ダーク・ファンタジー小説

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.169 )
日時: 2015/06/10 00:01
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: .v5HPW.Z)

「美咲ちゃん……。あなた一体、何を言っているか分かっているの?」
 驚愕のあまり言葉が出なかったのだろう。
深く長い沈黙のあとにハナはひどく大人びた声でそう美咲に問いかけた。
 もはやその声に美咲を嘲(あざけ)るような雰囲気は無い。
まるで凍えているかのように冷たい声を震わせ、ハナは信じられないと目で語っている。
「はい」
 しかし美咲はその視線すら感じないほどに顔を伏せ、ただひとこと答えを返した。

「今宵、あなたがしてきた血の滲むような決意を全て捨てて……。
あんなクソみたいな人生にもう一度戻るって言うの……!?」
 ハナの口調が次第に強くなる。
「……はい」
 それでも何も感じないのか美咲はただ小さく「はい」と呟き、こう続けた。
「さっき……パトカーに乗りながら思ったんです」
 もはや見えるはずの無いパトカーを思い出すように振り返りつつ美咲は語る。
「結婚する前。家出をして帰る場所がなかったって言ってたお母さんは……きっとあの世界——お父さんと結ばれなかった世界では、しなくてもいい苦労をいっぱいしたんだろうな、って」
 あの世界で直接合ってはいないけど、でも……私があの人の運命を変えてしまった。
そう長々と語る美咲にしびれを切らしたのかハナが割り込んだ。
「身の程に合わない願いを叶えれば他人に迷惑がかかるから、自分の願いを諦めるって、そう言いたいの……?」
 怒りと恐れが入り混じったようなその声に美咲は一瞬だけビクッと体を震わせるも、何か決意するようにギュッっと手を握り締め、震え声で「それもありますけど……」と一呼吸おいてから息を吸い込んだ。

「いくら周りが180度変わっても、自分は何も変わらないと思ったんです」

 吸った息を全て空になるまで吐き出したほとんどため息に近いようなその言葉に、
ハナも、そして傘すら言葉を失った。
「臆病で人見知りで、恨みっぽくて悲観主義」
 誰も言葉を発さない。
「そんな私があの両親から開放されても、きっと居場所なんてどこにも無いんです」
 それどころかかける言葉すら見つからない、雨音だけが響く商店街で、
「だから」
 美咲は枯れた涙の跡を顔に貼り付け、
「だから私は、あの場所に居るしか無い……そう思うんです」
 ただ、虚しく笑った。

「それに。……私って臆病なんですよ」
 だが、次第にその笑顔も流れ出した涙に溶ける。
「怖くて、死ぬことすらできないんです」
 にっこりと歪めた口角から涙が口の中に入る。それでも美咲は笑う。
「だから私は」
 全てを諦めた清々しい笑顔を浮かべる。
「あの場所で、両親のアクセサリーとして……」
 胸に手を当て自分の鼓動を、命を感じながら、
「この命を、使い果たす」
 目の前にいるハナに対して、先ほど自分がされたようなとびっきりの笑顔を浮かべ……言った。

「きっと。最低な私に与えられた人生なんて、そんな一本道でしかないんですよ……」

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.170 )
日時: 2015/06/16 23:36
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: nVQa3qMq)

 誰も……言葉を発さなくなった。
何十、もしくは何百という付喪神が周りを取り囲んでいるはずだというのに、響くのは少し弱々しくなった雨音だけ……。その雨音も次第に小さくなり、雨が上がると同時にこの偽りの商店街を圧倒的な静寂が包み込んだ。

 頭上の傘が何か言葉をかけようと唸る。
周囲の付喪神たちがどう対応したものかと目配せをし始める。
そんな中、第一声を発したのは、
「あは……ッ」
 今まで顔を伏せていた紙代花だった。

「あははははは」笑う。「あはははははは」笑う。
「あはははははは、あ〜ははははははは、あはははははは」
 笑う、笑う、笑う。
楽しそうに腹を抱え、口を開いて大声で笑う。
 付喪神達が何事かと目を見張る中、傘が唸るのを止め、無言になる中、
ハナは「あははははははは」とひとしきり笑った後、「は、はは……」と空笑いを続けたかと思うと、まるでいきなり電池が切れたかのようにガクンと体中の力を抜いてうなだれた。
「はぁ……」
 うつむいたままひたいに手を当て、大きなため息を吐くハナ。
そんなハナを見て、今まで黙っていた傘がゆっくりと口を開いた。

「残念だったな、チリ紙。お前はとんだ思い違いをしていたようだ」
ハナはしばらく傘の言葉を噛みしめるようにうなずいた後、
「本当に……。情けない勘違いね」
 うなだれた頭を必死に持ち上げながら苦笑いを浮かべ、まるでこの世の終わりを見たかのような表情をしている美咲のくすんだ瞳にハナは自分自身を映した。
「そっか……」
 何を吹っ切ったような清々しい顔。
美咲の顔。そしてその瞳に映った自分の顔を見比べ、
どこか嬉しそうな、それでいてとてつもなく悲しそうな表情をするハナは大きく息を吸うとこう言葉をこぼした。
「そっか。それだけの不幸を背負ったあなたですら、そっちを選べたんだ……」

 ぱちぱちぱち。ぱちぱちぱちぱち。
商店街にハナの拍手が響く。
「……私の負け」
ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
「おめでとう……美咲ちゃん」
 気がつけば商店街中から拍手が鳴り響く。
傘を、ハナを、美咲を見ていた付喪神たちが、
ハナの拍手につられ、いっせいに拍手喝采を美咲に送る。
 雨が止んだ商店街に、
「何が……」
 拍手喝采の雨が降り注ぐ。
「何が……ッ」
 その雨の中、美咲は、
「何がおかしいんですかッ!!」
 規格外の大声で全てをかき消した。

「私の不幸が……ッ」
 ふたたび商店街が静まり返る。
「人の不幸がそんなに面白いんですか……!?」
 美咲以外の声が一瞬にして消える。
つられて笑っていた付喪神達が何かいけないことをしたかと冷や汗をかく。

「は。はは……いいですよ……。笑って下さい」
 しかしそんな周囲など全く気にかけることなど無く、美咲は自嘲的じちょうてきな——明らかに皮肉を込めたトーンの高い声で周りに居る全ての存在に語りかけた。
「イイ見せモノだったでしょう? 思い通りだかどうか知りませんがバケモノの皆様がご満悦そうで大っ変! 光栄ですよえぇ!」
 もはやどうでもいい。どうにでもなれ。
そう態度で、声色で、言葉で語る美咲。
そんな美咲の絶望を一身に受け、今も睨まれ続けているハナはしかし、「はぁ……」とため息を1つ吐いたかと思うと、ひどく面倒臭そうにこう言った。

「ばーか」

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.171 )
日時: 2015/06/19 20:18
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: nVQa3qMq)

「何が“自分は変われない”よ……悲観主義もここに極まれりね」
 さっきまでのたどたどしいしゃべり方ではなく、
何の飾り気もない。まるで友達に語りかけるような口調でそう言うハナ。
「死ぬ勇気がない? 死にたくなかったの間違いでしょ?」
「黙れッ!」
 しかしそれも美咲にとっては煽る要因でしかないのか、口調はさらに厳しさを増す。
「お前に……あなたに何が分かるって言うんですか……! 私を騙して……もしかしたら幸せになれるんじゃないかって期待させて……それをまるごと踏みにじったあなたに何が分かるって言うんですか!!」

「だったら何で引き返さなかったの?」
 だがハナは全く動じなかった。
その質問を予想していたかのように淡々と答えを返し、靴底で自分の周囲にできた水たまりを蹴ってみせた。すると水面に戸惑う警官と激怒する幾田秀を含めた家族が映し出される。
 あの、美咲が先ほどまでいた世界の映像だ。
どうやら美咲をあろうとこかパトカーごと見失った警官が、夫婦から文句を言われているらしい。
 そんな風景を見下ろしながら、ハナは何も見ないよう顔を伏せている迷い子に語りかける。
「この世界だってある意味ではあなたの理想通りだったハズでしょう? 孤児になるかもしれないけど新しい人生には違いない。その先に幸せだってあったはずなのに……」
「それは……」
 今まで激高していた美咲が言いよどむ。
絶対に納得出来ないという表情をしているものの、的確な反論が出てこない。
そんな美咲を見て、ハナが先に口を開く。
「何も変われない自分はそんな世界では生きられない?」
「っ……」
 おそらく、その言葉が的を射ていたのだろう。
美咲は悔しそうに歯を噛みしめた。

「えぇ、そうね。でもだからこそ……」
 その反応を肯定とみなしたハナはこう続ける。
「だからこそあなたはあの場所で——あの最低な人生で夢を叶えたかったんじゃないの? 
それこそ、自分の命を賭けるぐらいに……」

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.172 )
日時: 2015/06/20 22:33
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: nVQa3qMq)

 ——数秒間の静寂。
つい先程まで怒り狂っていた美咲は完全に沈黙し、また静かに顔を伏せていた。付喪神も傘もハナも、誰もが何を考えているか分からない不気味な沈黙の中、事の発端であるハナがまた話し始める。

「それは恥ずかしいことでも情けないことでもない。誰だってそうなのよ……」
 だがその顔に先ほどまでの元気はない。
どこか憂鬱で悲しげなトーンの低い声で、ハナは小さく縮こまった少女に語りかける。
「誰だって見えている世界。慣れ親しんだ自分の小さな世界に幸せを溜め込もうと必死なの。だから今ある幸せにしがみつこうとする。あなたがあんな最低な家庭に戻ろうとしたようにね」
 嫌だと分かっていても、人間そう変われないものなのよ。
そう嘆息気味に語るハナを、やはり美咲は見ようとしない。
「だからあなたは、こんな何もかもが変わった世界じゃなくて。あの場所で——あの最悪な人生を自分の手で変えてみたかった……。そうじゃないの……?」
 しかし、なおもハナは美咲に詰め寄り、問いかける。
するとそれに呼応するように美咲は雨と涙に濡れた顔を上げた。
「無理ですよ……だってわた、しは……」

「弱いだけで、逃げてきただけで……。あの場所で、何もできな、ったから……。だから変われるかも知れない希望にすがって……。結局——」
 涙で枯れた喉を鳴らす。嗚咽混じりに叫ぶ。
「結局、弱いから……諦めて、絶望して……また逃げてるだけ、なん……です……」
 それが、おそらく……美咲の“本音”なのだと、その場にいる全員が痛感した。

 弱いからこそ希望にすがった。
希望を見つけ、自分は何でもできるのではないかと天狗にもなった。
一瞬とはいえ、母親を邪魔だと消し去ろうとさえした。
……しかし、進んだ先には絶望しかなかった。

 そんな今宵起きた奇怪な出来事で生まれた美咲の感情を、憂いを……その場にいる全員が噛み締め、そのうえでハナは泣きはらす美咲に歩み寄る。
 そうして、しばらくその様子をじっと見つめたのち、優しく抱きしめ——
「あ〜もう面倒臭いなぁ!」
 ——るふりをして美咲の顔をむにゅと両手で挟んだ。
「ぬぅ……!?」
 突然のことに妙な声を上げる美咲。
一方ハナはすこし潰れた美咲の顔を見て少しだけ微笑むと、こう言った。

「逃げだろうと、勇気だろうと……理由なんてどうでもいいのよ……!」
 ひどくかすれた声だった。
まるで心の奥底から絞り出すようなそんな声に美咲は目を見開く。
「逃げだって、絶望しか見えなくたって……。あなたは自分の人生を生きると決断をした。
選択を放棄して死ぬこともなく。ある程度のわがままなら許されたのにそれもせず……あなたは自分の人生を歩むことを決意した……。だから」
 息が続かなくなったのかハナは一度そこで言葉を切り、はぁ……はぁ……と血を吐きそうなほどに荒い呼吸音を響かせながら続ける。
「だからそれに対して私は最大限の祝福と謝罪を送りたいのよ……っ!!」

「ぁ……」
 ぽつん、と。
美咲のおでこに雨が落ちた。
 いなハナに顔を両手で挟まれ、ちょうどハナと顔を向かい合わせている美咲にはそれが雨でないことがすぐに分かった。なぜなら、
ハナの左目が、蒼く染まっていない“人間の目”が赤く充血し、涙に濡れていたからだ。

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.173 )
日時: 2015/06/26 21:26
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)

「どう、して……?」
なぜ……泣きそうなのか。
なぜ自分にこんな非道なことをした相手が泣きそうなのか。
それは分からなかったが、その曇り一つ無い目に美咲は息を飲む。
「っ……」
 ハナも一瞬遅れて自分が涙を流していることに気付いたのか、美咲の頬からから手を離すと、さっと顔を逸らした。
 すると、美咲の頭上からそれを見ていた傘が唐突にやれやれと呟く。
『あぁ、あぁ……まったく。感極まって泣くなよご主人。みっともねぇなぁ』
「——ぃてない……っ」
 傘の小馬鹿にしたような言葉に、少し涙声になりながら首を振るハナ。
『大見得切って大げさな舞台こしらえといて、途中で挫折とか無様以外の何者でもねぇぜ?』
「泣いてない……ッ!!」
 しかし流れる涙を誤魔化すために、ハナが自分の顔を強引に掻き毟りながら振り返った瞬間。
2人のやりとりを訝しげな目で見ていた美咲も、茶化していた傘でさえも絶句する。

「ぁ……」
 顔の右半分。不気味な蒼い右目が印象的な顔の右側が石膏像(せっこうぞう)のように白く、もろく変化し、ハナが掻き毟った部分から白い粉がポロポロとこぼれ落ちていたのだ。
「あ、ぁ……!」
 本人もそれに気付いたのか。顔を引き攣らせ、悔しそうに顔を歪める。
それと同時に石膏状になった顔の皮膚にピシッとヒビが入ったかと思うと、まるで昆虫が脱皮をするようにそのままパラパラと崩れ落ち、その下から元通りの皮膚が顔を出した。

「…………ッ」
 自分の頬から崩れ落ち、足元に出来た水たまりに溶けてゆく真っ白な皮膚をじっと見つめながらぎゅっと唇を噛みしめるハナを見て美咲は悟った。無かったことになったのだと。
 頬を引っ掻いてできた傷が、あっという間に——それこそ最初から何も無かったかのように再生してしまったのだ、と。ハナの反応からそう推測した。
すると案の定と言うべきか、うなだれその場に立ち尽くすハナに傘がたった一言こう告げる。
『チリ紙……しばらくこの場を“離れろ”』
「そ……そんなこと——」
『お前、そのナリじゃ喋れないだろ……?』
 何か反論しようとすぐにハナが顔を上げるが、傘は皆まで言う前に説き伏せ、しばらく沈黙してからまるで父親のように低く唸った。
『見栄張らずに泣いてこい』

「でも、そんな……」
 それを聞いたハナはどうにか言い返そうと首を左右に動かしながら思案を巡らせるも、その思考自体が悪あがきだと気付いたのか、諦めたように顔を伏せ「……分かった」とだけ言うと、スーッと闇の中へと消えていった。

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.174 )
日時: 2015/07/04 18:02
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)

「…………」
 そんな随分と小さくなったバケモノを、美咲は無言のまま見送る。
というより、どう言葉をかけていいのか分からなかった。
 今まで威圧的だったり、そうかと思えば幼稚だったり、狂気的だったりと、色んな顔を見せてきた紙代花が去り際に見せたその顔は……。
「まるで……」
 まるでどうしようもない運命に苛まれた自分みたいだったから。

「……」
そう思いながら、美咲は商店街を模しているこのムカイに残った傘に視線を移す。
と、それに気が付いたのか傘の方から美咲に語りかけてきた。
「あぁ、すまんな嬢ちゃん。最後の最後まで俺らの内輪もめに付き合わせちまって」
 なんというか、身内がすまないといった感じでやや笑いながら言葉を発する傘。
それにどう反応したものかと迷っている間に、傘は美咲の周りをコロコロと2,3周回ると、ホッとしたような「ふぅ……」という深い溜息を吐く。
「とはいえその様子だとだいぶ落ち着いたみたいだな。……あれか? 目の前で号泣されると涙が引くってやつか?」
「…………」
 明らかに茶化しているのは分かっていたが、ハナの様子を見て少々センチメンタルになっていた美咲が傘をジトっと睨む。傘自身もその反応は予想できていたようで「まぁいい」と笑うとこう続けた。
「お前の決断に敬意を表して、これからちょっとした昔話をしてやる……よく聞いていろ。お前にも無関係な話じゃ無い」
 そう言うと傘はまた厳格な調子で語り出した。

『憂いを背負うは人のさが明日あすへ流すは人の才』

『何年か前、俺がある女に言った言葉だ……』
 傘の言葉に合わせて、周囲に居た付喪神たちが「ひそひそ」とざわつき始める。一体何が起こっているのか分からない美咲は、周囲を警戒しながら傘に問いかけた。
「ある女?」「そう“女”だ」
「お前よりも年上だったし、家庭でも学校でも別に不幸ってわけじゃなかった」
 低く、威厳がある声に似合わない、吐き捨てるような口調で傘は言う。
「だが、1つだけ……その女にはどうしても手に入れたいものがあった」

「……へぇ」
 その話し方から美咲は傘が今まさに悩んでいることを話しているような気がした。
昔話というより身の上話。もっと言えば“ある人物”の境遇きょうぐうを語っていると気付いた美咲は、傘が機嫌を損ねないように黙って続きを促す。
「手に入れたいもの、ですか」
「そうだ、そのたった1つのモノのせいで女は悲しみ、怒り、憎しみ。ついに身投げ、自殺寸前までいった……」
 自分の感情一つで、女は死のうとしたんだ。
そう語る傘に美咲は黙って顔を伏せ、周囲の付喪神たちの奇っ怪な声はますます大きくなる。
「皮肉なもんだよな。自分自身のままならない——どうしようもない願いのせいで、憂い、狂い。願った人生を送りたくて——生きたくて、人間は死のうとする……」
「その女も願いのために狂い。狂ったと勘違いしている人生を抱いて死ぬようなどこにでもいる人間……だった」

 と、ここで傘は苦しそうに言葉を切る。
何か心情的な葛藤があるのか、なんども「それで……」と呟くだけで話が一向に進まない。 
「……どうしたんですか?」
 長い沈黙にしびれを切らしたのか美咲が傘に尋ねる。
「……いや……その」
それでも傘は沈黙し、このまま話が途切れてしまうかに思えた。
——次の瞬間。

『しかしその時、とあるバケモノが女に囁いた』
 美咲の頭上。そこにいる傘のさらに頭上から凛々しい女性の声が響いた。

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.175 )
日時: 2015/07/05 21:36
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)

『あなたの願いを邪魔するものは全て消しましょう』
『あなたの人生を一度流し、塗り替えましょう』
「……誰?」
 ハナの声ではない。もっと甲高く、透き通るような美しい声。
その声の主を探すべく、美咲は声を追って真っ暗な空を見上ける。
 そしてすぐに気付いた、
「……!」
 それが風に煽られ、ひらひらと落ちてくる桜色のハンカチであることに。

『そう囁かれた女は、哀れにもそのバケモノに自分の全てを……』
 ハンカチはまるで美咲に手を振るようにひらり、ひらりと舞いながら。
歌うように言葉を紡ぎ、美咲を目掛けて落ちてくる。
『“命でさえも”喜んでささげた……』
 それを見た美咲は傘から手を伸ばし、ハンカチを受け取ろうと空に両手を掲げた。
すると、それに呼応して周囲に居る闇が——付喪神達がドバッと美咲のいる大通りへと一斉に流れ込んでくる。

 ガランガラン。ゴロンゴロン。ドカドカ、ボン!
闇の中にいる付喪神達が一斉に動き、思い思いの音を響かせながら美咲へとにじり寄る。
「ぇ?」
 いきなりの展開に、訳が分からず目を見開いて硬直する美咲。
すると美咲の周囲にある光で、いままで闇に包まれていた付喪神達の姿が見えてきた。

 最初にドカドカ走ってきたのは扇風機。4枚ある羽のうち2枚が欠け、全体的に薄汚れたそれがコンセントケーブルを振り回しながら、若い青年の声でハンカチの言葉を引き継ぐ。
『そして女はバケモノから囁かれた希望に、最後までしがみつき続け』
 続いて姿が見えてきたのは大きな和タンスだった。ドッスン、ドッスンと揺れながら前進するたびに壊れた部分からメキメキと音がするそれが、力士のような野太い男性の声で続く。
『女の願いは叶えられた……しかし』
 すると和ダンスの影から、続々と『モノ』達が這い出してきた。
『ソノ代償とシて!』
 幼い口調で声を張り上げる、プラスチック製の人形。
『女は人ならぬ“モノ”となり』
 ゴロンゴロンと回転する、すすけたカーペット。
『死』『ぬ』『より』『も』『辛』『い』
 カクカクした発音を組み合わせながら、
尺取り虫のように這いずる、やぶれた絵本。
『生き地獄に落とされ——』
 キィキィと音を鳴らしながら前進する、錆びついた三輪車。

『そうして二度と……人並みの幸せへは戻れなかった』
 最後にいつのまにか美咲の手のひらまで落ちてきていたハンカチがそう話を締めくくるころには、何百個という数のモノ達が美咲の周りを埋め尽くしていた。

「これは……どういう——」
 見えない時はそれほどでもなかったが、いざ見えてしまうとその大きさに萎縮する。
美咲はまるで頭の先から指先まで固められたかのように硬直した。
 そんな美咲の手の上で、ハンカチがのんきにひらひらと踊りながらこう言う。
『これが、私達のおさである紙代花の昔話であり——私の友人の物語よ。幾田美咲』

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.176 )
日時: 2015/07/09 22:22
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)

『あぁ〜あぁ……ったく。お前ら我慢するってことを覚えられねえのか?』
 そう言いながら傘は集まってきた付喪神達をコロコロと転がりながら見渡した。
やれやれと周囲を一瞥した傘は案の定固まっている美咲を見てまたため息を1つ吐く。
『安心しろ嬢ちゃん。こいつらは自我を持って十数年そこらの付喪神だ。年期を重ねた高位の付喪神なら喰われるかもしれんが、こいつらはお前と同年代ぐらいの現代っ子だから人間を襲いやしねぇよ。俺が保証する』
「……。そうですか……」
 美咲はやや困惑した様子で傘を見つめ、周囲を見渡さないようにしていたが、アタマの整理がついたのか肩の力を抜き、恐る恐る付喪神たちに向き直った。
 美咲が怖がらぬよう案じてくれているのか和タンスを含めた体の大きな付喪神達はすこし距離をおいた地点に陣取っていた。
『‘&$』#%#)!!』
 また人語を話せる付喪神ばかりではないらしく人間のようなひそひそ話をかき消すほどに、意味不明な奇声が辺りを飛び交う。

 しかし、言葉を話せないモノもガヤガヤと何か言っているモノも、
みんな美咲の方を向き、必死に何かエールを送っているようだった。
「……」
 そのせいか付喪神達を眺めていた美咲の顔にぎこちない笑顔が戻る。
それを確認した後、傘はもう一度大きく息を吸い、美咲に対して語りかけた。
『もう一度言うが』

『今の話はお前にも無関係じゃない』
 微笑んでいた美咲が自分に向き直ったのを確認し、黙ってグルンと1回転すると傘は続ける。
『人間生きていれば負の感情で目を塞がれ、まともに前が見えなくなることがある』

 咲の手のひらにいるハンカチもこれに続き、歌うように語りかけてきた。
『種類も重みも、大きさも捉え方も人によって違えど……人は必ず自分のままならない、どうしようもない願いと憂いを背負って生きる運命にあるの』
 その声に驚き、手を閉じようとする美咲。だがハンカチは器用に指の間をすり抜けると、またひらひらと体を翻しながら周囲の付喪神達と共に、声高く語る。
『そう、あなたも彼女も……』

『悲しみに』『怒りに』『憎しみに』
『自分自身の憂いに目を塞がれ」
『突拍子もない希望に』『ありもしない理想郷にすがって』
『自分の命を、人生を投げ出そうとした』
「……」
 付喪神達の言葉に何も反論できないまま肩を落とす美咲。
だが傘がこう語りかける。

『でもお前はあいつとは違う。……そうだろ? 幾田美咲』

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.177 )
日時: 2015/07/11 17:03
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)

「……?」
 厳しい言葉が飛んで来ると思っていた。
が、傘は先程までのふさげた声のまま美咲に言葉をかけてくる。
『まぁ、たしかにお前はこの一晩。チリ紙が手渡しちまった魔法にすがって最終的には自分の命をも捨てた……』

『けど、嬢ちゃん。お前は今、人間として自分の現実に真正面から挑もうとしてるじゃないか』
「いや……だからそんなのじゃなくて……私はただ臆病で——」
 傘の言葉が惨めな自分とひどく不釣り合いな気がして、美咲はそう声を上げるが、
『臆病な奴がここまで来るか? 普通』
 即座に言い返され、口を閉じた。

『たしかに今は苦しいだろうし、1つも希望が見えないだろう』
 苦々しい顔をした美咲に傘はそう続ける。
『お前にとってあの決断は単なる諦めだろうし、決して勇気では無いかもしれない』
 納得出来ない。もう私を放っておいてよと語る目に体の先端を突き付ける。
『だがお前は言った。あの場所こそが自分の生きる場所なんだ、と』
 目が無くても。
『そう、お前は最後の最後で……』
 口が無くても。
『顔を伏せ、絶望しながらでも自分の運命を受け入れた』
 顔がなくても。
『それが、お前とチリ紙で決定的に違う所だ……』
 言葉で美咲に訴えかけた。

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.178 )
日時: 2015/07/11 17:09
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)

 するとそれに呼応するように、がやがやと騒ぐ付喪神達の喧騒に混じって人語を解するモノ達が語り始める。

『ハナ様はどんな不幸な運命も、身を裂くような怒りも悲しみも……。なにもかもを“なかったこと”にできる』
『でも……その運命から逃げないことを選んだあなたは心に傷を負ったまま、これから重い思いを背負わなくてはならない』
 黒ボタンの右目が垂れ下がっているクマのぬいぐるみ。

『でも、傷があるからこそ、どうしようもない思いがあるからこそ。人間は動こうとスル。もがこうとスル』
 戻らなくなった鍵盤をいとおしそうに眺める、鍵盤ハーモニカ。

『泣いて、喚いて、絶望して。自分を縛り付ける思いに死ぬことすらできなくても。それでも生きている限り人間は足掻いて、踏み出して——』
『そうして人間は、自分の手で自分だけの未来を作ってゆく……』
 いつの間にか美咲の手に巻き付いていた、桜色のハンカチ。

『ままならぬ思いを背負った自分以外には、誰も分からぬ』
 背もたれの部分が折れた、青い椅子。
『傷を負った自分以外、誰も語れぬ明日を生きる』
 その隣にいる、足が折れた赤い椅子。

『そりゃぁ、まぁ。思い通りにならない明日かもしれねぇぜ?』
 あちこちが錆びついたファンヒーター。
『また、ため息を吐いて。何もかもが嫌になる明日なのかも知れないわねぇ……』
 所々ほころんで穴が空いている古いゴザ。
『ガ、ガガ……でもね。死なナい限り、人間は自分のキズを明日へのミチシルベにでキるのさネ!』
 陽気に雑音を交えながら喋るラジカセ。
『汚くても、上手くいかなくても』
 大きなシミの付いた緑のカーテン。
『明日も自分の現実で行きてゆくなら。人間は必ず背負った憂いを明日に変えれる』
 塗装とハンドルがとれた赤い自転車。
『“無かったこと”になんてならないからこそ、本当の意味で“過去を水に流せる”』
 中身もないのにガコンガコンと体の中を回す洗濯機。

 それら全ての付喪神が一体どこにいるのか分からなかったが、その1つ1つが自分にエールを送ってくれていることに、美咲は理由すら分からず目をうるませ、そのまま黙って目を閉じた。

 傘は美咲の閉じた目からこぼれ落ちた雫に自分の姿を見ながら、厳かに告げる。
『それこそが、“過去を明日へと流す”人間の才能であり。お前の可能性なんだ……嬢ちゃん』

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.179 )
日時: 2015/07/12 14:14
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)

「過去を明日へと流す。ですか……」

 それから長い長い十数秒を経て、美咲は静かに目を開いた。
「……たしかに、そうかも知れませんね」
 その際、瞼の裏に溜まっていた涙が零れ落ちるが、美咲はそれを指先でぬぐうと傘にキッパリとこう告げる。
「でも……私にそんな力はありません」

『あぁ……それでいい』
 しかし傘は当然だと体を振った。
『こんなまどろっこしい嫌がらせをしておいて「今すぐ考え方を改めろ」なんて、口が裂けても言えるわけねぇ』
 ま、俺に口はねぇけどな。と真面目なトーンのまま笑う傘。
『ただ……頭の片隅にでも覚えておいてくれ。お前の人生はまだ終ってない。もがき続ける限りどこまでも広がるってことをな……そして』

「かえって迷惑だろうけど、私達が陰ながら応援してるってこともね」
 背後からの声に、美咲は後ろを振り返る。
すると今度は少し距離をおいた場所にハナが立っていた。

『おぉご主人様。もう鼻かみ終わったのか?』
 いつの間にか帰ってきていたごハナを馬鹿にしたような態度で迎える傘。
見回してみると、他の付喪神達もなにやら楽しそうにハナを見ている。
「誰かさんが余計な話をしている間にね……ッ」
 そんな付喪神の群衆から受ける空気に耐えかねたのかハナは皮肉っぽくそう返すと、地面を蹴り、空中で一回転しながら美咲の前に着地した。
「とにかく。巻き込んじゃった責任もあるし、ある程度は協力して行くつも——」
「ねぇ、何でですか……?」
 そうして美咲の目を見据えて語りかけるハナの言葉を、しかし美咲は途中で遮った。
「さっき傘さんが話してたのは、あなたのことなんでしょう?」

「……さぁ、どうだか」
 美咲の質問にハナは露骨に目を逸らす。
美咲はそれを肯定と受け取ると、さらに続けた。
「あなたが私と同じような目にあったことまでは理解できました。
でも、あなたの行動理由がさっぱり分からないんです……」
「私を利用したり、助けたり……。怒ったかと思ったら泣いて……」

「あなたは……。一体なにがしたかったんですか?」

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.180 )
日時: 2015/07/13 23:42
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)

「……いらない時に大量に出て、欲しい時に出てこない。そんな気まぐれさがポケットティッシュのアイデンティティなんだけどね」
 バツの悪そうな顔をしてそう誤魔化すハナ。
しかしさらに美咲の視線がきつくなったため、ため息混じりに口を開いた。

「……同じ道を、歩んでくれると思ったのよ」
 血を吐くように低く、疲れ果てた声。苦々しいハナの表情とあいまって、その声を聞いた美咲は喉まで出かけていた文句を黙って飲み込む。
「もちろん初めは単なる気休めで、そんなつもりはなかったけど。……でも、アナタが私の力を使ってしまったと知って、正直。焦る反面、期待しちゃったの」
 期待。その言葉に美咲は一瞬だけ眉をぴくりと動かすが、ハナは申し訳無さそうに「違う」と首を振る。
「これだけの不幸を背負った人間なら、叶わぬ願いを背負った人間なら……もしかして、私と一緒の道を歩んでくれるんじゃないか、って。……そう思っちゃったのよ」
 
「だから適当に言い訳して放置した。危険だと知っていて、手を下さなかった」
 罪悪感。ハナが今まで全く表に出さなかったその感情に押しつぶされてか、ハナの顔が徐々に曇り始める。
「そのかわり、もしあなたが願いのために命を捧げたら。私のトモダチとして全てを尽くしてあげようと思っていたのよ……」
 そんな自分を嘲けっているのか、「ふ……ふふ。あはは」と渇いた笑いを口から吐き出すハナ。
「バカバカしいでしょ? そう、全部私のとんだ思い違いだったのよ……。願いのために自分の命を捧げるような馬鹿は……私ぐらいだった、ってわけ」
 今まで美咲がそうしてきたように、今度はハナが自分を嘲笑う。それどころか、また目の下に涙をしたためながら「いや、それ以前に」とさらに口角を釣り上げる。
「自分の人生をクソだと決めつけて地獄に落ちるような馬鹿が、人の不幸を嘲笑うこと自体が間違ってたのかも……ね」

「紙代……さん」
 先ほどまでの自分と同じように自嘲的な笑みを浮かべるハナに同情しているのか、美咲は始めてハナの名を呼ぶ。するとハナは静かに目を閉じたかと思うと、突然深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」

「本当はもうそれしか言うことがない。……でも、アナタが踏みだそうとしてるこの場所で、そんなこと言うわけにはいかないから……だから」
 ひどく弱気で、ひどく消極的なその声に……美咲は今度こそ確信した。

 この人は……私と似ている。
でも……紙代さんは、選べなかった。踏み出せなかった。
 それが今、こうして微かな違いを生んでいるのかもしれない。と、
「だから……最後まであつかましく、憎たらしく言うね」
しかし美咲の中で芽生えたそんな気付きなど知るはずもなく、ハナはただ泣きそうな顔に力を入れて、どうにか真顔のまま美咲に告げた。

「足掻きなさい。苦しみなさい。そして、踏み出しなさい。……私が歩めなかった自分の人生を歩き続けなさい。……きっと、生き続けるなら。いつか自分の傷を——届かぬ叫びを、いい形で明日に変えれるハズなんだから……!!」

「…………は。…はは」
 その姿があまりに健気けなげだったからなのか。
それとも、必死なハナに何か感じ取るものがあったのか。美咲はその瞬間。

「余計なお世話……です」
 この一晩で始めて。純粋に微笑むことができた。

Re:  このティッシュ、水に流せます ( No.181 )
日時: 2015/07/16 18:32
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)

 数分後。

 なんだか場が打ち解けたことを察したらしく、付喪神達が、
『じゃ、手始めに盗聴とか盗撮とかしてみる?』『あ、いいな。録画機能あるやつ〜』
『できればDVDにダビングできるやつ〜』
『とっくの昔に捨てたれた俺達にそんな機能あるかよ……』
『ビデオテープが限界でしょうねぇ』
 と何やら不穏な会話をする中。
紙代花は黙って目の前にある水たまりに手をかざす。
すると、水面が揺れたかと思うとネオンが光り輝く商店街が映し出された。

 その光景に美咲は見覚えがある。
あの時、ティッシュを受け取った場所だ。
「さぁ、ここに入ればあなたは何事も無く自分の部屋で目覚める……」
「……そう、ですか」
「いまさら引き返すとか言わないでよね……?」
「引き返しませんし、引き返せません」
 なんにしろ、これが最後のチャンスなんですから。と言葉を返しながら、美咲は水たまりをのぞき込んでみた。

 辺りが真っ暗な、このムカイと鏡合わせに映し出された元の世界。
それを見た瞬間、美咲は一瞬だけホッとしたような顔をした後、
不安でまた表情を曇らせたまま、ハナと目を合わせる。
「それじゃぁ……」
「……いってらっしゃい♪」
 するとハナはさっきまでの泣き顔が嘘のように、
曇り1つ無い笑顔を浮かべていた。
 それがなんだかとても悲しくて。自分が悲しまないように笑っていると思うとひどく腹立たしくて、美咲は踏み出す前にこう尋ねた。

「また……会えますかね?」
 その言葉に。ハナは少し驚いたような仕草をしたものの、また満面の笑みを作る。
「私から会う気は……もう、ないけど。もしかしたらスーパーとかコンビニとかですれ違うことぐらいはあるのかも。私ウインドウショッピングも好きだし……」
「どういうことなんですか……」
 あくまで茶化すハナの態度に馬鹿馬鹿しくなったのか、美咲は呆れ顔でそう言い放つと、何歩か進み、水たまりの前までくると再び仕切りなおした。

「それじゃ……本当にさようならですね」
「そうね、または会えないから“さようなら”ね」

 ——さようなら。
その言葉を最後に美咲は目の前の水たまりに飛び込んだ。
水たまりはあっという間に美咲を飲み込み、元の世界へと——忌々しいあの世界と押し流す。
 ハナはそれを数分近く、美咲が見えなくなっても眺め続けていたが、ふと我に返ったのか1人、こう呟いた。

「そう“さようなら”よ。美咲ちゃん。だって私はどうやってもあなたに会うことはできなくなるのだから……」
 “届くはずのない言葉”を、“届かないからこそ”投げかけるハナ。
「でも、まぁ……」
その顔は——どこか清々しくも、泣き出しそうだった。
「最高の思い出だった。これで、心置き無く“死ねる”……」
 しかしそれさえも、泣くことさえ無駄なことだと諦めたハナは涙を流すこと無く、目の下に溜まっていた邪魔な液体を宙に放り投げ、静かに笑う。
 もしかしたら一緒に居てくれたかもしれない友へ、
そして今、自分を心の底から怨みながら元の“道”にもどりつつある裏切り者へ、
最後の言葉を紡ぐ。

「ありがとう。……美咲ちゃん」