ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ
- Re: 艱難辛苦 ( No.9 )
- 日時: 2010/11/12 20:23
- 名前: 桜音ルリ ◆sakura.bdc (ID: O29y0LyQ)
その夜、とはいえ、日が沈む前から、客人を交えた宴会が始まっていた。
武田信玄、今川義元、上杉謙信他、戦国の世での有名どころがいかな縁あってか集って酒を酌み交わしている。
正式に同盟を結んだわけでも無かろうに、これは異様な光景であった。
そして、その中に、小柄な少女が一人混じって、武将達の間でもみくちゃにされながら宴会に参加していた。
彼女は明らかに異質な雰囲気であり、着物にも慣れない様子であった。
姫、と誰かが呼んでいたので、どこぞの名のある武家の姫だろうか、と女中の誰もが思っていた。
「稲! 酒だ!」
「かしこまりましてにございます。」
側に控え、酒を注いで回っている女中に紛れていた稲は、足音も静かに上座の氏康の元へと進んだ。
どうぞ、とゆっくりと杯に酒を満たしていく。
それを楽しげに見つめていた氏康は、ありがとよ、と静かに告げた。
注ぎ終わり、下がろうとした稲に、声をかける男がいた。
氏康公の右腕、松田憲秀である。
「稲。」
「のり……松田様、お注ぎいたしますか。」
「いや、酒はまだある。」
「…ああ、畑でございますね。きちんとお世話いたしましたので、ご安心くださいませ。」
「そうか、悪いな。」
「いえ、とんでもございません。」
僅かに笑みを見せる稲に、憲秀も微かな笑みを見せた。
「稲! 酒!」
雨を呼ぶ氏康は、酒の無くなった杯を逆さにして見せて、不機嫌そうに目を細めている。
振り向いた先の彼の様子を見た雨は、目を見開いて、眉を寄せた。
「殿、少々早くは……」
「早く!」
「かしこまりました……」
あまり無理は、と忠言する稲の声は、ひそめられていたが、案じた気持ちがこもっている。
氏康は、一瞬口をつぐんで、わかってる、とため息まじりに告げた。
酒や料理を運んでいた女中達を、稲のみを残して下がらせ、宴は続いていった。
そして。稲、と政宗が真剣な表情で呼ぶ。
武田信玄に酒を注いでいた稲は、はい、と返事を返して、下がり、氏康のそばへと戻った。
氏康のそばには、姫、と呼ばれていた少女が、緊張した様子で正座している。
いつの間にか、騒がしかった宴の席は、音をなくしていた。
「稲、お前に頼みたいことがある。」
「はい。」
「天女の世話を頼む。」
「はい。」
稲は、あっさりと頷いた。
辺りは更に静まり返る。
そっと、憲秀が声をかけた。
「……稲、もうちょっと考えるそぶりを……」
「私は殿の命に従います。」
「……」
再びのあっさりとした物言いに、憲秀ばかりでなく、武将達も呆気に取られて口をあけて惚けていた。
そんな中、氏康だけが、愉快そうに笑ったのだった。
「さすがだ、稲。天女とは、そこにいるお姫様のこった。宜しく頼むぜ。」
「はじめまして、姫様。稲、とお呼びくださいませ。」
「は、は、はじめまして! 宜しくお願いします!!」
弾かれるように手を差し出した少女。
稲は、じっとその手を見る。
そして、何かを懐かしむように、目元を細めさせ、そして、少女の手を取った。
「まあ、なんだ、彼女は……未来から来たらしい。」
「左様にございますか。」
再び、宴が再開され、しかし、何故か氏康と義元が取っ組み合いの喧嘩をはじめてしまった。
それをはやし立てる武将達。
その中でも、ちゃっかりと姫と呼ばれる少女の肩を抱いて、甲斐の国について語る武田信玄が印象的だった。
氏康の杯に酒を注いでいた稲は、注ぎ終わった後、楽しそうな主たちを見遣った。
憲秀の話では、姫は未来からやって来た少女で、帰る方法を探しているという。
天から合戦場に落ちてきた少女を、皆が天女だと崇めた。
そして、未来を知り、不思議な力を持つ少女は、人の心を不思議にひきつけた。
戦国の世には無い姫の雰囲気に、戦いに明け暮れる武将達は惹かれる。
それは、氏康公も例外ではなく、姫をたいそう気にいっているらしい。
それが、好奇心からかひとめぼれの恋心かは判断がつかないが。
誰もが姫を意識してみているのだとわかる。
稲は、その様子をぼーっと眺めていた。
「稲……」
「なぁに、のりっち。」
「特別は嫌だと、言っていたな。」
「うん。」
「今でもそうか?」
「平凡が一番よ。」
「……そうか。」
姫がほしい、と武将達の目が訴えている。
憧れや恋や、いろんな感情が渦巻いている。
稲は、小さくため息をついた。
「めんどくせ。」
「……稲、言葉遣い……」
「わかってるよ、のりっち。」
憲秀の背に隠れて、こきり、と肩を鳴らす稲。
憲秀に差し出された小さな杯に、手酌で酒を注ぎ、コッソリとあおる。
そして、ぽつり、と呟いた。
「姫が誰かと恋に落ちて、この地にとどまる、と決めたら、姫の変わりに家に戻れないかな。どう思う、のりっち。」
「……俺に聞くな。」
「It's pain in the neck.(やっかいだな。)」
「南蛮語はわからん……」
「ま、そのうち何とかなるよね。ていうか、姫はちゃんとタイムスリップじゃないってわかっているのかな……」
此処がとある戦国ゲームの世界だと気づいているのだろうか、と呟くと同時に、声優萌えー! という姫の叫びが聞こえてきた。
「あ、お仲間。」
どうやら、腐女子のようだ。
稲は、よかったね、とやる気なさげにつぶやく。
「ああ、お前と同種らしいぞ。……よかったな。」
「どうだろね。」
憲秀の、疲れた様子がにじみ出た返答に、なにかされたな、と思い当たる稲。
だが、自分に危害が無いのならば、どうとでもなろう。
「彼女がとどまるか帰るか選ぶまで、黙ってお世話いたしましょ。」
「お前ももっと真剣に何とかしようと思えばいいものを……」
「ほっとけ。」
憲秀と話し続けていると、喧嘩を終えたらしい氏康が、稲、酒だ!と叫ぶ。
かしこまりましてにございます、とすぐさまキリリと仕事用に切り替えた稲の姿に、女はすごい、と改めて感服する憲秀であった。
北条氏康公が居城、米沢城。
相模の獅子が天女を連れ帰ったと瞬く間に全国に知れ渡ることになるのだが、ずっと彼の地に住み着いている天女のことを知るものは少ない。
最初の天女の名は稲こと本田 稲。
彼女のことが2人目の天女と同じく知られることとなるのは、もう少し先のことである。