ダーク・ファンタジー小説
- Re: ぼくらときみのさいしゅうせんそう(更新停滞中) ( No.125 )
- 日時: 2023/07/15 11:12
- 名前: 利府(リフ) (ID: Ch4ng4i/)
わたしの始まりは期待に満ちていた。
ひとが二人並んで、たのしそうな声をあげる。
何かを待ち望んでいる。弾むような足取り。
『ねえパパ』
『なんだい、ママ』
『あたしたち頑張ったよね?こいつも頑張るよね?ここに置いておけばいいよね?』
『ああ、いいだろうよ。お疲れさん』
五体満足で生まれることができた。
手足も感覚も、不自由はないはずだった。
なのに使い方がなにひとつわからない。
受け身も取れず転がされた茂みの中で、わたしは思考しようとして、それどころではないことに気づく。
身体が痛くて熱くて仕方ない。
わたしはいま、なにかを失おうとしているのか。なにかに壊されているのか。
いや、生まれた瞬間から欠落しているのか。
ちゃんと生まれてくることができたのに、
生まれた瞬間に放棄される運命だった。
わたしを捨てることが彼らの幸せだった。
『じゃあな、お前も頑張れよ』
──どうやって?
声のする向きをぎょろりと覗こうとして、涙が溢れてきて、やめた。
わたしの人生は最悪の温床だった。
***
孤児院の正門近く、赤子が咽び泣いている。
冷たい風を凌ぐ手立ても持たず、それは生まれたままの姿で、茂みの陰に転がされていた。
捨て置かれてからいくら経っていたのかは解らない。
その声を聞き付けた孤児院の職員が、取るものも取り敢えず赤子を抱き上げ、院内の簡易ベッドに寝かせた。
赤子を囲むような形で、職員達は必死の形相を浮かべていた。子の処遇についてである。
まず、親が周囲に見当たらない。これは職員たちも多少なり経験していたことであった為、ある程度の対処はできる。
問題だったのは発見時の状態だった。
赤子は衣服のひとつも着用しておらず、毛布に包まれてすらいない。へその緒は取れているため、恐らく出産の直後ではなかった。
これもまだ想定内である。両親、もしくはそのうちの片方が内々に出産を行い、ある程度の産後処置まで済ませたのだと職員達は結論づけた。
しかしそれよりもずっと、彼らの倫理と想定からかけ離れていた点があった。
──赤子の下半身、もっと言えば生殖器のあるべき箇所が、丹念に潰されている。
空洞のように黒く染まった無の箇所が、おぞましく彼らを覗いていた。
よくよく見てみれば、排泄の為の管だけが通されており、性別を分けるための要素がない。恐らくそこに在ったものを切除された上、高熱の鉄もしくは高濃度の薬物によって表皮を溶かされた、と職員たちは推測した。
生きている瀬戸際、いやそもそも死んでいてもおかしくはない外傷を受けて、ついでのような延命措置だけが施されて。
どうして、何故、と青ざめた表情の大人達を、物言わぬ赤子が見上げている。
職員が然るべき公的機関への通報を行った後、それでも赤子は孤児院に残された。とうとう親は見つかることはなく、裁きを受けることもなかった。
残ったそれは最早捨て置く訳にも行かず、しかし他者の目に触れさせることも叶わぬ風貌である。
里子に出すことは諦めろ、と言ったのは誰だったか。無言の同意だけがあった。
院内の奥深くで赤子は成長した。
その人間の戸籍は勝手に編まれ、欲した記憶すらない名前がつき、性別は結局解りはしなかった。
3か4の歳を過ぎても他の教育施設に入ることもなく、ぼんやりと身体だけが大きくなっていく。
皆が皆、腫れ物に触るように接す者ばかりで、憐憫はあれど同情や救いに至らない。
子供も、自分の存在はその程度なのだと小さな自我に言い聞かせた。それ以上もそれ以下も考えず、生きている実感を得ることもなく。
群れから弾かれた動物のように生きていた。
──義務教育に差しかかる少し前、ひどく冷たい季節のこと。
職員に従い、つつましく従順に生きていた子供は、ある日突然の来客を受ける。
職員の1人が「君に用事があるって」と告げ、子供を連れ出した先に男は立っていた。
青白い肌と整った顔立ち。黒いコートに白いマフラー、身なりは良いが肉付きが悪い。子供にとっては一生お近付きになることもないだろう、と思っていた人種であった。
「こんにちは。私、イサキチトセと申します。知人からちょっとした噂話を聞きまして、君を我が家に迎えたいのですが」
「……うわさ?」
「その話は後でじっくり。今は私の要件だけ覚えておいてほしい」
子供が首を傾げて困ったように笑うと、男は目を細めて口元を綻ばせた。
「君の名前は?」
チトセは子供の目を見ながら呼び掛けを発したが、目線の位置を合わせることはしなかった。置物を見下ろすような視線が、空間の中に違和感をもたらしている。
「あるけど、あの名前はちがう」
「どう違うの?別に名前があるの?」
「名前、いらない。あった方が、まわりの人が楽なだけ」
「なるほど。予想はしていたが、自尊心がそれなりの方向に吹っ切れている」
肩をすくめるチトセに職員が声をかけ、ふたりは別室へと誘導されていく。
「この子には両親がいないという話でしたね。それと、新生児の頃に大怪我を負っていたとか」
「はい。概ねは先程説明した通り──」
すれ違う施設の孤児達が、こちらを双眸で追っていた。外の世界から来た人間が物珍しい。表立って姿を見せない曰く付きが外に出ている。大人が難しい話をしている。
羨ましい、いずれ、いずれ自分も。夢を見ているようで、子供にとっては冷めきった話だった。
誘導役の職員が扉を開く。初めて入る応接室の中を見回していると、誰かが微かに笑う声が聞こえた。それが既に席についていたチトセのものだと、子供が気づいた次の瞬間、チトセは小さく口を開けて二の句を継ごうとしていた。
「名無しの君。少し話をしようか」
「はい」
手招きをするチトセに引き寄せられて、子供は席につく。どんな情報を提示されるのか、と耳を傾けていると、チトセはにっこりと微笑んで語った。
「君の両親は数年前に死んでいる」
「……え」
「海外の都市郊外で、2人揃って殺された。度重なる虐殺への報復行為だ。やり返しってやつだね。その時の動画がアップロードされているよ」
「りょう、しん……」
「君の両親はテロリストだった」
「な、何を」
何を言っているんです、と職員が詰め寄るのを、チトセはケラケラと笑っていなした。
「まあまあ。これを見てごらん」
チトセが操作した携帯端末に映し出されたのは、男女ふたりの姿。ふたりは目隠しをされ、猿轡を噛まされた上で地べたに座り込んでいる。その傍らに、武装した男性が数名。子供にはなんのことかわからなかったが、職員たちには薄らとこの先に待つものが理解できた。
「ひっ、と、止めなさい──これは、人が死ぬ映像でしょう!今すぐ止めなさい!」
「あの、これ見たい、です」
「え───いや、ダメなの!これはダメなの!わかる!?この人たちがこれから死んじゃうの!!」
「いや、この人たち、両親が……なにかいおうとしてます」
職員が画面を見てみれば、武装した男のひとりが2人の猿轡を外していた。そして武器を持ち直し、ふたりの頭にグイと押し付ける。同時に何か言葉を発したようであったが、子供と職員には異国の言葉、ということしか理解できなかった。
「最後に言いたいことを言え、もしくは命乞いをしろ、みたいなやつだね」
男女は武器を向けられて震えていたが、発言が許されたことでフー、フー、と口で鋭い呼吸を繰り返す。そして大きく口を開き、
『あ、ああ、同士諸君!嬉しい報告をします!!今まで隠しておりましたが、私たちには子供がいます!!』
『日本のとある孤児院の近くに捨てましたが、拾われましたでしょうか!!我々に魔女の鉄槌が降らなかった故、きっと生きているはずです!!』
画面越しの絶叫と、職員の息を呑む音が残響となって消える。
もう誰も口を出すものはいなかった。
『我々はその子が産まれた後、“大罪”の教えに沿ってその身体に魔法を施しました!!きっと功を奏するはずです!私たちは成し遂げました!!』
傍らの男が彼らの頭に銃を向けた。職員がとっさに子供の耳を覆い、頭を下げさせる。
『さあ、もう悔いなどない!撃て!撃てばいい!!そして創世の魔女との誓いが、我らと彼らを──』
乾いた発砲音と共に2人は事切れた。
「さあて……」
冷えた空気と、静寂が数秒。
チトセは身を乗り出したが、動画を止めようとはしなかった。
「も、もう……いいでしょう」
「いや。本番はここからですよ。普通の処刑であればここで終わりなんだけど、ちょっとこの動画はタチが悪くてね」
「……彼らが、この2人に何かをするんですか」
「そうですね。もっと上を行きますよ」
あるものは無言で顔を伏せ、あるものは静けさを取り戻した画面の中を呆然と見つめている。子供は目と耳を塞がれたままだが、異様な空気だけは感じ取ることができた。
やがて、画面の中で処刑人たちが動き出す。それぞれの死体の元にそっと屈み、慣れたように死体の首の根を掴んで運ぼうとした、その瞬間。
処刑人たちの身体がぐらりと崩れ、無防備に地表に転がった。
その頭からは血がとめどなく流れ、目を剥いて口を開けたまま動くことはない。よくよく見てみれば、そのこめかみには穴が空いていた。
周囲の人間たちが騒ぎ出す中、カメラはその一部始終をしっかりと捉えている。異国の言葉が絶叫と化し、同胞の死に怯え、何かを訴えてただ慌てふためいて。
喧騒の中で誰かがカメラを勢いよく蹴飛ばし、そのまま動画は終わった。
「『誰が撃った。わけが分からない。呪いだ。こいつらは何をした。悪魔の報復か──』僕が聞き取れる範囲だと、そういう事を言っている」
チトセが携帯をしまい、悠々とその脚を組む。勝ちを確信した勝負師のように、顔面蒼白となった職員たちの前で微笑んでいた。
「この動画はね、至って普通の動画サイトに公開されています。タイトルは日本語訳で“悪魔の呪い”。ひどい異教徒を捕まえたので報復する、という目的で撮ったのに、我らが同胞がよくない死に方をしたので助けてくれ、という内容になってしまったわけです」
可哀想ですね、と笑う男の表情には一縷の憐憫すら感じ取れず、周囲の職員は引きつった表情を浮かべた。チトセは子供の方を向きながら、お構いなしに話を続ける。
「ザッと調べてみたが、最初に殺された2人は日本の生まれなのは間違いない。まあ日本語話者だし当然か。
だが日本の国籍はとっくに捨てていた上、このように国の恥というべき行為をして処刑された身だ。よって公的機関が表立って動く理由はないんだけど……」
チトセは胸ポケットから1枚の封筒を取り出し、子供の方へ差し出した。子供の傍にいた職員が封筒を掠め取って開くと、そこには2枚の写真が入っていた。
「これは......」
「どういうことか、日本政府の人間がこの子の所在を把握したがっている。その情報が、僕の知り合いから僕に流れてきたわけだ」
1枚目の写真は、会議室のような場を写している。何かを紙に書いている女を、背後から俯瞰するような形で撮る構図。女が向かっている机越しに、黒いスーツ姿の男たちが数名見える。
2枚目は女が書いていたものの正体だった。そこには子供の似顔絵が描かれ、その隣に「成長後」と題して少し大人びた子供の姿が数パターンに渡って描き記されていた。
「個人のイタズラ、合成画像にしては手が込んできたでしょう。この子の親の使っていた手術室が、政府に押さえられた話もありますよ。証拠が少しグロテスクなものになりますが」
「……ちょっと待ってください。これは宗教の話ですか?言ってしまえばこの子は傷付けられただけの被害者でしょ?政府に追われるような理由があるんですか」
子供の目と耳を塞いでいた職員が問うと、チトセは表情を険しくした。
「正しい理由は分からない。だが事実として追ってきています。
僕の知り合いは、政府直属の研究施設で所長を務めていてね。そいつが僕に情報を流してきたんです」
「何故、政府がそこまでして……」
「そこは何となく理解できるでしょう。撃たれた側が死んだ後、撃った側を撃ち殺す──それがどういうカラクリか、お偉いさん方は知りたくなった。
そしておあつらえ向きに、生き残りが一人いる。しかも動画の2人に『成し遂げた、悔いはない』と言わしめた傑作がね」
職員たちの視線は子供に向いた。その傑作というのが誰なのか、彼らには薄らと理解できていた。
「なあ君。僕は見ての通り物知りだ。親御さんたちが何故君を野に放したのか、何故生殖の器官を絶ったのか──見当はつく。司法が役に立たないのなら、僕のところならアテがある」
「わたしは、どうすればいいの」
「迷うことはない。生きるために、学ぶために。うちにおいで」
子供はうつむいて考えたが、大人にとっては流れの急転が過ぎた。
「……今日はどうかお引き取りを。我々は、あなたがそのような話をすると思って通しておりませんでしたので……」
「そうだね、急に話を進めすぎたな。決めるのはこの子だ。まだ答えは出ないかい?」
「………………」
「わかった。今日はこれで帰るとしよう」
席を立とうとするチトセを見て、子供がおずおずと手を挙げた。
「あのう……」
「どうした?」
「わたしは死ぬの?」
「『何言ってるのかわからない』とは言わないんだな。理解力があって嬉しいし、悲しいね」
「……わかんない」
「うふふ。急に子供らしくなった」
立ち上がったチトセは子供を相も変わらず置物のように見下ろしたが、その瞳には確かな決意があった。目の前の人間の決断を尊重する、という意思だった。
「政府が君をどう扱うかはわからない。とても丁重に扱ってくれるかもしれないが……僕はできる限り君をのびのびと育ててやりたい。どちらを選ぶかは君次第だよ」
子供をたくさんの眼が見ている。ここにはいたくないと叫び出しそうなほどに居心地が悪くて、子供は無意識に服の袖を掴んでいた。
淀んだ空気の中で、チトセの冷えた鋭い目が、子供の本質を見極めるように鈍く光っていた。
***
数日後の夜。
子供は少ない小遣いを持って公衆電話のボックスに入り、そっと受話器を握ってチトセに繋がるのを待っていた。誰も彼も寝静まる闇の中だったが、子供にとっては心休まる時間だった。
『──もしもし?』
「もしもし。あの、わたしです」
『なるほど、施設の君だな。施設の外からかけてくるとは予想外だ。隣に監視役の職員さんはいるかい?』
「ひとりです。聞きたいことがあって」
『ほう、やるじゃないか。質問をどうぞ』
「あなたは、どうしてわたしを助けるの」
ああ、やっぱりそれを聞くか、とチトセは笑う。子供は無言で返答を待ち、寒さを凌ぐように眼をきつく瞑る。
『あはは、ごめんな。正直なことを言うと、君を利用したいんだ』
目は開かず、暗闇でその言葉を反芻した。そういうことを言うのだろう、という予感はあった。嫌な信頼関係ではあるが、言葉を受け止める覚悟は既に芽生えている。
『部屋を独りで抜け出してきた、君の勇気に報いるよ。包み隠さず話そう。
施設では言わなかったけど、君は政府の連中から“ラスト”と呼ばれているらしい』
「……ラスト。最後」
『発音は近いが違うね。Lust、という別の言葉だ。意味は色欲、あるいは欲望──と言えば伝わるだろうか』
「欲望なら、なんとなく、わかります」
『良い意味と悪い意味、どちらに思える?』
「……悪い意味」
受話器の向こうでふふ、という笑い声が聞こえたが、子供の気持ちはどこか凪いでいた。
何となく、自分が害悪であることはわかっていた。生まれついてそうであるという事実は、既に頭の中にインプットされている。
だから子供にとって、死ぬことは恐怖ではない。だけどそれは、生きる喜びを理解できていないからだと自覚している。
これからの人生の長短は、相手が何をしたいのかで決まるのだ。何も分からない子供にとっては、自分のゆく道を決めて貰うことこそが最善だった。
『君の親御さんたちは、君に“大罪に沿って魔法を施した”と言った。それが本当なら、君に仕事を任せたいと思ったんだ』
「どんな、仕事ですか」
子供は問う。イサキチトセと名乗った男は、何を求めているのか。
──子供ははじまりから呪われていた。
自分の人生がどうなろうと、自分を導こうとする存在が目の前にあるのなら、それに応えてもいいと思ったのだ。
『君に、僕の大切な人を守ってほしい。
君に施された魔法──言わば能力は、“愛したもの以外を殺す力”だから』
そうして、イサキチトセもまた応えた。
寒く暗い場所で交わした言葉が、子供の運命をゆっくりと縫い合わせていくようだった。
***
「おーい、こっちこっち。今日から家族だね!」
初めての来訪からそう経たないうちに、子供はチトセの家に入ることを決めた。職員に挨拶を済ませた子供は、ロビーの中で大袈裟に手を振るチトセを見やる。
その傍らには、彼の家族がいた。
1人は、父親としっかり手を繋いだ女の子。
1人は、車椅子に腰掛けた淑やかな雰囲気の女性。
「パパ、みなさんに自己紹介していい、かな」
「ツヅルの好きなタイミングでいいとも」
先に言葉を発したのは、車椅子の女性の方だった。その声はか細く、健康体ではないことを周囲に悟らせるには十分だった。
「えっと、わたし、イサキツヅルといいます。紙を綴る、のツヅル。このお家のママにあたります。生まれつき目の病気で、何も見えないのだけど、あなたが新しくお家に来る子ですか?」
「は、はい」
「うれしいわ。よろしくお願いします」
綴は子供に向けて微笑んだ。細められたその瞳は青く透き通っているが、焦点は合っていない。目が見えないというのは本当なのだろう、と察し、子供は下手に見つめることをやめた。
──そうして、小さい女の子に視線を移す。彼女は健康体らしく、互いの目はしっかりと合った。
少女の穢れを知らない青い眼が、ひどく子供の目を引いて、彼女はそれに微笑んで応えた。
「よし、駐車場まで行こうか。僕とお母さんはゆっくり行くから、チヅルはこの子を連れて先に向かっててくれ。車のキーも預けよう」
道すがら2人で親睦を深めろ、という裏の意味が何となく察せられた。チトセは娘にキーを差し出し、チヅルは両手でそれを受け取った。
「いこう。駐車場のちかくに自販機とベンチがある。喉が渇いてるだろう、そんな顔だ」
チヅルが子供に向き直り、手を差し出す。
その手を掴むと、チヅルはスタスタと歩を進めだした。子供は後ろの2人を見遣りながら少女に連れられていった。
やがて2人は小さい空き地のような場所に辿り着いた。チヅルの言う通り自販機と小さいベンチがあり、先客はいない。あまり知られていない憩いの場、という雰囲気だった。
チヅルに「なにを買う」と聞かれ、子供は1番安い水を指す。しかしそのチヅルに「遠慮をするな」と一蹴され、自販機から落ちてきたのは柑橘類のジュースだった。
──そちらこそ遠慮をしてるのでは、と子供は困惑したが、チヅルは真顔のままでボトルを差し出している。子供も急いで居住まいを正し、ありがとうと告げてそれを受け取った。
「名前の無いきみ」
「……うん」
「わたしはイサキチヅル。千羽鶴、から羽の字を抜いて、千鶴だ」
「千鶴……」
「ええと、どういえばいいのか……私はきみが好きだ」
「え?」
「いや、ちがう!そういう話をしたいのではない」
「……え?」
なんだそれは。
ずいぶんと勘違いを誘発する物言いだった。父親と対照的、と言い切れるほどに彼女は口下手で、ええとええとと繰り返しながら手混ぜをしている。
「ええと……す、好きというのは、きみに興味があるんだ。そういうことだ」
「そうなの?」
「うん。その、いつでもいいから。きみも私に興味を持ってくれると、いい。……ジュースを買ったのはきみに好かれたいからだ。お父さんとお母さんがそうすると良いと言っていた」
「そ、そっか……」
何も聞いていないのに千鶴が洗いざらいの魂胆を話しそうになってきたため、子供はとりあえず座ろうかと切り出した。
「あの、どうしてわたしのことが好きなの?」
「私はきょうだいが居ない。それに、いろいろあって家族が周りより少ない」
「お父さんとお母さんはいるのに?」
「おじいさまやおばあさまが居ないんだ。お家騒動、ゴタゴタがあって家を出てきたらしい」
「よくわからないけど、そうなんだ」
「いろいろあって寂しいということだ。
だから、きみに会えて嬉しい」
彼女が紡いだのは、打算のなくまっすぐな言葉ばかりだった。
身の上話を語り終えた後、そうだ乾杯をしなくては、と千鶴は気恥ずかしそうにしながら、ボトルを掲げた。そのまま乾杯をして、子供は両手でボトルを口に運ぶ少女の横顔を覗き見る。
ふわりとした黒髪も、透き通った青い瞳も、小さくかわいらしい顔立ちも、たどたどしく嘘のない言葉も。
子供は教育の末端すら知らないというのに、目の前の少女の存在が、ぼんやりと愛おしく思えた。──自分もあなたが好きだ、とこぼしてしまいたくなる。
「わたしのことは、なにも聞いてない?」
子供がチヅルに問いかけると、彼女はゆっくりと頷いて、視線を子供の脚の方に向けた。
「聞いた……」
「そっか」
「詳しいことまではまだ理解できない。だけど、きみのご両親はひどいやつだと思う。大人のくせに、きみのことを勝手な理由で捨てたんだから……。きみは親のことを嫌いになったか?」
「うん。たぶん、嫌い」
「そうか。私もああいう奴は嫌いだ」
それから少し無言の時間が続いたが、千鶴は何かを言いたげに子供に視線を向ける。子供が見返したその眼には、仄かに決意の火が宿っていた。
「どうしたの?」
「いや。きみが嫌でなければでいいんだが……私たちがもう少し大きくなったら、きみのルーツを探らないか」
「ルーツ……」
「はじまり、という意味だ。きみが昔のことを忘れたいなら、別にいいんだ。私がモヤモヤするだけなんだ……。あんまりにきみにひどい仕打ちをするから、その理由を知りたかった」
「…………はじまり、か」
そうか。
ああ、知らされていないのか。
子供の頭が急激に冷えた。自分がよくないものであることを、目の前の彼女は知らず、それなのに探ろうとしている。それは困る、と言いたくて、子供は眉をひそめた。
「あ……ほんとに、嫌ならいいんだ。私が気になるだけなんだ……こういうふうに、知りたがりで、すぐ嫌われる……」
子供の表情を見て、少女は申し訳なさそうに顔を背ける。つらいだろう、もう聞かないよ、とやさしい声で子供に語りかけて、ぱたりと会話はやんだ。
おまえがいい、と子供の本能が呟いた。
「じょうだん!」
「……うわ!」
子供は千鶴に思い切り抱きつき、千鶴はドキリとした顔でベンチに倒れ込む。
「いいよ。まだわたしのことを知るのはこわいけど、あなたと一緒にいたい。わたしも、あなたに会えてうれしい!」
犬のように頬と頬をすりつけ、愛らしく子供が微笑んでみせれば、少女の表情もふわりと緩んだ。許してくれるのか、よかった、と言いながら子供の頭を優しい手つきで撫でる。
「はは、ずいぶんと元気な子だったんだな、きみは。ここから長いつきあいになる。いい家族になろう」
「うふふ。かぞくって、しあわせなことなんだね。きみの中では」
「そうだな。家族というものは、しあわせだ」
知らないことは幸せなことだよ、と子供はうっそりと笑った。
ひどく据わった眼で、締め付けるように柔らかい体を抱く。知られたくなくて、この人を愛してこの人に愛されたくて、只々冷えた欲望が首をもたげている。
悪魔は輝きを捕まえた。未だ子供が知らないはずの情欲が、激情にすげ変わっていく感覚があった。
***
全ては懐かしき日のこと。
きみの背に正義を見ている。
正しくて愛おしいきみを追っている。
あの日からずっと自分の心臓がうるさくて、目が血走って。
生殖の器官を絶たれた理由が、分からない癖に解ってしまって吐き気がした。きみを欺瞞と欲のままに侵したいと、色欲が甲高く笑っていた。
それら全てを、憧れの2文字で誤魔化しながら歩き続ける。
せめてきみだけは、いや、きみだけが、シンザワサソリを理解しないことを祈っている。
きみ以外にどう思われてもいいんだよ。何も知らない、優しいせいで嘘に気づけないきみが好きなだけなんだ。
だってさあ、様々なゴミを踏み付けにして、血塗れできみを追う化け物など、きみが愛してくれるわけがないだろ。
孤児院を出てから、私欲のために人を殺したよ。かつて両親がそうしたように。
でもいいんだ、何も思わなくていい。知らなくていい。どうか最期まで、隣にいる相棒の本質を知らないままでいて。
そうして望みが叶うまでは、この身の呪いが晴れることはなく。
害虫は全ての外敵を刺し殺すだろう。