ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ
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- 僕は僕で僕なの?
- 日時: 2011/02/28 04:29
- 名前: シュバルツシルト半径 (ID: 5YS5eJrp)
初めまして、シュバルツシルト半径と申します。
小説かかさせて頂きます。
シリアス・ダークジャンルですが、なるべく明るくしていきたいと思いますので、宜しくお願いいたします。
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- 僕は僕で僕なの?書き始め ( No.1 )
- 日時: 2011/02/28 04:59
- 名前: シュバルツシルト半径 (ID: 5YS5eJrp)
この記憶は、本当か嘘か分からない。
まだ、立つことも重力により許されない年齢の時の記憶がある。
あれは1歳の頃だ。
昭和52年に生まれたから、多分当時は昭和53年だろう。
1歳になった僕は、とある某県の小牧市にあるとあるアパートにいた。
サイドボードの下に小さな妖精がいた。アニメとか漫画でいるような可愛らしい妖精ではない。アジアンビューティーというか、トウテムポールというか。
最近知ったのだが、トウテムポールの栓抜きが、未だに(平成23年現在)うちにあった。多分これを見ていたのだろう。
まずはそこで一旦記憶が途切れる。
次の記憶は2歳。
場所は、某県一宮市の新築の家。
ここの間取りはいまでも全て覚えている。多分色々な事があって、強烈に覚えていたのであろう。絨毯とカーテンの色まで覚えている。
これの真偽については、母にきいているので間違いではない。
現在の私の職業にも大いに関わった事象がここで起きたのである。
父の存在。
今はいない父。こいつのおかげで人生未だに浮かばれないのだが、ここでは割愛。
1階のリビングで、汽車や電車の百科事典を見せて貰っている。
中でも強烈に印象にあるのは、D51の蒸気機関車だ。
その先のページをめくる気にもさせない強烈な印象だった。
この一宮の家の記憶は、家の外で隣の家の犬のドッグフードをつまみ食いした記憶と、当時流行った足こぎ車に乗って遊んでいる事と、父と母がダイニングで喧嘩しているのと、、、、そして離婚決定の瞬間。
多分、ここからかもしれない。苛立つ父と母の顔をみて、恐怖ではなく、自分の我儘でもなく、ただ、、、ただ、自我を押し殺して、笑って貰おうと父と母にすり寄っていく自分。
何か欲しいとかじゃなくて、何か遊びたいじゃなくて、、、
既にこの時には本能で分かっていたのかもしれない。
どうかしなくてはいけないこの状況を。
母と父が話しをしているからいけないと。浅はかな考えを持っていたと思う。
当時の僕は本当にこうしていたのだ。
「ねぇねぇお父さん、電車、見よ?」
こうして無理やり、父と母の怖い話を引っぺがしていた。
弟がいたのでこの時は3歳だったと思う。
弟は0歳。
次の記憶は、某県裁判所の待合室だった。
つづく
- 僕は僕で僕なの?2回目 ( No.2 )
- 日時: 2011/02/28 07:11
- 名前: シュバルツシルト半径 (ID: 5YS5eJrp)
裁判所の2階の待合室で父に会った。
これの少し前から、父と顔を合せていないなと思っていたのを覚えている。
外の光が入る窓辺に父がいて、そしてこう言われた。
「あんまり会ってはいけないからね」
もちろん、その時は意味が分かるはずもなかったのだが、なんかダメなんだろうと思い、その時はすぐにその場を離れた覚えがある。
その後、一度として、父とは会ったことはない。
亡くなったのか、離婚したのか、当時では考えられるはずもなく、ただ、流されるままに母についていった。
次の記憶は、4歳。
場所はとある県のとある市営住宅。
今でも住所を言えるし電話番号も覚えている。
2DKの間取りで、母と僕と弟の3人で暮らすには十分だった。
庭もついていて、拾った犬もいた。
今考えればこの時が一番贅沢な暮しができていたと思う。
幸せっていう意味で。
なんのしがらみもなく、犬と遊んだり、母や弟と遊んだり、たまに外にはポン菓子売りの車が来て、派手な爆発音をだして、楽しませてくれた。
保育園に通っててもいじめみたいな事もなく、みんなで楽しく遊んだりしていた。
5歳になり、保育園でも年長組、近くの公園で遊んだり、家で遊んだり、用水路で遊んだりと非常に楽しかった。
持病で、小児ぜんそくを患っていたけど、ほとんど発作もでず、この時が、いちばん幸せだったと思う。
6歳になり、小学校に入学した。
ここからがその後、25歳まで続く悪魔の人生の始まりだった。
つづく
- 僕は僕で僕なの?3回目 ( No.3 )
- 日時: 2011/02/28 21:09
- 名前: シュバルツシルト半径 (ID: 5YS5eJrp)
男が来た。
年齢は、当時35歳位だっただろうか。
今逆算してみるとその位であろう。
今までは、小さいながらも楽しい家だったのが急に居づらくなってきた。
母が取られた。
直観で思ったのだろう。
過去に父と母の喧嘩を見てきている自分にとって、近い大きい男の人というのは、恐怖でしかない。
もちろんその男が暴力を振るう事はなかったのだが、その男が家にいる間は、外にいなければならなかった。
それが、月に数十日単位で増えていった。
小学校1年生の時に、既に僕には居場所が無くなったのである。
そういう状態では臆病にならざるを得ず、だんだん遊び仲間も減り、
公園で一人になる事が多くなってきた。
その頃から、小児喘息が激しくなってきた。
今思うと、完全にストレスが引き起こしていたのだろう。
その男がいない時は、母に甘えたいがごとく喘息の発作がはじまり、いつも死にそうになっていた。
喘息が始まればやさしくしてくれるというのが分かっていたのであろう。
だけど、当時の母は若く、また、その男もいた。
僕が邪魔だったんだろうと思う。
久しぶりに兄弟と母と3人で大好きな電車に乗って、鳥羽までいった。
船が展示されていて(ぶらじる丸だったと思う)とても楽しかった。
久しぶりに全力で楽しかった気がする。
帰りの特急を鳥羽駅で待っていた時、トイレに行きたくなり、一人でトイレに行った。
戻ったホームには母と弟の姿は無かった。
つづく
- 僕は僕で僕なの?4回目 ( No.4 )
- 日時: 2011/03/05 18:25
- 名前: シュバルツシルト半径 (ID: 5YS5eJrp)
ホームで待っているはずだった母と弟がいない。
あちこち泣きながら走りまわり探すけどいない。
停車していた名古屋行き特急の発車ベルがなる。
もちろん大混乱。母と弟はいない、電車は発車する、もしかしたらトイレに行ってるかも、改札にいってるかも、、、
意を決して電車に乗り込もうとするも、電車とホームの隙間に足を落とす。
冬の寒い時期だから防寒具が引っ掛かってくれて助かったくらいで、夏だったら確実に下まで落ちていた。
それでも駅員に助けられながら、顔をぐっしゃぐしゃにして電車に乗りこんだ。
動き出した後、車内を泣きながら大声で、「おがぁーーざーーん!!」
とほぼ叫びながら探した。
いた。
弟と母と、席に座っている。
最初の一声とその時の顔は今でも忘れられない。
「何してたの!!」
怒られた。
訳がわからない。
けど、怒るという行為自体が誰であれ恐怖になってしまっている僕は、
「ごめんなさい・・・」
と言い続けるしかなかった。
「怒ってない?ごめんなさい」
これの繰り返し。
これは今でも克服できてないのだが、怒る、叱る、怒られる、叱られるという場面が起こった場合は、すぐ「切れる」ようになった。
理由はこうだと思うのだが、過去のトラウマとでも言うか、生きるための防衛というか、理性を働かせる前に、自分の思考能力を飛ばすという事を今までずっとやってきたおかげでこうなったのではないかと考える。
が、もちろん定かではない。
そういえば、この究極の生死をかけた二択の正解?を引いたおかげで、
運を全て使い切ったのか、宝くじは未だ当たったことがない。
何とか家に帰り着けた僕といえば、やはり母に対してはぎこちなくなっていた。
その日を境に奇妙な出来事が続くというか行うようになった。
貯金箱を壊してお金を取り、周りに奢って遊ぶということ。
それがばれてもの凄く怒られてそれが出来なくなると、今度は近くのスーパーなので、万引き。
それを渡してあそんで”もらう”という事。
この時既に、臆病を通り越して人付き合いというのが恐怖になっていた。
けど寂しい。人付き合いが普通に出来なくなった僕は物を渡して遊んで”貰う事しか出来なくなっていた。
やってはいけない事だと当時の僕は分かっていたはずなのだが、この時は寂しさ、孤独の怖さのほうが勝っていたのだと思う。
それが続き、ばれては怒られ、殴られ、喘息もひどくなっていき、学校にもほとんど行けなくなり、とうとう一人ぼっちになった。
だから、当時の小学校の人間の記憶は完全に消滅している。
体調が良く、無理やり学校に出された時でも、近くの公園や、空家などに隠れて一日が過ぎるのを待った。
もちろんこういう時は家に連絡が行くはずなのだが、当時は喘息で休みがちだったので連絡が行くこともなく、普通に家に帰っていた。
そんな事が続き、二年生になった。
小学校二年生に上がると先生が変わっていた。
一年の先生は覚えていないのだが、二年の時のは強烈に印象がある。
男のおっさんの先生。
既にこの時には、大人の男というのには恐怖しか感じられない時期だったので、この状況は厳しかった。
更に、僕の事は内部文章で知っていたのだろう、喘息持ちの休みがちの”片親”の問題児と。
今は全く気にしないのだが、当時は片親というのは非常に差別されていたらしく、今でも思う、当時の大人というのは了見が狭かったのだなと。
でだ。
何か悪い事があったら全部最後は僕のせいになり、それは児童にも広まり、どんなことでも僕のせいになりついには”いじめ”へと発展していった。
そして、そんな面倒な僕を母もとうとう見限り、僕だけ祖母のところに引っ越しをさせられることになった。
二年生の夏ごろの事だったと思う。
つづく
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