コメディ・ライト小説(新)

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その別れ、買います!
日時: 2026/02/01 08:05
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

今回も短編にさせてもらいました。といってもこれは、中学生のころに黒歴史をなくしたいとか思って書いたものをもとにして書いたので、今までとはちょっと違う感じかもしれません。全7章構成です。

第1章:記憶のショーケース
 「本日のレートは、青春群が1キロバイトあたり0.8クレジット。恋愛カテゴリー、特に『成就しなかった初恋』は現在需要が高まっており、ボーナスがつきます」

 無機質な合成音声が、清潔すぎてかえって不気味な店内に響く。  カイはカウンターの硬い椅子に深く沈み込み、目の前のホログラムディスプレイを眺めていた。そこには、彼が今日「売りに出す」と決めた記憶のリストが、淡い光を放ちながら並んでいる。

「……『高校時代の初恋』。これをいくらで買ってくれる?」

 カイの問いに、受付の型落ちアンドロイドが首を傾げた。その関節が動くたび、かすかに油の切れたような金属音がする。 「スキャンを開始します。対象の記憶をフォーカスしてください」

 カイは目を閉じ、意識を脳の奥底へと沈めた。  埃っぽい放課後の図書室。窓から差し込む斜陽が、古い床のワックスを黄金色に焼いている。古い紙の匂い。そして、向かい側の席で髪を耳にかけていた少女の横顔。  ――「あなたは私の宝物よ」  不意に、別の、もっと深い場所にある母の声が混ざりそうになり、カイは慌てて意識を切り離した。今は「初恋」に集中しなければならない。

「――抽出準備完了。保存状態は良好。純度82パーセント。査定額は1,200クレジットです」

 画面上の「SELL」ボタンを指先で弾く。  一瞬、こめかみの奥を冷たい針で刺されたような感覚が走り、数秒後、目を開けたときには――少女の愛らしい仕草も、胸の痛みも、すべてが消失していた。  覚えているのは、「自分には初恋があった」という事実という名のインデックスだけ。色彩を失い、中身が抜き取られた空っぽのフォルダが、脳内の書棚にひとつ増えた。

 店を出ると、カイは足早に近くの居酒屋『バックアップ』へ向かった。そこは、記憶を売って小銭を得た連中が、その寂しさを紛らわすために集まる吹き溜まりだった。

「よう、カイ。今日もまた自分を削ってきたのか?」

 奥のボックス席で、友人のタケルが合成ビールのジョッキを掲げた。彼はカイの数少ない「昔からの知り合い」だ。  カイは黙って向かいに座り、届いたばかりの安酒を煽った。

「……ああ。初恋を売った。意外と高かったよ」

「初恋か。ったく、お前、そのうち自分の名前も忘れちまうんじゃないか?」  タケルは笑い飛ばしたが、その目は笑っていなかった。彼は身を乗り出して尋ねる。 「なあ、覚えてるか? 十年前、俺とお前と、あいつ……ほら、サトシの三人で、夜の海までチャリを飛ばした時のこと」

 カイはグラスを持ったまま、動きを止めた。  記憶のライブラリを検索する。サトシ。海。チャリ。 「……ああ、行った気がする。海、だったな。暗くて、波の音がしてた」

「それだけかよ。あの時、サトシが波打ち際で転んで、携帯沈めて泣きべそかいて。俺たち腹を抱えて笑っただろ。俺、あの時のお前の笑い顔、今でも覚えてるぜ」

「……そうか。サトシは、泣いてたのか」  カイは自分の声が冷たく響くのを感じた。  事実としての情報は残っている。だが、その時の「おかしさ」も、友人との連帯感も、もうエモーションとして再生されない。一ヶ月前に「友人とのバカ騒ぎ」の記憶をまとめてバルク売却してしまったからだ。

「……冷てえな。お前、どんどん人間じゃなくなってくみたいだ」  タケルが寂しそうに目を逸らした。 「俺は、どんなに貧乏しても『楽しかった思い出』だけは売らねえよ。それがなくなったら、今ここにいる俺が、偽物になっちまう気がするんだ」

 タケルの言葉が、棘のようにカイの胸に刺さった。  偽物。  今の自分は、過去という重しを捨てて軽くなっただけの、ただの薄っぺらな器ではないか。

「……じゃあ、もし。お前の『大切にしている記憶』が、誰かにとっての価値に変わるんだとしたら、お前はどうする?」 「そりゃ、売りはしねえよ。絶対にな」

 カイはポケットの中で、家賃の催促通知が表示された端末を握りしめた。  タケルには、守るべき家族がいる。自分には、もう何もない。  いや、一つだけ。  脳の最深部、厳重にロックをかけた「秘蔵フォルダ」に眠る、あの記憶。

『母との、最期の会話』

 タケルと別れ、一人アパートへ帰る道すがら、カイは夜空を見上げた。  星など見えない。街の強力なホログラム広告が、人々の「欲しい記憶」を夜空に投影している。  ――「理想のバカンス体験、一時間からレンタル可能!」  ――「失恋の痛み、即座に消去。メンタルケアの決定版」

 誰もが自分の心を編集し、都合のいい自分を演じている。  カイは自室に戻り、枕元の小型スキャンデバイスをこめかみに当てた。

「……ごめんよ、母さん。俺、もうこれしか残ってないんだ」

 母の優しい声。 「あなたは私の宝物よ。何があっても、自分を信じて強く生きて」  その言葉が、今の自分にはあまりにも眩しすぎて、重すぎた。  これを手放せば、カイという人間を証明する物語は終わる。だが、生き延びるためには、自分という物語の「結末」を売るしかない。

 翌朝。  カイは決意を固め、昨日とは違う、街で一番大きな記憶買取センターへと向かった。  あの日、病室で交わした「愛の言葉」を、最も高く買ってくれる場所へ。

第2章:拒絶された聖域
 街で最も高いビル、その最上階にある記憶買取センター『エターナル・アーカイブ』。そこは、カイが通う路地裏の質屋とは何もかもが違っていた。  全面ガラス張りのロビーからは、記憶を削りながら蠢く街の全景が見渡せる。訪れる客はみな、高価なスーツに身を包み、自らの高潔な思い出を投資信託のように預けに来るエリートばかりだ。

 カイの薄汚れたジャケットは、そこではひどく浮いていた。

「――いらっしゃいませ。プレミアム査定をご希望ですね?」

 現れたコンシェルジュ・プログラムは、実体を持たない流麗な光の輪として浮遊していた。カイは渇いた喉を鳴らし、震える声で告げる。

「……『母との惜別』だ。純度の高い、無償の愛の記憶。これを、最高ランクで査定してくれ」

「承知いたしました。専用のディープ・スキャン・ポッドへどうぞ。当センターのAI『ムネモシュネ』が、お客様の魂の真実を精密に測定いたします」

 卵型のカプセルに身を横たえると、無数のセンサーがカイの頭部を優しく包み込んだ。  視界が暗転し、穏やかな音楽が流れる。  カイは意識を集中させた。一番奥の、一番大切な箱を開ける。

 ――夕暮れの病室。  窓から差し込む斜陽が、母の痩せた頬をオレンジ色に照らしていた。消毒液の匂い。規則正しい心拍音のモニター。母の手は驚くほど軽くて冷たかったけれど、カイを握る力だけは確かに残っていた。  母は酸素マスクを少しだけずらし、微笑んで言った。  『あなたは私の宝物よ。何があっても、自分を信じて強く生きて』  その声を聞くだけで、カイの胸の奥は温かい何かで満たされる。タケルに「人間じゃなくなっていく」と言われても、この記憶がある限り、自分は愛された人間なのだと確信できた。

 (これなら……これなら、数百万クレジットにはなるはずだ。そうすれば、やり直せる)

 だが、その時だった。

『――警告。データに致命的な不整合を検知』

 脳内に、耳を劈くような警告音が鳴り響いた。  穏やかだった病室の風景が、テレビの砂嵐のように激しく乱れる。母の優しい笑顔が左右に引き裂かれ、ノイズの向こう側に「何か」がのぞき見えた気がした。暗く、冷たく、形容しがたい嫌悪感を伴う「何か」が。

「おい、どうした? 装置の故障か!」

 カイはカプセルから飛び出した。心臓が早鐘を打っている。  しかし、コンシェルジュの返答は、吹雪のように冷酷だった。

「装置に異常はありません、お客様。……残念ながら、ご提示いただいた記憶は『非真正データ(アンオーセンティック)』として分類されました。買取不可、および市場への流通禁止措置をとらせていただきます」

「……なんだと? 偽物だっていうのか? 俺が、この二十年間、肌身離さず守ってきたこの思い出が!」

「本システムは、感情の波形とニューロンの結合パターンを解析し、その記憶が客観的事実に基づいているかを判別します。お客様の提供された記憶は、後天的に、強力な自己防衛本能によって『上書き・修正』された形跡があります。……俗に言う、捏造(ねつぞう)です」

「ふざけるな!」

 カイはコンシェルジュの光を振り払い、センターを飛び出した。  エレベーターを降り、雑踏に紛れても、足の震えが止まらない。

 (偽物? 母さんのあの言葉が、作り物だって?)

 ありえない。もしあれが嘘なら、自分を支えてきた二十年間は何だったのか。自分は何を根拠に「自分」を保ってきたのか。  カイは気づけば、またあの居酒屋『バックアップ』の前に立っていた。しかし、中に入る勇気はなかった。タケルの顔を見れば、自分が「偽物の塊」であることを見透かされそうな気がした。

 彼は街の裏路地、電子部品の死骸が転がる一角にある、非合法の記憶修復師「ジジ」の店を訪ねた。  ガラクタの山に囲まれた地下室で、脂ぎった髪の老人が、古いモニターを眺めていた。

「へぇ……『エターナル・アーカイブ』に弾かれたのか。そいつは相当、根の深い嘘を抱えてる証拠だぜ」

「……治せるのか。本当の記憶に戻せるのかよ」

 ジジは葉巻をくゆらせ、ニヤリと笑った。その瞳には、残酷な好奇心が宿っている。 「治す? 違うな。剥がすんだよ、その綺麗な化けの皮を。だがな、あんた。一度剥がしちまったら、二度と元の『綺麗な思い出』には戻れないぜ。地獄の蓋を開けるようなもんだ。それでもいいのか?」

 カイは、自分の右腕を見た。  そこには、家賃滞納による「強制徴収」のカウントダウンが表示されている。あと六時間。  どのみち、このままでは自分は「無」になる。

「……やってくれ。俺が信じてきたものが嘘なら、俺はもう、自分が誰なのかさえ分からない。本当のことを知って、死にたい」

 ジジは肩をすくめ、カイの頭に古びた電極を繋いだ。 「いいだろう。じゃあ、ダイブするぜ。あんたの脳が、あんたを守るために必死に隠した――『真実』の地層までな」

 強烈な電気ショックと共に、カイの意識は泥濘(ぬかるみ)のような深淵へと沈んでいった。  第1章で売った「初恋」の空っぽな穴を通り抜け、もっと深く、もっと暗い、彼が二十年間一度も開けなかった「重い鉄の扉」の前へ。

 カイは震える手で、その扉の取っ手に触れた。  瞬間に、記憶の壁が剥がれ落ちる。  美しい夕暮れの色が、どす黒い夜の色へと反転し、母の穏やかな声が、呪詛のような響きを帯びて変貌していく。

第3章:書き換えられた残酷
 鉄の扉が開いた瞬間、脳内を襲ったのは、暴力的なまでの冷気だった。  視界が明転する。そこは先ほどまで見ていた「美しい病室」ではなかった。

 病室の照明は切れかかって点滅し、壁にはシミが浮いている。夕陽のオレンジ色は、どす黒い沈殿物のような色に変色していた。  ベッドに横たわる母の顔には、慈愛など微塵もなかった。そこにあるのは、死への恐怖と、やり場のない怒りに焼き尽くされた女の形相だった。

 幼いカイが、震える手で母の手を握ろうとする。だが、母はその手を忌々しげに振り払った。  酸素マスクの奥から漏れたのは、祈りの言葉ではなく、呪いだった。

「……あんたさえ、あんたさえいなければ」

 母の瞳が、憎しみを込めてカイを射抜く。 「あんたのせいで、私の人生は台無しよ。……顔も見たくない。死ぬ時くらい、一人にさせてよ」

 それが、真実だった。  母はカイを宝物だなんて思っていなかった。生活苦と病魔に蝕まれ、最後に残った僅かな生命力を、息子への恨みとして吐き出したのだ。

 あまりの残酷さに、十歳のカイの精神は耐えられなかった。だから、脳が回路を焼き切る直前で、物語を書き換えたのだ。最悪の絶望から自分を守るために、母の言葉を「愛」へと、その表情を「微笑」へと。二十年間、彼は自分自身が作り上げた『優しい嘘』を、命綱にして生きてきたのだ。

「――がはっ!」

 カイは現実世界へ引き戻され、激しく嘔吐した。ジジの店の床に四つん這いになり、涙と涎が混じったものを吐き出す。  脳内では、黄金色だった「最期の思い出」が、どす黒いヘドロのようなデータに成り果てていた。

「……見たようだな。それが真実だ」  ジジが冷たく言い放つ。「そいつはもう、一銭の価値もねえ。市場じゃ『汚染データ』扱いだ。誰も他人の呪いなんて買いたかねえからな」

 カイは力なく笑った。  家賃の支払い期限まで、あと一時間。手元には、金にならない「母の呪い」だけが残っている。  店を出ると、冷たい雨が降り始めていた。住む場所を失い、自分の過去さえ毒に変わったカイが、雨に打たれながら立ち尽くしていると、背後から聞き慣れた声がした。

「……やっぱり、ここに来てたか」

 タケルだった。居酒屋で見せた陽気な姿はなく、目元を鋭く尖らせ、何かを決意したような顔をしている。

「タケル、悪い。もう俺には、酒を奢る記憶も残ってないんだ」

「そんなのはどうでもいい。……お前も『不適格』を食らったんだろ。俺もさ」  タケルが差し出した端末には、カイが見たものと同じエラーログが表示されていた。 「いいか、カイ。このシステムは狂ってる。富裕層が好む『綺麗な嘘』だけを価値とし、俺たちの泥臭い『真実』をエラーとして排除してやがるんだ。俺たちの思い出をゴミと切り捨てることで、奴らは俺たちの人間性そのものを支配しようとしてるんだよ」

 カイは、脳裏にこびりついた母の罵声を反芻した。  あの呪いは残酷だった。だが、あれはあの格差社会で、壊れるまで戦った母の「生の痕跡」そのものだったはずだ。それを価値がないと誰が決める。

「……タケル。この『ゴミ』と判定された記憶、消さずに持っておくよ。これが、俺の唯一の『本物』だからな」

「その意気だ。……実は、この『エラー』こそが、システムの唯一の弱点、つまりジャマリなんだ。不純物として排除できない、重たすぎる真実のデータ。これを使って、システムの心臓部に風穴を開けてやろうぜ」

 カイは、自分のこめかみにデバイスを当てた。  家賃の期限が過ぎ、網膜に「居住権抹消」の赤い文字が躍る。  今日から、彼はホームレスだ。社会からは「いないもの」として扱われるだろう。

 だが、その瞳にはかつてない光が宿っていた。  すべてを断捨離し、残ったのは最低最悪の、けれど最高に愛おしい自分自身の欠片。

「行こう、タケル。俺たちの価値は、俺たちで決める」

 二人は、ネオンが反射する水溜りを力強く踏みつけ、暗い路地裏へと消えていった。  彼らが抱える「ゴミ」のような記憶が、やがてこの嘘にまみれた街を揺るがす巨大なバグになることを、メモリー・シティの支配者たちはまだ知らない。

Re: その別れ、買います! ( No.1 )
日時: 2026/02/01 13:51
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

前回の続きです。第七章はかなり長めになると思うので、最後にもう一つ投稿が来るように分けます。

第4章:亡霊たちの潜伏
 強制徴収の執行は、魂を紙ヤスリで削るような作業だった。  カイがスラムの路地裏で目覚めたとき、彼の脳内からは「言葉の語彙」の三割と、「計算能力」、そして「自転車の乗り方」といった実用的な技能が失われていた。エターナル・アーカイブの執行官たちは、金にならない感情などは見向きもせず、市場で即座に換金できる「知的なリソース」を根こそぎ奪っていったのだ。

 「……くそ、身体が思うように動かねえ……」

 カイは、廃棄された冷却ファンが回る異音の中で、震える手をついて起き上がった。そこは「中身のない抜け殻(ホロウ)」たちが集まる、通称『ジャンク・ヤード』。かつては社会を支えていたエンジニアや教師たちが、記憶をすべて吸い取られ、ただ呼吸をするだけの肉塊となって転がっている。

 「無茶するな。ニューロンの結合を無理やり引き剥がされたんだ。三日は眩暈(めまい)が取れないぜ」

 段ボールと基板を重ねた粗末な寝床から、タケルが顔を出した。彼もまた、数日前にすべてを失っていた。かつての快活な面影はなく、頬はこけ、目は落ち窪んでいる。しかし、その瞳の奥には、濁った炎のような執念が宿っていた。

 二人は、炊き出しの代わりに配られる、味も栄養もない薄い合成粥を啜りながら、小声で話し始めた。

「タケル、お前……言ってたよな。このシステムは詐欺だって」

「ああ。俺は確信したよ。俺が売ろうとした『娘の結婚式の記憶』、あんなに鮮明で、あんなに俺の心を温めてくれたものが、なぜ『非真正』なんてエラーで弾かれたのか……。ジジのところへ行って、俺も剥がしてもらったんだよ。……そうしたら、出てきたのは真っ黒な現実だった」

 タケルは、震える手で自分の頭を叩いた。 「実際には、俺は娘の結婚式に出させてもらえなかったんだ。借金まみれで、親子の縁を切られてな。俺は式の当日、教会の外で一人で酒を飲んで寝てた。……でも、俺の脳は、自分を壊さないために『バージンロードを一緒に歩く夢』を見せたんだ。システムは、それを『ゴミ』だと言って捨てた」

 カイは、自分の母の記憶を思い出す。  母の呪い。絶望。それもまた、システムにとっては価値のない「汚染データ」だ。

「いいか、カイ。メモリー・ドレインが買い取っているのは、単なる『事実』じゃない。奴らが欲しがっているのは、社会の不都合な部分を綺麗に濾過した『合成された幸福』だけなんだ。貧困、差別、怒り、後悔……。そういった、システムにとって毒になる記憶を『エラー』として排除し、俺たちをゴミ捨て場へ追い込む。そうすることで、街の『平均的な幸福度』を偽装しているんだ」

 カイは、自分の胸の奥に居座る「母の罵声」に意識を向けた。  以前はあれほど自分を苦しめたその記憶が、今は不思議と、自分をこの世界に繋ぎ止める唯一の「杭」のように感じられた。

「……じゃあ、俺たちは、システムが『あってはならない』と定義したバグそのものなんだな」

「そうだ。そして、バグにはバグのやり方がある」

 タケルは、どこからか拾ってきた旧式のハッキング・デッキを取り出した。 「カイ、お前の持っている『母の呪い』は、純度100パーセントの負のエネルギーだ。これはエターナル・アーカイブの無菌室のようなサーバーにとっては、致死性のウイルスになる。奴らが俺たちから『幸福』を奪ったのなら、俺たちは奴らに『真実の絶望』を返してやるんだ」

 二人は、スラムの重苦しい空気の中で、静かに、だが確かな連帯を感じていた。  もはや売るべきものは何もない。失うべきものもない。  あるのは、システムが「存在しない」と決めた、自分たちの醜い過去だけだ。

「作戦を立てよう。……奴らの心臓部に、この毒を叩き込むためのな」

 カイは、遠くで輝くアッパー・シティの、偽りの光を見つめた。  その光が、どれほど多くの犠牲者の記憶で燃えているのかを暴くために。

第5章:偽りのパラダイス
アッパー・シティの空気は、肺を刺すようなスラムの埃っぽさとは無縁だった。  高性能の空気清浄機が微細な塵まで取り除き、街路には常に人工的なジャスミンの香りが漂っている。そこを歩く人々は、他人の「自信」や「快活さ」をインストールしているせいか、一様に足取りが軽く、瞳には不自然なほどの輝きが宿っていた。まるで、出来の良すぎる蝋人形たちが歩いているかのような光景だった。

 カイとタケルは、盗み出した清掃業者の作業服に身を包み、高級会員制サロン『レーテの園』の裏口に立っていた。  タケルが、ジャンク・ヤードで組み上げた旧式のデコード・キーを通信ポートに差し込む。剥き出しの配線がスパークし、電子の悲鳴を上げた。

「……よし、ロックをバイパスした。いいか、カイ。ここから先は『感情』を殺せ。お前の脳が激しく反応すれば、バイオセンサーに検知される。この場所は、客の『幸福感』を維持するために、不穏な脳波には過敏に反応するからな」

「分かってる……。でも、吐き気がするよ。この匂い」

 二人は施設内へと潜り込んだ。  サロンの内部は、静謐な宮殿のようだった。天井からは数千個のクリスタル・センサーがシャンデリアのように垂れ下がり、客たちの微細な脳波を拾って、空間全体に穏やかなアルファ波の音楽を奏でている。  廊下には、歩くたびに足が沈み込むほど柔らかな真綿の絨毯が敷かれ、壁には「幸福の絶頂」を記録したホログラム映像が、額縁の中で永遠に同じ笑顔を繰り返していた。

 やがて、二人はメインホールへと辿り着いた。そこには数十台の豪華なリクライニング・ポッドが繭のように並び、富裕層たちがヘッドセットを装着して「夢」を見ていた。  ポッドの隙間からは、過熱したサーバーを冷却するための青白い冷気が漏れ出し、床を這う霧のように広がっている。

 カイは、ポッドの横にあるモニターを盗み見た。  そこには、現在再生されている記憶のキャプションが、優雅なフォントで表示されている。

『カテゴリー:家族愛。田舎の祖母が焼いてくれた、手作りクッキーの温もり』 『カテゴリー:達成感。無名ランナーが、市民マラソンで初めて完走した瞬間の歓喜』

 カイは息を呑んだ。  そのマラソンの記憶には、見覚えがあった。以前、リコレクションの店で見かけた、脚の不自由な老人が「これしか残っていないんだ」と泣きながら差し出していた記憶だ。あの日、老人が流した本物の涙は濾過され、ここではただの「心地よい刺激」として消費されている。

「……ひどいな。あいつらは、他人が命を削って守ってきた一番大切な瞬間を、デザートみたいに食い散らかしてるんだ」

「それだけじゃないぜ、カイ。見ろ、あそこの『特別室』を」

 タケルが顎で示した先には、ガラスの向こう側、一人の老紳士が恍惚とした表情でポッドに横たわっていた。そのモニターに映し出されていたのは――。

『カテゴリー:初恋。放課後の図書室、夕暮れの告白』

 カイの心臓が跳ねた。  間違いない。窓から差し込む斜陽の角度、プラタナスの葉が落とす網目のような影。それは、カイが数日前に家賃のために売った、あの「初恋」だった。  老紳士の口元からはだらしなく涎が垂れ、カイが失ったはずの「胸の痛み」を、あたかも自分の輝かしい過去であるかのように味わっていた。カイの魂の欠片が、贅沢品のコレクションに成り下がっていた。

 怒りで視界が赤く染まりそうになる。その瞬間、こめかみのバイオセンサーが「不穏」を示す黄色い光を点滅させた。タケルがカイの肩を強く掴み、耳元で低く唸った。

「落ち着け、カイ! センサーが反応してる。今ここで暴れたら、すべてが台無しだ。俺たちの目的を忘れるな」

 カイは深く息を吐き、激しい動悸を抑え込んだ。  二人はサロンの最深部、メインサーバーへと繋がるメンテナンス・ダクトへ向かった。  そこは先ほどまでの天国のような空間とは一変し、巨大な排水処理場のような、冷たく湿った機械室だった。

 ゴウン、ゴウンと重低音が響き、頭上を走る何本もの太いパイプが、不快な振動を立てている。  「見てみろよ。この濾過槽の底に溜まってる真っ黒な滓(かす)……これが、奴らが捨てた俺たちの真実だ」

 タケルが指差す透明なドレンタンクの底には、泥のような黒紫色の液体が沈殿していた。システムが「幸福」を抽出する際に取り除いた、憎しみ、悲しみ、絶望の濃縮液。それは時折、ホログラムのバグのように、歪んだ形を結んでは消える。

「……母さんのあの言葉も、ここに捨てられるはずだったんだな」

「ああ。だが、お前が『プロテクト』をかけたおかげで、その言葉はまだお前の脳内にある。それが、この無菌室のようなシステムに打ち込むための、唯一の本物の弾丸だ」

 カイは、自分の頭に手を当てた。  脳内にある「母の呪い」が、サーバーの放つ熱気に反応して、疼くような痛みを発している。  その時、廊下から重厚な金属音が聞こえてきた。武装したセンターの警備ドローンが、不自然に低下した清掃員のバイオサインを感知して接近してきているのだ。

「カイ、ダクトへ急げ! 心臓部はすぐそこだ!」

 二人は狭く暗い通路へと滑り込んだ。  偽りのパラダイスの裏側で、彼らは「真実の地獄」を解き放つための秒読みを開始した。

第6章:ジャマリの逆流
 メンテナンス・ダクトの奥深く、迷宮の最果てにその「心臓」は鎮座していた。  基幹サーバー『ムネモシュネ』。それは高さ十メートルに及ぶ巨大な円筒形のバイオ・タンクだった。乳白色の培養液の中では、街中の人間から吸い上げられた「幸福な記憶」が、淡い燐光を放つ繊細なニューロンの糸となって、巨大な繭のようにうごめいている。  周囲には無数の冷却パイプが血管のように張り巡らされ、液体窒素が漏れる真っ白な冷気が、カイの膝元を不気味に這っていた。

「……着いたぞ。ここが、この街の『夢』を精製している地獄の台所だ」

 タケルが震える手でコンソールに端末を直結させる。背後のダクトからは、警備ドローンの金属脚が床を叩く、カチカチという硬質な音が迫っていた。

「カイ、早くしろ! 接続ポートは中央の神経束(プレクサス)だ。俺がシステムの防御隔壁(ファイアウォール)をこじ開ける。お前はその隙に、脳内の『呪い』を全パルスで叩き込め!」

 カイは、サーバーの核へと続く、太く湿った神経インターフェースの前に立った。  冷たい端子をこめかみに当てる。その瞬間、眼球の裏側で火花が散り、脳を沸騰させるような膨大な情報が流れ込んできた。

 ――視界が、無機質な純白に塗りつぶされる。  カイの意識は、システムの内側、数百万人の「喜び」が濾過され、煮詰められた精神世界へとダイブした。  そこは、どこまでも続くクリスタルの回廊だった。壁一面には、誰かの「プロポーズの言葉」、誰かの「我が子の産声」、誰かの「黄金色の放課後」……。選りすぐられた幸福の断片が、悪趣味なほど完璧に磨き上げられ、宝石のように陳列されている。   『――不当なアクセスを検知。不純物の排除を開始します』

 システムの意志が、高周波の耳鳴りとなってカイの精神を圧迫する。あまりの多幸感、あまりの眩しさに、カイが抱える「悲しみ」が砂の城のように崩れそうになる。脳が「もう抵抗をやめて、この甘い海に溶けてしまえ」と命令を出す。

「……ふざけるな。そんな、味のしない嘘に用はない」

 カイは、意識の最深部に封印していた「黒い塊」を鷲掴みにした。  二十年間、自分を蝕み、同時に支え続けてきた、あの絶望。  死の床で、母の顔が憎悪で歪んだあの瞬間。酸素マスクの結露。痩せ細った指がシーツを掻きむしる音。そして、愛を期待した十歳の子供に突きつけられた、鉛のような呪詛。

「お前らが『ゴミ』だと捨てたこの記憶が、俺たちが、傷つきながら生きた唯一の証拠だ! 食らえッ!」

 カイは、脳内のプロテクトを強引に引き千切った。  解き放たれた「母の呪い」は、真っ黒なインクとなって、純白の回廊へと溢れ出した。  ――『あんたさえいなければ』  その罵声が、バイナリの絶叫となってシステムの調和を切り裂く。

 異変は劇的だった。  真っ黒なノイズの触手が、美しい「家族愛」の記憶に絡みつき、その色を奪っていく。  幸せそうに微笑んでいた他人の母の顔が、カイの母の、憎悪に満ちた形相へと書き換えられていく。クッキーの甘い匂いは、腐った花の死臭へと反転し、マラソンの歓喜は、膝を砕くような労役の痛みに変貌を遂げた。

「な、なんだ……!? 逆流が止まらねえ! 濾過槽が破裂するぞ!」  現実世界のタケルが、鳴り止まない警告音の中で叫ぶ。

 サーバー室の計器類が次々と火花を散らし、赤い警告灯が真っ白な冷気の中に血のような光を投げかける。  濾過槽の底に沈んでいた数千人分の「黒い滓」たちが、カイの記憶を先導役にして、一気に配管を逆流し始めた。ドレンパイプが耐えきれずに破裂し、どす黒い負の感情データが物理的な火花となって空間を焼き焦がす。

『警告。真正性エラーが連鎖。修復不能。全端末へ――未濾過(リアル)データの配信を開始します』

 その瞬間、街中のサロンで、高級住宅街のベッドで、ヘッドセットを装着していた富裕層たちの脳に、直接「猛毒」が注入された。  他人の幸福を買って悦に浸っていた者たちの視界が、突如として真っ暗な「真実」に塗りつぶされる。   「あああああッ!」  サロンのポッドから、老紳士たちが絶叫を上げて転げ落ちる。  彼らがインストールしていた「美しい図書室の初恋」の記憶の中に、カイの母の、あの剥き出しの呪詛が紛れ込んだのだ。夕暮れの光は消え、少女の顔は老女の怨嗟へと変わり、彼らの脳は「幸福」と「絶望」の過負荷でショートした。

 サーバー室の中央で、カイは端子を繋いだまま、激しい痙攣を起こしていた。  母の記憶だけではない。システムから逆流してきた数え切れないほどの「名もなき者の絶望」が、彼の神経を通り抜けていく。  だが、カイは笑っていた。  鼻から血を流し、意識が飛びそうになりながらも、そのあまりに重く、あまりに汚い真実の感触が、今、彼をかつてないほど「自分」という存在に繋ぎ止めていた。

「これが……ジャマリの正体だ……。見てるか、母さん。……あんたの呪いが、この嘘まみれの世界を、今、壊してるぜ……」

 爆発的な閃光が走り、タンクの中のバイオ・ニューロンが黒く焦げ付いて沈んだ。  サーバー『ムネモシュネ』の脈動が止まり、偽りの天国を維持していた青い光が、ぷつりと消えた。  残されたのは、焦げた電子部品の臭いと、深い、あまりに深い、静寂だった。

Re: その別れ、買います! ( No.2 )
日時: 2026/02/01 13:56
名前: マツタケの香料 (ID: eEFm9oln)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

ついに最終章です。ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

第七章:断捨離の向こう側
 『ムネモシュネ』の心臓部が停止した瞬間、世界は「音」を失ったのではない。世界は、数十年間にわたって強制的に流され続けていた「ノイズ」から、ようやく解放されたのだ。

 カイは、焼き切れたインターフェースから崩れ落ち、熱を帯びた床に突っ伏した。  脳内を駆け抜けた数百万人の絶望の残響が、耳の奥で激しい耳鳴りとなって鳴り響いている。視界の端では、システムの崩壊を告げる緊急灯が、断末魔の鼓動のように赤く明滅していた。

 「……終わった、のか」

 タケルが、火花を散らすコンソールに寄りかかりながら、掠れた声で呟いた。  二人はフラフラと、崩壊を始めたセンターを脱出した。非常階段を駆け上がり、たどり着いたのは、アッパー・シティを見下ろす展望デッキだった。

 そこで彼らが目にしたのは、人類が初めて「忘却の盾」を奪われた瞬間の、壮絶な光景だった。

 常に輝いていたネオンサインは次々と立ち消え、街は深い闇に沈んでいる。だが、その静寂を切り裂いたのは、街の至る所から噴き出した「叫び」だった。  サロンのポッドから這い出した富裕層たちは、高級な衣服を自ら引き千切り、コンクリートに額を打ち付けていた。彼らが買い取ってきた「美しい少年時代の記憶」の裏側から、カイが流し込んだ「母の呪い」と「名もなき者の怨嗟」が、劇物となって溢れ出したのだ。

 「……見ろよ。あそこの大通りの連中を」

 タケルが震える指で下を指した。  かつて優雅に歩いていた市民たちが、互いの襟首を掴み合い、あるいは膝をついて嗚咽している。  自分が誰から記憶を奪ったのか。自分が何を忘れるために金を払ったのか。その「帳尻」が、今、強制的に合わされたのだ。  ある者は、自分が捨てた親の死に際の顔を思い出し、ある者は、自分が裏切った友の背中を思い出した。漂白されていた街は、今、人間らしい「痛み」という名のどす黒い染料で、塗り潰されていく。

 夜明けが、ゆっくりと、だが拒絶できない確信を持って東の空から迫っていた。  太陽の光が、偽りのない冷たさで瓦礫の街を照らし出す。その光は、かつての黄金色のライティングとは違い、隠したい傷跡までを容赦なく暴き立てた。

 カイは、自分の胸の奥に残された、あの「母の記憶」を再びフォーカスした。    ――『あんたさえいなければ』

 不思議だった。以前は心臓を握りつぶされるような苦しみだったその言葉が、今は、冷たい朝の空気のように心地よく感じられた。  母は、絶望していたのだ。  母は、この冷酷な記憶売買社会の歯車になれず、すり潰され、その痛みを息子という唯一の「繋ぎ目」にぶつけるしかなかった。  その醜悪な形相こそが、母がこの世界で「生きた」唯一の、そして最大の反抗だったのだ。

 「母さん……。あんたは、俺を愛してなかったんじゃない。……俺に、この世界の地獄を教えてくれたんだな」

 カイは呟いた。美しい嘘で飾られた「宝物」よりも、この残酷な「呪い」の方が、どれほど深く彼を形作ってきたことか。痛みがあるから、自分はここにいる。悲しみがあるから、自分は他人の悲しみを知ることができる。

 「……これから、世界は長い冬に入るぜ」  タケルが、瓦礫の隙間に腰を下ろし、震える手でタバコに火をつけた。  「記憶を売って楽をしてきた連中も、それを買って誤魔化してきた連中も、みんな、自分の『物語』の重さに耐えなきゃいけないんだ。……死ぬほど苦しいはずだぜ。誰も助けてくれない、自分の地獄だ」

 「ああ。でも、それでいいんだ」  カイは、朝日に照らされた自分の汚れた手を見つめた。  「もう、誰にも自分の物語を編集させない。たとえそれが、呪いだけの物語だったとしてもだ」

 二人は、立ち上がった。  ホームレスとなり、財産も、名前さえも剥ぎ取られた二人。  だが、その眼差しは、メモリー・ドレインの恩恵を受けていた頃の誰よりも澄んでいた。

 街のあちこちで、人々が泣き止み、呆然と空を見上げ始めていた。  それは、希望の夜明けではない。  自分たちが犯した罪と、背負わされた絶望を、一滴残らず引き受けて生きていく「覚悟」を強いられた者たちの、沈黙の始まりだった。

 カイは、朝露に濡れた空気を深く吸い込んだ。肺の奥まで冷たさが染み渡る。  脳内で、母のあの歪んだ笑顔が、今度こそ静かに消えていく。  それは「消滅」ではなく、カイの血肉となり、細胞のひとつひとつに染み込んだ「共生」の完了だった。

 彼はもう、二度と自分を切り売りすることはない。  この重たい真実、この耐え難い痛みこそが、彼が未来という名の荒野へ進むための、世界で唯一の、そして自分だけの地図なのだから。

 光溢れる廃墟の中を、二人の亡霊は、新しい世界の「最初の一歩」を刻む住人として、堂々と、静かに歩み去っていった。    断捨離すべきものなど、最初から何ひとつなかったのだ。  人間を人間たらしめるのは、美しい思い出などではなく、その裏側に潜む「忘れ得ぬ痛み」なのだから。


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