コメディ・ライト小説(新)

Re: ハッピーバイバイバレンタイン【前日譚更新中】 ( No.8 )
日時: 2022/04/02 14:35
名前: 永久 知音 (ID: hDVRZYXV)

 今、学校は水曜日の昼休みを迎えている。
 騒がしく話し声が飛び交う教室の中で、一人、安眠を迎えている少年がいた。
 連日続く引っ越しの準備で、全身に疲労がたまっているのだろう。
 テルは机に突っ伏して、綺麗に整った顔をだらしなく崩していた。

 そこに鉛色の刃物を片手に、ゆっくりと近づいてくるもう一人の少年。
 彼はその刃物を、カチカチと不気味な音と共に、テルに向ける。
 その時だった。

「サ......ク......」

 テルが眠気の混じった柔らかい喉声を発した。
 刃物をサッとズボンのポケットしまい、少年、サクは、平静を装う。

「むにゃ」

 どうやら、寝言のようだ。サクは安堵で胸を撫で下ろす。
 同時に、自分の名前がテルの寝言で発せられたことに、密かに喜びを感じていた。

「それにしても......」

 サクは、テルの寝顔をまじまじと見つめる。
 いつもは見られないあどけない表情だ。
 しばらくそれを見続けた後、ハッと我に返った。
 緩んだ口元を両手で軽く叩くと、ポケットからまた刃物を取り出した。

 サクは改めて、これまでの経緯を振り返る。
 先日、テルに引っ越すことを伝えられた。しかも、バレンタインの日に、らしい。
 親友と別れるだけでも、枕に顔をうずめて叫び泣くほど悲しいのに、バレンタインの日となるとなおさらだった。

 テルは親友のサクから見ても相当に良い人間だ。
 誰にでもノリよく接し、困っている人は放っておけない性格。
 決して自分の芯を曲げず、みんなを引っ張るリーダー的存在でもあった。
 
 ただ、自分がモテていることを全く知らない。いわゆる鈍感男なのだ。
 輝く人柄、整った容姿とは裏腹に恋にはうとい男。

 だからこそ、バレンタインの日に引っ越すというのは学校中の女子の気を大きくさせる。
 みな、その日に想いを伝えようとしているらしい。

 それは引っ越し当日、サクがテルと話せる時間が減ることを意味していた。
 サクにとってテルは何にも代えがたい存在だ。
 
 テルに自分のことを忘れてほしくない。

 そのために、最後の別れは一生忘れられない、印象的なものにしたい。
 そうすれば、サクという存在がテルの心の中にいつまでも残り続ける。

 だから、これもしょうがないことだ。

 サクは、刃物を大きく後ろに引き、そして。


 テルの両手目掛けて弧を描いた。


 カチチチチチ──

「よし、テルの爪十本ゲット!」

 テルは鉛色の刃物、爪切りをカチカチと二回鳴らし、口笛を吹いてみせる。
 別れ際、この爪をテルに渡せばきっと印象に残るはず。
 そう、これはしょうがないことなのだ。

 サクはポケットに爪切りと十本の爪を入れ、再びテルの寝顔を覗く。

「気持ちよさそうに寝やがって。ほんとに鈍感だなテルは」

 これだとチャイムが鳴っても起きなさそうだ。
 サクはやれやれと肩をすくめ、テルの背中に右手を近づける。

 と、その前に......。



「ふああぁあ。お、サクおはよう。何してんだ?」

 テルはあくび混じりに、横で口元をニヤニヤニヤつかせるサクに声をかけた。

「なんでもねえよ」
「お前のなんでもないほど信用できないものはねえ。白状しろ」
「テルの顔に油性ペンで落書きをさせていただいた」
「はあ!? まじかよ。トイレまで連行だ! ついてこい」

 テルは眉をひそめ、サクの右手を思い切り引いていく。
 サクは教室中に響く笑い声を発しながら、大人しくテルに連れてかれた。
 左手にスマホを隠し持ったまま。
 
 その時のサクの笑顔はとても清々しく、女子顔負けの可愛さだったのは学校中に波紋を呼んだ。

 ただ、サクのスマホにテルの寝顔が収められていたことは誰も知らないらしい。