ダーク・ファンタジー小説

Re: 昨日の消しゴム ( No.26 )
日時: 2012/12/20 21:18
名前: ryuka ◆wtjNtxaTX2 (ID: geHdv8JL)


いくら揺さぶっても何の反応も見せない。ぐったりと垂れた頭が、力の抜けた白い腕が、冷たく細い肩が、全てがすべて死んでいるかのようだった。
昨日までの知り合いの女とはまるで違う、別人のように。

頭が真っ白になった。この女は、もしかしたら死んでいるのかもしれない。


死ぬ?こいつが?

有り得ない、有り得ない、有り得ない。



「おい、おいったら!」
馬鹿みたいに呼んで叫んで。でも自分にはどうすることもできなくて。どうしよう、何をすればいいんだろう何ができるんだろう。

立ち止まっていると頭の中が壊れてしまいそうで、おかしくなってしまいそうで、本当にどうにかなってしまいそうだった。気が付けばいつの間にか腕に抱いた由雅を抱え直して、まだ薄暗い道を走り出していた。灰色の明朝の街は、ひっそりと静まり返っていて、自分だけ一人世界に取り残されたみたいだった。

何も考えずに走り続けて、どうしてだか辿り着いた先はいつの日にか一度だけ来たことのある、由雅の家だった。同居人が居るのかどうかよく分からなかったが、勝手に家の中に上がり土間で草鞋を脱ぎ捨てて適当な横戸を開けた。

「なっ…」
横戸に手を触れた瞬間、頭の後ろの方に鋭い痛みが走った。遅れて、背後からガツンという金属の鈍い音。あっという間に目の前が暗くなる。真っ暗な世界の中で、頭に残る痛みと、首筋に伝うぬめりとした自分の生暖かい血の感触が気持ち悪くて、やけに印象的だった。




————————————————————————————————————————————


あの夜。
河原で土我さんが眠ってしまったのを見届けて、一人、綺麗な星空を見上げた。彼の目にも、この星空は私と同じようにキラキラと輝いて見えているのだろうか。

それから、子どもだったころの、一番平和で、一番幸せだったころの夢を見た。

まだ宮廷にいて、まだ愛されているんだと錯覚していて、一生懸命にあの女の可愛い装飾品になりたかったころの。
今じゃもう顔も覚えていない、時の左大臣だったらしい父の声。
本当に、何も知らなくて、幸せだったなぁと。

夢から目が覚めると、自分は血に塗れた汚い男の隣に座っていた。彼のはだけた着物の間から、肌に掘られた刺青の蛇の目が、まるで私を嘲笑うかのように覗いていた。
相当ぐっすりと眠っているのか、聞こえる呼吸はとてもゆっくりで、妙に安心させられる。

「土我さん、」
無意識に、話しかけていた。もちろん返事は無い。「私、宮へ上がるんです。どうしたんでしょうかね、急に。今まで連絡なんてしてくることなかったのに。」

さらさらと、川の水が流れる音が、私の独り言を優しく消していった。どうしてあの女が私に宮上がりを命じてきたのかぐらい、本当は分かっている。流石に宮廷一美人だったあの女も、もう年老いて興味を無くされてしまったのだ。

「でもね、嫌なんです。嫌、イヤ。宮廷でいいように使われて、結局人の玩具になって、年老いたら捨てられるなんて。そんなの結局娼婦と変わりないじゃあないですか。嫌だ、そんなの嫌なんです。」

眠っている土我さんは当然ながら私の話なんか聞いていない。最初から独り言のつもりなのに、なぜだか土我さんの、あの、面倒臭そうな相打ちが無いのがとても寂しく思えた。

「あはは、この私が宮仕え。でもまぁ、この刺青のおかげで全部チャラです。」
昨日自分の右腕に掘られた、鬼の刺青を見ながら、急に可笑しくなって一人でくつくつと笑ってしまった。
結局、悔しいが自分は嬉しかったのだ。もう母子の縁を切ったつもりでいたあの女から連絡が来て。その内容がどうみても彼女の贅沢をしたいがための都合であっても、やはり自分は嬉しかったのだ。まだ必要とされているのだと、まだ綺麗な装飾品で居れたのだと。

理性ではあんな女、私は自分のしたいことをする、などと決めつけていても、結局は認めて貰いたくって仕方がなかったのだ。きっと、私は未だにガキのままなのだ。

けれどそんな幻想も、これで終わり。
私は誰からも必要とされない。だってこんな刺青のある女なんて使い物にならないから。
それとも、逆に考えれば、この刺青は私を自由にしてくれたのか。

“私は私、自分の生きたいように生きればいいじゃない!”
まだ少しだけ残っている、馬鹿みたいに前向きな思考。そんなの、不幸な身の上を見苦しく飾り立てて、自分を納得させたいだけ。自分を幸せ者だと、不幸じゃないんだと騙していたいだけ。


———— 死んじゃおうかな。


ふと、そんな考えがよぎった。普段の自分だったら、馬鹿馬鹿しい捗々しいと鼻で笑ってしまうような。

けれど、どうしてか、今の自分にはとても魅力的なことに思えたのだ。