ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ

最後まで大好きな僕 ( No.151 )
日時: 2011/09/13 08:23
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: wzYqlfBg)








 前回までのあらすーじ!
 賞を受賞した僕! 殴りかかる白場、そして女神としか言いようのない彼女! 人間の底辺と頂点を並べて口に出したことをちょいっと反省!
 ちなみに賞についての明細! もし受賞したら最愛の彼女と結婚できるという何ともラッキーでハッピーでエキサイティングな約束である!
 それを受賞したってことはつまり————僕と彼女の結婚が、確定したということなんだけれども。

「なのになぜ僕は今……こんなにも、もやもやーんな気持ちなのだろうか……」

 首を傾げて呟いた独り言は、一人ぼっちの部屋に虚しく響いた。
 体半分を首と共に傾ける。背骨の方から軋む音がし、遅れて痛みもやってきた。いてて、と斜めになった体を直そうと試みる。すると体重が異様にかかっていたのか、そのままベッドへ横に倒れた。あぐらをかいた姿勢のいたので、右側の膝をぐにゃりと自分の体で潰すようになる。「あぎゃあ」全く使う機会の無かった筋肉が悲鳴をあげ、激痛を警報のように激しく走らせた。

「うぐぐ……何だこの一人相撲……ッ、てゆーか、僕は何で一人でベッドの上で何かしらを待機してるんだ!?」

 さっきから、何という言葉を何度も使っている気がした。ほら、また。
 三月の初め。外を見てもまだ桜の木はようやくつぼみを膨らませ始めたところで、春真っ盛りとははっきりとは言えない。あやふやな気候の下、僕の部屋は生温い空気がエアコンによって満たされている。肌寒さはあるのに、手袋やコートを着用することは躊躇わせる、そんな温さ。
 三月の初めというのは、冬と春のラインを何度も行来するものだ。冬のラインに留まっていると思っていれば、ひょんなことで春の訪れを感じる。きっと、今から外に出て近くの河川敷の辺りをうろうろしてれば、花のつぼみとかつくしとかを見つけることが出来るだろう。

「だけど、僕はしない。なぜなら引きこもり小説家だからさ、ばちこーん!」

 虚空へ向かってウインクすると、胸に切なさがぐっとこみあげた。切なさを消し去るために、僕はベッドにダイブする。勢い良く枕に顔を押し付けると、柔らかい羽毛の固まりに僕の頬が負け、頬肉がぐにゃりとたわむ。奥歯が頬の内側を噛み、薄らと血の味を舌にまき散らした。
 つい昨日洗った布団やシーツ、枕は彼女が好きだと口にしていた柔軟剤を使っているので、良い香りがする。彼女パワーのおかげで、普通のフローラルな香りより数倍素敵な彼女の香りがす(るような気がす)る。この布団は昨日も一昨日も三日前も洗ったような気がする。ていうか洗った。今の僕には、洗濯や掃除ぐらいしか部屋内での楽しみがない。
 理由はたった一つ。小説を書くことがひと段落したのでやることがないのだ。やることがない、というのは言い過ぎかと思うが。
 先日、彼女のとの魅惑の約束がかかった賞を受賞して以来、何となくやる気が一気にダウンしてしまったのだ(その後に彼女との新婚ラブラブ生活を夢見て幸せ度マックスになった)。逆に彼女への期待やら嬉しさやらはうなぎのぼり。未だに僕は、心のうなぎさんがのぼっていくのを止められずにいる。つまりは、ふわふわと足元が浮き立つ状態が続きっぱなしで、仕事が仕事にならないのだ。
 小説家が小説を書けない、というか書く姿勢になれないとは会社的には大問題(特に何か大切な賞を受賞した作家だと)らしい。彼女という一単語しか脳みそに入っていない僕を見て、彼女の上司である編集長という肩書きのお偉いさんが出した結論は簡単なものだった。「とりあえず、お前へのインタビューやら依頼は全部取り消しておいてやるから、休め」それで良いのか。

「やることがないからなぁー。僕って小説書くのが仕事なのになぁー。書いてないと死んじゃうのになぁー。こんなやる気ばりばりの発言しておいて、最近は引きこもってばかりなんだけどねぇー」

 だらーんと四肢をベッドに投げだすと、自然にため息が洩れた。ここ数日はずっとこんな調子だ。表現しにくいもやもやが胸にしこりのように残っていて、彼女のことを考えると胸が苦しい。それは恋だと指を突きつけてくる奴が居たら僕は言いたい、僕は万年彼女病患者だから恋とかじゃなくてこれは病気だと。恋というには、あまりにも不安定な感情を抱いているのが僕の現状なのだ。愛だとか恋だとか、そういう問題ではない……と思う。

「うーん……調子が狂うというのは違うような気がするし、かといって正常かって訊かれたらノーなんだよなぁ……何だろうこれ? 今までたまりにたまってた青春フラグが一度に押し寄せてきたのかなぁ、そしてこれが一段階目? 胸のもやもや? いやそれはないない。だって、いつも僕の胸には彼女への愛が純度百パーセンツだもの」

 自分しかいない部屋の中で、見えない誰かに言い訳しようと首を左右に振った。

最後まで大好きな僕2 ( No.152 )
日時: 2011/09/13 08:24
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: wzYqlfBg)


 白場いつきと酒を交わした後ぐらいから、僕は自分の胸にあるわだかまりの存在を、よりはっきりと感じるようになっていた。
 それは、彼女との結婚に対しての不安(僕としては結婚したいんだけど)やら、今のままで良いのかという劣等感めいたのやら、色々だ。とにかく、名前を付けにくい何かしらが僕のチキンハートをちくちくと苛めてくる。ハッピーとアンハッピーが同時に存在する体内は、相対的な心の動きに疲れを滲ませ、そして体力を消耗する。最近、ベッドで横になっているのも大体それが原因だろうなぁ、と深いため息一つ。

「ベッドで横になるんだったらさぁー、彼女と別の意味でベッドで横になりたかったぜー! ぜっぜぜー!」

 彼女がここに居たら笑顔で「下ネタは相手が男の時に頼むわ」と言いそうな発言をしてみた。思考回路が予測可能だというのは、僕も彼女の腐れ脳に感染してきているのかもしれない。彼女の何かしらを貰える(いやそういうアレな意味ではなく)なら、僕も彼女に感染することはやぶさかでもないんだけど、それでも彼女の個人的趣味に触れるのは出来るだけ避けたい。むしろ避ける。避けさせてください。

「……愛してるから、僕は彼女に感染して、そのまま彼女菌で世界を制圧? みたいな感じで良いんじゃないかなー。次回作は、えーっと……主人公の彼女が菌になっちゃって、主人公がその菌に感染して二人で世界に喧嘩売る話でも書こうかなー。うむー、想像がしぼむ話だーぁ」

 僕は彼女を愛しているから、彼女の全てを包み込む。だから、彼女が持つ考えや趣味に関して僕は口出しをしないようにしている。彼女専用狩人(主に彼女の愛を狩ってゆく至極簡単なお仕事です)な僕は、同時に紳士でもあるのだ。男同士が濃密に絡まり合おうが、常に彼女が男同士がベッドインする道筋を辿れるかどうか模索していようが、僕が彼女を好きで彼女が僕を好きならば関係ないと考えている。関係ないと思っていたいのに彼女が関わらせてくる際は、全力で逃走するが。
 ——でも、もしも僕が一方的に彼女のことが好きなら。
 ふと脳裏に浮かんだ疑問は、眉間に皺を作った。
 もしも僕が彼女のことを一方的に好きなら、僕の愛はどうなる? 彼女にとって迷惑な、気持ち悪いものだと処理されてしまうのだろうか。今回の結婚の約束も、馬の目の前にぶら下がった人参程度? それって、すっげー切なくないか? ぐるんぐるんと視界が揺れて、どうしようもなくなる。喉の奥からこみ上げる吐き気をこらえると、胃が収縮したような気がした。

「愛ってぇー、何っでっすかー?」

 間延びした声は、そのまま延び過ぎてなかなか喉から離れようとしなかった。ぶちん、と声を無理やり掻き消すと喉が渇いて咳を促して辛かった。ごほごほとむせると目元に涙が滲み、指先を動かさなければならなくなった。面倒だから放っておくと、すごくかゆくなった。かゆいのは苦手だからかこうとしたら、「ふぎぃ!」かき過ぎて引っ掻く形となってしまった。痛い、と鼻をすする。
 心臓を下にして、壁に向く。壁にぴったりとベッドをくっつけているので、必然的に壁とキスするぐらいの距離になる。初めてのキスは埃の味、うん、最悪だ。

「…………むずかしーんだよ、そんなの。……いや、マジで」

 パソコンのとあるサイトの、とあるスレッドを思い出した。
 短い言葉と共に始まった、世界に向けての問いかけを。
 ——愛って何ですか。
 知るかよ、ぶぁーか。怒るように言ってみるけど、へらへら笑いがへばりついた顔は、奇妙に歪むばかりだった。もそもそと足元に蹴っていた上掛けを足の指で掴み、膝元へと引き上げる。灰色の壁を前にしていると、眼球が鈍い疲れを発してきて、眠気を誘った。たいして運動していないのに眠くなるのは、インドアの習性なんだろうかとまどろみながら考える。
 そうして僕は、彼女が夕方に家にやってくるなんてことも忘れて、眠りについた。









 ちょいとここらで昔話でもいきましょうか。
 あぁ、別に付き合わなくても良い。僕が勝手に喋り始めるだけだから。つまらないと思ったら別の小説で時間を潰すか、次の章をどうぞ——なんて。こういうことを平然と言うようになったら、僕も小説に毒されちゃってるのかなぁ。小説は毒にもなるし薬にもなるし、興奮剤にもなるっていうのが僕の持論なんだけどね。
 とりあえず昔話、レッツゴー。
 青春時代にあった好きな女の子との恋の話だとか、行事の話だとか。そういうことは、僕の頭の中では霞がかっていて思い出せない。腐れ縁である白髪小説家や、可愛い幼馴染との日常生活の欠片は今でも持っているんだけど、何でこう人ってのは重要なものよりどうでも良いものほど、印象に残っているんだろうね。白場たちと学校の帰りに隠れて買い食いしてたことは覚えてるのに、体育祭の感動シーンとかもう全くだ。

最後まで大好きな僕3 ( No.153 )
日時: 2011/09/13 22:37
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: wzYqlfBg)





 さて、そんな物忘れが激しい僕の心の中で鮮明に色を放つ昔話。
 それは、彼女への愛の告白関連だ。今まで過去十二回、僕は彼女にお付き合いの申請やらプロポーズやらをしているんだけど……それらを全部、僕は今でもはっきりと思い出せる。まずは一度目、彼女が僕の担当になって一週間後。あの時の僕はまだ若かった。

「あの……漆原雅さん」
「何かな笹宮因幡くん」
「好きです」
「ありがとう」

 スルーされた。一度目はスルー、その後すぐに小説の打ち合わせに戻るという何とも素っ気ないもので終わった。
 二度目。僕はめげなかった。あぁそうか僕は彼女に恋愛の相手と識別されていなかったんだと知った次の日。僕は行動に出た。自宅にのこのことやってきたピーチ姫(彼女)をクッパもどん引きのねちっこさで追い詰めることにしたのだ。部屋に置いてあったテーブルを挟んで、僕は真剣な眼差しで叫んだ。小説の打ち合わせの途中、突然テーブルを殴打して。

「漆原さん!」
「どうしたの?」
「好きなんです!」
「どうしたの?」
「だから、好きなんです!」
「どうしたの?」
「えっと……漆原さんのことが、僕は好きなんです!」
「どうしたの?」
「……えっと……えっと……」
「どうしたの?」
「………………すみません、続けて、ください……」

 ねちっこさは彼女の方が上だった。まさか告白の答えがどうしたのだなんて誰が考えていただろうか。
 彼女の冷静な態度に、僕は一時期めためたに叩きのめされた。一か月ぐらいは、業務的な会話しか彼女と出来なかった。向かいに座る彼女と目も合わせられずに、ぶるぶると体を震わせて羞恥と落胆に耐えていた僕である。
 三度目、四度目、五度目。彼女との思い出を宝石よりも大切に扱う僕としては、どの告白も同列だなんて言語道断なのだが——話す手間を省くために、泣く泣く同じ扱いにする。この三回分は、ほとんど似たような内容だった。一か月間おとなしくしていた僕が、そろそろいけるかななんて思い告白し、玉砕し、また一か月間機能停止状態になるの繰り返し。それでも彼女と会い、小説家業に励む僕は褒められても良いと思う。

「でねぇ、この子の個性がちょっと弱いんだよねぇ。平凡な話ってのはアリ。だけど、そこに平凡な登場人物を投下するのは、薄いスープに水を足すようなものだよ。ちょっとタバスコでも効かせてみた方がいいかも。それで、そのタバスコ成分が——」
「——好きです、結婚を前提にお付き合いしてください」
「……前提に、って言葉って何かさぁ……重くない? とか雅は雅は女子高生風味な言葉を返してみたりして?」
「お友達を前提に結婚してください」
「前提っていうか前提ぶっ壊してるような気が!? そっちじゃねえよ!」

 五度目から、僕に対する彼女の態度はだいぶ柔らかくなっていた。一度目は固い表情で僕の告白を断っていたのに、五度目になると笑いを交えて断るようになった。それでも断ることには変わりねぇだろ、という男性諸君の言葉は聞こえない。
 彼女との関係が良好になってきたある日、僕は彼女に六度目の告白をしようと勇んで会社のロビーへと向かった。原稿を手渡すついでに、彼女に愛の告白をするつもりだった。彼女はロビーにあるソファでくつろいでおり、何かカバーをかけた文庫本を読んでいて、かけている眼鏡が禁欲的な雰囲気を漂わせていて最高だった(と、僕の彼女レーダーは記憶している)。
 近づいてくる僕に気づくと、彼女は本を閉じた。何かアニメ調の絵が描かれているような気がしたけど、その時の僕はまぁ良いかと原稿を手渡し、真顔で言った。

「あ、原稿だね。ありがとう、ここまで持って来てくれて。何か申し訳ないなぁ」
「大丈夫です。ちょうど、この辺りの大きな本屋に興味があったんで、ついでです。…………お付き合いしたら申し訳なさも無くなるのに」
「あー、最近出来た本屋でしょ? あそこ、品揃え良いんだよー。…………何で申し訳無さが無くなるの?」
「へぇ、そうなんですか。ゆっくり見てきます。…………キスの一つでお互いを信頼出来るからで————痛っ、ハイヒールのかかと痛っ」
「行ってらっしゃい。楽しんできてねー。…………セクハラなのか、そうなのか。警察か、よし分かった」
「いえいえ、早く僕と付き合いましょうというサイン、いや、アピールですってまじかかと痛ェ!!」

 にこやかに笑う彼女は真っ赤ななハイヒールを履いていて、かかとが丁度僕のスニーカーにめり込んでいた。僕の冗談(本気十二割)をまともに受け止めてくれるぐらいに、僕と彼女の関係は良い具合だった。六度目の告白の後、帰り際に僕が彼女の方を振り返ると、彼女は不安そうな色で瞳を染めていた。なぜだろう、という疑問の答えはは七度目の告白で知ることになる。



最後まで大好きな僕4 ( No.154 )
日時: 2011/09/23 00:13
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: wzYqlfBg)











「ひゅぎぃ」

 阿呆みたいな声を出して起きた、と思ったら目の前は真っ暗だった。
 真っ暗なのは、視界が何かで覆われている——何か本のようなものが顔に広げられているせいっぽい。鼻を掠める、本独特の紙の香りが本だということを示している。つい最近、感じたことのある違和感の正体。指でつまみ、顔から引き離すとようやくいつもの部屋の風景に戻ってきた。ふぅ、と息をつく。

「あ、起きたー? グッドモーニン、朝じゃにゃいけど」

 僕の部屋の中に、彼女がいた。普段通りの、へにゃりとした笑みを浮かべて。
 賞をとったことで有名になった僕、だけど彼女との約束のことでふにゃふにゃの僕は現在役立たずだ。インタビュー記事や、短編を載せて欲しい、連載をしないかという声かけなどに対応すら出来ない。だけど会社にとって、僕の仕事が増えるのは困るようで有難いことでもある(らしい)。人気の俳優みたいなものだと、編集長は零していた。
 そして、僕が出来なかった仕事の皺寄せがやってくるのは、僕の担当である彼女だ。四方八方から来る仕事をこなさなくてはならない彼女は、僕のせいでこの四週間の間、常に忙しく動き回っている。しかも彼女は僕だけの担当ではない(ここが僕にとってすごく悔しいところだ)ので、僕という作家と共に別の未熟な作家やらベテラン作家を手伝っていかなければならない。
 だから、いくら僕が彼女に会いたくても、約束を果たしたくても。僕はこの四週間、彼女と一度もまともに会えていなかった。電話越しで話し合うしか余裕がなかった。
 彼女がここに今いるということは、仕事の方がひと段落ついたのだろう。そう考えると胸が安堵感でいっぱいになり、頬が緩む。彼女の存在が僕を幸せにしている、と実感し、体中がぽかぽかと温まってくる。久し振りの彼女に挨拶をしようと、僕は体を起こした。

「おはよ——ぷぎゃぁぁぁぁぁぁ!?」

 前半は、彼女に優しく挨拶をしようと頑張る様子。後半は、指でつまんだままの本的な何かを見て悲鳴をあげる様子。ちなみになぜ悲鳴をあげたかというと、つまんでいたそれが、繊細そうな少年が体格の良い青年と裸になりピンクなムードを漂わせているいつか見た本だったからだ。いつか見た、というのは白場が僕の部屋に遊びに来た時だろう。奴が真っ青な顔でこの本を突きだしてきたのを思い出す。
 同時に、寝ている人の顔にショッキング(読む人によるが)な本を乗せるという行為に既視感を覚える。だが今、この場にいるのは僕と目の前に彼女だけ。いともたやすく行われるえげつないその行為は、紛れもなく僕以外……彼女がやったものだろう。だけど彼女の彼氏として、疑うのはいけないと思い一応聞いてみる。

「あのさ、この本って君がやっ、」
「起きないからさー。笹宮が幸せロマンティック男祭りわしょーいおい良いだろやめろよこんなところでアッー! ……な夢を見るように、と思って頭に本を置いてみたんだけどさ。夢どーだった? やっぱ男同士できゃっきゃうふふな花園? 詳しく教えてよねぇ、羨ましー————って笹宮、何で膝をかかえて体育座りしてんのよう?」

 膝を抱えると、抱き締めた体が微妙に震えていることが分かった。手の甲の鳥肌が、ざらざらとしていて気持ち悪い。どうやら脳みその代わりに体が彼女からの恩恵(別名、拷問)を受けていたようだ。さぶいぼが止まらない。
 彼女はソファーに座っていて、スーツにタイトスカートという仕事中の格好だった。ネクタイをしめずに、第一ボタンを開けている首元からのぞく鎖骨が艶めかしい。僕の片手で収まるかどうか不安な胸元の前に漫画らしきものを寄せて、読書中だった。表紙は隠すことない、ピンク色むんむんのもの。いつものことだ、と諦めて欠伸をした。

「そういう夢は見なかったけど。君との出会いから七度目の告白ぐらいまでを思い出していた」
「ふーん。よく覚えてるねぇ、ちなみに全何章ぐらい?」
「全……うーん、十一章かなぁ。君とのことなら、全部覚えてるから」
「………………え、嘘、全部、なの?」

 本のページに目を落としたままの彼女。だけど、全部という言葉を耳にした途端、欠伸を繰り返す僕を気にするように顔をあげた。全部覚えていることに対して喜んでいるのかと思いきや、表情が違う。目をいっぱいに見開いて、全部という言葉を拒否するように、受け入れたくないような驚きを灯していた。
 普段見ることのない彼女の焦り顔に、僕は気まずさを孕んだ口調で訊いてみる。
 
「いや、そうだけど……え、覚えてちゃ駄目な感じ?」
「そういう訳じゃない、んだけど。え、でも……ねぇ笹宮、一番最後に私とまともに話をしたというか……ここに来たの、いつか覚えてるの」
「え? あぁ、うん。覚えてるけど」
「……話した、内容も?」
「えっと…………うんと…………え、あ、……う、うん」

 とりあえず、覚えている(というか記憶せざるを得ない)のでこくりと首を上下に振った。
 僕の肯定に彼女はさらに身を固くし、目を丸くした。表情が凍り付く、というのは今の彼女の顔のことだろう。真っ青にこそなっていないが、おちゃらけた雰囲気が失せて、気まずさのみがそこに残る。
 彼女が口を閉じ、内容を聞くべきか悩むように唇を噛んでいた。桃色の唇が噛みしめられるのを見るのは、あまり好きじゃない。彼女の柔らかそうな唇に傷がつくのは嫌だなぁ、と思ってしまうからだ。彼女は唇を噛むのを、自分が困っている時の癖だと前に話していた。それなら今のこの状況は、彼女にとって困った状況ということだろうか。胸がちくりと痛む。

「ほら、アレだよね。……僕があの賞をとったら、君と結婚出来るってゆう、約束……的な」

 唇を噛ませまいと、僕は出来るだけ明るい声で内容について述べる。ふわふわとした思いはすっかり消えていて、居心地の悪さが心の割合を占めていた。気まずい、と口に出せたなら楽なんだろうけど、僕には道化のように笑うことしか出来ない。
 困惑した様子で視線をそらす彼女の方を、目を細めて眺めた。あぁ、今日も綺麗だなぁと場違いな感想を持ちつつ。

「で、僕はこの前その賞を見事、受賞、した、んだけど……これってつまり、僕は君と結婚出来るってことだ……よね?」

 彼女は手元に視線を彷徨わせるわけでもなく、場を和ませようとするのでもなく。形の良い唇を一の字に結んでいた。彼女が声を発さないので、僕も話しかけにくくなり、お互いに無言に陥る。何なんだこの雰囲気は。まるで、中学二年生の男子が幼馴染の子(女子)といがみ合いをしている時に自分の好きな子が現れ、「笹宮君って、その子とラブラブだね」と言われた瞬間ぐらいに妙な雰囲気だ。

最後まで大好きな僕5 ( No.155 )
日時: 2011/09/23 00:15
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: wzYqlfBg)



 何とかして彼女の表情を晴れさせようと意気込み、じゃぁ仕事について適当に訊いてみよう、と僕は恐る恐る話を切り出した。

「し、仕事って最近どんな感じだったりす——」
「——あ……あ、あのさぁ、笹宮」

 気まずい沈黙を破ったのは、何とこの場で一番苦しそうな顔をしていた(二人しかいないけど)彼女の方だった。
 照明の光をフローリングの床が反射し、輝いている。白い光を何気なく眺めながら「何?」と微笑と共に聞き返した。先に言われたことにへこんでなんかいないぜ、と誰かにかっこいい顔をしてみる。
 頭を下げているので、彼女の表情は全くわからない。声色から察するに、明るく笑おうとして顔をひきつらせてるんじゃないか、なんて。

「笹宮、男と結婚した方がさぁ、よくない?」
「…………。…………………………………………何、何っで、え?」

 じん、と喉が熱を帯びた。彼女の冗談じみた言葉が鼓膜に反響して、両耳がずきずきと鈍く痛む。
 ——男と結婚? 外国でもないのに、何言ってるんだ? てか、何で今そんなこと言ってるの? え、ここってギャグシーン? ギャグパート?
 脳は彼女から与えられた言葉を咀嚼し終えたというのに、問いを受けた僕は一瞬言葉を失った。血液が、真っ白になった僕の脳みそから正常な反応というものを押し出す。そのおかげで、掠れた声で「なっ、なななななんで?」と疑問を返すことができたのだが。

「だ、だってさぁ……」

 ぎちぎちと噛みあわない歯を無理に噛み締め、彼女の言葉を待つ。彼女はさも当然という口ぶりで話し出した。自身の口元がひきつっていることを、彼女は知らないだろう。いつもなら外すことない視線を外してまで、曖昧に喋ろうとする自分の姿さえも。

「だってさぁ、私、男の子同士のアレやそれの方が、興味ある……し。だ、だから……笹宮はさ。私みたいなのじゃなくて————素敵な男の人見つけて、ランデヴーして、結婚しちゃえば良いんじゃないかなぁ!」
「っえ、ええええ、え」

 今まで送ってきた彼女への藍を、ぶち壊された気がした。
 がらがら、どっしゃーん。文章にしてみれば簡単過ぎて、二行にもならない言葉が。僕の脳みそを揺らす。
 ——え、何で? 何で何で何で何で何で何で何で、何でですかっていうか何でですかっていうか、ですか?
 ぐるぐるとまわる視界を落ち着かせようと、眼球を握るために指を伸ばす。指の先が触れたのは、生温い何かだった。ぬるりとした何かは、どうやら眼球が生み出したもののようだ。頬が濡れて、生産が止まらない。

「う、うあぁ」

 声にならないものを吐き出すと、体が楽になった気がした。さぁ、もう一度。誰かが僕を誘う。

「あ、ぇあああ、う」

 彼女にくだらない冗談を言われた瞬間。
 僕は、獏然とした違和感を感じた。
 それは赤ずきんちゃんで狼の腹の中からどろどろに溶けたおばあちゃんが出てきてホラーな終わり方になってしまった時の残念さであり。それは一寸法師で一寸法師という物語が始まる前に主人公が小さすぎて生まれたことすら気付かれずにそのまま話が終わってしまう無念さであり。シンデレラでガラスの靴のサイズがたまたま意地悪な姉の一人にぴったりだった時の虚しさであり。浦島太郎でカメをいじめるような子供たちがカメでなく浦島太郎本人をぼこぼこにして金を奪った時のやるせなさであり。
 まともだったはずのストーリーが、ぐにゃりと歪んだ時の、違和感。
 ——おいおい、僕のストーリーってこんな展開迎えるのかよ?
 嘲るように自分を笑うと、泣きそうになった。

「うぅ……う、うわぁああああぁぁぁあああぁぁぁ!!」
「え、ちょっ——さ、笹宮っ!? 何で、突然走り出して————」

 彼女の続きの言葉を聞こうとする前に。
 気付けば僕は、夕日に染まる道を全力疾走していた。
 馬鹿みたいに重い、段ボールの箱を抱えて。
 



最後まで大好きな僕6 ( No.156 )
日時: 2011/10/11 23:27
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: X9vp/.hV)
参照: 久々っすね


 










 走る、走る、走る。いや——走れ! 唇を噛みしめ、僕は人気の少ない通学路を駆け抜けた。この道は小中学生が通学路として使っている。その中で、平日のこの時間帯では僕ぐらいしか外を出歩いていないというのは珍しい。とにかく人間がいなくて良かった。今の僕を目にしたら、先生を呼ばれそうなのでほっと安堵。犬のお巡りさん(ヒトのお巡りさんでも可)に見つからないのにも、安堵。
 固いアスファルトに足裏を押し付けるように、飛ぶように走る。刺すような冷気を取り込むと、胃が収縮した気がした。住宅の間に素っ気無く立っている木々は褐色をしていて、今にも枯れそうだ。春はいつになったら来るんだろう、そう考えて僕は気がついた。落ち着いて冬を見つめる余裕など、今の僕には無いということに。

「うあぁあわわあああああああああああ!!」

 両手に抱えた段ボールが重くて泣きそうになる。中身が中身だからだろうけど、それでもこのずっしりとした重さを憎まずにはいられない。腕の引き攣りと、びくびくと痙攣している胃が、現在の僕の苦しみを表している。何でこんなもの持ってきてしまったんだろう。鼻水をすすると、視界がにじんだ。彼女の趣味の塊であるこの箱を持ってくることに、意味はない。ただ僕の疲労が通常の五倍にも十倍にも増されるだけだ。
 さっさと目的地に着いてしまおうと、近道である路地裏に飛び込む。少しぬかるんだ足元は、昨日雨が降ったことを僕に悟らせた。
 ————ジュリリッ。
 とか何とか考えをめぐらせていたら、視線が一気に低くなった、と思ったら僕の太ももの裏の筋がつった。びきびき。これは体の中を痛みが駆け巡っていく音。悲鳴をあげそうになる。が、叫ぼうとした喉を押しつぶすかのように、前に倒れた僕の鳩尾に、段ボールがクリティカルヒットした。

「ッづッ!?」

 盛大に舌を噛んだところで、こけた、と気付く。腹に段ボールを抱えたまま前のめりになって倒れたので、傍からみれば、まるで僕が段ボールを愛でている(しかも愛しげに抱きしめている)ように見えるだろう。人がいない路地裏でこけたのが唯一の救い。
 まだじんじんと鈍痛が灯っている太ももを躊躇なく叩き、立たせた。震える膝に力をこめ、両手で段ボールの端を持ち、僕はまた走り出す——そうとした。その拍子に、スライム状のぬかるみに足をとられた訳だが。

「いでぇ! 泣く、もしくは吐く!」

 膝をつくと、わき腹がのた打ち回りたい程の痛みに襲われた。もしかすると、自分が吐きそうになっているのは血なのでは、と疑ってしまうそうな激痛。それでも走ろうとするのはマゾなんだろうか。マゾじゃねぇ、マゾじゃねぇぞ! 「うがぁああああ」と怪獣のように、火の代わりに唸り声を吐きだした。ただし彼女がSならば僕は喜んでMにもマゾにでもなろう、とちょっぴり考えを改め直しす。

「ッ、かっ、彼女パワーぁぁぁぁぁっ、アアアアアッ」

 ——世界の皆さん、もうテメェらの事情なんて知ったこっちゃないのでとにかく僕に元気をください。
 世界中を敵に回す不条理なギブアンドテイク(むしろテイクしかしてねぇ)を心中で叫び、バイブモード中な膝を動かし、歩を進めた。膝がすりむけたので、ちりちりとした摩擦熱が僕の膝小僧を覆っている。
 さっきのような失態を繰り返さないために、まず僕が行ったことは一つ。安全という文字を体言化したような足元を確保することだ。手汗でべたつく箱を抱き直し、人気の無い路地裏から飛び出す。たまたま飛び出したところは住宅地のど真ん中に値するところだった。しかも、先ほどの通学路を使い登校そして下校している子どもたちの家が立ち並んでいる辺りだった。
 これはこの世の理というものだけど、子どもには必ず親というものがいる。「俺の親はサタンだ。この俺の右腕にはその呪いが」とぼやく中学二年生も、「この世界は腐っているわ。大人は汚くて、卑怯よ」と断言する義務教育八年目の子たちも——いや待て、これ両方とも中二じゃね?——全員等しく、男と女で構成された両親がいるのだ。その理屈は勿論のこと、この住宅街に住む子供たちに適応される。
 まぁ、つまり、なんだ。

「……こ、こんにちは……?」
「………………!?」

 路地裏から泥だらけで飛び出して来た僕の前には。
 どこかの家のおばさんが、ぽかんと口を開け、表情を凍りつかせていた。
 ……濃い目のお化粧にお財布という出で立ちなので、きっとこれから夕飯の買い物にでも行くのだろう。詳しい時間帯は知らないが、主婦にとってこの時間帯は買い物に丁度良いんだろう。だから今、道路のど真ん中でゴマ粒のような目をこんなに大きく見開いているんだろう。けして突如現れた不審者(僕)に対して驚きを隠せないとかそういう警察がエキサイティングするような意味合いはないはずだ。決してないはずだ。

「ははっ。今日は、良い天気ですね。雲なんて一つもない、澄み切った青空ですね」

 とりあえず、やましいことは僕には一つもないので、爽やかな笑顔で対応してみた。いや、雲ちょっとあるだろうだとか、そろそろ夕方なのに青空ってお前、とかいう突っ込みは横に置いておく。それよりも、世間に出ることの少ない小説家野郎が作りだした偽物笑いに、この婦人は騙されてくれただろうか。無言の時間が辛い。うなじを撫でる風が鳥肌を誘発し、まだまだ冬なんだと実感させた。

最後まで大好きな僕7 ( No.157 )
日時: 2011/10/12 21:34
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: X9vp/.hV)
参照: 久々っすね



「………………き、」
「き?」

 ——君の名前は何ですか。今日の料理はマミーのチェリーパイさ。今日は良い天気かよお前わかってねーな。……候補はこれぐらいか?
 き、というたった一文字が彼女の口から発された。僕はくたくたの体を休ませることに専念し、逆に脳みそをフル稼働させて、彼女が言おうとしたことを模索する。僕の小説家歴史から導き出されたのは、この三つの文章だった。二番目の凡庸性どこ行った。帰って来い。
 目の前のおばさんは、自身の脂ぎった体を大きく仰け反らせた。ゴマ粒だと思っていた瞳は、ビー玉サイズまで拡大され、驚愕を表す。
 一連の行動を静観していた僕に向かってではない、まるで世界中の人々に伝えようとするかのように。おばさんのフルボイスが、住宅街中に響き渡った。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁあああ! 痴漢よぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「誰がテメェなんか触るかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 冷汗を背中に感じた瞬間、僕はまた疾走を始めた。背後から「間違ったわ、不審者だったわ……」というおばさんもといババァの呟きが聞こえたが、もう遅い。ババァに痴漢という不名誉を与えられてしまった僕は、段ボールの箱の重量をまた感じることとなった。
 ——畜生! 彼女になら喜んで痴漢でもセクハラでもやるのにィッ!
 目まぐるしく変わっていく景色の中で、普段なら考えることもないことを考える。思考回路が焼き切れそうなほど精神を消耗してしまった。絶対、さっきのおばさんのせいだ、と激しく苛立つ。苛立つと共に、犬のお巡りさんが背後からやってきていないか振り返る。「お家はどこですか?」と訊かれた時に、「少なくとも牢屋で無いです」と土下座する覚悟は出来ていた。

「うがあぁああああぁ痴漢とかてめぇえええええぇざけんなぁぁぁああああ」

 足首を捻ったけど、心の痛みの方が遥かに上位だったので下位はスルーした。野良犬が月に向かって吠えるように、雄叫びをあげるように。周囲の民家や人なんて気にせずに、僕は全身から声を絞り出した。段ボールを抱えた泥だらけの男が、今にも泣きそうな表情で走っている。他人から見れば、無様以外の何物でもない。目的地までこの調子で行けるんだろうか——その疑問が脳裏をよぎった時、新たな疑問が芽を出した。
 ——僕は、一体どこに向かってるんだろう。
 その辺にあるスーパーまでの距離だとか、場所とかじゃなくて。未来に存在する僕の場所は、どこにあって、僕はどうやって向かってるのか……という意味で、だ。
 やがて、声を出すことも億劫になってきた。昔ながらの駄菓子屋として皆に愛されているとある店の角を曲がり、僕は考える。

「…………どこに、向かってるのかなぁ、ッ、ほんとーに……」

 笹宮因幡という小説家がいるのは、あのマンションの一室だ。逆に言えば、小説家として生きていられるのはあの領域しか無いってことになる。一歩外に出ると、僕は小説家ということを理解してもらえない。ぱっと見、ただのフリーターか自宅警備員ぐらいにしか見えない。
 かと言って、世間に一目で分かってもらえるような仕事をするのも考えられないし、マンション以外に帰る場所もない。あの部屋でしか、僕は僕としての人生を歩めないのだ。

(あぁ、そうだ……帰る場所が、僕にはない)

 帰る場所第二候補として、真っ先に思い浮かぶのは自分の両親が住む実家。でもまぁ、良い年した大人がへらへらと困ったように家の中に入っていくのは、ご近所様への印象が悪い。金が無くなった次男坊が、親に愛情(と書いてマネーと読む)を求めに帰ってきたとしか考えられない。僕は長男だし、兄弟は妹しかいないけど、やっぱり実家に腰を落ち着けるのは気が引ける。
 ——てか、妹とかめちゃくちゃ嫌がりそうなんですけど……。
 恐るべき、思春期。あのアルファベットの最初の文字を三つ横に並んでもまだ足りない、そんな表現が当てはまる胸の持ち主である妹のことを思い出す。僕が大学二年生だった頃に、一度だけ着替え中の妹と遭遇してしまったことがある。あの時に食らったボディーブローは、世界という言葉を感じさせるものだった。
 ……と、妹について考えていると、塀に勢い良く衝突してしまい、手の甲と塀が熱いキッチュを交わしてしまった。ざりりと荒い表面が柔らかい肌を抉り、甲に赤い筋と激痛を幾重も残していく。

「痛ェ! でもやっぱ走れ、走れ僕ッ!」

 薄汚いマンションの一室——僕だけの小さな世界。
 あまりにもスケールの小さい世界から、僕は初めて飛び出した。段ボールをお供に、それも自分の足で。
 生まれたてのバンビより、息絶え絶えな蚊という例えの方が似合う今の僕。日頃ろくに運動もせずに、キーボードを叩くことしか出来ない、無能な僕。ほら見ろ、妄想野郎が現実を突きつけられたらこんな風になるんだぞ、妹よ。どこかで卒業を祝っているであろう妹に語りかけた。

「飛び出したお前の兄貴はッ、こんなに弱いんだぜいもォォォォォとォッ!」

 小さな世界の外側には、もっとすごくてでかい世界が、待ち受けていた。
 ——じゃあ、今まで囲戸の中で喉を震わせて鳴いていた蛙には、このだだっ広い海に居場所はあるんだろうか?
 あるんだろうか、と自分にきいた際に、段ボールの中身ががたりと音を起てて揺れた。どうやら乱暴に扱い過ぎたらしく、上の方が少し開いている。その音で僕も詩的な自分に気づいた。あるんだよ——そう、大好きな誰かさんに肯定して欲しい自分が存在していたことにも、無理やり気付かされる。

(荷物を捨てるだの、役目を捨てるだの……ほんッと甘ったれてるなぁ、僕)

 無駄にかっこ良さ気がなことを吐いていた自分が、ただただムカつく。そういう主人公っぽい、キマる言葉を世界に零すのは、僕の役割じゃない。ていうか、そんなこと出来るわけがないのだ。こんな弱虫が立つポジションは、主人公なんていう言葉は不釣り合いだ。
 出来る訳がない、と苦笑いを浮かべる僕を叱りつけるように、冷たい北風が僕の肌をちくちくと刺した。

(…………大好きな彼女の言葉から逃げた、僕なんかに)






最後まで大好きな僕8 ( No.158 )
日時: 2011/10/20 20:59
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: X9vp/.hV)
参照: 久しぶりだって良いじゃない、そうじゃない












「うっ、がっ、いっ、うびゃぁああああああああ」

 足がもつれる、舌噛む、浮遊する!
 軽快な三テンポは、川沿いの道から河川敷まで転落させるには十分だった。段ボールを胸にしっかりと抱きしめた状態で、「あばばばばば」とローリングで坂を下ってしまった。スタイリッシュ過ぎるぜ、僕。短めに生えた芝生が、顔や体中を苛め倒した。河川敷に転げ落ちた僕は、痒さと痛みのお徳用パックを与えられてしばしの間悶える。がりがりと頬が石粒にそがれているので、血だか汗だか分からない液体で顔中がねとねとになっていた。
 足、舌、眼球。三テンポに合わせたのか、痛みもしっかり三等分されて僕に苦しみを味あわせていた。どんな三等分だ。

「つッ…………着いたってばよ……ぐへぇ……」

 三つの箇所を激痛に染め上げた末にやってきたのは、近所の河川敷だった。
 部屋を飛び出してきた時には青かった空も、だんだんと夕方の色を含み始めている。本来ならば空を仰ぎ、その美しさに目を細めるのが一般の方々の反応なんだろうが、疲弊した僕には空なんてどうでも良かった。上半身を石の集団の上に放り出し、大の字になっている僕は——内臓を吐きだしそうなぐらいの勢いで酸素を求めていた。二酸化炭素を吐き出し、空気を肺いっぱいに取り込む。川の近くで、僕は異様な姿で息をついていた。
 首に集う熱を潰すように、寝ころんだ姿勢で自分の足を見つめる。「もやしっ子、むしろもやしのひげっ子?」と彼女に以前評価された自身の足は、びくびくと痙攣をリピートしていた。暑くてたまらないので、ジーンズの裾を引っ張って足を露出させてみる。女の子並みに細い脚が出てきたので自己嫌悪に浸った。

「っくしょー……結婚却下されたし……足いてーし……息すげぇしゴホガハッ!!」

 口の中の唾液が気に食わずに、唾を吐く。血が混じっているようで、口の中が鉄臭い。奥歯を噛みしめて、まぶたを下ろしたくなるのを堪えた。やっぱり日頃から運動をしていないと、疲れた時にすぐ眠たくなってしまうので危ない。実際、今の僕のコマンドには「寝る」と「眠る」と「ゴゥトゥベッド」しかない。血のせいで嘔吐感も増し、酸素が足りない頭ががんがんと痛んだ。
 黄色と水色がどろどろに溶けあう空は、まるで溶かしたバターをプールに流しいれた時のような淡さだった。バターをプールに入れたことなんてないけれど、陽射しの黄色に侵食され始めたこの空への表現は、ナイスだと思う。ナイス僕、とどや顔で自分を褒めてみる。むなしい。
 彼女の「ユー、男と結婚しちゃいなYО」攻撃に傷ついた心は、自己修復しようとじわりと粘液を生む。ねばつく液体は心臓から血管を通り、そして頭部————視神経にキた。視界の端から、正常な世界が解けていくような感覚を味わう。走る最中は隠れていたのに、粘液は今になって突然やってきた。

「……うぅあぁ……何で今頃泣いてんだよ僕……。……くっそー、まじでくっそー!」

 がん、と普段キーボードを打つことしかない左手で、石ころの一つを殴った。当然だけど痛い。涙が鼻から漏れてきそうだった。骨折れたんじゃないのかな、と無駄にチキンな心配をして手の甲を見ると、赤くなっていた。めったに日に焼けることのない肌にくっきりとついた石の赤い丸はよく目立つ。もう一度言っておく、めっちゃ痛い。
 腹の底からふつふつと湧いてくるのは、マグマのように熱い何か。額に汗、目に涙を浮かべて、僕は雄叫びをあげた。「うおおおおおおわッ、げふッ、うばぁ」気管に鼻水が入り、咳込む。塩辛いものが喉の奥に召喚され、心臓をぎゅるりと締め付ける。
 まだ痛む拳で眼球を押し潰し、外へと粘液が零れないようにした。

「泣いてんじゃねぇ、泣いてんじゃねぇぞ笹宮因幡ァ!」

 とにかく、彼女の言葉のせいで泣きたくはなかった。それだけが、僕の虚栄心。
 彼女が言った言葉のせいだ、彼女に言われなければ泣かなかった。そんな言い訳をするような——彼女に責任を押し付けるような馬鹿な男には死んでもなりたくない。だって、彼女は自分の気持ちを遠まわしに告げただけなのだから。それを捻じれた解釈をして、恨むようなことはしたくはない。潔く、引き下がりたいのだ。彼女のことが最後まで大好きな男として。

「なんつって、未だに未練たらッたらなんスけどね僕! だって彼女の言葉に傷ついてるし、何かイライラしてるし! ひゃっほぅ、ヘタレ王に僕はなる! ……みたいなさぁ」

 ——やっぱりさぁ。僕は、カッコ良く去っていくヒーローのようにはなれないっぽいなぁ、うん。
 自分に見切りをつけた分、僕の肩に乗っていた何かは軽くなった。悲しみにどっぷりと浸かってゆくテンションをあげるために、僕はひ弱な腹筋を使って上体を起こした。お尻の方にゴツゴツとした石の感触。
 あぁ、起き上がってみて今知ったんだけど。どうやら僕は、相当周囲から変人に思われていたらしい。河川敷の遠くの辺りでサッカーをしている少年たちが、ちらちらとこちらを不審そうな表情で窺っていた。やぁ、諸君。これが振られ男という奴だよ! 友好のつもりで片手を軽く挙げて応えると、逃げられた。土手の方を見上げると、高校生らしき女子数人が、寝転がっていた僕を虫けらを見るかのような視線で射抜いてきた。その数人は良かったんだけど、その数人の後に一人で歩いていた女生徒(遠目にしかわからないけど、結構な美人さんだ。いや、彼女には劣るけど)が、冬の厳しさよりも冷たい目、さらに真顔でこっちを眺めていたので、めちゃくちゃ死にたくなった。

「……あーあ、みんな引きこもりの小説家には厳しいんだっつーの」

最後まで大好きな僕9 ( No.159 )
日時: 2011/10/20 21:03
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: X9vp/.hV)
参照: 久しぶりだって良いじゃない、そうじゃない

 不安定な足場の上。びきびきと引き攣るふくらはぎを殴りつけ、立ちあがる。立つ際に、ぐらりと目眩を起こした。視界が前後に揺さぶられ、眠ってしまいたい衝動に駆られる。コマンド、寝————ってそうじゃないだろう僕。ばしんっ、自分で自分の横面を容赦なくはたいた。その衝撃に意識が飛びそうになったけど我慢。
 短い呼吸を続けながら、僕は投げ出していた段ボール箱に歩み寄った。至近距離から、その茶色い四角を見下ろす。

「……っ、はぁ、はぁ……はぁ」

 思考に薄もやがかかり、いまいち酸素が足りていない。いまいちキレが足りない、みたいな調子で何言ってんだろう僕は。自分の呼吸音が耳触りで、僕は耳を捻った。
じっとりと汗をかいた首筋をシャツの襟で拭う。湿った手で段ボールの箱を開けた。目に飛び込んできたのは、隙間なく敷き詰められたピンク。そのピンクは————彼女が僕の部屋でいつも読んでいる、ボーイズラブの本の数々。
 一冊。
 僕はずらりと並んだピンクを手に取った。表紙には、またかというか、でしょうねというか。やはり、男と男が絡み合っていた。お互いに頬が紅潮しており、そこには濃密な桃色世界が————

「————って、ふざけんな畜生おおおおおおおおおオオオオオオオオ!!」

 咆哮、WITH、本を破っ、た!
 勢いに任せて、縦に本を引き裂く。裂かれた本(死亡)の表紙は、見事真っ二つだ。絡み合っていた男二人が、裂かれたぎざぎざラインを境にして引き離されている。その表情が少し切なげに見えなくもない。こんなことを考えるってことは、僕も彼女の毒素に侵されてきているのだろうか。

「誰がっ、男とっ、結婚するんだよ馬鹿やろーっ!」

 叫び、自分の境遇を嘆き、また叫んだ。彼女の気まずそうな笑いが忘れられない。今、僕は怒っていた。でもそれは僕との約束を裏切った(もといはぐらかした)彼女にじゃなく。どこまでもヘタレで、こんな風に本を破るしかない自分に対してでありまして。
 登場人物たちの物語を壊すように、ページを細かく千切っていく。一冊目を紙切れにしてしまうと、自然に二冊目に手が伸びた。まず、カバーを両手で掴み一気に引き裂く。次に、破ったそれらをさらに細かくしていく。僕は喚きながら、その行動を繰り返した。

「てか、男同士で結婚できねーよ! アメリカか、アメリカ行けばいいのか!? 笹宮因幡がイナバ・ササミーヤになるのかコラァ!」

 体の中にたまっていたものを、爆発させる。からからを通り越してもはやいがいがになった喉は、まだ大声を出せた。意外だ、と驚きながら五冊目の本を紙屑に変化させる。

「君が望むことは何でもやるし、嫌なことはしたくねーと思うけどさぁ! でもさぁ、アメリカには行きたくねーよ! だって、君に会えなくなるじゃんかぁ!」

 じくじくとした熱さが、指先に灯る。よく見ると、手の平に血がにじんでいた。乾燥肌のくせして、指を無理に動かしたせいだ。プラス、インドア派のくせして物語の主人公みたいなクール系のことをやったから。爪と肉の間から、濃い赤色が流れ出す。それでも、僕は叫ぶのも、本を破るのもやめなかった。
 この本の山さえ無くしてしまえば。彼女の気持ちがこっちに向くんじゃないかって。
 そんな淡い期待を抱いてしまったから、止まるに止まれなくて。

「君に会えなくなるのは、絶対嫌なんだよ、僕は!」

 十冊目。印刷された活字が指の腹につき、黒くなる。ぶれる視界の中で、さっきの少年たちがサッカーをしているのが見えた。比較的こっち側に近い位置に立っている少年Aが、僕の方を気にしているような素振りをしている。おいチラッチラこっち見んな! 少年Aじゃなくて山田太郎君って呼ぶぞ山田! ……半ば嘘に近い言葉を投げかけるか迷う。無難に、「こんな大人になってはいけないよ」と紳士ぶってみた訳だけれど。以上、全て心の中で行われた悶々。十三冊目をブロウクンした。

「あんな風にフラれても! あんなに困った感じで話されても! それでもさぁ、それでも! 大好きなんだよ、君のことが!!」

 …………(びっくり中)。
 一瞬、自分が発した言葉に作業の手が止まった。一瞬の躊躇いが僕の中の良心を揺さぶり、本を破ることを迷わせる。同時に、ぐちゃぐちゃだった脳がクリアになる。
 ——大好きなんだよ、君のことが。
 さっきの自分の言葉が、眼球に貼り付いていた何かを剥がす。剥がされた何かはとけて消え、代わりに鮮やかな感情が噴き出した。十八冊目。摩擦で指が焼ける。

(何だよ、僕)

 二十二冊目は、紙の素材が違ったらしくて、破るのにちょっと手間取った。だけど破り捨てる。二十三冊目。
 心の隅っこがむず痒い。さっきまで辛い、悲しいとほざいていたはずの心。今でも彼女の言葉を考えるとずきずきと痛い心。だけど、覚えていた。彼女に裏切られてても、僕自身の弱さを目の前に突きつけられても。覚えていた。この感覚を。
 この——むず痒いような、温かいような、幸せな、感覚は?

(結局まだ僕は————彼女に恋、してんじゃねーか)

 少しの間黙った僕を、遠くにいる山田(仮)という少年が不思議そうに眺めている。やがて、他の友人に名前を呼ばれて試合へと戻っていく。土手を歩いていたおじいさんは、ようやく静かになったかと言わんばかりに満足そうに白いひげを撫でで、風景の鑑賞に勤しんでいた。女子高生たちは、はなっから僕なんて相手にしてなかったみたいに、個人の談笑に花を咲かせ始める。
 そんな中。僕はたった一人で、こみ上げてくる嬉しさをこらえきれずにいた。涙なんかを吹っ飛ばすようなその感情が、崩れ落ちていた僕の手をとる。
 誰もいない空を、涙と汗でぐちゃぐちゃの顔で仰いだ。どこかにいるであろう彼女に向かって。思い切り、声を出した。

「僕は、女々しいし、ヘタレだ! こんなに好き好き言って気持ち悪いって思われてるだろうけど! まだまだ、君の期待に答えられるような小説家じゃないけど!」

 彼女は、僕と違ってエリートで、美人で、要良の良い編集者だ。こっちの業界じゃぁ、彼女の名前は有名だ。だからこそ、僕のような若手小説家とは釣り合わない。今回、彼女との約束のために頑張って賞をとったけれど、きっとそれだけでは僕の価値は上がらない。もっともっと、僕は有名になって、小説家としての自分を高めていかなくてはならない。
 ——誰よりも素敵な彼女の横に、並ぶために。

「僕がまだまだ未熟ってことはわかってるから、だから、せめて君に釣り合うぐらいの男になるまで! 君の隣で、——…………」


最後まで大好きな僕10 ( No.160 )
日時: 2011/11/08 22:15
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: X9vp/.hV)
参照: テ ラ 遅 い で す ね



 君の隣で。
 その先が、続けなくなった。
 君の隣で僕は何をしていたいんだろう。新しい疑問が芽を出す。風が頬をゆるく裂いて痛みを伴った。君の隣という単語が僕の視界を埋め尽くして、目眩を起こしそうだ。
 口元に孤を描いて愉快そうに微笑む彼女が何度も脳裏にフラッシュバックして、……っか、顔が真っ赤になってきたってどゆことなの! ぎゃひゅ、と息を洩らして熱くなってきた頬を両手で挟みこんだ。
 ……か、彼女要素が足りないせいで笑顔なんかで顔が熱いってわけですね、わかりま——わかんねー!
 頭をわしゃわしゃと掻き乱し、気恥ずかしさを有耶無耶にしようと頑張る。背骨が悲鳴をあげるのも無視して、大きく仰け反ったまま、不安定な姿勢を維持した。両ひじを空に向けて、頭を両掌で包み込む。

「っは、はははは……」

 上身を斜めに構え、僕は乾いた笑みをぼろぼろと零した。今さらながら足の裏がすごく痛い。痛みを堪えようと、頬を引きつらせてさらに笑った。
 ——そうだ、僕がしたいことは。
 僕が、君の隣で。これから、していきたいことは。息を吸いこんで、吐く。うむ、やはりまだ寒い。
 いつだって僕の行動は単純で、言葉は率直で愚直だ。主人公のキャラは一貫していないと、読者が困ってしまうではないか。
 だから、僕は息を吸い込む。単純で率直で愚直な愛の言葉を空へ飛ばすために。
 君の隣で何をしたいか、考えたそれを、爆発させるよう、にっ!

「君の隣で! 僕はっ! ずっと! 人生の残り時間をっ! 君のために、小説を書いていたいぃッ!」

 声が裏返り、書いていたいという意味のはずが書くと痛い、みたいになってしまった。ついでに。びくっ、遠い向こうで少年山田君が怯えているのが観測出来た。
 君の隣でこれからずっと、数十年間、小説を書いていたいということは。
 簡単に言うと、君と結婚したいってことで。
 つまりは、まぁ、つまり、だ。

「君のことが大好きだァァァァァァ!! 結婚してくれッ、漆原っ、雅ィ——ッ!!」

 限界、が、来た。
 ぐらりと体が前後に揺れて、酸素が欠けた脳内がにゅるにゅると立ち眩みを促す。ふんぬ、と先ほどと同じように踏ん張ろうとしたけど、本格的に身体に疲れがのしかかって来て、立っていられない。世界中のみんなに元気を分けてもらおうと両手を挙げ、逆にそれがバランスを失わせて、僕は呆気なく倒れこんだ。
 尻餅をつき、生まれたての小鹿(小さい馬鹿の略)のような膝を横目に、苦笑い一つ。走っている間にたまっていたいた重みは、腹の中からその存在を消滅させていた。すっきりした空気が、鼻の穴から胃へと流れ込む。

「…………はぁ」

 心臓の音が、とくとくと小さくそして静かになっていく。高なっていた鼓動が落ち着いていく感覚を手の平越しに感じる。一息ついて気付いたんだけど、耳が結構冷たい。きりきりと痛む。
 耳を指で摘み、大の字に寝転がった。体全体の筋肉が引き締まるような感覚を覚え、むず痒さが二の腕に集う。今、上空からミサイルとか飛んで来ても避けられそうにない。カラスが家に帰ろうと、視界の端から端へと飛んで行く。
 しばらくの間、僕は体の力を抜いてそうしていた。オレンジ色に染まりつつある空を、ぼんやりと。猛烈にみかんを食べたい衝動に襲われた。だけど僕は室外にいるので、みかんの皮を向こうと伸ばした手は空気をかするのみ。喉が渇いて仕方がない。
 
「うだー……疲れたー、うぱー……」

 体中に残された倦怠感。ぎしぎしと軋む体とは対照的に、僕の心はやけにすっきりとしていた。
 首筋に刺さる芝生の感触がくすぐったくて、身をよじる。草の一本一本が外の空気を含んでいるようで、頭を静かに冷やす装置みたいだ。叫ぶ時はあんなに汗だくで愛が溢れていたというのに、冷静になった今ではシャツがぐしゃぐしゃで気持ち悪いっていう感想しか無い。これだから現実は、と二次元にはまっているタイプ人特有の苛立ちを口にしてみた。
 と、そこに。

「…………うぉ?」

 ザッ、ザッ————草を踏みしめる音が、僕の耳に届いた。
 首のみを稼働させて、土手の方へと目をこらす。行動範囲を大きく超えた眼球の動きに、付属品として涙が滲んできた。
 頭部オンリーで視界を確保しようとした僕が得たのは、逆さまの世界。緑色の影の向こうに、タイツを履いた艶めかしい女性の足が垣間見えた。「うあー」喉から変な擬音を発しながら、そのタイツ足がやってくるのを見守る。がらがらの掠れた声だったので「ぶばー」という仕上がりになったけど。