ダーク・ファンタジー小説
- Re: engrave【少し変更】 ( No.7 )
- 日時: 2012/12/03 20:26
- 名前: 揶揄菟唖 ◆bTJCy2BVLc (ID: w1J4g9Hd)
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その日、ジャージの男はあるアパートを訪れていた。いつも自分の隣を歩くスーツの男は居ない。
妙な孤独感を胸に抱きながら、黄色いスニーカーで土を踏む。
寒さに白い息を吐きながら、ぼろい壁を手で触ってみる。
少女、朝内真幸は生を選んだ。
自らの手ではなかったかもしれない。無意識にその選択をしたのかもしれない。だが、本心のはずだ。
人間が生きたいと思うことは、普通のことなのだから。
だが、人間は気付かない。自分が生を望んでいることに。だって、生きることは当たり前なのだから。
二階へと続く錆びた鉄筋の階段を見上げて、ズボンのポケットに手を突っ込む。
側の赤い郵便受けの一つには、朝内 真幸という名前が入っていた。ここが朝内 真幸の家だということは、もちろん知っていることだった。調べたのだから。
周りの郵便受けには郵便物がはみ出すほど入っているのに、朝内 真幸の郵便受けからははみ出していない。
ジャージの男は、ジャージの裾で指先を覆いながら郵便受けの蓋を開ける。
中を覗いて見ると、中は空っぽだった。女の一人暮らしなのだから、郵便物を溜めないことは大切なのだろう。
溜まっていたら、強盗が入るかもしれない。その部屋に人はいないと思って。
「ちょっと! 何やってんの!?」
大声を出されて、振り返る。
すると、片手に箒を持った年配の女性が経っていた。ピンクのエプロンと、変にパーマがかかった髪。
とっさに郵便受けの蓋から手を離す。乾いた音がして蓋が閉まった。
ジャージの男を睨みつける女性は、何やら警戒しながら近寄ってくる。
「真幸ちゃんに何かしたら、許さないからね!!」
何かしたら。
ジャージ男はそこで、なぜか違和感を感じた。
そういえば、もう何かはしてしまった。強制的にビルまで誘導してしまったし、ナイフや拳銃を彼女に向けた。もう彼女に怖い思いはさせているだろう。
しかし、そんなことを話すはずもなく、その場を立ち去ろうと後ずさりをする。
「あーっ! ジ、ジャージ男!」
いつもの格好を適切に含んでいる呼び名を、朝内 真幸が叫んだ。
学校帰ってきた彼女は、昨日と同じ本屋の紙袋を持っていた。
女性は朝内 真幸とジャージ男を交互に見て、そして怪訝そうな顔をした。
朝内 真幸が、意味深に女性に頭を下げると、渋々といった感じで女性が離れていく。そして、アパートの一室の中に入っていった。
何とか面倒事を免れて、小さくジャージ男はため息を吐く。
朝内 真幸が近寄ってくるのを見ながら、片手を上げた。
「朝内 真幸。いいところに」
「いいところに、って……。何してるんですか?」
朝内真幸はジャージ男の行動を覗いながら尋ねてくる。
昨日のように、ナイフを取り出さないのか不安のようだ。ジャージ男はポケットの中で折り畳みナイフを弄びながら、そんな朝内 真幸の不安で揺れる瞳を見下ろす。
「迎えに来たんだ」
そこでまた、朝内 真幸が怯えたような色を瞳に浮かべる。
その反応に、小さく折りたたみナイフの柄を握りしめる。
迎えに来た。嘘じゃない。
ジャージ男は、スーツ男に代わって朝内 真幸を迎えに来たのだ。
この一日は、一言で言えば『最後』だった。朝内 真幸の日常の『最後』。
朝内 真幸はもう、日常を過ごすことはできなくなる。
それの猶予。美しい世界を見られる『最後』。
もちろん、そんなことは言わないで置く。
ジャージ男は、口元を覆うジャージの中で唇を舌で舐めた。
特に意味は無い。
ただ少し、乾いているような気がしたから。
朝内 真幸は、自分の言葉を待っている。
「……話がある」