ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ

As Story 〜2〜 ( No.3 )
日時: 2011/03/06 10:19
名前: 書き述べる ◆KJOLUYwg82 (ID: st6mEGje)

 先程よりは幾分か機敏に立ち上がると、斜め左後方にあるバルコニー入口の窓に向かった。男は何も履いていなかったため、冷え切ったフローリングに男の足型の曇りが見える。

 外の様子を確認するため、カーテンを開く。深更の凛とした冷気の中、入りに向かう下弦の月がおぼろげに光を放ち、マンション周辺の家や道路を柔らかく照らし出している。男のいる部屋は照明を点けていないため、外からはこの部屋は相対的に暗くなり、カーテンの傍にある人影に気付かれることはない。

 男の居る部屋は25階建ての高層マンションの10階に位置しており、マンションの正面には舗装の真新しい片道2車線の道路が走っていた。この道路は、都市計画に則って整備されたものであるため、直線が多く道幅も余裕を持ってとられている。そのため、週に2,3度は深夜に走り屋が猛スピードで目の前の道をかっ飛ばしていく光景が見られる。今夜はその日では無いらしく、その手の車はもとより、タクシーや運送業のトラックも見当たらない。マンション付近の街路灯に併設された電撃殺虫器に、バチッバチッとヒトリガが焼かれる音がいつもと変わらず響いている。

 ところで電撃殺虫器は、ヒトリガをはじめとする蛾の類が光に向かって飛んでいく習性を利用したものである。非常に古くから蛾の類のこの習性に気付いていたようで、西暦500年代の梁という国で書かれた『到漑伝』という書物の中に「飛んで火にいる夏の虫」の諺の由来となる文章が残されている。約千五百年に渡り、同じような仕組みで蛾は人の作り出した火や、火の代わりになる物によって焼かれているのである。あまりに愚かではないか。少々話が逸れてしまった。

 突然、男は何か閃いたかのように、ぐるりとその大柄な体を返し、真っ直ぐに前を見る。まだこの部屋の暗闇に完全には慣れていないため、男の付近の壁紙や家具を視認するのがやっとであるが、視線の先にある闇の向こうには玄関の扉があるはずであった。

 時間が経つにつれ、漆黒の闇と思えたこの空間も、薄っすらと家具や壁紙の模様が判別できるようになっていった。幾つかの照明のスイッチについているパイロットランプが、小さな赤い点となって玄関まで続いている。筋金入りの不精な男は、照明のスイッチを点けるのを面倒に思い、パイロットランプを頼りに玄関に向かおうとした。

ゴンッ……ガンッ

 4歩目を踏み出したその時、男の左足の小指が家具の足にクリーンヒットし、思わず屈んだ瞬間、今度は同じ家具と思しき硬いものの角に額を強打してしまった。


「あうぅ……」


 突然我が身に降りかかった二つの激痛に、声にならない声を上げて男の体が真横に踉いた。爪先を抱え、小さく蹲る形になっていた男は、体勢を立て直す事ができずにそのまま、どさん、と床を撓らせて倒れこんだ。

 しかめた顔を前に向けると、全てのものが90度左に倒れている視界の向こうに、鉄製の玄関が見える。男は痛みを紛らわそうと寝返りをうった。世界が静寂を保ちつつ左から右へと流れていき、最後には90度右に倒れている遮光カーテンが目に入った。

 直ぐに静寂が戻り、壁に掛けられたアナログ時計の秒針が律儀に時間を刻む音が居間に響き渡る。


「梓!こんな時間にうるさいぞ」


 玄関の脇の部屋から父親の怒鳴り声が飛んだ。25階建ての超高層マンションに、学生が単身で下宿とは考えにくい。当然、この部屋には父親も母親も一つ屋根の下で暮らしていた。

 先程父親が発した「梓」という人名。これがあの巨漢の名前であった。名は体を表すとはよく言われることだが、少なくとも今、床に無様に倒れ込んでいる男には全く当てはまらなさそうである。

 男はふて腐れていた。
 ちょっと外の空気を吸いに行こうとしただけなのに、なぜ俺は床に倒れいる?なぜ父さんに怒鳴られているんだ?

 自ら招いた状況に強い不満を感じつつ、このままここで寝てしまいたくなってきた。

 突然、マンションの傍に道路で自動車のタイヤが激しくこすれる音がした。男は一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの走り屋の暴走だと気付くと、ため息を漏らしつつ再び目を閉じた。
敢えて暴走族に絡まれる危険を冒してまで気分転換に外に出る理由などない。男はすっかり眠る気になり、重量級の体を仰向けにしようとした。90度右に倒れた遮光カーテンが視界から外れていき、闇に覆われ無性に高く感じる天井が入れ替わるように入ってくる。

 再びマンションの下の道路から走り屋のけたたましい急ブレーキ音とヘッドライトの光が梓の部屋に飛び込んでくる。とは言っても、光は遮光カーテンにほとんど遮られ、隙間から漏れる程度なのだが。

……光?

 梓は突然動きを止め、弾けるように遮光カーテンに体を向けた。確かに遮光カーテンから光が漏れている。しかしそれは2、3秒すると消えてしまった。呆然とした表情とは対照的に、次第に強くなる鼓動音が窓の向こう騒音にとって代わって梓の鼓膜を叩いてきた。

「なんで光が入ってくるんだ?」上半身をばねのように起こした梓はこの状況を整理するのに躍起になっていた。そう、この部屋は10階にある。自動車のヘッドライトがあの遮光カーテンに当たるはずが無いのである。鼻息が荒くなり、DVDに見入っている時でもしないような鋭い目を光らせ、あらゆるケースを捻り出した。時限爆弾が爆発するのを待つかのように、時計の秒針の音が異様に浮いて聞こえる。

「空き巣?いや、それなら少しは物音がするはず。大体光なんか出さないよな。まさか……」

 呼吸を止め、匍匐前進でバルコニーのカーテンに向かう。一歩、二歩、……。五歩進むと静かに息を吐いた。そしてまた酸素を取り込み、息を止めて進む。先程転倒した場所からバルコニーの窓際まで、いつもなら五秒とかからない距離が、今は気の遠くなるくらい長く感じられた。まだ窓の向こうからは全く音がしない。

 本当に誰もいないのか……?二回目に息を吐いた時、ようやくバルコニーの窓際についた。匍匐姿勢のまま、恐る恐るカーテンの裾をあげ、窓を覗く。暗くて外の様子が定かではないが、傍に何かいる気配は感じなかった。ふうっ、と安堵の息をつくと、先程よりはもう少し機敏に立ち上がり、窓の中ほどにある、二枚のカーテンが重なり合う部分へ体を移動させた。そして、一方のカーテンの端を少しずつ、慎重にずらしていく。再び心臓の鼓動音が血管を震わせ、頭蓋骨とうがいこつを伝わり、梓の耳で響いた。

 二枚のカーテンの隙間が3mmほど開いた時、異変は起きた……。