ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ

ver.1 自由過ぎる小説家は夢を見ない 1 ( No.24 )
日時: 2012/04/23 09:07
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: Wx6WXiWq)









「別に、シチュエーションとかどうでもいいよーん。ただ一緒に生活してほしいだけー。ごはん作ってもらいーの、部屋の掃除してもらいーの……みたいな!」
「それ……別に頼むのがヒーローじゃなくても良いんじゃないんですか? 例えば、ハウスキーパーとか」

 僕がじと目でそう聞くと、小説家はにたりと笑った。

「困っている市民を助けるのが、ヒーローのお役目でしょ」

 こうして僕は彼女の“ヒーロー”として、家事をさせられることとなった。
 ……だから、うちの店はお手伝い屋じゃないんですけどね。





 ひとまず理人さんにこの仕事について話をしてこなくてはならない。そう考えた僕は、「お昼ご飯は君だゾ!」とかのたまう小説家を部屋に残し、一旦店に帰ることにした。けして童貞の件についてkwsk!とか思ってない。断じて。イライラしてないですよ、ええ。
 マンションから出ると(一階に下りてきた時、若いガードマンの方に不安そうにこちらを見られた)、外はもう昼間の賑やかさで溢れていた。空を見上げれば、真っ青な背景に黄色い太陽。時計を一瞥し、そろそろお昼時だというのを知る。お店の台所を借りて何か作ろう——店の方へと歩きながら、メニューについて考えた。
 ——焼きそばと簡単なスープで良いか。
 メニューが決まったと同時に、店に着く。店の中はしんとしていた。お客さんが来ている様子はないので、遠慮なく入ってゆく。

「店長ー、戻りましたー」

 口の横に手を添えて、そう呼びかけてみる。しかし、店の奥から返事は返ってこない。誰もいないのだろうか。
 店の奥にある扉を開けると、普通の家にあるようなたたきが現れた。そこで靴を脱ぎ、家へと上がる。店長の自宅は僕の居候先でもあるので、気兼ねなどしない。肌寒い廊下をぺたぺたと歩いた。廊下の突き当たりが台所だ。誰もいないと思っていたのに、台所からはカサコソと物音が聞こえていた。夢の国によくいる小動物的なアレを思い出す。

「ただいま帰りましたー……って、店長?」

 入り口にかかっているのれんをかき分けて台所に入った。テーブルについていたのは、夢の国の陽気なネズミなどではなく店長だった。
 店長は、入ってきた僕にも気付かず一心不乱に何かを書き進めていた。テーブル中に散乱しているのは、すでに使用済みの原稿用紙だった。鉛筆の粉があちらこちらに付着していて、どれだけ力をこめて書いたのかがわかる。枚数はかなり多く、百枚以上はあるようだった。その内の何枚かに、赤ペンで何かが書かれている。
 そうして無言でテーブルの上を眺めていると、店長がようやく僕に気付いた。生気を失った顔をしているのは、何でだろう。

「何だ、ハルヤかよ。丁度良かった。早く飯を食え。そこの鍋の中にあるから」
「……果たして童貞の何が悪いというのか……。世の中には不可解なことが多すぎる……」
「え、なぜにお前は悟りを開いたような顔してんの? 悟り開いてんのに何で目は冷ややかに俺を見つめてんの?」

 僕のただならぬ様子に殺気を読み取ったのか、店長が書く手を止めて振り向く。店長が「え、俺のせい? 童貞の件? ねぇ童貞に傷ついたの?」と繰り返し聞いてくる。少し黙っててくれ。心の傷をえぐるな。
 ガスコンロに置いてあった鍋の中身はうどんだった。野菜やきのこ、肉も一緒に煮込んだ豪華なものである。しかし、時間が経っているので麺が伸び伸びである。「大丈夫だ童貞。童貞は別に悪いことじゃな」黙っててください。温めるために火をつけた。
 店長に背を向けて、鍋の中身を箸でつつく。冷たくなっているせいで、うどんが鍋の底にくっ付いてしまっている。

「それより、客はどうだったよ? 変な奴だったろ。素の俺のテンションについていけたやつを初めて見たわー。絶滅危惧種だわ、ありゃ」
「……。確かに、店長っぽい変人でしたよ。自分のこと小説家とかほざいてました。妄想癖なんですかね」
「あー、それ本当のことだぞ。あの客、結構有名な小説家らしいぜ。今回の報酬も桁違いだったしな! どやぁ!」

 ——まじすか。
 衝撃の事実、まではいかなかったけど、多少は驚いた。鍋の中身を気にしているので、どや顔の店長の方を振り向くことは出来ない。
 換気扇を回そうと背伸びしていると、さらに店長が続けた。

「色んなジャンルに手を出してる作家らしくてな。奇抜な話ばっか書くから、よくドラマ化とかもされてるんだってよ。この前の二時間ドラマ、あれもそうみたいだし。それに、巷で流行のライトノベルって奴にも手を出してるみたいで、若い層にも受けてるらしいぞ」
「へぇ、そうなんですか。それはそれは」

 鍋の表面にふつふつと気泡が現れてきた。良い出汁の香りがし、腹の音を誘う。菜ばしで軽く中身をゆすり、野菜を見栄えがよくなるように動かした。うどんが程よく温まったところで、火を消した。そして鍋からお椀へと移し変える。湯気と共に立ち上る良い匂い。
 箸を用意しながら、ふとある考えに至る。振り返り、難しい顔で紙面を睨む店長に口を開いた。

「もしかするとなんですけど……今回の依頼は、新しい小説のネタ探しのため——って感じじゃないですか? 小説のネタにつまってたところに、こういう奇抜なことしてる店が近所にあったから丁度良い、みたいな」
「いや、違う。そんな理由で俺が客を入れるわけないだろうが」



ver.1 自由過ぎる小説家は夢を見ない 2 ( No.25 )
日時: 2012/04/29 00:12
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: Wx6WXiWq)
参照: 小説のストックがたまらんとはどういうことですか先生!



 店長はさっきとは違い、紙面に書かれた何かに集中しているようだった。視線はそのままに、口だけ動かしている。
 その向かい側にお椀を持って座り、テーブルの上に散らばっている紙を払いのけ、何とか食べる場所を確保した。麺を掴もうと箸を椀の中に入れたところで、初めて僕はその書類について店長に聞いた。

「それにしても、さっきから怖い顔で睨んでるその書類……一体なんですか? 誰かの手書きみたいですけど」
「……んー、慈愛に満ちたボランティア?」
「ボランティ…………え? て、店長が、ボランティア?」

 ボランティアとか慈愛とか、そういう言葉が一番似合わない人物からそんなことを言われたので驚いた。店長が僕の声に反応して、こちらを不機嫌そうに一瞥する。
 ……自分でも似合わないことだと思っているんだろうなぁ、多分。

「ふん、別に良いだろーが。たまには優しいテンチョーさんでもよ」
「あれ? ……怒らないんですね」
「まぁな。優しい店長だからな」

 笑いを隠しきれて居ない僕の表情に怒りを示すかと思ったけど、店長は顔をしかめただけで、何も追求してこなかった。それどころか、イライラした様子も消えてしまう。だいぶ何かを書く作業に疲れを感じているのかもしれない。
 ——と、思った、のだが。

「あ、そーだそーだハルヤ。お前に一つ言っておきたいことあったんだが、良いか?」
「どうしたんですか急に。別に構いませんけど……」
「あのなぁ、」

 そこで言葉を区切ると、店長は凝り固まった肩をほぐすように腕を回した。ぽへ、と息を吐いてから、テーブルに肘をつく。

「そういえば俺、昼飯まだだったわ————という訳で、そのうどんは俺が食う」
「やっぱり怒ってんじゃねーか」
「だってお腹すいたもん!」
「もん! ……じゃねーよ……」

 ていうか、僕はただのうどん温め係じゃねーか。絶対狙って今まで温めさせてただろこの人。
 まぁ冗談だよねと内心笑いながらうどんを口にしようとしたら、横から新たに箸が伸びてきた。箸は麺を掴み、ずるずると持ち主の口へと運んでいく。店長が荒々しく麺を吸い上げる姿を眺めながら、僕はテーブルの下で拳を握っていた。
 麺を噛み切ったところで店長がお椀から顔を上げた。頬にネギを付けて(可愛くねーよ畜生!)、

「とりあえず、断る理由もねーし。家事するだけでこんだけ貰えるんなら超お得だろー? 頑張れよ、ハルヤ」

 と笑顔で言い放った。頑張れよと言われてしまったら、居候の僕は口を閉ざすしかない。いやぁ、光熱費とか払えてませんしね、僕。食べかけのあんパン(店長宅の冷蔵庫から発掘)を貪りながら、曖昧に頷いておいた。

「……そりゃぁ、頑張りますけどね」
「おうおう、頑張れ、頑張れー。そんでがっぽり儲けて来い。そろそろ俺はステーキが食いたい!」
「アンタって人は……!」

 店長に仕事について話をするつもりで戻ってきた。だから、答えを聞いた僕は本来ならばマンションに戻るべきだったんだろう。
 だけど、その時はマンションに戻ろうとしなかった。依頼主の彼女について、もう少し知っておかなくちゃならないんじゃないか——なんて、普段の僕からは考えられないほどの意欲をみせてしまったから。
 欠伸をこらえて、今回の仕事に関する資料を店長に貸してもらって、読んで。
 彼女の、小説家としての輝かしい経歴が載せられた書類たち。書類上の文字をを目で追っているうちに————気付けば僕は、眠ってしまっていた。




 



 桐谷に肩を揺さぶられて起きると、もう夕方だった。

「……という訳で、全力でマンションに戻り出した僕であった」
「変なナレーション入れんなおっさんコラ!!」

 スニーカーの紐を結びなおしていると、後ろからそんな声がかかった。急いでいるこちらとしては不愉快以外の何者でもない。
 朝早くから行動したのが裏目に出たのか、飛び起きて空を見上げると茜色に染まっていた。まだ冷えた冬の空気が残っているのか、肌寒い。厚手の生地の服を着ているというのに鳥肌がたった。

「店長、僕が何で戻ってきたのか知ってたでしょう! 何で起こしてくれなかったんですか!」
「何で俺がお前の面倒も妹の面倒も見なきゃならんのだ、ガキかお前は」
「清清しいほどに正論なのが逆にむかつきますね!!」

 まだ重い瞼をこすり、店のドアを開けて外へと飛び出る。切羽詰った様子で出てきた僕に、道路を歩いていたおばあさんが目を丸くしていた。すみませんと小さく謝ってから、何故か店内でくつろいでくる桐谷へと振り向く。依頼が終わったんだろうか。
 自分の髪の毛を一房手にとり、枝毛を探している桐谷。見た目の可愛さとは裏腹に、中身は相当えぐい。

「桐谷、今何時!?」
「五時二十分ちょっと前ぐらいだよ。今からスーパーに行ってその依頼人のとこに戻ったら、六時半前には着けると思うけどねぇ」
「そっか、六時半な! ありがと!」

 時刻を聞いただけで全てを理解したのか、桐谷は丁寧に説明も付け加えてくれた。しかしその説明をゆっくりと聞いている暇もなく、僕はスーパーへと走り出す。朝は気楽な気持ちで走っていたけど、今はそういうわけにもいかない。
 家事をして欲しいと彼女に頼まれたが(というか、仕事なんだけど)、家事といったら真っ先に思いつくのは食事だ。
 彼女が何時ごろ夕食をとるのかは関係ないし知らない。しかし重要なのは食事の材料である。真夜中にコンビニに行って材料を買うなんてお金がもったない。夕方のタイムセールとか安売り商品とか、そういうものでやりくりしていかなくちゃならない。

(……それに、少しでも仕事にかけるお金を減らしたら、給料が増えるかもだし)

 走るのをストップせずに、頭の中の算盤で食事費の大体の予測を導き出す。導き出された金額にほくそ笑み、エネルギーに代えてさらに走る速さをあげた。
 ——結局は、自分の給料の方が……ね。
 今頃マンションでお腹を空かしているであろう小説家に舌を出して、爽やかな気分で坂を駆け下りた。初日でこんなに疲れているんだから、その分褒美を貰ってもいいはずだ。



ver.1 自由過ぎる小説家は夢を見ない 3 ( No.26 )
日時: 2012/05/03 23:28
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: Wx6WXiWq)




 坂の下にあるスーパーは、時間が時間なためか賑わっていた。お互いが無言で食材を吟味しているというのに、ざわざわという騒がしい音が生まれている。そのちぐはぐさを横目に、スーパーの入り口にあったオレンジ色のかごを手にとり、自動ドアを抜けた。
 晩御飯のメニューはすでに考え済みだ。人の流れに逆らうことなく、野菜、魚、肉と順番にかごに入れていく。出来るだけ新鮮なものを、が僕のモットーなので、目をしっかりと凝らしておくのは忘れない。
 人が多い割に店内の動きは早く、店に入りレジを通るまでたいした時間はかからなかった。夕飯の仕度の途中でやって来たのか、エプロン姿のおばさんが焦った様子で僕の横を走っていった。おばさんが走っていく先はレジ。会計をしているおばさんの後ろに、少し遅れて同じように立ち止まる。

「…………はぁ、疲れた」

 かごを抱えなおして呟いていると、不機嫌そうなレジのおばさんと目が合った。若い奴が何言ってんのか、とでも言いたげに舌打ちされる。気付かぬ振りをして僕は財布を取り出した。
 おばさんが淡々と読み上げていく品名を受け流しながら、また溜め息をついた。

「はぁ…………やっぱ、疲れた」
「……千三百四十七円です。袋はご入用ですか」
「あ、いえ、結構です」

 僕の溜め息が本気で不快らしく、先ほどのお客よりも厳しい声色で対応される。愛想笑いと共に、袋が不要なことを告げた。レジ袋を出す手間が省けて嬉しいのか、若干おばさんの対応が柔らかくなったような気がした。

「ありがとうございましたー」

 やる気のないおばさんの声を背に、混雑している台の上に必死にスペースをとり食材を詰め始める。持ってきたレジ袋の中に手早く詰めこみ、さっさとその場を後にした。
 騒がしいスーパーを出ると、店長宅を飛び出してきた時よりも一層空気が冷え込んでいるのがわかった。空の色合いはより暗さを含んでおり、僕のパーカーと似たような色になっている。

「さて、帰るか」

 一人ぼっちで気合いを入れて、くるりと方向転換して、依頼人の家へと向かう————はずだった。完全に油断していた僕は、寝不足で重たい目蓋を唐突に開かされる。
 帰ろうとしていた僕の前に居たのは、紛れもなく、僕の帰り道を邪魔するような存在だった。
 そいつは、振り向いて固まってしまった僕と初めは目が合わなかったが。しばらくし、携帯の画面から顔を上げた拍子に——視線が、かち合った。


「…………あれ、もしかして……東?」


 首を傾げられても、僕は何も答えられなかった。答えてしまったら、何かを認めてしまうような気がした。
 昔に比べて伸びた背、茶色を入れた頭。少しずつ違う箇所はあるのに、昔の面影だけはくっきりと残っている。面影が何度も目蓋の裏で瞬いては、消える。光を眼球に擦り付けているような感覚に吐き気を感じた。

「お、おいおいおい……東じゃん、久しぶり、だよ……な?」

 硬直状態の僕の前で携帯をつついていたのは、中学時代のクラスメイトだった。
 名前は薄っすらとしか思い出せない。確か、高林とかいう苗字だった気がする。小中と同じ学校で、たいていクラスも同じだった。彼はサッカー部でクラスの人気者で、僕もよく一緒になって遊んでいたような、そんな思い出。
 ——……思い出? 誰の、誰の思い出だ?
 がくん、視界が思い切りぶれた。頚椎が叩き壊されるような、痛み。
 僕の異変に気付かず、ずかずかと元クラスメイトはこちらへやって来た。戸惑いと友好的な笑みを同時に伏せ合わせて。

「俺だって、高村だって! 久しぶりだよなぁ、おい。中学校以来じゃね、いやマジで!」
「っ、た、かむら君じゃあ、ないか」
「おー、覚えててくれたんだ俺のこと、何か懐かしいなぁ! よくお前ともサッカーしたっけ!」
「…………そ、だね」

 中学校、という単語を耳にした瞬時に冷や汗が浮かんだ。やめろ、その単語は。笑顔の高村君(らしい)に視線を送るけど、相手は気付かない。
 体中の内側から寄生虫が這い出ているようで、胃の内壁がちくちくと痛む。寄生虫は苦しみを糧に、もっと外へと出ようとする。
 寄生虫、少し静かにしてろ。出来る限り平然としていようと、胃を服の上から押さえつけ、微笑んで対応した。

「ま、懐かしいっつっても、他の奴らはほとんど地元の高校行ってるから、ときたま会えるんだけどなー。でも、東はあんまり会わないよなぁ」
「そうだね」
「今日は俺、サッカーの試合があるからこっちの県に来たんだけどさー。いやぁ、まさかお前に会えるなんて……びっくりだわ」
「そうだね」
「東の顔、ほんとに久しぶりに見た気がするぜ俺。だってお前、中学の時にこっちの県に転校しちゃったし、」
「そうだね」
「…………転校、した、し…………」

 途端、高村君の表情が凍った。
 “それ”を思い出してしまったことへの後悔によるものだろう。中学、こっちの県、転校——三つのキーワードがようやく高村君の記憶を呼び起こしたらしい。なぜ、僕がこっちの県に転校したのかが、いくら空気が読めない(と中学時代からかわられていた)高村君でも気付いたようだ。
 変なところで向こうが言葉を止めたせいで、元々喋る気なんてなかった僕は何も言うことがなくなった。
 高村君も今まで目を見て話してくれていたのに、露骨に逸らし始める。直視するのを恐れるような態度に、きりり、また胃が。

「…………あ、東」
「どうしたんだい、高村君」






ver.1 自由過ぎる小説家は夢を見ない4 ( No.27 )
日時: 2012/05/03 23:30
名前: ささめ ◆rOs2KSq2QU (ID: Wx6WXiWq)




 喉の奥から叫びが漏れそうになり、僕は下唇を思い切り噛んだ。血の味が口内に広がる。
 先ほどと異なり、引き攣った笑みを浮かべている高村君。だけど、その視線は僕ではなく道路の方へと縫いとめられていた。
 そして、震える声色で、ぽつりと、言う。

「お、お前が…………クラスをめちゃくちゃ、にした、みたいなこと……誰も、思ってねーから」

 直球、ストレートが決まる。世界が黒に塗りつぶされ、足元が急にゼリーになったみたいに柔らかく沈んでいく。
 高村君の言葉を材料に脳裏に描かれるものは、様々だった。
 まだ春の背を見えなかった冬、折れそうな枯れ木、肌を切り裂きそうなほど冷たい風、温かい教室に集ったクラスメイト。それらが僕の脳内でぐちゃぐちゃに溶け合い、歪んでいく。

「確かに、あれで何人か……中村とか、錦目とかが、ちょっとショック受けちまったけど、」
「うん」
「でも、俺らは別にお前を恨んでるわけじゃないから、」
「うん」
「だからあんまり気にすんなよ、」
「うん」
「お前は悪くないんだからな」
「…………うん」

 がん、がん、がん——高村君の善意溢れる言葉が石となり、僕のこめかみを打つ。血が流れていても尚、頭を粉砕しようと石を握り締めている高村君。
 胃痛と吐き気のダブル攻撃に耐えながら、入学したての小学一年生ばりの良い返事を返す。
 ——さすがに、最後の言葉には元気一杯という訳にはいかなかったけれど。
 「大丈夫だよ」だの「そんなつもりで転校したんじゃないよ」だのと、僕の体は勝手にこの場を取り繕うと頑張っていた。頭の言うことを体は聞いてくれないのに、胃の痛みだけは鮮明に脳に伝わってくる。

「……んじゃ、俺そろそろ戻るわ。チームのメンバー待たせてるし」

 お前は悪くない、ということについてしばらく気まずそうに語っていた高村君だけど、時計を見るなり少し慌てた様子で話を切り上げた。
 有難い、と素直に感謝する。そろそろ僕の胃も吐き気もピークに達していた。胃から今日のお昼ご飯がアーティスティックに(出来るだけ柔らかく表現)出てきそうである。

「そうだね、サッカー頑張ってね、高村君」
「おう! ありがとな、東。それじゃ、またな」
「うん、またね」

 優しく笑って、片手を振り高村君に別れを告げた。高村君は僕の笑顔に見事に騙されてくれたようで、今日一番の笑顔(当社比)を見せて帰っていった。
 それはもう、満足そうに。
 自分は何かを失った相手に何かを与えることが出来たのだと勘違いし、しかしその勘違いに気がつかぬまま充足感を得て。
 満足そうに。
 相手の傷に塩を塗りこむだけじゃ飽き足らず、二度三度蹴りをぶちかましておいて。
 満足そうに。
 満足そうに。
 満足そうに。
 満足そうに。

「でも僕は、」
 
 彼の言葉に、昔のことを思い出さされて。
 彼の言葉に、罪悪感を感じなくてはならなくて。
 結局、僕は。

「…………何も与えられてねーし、失ったままなんですけどぉぉおおおおおおおお」

 路上で急に叫んだ僕を見つめるのは、買い物を終えた主婦や、サラリーマンの好奇の視線。それらから逃げるように、僕は走り出した。
 逃げるのだけは、得意だった。












 全力でマンションの入り口を駆け抜けようと考えていたのに、僕の速度に自動ドアはついてきてくれなかった。びたん、と顔面からガラスに突っ込む。鼻がへし折れたかと錯覚するほどの痛みが滲んできたけど、胃の方がもっと痛かったのでドアを無理矢理こじ開けて中へと入る。
 突然ガラスに衝突し、自動ドアを手動で開けてしまった青年に対して、警備員二人は顔をひきつらせている。僕は自分で考えているよりも、だいぶ鬼気迫った表情をしているようだった。

「えっと……ろ、廊下は走らずにー」

 若い方の警備員さんが、声色に困惑を滲ませている。警備員ならこんな不審者、止めるべきだろうに。
 エレベーターを使うのがもどかしく、重い足取りで階段を選択する。半ば倒れこむようにして階段を上っていく。七階分の階段はインドア派の僕にはきつく(しかも今は画面が真っ赤に染まってる状態)、段差につまずく度にえずいた。

(やっ——ば、い……)

 はぁはぁと息を吐いてばかりで、酸素がうまく入ってこない。苦しさが重みとなり、足に枷をはめていくようだ。
 体調が悪いときの階段って、永遠に続くものだったよね! とかよくわからない方向に納得しそうになった頃、ようやく七階に着く。廊下に人がいるかどうか確認しようと首を伸ばす。「あ、」重心がぎゅるりとずれ、カーペットに倒れた。頬が床と接触し、摩擦熱を発する。

「……いちまる、いち号室……」

 時間が経ったというのに朝と何ら変わらない静けさを保つ廊下。ずりずりと体を引き摺り音だけが響いて、僕の聴覚を狂わせる。狂わせるといっても、今の僕の耳には高村君の言葉やら昔の出来事についてのこととかが鳴り止まないんですけどね。音がなだれ込んできて、煩い。
 一〇一号室の前にたどり着いた時には、再び倒れこみそうになった。伸びた爪をドアに引っ掛け、姿勢が崩れかけるのをかろうじて止める。
 ドアを押すと、鍵は開いていた。だから、体ごと部屋の中に飛び込んだ。

「っ、ひぃ、……ッ」

 当然の如く、強かに背中と腰を床に打ちつける。衝撃は嘔吐することを推奨しているようなので、対抗心を燃やした僕は吐き出さないようにと口を両手で押さえた。喉にせり上がってくるのは、酸っぱさ。胃の中でどろどろになったうどんが蠢いている。
 リビングの窓から茜色の光が射していた。部屋の電気が点いていないので、室内は夕暮れのせいもあってか赤黒い。
 その赤黒さが、助長する。

「すみません、すみま——ひ、っグ……せん……」

 だんご虫のように体を丸めてみると、なぜか涙が出てきた。
 嘔吐感は拭えない。その代替品として吐いているのは嗚咽だった。過去への後悔で滲みきった嗚咽。「お前は、悪くないんだから」高村うるさい。耳元に響いた彼の声は、ざくざくと過去を掘り起こしていく。
 ——すみませんでした、すみませんでした、すみませんでした。
 心の中で繰り返し謝る。あの時、心に傷を負わせてしまった彼ら、彼女らに向かって、だらだらと謝罪を述べる。