ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ
- 総念⑤ (怖い話) ( No.18 )
- 日時: 2010/10/03 10:27
- 名前: 書物狂乃魔女 ◆O8ZJ72Luss (ID: aXtewNOi)
遅刻しないように今日もいつもの電車に乗らなければならない。約束の時間までに場所に行かなければならない。たとえ不必要でも先方のことを考えてできるだけ早く着いていなければならない。
私達はいつも時間という名の鞭で追い回されている。大人でも子供でも、女も男もそれは同じこと。本当の意味で自在に生きている人間など、我が国には一握りしかいないだろう。
そしてそれに拍車を掛けるのが、電車に代表されるような、社会全体の緻密さだ。
私は以前イギリス在住の従姉のお宅に御邪魔した時、一日に数本しかない地方行きの電車が二十分も三十分も平気で遅れることに、正直言って酷い衝撃を受けた。
もし用事に遅れたらどうするんですか? それで乗客から不満は出ないんですか? と、思わず取り乱して食って掛かってしまったほどだ。だが彼女はただ一言、肩をすくめてこう仰った——仕方ないじゃない、と。
きっと欧州ではそれが普通のことなのだろうな。そんな齟齬があちこちに転がっていて、それに合わせて人々は暮らしている。だが我が国ではそんなことは通用しない。背景が邪魔をしないぶん、遅刻も、失敗も、全て自分の責任だ。
狂い無く歯車が回っているというのは理想的な状態だろう。また我が国の人々は昔からそうすることが得意だった。和を旨とし、隣の人との噛み合わせがずれないように日々心を砕いている。精密機械を作り出すことで、これまでは計り得なかった天候や自然のことまである程度は調整できるようになった。けれど我々はあることを忘れているのだ——人間は決して機械にはなれないということを。
機械はますます高度になり、世界はますます緻密になる。そして人は遅れを取り始める。電車は定刻に来るけれど、自分の睡眠時間は狂ったまま。言い訳は許されない、けれど少しでもいいから空いた時間が欲しい、誰かこれを止めてくれないか、予定を狂わせてくれないか。気まぐれな天災など当てにならない。何かとてもイレギュラーで、何か防ぎようのないもので、誰にも罪を着せずに済む方法で……。
つまるところ、人が死ねば電車は必ず止まるのだ。
沢山の人々の精神が集まるとどういうことが起きるか、個を尊ぶ人間には分かりかねるかもしれない。群衆というものは、それだけで一つの凶器、否、魔物となりうるのだ。呪いという言葉は時代錯誤に過ぎるが、昔から人々は願いの強さだけで様々なことを叶えてきた。例え集団によるものでなくても、人の想いが力を持つところはどこででも古来から目の当たりにしてきたのだ。それは今でもきっと変わらない。なになにの奇跡と言い換えても、おそらく本質は同じものなのだよ。
呪詛、言霊、集合的無意識。その手段は何でも構わない、ただもう電車が止まりさえすれば。
誰も私を押さなかった。しかし確かに人一人を突き落とす力があった。それはあの場にいる全員の、総括した願い、としか言いようがないものだった。何人かは理性を乗り越えて安堵の吐息を漏らしさえした。ああ、これで遅れても許される——と。
勿論、実際に誰かが誰かを突き落とすケースもあったのだろう。その場合、罪は速やかに忘却される。個人の手を介そうが、介すまいが、それを望んだのはそこに集まっている人みんななのだからね。
だから投身した人間は驚いているわけだ。その瞬間通り過ぎる、自分の内側からではない、外からの衝動に突き飛ばされるから。
ああ、なんとか理解して頂けたようだな。説明下手ですまない。そうだ。我が国、日本における飛び込みは、自殺ではない、常に事故という名の他殺なのだよ。
やっぱり、人間は人間が一番怖いものだな。
(終わり)