ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ
- Re: 「ようそろ」 ( No.17 )
- 日時: 2010/06/04 23:41
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: HQL6T6.Y)
七
結局、その日の夕方になっても雲が晴れることはなかった。
霧雨が降ったかと思えば止み、止んだかと思えば降る。そんな繰り返しの中でカエンは一言もしゃべらずに前へと進み、リュウカは気まずそうにその後ろを追っていた。連れの体力を鑑みてだろうか。途中で休憩を取ることは何度もあった。そんな時も突然地面に座り込み、そしてまた何の前触れもなく立ち上がる。ただそれだけであった。
かれこれ七度目だろうか。薄暗い街道で唐突にカエンは座った。この先は道が二本に分かれている。ひとつは町へと出る道。もう一つは山に至る道だ。目指す方向は山の向こうだから、おそらくはこのまま山に入るのだろう。リュウカはかばんからイハクの村の人々からもらったパンを取り出して、半分にすると片方を隣にいるカエンに差し出した。
「どうぞ、カエンさん」
「……いらない」
カエンはパンを見ることもなく、左手で頭を支えていた。なんだかんだでこの男は朝からずっと何も食べていない。ずっとこの調子なのだ。深くかぶっている帽子と左手で表情は見えにくい。それがいっそうリュウカを心配にさせていた。
「もしかして、体調悪かったりしますか?」
「……別に」
埒が明かない、とリュウカは少し呆れながらため息をついた。話が堂々巡りなのだ。ただでさえ二人とも少なからず雨に濡れている。このまま山だけはどうしても避けたかった。
「とりあえず、今日はそこの町に泊まりましょう、カエンさん」
「問題ないだろう。山へ行く」
「カエンさんが問題なくても私は大ありです。いつまで年頃の女の子を野宿させるつもりですか? 機会があるなら宿に泊まってお風呂に入らせてください」
本当は嘘である。リュウカとしては全く野宿など気にしていなかった。しかし、カエンはこういわないとまず宿をとろうなんて思わないだろう。何分、二年間樹海で過ごした超人、いや、変人なのだから。
そのあと少しの間カエンは渋っていたが、結局はリュウカの思惑通りに折れた。
町の名は“シュクエキ”といった。おそらく真名で書くと“宿駅”であろう。つまり宿場。実際その名に恥じぬほど宿が乱立していた。
「昔は、何もなかったのにな」
町の門前で、不意にカエンはつぶやいた。旅人と見るや否や、様々な宿から手を引かれる。活気のある町で、暗くなっているのにも拘らず人の往来が激しかった。
「そうなんですか?」
「ああ。どうやら、二年間で世の中はだいぶ変わったと見える……はぐれるなよ。そこまで面倒は見きれない」
早口でそう言うと、カエンはリュウカの手を握って先程より速く歩き出した。その手は暖かいというより熱い。やはり体調が悪かったのだろう。そう思うとリュウカは申し訳なくなってきた。誰が何と言おうと巻き込んだのは彼女である。何もできない。何もできないが、リュウカはカエンの手を強く握り返した。
「——カエン、か? おい、カエン!」
人混みの中から誰かが名を大声で呼んだ。男の声であるのは確かだ。カエンは少し辺りを見渡す。すると何かを見つけたようで、人を押し分けて数ある宿屋の中でもかなり高そうな建物の中へと入っていった。
内装はきらびやかというわけではなかった。だがその一つ一つは相応の値がしそうな高級品で、リュウカは目をあちらこちらへ泳がせていた。
「引きこもりが終わったかと思えば、次は女の子と旅か?」
「ようそろ。誰かと思えば、あんたか。いつぞやの」
ここの店のオーナーだろうか。上等な着物を着た三十代後半ほどの男は、カエンの前に立つなり親しげに話し始めた。カエンもカエンでいつもの無表情を少し緩めて返している。二年前にフィンを倒したカエンなら人脈も広いのだろうか。自分の里の人間以外知り合いらしい知り合いがほとんどいないリュウカは、少し恥ずかしくなって思わず俯いた。
「この町に泊まるんだろ? だったらうちに泊まっていけよ。金は取らないから。お前には返しきれない恩がある。あいにく一部屋しか空いてないが、それで良ければ好きなだけ滞在してくれ」
「いいのか?」
「おう。大体この宿始める資金はお前からもらったんだ。それに俺の“今”もな。かみさんもいて、その腹には子供もいる。正直こんなに楽しいものとは思わなかったよ、あの頃は」
オーナーはそう言うと少し目を細めた。誰かがこちらに近づいてくる。着物姿の女性。その腹部は膨らんでいる。にこりと笑って礼をする姿は上品で、オーナーは満面の笑みで「妻だ」と言った。二、三言葉を夫と交わすと女性は「こちらへどうぞ」と静かに階段を上がっていく。段に足を踏み入れる前にカエンは一度立ち止まり、「よかったな」と昔なじみに微笑んで、一度祝福するようにその肩を軽く叩いた。