ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ
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- アンヨ
- 日時: 2009/11/08 13:04
- 名前: TK (ID: RjvLVXA1)
この一本の脚とは、かれこれ二年の付き合いになるのだが、一向に天井から降りてくる気配が無い。初めてこいつの存在に気付いた時には、僕も彼女もギョッとして、それから二人して床にわなわなと崩れ落ちたものだった。この瞬間、僕は彼女の心臓がフローリングの上に転がってやしないかと、本気で心配もした。
だが、半年も経つと、僕らはこの左脚にも慣れっこになった。まあ言ってみれば、少し風変わりな観葉植物を天井に植えているようなもので、下手に怯える必要も無い。彼女なんかこいつに「アンヨ」という名前までつけて、かわいがる始末なのだ。アンヨ、アンヨなんて呼んでいると、なんだか韓国語でも喋っているみたいな気分になってくるのだが、それでも名前があるのと無いのとでは、大分違うものだ。
去年のアンヨの誕生日——一応、うちの天井に現れた日を誕生日にしようと、二人で決めた——はこうだった。初めての誕生日ということで、彼女は脚立の上に立って、脛毛を剃ってやったり、僕のネクタイを足首に結んでやったりと、アンヨのおめかしに夢中になっていた。まあ、毎日濡れたタオルで、指の間まで丁寧に拭いてやっていたくらいなんだから、当然といえば当然だ。アンヨは蝋燭の火を消せないから、彼女が代わりに消してやった。プレゼントに僕はイオンで買ったソックス、彼女はアディダスのスニーカーをあげた。アンヨは地面に足をつけて歩かないから、当分買い換えの必要はなさそうだった。彼女は壁に立てかけてあった姿見をアンヨに向けて「ほら、今夜のアンヨは、すごくかっこいいよ」と、褒めてあげた。スニーカーを履いてネクタイを締めているアンヨは、なんだか照れくさそうだった。その夜から僕たちは、ベッドを移動させて、アンヨの下で寝ることにした。僕はこの奇妙な三角関係が好きだった。
だが三ヶ月ほど前に、僕と彼女は別れてしまった。きっかけは些細な口論だった。あの程度の口喧嘩なんか、金曜日が13日になる確率よりも頻繁にやらかしていたのだが、僕がついかっとなって、彼女に手を上げてしまったことがいけなかった。彼女は荷物をまとめると、ドアをバタンと閉めて出て行った。そして戻ってきた。残りの荷物をそそくさとバッグに詰め込むと、また出て行った。今回はドアをバタンと閉めなかった。だが、再び彼女が戻ってくることはなかった。
彼女がいなくなってからというもの、アンヨの様子がおかしくなった。僕がタバコをベランダで吸わなくなったせいではないことくらい判っている。やはり、彼女がいなくなったからだと思う。アンヨは見る見るうちに痩せていって、いまでは骨と皮だけになっている。それでも僕は、爪を切ってやったり、お湯に浸したタオルで拭いてやったり、できる限りのことはしているつもりだ。
アンヨは最初から飯も食べないし、水も欲しがらなかった。観葉植物のようなものだと言ったが、太陽の光を求めているわけでもない。僕と同じで彼女を求めているのだと思う。いや、僕たちによって育まれる愛を求めているのだ。
「アンヨ、ごめんな。あいつはもう戻って来れないんだ……」
僕はそれ以上言葉を継ぐことはできなかった。だがきっと僕の涙の意味は理解してくれていると思う。あの夜、彼女を無理にでも引き止めることができたのなら……。
僕は引き出しからそっと、故人となった彼女の写真を取り出した。
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