん。私はここでみんなのこと待ってるよ」
「そっか。まあでも、泳ぎたくなったらいつでも来いよ。あとでビーチバレーとかしようぜ」
「ありがとう」

 青山くんはそう言って海に向かって駆けて行った。顔は怖いし、いい噂もあまり聞かないけれど青山くんは私に優しかった。茜の友達だからというのが全てだろうけど、こうやって輪の中に上手く入っていけない私のことも気遣えるいい人なんだなという印象が強かった。茜は青山くんについて一緒に走っていく。最後に残った岩田くんがこちらを見て、小さくため息をついた。

「行かないんですか」
「……いや、行くけど」

 何のため息かは分からなかった。多分、このときの私は分かろうとしてなかったんだ。岩田くんの足取りは少し重いように感じた。最後に振り返って岩田くんは一言。

「今日、暑くねえ?」
「そうですね。暑いですね?」

 私はこの言葉の意味をちゃんと分かってあげられなかったんだ。私がこのとき、彼が海に行くのを止めていたらきっとあんなことにはならなかった。
 私が悪かった。だからどうか許してほしい、もう今更泣き叫んでも遅い。私はとんでもないミスを犯してしまったんだ。

 声がした。それは悲鳴のような、茜の高い声。
 声に気づいて、砂浜の方から私は海の方を見た。高い波が岩田くんを攫っていった、あの最悪な光景が私の目にこびりついた。
 もう二度と忘れられない。君が夏に殺された日のことだ。

Re: 夏の虫は氷を笑った ( No.8 )
日時: 2021/01/23 23:52
名前: 立花 ◆FaxflHSkao (ID: vQ7cfuks)

 駅のホームのベンチで座る岩田くんはずっと「暑い」と譫言のように何度も呟いていた。確かに今日の気温は三十度を超えていて暑かったけれど、ちらりと見た岩田くんの首筋からは汗がだらだらと流れていた。何度も垂れ落ちるような汗を拭ってる姿がやけに印象的で、だけど私はそれを見て見ぬふりをした。岩田くんのことが怖かったから、そんな言い訳で私は人の命を奪ってしまったというのに。

「助けて!!!!!!!!!」

 その声は青山くんの叫び声だった。私は今自分の目に映った光景が信じられなくて受け入れられなくて、ただ海を見つめて呆然としてしまった。

「にしくらああああ」

 海にのまれた岩田くんが何度も何度もフラッシュバックしている中、青山くんの叫ぶような鋭い声が私の耳に突き刺さる。
 助けを呼べ、と海の中から青山くんが泣きながら叫んでいた。隣にいる茜はずっと泣いていて、もしかしたらパニックを起こしているのかもしれなかった。
 青山くんの声に私は我に返ってスマホを握った。
 砂浜を必死で走った。ビーチサンダルが脱げたのも気にせずに、必死に走った。誰でもいい、誰でもいいから助けてほしい。私は泣きながら叫んだ。足の裏はもう暑さで痛みも感じなくなるほどに麻痺していて、私もパニックで呂律が回らなくなってきた。
 誰もいない。当たり前だ、ここは遊泳禁止の場所だから。さっき見かけた家族ももう帰ってしまったのだろうか、人なんてどこにもいなかった。ライフセイバーもいない、私たちが悪かったのだ。

 ルールを破って勝手に溺れた、そんな人間を危険を冒してまで一体誰が助けてくれるのだろうか。
 泣きながら頭の中は真っ白で、私は砂浜にへたりこんでしまって、最後に救急車を呼んだ。「……助けて、ください」私は弱弱しい声で友達が溺れた話を訴えた。







 救急車が着いたころには岩田くんは息を引き取っていた。必死に海から運び出した青山くんは、眠るように息をしなくなった岩田くんを見てずっと声を殺して泣いていた。側にいた茜はこの光景がいまだに理解できてないのか、あたりをきょろきょろしていて、私を見るなり勢いよく抱き着いてきた。気づいた時にはもう遅かった。

「……ひっ、……ひっ」

 私に抱き着いたまま、茜の呼吸はだんだんとおかしくなっていき、やがて過呼吸になった。崩れ落ちるように私の足に縋りつく茜の顔は真っ青で、今にも吐いてしまいそうなくらいに目も虚ろだった。
 私は茜を抱きしめて背中をさすって、ただ一緒にいるだけしかできなくて、この状況のなか私だけが一人取り残されたような感覚だった。

 どうしてこうなったのか、やっと今になってわかった。
 岩田くんはきっと熱があったのだ。あの汗の量は尋常じゃなかった。何度も繰り返し呟き続けた「暑い」はこの気温の暑さを言ってるわけじゃなかった。体が感じる熱を「暑い」とずっと言っていたんだ。
 気づかなかった私が馬鹿だった。どうして調子が悪くても今日岩田くんが海に来ようとしたのか私が一番分かっていたのに。

「……っ」

 涙は自然と溢れてくる。唇をぎゅっと噛みしめて、私は青山くんの方を見た。泣き崩れた彼を私は睨みつけて、そっと近づいたあと「人殺し」と彼の耳元で呟いた。青山くんはこちらを見たあと、何が起こったのか訳が分からないといった表情を見せて、そのまま固まったように私を見た。

「私はきっと青山くんのことを許せない」

 茜の呼吸がやっと落ち着いてきて、私はぎゅっと彼女を抱きしめた。
 もう、私は彼との約束を守る必要はなくなったのだ。だって、岩田くんはもういないのだから。私の呪いはこの日、彼の死によっていとも簡単にとかれたのだ。