ダーク・ファンタジー小説

Re: 昨日の消しゴム ( No.35 )
日時: 2013/06/01 00:44
名前: ryuka ◆wtjNtxaTX2 (ID: .wPT1L2r)

 ぴしゃり、と鴨が戸を閉めて部屋から出てゆく。
 一人っきりになった空間で、自分の呼吸だけが、場違いみたいにはっきりと聞こえる。ふと空を掴んだ自分の右手を、意味も無くじっと見つめながら、鳥の声を聴いていた。
 

 「そう……土我さんが。あの土我さんが」

 運んで、くれたのか。
 あのぶしつけな男が、そんな親切じみたことを。

 「そうだ、礼。一応お礼言わなきゃだな」
 むくりと布団から起き上がって、ふらふらする頭を抑えて、彼の眠っているらしい南の部屋へと向かう。




 
           ◇

 南の部屋に、鴨の言っていた通りに土我さんは意識を失ったまま、眠り込んでいた。半分口を開いたまま息をしていて、呼吸する度に広い胸がゆっくりと上下する。やけに汚れた着物が、少し気になった。

 どうしてわたしを助けてくれたんだろう。別に、助けてくれなくて良かったのに。
 あのまま放って置いてくれて良かったのに。だって私は死にたかったんだから。


 彼の顔をそっと覗き込む。
 大分深く眠っているらしく、まったくこちらには気が付かない。やけに色白な肌は、やはり少しばかり病的だ。そして私とあまり年は変わらないはずなのに、彼の髪は、若者らしくない、老人のような灰色をしている。……閉じているまぶたを開けば、きっとまたあの、不思議な琥珀色の瞳が見れるはずだ。

 はじめて出会った時から、不思議な人だなぁと思った。
 たぶん、聞いたことしか無かったけれど、この人は世に言う鬼子だと思う。
 

 鬼子。
 決まって遊女や傀儡女の腹から生まれると言う呪われた赤子。
 彼女たちのような、売春を生業とする女性は、こどもができてしまえば、毒を飲んだりして子を流してしまう。そうして故意に流され、殺された何人もの赤子の霊は、やがて寄り集まって、悪鬼となって、彼らの母親の腹に宿ってしまうという。それを鬼子という。

 生まれてくるはずの命を絶たれた怨みなのか、鬼子は母親を殺して生まれてくる。鬼子には、子流しの薬も効かないので、鬼子を宿してしまった女の人は、自殺するか、生んで、鬼の親となって死んでしまうしかない。

 鬼子は総じて、気味の悪いほど色白で、生まれた時から老人のような灰色の髪をしていて、目は猫の目のように、薄い黄色や琥珀色をしているという。そう、この土我さんのように。




           ◇


 早朝の、冷水から彼女をすくいあげてから。
 どうやら俺は、意識を失ってしまったらしい。

 幼い頃の、夢をみた。



 確か、恐ろしい人商人ヒトアキンドから、主様が俺を買うより前。
 今はもう思い出せないけれど、とても優しい女の人に、育てられていたのだっけ。

 捨て子で、鬼子の俺を拾ってくれて。
 俺の見た目も気にせずに。むしろ愛しいと愛してくれた、そんなひと。


 どうして思い出せないのだろう。こんなにも恋しいのに。
 きっとたぶん、人を八人も殺してしまった俺にはもう、そんな幸せだった、幼いころを思い出す権利なんて無いのだろう。

 
 そう、だから夢を見た。
 幸せだったときが終わった、あの頃の夢を。


 ある春の日の夕暮れ。家が真っ黒に燃え落ちていて、その中にいるはずの、あの人も居なくなっていた。
 そして俺は、気が付けば人商人たちに捕まって、売り物として檻の中に入れられていた。


 檻の中には、同じように、連れ去られたり売られたりした子供たちが沢山居た。そして彼らは、そろって俺を指差して、鬼子だ人外だと罵った。

 永遠に続くような差別と、暴力の日々。
 生きていることそれさえも、ただただ苦痛だった。

 心も体もボロボロになって。無機質で、灰色でつまらない日々を、他人事のように陽が上がるのと沈むのを、ぼうっと見送って過ごしていた。

 そしていつの間にか、大好きだったあの人の声も、顔も、名前も、姿も、ぜんぶ全部、忘れてしまっていた。こんな惨めな自分に、あんな幸せな過去があったことなど、信じられなくなっていた。



 そんな長くて辛い時期を終わらせてくれたのは、主様だった。
 



                ◇



 ———— 人売りが来たぞ。
 —————— 鬼子商人が町に来よったぞ。



 平安京、一条大路より船岡山を越え遥か外京の地。

 人商人ヒトアキンドの一団がどこからともなく現れた。
 彼らは灰に薄く汚れたくたびれた直垂姿で、のそのそと、身売りの子供を入れた大きな檻をこれまたくたびれた牛にのそのそと曳かせてやって来た。その、あまり快くない一行に町の人々は明らかに嫌悪の表情をしたり、はたまた好奇心を剥き出しに騒ぎ立てたりと、多彩な反応を示す。

 やがて人商人の周りに人だかりができ始めた。そこでもう十分に人が集まったと商人の長は判断したのだろう。歩みを止めて、牛を止めて、牛と檻とを繋いでいた綱を牛から放してやった。


 —————— 檻の中の子供たちは、ここぞとばかりに急に大きな泣き声とも叫び声ともつかぬ騒音を立て始める。


 檻の隙間という隙間から悲鳴と共にうじゃうじゃと伸ばされた何本もの小さな手を商人は鬱陶しげに一瞥した。一息吸うと、人だかりに向かって大声を張り上げる。

 「おおや、礪屋の人売りじゃ、日暮れまでじゃ、買いたいもんは俺に言え。」


 しかし野次馬な人々はなかなか子どもを買おうとしない。興味津々に、檻の中の子供を見ているだけだ。
 
 「鬼子がおるぞ。」野次馬の大衆の中から、そう言った声が聞こえた。
 「どこじゃどこじゃ、」「左の奥じゃ、鬼子が一人おる。」「見えたぞ、鬼子だ、確かに居るぞ!」「俺にも見せろ。」「どこじゃどこじゃ……」

 商人は心の中で舌打ちした。確かに仲間の言った通りであった。鬼子を一緒に売りに来るべきではなかった。きっと人々は不吉な、気味の悪い鬼子と一緒の檻に入れられた他の子どもまで気味悪がって買わないのだろう。
 いらいらとする頭を抑えて、商人は檻の中の鬼子を探した。鬼子は、他の子どもがしているように檻の外に手を伸ばしたり騒ぎ立てたりすることもなく、ただただ一人静かに檻の端でじっと座っていた。その、不気味な琥珀色の瞳で人々を睨みながら。他の子どもとは違う、老人のような灰色の髪を微かに風にそよがせながら。

 すると突然、人々の間にどよめきが走った。何が起こったのかと、商人は鬼子から目を離して大衆の方に向き直る。

 「おお、陰陽師の旦那か。」
 一際目立った、長身の人物が向こうからゆっくりとした足取りで現れた。深草色の狩衣姿で、薄青色の指貫を穿いている。
この陰陽師だと名乗る長身の男は、商人にとって数少ないありがたい常連客であった。何のためにかは知らないが、陰陽師はたまにふらりと現れては気に入った子供を数人買っていくのだった。何に使うのかと聞いても不気味に微笑むだけで教えてはくれない。人々はきっと怪しげな妖術の生贄に、子供の生血が必要なのだろうと勝手に推測しては恐ろしがっていた。

 陰陽師は商人の前まで現れると、しげしげと檻の中を観察した後に、商人に向き直った。


 「のう、鬼子がおるな。」いつも通りの、無機質な声音でそう呟く。「あれを私におくれ。いくらじゃろか。」

 商人は正直に驚いた。絶対に売れないと思っていたのに。「でも旦那、いいのですか。あれは見ての通り見た目が……」
 「構わぬ。それゆえ気に入った。」
 「はぁ。」
 相変わらずにおかしな男だ。しかし、鬼子を買ってくれると言うのだからありがたいことこの上ない。

 「そうだ、もう一人買おう。あの子と一番仲の良い子を売っておくれ。」
 「は……?」
 「きっと一人では寂しいだろう、鬼子も。」

 鬼子と一番仲の良い子だと? 商人には見当も付かなかった。商人は子ども達をいかに上手に売りさばくかしか考えておらず、彼らの交友関係など考えたことも無かった。
 第一に、もし商人が子どもたちを注意深く見ていたとしても、鬼子にはおおよそ友と呼べる者は居なかった。檻の中の子供たちも、大人たちと同じように、鬼子を気味悪がって遠ざけていたからだ。

 商人は檻の中から鬼子と、もう一人適当に選んだ男の子を出させた。ほかの子供が羨ましがってぎゃあぎゃあと不愉快な叫び声を上げる。
 商人は陰陽師の前に鬼子とその子を二人並んで立たせた。鬼子は、隣に並んだその子とやはり大きく違っていた。白すぎる不吉な肌、薄すぎる不気味な瞳、年老いた老人のような灰色の髪。

 陰陽師はほぉ、と感嘆の声を上げた。そして商人に金を払うと、膝を折って鬼子と同じ目線になって、顔を覗き込んだ。
 鬼子は、死んだ目付きで陰陽師を見つめ返した。まだ幼い子供だというのに、あらゆる意味でその子は年老いていた。

 「そなたに名をやろう。」陰陽師が囁いた。「今日がお前の誕生日だ。さすれば五行の土が欠けておるな、通り名は 土我ドガとせよ。」
 「……土我。」
 「そうだ、土我だ。またな、真の名もやろう。」

 そう言って、陰陽師は声をより低くして、鬼子の耳元で囁いた。
 「よいか、真の名は誰にも言ってはならぬ。しかるべき人に出会ったら、その時にのみ、口にしてよい。」