コメディ・ライト小説(新)

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鍵盤上の踊り場の上で
日時: 2022/03/28 21:10
名前: 紗由紀 (ID: HQL6T6.Y)

鍵盤上の踊り場の上で︎︎

「では、このクラスの伴奏者は相原さんに決定です」
パチパチと拍手が沸き起こる。
そんな音も、僕にとってはプレッシャーに他ならなかった。
「この後、相原さんには楽譜を配るので、職員室へ来てください」
そう告げられた。
こうやって告げられるのも高校生活中で2回目だ。
僕は特別ピアノが上手い、という訳ではないのだが、皆ピアノの伴奏は僕がいいと推薦してくれるのだ。
一応、ピアノコンクールで賞を取ったことがあるからかもしれない。
…いや、本当は「出来る人に任せよう」という本能から選んでいるのだろうけれど。
そうだったとしても、普段誰かに頼られることのない僕にとっては嬉しい出来事だ。
…これが「ピアノを弾く」ということでなければどれほど良かっただろう、とも思うが。

「…相原さん、左手は大丈夫ですか?」
誰とも過ごさない休み時間。
職員室へ向かっていた僕の左手を、担任は心配して見ていた。
その視線につられて僕もその手を見る。
手袋をつけている、その手を。
機能しなくなった手。
今は義手でカバーしている手。
様々な恨みがへばりついている手。
義手生活から約4ヶ月。
割と慣れてきたその手を見つめた。
義手になってからあまりピアノに触れていないが、きっと大丈夫だろう。
「大丈夫です。何とかします」
そう担任に告げた。
久しぶりのピアノ。
わざと触れなかったピアノ。
けれど、頼まれたものは仕方がない。
そう思った僕は、一人きりで廊下を歩きながらピアノへと思いを馳せた。

楽譜を貰った僕は早速音楽室で練習を開始した。
試しに、ピアノに手を置いてみた。
が、以前のような高揚感はそこにはなかった。
それを気にしないかのように、基礎練を始めた。
割と指は前の感覚を覚えていた。
最近の技術はすごいな、と改めて感心する。
こんな細かい作業の連続したピアノでさえ弾けるようになったのだから。
指をピアノに慣らしてきたところで、先程貰った楽譜を開いた。
曲の形式はわりとシンプルで、合唱曲の伴奏らしい伴奏だった。
試しに冒頭部を弾いた。
この冒頭部は、何を表現したかったのだろうか。
何を考えて弾けばいいのだろうか。
そう思いながら弾く。
なんとかミスなく弾くことができた。
けれど、やはり何か物足りない感覚は拭えなかった。
そんな感覚さえも拭うように、またピアノを弾き始めるーー
コンッ、コンッ
ふと、音楽室のドアからノック音が聞こえた。
そちらへ振り向く。
人影が見えた。
もしかしたら、先生が来たのかもしれない。
曲について伝えておきたいことやアドバイスがあるのかもしれない。
そう思ってドアを開けた。
…果たしてそこには先生はいなかった。
代わりに、知らない女子がそこにはいた。
肩の辺りまで伸ばした髪。
ぱっちりと開いた大きな黒い目。
まさしく「華の高校生」という言葉が似合うような、そんな人だった。
見たことの無い人だ。
けれど、どこかで見たことがあるような、そんな不思議な感覚に襲われた。
ジャージの色彩で、その人が僕と同学年であることがわかった。
「…どうした?」
「ピアノ、すごいね」
あまり聞かない褒め言葉になんと返せばいいのかわからなくなる。
「…どうも」
「聴いててもいい?」
唐突なその言葉に、目が見開いた。
全く知らない人の演奏を聴いていても、つまらなくないのだろうか。
というか、僕のことを知っている人なのだろうか。
「…別に、つまらなくないなら」
けれど、そんな僕の意志に反するかのように、僕は早々に言葉を紡いでいた。
「え、本当に?ありがとう〜」
途端、彼女の表情は明るく彩られた。
そのまさしく天真爛漫な表情に、僕の心は少しだけ明るくなった。

「私のこと、知ってる?」
演奏を一通り終えた後、突然彼女は聞いてきた。
突然そんな質問をするのもどうかと思うが。
彼女の顔立ちを見る。
どこかで見たことはある気がする顔だ。
けれど、それがどこでなのかはあまり思い出せない。
「よくわからない」
「え、嘘ぉー!私、結構有名人なんだけどなー」
そう言ってぐずったように顔を俯かせた彼女の姿を見て、笑いそうになった。
こんなに表情がコロコロと変わる人と話すのは、初めてのかもしれない。
「名前、聞いたらわかるかもなー」
「…それは僕に名前を聞けってこと?」
「お!察しがいいようで!じゃあ聞いて〜」
「…もう普通に言えばいいんじゃないか?」
「うるさいなぁー、そういうことは気にしない」
彼女の謎のこだわりに振り回されつつ、僕は彼女について概ね知ることができた。
彼女の名は、水瀬澪。
その名前を聞いても、僕はよくわからなかったのだが。
本人曰く、何度も陸上大会で入賞していて、表彰されることも多々あったから知っているのではないか、とのことだった。
言われてみればそんな気もしなくもない。
だから顔を見たことがあったのだろう。
音楽の道を歩み始めてまだ半年程しか経っていないらしく、ピアノには特に興味があったらしい。
けれど、ピアノはお金がかかるため親に何も言えず、中々一歩踏み出せずにいたらしい。
そこで、音楽室のピアノを借りればピアノを練習できるだろうとのことで、今日、早速やろうと思ったのだとか。
この学校には音楽室が2つあり、第1音楽室を僕が、第2音楽室を水瀬が使おうとしていた。
けれど、第1音楽室から音が聞こえてきた。
気になって聴いてみたら、凄く綺麗な音が聞こえてきたのだとか。
だから、その音を奏でている人を見てみたい、とここへ来たらしい。
そんな音色を奏でられていた記憶はないが。
「しかも君、手袋つけてもそんな音を奏でられるなんてすごいよ!」
そう言って僕の両手を興味深そうに見たのだった。
ちなみに、手袋を付けているのは、義手を見られないようにするためだ。
障害のことを言うべきか否か少々迷ったが言わないことにした。
…障害者だから「不幸」だと思われたくなかったからだ。
「手袋つけて弾くほうが手が温まっていいんだよ」
それらしい理由を付け加えた。
「そうなんだ〜、私も今度やってみようかな」
興味深そうに水瀬は言った。
その言葉に、少しだけ驚いた。
このことを疑問に思わないのだな、と
けれどそれは同時に、どうしようもない安堵感を僕の心にもたらしていた。
障害者として生きてもいいんだよ、と言われたような気がした。
そんな気持ちは、初めてだった。

「ねぇ、ピアノ弾いてみてもいい?」
水瀬から、突然そんな質問が飛び込んできた。
僕は家でも弾けないことはないし、少しくらいならいいだろう。
「いいよ」
「やったぁ」
そう言って水瀬は僕の隣に座った。
「学校でもピアノを弾いた経験はないか?」
「ない」
「じゃあ、正真正銘初心者だな」
「うん」
初心者であれば、まずは片手で曲を弾けるようにならなくてはならない。
それに、きちんとした指の使い方を覚えて貰わなくては。
水瀬は僕の隣で先生と生徒のようにピアノを弾くための基礎を積み上げていった。
水瀬は、教えられたことをすぐに出来るという所が優れていた。
ただ、その出来たことが次のステップの時にはすぐに忘れている、ということが懸念点だった。
「最初はの内は弾き方の癖がつきやすい。家でも机の上で練習するといいよ」
「ありがとう」
そう言って水瀬は笑って見せた。
「あ、そうだ」
僕は思い出して、厚い本を取り出した。
ピアノの教則本。
僕がピアノを始めた時からずっと使っていた本。
けれど、最近はあまり使ってなかった本。
「もし、分からないところがあったらこの本を見て練習するといいよ」
水瀬はキラキラした目でそれを見た。
僕にはもう、必要のないその本。
けれど、捨てずにはいられなかった本。
その本を手放した時に、ピアノとの別れが来ると思っていた。
けれど、それは逆で。
むしろそれは、水瀬のピアノ人生を始めるきっかけとなるだろう。
「ありがとう…!」
感慨深い、というような顔をして、水瀬は笑っていた。
ふと、時計に目をやる。
気がつけば針は、最終下校時刻に近づいていた。
「もう最終下校時刻だから、帰ろうか」
「うん」
そう言って僕らは音楽室を出た。
昇降口までの数分間。
水瀬はずっと話していた。
ピアノのこと、音楽のことを。
その姿を見て、目を細めたくなる。
眩しい。
いつかの僕の姿を見ているようだった。
ピアノが大好きで、ピアノについてずっと語っていて。
ピアノの前に座ると、胸の中の高揚感が抑えきれなくて。
なのに、今の僕は。
ピアノのことを語りたいとは思えない。
ピアノの前に座っても、心は冷えきっている。
いつかの自分のように、なりたかった。
僕はいつか、水瀬のようになれるだろうか。
…いや、水瀬は僕のようにならないだろうか。
そんな希望と不安が入り交じった、不思議な感覚だった。
「水瀬」
「なぁに?」
呼び掛けに応じた水瀬の瞳を見つめた。
目が、キラキラと希望に満ちている。
きっとその希望は、これからのピアノを弾けるようになった自分へのそれだろう。
どうか、お願いだから。
ピアノを好きな、君のままでいてくれ。
「ピアノは楽しい?」
口下手な僕が聞けるのは、たったそれだけだった。
水瀬は、目を見開いた。
けれど、水瀬は当たり前のように笑って。
胸に抱きしめている本を更に抱きしめて。
こう言ったのだった。
「楽しいに決まってるでしょ!」
その言葉を、当たり前のように言えて、胸を張って言えるような。
そんな人に、僕は戻れるだろうか。
…いや、今は目の前のことに集中しよう。
水瀬が、ピアノを好きなままでいられるように。
水瀬が、胸を張ってピアノを弾けるように。
水瀬の音楽人生をが、壊れないように。
「そうか」
きっと、そう言った僕の顔は少し緩んでいたと思う。
そんな僕の胸には確かなる目標と、ピアノへの希望が湧いてきた。

そんなことがあった昨日だったから、僕は人のことを気にするようになった。
水瀬が何組なのか知り得なかったからだ。
もし何か言いたいことがあったりすれば、水瀬のクラスに行って伝えられると思ったのだ。
隣のクラスから探した。
C組にはいなかった。
少なくとも、僕が見える範囲内で、だが。
A組へと向かった。
「あれ?昨日の人だ!」
昨日鼓膜に響いた声がまた響いた。
水瀬だ。
けれど、水瀬の方は僕の名前を覚えていなかったらしい。
「…僕の名前、覚えてなかったのか」
「……」
無言で笑ってこの場から逃れようとする水瀬を見て、僕は可笑しくなった。
「湊太。相原湊太」
「…あぁ、そうだったぁー」
「絶対覚えてなかったよな?」
「そ、そんなことありませんよ?」
慌てている水瀬を見て、少し可笑しかった。
そして、そんな水瀬を見て要件を思い出した。
「何組?」
「え、なんで急に?」
呆れた顔をして見られる。
そんな顔をしないでくれ、頼むから。
「何組かわかれば僕が持ってる教育本とか色々渡せるだろ?」
「あぁ、そういうことね。じゃあA組」
「じゃあってなんだよ」
ひとまず、水瀬のクラスを知ることができた。
「あ、次の授業、体育だから」
言われてみれば水瀬はジャージ姿になっていた。
「まだ暑いのに長袖ジャージを着ているのか」
「…寒がりなんだよね、私」
「そうか」
少し水瀬と話した後、僕は教室へと向かった。

放課後の音楽室で、僕はピアノを弾いていた。
コンッ、コンッ
昨日と似たノック音が、音楽室に響いた。
なんとなくそれが誰のものなのか分かって、ドアを開ける。
やはり、その人物はドアの前にいた。
「今日も弾いていっていい?」
「いいよ」
「向こうの音楽室、吹部が使うんだって」
「きちんと理由もあるんだな」
水瀬が、ここに来てくれた。
そのことが少し、嬉しかった。
昨日は教えられなかったことも、今日は教えよう。
そう自分を意気込ませてピアノへと向かった。

「昨日より手の形がきちんとしてるな」
驚いた声色を発した僕の声を聞いて、水瀬は笑っていた。
「えへへっ練習したからね〜」
水瀬の話す一声一声が、ピアノのへの熱い思いとなって伝わる。
昨日よりも遥かに成長した水瀬を見て、僕はやる気になった。
もっと、ピアノを楽しいと思ってもらいたい。
もっと、上手になった自分を見て喜ぶ水瀬の姿が見たい。

それから僕らは、音楽室でピアノの練習をしていた。
水瀬といえば、僕の合唱曲の伴奏を静かに聴いている時もあれば、「レッスンをして欲しい」と言ってピアノの練習をする時もあった。
水瀬はどんどんピアノスキルが上達していき、最近では両手をつかって様々な曲に挑戦している。
そのうちに、「水瀬澪」という人物について深堀りすることができた。
そして僕にとって水瀬は、かけがえのない存在となっていた。
そんな風に過ごして、1ヶ月が経った。

「じゃあ、今日はペダルを使って曲を弾いてみるか」
ペダルを使った曲をやっていなかったことに気がついた僕は、水瀬にそう提案した。
水瀬ははっとした様子だった。
「ペダルの種類は知ってるか?」
「…うん」
「…?」
いつもより元気がない…気がする。
まだ一緒に過ごすようになったばかりだが、昔から人間観察をよくしていた僕には、なんとなくそのいつもとの表情の違いに違和感を覚えた。
「…元気ない?」
「え?…いや、別に?」
慌てた様子で否定する水瀬を見て、やはりおかしいなと思う。
「何かあったか?」
「…何も無いよ、本当に大丈夫だから」
突き放すような、そんな声色で水瀬は僕にそう言った。
水瀬がそんな声を出したのは、今回が初めてだと思う。
「…そうか」
俯いた水瀬の顔を見て、やはりおかしいなと思った。
まだ、ペダルの曲をやるのは早かっただろうか。
「…あのさ、ここの指番号ってどうすればいいかな?」
水瀬は話の話題を変えた。
けれど、その話題の変え方がどうも不自然だった。
「そこは…」
けれど、僕は水瀬に何か聞くことはできない。
それがどこか、もどかしかった。

「帰ろうか」
「…うん」
水瀬は途中からはいつもの調子だったが、最後はやはり元気のなさが表に出ていた。
少し心配なので、早めに帰らせることにした。
何かあったかもう一度聞いてみるか?
いや、それで雰囲気が悪くなったら元も子もないだろう。
そんな葛藤を心の中でしていた。
「あのさ」
突如、水瀬は話を切り出した。
少し驚き、水瀬の方へと振り向く。
「…何?」
努めて優しく問う。
僕らが歩く屋外廊下に、風がふわりと吹いた。
「…あの、ね」
見たことの無い表情だった。
いつもの明るさとはかけ離れた表情だった。
何かと葛藤しているような。
苦しさから逃れまいとするような。
そんな表情だった。
水瀬は、ジャージの裾をギュッと握りしめた。
「さっきはごめん」
何を言い出すかと思ったら、先程の出来事についての謝罪だった。
恐らく、キツく言ってしまったことに対しての。
「全然。気にしてないから」
そう言うと、水瀬はホッとしたような目をした。
少し、場の空気が柔らかくなる。
「…あのね、私っ…」
最初は勢いがあったが、段々と消え入るような声となっていた。
僕と水瀬のいる空間に、また緊張が走る。
僕は、何も言うことなく続きを待つ。
きっと、言葉では伝えづらいことなのだろう。
僕は口下手だからわかる。
言葉で伝えようとすると、難しいことがあるのだ。
感動や嬉しさを表すとき、どうしても「言葉が足りない」という感覚に陥るのだ。
きっと水瀬も今、そんな状態だ。
だから僕は待った。
水瀬の言葉を待った。
水瀬は、握りしめていたジャージの裾をたくしあげた。
僕の目に映ったものは、信じられないものだった。
義足。
水瀬の右足は、膝から下が消えていた。
代わりにあったのは、金属の塊だった。
「障害者、なの…」
言葉が、出てこなかった。
悲しそうにそう告げる水瀬を見て、何も言えなかった。
(障害者は「不幸」だと思われたくない)
いつかの自分の心の声が蘇った。
水瀬も、そう感じたことがあったのだろうか。
体育前にたまたま会った時に長袖ジャージを着ていたのも、きっとそれが理由だろう。
「ペダルを使って練習するって聞いて、私、怖かった。障害者って気付かれて、相原くんに軽蔑されたりするんじゃないか、って…」
目の前の少女は、必死に訴えていた。
私を差別しないで、と。
生きづらい世の中だと思う。
たった少し、何かが他人と違うだけでその集団から跳ね除けられるのだから。
それは障害者だけに当てはまるものではなく、きっと全世界の人が悩み、苦しんでいることだろう。
僕も水瀬も、その辛さというものを痛いほど理解している。
どんなに「差別はいけない」と言われても。
どんなに誰かが平和を訴えても。
世界は変わらない。
今の僕にできることはなんだろう。
水瀬を勇気づけるには、どうすればいいだろう。
「水瀬」
気づいた時には僕はそう呼びかけていた。
いつからか、人前で外さないでいた手袋を外す。
そこには、金属の塊が顕になっていた。
僕の今までの葛藤を、全て見せるかのように。
僕は、力なく笑っていた。
全ての行動が、無意識だった。
「僕も、だよ」
水瀬は、目を見張っていた。
信じられないような魔物がそこにいるかのように。
水瀬の目は、段々と潤んでいった。
「初めて水瀬が音楽室に来た時、手袋つけて弾いてることを褒めてくれたよな。あの時、障害者でもいいんだなって、勝手に救われてたんだ」
「…私もっ、相原くんに会えてから、心が救われた感じがしてたの…」
水瀬に、そんな風に言われるなんて。
…同じ、だったんだな。
僕らは、正反対なようで、同じなんだ。
そんな共通点が、嬉しくて、誇らしくて。
こんな気持ちの名前は、なんだろう。
「水瀬」
僕はまた、呼びかけていた。
水瀬は、その潤んだ目を僕に向けた。
大切な何かを僕に訴えるかのように。
「ピアノは好き?」
単純な質問だった。
昔の僕なら、当たり前のように答えられていたはずの質問だった。
けれどその質問は、ピアノを続けていく程に難しいものとなった。
水瀬は、どう答えるのだろうか。
水瀬は、笑った。
前に「ピアノは楽しい?」と聞いた時と同じように笑った。
水瀬の目から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
同時に、水瀬の中で何かが吹っ切れたようだった。
「大好き」
何かを告白するような、そんなら声色だった。
…いや、本当に告白なのかもしれない。
障害者でも、ピアノを愛していていいんだということの、告白。
「じゃあそれだけでいいんだよ。ピアノが好きなだけでいい。健常者も障害者も。胸を張ってピアノが好きだと言えるなら、それだけで十分」
『僕は、それすらも胸を張って言えないのだから』
心の中の自分と、現実の自分を重ね合わせて言った。
心にあった、「嫌い」という感情は、僕の中で更に渦巻いた。
けれど。
水瀬はきっと、逆だろう。
今、この瞬間も、ピアノへの思いが溢れだしそうな程、ピアノを愛しているのだろう。
水瀬は、ピアノが大好きだと言っている。
水瀬は胸を張ってそれが言えるのだから。
水瀬なら、大丈夫だ。
辛いことがあったとししても、きっとやっていける。
「うんっ、ありがとう…!」
「だからもう泣くな」
僕の前でみっともなく涙を流している水瀬に、僕はそう伝えた。
「水瀬が泣いてるのは見たくない」
「…それって子供っぽいから?」
「そういうことにしておく」
「何それ〜」
水瀬は、笑っていた。
今までの葛藤や悩みを忘れたかのように。
…いや、今は忘れていてほしい。
今だけじゃなくても、ピアノを弾いている時だけでも。
僕の隣にいる時間だけでも。
障害者であること、苦しんでいたこと。
どうか、忘れて欲しい。
「相原くん」
水瀬は涙を残したまま笑っていた。
そして、こちらを見ていた。
「ありがとう」
水瀬は、そう伝えた。
たった5文字だった。
けれど、その5文字の中には水瀬の溢れんばかりの気持ちが詰まっているのだろう。
「こちらこそ」
「相原くん」
水瀬は、また僕の名を呼んだ。
愛おしそうに、嬉しそうに。
「これからも、私のピアノレッスンをしてください」
そう言って、僕に向けて手を差し伸べた。
まるで、プロポーズのようだな、とも思った。
いや、もしかしたらそうなのかもしれない。
君のピアノ人生に寄り添う者として、君は僕に。
僕は笑って言った。
ついでに、照れくささを添えて。
「喜んで」
僕は、差し伸べてくれた水瀬の手をそっと握った。
夕暮れ時の太陽が、視界の端で眩しく輝いた。
同時に、水瀬の目からこぼれ落ちた涙も輝いた。
きっとそれは、太陽よりも強く。
小さな光を放っていた。

そんなことがあってから1週間。
水瀬はどんどんピアノが上手くなっていた。
懸念していた義足の件についても、左足で練習してなんとか慣らしている。
最近は慣れてきたようで、ペダルを使った曲でも間違えずにペダルを踏めている。
もちろん、水瀬の曲は完成度も高めだ。
水瀬曰く、「相原くんのおかげ」とのことだった。
そんな上手く教えられている自信はないが。
そんなことを考えながら、本番まであと2週間となった合唱曲の練習をしていた。
前より、上手く弾けている。
昨日の音楽の授業で歌と合わせてみたが、悪くはなかった。
懐かしい感覚を手に覚える。
…これが、「楽しい」ということなのだろうか。
コンッ、コンッ、コンッ
いつもより速い時間帯にノック音が鳴った。
珍しいな、と思いながらドアを開ける。
果たして、そこには僕の想像した人物はいなかった。
「立花先生…?」
立花先生とは、音楽を教える先生のことだ。
水瀬がピアノを音楽室で弾く許可をしたのも先生で、時々僕らの様子を見に来てくれる。
僕は去年もピアノの伴奏していたので、前からお世話になっている先生だ。
だからいつもよりノックをする時間帯が速かったのだろう。
「相原くん。水瀬さんもいる?」
「いや、まだ来てないです」
『も』ということは、僕にも用があるということだろう。
「何か水瀬にも伝えたいことがあるなら、僕が伝えておきますよ」
「いや、直接伝えたいことだから、ここで待ってる」
余程伝えたいことなのだろう。
僕は先生と、水瀬のことを待った。
5分程経った。
「相原くん、やっほー…ってあれ?先生!」
水瀬は、ノックをしないで入ってきた。
そんなことも珍しい。
「先生とは敬語で話しなさい」
「すいませーん」
先生とも仲良さげに話している水瀬を見て、僕は失笑してしまった。
「ほらほら、笑ってないでここ座って」
その言葉に誘導されて、僕と水瀬は座った。
「今日、音楽室に私が来たのは、2人に提案したいことがあったからなの」
そう言って先生は、ある資料を出した。
僕らは、それをまじまじと見る。
「これ、文化祭のフリーステージのタイムテーブルなんだけど。1グループ出場取消をしたの」
ほら、ここのグループ、と言って立花先生はそのグループの場所を指した。
この学校の文化祭は、合唱祭の1週間後にやるというのが伝統だ。
先生曰く、欠場したグループは、4人でバンドを結成して曲を披露する予定だったらしい。
けれど、ドラム担当のメンバーが手の指を骨折してしまった。
そして、フリーステージの出場取消をした、とのことだった。
「そこでね、お願いがあるの」
先生は、僕ら2人の目をしっかりと見た。
「2人に、ピアノ連弾をやってもらいたい」
「「…え?」」
僕らは同時に声が出た。
「…僕らでいいんですか?楽譜だってないし、曲の完成まであと3週間で…」
「楽譜はもう用意してある。それに、曲の難易度は水瀬さんに合わせたから、ピアノを始めたばかりの水瀬そんも弾けると思う」
僕は普通、曲の完成まで概ね1ヶ月くらいかかる。
その曲は、まあまあ難易度は高めのものだと思う。
その楽譜に目を通したが、これくらいの難易度のものだったら水瀬でも1週間あればできると思った。
「無理は承知の上でのお願いだから、引き受けなくてもいい。でも…」
先生は、微笑んだ。
まるで、懐かしい記憶を思い出した幸福感に包まれてるかのように。
「私は、貴方達の音色が好きだから」
…そんな言葉を聞いて、引き受けないなんてことなんてあるだろうか。
水瀬との連弾。
…面白そうそうだ。
心の中で、僕はニヤリと笑った。
僕の中で答えは決まった。
「…僕は喜んで引き受けます。…水瀬は、どう?」
僕は水瀬の方を見た。
水瀬は、目を輝かせていた。
ピアノに触れる時のように。
水瀬は不意に僕のことを見つめ、ニヤリと笑った。
「面白そう」
「じゃあ、水瀬さんもOKってことでいいかしら?」
「もちろんですっ!」
勢いのある返事で水瀬は了承した。
「じゃあその楽譜は2人にあげるわ。頑張ってね。応援してる」
「「はいっ!」」
やる気の入った僕らには、もう敵なんてない。
早速楽譜を細かく見て確認した。

「割といけるもんだね」
「水瀬はやっぱり上手くなったな」
「ありがとう!」
「後半になるとだんだん速くなる癖を除き」
「…その点に関してはすいません」
初めて水瀬と連弾をした。
あまり出来ないかと思ったら、案外楽譜のページはすすんでいた。
僕らは、お互いの良い点と懸念点を話し合った。
「ここの所は表現を統一した方がいいかもね」
「確かに」
1人で演奏する時よりも、なんだか心強い。
恐らく、「2人で弾く」ということもあるのだが、やはり「水瀬と弾く」ということが1番大きい気がする。
隣にいる水瀬のことを見た。
水瀬もこちらを見る。
「どうしたの?」
「…水瀬と連弾してることが不思議だなって」
「なんで?」
不思議そうに僕を見た水瀬に、僕は言葉を続けた。
「僕らは2ヶ月前まで名前も知らなかったのに、この音楽室で出会って、ピアノを弾いて…なんだか運命的だよな」
「…ふふっ、意外とロマンチストだね。相原くんって」
「そうか?」
そんなつもりは全く無かったのだが。
「ねぇ」
「なんだ?」
「…相原くんは、やっぱりピアノが好きなんだと思うよ?」
「…え?」
唐突なその言葉に、少し唖然とした。
「だって、ピアノが好きじゃなきゃ、こんなに長い間続けられないし、あんなに優しく教えられないよ」
「……」
僕は何も言えなかった。
本当にそうなのだろうか。
僕は、ピアノがーー
「ねぇ」
水瀬は真剣な眼差しで此方を見ていた。
「なんでピアノを嫌いになったの…?」
その視線から逃れるように、僕は下を向いた。
その視線の先には、手袋に覆われた金属の塊があった。
義手を使うようになってから生まれた因縁の数々。
それを少し、思い出した。
「義手になってから1度だけ、ピアノを弾いたことがあったんだ」
僕は、ぽつりぽつりと言葉を編んだ。
「うん」
「クラスの皆が上手だね、凄いね、って言ってくれたんだ。でも…」
その後に気づいた。
本当は、誰も僕の演奏を上手いと思っていなかったことに。
ピアノを弾き終わって教室に戻った時に、こんな話し声を聞いた。
『あいつさー、ピアノの演奏普通に下手だよな』
『わかる。あれ絶対自分サイコーって思いながら弾いてる』
『陰キャのくせにな』
『言えてるわぁー』
『みんな思ってたよな、絶対』
『あんなやつにピアノ弾く資格なんてないだろ』
信じられなかった。
信じたくなかった。
皆が、そんなことを言うなんて。
悔しかった。
僕はそこから走って逃げた。
現実から逃げるかのように。
ただ、走った。
無我夢中で走った。
神様。神様。
どうして僕をピアノから引き離そうとするのですか?
現実なんてそんなものだと、その時唐突に知った。
どんなに音楽が人の心を癒しても、人の悪の根本的なものは排除出来ないのだと。
どこまで走ったか分からなくなった時。
僕の目の前には音楽室があった。
無心でドアを開く。
そして、ピアノの蓋を開けた。
ピアノに手を置いた。
そして、ピアノを弾いた。
何度も、何度も。
きっとその音色は、この世で一番汚かっただろう。
僕の恨みと後悔が募った音色だったのだから。
それから、ピアノが大嫌いになった。
本当は、ピアノでの伴奏なんて引き受けたくなかった。
でも、何故か引き受けていた。
きっとそれは、僕にはそれしかなかったからなのだろう。
きっとそうだ。きっと、きっとーー

「相原くんは、ピアノが弾けるだけじゃない」
水瀬はそう訴えた。
「優しくて、教えることが得意で、繊細で。相原くんには、いいところがたくさんあるよ」
そんな風に言われたことは、1回もなかった。
家族でさえも、「ピアノが上手い」としか言わなかった。
友達も、クラスメートも、僕のことを面倒くさがって。
でも、水瀬は僕を見てくれた。
僕の心を、見てくれた。
面倒くさがらず、嫌な顔をせず。
そういうところが、皆に好かれる要因なのだろう。
「ありがとう。でもな、水瀬」
「なに?」
「水瀬に会ってからは、変わった」
水瀬はきっと、僕というつまらない人間を色付ける絵の具のような存在だったのかもしれない。
真っ黒で、何も無い僕に色をつけて。
それから笑ってみせる、そんな少女だ。
僕という存在に、明るい光を与えてくれる少女だ。
「水瀬と出会ってから、昔の感覚が戻ってきた。それが、『ピアノが好き』に繋がるかはわからないけど…」
でも、探してみようと思う。
いつかの僕のような、「楽しい」という感情を。
そう思えたのは、水瀬のおかげだ。
「大丈夫。見つかるよ、絶対。私が保証する」
水瀬は、真剣な眼差しとは対照的にかっこよくキメたポーズをした。
「私はね、逆なんだ。音楽から力を貰ったの」
そう言って、水瀬は話し始めた。

私の足が消えたのはね、病気が原因なの。
最初に病気のことを知った時はショックだった。
大好きな運動が、二度と出来なくなるかもしれなかったから。
辛かったし、死にたかった。
でも、音楽を聴いたら違かった。
少しの間だけ、私を別の世界に連れていってくれた。
元気に走り回れた頃の私と、同じ世界に。
だから、手術が終わった後に、音楽の道に進もうと思った。
音楽を沢山聴いて、楽器にも少し触れて。
そんな時に、思い出したことがあった。
私は、そのかなり前から、音楽をやりたいって思ってたことに。
1年前の合唱祭の時に、伴奏を弾いてた人がいたの。
その人の音は、すごく輝いてた。
言葉では言い表せない程、綺麗な音だった。
あぁ、この人は音楽が大好きなんだな、って思った演奏だった。
名前もわからないし、顔も思い出せないけど。
その音色だけは、今も思い出せる。
だから私は、音楽の道を選んだ。
私に力をくれた音楽に恩返しをするためにも。
その音色を響かせていた人と、出会う為にも。

「…ていう感じかな」
「そんなことがあったんだな」
「うん。でも、病気には感謝してる。音楽に出会わせてくれたから」
自分を苦しめた病気のことさえも、「感謝してる」なんて。
僕なら絶対に言えない。
水瀬らしいな、と思った。
「それに、君とも会えたし、一石二鳥」
水瀬はそう言って、ニカッと笑っていた。
少し、水瀬を眩しく思う。
「僕を堕とす気か?」
「全く」
「即答するなよ」
先程の輝いた感情を返して欲しい。
そんなやり取りを交えたり、ピアノを弾いたりしながら、僕らの2週間はあっという間に過ぎた。

合唱祭前日の放課後。
僕は合唱祭の伴奏曲を弾いていた。
そして、その隣にはやはり水瀬がいる。
…以前より距離感が近い気がするのだが。
演奏を一通り終えた。
肩の力が抜けて、緊張から紐解かれる。
「あぁー、明日が本番だ……緊張する」
「相原くんも緊張するんだ」
「するよ」
僕は超人にでも思われているのだろうか。
そんな疑問を持った。
「水瀬は緊張する時、どうしてる?」
「うーん…」
水瀬は考えていた。
真剣に考えていた。
そんな姿が珍しくて、思わず見入ってしまう。
「大好きな音を思い浮かべる。あと、その音を出している人になりきる」
「大好きな音…って前言ってた合唱祭の時の、か?」
「うん」
「…なるほど」
「その人になりきるとさ、勇気が湧いてくるんだよ」
水瀬の横顔は、心做しか頼りになるものだった。
なんだか、水瀬らしいなとも思った。
「相原くんの好きな音は何?」
「僕の好きな音…?」
なんだろう。
僕は、好きな音があるのだろうか。
そうして暫く考え込んでしまった。
「好きな音がなかったら、逆に自分で自分が好きな音を出せるようにする、とか」
「…なるほど」
今の僕には、それが一番いいのかもしれない。
「そうしてみる。ありがとう」
「うん。頑張ってね」
水瀬のエールに、少し嬉しくなった。
「水瀬のクラスって発表順番何番目?」
「3番目」
「3番目か。僕のクラスは2番目」
「おっ相原くんの次かぁ、頑張ろっ」
「あぁ、僕も頑張らないとな」
本番前に、水瀬と少し話せるかもしれない。
水瀬が近くにいることが、こんなにも心強いだなんて。
僕にはもう、水瀬が居ないと駄目なんだな、と改めて思う。
「帰るか」
「うん」
音楽室のドアを開けてからしばらく。
僕らの空間には沈黙が流れていた。
こんなことも珍しい。
水瀬は、なにか考え事でもしているのだろうか。
…考え事。
『大好きな音を思い浮かべる』
大好きな音。
まだ、わからない、その音。
水瀬が聴いたその音は、光り輝いて美しかったのだろう。
聴いてみたいな、と思った。
水瀬の好きだと言うその音色は、果たしてどんな色をしているのだろうか。
「じゃあね」
水瀬のその声で、僕ははっとした。
僕らはもう、校門を出ていた。
僕は僕で考えふけていたらしい。
「明日、頑張ろうな」
僕なりのエールを、水瀬に送った。
水瀬はそれに、笑って答えた。

体育館には黒々と輝くピアノが置かれていた。
体育館のステージだけが照らされ、それ以外の場所は静けさと暗さに包まれている。
ついに、この時が来た。
合唱祭が。
僕と水瀬のクラスは2番目と3番目だから、もう準備をしなくてはいけない。
僕の目の前には、水瀬がいた。
向こうに行く前に、また「頑張ろう」と言おうかな。
そう思った。
けれど。
僕は水瀬の様子がおかしいことに気がついた。
手が震えている。
横顔で見えた唇は、真っ青だった。
「水瀬…?」
水瀬にだけ聞こえるように、僕は問いかけた。
水瀬は、そっと振り返った。
やはりその顔は、いつもとは違った。
何かに怯えているような顔をしている。
「具合が悪いのか?」
水瀬は、何も答えなかった。
代わりに、首を縦に1つ振った。
「…は、吐き気が…」
苦しそうに、僕の耳元に訴えた。
「待ってろ」
僕は、もう走り出していた。
頭の中にあるのは、ただ1つ。
「水瀬を助けなくては」
そんな脳内のたった一言の指示は、僕の体を動かすには十分だった。

少し水瀬のことが気がかりだったが、演奏に集中した。
この曲は、水瀬と共に創り上げた曲だから。
水瀬が、どこかで聴いていることを願って弾いた。
指揮者が指を振った後、僕は演奏に没頭していた。
ただ僕は、弾いていた。
鍵盤を叩いて、絶え間なく指を動かしていた。
しなやかに、滑らかに。
それでいて明るい音色を出して。
歌声が耳に心地よく響いて、それが幾つものハーモニーを生み出していた。
水瀬のことを、思い浮かべた。
水瀬のような、あんな明るさの音色。
そんな音色を出したい、と切に願った。
水瀬。
『相原くん』
そう、水瀬が笑顔で僕の名前を呼ぶ姿を思い浮かべた。
…僕はいつから、こんなに水瀬のことを考えるようになったのだろうか。
いつから、水瀬と話せると嬉しくなっていたのだろうか。
いつから、僕の隣に水瀬がいることが当たり前になっていたのだろうか。
曲という物語はクライマックスを迎えていた。
ソプラノの高音に低音パートの重低音が響き渡る。
最後の8拍間、声はただ響いていた。
ピアノは16分のリズムを延々と奏で続ける。
そして、最後の1音を弾き終えた。
指揮者は、手をゆっくりと下ろした。
物語の、終わりと似ていた。
そっと立ち上がり、礼をする。
拍手の波が、体育館中に響いた。

「水瀬、大丈夫か?」
合唱祭が終わり放課後になった時に、僕は水瀬の元へと向かっていた。
「…うん。大丈夫。ありがとう」
カーテン越しに、水瀬の声が聞こえた。
心無しか、いつもより元気がない。
「合唱祭、どうだった?」
水瀬は、努めて明るく問いかけていた。
「銀賞。水瀬のクラスは4位だった」
そう言って、カーテン越しに水瀬のことを見た。
「…ありがとう。調子悪いの、気づいてくれて…」
「誰だってそんな時はあるだろ。今は休んでろ」
「…うん」
水瀬は、そこから黙っていた。
沈黙が、長く響いた。
何か話そうか、それとも帰ろうか迷っていた時。
「私、音楽を、信じられてなかった」
水瀬はそう言った。
何もかも吐き捨てたような、そんな声色で。
「私さ、弱いんだよ。すごく弱い。相原くんみたいに何かあった訳でもないのに、音楽を信じてない。音楽の力を信じてない。障害者だからって理由で、信じられてない。あれだけ相原くんに偉そうに言っておいて…私…」
そう言った後には、鼻をすする音がした。
「…ごめん。私、相原くんと連弾、出来ないかも…」
「…え?」
暗い声色でそう告げられた言葉に、僕はただ呆然としていた。
あの、ピアノを共に練習していた日々を思い出す。
水瀬は、音楽を愛していた。
違う。水瀬は、信じられてないんじゃない。
言葉にしたいのに、唇だけが虚しく震えた。
「練習はする。でも、本番になったら、またさっきみたいになるかもしれない。相原くんに、迷惑かけるかもしれない。だから…」
その後の言葉は察してくれ、と言うように、水瀬はその後の言葉を言うことを躊躇った。
「私なんかに付き合ってくれてありがとう。ごめんね。こんなに弱くて」
そう言って、水瀬はカーテンを握りしめていた。
その握り方は、いつかとは全く対になるものだった。
「水瀬…」
僕は、何かを言おうとしていた。
けれど、それが何かは自分でも知り得なかった。
何を、伝えたいのだろう。
伝えたいことがわかっているはずなのに、わかっていない。
そんな不思議な感覚に犯されて、僕はその場を去っていた。
走っている間も、水瀬のことを考えていた。

水瀬は次の日から音楽室に来なかった。
学校には普通に行っているらしいが、練習には来ていなかった。
1人での練習。
いつものことのはずなのに、いつもの事ではなくなっていた。
それほど、僕にとって水瀬は、大切な存在になっていたのだろう。
…水瀬。
大丈夫だろうか。
明日、クラスにいってみようか。
…いや、今はそっとしておこう。
水瀬には、水瀬なりの考えがあるのだろうから。

文化祭まであと2日となった。
かなり水瀬のいないピアノ連弾に慣れた。
そんな時。
コンッ、コンッ
久しぶりのノック音に、胸がドキリと鳴った。
振り向くと、人影があった。
思えば、水瀬と出会った時も、こんな感じだったなと思った。
ドアを開ける。
そこには、水瀬がいた。
久しぶりの水瀬の姿に、僕は嬉しくなっていた。
「久しぶり」
僕は水瀬に、そう言うことしか考えられなかった。
僕には、伝えることが難しい思い。
水瀬の目は赤く腫れていた。
きっとそれは、水瀬自身が闘った証拠だろう。
「…ごめん。私っ…」
「いいんだよ。今は。ピアノ、弾ける?」
また目を濡らして謝ろうとする水瀬に、僕はそう言うことしか言えなかった。
水瀬は、こちらをじっと見た。
「弾けると思う。たぶん」
「じゃあ、弾こう」
僕は、水瀬の手を引いてピアノへと向かっていた。
水瀬の手は思っていたより冷たかった。
その温度が、ピアノに対する気持ちでないことを祈った。

「水瀬」
「…なに?」
一通り弾き終えたが、水瀬の音には違和感があった。
言葉では伝えづらい。
けれど、確かにいつもと音が違ったのだ。
「…音が、いつもと違う」
「…ごめん」
「謝らないで」
今日は、本調子ではないのかもしれない。
そう思った。
「…今日はやめる?明日もあるから」
「…そうしようかな」
水瀬の顔には、明るさがなかった。
いつもの明るさも、笑顔も何もなかった。
まるで、昔の僕がそこにいるかのような感覚を覚えた。
帰りの時も、水瀬はずっと無言だった。
僕は明るくピアノについて語っていたけれど、水瀬には届いていなかったようだった。
前の僕が、そこにはいた。
暗くてピアノが大嫌いな僕が、そこにはいた。

次の日。
水瀬のクラスであるA組に行った。
けれど、水瀬はいなかった。
友達と話している様子もなかった。
水瀬のクラスメートに聞いてみても、「今日は休みだ」ということだった。
明日が本番なのに。
案の定、音楽室にも来なかった。

そんな黒雲が心にかかったような気持ちのまま、文化祭を迎えた。
前までの僕と水瀬だったら、意気込んで直前までピアノを弾いていただろう。
けれど、水瀬はいなかった。
学校にも来ていなかった。
水瀬に何度かメッセージを送ったが、既読無視だった。
もう、ピアノが好きではなくなったのだろうか。
文化祭のお祭りムードも、僕にとっては寂しいものだった。
「相原さん、店番お願い」
「あ、うん」
接客担当を任された僕は、簡易レジの前に立った。
きっと、水瀬がこの担当をやるとするなら、お客さんと少し話したり、来てくれた友達と笑い合ったりしていたのだろう。
『大好きな音を思い浮かべる』
ふと、水瀬のそんな言葉を思い出した。
大好きな音。
結局自分でも出せず、見つけることも出来なかった音。
昔はあったような気がする音。
もしかしたら、もうあるかもしれない音。
…もうあるかもしれない?
はっとした。
そうか。
わかった。僕の好きな音。
そうだ。僕の好きな音は。
「ごめん!誰か店番頼む!」
僕はいても立っても居られず、廊下を走っていた。
走りながらスマホを操作し、水瀬に電話をかけた。
電話を繋げているコール音が、長く響いた。
長く、無心に。
プツリと音が鳴ったのを聞き、僕は無意識に話し出していた。
「水瀬、今すぐ学校に来い。早く」
水瀬は、何も話していなかった。
「僕は、水瀬のおかげでピアノを好きになることが出来た。ピアノの愛し方を知った。昔の自分のようになれた」
僕は走りながら、言葉を続ける。
どこに向かっているかもわからず。
「わかった。水瀬の言ってた『大好きな音』が。わかったんだ。水瀬、僕の好きな音はーー」
僕は、水瀬にだけわかるように。
耳元で呼びかけるように言った。
ずっと探していた。
僕の好きな音はなんだろうと。
僕がピアノを弾く意義はなんだろうと。
今、やっと答えが見えた。
その先の答えを聞いた水瀬は、息を飲み込んでいた。
そして、プツリと音が鳴った。
電話を切られてしまった。
ただ、信じた。
水瀬が来てくれることを信じた。
大丈夫だ。
水瀬なら来る。来られる。
水瀬はあんなにピアノが好きだったのだから。
今は、ピアノが好きではない時期なのかもしれない。
けれど、あんなにピアノが好きな時期があったのだから。
あんなに、ピアノにひたむきになった時があったのだから。
ただただ、走っていた。
どこに向かっているかはわからない。
僕の意識に合わせて、体は勝手に動いていた。
何分か走ったところで体が限界を迎え、息が切れた。
呼吸音が、僕の耳にまとわりついた。
1つ。
…2つ?
僕は顔を勢いよく上げた。
そこにいたのは。
水瀬だった。
水瀬が、いた。
「澪っ!」
僕は水瀬の元へ駆け出した。
そして、抱きしめた。
「澪っ…ありがとうっ…来てくれて…頑張ったな…澪っ…」
僕の肩が、濡れた感覚がした。
その後、水瀬は慌てふためいた声を発した。
「あ、相原くん…嬉しいんだけど、その……一旦離れてくれる…?」
水瀬のその一言で、僕はハッとした。
慌てて水瀬から離れる。
…やってしまった。
「…ごめん、本当にごめん!つい、水瀬が来てくれて、嬉しくなって…」
水瀬はキョトンとした顔をしていた。
これは、本当にやってしまったかもしれない。
けれど。
水瀬はニヤリと笑って。
こう言ったのだった。
「謝罪の気持ちは音色で表現して?」
そう言って、指を指した。
その方向には、音楽室があった。
水瀬も僕も、無意識の内にここへ向かっていたということに気がついた。
…やっぱり、僕と水瀬は同じなんだ。
「楽譜はあるよな?」
「決まってるでしょ」
「じゃあ練習開始だ」
そう言って僕らは、太陽に照らされたピアノへと向かった。
水瀬の顔は、何かに吹っ切れたような笑顔だった。

水瀬の音は、前の時よりも明るい音色だった。
「いい音だな」
「…ふふっ、ありがとう」
水瀬はくすぐったそうに笑った。
「練習、もう大丈夫か?」
「うん。体育館、行こうか」
僕と水瀬は、体育館へと向かっていた。
その間、水瀬はずっと話していた。
ピアノのこと、音楽のこと。
僕のことを。
それが、前の水瀬に戻ったような感覚になって、嬉しかった。
僕もその話に乗っかって、一緒に水瀬と話していた。
そして、笑い合っていた。
…こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
水瀬と過ごす煌びやかな時間が、もっと続けばいいのに。
もしかしたら、これが僕らの最初で最後の連弾かもしれない。
隣で笑う水瀬を見た。
明るい笑顔だった。
…水瀬は、もう僕がいないても大丈夫なのだろうか。
演奏前だというのに、僕の心はそんなことを冷静に考えていた。

体育館の人工的に輝くステージの裏側で、僕らは密かに出番を待った。
3分程、待っている。
その間も静かに、僕らの会話は続いていた。
「…うぅ、緊張するぅー」
「大丈夫か?」
「うん。緊張はするけど」
「よかった」
『ーーダンスクラブの皆さん、ありがとうございました。』
「あ、そろそろ出番だね」
「あぁ」
「…相原くん」
「なんだ?」
「…ありがとう」
「もう何回も聞いた」
「そうだね、あははっ」
「水瀬」
「なに?」
「これからも僕とーー」
『続いては、cantabileさんのピアノ連弾です』
「…もちろん、に決まってるでしょ?」

演奏時間である4分間は、僕の人生において1番短かった。
演奏を見に来ている人は少なかったが、それでいいと思った。
これは、僕と水瀬がいれば完成するステージなのだから。
水瀬は、本番前に言っていた。
「私ね、賞を取れる演奏も、素敵だとは思うけど…」
1番は、この演奏を聴きに来てくれた人の記憶に残る演奏がしたい。
その言葉は、輝いていた。
ピアノを愛しているからこそ出せる、言葉だろう。
「記録よりも記憶に残る演奏を、か」
「うん。そういうこと」
「いいな、それ」
隣にいる水瀬のことを見た。
水瀬は、笑っていた。
水瀬の右足は、厚めの肌色タイツでカバーされている。
それは僕も似たような状況だった。
この秘密をお互いに知っているのは、僕らだけでいい。
そう思ったからだ。
その笑顔を見てから4拍後。
僕らは演奏を始めた。
最初はユニゾンで始まるこの曲。
僕らは息ぴったりに弾いていた。
その息の合いように、僕らは笑みを零しながら演奏を続けた。
僕らは鍵盤上の踊り場の上で、指を踊らせていた。
絶え間なく、滑らかに、しなやかに。
踊り場で踊る水瀬の指は、人のようだった。
軽やかなメロディで踊る、人となっていた。
きっと水瀬もその指と同じような気持ちで曲を弾いているのだろう。
水瀬は、楽しそうだった。
あの文化祭の前日の様子なんて感じさせないくらい、楽しそうだった。
そんな水瀬を見て、僕まで楽しくなっていた。
奏でるハーモニーは体育館中を伝っていた。
僕らは、それが聴く人の心に響いてくれることを願う。
この曲には、願いがある。
届けたい思いがある。
それはきっと、この会場にいる人に届けるべき思いなのだろう。
けれど、僕は。
僕が伝えたい相手は、違う。
隣にいる人ーー水瀬澪。
この思いが、願いが。
どうか君に届きますように。
演奏が終わった瞬間、僕らは顔を見合わせた。
そして、笑い合った。
それと同時に、拍手は天井高く響いた。
その音の大きさに、僕らはお互いに驚いていた。
「水瀬」
そう言って僕は、高く手を上げた。
「ハイタッチ、しよう」
水瀬は、驚いた顔をした。
音の消える体育館。
けれど。
その後は、笑って。
手を高く掲げた。
パンっという音の後、拍手はまた、更に濃く響いた。
僕らは外を見た。
外には、演奏を聴いていたであろう人達が沢山いた。
「水瀬」
「なに?」
不思議そうにこちらを見た水瀬に、僕はこう告げた。
「僕は、ピアノが大好きだよ」

演奏の後、どこに行くわけでもなく僕らは騒ぎが遠く聴こえる校庭の隅にいた。
「なんか、あっという間だったね」
「あぁ、楽しかった」
「…相原くん」
「なに?」
「私を…」
水瀬は、黙ってしまった。
言葉では伝えづらいことなんだと思う。
水瀬は実は、伝えることに不器用なのかもしれないな、と思った。
「私を、ピアノが好きな人間にしてくれてありがとう」
水瀬は、少し照れた感情を交えながらもそう言った。
その表情に、僕は戸惑いを隠せない。
「…頑張ったのは水瀬だろ?」
「でも、私、相原くんの言葉のお陰で目が覚めたんだよ」
あの時の、電話での言葉。
『僕が一番好きな音は、水瀬の音だ』
僕は水瀬にそう言った。
嘘ではない。
なぜなら、僕はずっと水瀬のことを思ってピアノを弾いていたのだから。
ずっと、気がつかないでいた。
近くにある幸せの存在に、気がつけていなかった。
「…まあ、そうなら良かった」
「ふふっ、素直じゃないなぁ」
そう言って水瀬は笑っていた。
その笑顔は、天真爛漫な、あの時と同じ笑顔だった。
初めてあったあの日の、笑顔のまま。
水瀬は、変わらないな。
いや、変わらないでいてほしい。
僕の好きな水瀬は、明るくて、素直で、ピアノが大好きで。
笑顔が世界一似合う少女だから。
「私さ、思い出したよ」
「何を?」
「去年の合唱祭で伴奏を弾いてた人のこと」
きっと、僕の電話での言葉で思い出したのだろう。
「君だったんだよ」
「え?」
衝撃的なその言葉に、僕の反応は戸惑ったものとなっていた。
「はっきり思い出した。歌の前に、伴奏と指揮者の名前が呼ばれるでしょ?」
その時にね、進行役の人はこう言ってたんだよ。
『伴奏 相原湊太ーー』
素敵な名前だなって思った。
なんでそんな素敵な名前を忘れてたんだろうって思いもした。
私って、ばかだなぁ。
「…記憶違いじゃないか?」
「いや、そんな訳ない。私、最初に相原くんの音を聴いた時に、あ、あの時の音と似てるなーって思ったもん。で、さっきの演奏を聴いて確信した」
「まじか」
少し、意外だった。
確かにあの時の僕は、ピアノが大好きで、ピアノをずっと弾いていたいくらいの人だったから、そんな音だったのかもしれない。
…と、唐突に僕も思い出した。
初めて見た時に襲われた、あの感覚。
どこかで見たことがあるような気がした、そんな感覚を今、確かに感じた。
僕が何故、水瀬を見たことがあったのか。
それは。
水瀬が、僕の演奏を一番前で聞いてくれていたからだ。
あの時、合唱が終わった時。
その時の僕は、確かなる達成感を感じていた。
その時にふと目が合ったのが、水瀬だったのだ。
そして水瀬は、にっこりと笑って拍手を僕に送ってくれた。
きっと、あの時の一瞬で水瀬を覚えるのを僕の脳は苦と感じなかったのだろう。
…本人を見てすぐに思い出せなかったのは盲点だったが。
「なんかさ、運命的だよね」
水瀬は、呟くように、そう言った。
水瀬の表情は、僕が前に同じ言葉を言った時のような顔をしていた。
「私が憧れてた音を出していた人と、知らない内に連弾してて、そこから絆が生まれて…ほんと、運命だよ」
水瀬は、穏やかに笑った。
その笑顔は、何を思っていたのだろう。
そんな妙な安堵感の後、水瀬は突如立ち上がった。
「さぁて、次の連弾の曲はどうする?」
「もう決めるのか」
「だって、君がやりたいって言ったんじゃん」
本番直前の、あの時。
僕は水瀬に言った。
『これからも、僕と連弾をしてくれませんか』
本心だった。
僕はもう、水瀬がいないピアノなんて考えられなくなっていた。
ピアノを弾いている時の嬉しそうな表情も。
上手く弾けなかった時の少し怒った顔も。
僕に見せてくれる温かい笑顔も。
水瀬の全てが温かくて、大切で。
本当に僕には、水瀬が大事な存在となっていた。
「そうだな」
「私、調べたんだよ?一緒に聴いてみようよ」
水瀬はスマホを取り出して、色々曲を出していた。
一緒に曲を聴いて、意見を言い合って。
僕らにぴったりな曲を見つけると、少し嬉しくなって。
僕らはただ、聴き続けた。
時間も忘れて音楽に没頭した。
僕は次に、水瀬に何を伝えよう。
水瀬に、どんな思いを言いたいのだろう。
隣にいる水瀬を見た。
水瀬は、不思議そうにこちらを見ていた。
「澪」
僕は自然と言葉にしていた。
無意識に、無心に。
「澪に会えてよかった」

ーー「ねぇねぇ、この学校の文化祭の伝説って知ってる?」
「知ってる!私、聞いた!」
「確か、文化祭の日にピアノを弾くと恋が実るって言うやつでしょ?」
「そう、それ!」
「4年前くらいにピアノの連弾やってた人達がいたんだよね。それが元なんでしょ?」
「名前…なんだっけ?」
「相原湊太って言う人と、水瀬澪って言う人だったよ」
「あれ?その相原って言う人って…」
今年入った音楽担当の先生と同じ名前だね。
ーー4月に教師となって、半年が経った。
初めて音楽を教える場所が母校だなんて、少し面白いな、と思ったりするけれど。
担任を持っていないし、ただ音楽を教えているだけの身だけど、生徒が少しでも音楽に興味を持ってくれたら、と思う。
「相原先生、定例会議なので職員室に」
「わかりました」
職員室へと向かう。
その間も、「相原先生」と声をかけられたりした。
この職業にら就けてよかったと思う。
やりがいがあるし、何より、教えることが好きだから。
教えることが好きになったのは、きっと、あの時から…。
職員室のドアを開けると、既に皆集まっていた。
「早川先生に代わって2年C組の担任になる先生の紹介をします」
人が集まっているせいで、その人の顔が全くわからない。
「今日から2年C組の担任になります」
どこかで聞いたことのらある声だった。
「水瀬澪です」
その名前で、記憶が鮮明に蘇った。
あの夏の日からずっと、ピアノを一緒に弾いていた仲間。
それでいて僕の、初恋の。
顔がちらりと見えた。
髪は前よりかは伸びていてゴムで縛っているものの、顔立ちはあまり変わっていなかった。
少し大人びた雰囲気が添えられて、澪は更に綺麗になっている。
澪の自己紹介が終わり、会議が終わった後、僕は澪に話しかけられずにはいられなかった。
「水瀬先生」
澪は振り向いた。
「僕だよ。覚えてる?」
澪は、不審者を見るような顔をした。
「誰ですか?」
「僕。相原湊太」
「…?」
澪はそれでもわからなそうな顔をしていた。
あれ、別人だった…?
「いや、すいません。わからないです」
「…すいません。人違いだったっぽいです」
水瀬…さんは、去っていった。
心做しか、その肩が震えているような気がした。
「…なーんてね、覚えてない訳ないでしょ?」
澪は振り向いて、笑いながら言った。
天真爛漫な、あの時と同じ笑顔だった。
「もう、湊太がそう言うから本当っぽくなっちゃったじゃん!」
澪は怒ったように僕に言っていた。
けれど、それが怒っていないということに気がついているのは、僕と澪だけだろう。
その怒った表情すら、懐かしく感じてしまう。
「…いや、ごめんって」
僕なりの謝罪の言葉を澪に向けて発した。
「いやぁ、気づくと思わなかったなぁー、意外と鋭いね、相原せーんせっ」
からかうようにそう言う澪を見て、僕はムッとした。
…まあ、本当は少し嬉しいのだけど。
「…その言い方やめろよ」
「なんで?さっき湊太言ったよね?『水瀬先生』って」
「…いや、あれは…一応そう言った方がいいかなって」
「だから私もいいですよね?相原せーんせっ」
「…恥ずかしいからやめろよ…」
久しぶりの再会。
澪は、変わっていなかった。
まさかここで出会うとは思っていなかったな。
過去の僕に言ったら、驚くだろうか。
…僕と澪は、君が今通っている学校で教師としてお互いに働いているよ。
澪は変わってない。
だから、安心して。
昔の僕が望んでいたこと。
それは、叶っていたようだった。
澪も僕も変わらず、あの時のままで。
人は変わった方がいい、とも言うけれど。
僕はそうであって欲しくないと願う。
変わってしまったら、寂しいから。
隣にいる澪の体温が、温かく感じた。
僕らはまた、あの時と同じように笑い合っていた。
「あ、いた!相原先生ー!」
生徒の声と上履きの音が、廊下に大きく響いた。
「…?どうした?」
「先生って、文化祭の伝説、知ってますか?」
伝説だなんて今どきの女子高校生らしくないな、とも
思った。
「いや、知らない」
「文化祭の日にピアノを弾くと恋が実るっていうやつです!」
「あれって『相原湊太』っていう人と、『水瀬澪』っていう人が連弾して出来た伝説らしいんです!」
隣にいる澪は驚いた顔をした後に、恥ずかしそうにしていた。
僕もその話を聞いて恥ずかしくなる。
誰だ、そんな噂作ったのは。
「先生と同じ名前ですよね!?」
「先生なんですか!?」
生徒がどんどん僕に近づいてくる。
至近距離での会話に、咳払いをした。
「…質問は1つずつ」
「「先生なんですか!?」」
2人の生徒は、声を揃えて言った。
「…違うよ。僕はここの高校出身じゃないし」
「…えぇー、つまんないのー」
「ほらほら、もう帰る時間だぞー」
もうこれ以上この話をすると、バレそうだったので、生徒を昇降口の方へと誘導する。
渋った顔をして、生徒は帰ろうとした。
「ていうかその隣の美人って彼女さんですか!?」
「確かに!私もそれ聞こうとしてた!」
恐らく、澪のことだろう。
澪は顔を赤くしている。
どう言えばいいのか。
「…そうだよ」
もうこれ以上何かを言うと色々とバレそうだったので、そういうことにしておいた。
それに、僕の初恋の相手は、澪だし……
…後で色々聞かれるのは面倒だが。
「…えぇー!嘘っ!」
「聞いておいてその反応はどうなんだ」
「すみませんっ」
生徒との楽しいやり取りの後、僕は澪の方を向いた。
「あれって本気?」
もの凄く嫌そうな顔をして澪は言った。
そんなに嫌だったのだろうか。
「…さぁ、どうだか」
「私に彼氏がいたらどうするの?」
「…え?」
澪はかなり真剣な顔でこちらを見る。
え、本当にどうすればいいんだ?
「…ま、いないけどー」
「…びっくりした」
安堵して、僕は胸を抑えた。
心臓に悪いぞ、ほんと…
「だって、私は…」
澪はそう言って、言葉を発するのをやめた。
顔がまだ、赤みを帯びている。
「なんだ?」
「…やっぱり言うのやめます。相原先生っ」
「…だからやめろって、その呼び方」
からかってそう呼ぶ澪のことを見て、僕はまた笑っていた。
こんなに笑うこと、中学生の時はなかったのにな。
変えてくれたのは、きっと。
君なのだろう。
…人が変わることも、悪いことではないらしい。
「あ、そうだ」
澪は持っていた鞄の中から本を取り出した。
…本?
「この本の曲の弾き方がよくわからないんですよー」
そう言って水瀬は僕のことを見た。
その本は、いつか僕が、澪にあげた教則本だった。
所々傷が見えるものの、全体的に見れば綺麗だった。
…まだ持っていてくれたのか。
思わず胸が弾み、僕は笑ってしまった。
「音楽の先生だし、教えてくれますよね?相原せーんせっ」
僕の『音楽の先生』という肩書きを乱用した例である。
僕は溜息を吐息に混ぜた。
けれど、それが本心こらの溜息ではないことに、澪は気づいているだろう。
「しょうがないな…」
「やったぁ!なんなら久しぶりに連弾でも…」
「それはまだ駄目」
「『まだ』?」
「まだ」
そして僕らは方向を変え、音楽室へと向かっていた。
それはあまりに自然で、必然的なことだった。
僕も、澪も。
音楽が好きなことに変わりはないらしい。
音楽室までの道のりは、とても短かった。
ドアを開け、ピアノの蓋も開ける。
そこを開けたと同時に、思い出も飛び出したような感覚を覚えた。
このピアノには、僕の青春が詰まっている。
澪は、隣に座っていた。
その状況も、表情も、昔と変わりがなかった。
それに安堵した僕は、澪の楽譜を開いた。
ふと、カサっという音を立てて、楽譜が落ちた。
それを拾う。
それは、あの時と同じ連弾の楽譜があった。
「ふふーっ、はい、騙されたぁー」
「…ここまで凝らなくてもいいだろ」
「はいはい、言い訳はいらないでーす」
澪は勝ち誇った顔をして、こちらに向いた。
「っていう訳で、やろうか」
「どんな訳だよ」
「まあまあ、細かいことは気にしない」
澪は、あの時と同じ場所に手を置いた。
それにつられて、僕も同じように手を置いた。
もちろん、手袋を外して。
澪の前でしか見せたことよないそれを顕にした。
澪は、自慢げな顔をしている。
…後でからかってやろう。
「はい、テンポ124でね」
「速くないか?」
「いーのいーの!」
「…どうなっても知らないぞ」
「大丈夫だって!…いくよ?……1.2…」
ユニゾンで始まるこの曲。
そのユニゾンは、僕らの心の合わさりようを表しているようだった。
割と息ぴったりな僕らの演奏に、僕らはお互いに笑い合った。
澪は、楽しそうだった。
ピアノを弾くことに、喜びを感じているようだった。
そんな澪の様子を見て、僕までもが嬉しくなっていた。
ふと、澪の右足が、僕の左足にトンッと当たった。
気のせいかな、と思っていたら。
水瀬はペダルを一緒に踏み始めた。
ぎこちなく、けれど確かに。
そのことに、少し驚愕した。
右足、なのに。
消えた、右足であるはずなのに。
無意識に、澪を見た。
澪は、先程よりも自慢げに笑っていた。
…克服、出来たんだな。
心の中で、僕は笑っていた。
それはきっと、僕の表情にも出ていただろう。
響くハーモニーは、僕らの心に静かに浸っていった。
ピアノの音色は、2色に別れて、また繋がった。
そんな感覚に、僕らはうれしくなっていた。
澪。
僕は口下手だから、言葉には出来ないけれど。
この曲を通して伝えたい。
ありがとう。
ありがとう。

僕は、ピアノが大好きだ。


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