ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ
- As Story 〜6〜 ( No.27 )
- 日時: 2011/05/10 08:24
- 名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: 4pf2GfZs)
アビーから殺気がほとばしり、その圧倒的な気迫に怖気ついた光曳が回避の体勢を整えていた体を無意識のうちにこわばらせた。愚劣な餌食が理想的な反応を示した瞬間を百戦錬磨の運び屋が見逃すはずがなかった。アビーの真一文字に閉じられた口に行く手を阻まれた自身の呼気が鼻腔を伝って鬨の声ならぬ鬨の鼻息を鳴らすのと同時に、光を湛える脇差がアビーの右側面から光曳の左脇腹へ一毛の迷いもなく虚空を切り裂きながら一直線に移動した。光曳も日ごろは絶対に出せるはずの無い動体視力と爬虫類的な瞬発力で真ん丸い体躯を左に捻り、薬物で狂ったように襲い掛かる猛牛を鮮やかに料理する闘牛士の如く、シャツ一枚切らせて凶刃をかわした。
しかし、今度のアビーはすぐさま光曳の体格、性格からは到底想像することが不可能な俊敏な動きに反応し、先程の脇差の突きで鋭く踏み込んだ勢いを殺すことなくターゲットに向かって巨躯を転回させた。
光曳の眼球は老後の分まで前借しても足りないくらいの運動能力を要求されていた。目の前で脇差の突きが不発に終わり、前方につんのめるはずであった覆面がネコ科最速の猛獣さながらに減速無しに90度左に転回、しけた口笛に似た音を発しながら覆面の右手おさまっているひかりものは光曳の大玉ころがしのような体躯の鳩尾を一条の白い閃光で結ばれようとしていた。
今の光曳の肉体は——原因不明ではあるものの——数値として測定可能な能力はなべて平時の数百パーセントに及ぶ上昇を見せていた。が、しかしアビーに2度斬りつけられて以降この男の体の動作が1撃目をかわした時に比べ目に見えて鈍重になっていた。光曳自身もこの忌々しい肉体の異変に気づいており、時間とともに悪化する一方の状況に男の心臓はマシンピストルのとして世界中に名を馳せたH&K社MP5のフルオート射撃顔負けの早鐘がけたたましく鳴りはじめていた。その間にも血に飢えた覆面の死神が第3撃。4撃と淀みなく脇差による斬撃を繰り出し、前の一撃は右前腕の皮一枚を切り裂き、後の一撃は光曳の左わき腹をより深く抉った。
覆面の最初の一撃を喰らう前の達観するような諦念の観は完全に雲散霧消となり、その身にじっとりとまとわりつく恐怖と焦燥に覚えず四肢を震わせていた。
女性の肉体を髣髴とさせる曲線の造形美を備えた鋼の刀身に毒が塗布されているのか。それともあの刃が冷徹な意志を以て喰らってきた幾多の人間どもの血肉が怨念と化し、一介の武器に対象物の力を奪い去る能力を与えたのか。光曳の脳は溢れ出るアドレナリンによってかつてない能力を発揮し、死線を股にかける攻防の中に放り込まれ、体が怖気ついていうことをきかない現在の状況においても自分をこのような苦境に陥れた元凶を探っていた。
だが才気あふれる小説作家でもなければバロック派音楽に感銘を受ける気品豊かな中世の貴族でもなく、決して触れることのできない虚構の住人を漫然と眺めて鼻の下を延々と伸ばし続けるしか能のない光曳が如何に想像力を巡らせてみたところで、その瞳孔に映る光景の裏に潜む災厄の根源を看破することなど、この男が改心して世のため人のために自衛隊に入隊してPKO部隊に配置されることを希望することと同じくらい難しい話であった。
ある二つの特別な手続きを執り行った場合を除いては……。
それは、光曳のような凡庸はもとより野卑で淫靡な人間でも永劫に続くような試行錯誤や冒険を飛び越して最短距離でその答え——光曳が突如爬虫類的な身体能力を発揮したり、すぐその能力が急速に失われつつある原因——に辿り着くことができるという、極めて有用なものである。手続きをする際に伴う行為自体も特段肉体的、精神的苦痛が伴うものでは無い。だが、目を覆いたくなるような残酷さで満たされているこの世界で、——現世にはいないので適切な表現ではないかもしれないが——生死を分かつ熾烈な攻防を繰り広げている男は文字通り八つ裂きにされる危険を孕みながら、悠長に2つの手続きを行う余裕など無い事は火を見るよりも明らかであった。そして、発射した方向へ単細胞な猪の如く突進するRPGよりも撃ちっ放しで自動追尾するジャベリンミサイルの方が桁違いにコストがかかり、綺麗なバラ若しくは女には棘があるように、もし成功すれば万能なこの手続きも相応の対価とも言うべき、実行の際の前提条件が存在した。しかしこの前提条件を満たそうとすれば、あまりに肉体的、精神的苦痛を伴うため、自ら望んでしようとするものは皆無であった。過去この手続きが成立した全てのケースにおいても、手続きを執ったきっかけは前提条件が偶発的に満たされたためであった。