コメディ・ライト小説(新)

Re: 泥中に咲け ( No.4 )
日時: 2021/03/18 18:25
名前: むう (ID: mkn9uRs/)

 【第1話(4)】

 キャリーバッグには必要最低限のものしか入れてないはずなのに、あの時の自分が引いて歩くにはやけに重かったのを今でも覚えている。途中、神奈川のホテルで一泊したからだろうか。行くときは綺麗に畳まれていたはずの着替えが、ホテルを出るときは風呂敷からはみ出てその分鞄が横に膨らんでいる。

「え――っと、ここを降りて……真っ直ぐ……」


 目の前に広がるのはひたすら四角い高層ビル。一体お金をいくらつぎ込んだらこんなに建つのかと僕は感心半分呆れ半分でその厳格な建物を睨む。一軒家が数えるほどしかなく、あとはマンションとネオンピカピカの看板を通りに掲げたレンタル店やクラブ店が軒を並べている。

 兄ちゃんから渡された地図は大雑把で、「まっすぐ行きゃ着く」「人生とは冒険だ。よって迷っても泣くな」とか、「交番は110番だぞ」とか、完全に僕が警察で厄介になるのを確信してメモが記されていた。肝心の情報は何一つ教えてくれない。誰が迷うかよバーカ。


 でも……同じ通りを三十分も右往左往してしまったら流石にマズいと気づく。
 民宿の「み」の字も出ない景色に翻弄され、今まで意識しないようにしてきた疲れがどっと足に来た。


「どっこだよ………ないじゃんか………兄ちゃんマジで恨む………っ」


 ここにはいない犯人の顔を思い浮かべ、心の中で鉄拳を振るう。額からも首からも汗が滴り落ち、ハンカチで拭うと水がポタポタと地面を濡らした。


「…………ホントあのクソ兄貴マジで恨む。人を先輩で吊りやがって……」
「? 人を先輩で吊りやがって?」


 不意に、鈴の音を転がすような凛とした声が耳に響いた。澄んだ声色は低音と高音の中間ぐらい。若干の甘ったるさが、幼い子供の面影を残している。
 僕は反射的に振り向き、声の主を視界に留める。


「こんにちはっ」
「…………………お、オヒサシブリデス……」


 顎までの長さの黒髪をかきあげて、目の前の女の子は白い歯をのぞかせる。
 薄い桃色のTシャツには花柄があしらわれている。下はデニムの短パン。頭の上の白のキャップ帽が彼女の今日の服装にとても合っていた。



 ドクンドクンドクンドクン。
 急に鳴り始める心臓。ぐるぐると回りだす思考回路。
 
 いつぶりだっけ? 中学2……いや3年の時? 初めて会ったのは体育祭のペア活動の時で……僕の名前、知ってんのかな? たった一カ月だけだったし忘れられてるかな? こっちは一度も忘れたことないけど……ってああ何考えてんだ僕。それじゃストーカーみたいじゃないか……。


「君でしょ。今日からおとなりの藤宮さんちでお世話になる」
「あ、はい、日下部蒼汰です……。あの、そのっ」
「ん?」
「………ぼ、僕のコト……覚えていらっしゃいますか」


 黒野あかね先輩。同じ中学出身の先輩で、体育祭の時にペア活動で一緒になっただけの、それだけの関係だった。おそらく、先輩にとってはそうだろう。

 しかし僕は、あの一カ月間ですっかり彼女に魅了されてしまった。

 まず誰にでも態度を変えない姿勢で既にやられた。と言うのも、小学生の頃に女子に『くさくさ くさかべ』とからかわれたことがあり、女子はずっと苦手だったのだ。でも先輩だけは、ほかの子とは違う雰囲気があった。彼女の行動全てが眩しかった。


「日下部くんでしょ!? ほら、二年前一緒に運動会でペアになった」
「っ? 覚えて……」
「障害物競走で一緒にアメなめたもんね~」


 ………白い粉でいっぱいになった顔のままテープを切った記憶から僕と言う存在を引っ張り出してくれるのは、何と言うか……。
 

「よし日下部くん! 迷ってるんでしょ。私も散歩してたし、送ってくよ!」
「いや、その、悪いですよ」

 先輩の両手はコンビニ袋で塞がっている。白いビニール袋からペットボトル飲料やお菓子の袋が見えた。その中にポテトチップスももちろん入っている。老若男女大好き、流石ポテチ様。
 自分の用事があるのに、僕を気遣って案内まで。委縮して慌てて断ると、黒野先輩は「ふうん」とそっけなく相づちを打った。拗ねた時に見せる彼女の癖だった。


(き、嫌われそう……)


 先輩に気を使わすのも嫌だけど、先輩との仲が不仲になるのは更にいやだ。ここはお言葉に甘えることにしよう。僕はさっきからずっと顔を背けている先輩に苦笑いして言う。


「荷物、片方持ちますから、案内してくれますか」
「………わかった」


 一度気分をそこねてしまうと先輩はなかなか戻らない。叱られた後の子供のように頬を膨らませ、不承不承というように先輩がのろのろと歩き出す。僕はその後ろを慌てて付いていく。

 数カ月たっていたけれど、黒野先輩はやっぱりあの時のままだった。
 笑うときにえくぼができる顔も、綺麗に手入れされてサラサラの黒髪も、あどけなさが残る童顔や黒目の大きい瞳も。周りをじんわりと癒していくその温かさが羨ましくて、僕は同時に憧れていたのだ。

 これからお隣になる。付き合う時間が長くなる。高校も、学科が違うけど同じところに通うのだから、もしかしたら廊下ですれ違うかもしれない。楽しみだ。先輩が日々自分に何と声をかけてくれるのか。そして自分がその都度なんと返すのか、想像しただけでワクワクした。