ダーク・ファンタジー小説
- Re: このティッシュ水に流せます(ハートフルボッコ注意) ( No.96 )
- 日時: 2015/01/26 20:35
- 名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: eWyMq8UN)
それから5分後。美咲の体感にして数時間後。
「まったく……本当に無駄な時間だったよ」
扉の向こう側ではなく、すぐ近くから聞こえたその声によって、
虚ろだった美咲の目に光が灯る。
「いい加減にしてくれよ……。誰のおかげで暮らせてると思ってんだ……ったく」
父親が洗面所を抜けてこちらに来る……!!
近付いてくる野太い声にそう確信した瞬間、まるでスイッチが入ったように美咲の心臓が鳴った。
見つかりたくない……見つかっちゃ、いけない。
理由を考える余裕はなかった。美咲はただ壊れた自分の心が漏らす弱々しい叫びに従い、必死に周りを見渡した。
そして見つける。2階へ続く階段から見て洗面所のナナメ後ろにある和室を……。
普段は物置になっているうえに両親の寝室へと繋がる階段とは逆方向にあるため、気付かれる心配の無い部屋。
そんな和室に美咲はすぐさま体をねじ込み、あえて入り口であるふすまを閉めずに置いてある荷物に紛れ込んだ。
「…………」
恐怖によって徐々に荒くなる息遣いを両手で必死に抑え、和室の荷物と一体化する美咲。
わざと開けたふすまから廊下の様子をしばらくうかがっていると、どうやらまだ何か言い足りなかったのか父親は風呂場にいる母親に何度か怒鳴った後、美咲のいる和室など目もくれず2階へと上がって行った。
「はぁ……はぁ、ぁ、はぁ……」
自分の口に当てていた手を放すとともに、やっとのことで美咲は息を吸い込んだ。
もう大丈夫。危機は去った。そう告げる心に身を任せ、美咲は放置してある段ボールの横で寝返りを打ちながら、安堵の溜息を吐く。
しかし美咲の壊れかけの精神は叫ぶ。『何も終わってない』と、
「…………行こう」
美咲はそう言うと、段ボールの隙間から起き上がった。
もはや理由など無い。いや分からない。
あえて言うなら『安心したい』、ただそれだけだった。
さっき何があったのか、私にはよく分からない。
だからあいつに聞こう。殴られるかも知れないけどあいつに聞こう。
何も知らない私の勘違いかもしれないから、あいつに聞こう。
すぐ聞こう、聞こう、奇行であろうと危行であろうと、聞こう、キコウ、気候、kikou……。
ただそれだけの一時的な感情に動かされ、美咲は和室を離れた。
廊下に出ると洗面所、そしてその奥のお風呂場へ続くドアが開け放たれていた。
美咲はさっきまで盗み聞きしていたドアの前に立つ。
すると風呂場には案の定、母親がいた。
「…………」
まだ美咲に気付いていないのか、落ちたシャンプーボトルを無言のまま元の場所に戻す母親。
踏まれた時に濡れたのだろうか?
服の左半身だけが濡れ、その姿はいつも美咲が見ている母親とは似ても似つかなかった。
「何してるの? お母さん……」
そんな母親に美咲は、開いたドア越しに声をかける。
無邪気に、何も考えず、何故そんなことをしたのかさえ分からずに美咲はうつむく母親に声をかけた。——瞬間。
「ミサ、キ……?」
母親は目を見開き、持っていたバスタオルを床に落とした。
「なん……で……」
驚きと焦り、そして悲しみ。そのほか言葉にならない感情を物語る見開いた目。
そこから向けられる視線をたった1人で受ける美咲は、しかし無表情のまま母親の言葉を待つ。
光のない目で、まるで目の前のモノを飲み込むような虚ろな目で、母親を包み込む。
それに対して母親は何度も口をぱくぱくと開いた後、やっとのことで言葉を紡いだ。
「まさか……見た、の?」
美咲の目から何かを察し、怯えたような視線を向けながらそう呟いた母親に美咲は——
「うん」
ただ、うなずいた。
- Re: このティッシュ水に流せます(ハートフルボッコ注意) ( No.97 )
- 日時: 2015/01/26 21:00
- 名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: eWyMq8UN)
「……ぁ」
数秒もぜずに母親の口から、呻き声が漏れる。
「……あぁ゛……ぁ」
吹き出す感情と共に大きくなってゆく声に、美咲は虚ろな目を見開いたまま死すら覚悟した。——しかし、
「……ぁぁッ! う…う…う………うぁああああああああぁ、ぁ、ぁ、ぁ……」
母親は一瞬美咲に手を上げかけたものの、まるで電池が切れたように崩れ落ち、そのまま声を殺して泣き始めた。
濡れているタイルに膝を付き、ただ惨めにすすり泣くその姿を目に映しながら、美咲はただ機能的に、何の感情も込めずに言う。
「どうしたの……」
「……!」
その声を聞いた母親は夢から冷めたようにハッとして泣くのを止め、
座ったまま美咲の顔を赤く充血した目で捉える。
母親はしばらく何かを確かめるように、または何かを諦めるように泣き腫らした目で美咲を見た後……やっとのことで口を開いた。
「聞いて美咲……。お母さんはね、こんなお上品な家庭には育たなかったのよ」
またうつむき、決して美咲の目を直視しようとしないまま——いや、直視することができないまま母親は続ける。
「美咲が知っているのはあの人の——幾田家の親族になって立派になったおじいちゃんの家だろうけど……昔は冗談にも裕福とは言えない家庭だった」
「それなのにお母さん、高校も行かずにグレちゃったのよ……」
母親はそこで「本当に馬鹿よね」と自分自身をあざ笑う。
「当然に親にも見放された。……それでヤケになって両親の財布から金奪って家出した……」
「でもそんな性格だから、たった3日でお金が尽きて。気付いた時にはほぼ浮浪者……」
「ね、笑えるでしょう?」
「でも、自分で言うのもなんだけど、母さん……顔だけはよかったみたいね。
そんな私を好きになってくれる人がいたのよ——」
「——そう、それが幾田秀。あなたのお父さんだった……」
何も答えず、何も感じなくなった美咲が見つめる中、
急に母親は自嘲的な笑みを浮かべながら少しだけ声を荒げる。
「まさにシンデレラの気分を味わったわ! 灰かぶりからお姫様へ! 欲しい物は何でも手に入る!
……友人にも家族にも神様にさえ祝福された結婚だと、その時は思っていたのよ……」
そこからまた母親の声は小さくなり、また何かを思い出すようにゆっくりと話し始めた。
「でも、それも長くは続かなかった……」
「お父さんの家——幾田家はね、古くからお金のある家柄だったのよ。
だからこんな汚らしい私を心良くは迎えてくれなかったの」
「あの人の親族に会うたびに、頭の先から爪先まで『汚らしい』と罵られた……。
それが嫌で嫌で、いつも精神をすり減らし続けないといけなかった……」
「自分を大きく見せて、どうにか踏みにじられないようにしないといけなかったの」
そこで母親はいったん荒くなっていた息を整え、またゆっくりと言葉を吐く。
「だけどね……。あの人が愛してくれているって、私を必要としてくれてるって信じてたから、それでもそんな地獄を乗り切れたのよ……」
「でも! 美咲……アンタが!!」
また母親の呼吸が荒くなる。ついに押さえていた感情を暴露する決心がついたようだった。
「アンタが生まれてから……あの人は豹変したッ!」
大きく息を吸い、涙ながらに叫びを噛み殺しながら本音を口にする母親。
それは美咲が見てきた中で、最も純粋な《人間の叫び》だった。
「『俺のためにならないガキはいらない。お前ごと出て行け』ってね。
は、はは……ね? あの人も私を愛してなんかいなかったのよ……」
「すぐに別れようと思った。でも……ダメだった。親も友達も、最近知り合ったママ友達も、みんな口をそろえて言うの。『あんな素晴らしい人と別れるなんてとんでもない』って……。そしてみんな決まってこう言う。
『おめでとう』『おめでとう』『お幸せに』『幸せだね』………」
「だから、ある日。私はアンタに手を上げた。暴力を振るった……」
ここだけは、目の前の娘から目を離すわけにはいかないと感じたのだろうか、母親はまっすぐに美咲を見据えながら、自分の罪を語った。
「悲しくて、憎くて、耐えられなくて……アンタを殴った」
「それから、いつかアンタが私を殺すんじゃないかと恐怖して……そしてまた殴った。……今度は怖くて殴った」
「そんな悪循環を、今日まで繰り返したのよ……」と、まるで罪悪感の重みに耐え切れなくなったかのように母親はがっくりと肩を落とした。
「そう、だから私が悪いのよ美咲……。理由はどうあれ手を上げたのは私なんだから……カッターで脅してみたり、起き上がれなくなるまで殴ったり。……そんな非人道的な行為をしたのは私なんだから」
続けて「そしてなにより——」と前置きしたうえで、母親は自分を含めた全てをあざ笑うように吐き捨てる。
「『アンタを産んだせいで、あのヒトが冷たくなったんだ』なんて、見当違いの怒りをアンタにぶつけたのは私なんだから……」
全てを言い切ったのか、そこから長い沈黙が続いたあと、母親は弱々しい言葉を吐いた。
「ごめんね……ごめんね……アンタが悪いんじゃないのに悲しませて……」
「謝っても許されないのは分かってる。だけど1つだけお願い——」
「悪い夢を見たと思って。このことは忘れて頂戴……」
その言葉を受けた瞬間、今まで無表情を貫いてきた美咲の目が、何か信じられないものでも見たかのように見開かれた。予想外、というよりも絶望に満ちた驚きに満ちたその真っ黒な目で母親を飲み込んだ。
「もう……無理なのよ。たとえ奇跡が起きようとこの状況は変わらない……」
再び忍び泣きながら、母親はそう語る。ただ泣きながらそう語る。
「私が美咲を《教育》しなくたって……すぐにあの人が私の代わりに美咲を《教育》するわ……。アナタを一人前の装飾品にするためにね」
あの人はそれ以外の《教育》を知らないから、と母親は赤く充血した目で美咲に微笑みかけながら、最後の言葉を紡いだ。
「だから忘れなさい美咲。……これ以上希望を持っても……だた、苦しいだけよ」
- Re: このティッシュ水に流せます(ハートフルボッコ注意) ( No.98 )
- 日時: 2015/02/06 20:43
- 名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: eWyMq8UN)
「分かった……」
その言葉に、美咲は素直に賛成した。
「……ワカッタヨ、オカアサン」
何の感情も無く、何の考えもない《美咲だったモノ》が賛成するための言語を発した。
そのあまりに感情の無い、ロボットのような落ち着いた口調にやっと何かを感じ取ったのか、
母親はハッと顔を上げ、美咲の光のない黒い目を凝視する。
「美咲? 一体、どうし——」
「大丈夫だよ……オカアサン。ミンナ幸せになるから」
しかし……もう止めるには遅すぎた。
母親にそう言い残すと、美咲は全力で風呂場から飛び出し、そのまま1階廊下へと駆け出したのだ。
「ま……待ちなさい美咲ッ!!」
直感から事の重大さに気付いた母親が後を追うが、濡れた洋服がまとわり付き、追い付けない。
そうしている間に美咲は2階へと続く階段の前まで進んでいた。が、
「……ッ!!!」
足が濡れていたのか、方向転換出来ずに美咲は綺麗に転んだ。
「美咲……!!」
よかった、これでどうにか話だけでも聞ける。そう母親が安堵した次の瞬間——
「ああ……ぁぁぁあああああああああああああああああ!!」
疲労と痛みでほとんど動かないハズの手と足をデタラメに動かしながら、美咲はなんと四つん這いで階段を犬のように駆け上がり始めたのだ。
まさに執念と狂気に満ちあふれた奇行に、しかし反応したのは母親だけではなかった。
「ったく……誰だ、うるさいな!」
美咲が出した奇声に反応した父親が2階から階段をのぞき込んでいたのだ。
しかし、父親の登場は逆に美咲の中の何かに火を付けた。
何か……たった今生まれたドス黒い《何か》に火を付け、
その衝撃が美咲の口から爆声となって父親を襲った。
「退けぇえぇえええええええええええええええ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛!!」
「な……ッ!!?」
さすがに予想外だったのか、父親は美咲の口から発せられた罵声を受けて硬直する。
そのスキに美咲は父親の横を通り過ぎ、自分の部屋へと転がり込んだ。
「な……何だよ、今の……」
「……はぁ、はぁ……」
後から追って来る母親と、驚きのあまり尻もちをつく父親。
そんな2人を放置したまま美咲は自分の部屋に入ると、真っ先にクローゼットの中身を引っ掻いた。
正確に言えば、《2回目》の過去改変の時と同じく、制服の上着に入っているポケットティッシュを取り出すはずが、勢い余ってクローゼットにかけてある他の洋服を自分の部屋にばら撒いた。
「美咲っ! 一体、何をするつもりなの?」
やっと2階に上がって来たらしい母親の声が2階廊下に響き渡る。
しかしそんな声など全く耳に入っていないのか、美咲は2回目と同じく、左手に筆ペン右手にティッシュを持って隣にあるトイレへと入って行った。
「おい、真澄……お前何やって——」
「美咲! 美咲っ!? 返事してよ! 一体どうしたの!?」
ただならぬ雰囲気で階段を駆け上がってきた母親に驚きと焦りを漏らす父親の横を抜け、母親は美咲のいるトイレへ必死に足を動かす。が
(カチャン)
無残にもその前にトイレのカギは閉められてしまった。
「美咲……」
それでも母親は扉にもたれかかり、中にいる美咲に声をかける。
「美咲! 返事をしなさい美咲ッ! 聞こえてるの!? 美さ——」
「おい、近所迷惑だろうが……騒ぐな!!」
だが、その声は途中で途切れてしまった。
状況をよく理解できていなかった父親が母親の行動に危機感を覚え、トイレの扉から引き離したのだ。
それに対して母親は奇声を上げ、父親はさっき手を上げたことに対する嫌がらせかと母親をふたたび責め立てる。
そんな夫婦の醜い言い争いにまみれながら、トイレの中の美咲は無表情のまま持ってきたティッシュに目的の文字を書こうとしていた。しかし——。
「…………」
過去改変後、ずっと左手に握りしめていた筆ペンから中身の墨汁が漏れ出していることに美咲は今、気が付いた。
「オカシイ、そんなに強く握っていないハズだけど……」
イントネーションのない声で美咲はそう言いながら、近くにあったトイレットペーパーでそれをふき取り、
いよいよティッシュの真上に筆を運んだ瞬間——。
「……ぁ」
こぼれた水滴で、ティッシュが濡れてしまった。
美咲は急いでそのティッシュを捨て、下にある新しいティッシュにふたたび文字を書こうとして、
「……」
また、水滴が落ちる。
そして2回目にしてやっと美咲は気づいた。
その水滴が自分の手にある筆ペンからこぼれているものではないことを——。
水のように透明で、そして舐めると少ししょっぱいそれは、
さっきから美咲の視界を歪ませ、頬を濡らしているそれは、
——美咲の頬を伝うナミダだったのだ。
「何で……だろうね……」
今まで抑えていた感情に体を震わせながら、美咲はそう呟く。
「何で……こんなことになったんだろうね……」
荒れ狂う感情を込めて本心からそう呟く。
「もう考えるの……疲れたよ」
呟きながら、筆を動かす。
歪んだ視界を頼りに、歪んだ心で歪んだ文字を書く。
「お母さん。私は耐えるのも、諦めるのも……もう疲れちゃったんだ」
そして文字を書き終えた美咲は、トイレの洗浄スイッチ——脇に付いているレバーを引いた。
「だから……ゴメンネ……。本当に……ごめん……さ」
嗚咽のせいで最後まで言えなかった『ごめんなさい』に少し心を痛めながら、
美咲は持っているポケットティッシュの上から一枚目を、勢いよく水が流れる便器へと落した。
つたない字で、『おとうさん』『おかあさん』と書かれたそのティッシュを、便器に放り込んだ。
それは、恐ろしい呪い。
両親も、自分の手も足も記憶も……存在すら消してしまう呪い。
しかし……もうその方法でしか——
みんなまとめて《無かったこと》にすることでしか自分を救えないと……美咲は確信したのだ。
最後の一瞬。
水面に巻き込まれるティッシュより早く美咲の頬から落ちたしずくが、少しだけ荒立つ水面を揺らした……。