ダーク・ファンタジー小説

Re:  このティッシュ水に流せます ( No.30 )
日時: 2014/11/03 22:58
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: pnk09Ew0)

 美咲はすぐに神頼みならぬ紙頼みをしながら自分の上着のポケットを掻き回し、硬いチラシの型紙と柔らかいティッシュ、そしてそれを包むビニールで構成されているポケットティッシュを取り出した。
もちろん、先ほどあの女性からもらったものである。

 とりあえずそれを確認した美咲はいったん落ち着き、少しだけ頬を緩めながら呟いた。
「まさか、こんな所で役に立つなんて……。ぁ、いや……どの道使うのはトイレだったかもね」
 つまりはあの人の言っていた『持っておいて損はない』という言葉は、的を射ていたんだな。
なんてしみじみとティッシュについて感想を述べた美咲は、それはそうと我に返り、そのポケットティッシュから一枚だけテイッシュを取り出すと、さっきカバンに入れた筆記用具から鉛筆をもう一度取り出して、勢いよくティッシュに突き立てた。——破れた。
「ぁ……」
 バリッとかパリッとかそんな効果音すら無く、
興奮した美咲に鉛筆を突き立てられたティッシュはあっけなく、破れた。

 そして、美咲は気付く。
「……いや、ティッシュに字を書くって、どうなの?」
 何というか色々とパニックになり過ぎて勢いで行動してしまった美咲だったが、 ティッシュは衛生用品としては優れていても文房具としては全く使えない事にたった今、気付いたのだ。
「……で、でも重ねれば書けないかな?」
 しかし、それでも美咲は諦めない。悪く言えば往生際が悪い。
裏と表、両方に広告が印刷されてる型紙以外、つまり全ての紙切れをビニールから出し、慎重に、極めて慎重にシャーペンを動かした。

結果——『塾のテスト』という文字だけで、もう書く場所がなくなった。

「……うん。何やってんだろ、私」
 狭すぎた。……文字を書く媒体として、ティッシュが持つスペースは狭すぎたのだ。
そう、ストレス解消できるほどのスペースをこんな紙切れに求めた美咲が……馬鹿だったのだ。
 心の底からそう確信した美咲は虚ろな目でその紙くずを見つめ、そのまま便器の中へ落とそうとした。
が、さすがにこの束を流したらやばいんじゃないかと不安になったので、『塾のテスト』と書かれた一番上の紙だけを便器に落とし、そのほかのティッシュと型紙は入っていたビニールに押し戻した。

 そうして元通りになったポケットティッシュをふたたび上着のポケットに入れた美咲は、『塾のテスト』と書かれた忌々しい黒歴史を水に流し、奥から1番目の個室をあとにしたのだった。

Re:  このティッシュ水に流せます ( No.31 )
日時: 2014/11/12 21:57
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: pnk09Ew0)

 しかし、トイレの入り口にいる人物に驚愕した美咲は、またトイレの中へと押し戻される。
「お父さん……」
 なんともう会計を済ませたのか、美咲の父親がトイレの前に立っていたのだ。
「あの……私、まだっ」
 急いでトイレへ戻ろうとする美咲。しかし、トイレのドアに手をかける前に父親が口を開いた。
「美咲……」「……っ!」
 大声ではなかったものの低く、嫌に落ち着いたその声に美咲は硬直する。
それと同時に、 殴られても怒鳴られても仕方がないと思った。
 しかし、父親は美咲が予想していたよりも遥かにやさしいトーンでこう言った。
「ずいぶん遅かったじゃないか美咲」

「……え?」
 美咲は初め、周りの客の声と聞き間違えたのかと思った。
さっきまでの厳しい口調から一転。いきなり諭すような優しい口調で話しかけてきたのだ。無理はない。
 数秒後、やっとそれが目の前に居る父親から発せられた声だと理解した美咲はどう反応したらいいのか分からず沈黙した。
「あんまりに遅かったから、もうお会計済ませちゃったよ」
 というのも父親が、まだ怒っていて他人の前だから我慢しているだけなのか、
それとも本当に、本当に心の底から子供のやったことだと自分を許してくれたのかが、
表情からだけでは判断できなかったからである。
「…………」
 先ほどまでとは違う、嫌な脂汗が美咲の背中を伝う。
必死に話を切り出そうとするも、ただパクパク口を動かすだけで声を出すことができない。
 結果的に何もできずにいた美咲だったが、しかしその疑問は美咲が口を開く前に解決した。

「さっきのことは、もういい……」
 まるで美咲の心を察したかのように、さっき頬を張ったことは許すと言って来たのだ。
「もういいんだ。あんなことでお父さんも少し頭に血が上っちゃたけど、美咲だって家出するぐらいに辛かったんだから仕方がないよ。そんなことよりさ、早く家に帰ってきちんとした夕飯を食べよう。
……その方が美咲も良いだろう?」
 そうして、何やら長々と美咲に向かって話した後に美咲の肩をポンポンと叩いたあと、思考停止に陥る美咲をよそに出入り口のドアを開き、店の外へと出て行ってしまった。

Re:  このティッシュ水に流せます ( No.32 )
日時: 2014/11/12 22:54
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: pnk09Ew0)

「ちょ……っ、ちょっと待ってよ!」
 数秒後、思考停止に陥っていた美咲も父を追って電光掲示板が輝く商店街へと飛び出す。

 いつの間にか雨は止んでいた。
 一瞬、開け放たれた扉から「ありがとうございあした〜」というファミレス店員の間抜けな声が聞こえてきたが美咲は一切の躊躇なくそれを無視して、外に出たはずの父親を捜す。
 すると父親はファミレスの隣りにある自動販売機の前で待ってくれていた。
「遅かったね」
 そう言って美咲を確認するやいなやすぐに歩き出そうとする父親。
それに対して美咲はすぐに呼び止めようと口を開く。
「うん…………」
——が、喉の奥から出たのは単純な返答だった。

 なぜ「待ってよ!」と言えなかったのか、美咲自身もよく分からない。
 だが、その理由をあえて言葉にするならそれは、呼び止める理由が見つからなかったから。
 ほんの数秒とはいえ父親を追いかけ、捜していたというのに、
その理由を言葉にすることができなかったから。

 ただ、直感的にこのままではいけない気がした。
何か尋ねなければいけない気がした。
 だからこそ美咲は、何も考えず歩き出す父親の背に向かって何かをぶつけようとしたのだ。

 しかし『何か』などというそんな曖昧な直観は口を開いた途端に霧のように消え、美咲は歩き出してしまった父親の後を無言で追った。
 追いながら美咲は父親の背中をじっと見た。
きっちりとしたスーツに包まれた父の背中を、ありったけの感情を込めて見つめた。

 そして、美咲は思う。
 この父親は自分の思っている以上に心が広いのではないか、と。
もちろん、優しいが腰が低く頼りないというのは事実だろう。
 しかし、この父親は自分にはない楽天さがあるような気が少しだけした。問題は何も解決していないのにさっさと全部水に流してしまうような、そんな楽天さが……。

 まぁ、その楽天さを迷惑だと思ったことは多々あるが、とにもかくにも今回自分はその楽天さに助けられたのではないかと判断した美咲は、
 うつむいたまま、父親に聞こえるか聞こえないかくらいの声でそっと感謝の言葉を述べた。

「今日はありがとね……お父さん」

Re:  このティッシュ水に流せます ( No.33 )
日時: 2014/11/14 16:55
名前: 猫又 ◆KePkhUDKPk (ID: CEzLXaxW)

「…………」
 美咲の声がよく聞こえていないのか、それとも返す言葉を探しているのか、父親は何も答えない。
 しかし美咲はひとりごとを言うつもりで、またその背中に小さく言葉を投げかけた。
「私の為に会社まで早退させちゃって……迷惑じゃなかった?」

「迷惑なもんか。父親として当然だろう?」
 今度は聞こえたらしく、数秒の沈黙を挟んで父親が答える。
答えてくれたことで幾分か気が楽になった美咲は、そのまま会話を続けた。
「でも、お父さんの会社ってすごく立派な所なんでしょ? クビになったりしないの?」
「ははは……ちょっと仕事を後回しにして退社したぐらいで首になんてされないよ」
「でも——」
「大丈夫だって。美咲がそんなことまで気を回す必要はないよ」
「そう……かな」
「あぁ。……それに父さん、仕事仲間からの信頼はけっこうある方だからね」
「へぇ。そうなんだ」
 そんな普段することのなかった家族間の他愛のない会話をするうちに、美咲はあることを思い出した。数年前、傘を届けに父親の会社を訪れた日のことだ。

 その時父親は、開放感のあるオフィスで大勢の人に囲まれていた。
父親と会ったのはそれを含めた数回だった美咲にとってそれが一時的なことなのか、それとも本当に仲間から慕われているのかその時点では分からなかったが今の発言を聞く限り、どうも父親は母親の自慢話通り相当な重役に就いているらしかった。

なるほど、ブランド好きの母親が飛びつくわけだ、と内心苦笑いしながら歩く美咲にまた父親の声が降ってきた。
「何てったって、お父さんのお父さんも、そのまたお父さんもあの会社にお世話になったんだだからね。多少のことは会社も分かってくれているよ」
「え、そうなの?」
 その言葉に美咲は驚愕する。そんなこと初めて聞いたからだ。
しかし父親はあくまで前を向いたまま淡々と事実を吐いた。
「そうだよ? 父さんはお正月もほとんど実家に帰らないから、おじいちゃん達も話さないんだろうけど、うちの家系は長いことあの会社にお世話になっているんだ」

「へぇ……」
 美咲は興味が無さそうに返事をしたが、心の中ではやっぱりブランド好きの母親がつられそうな家系だと確信すると同時に、母親の汚い部分を笑い合えるこの会話がなんだか楽しくなってきた。
 それどころか「こんな会話ができるなら家出も悪いもんじゃないな」とすら思えてきた美咲に、しかしやっぱり空気の読めない父親は最悪の蛇足を付け加えた。

「まぁだからこそママも色々と抱え込んでいるんじゃないのかな?
 出る杭は打たれるというけど、やっぱり恵まれている人は周りから色々と言われやすいからね」

Re:  このティッシュ水に流せます ( No.34 )
日時: 2014/11/17 21:04
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: pnk09Ew0)

「……そう、ね」

 そんなワケないじゃない……! 
あれが! あんな一方的な暴力が! 虐待以外の何だって言うの!?

 本当は……そう言いたかった。
 しかし美咲は黙る。
何度も言うように、いくら信用したからといって、この父親に真実を述べても無駄だからだ。どうせ、他愛のない娘の反抗期だと流されて、真面目に話を聞いてはくれないだろう。
 そう自分自身に言い聞かせた美咲はただ力無くうつむき、数時間前に走った道を父親と共にまた戻り始めた。

閉店したパン屋さん、24時間営業のスーパーマーケットに仕事帰りのサラリーマンで賑わう居酒屋やパチンコ店、そして商店街の入り口にある本屋さんを通り過ぎると、午後9時を過ぎているせいか人が少なくなった。
 美咲はそれをうつむいたままぼんやりと見ながら、家に帰った後のことを想像した。

 きっと、帰ったら酷い目に合うんだろうな。
足とか腕とか腹とか……青あざができても見えない所しか殴らないだろうけど、
歩き方がおかしくなったり、シャーペン……持てなくなるんだよね。
 ま、どうせ学校に行っても私が障害児だとか頭だけの不良品だとか言われて終わるんでしょうね……ほとんどの教師すらそう思っているみたいだし。
 ……まぁ、いっか。
もう慣れたことだもの、今さら悩むなんて馬鹿らしいわよね。
 どうしてもネガティブな方へ向かう思考をそう切り捨て、美咲がふたたび顔を上げた時には美咲と父親は、もう家の目の前にいた。

「さぁ、着いたぞ美咲」

Re:  このティッシュ水に流せます ( No.35 )
日時: 2014/11/21 21:30
名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: pnk09Ew0)

「…………」
 どこか嬉しそうに言う父親とは反対に美咲はこれから起こるであろう惨劇に怯え、ただぼんやりと自分の足元だけを見詰めることで、絞め殺されそうな心臓をなだめた。
 幸い美咲の家は一軒家なので、家の前まで来てしまえば前を見る必要もなかったが、逆に言えばそれだけ玄関にたどり着くまでの時間が短いということであり、美咲は何の覚悟もなしに開け放たれた玄関から家の中へと放り込まれた。
 道中あんな善人ぶったセリフを吐いていた父親が、あろうことか「主役は美咲だから」と言わんばかりに自分は入らず美咲だけを家に押し込めたのだ。
そんな父親に対して美咲はまた嫌気が差したもののとりあえず家の中にいるであろう母親に向かって声を発する。
「ただいま……」 「美咲?!」

 美咲の声を聞いた母親の反応は早かった。
美咲が声を発した瞬間大声で返答したかと思うと、息を荒げ、目を見開いたまま玄関へと突進してきたのである。
 その姿は、もし手に刃物でも握っていれば完全に殺人犯か何かと見間違えるような風貌だった。
 まぁ実際右手に握られていたのは30cm定規だったのだが、その用途が美咲を攻撃するためだと考えると、
むしろ今のままでも十分に犯罪者だと言ってもいいような気はするが……。
 とにかく美咲の目の前まで走ってきた母親は美咲を飲み込むように身を乗り出し、大声で怒鳴り散らした。
「美咲! あんた今何時だと思って——あ、あら、あなた……」
 が、後から入ってきた父親の姿を見て、母親はすぐに顔を強張らせる。
どうやら、父親が美咲と共に帰って来るとは思っていなかったらしい。
「ただいま」
 空気が読めないのかそれとも故意なのか、父親はそう言いながら微笑みかけた。
「 …………」
 母親は、まるで美咲が父親に商店街で会った時のように節句したあと、「会社はどうしたの?」だの「こんな時間に帰るハズじゃ」だのと美咲を挟んで父親を質問攻めにしていたが、父親はその全てに笑顔のまま答えた。

「はは、どうしたんだい? 美咲が家出したと僕に連絡したのは君だろう?」
「それは……確かにそう言ったけど。なにもあなたが会社を抜けてくるようなことじゃ——」
「なにを言ってるんだ真澄ますみ。 美咲は俺達の大切な家族じゃないか」
「…………」

 あぁ、また余計なことを……。
空気の読めない父親に美咲は心の中でそう叫びながらそっと溜息をため息を吐く。
 その後、何度か咳払いして仕切りなおしたらしい母親は、「お夕飯はテーブルに置いてありますから……あなたは先に食べていて下さい」と言って父親をリビングへと招き入れた。
 さりげなく「私は、美咲と少し話してきますから……」という言葉を添えて。

「ひぃっ……」
 その「話し合い」の意味を理解した美咲は覚悟していたとはいえ、口からかすかな悲鳴を漏らす。家出をして、そのうえ母親はご機嫌ナナメというこの状況で一体どんなことをされるのか、何度も暴行を受けてきた美咲にすら予測できなかったからだ。
 すぐにワラにもすがる思いで父親に視線を送ってみるも、父親は笑顔で「そうか。……いや、僕は美咲が降りてくるまで待ってるよ。今日は久しぶりに家族水入らずで過ごせそうだからね」と母親に言葉を返しただけで、美咲など目もくれずにリビングへと消えてしまった。

「そんな……」
 去ってゆく父親に向けてそう呟くも、美咲は不気味な無言を貫く母親に手を掴まれ、家の二階へと引きずり上げられる。
「ちょ、っと……やめ」
 折れそうな手首を何度も両手で握りながらも抵抗する美咲。
 しかしそんなことなどお構いなしに、むしろ「黙れ」と言わんばかりに美咲の体を振り回しながら2階にある美咲の部屋まで来ると、迷わずそこに美咲を放り込みドアを思いっきり閉めた。

「よく帰ってきたわねぇ……美咲」
 放り投げられた反動で顔面を強打し悶絶する美咲に、母親が叩くための30㎝定規をちらつかせながら微笑む。
「当然……覚悟はできてるんでしょう?」
 痛みでかすむ目を必死に動かしながら見た殺風景で真っ暗な自分の部屋に、
美咲はあまりにもありふれたこの世の終わりを感じ取っていた。