ダーク・ファンタジー小説
- Re: ぼくらときみは休戦中[短編・作者の呟き] ( No.97 )
- 日時: 2017/07/31 14:32
- 名前: 利府(リフ) (ID: SfeMjSqR)
怖いのかなんなのかよくわかんないやつ。いろいろとすまんね!
名前はてけとうにきめました。なんでも許せる人向け。
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確かに風呂場では私が死んでいる。ちょうど、部屋着を着た。
スギハラはその日何度も目をこすったし、スギハラの上げた声に反応して様子を見に来た母親が浴槽を見て首を傾げたことも確認した。もちろん母親はいつもの母親で、びっくりさせないでよと言って、その後に今から外に買い物に行ってくるという旨のことを続けた。スギハラは頷いて、玄関までついて行き母親の姿まで見送った。
そのあと居間までスギハラは走り、自分の部屋着が朝と同じ場所に放置されていることを確認して、もっとわけがわからなくなって、少し笑ってしまった。
それから、スギハラは制服を脱がずにいた。手も洗わずに風呂場のタイルで体操座りをしていた。そこも決して清潔というわけじゃなくて、昨日の清潔が人の垢で汚されたあとの浴室だった。冷めきった湯もまだなくなっていないが、きっと数時間すれば自分か母親が風呂の栓を抜いてしまうだろう。だけど、これが居なくなるという保証はまったくなかった。
だから、この幻覚を、スギハラは疎ましく思った。
今日はせっかく嬉しいことがあったのに。なんでこんなものが見えるんだろう。思わずため息をついた。目の前の何かはなにも言わなかった。
何でもありのこのご時世だが、流石に目の前にあるものはテレビ番組のドッキリにしては悪趣味が過ぎた。
スギハラの目の前で垢に塗れた水が揺れた。その水に首から下の体をすべて入れて、顔をつけて、呼吸のできない体勢でいかれた自分は座っている。
呼吸をしている証拠になる泡は浮かばず、代わりに髪の毛が自分の周囲にゆらゆらと漂っている。そうして1本が首元に触れる。それでも自分は振り払おうとしない。呼吸をしていないのだから当たり前だった。
だけど、目の前で死んでいるのが自分だと認めたら、今ここで生きているスギハラは何なのか分からなくなるので、スギハラは「こいつは死んでいる」という結論を叩き壊すことにした。
スギハラは言葉の棘を刺した。
「気持ち悪い」
単純だったが、削れる心は数多ある言葉だ。でもそれがスギハラの心境だったし、
─そして実際にそれは生きていたのであった。
「気持ち悪いのはあなたもだよ」
売り言葉に買い言葉で片付く応答ではなかった。スギハラは目をこすることすら忘れた。ただぱっかりと開いたままであった。その代わりに、自分の耳を疑った。
その声は溺れたようで、されど鮮明だった。水に浸かった顔に口があるかどうかは分からなかったが、水の中から語りかけているような声を確かにスギハラは聞いた。
「私リフ。あなたの中から逃げてきたの」
スギハラの口から、はは、と乾いた笑いが出た。
リフと名乗った死体は顔を浸けたままだった。スギハラはもっと笑ってしまった。笑いが止まりそうになかった。母親がいたら多少抑えはきいただろうが、今はそのストッパーすらいない。
リフとはSNSに存在するアカウントの名前だ。
それを操作するスギハラは物静かで人畜無害、言い換えればいる必要の無い生きものだった。
だがスギハラはそんな自分が周りのクラスメイトより早く大人になれる気がした。頭の悪そうな言葉を吐かず、何かを悟ったようでいれば、きっとそのまま大人の階段にひと足早くたどり着けるのだと。
そして確かに大人になれた気がした。少なくとも現実で足りない分の知能はSNSで養った。人と仲良くもなった。それで良いと思った。
だが、スギハラ、いやリフなのか。スギハラかもしれないが。
彼女は持ち合わせたことがなかった“執着”を現実の世界で持った。
それは、自分とそっくりだというのにもっと大人で、人からも好かれる人間、同学年の少女への執着である。
それはまさに最高のステータスで、同時に彼女と難しい交流を交わせば自分の完璧さが高まるのだと、少なくともスギハラはそう思っていた。
「でも結局きみの執着はそれでは収まらなかった。だから私がここに出てきてしまった」
リフはスギハラの思考を読んだかのように、そう言った。
「その執着には愛が混ざっているし、要するに一歩間違えたら歪みに化す感情なの」
垢まみれの浴槽の中で漂うのは、髪の毛をも含めて、悪意のようだった。スギハラは少し腹が立った。立ち上がって、リフのいる浴槽に向かって一歩歩いた。
「私があの人のことが好きだっていうの?バカバカしいよ」
スギハラは微笑んだ。嘲りにも似た表情で、ネットの深層、独り言のように喋る自分のようなリフを見て嗤った。
スギハラはスマホを取り出した。それでLINEを見た。
『ごめんなさい』
耳に届く電話よりも質の悪い、ぎらつく液晶で、アイコンはスギハラにそんな断りを告げていた。
スギハラは一頻り笑って立ち上がった。億劫そうに歩いて、台所から嫌な音を立ててスマホの液晶よりも輝く包丁を持ってきた。ぺたぺたと裸足で歩いても、リフは顔を上げなかったし、饒舌になるわけでもなかったし。
ただ、確定する事実があるとすれば、もうリフはスギハラを気にしてなどいなかった。
スギハラは元から水面上に晒されているリフの後頭部に包丁を突き刺した。研がれた包丁は、女々しくもなんともない髪型の中へさくりと入った。肉を刺した感触がなくてもう1度刺した。死んでいないと思った。もう1度刺した。おそらくリフの頭には三つほど傷が入っただろう。そして透明な水に血が滲んだ。
少しリフの体が上に浮かんで、それから頭というより背が徐々に浮かんできた。組んでいた手はするりと離れて、呆気なく水面に現れた。足は真っ直ぐになろうとしたが、狭い浴槽に引っかかって阻まれた。最後にその瞳がぎらりとこちらを睨みつけた気がしたのでもう1度刺そうとしたが、その前にリフはぴくりとも動かなくなった。
スギハラは包丁を落とした。かたかたと歯が触れ合って嫌な音を立てた。今自分が殺したのはリフではなく自分の冷静さじゃないかと思っていた。寒気がしたので包丁を触りたくないと思った。悪人の殺意の象徴というよりもう呪いの道具だ、これは。
LINEに通知が届いた。
『私は友達としてのあなたが好きです』
それを見てスギハラはふう、とひと息をついた。
でも全く冷静さを取り戻したわけではなかったし、包丁を元の鞘に直そうということを考え始めるわけでもなかった。
「ありがとう」
そう送り返してスギハラはスマホの電源を切った。
スギハラが浴槽の前にしゃがんでみると、真っ赤になった浴槽と、そこに混ざった髪の毛やリフの死骸から生ゴミのようなにおいがした。そのまま自分の指を水に触れさせるだけで吐きそうだったし、実際腕まで浸かったところで吐いた。嘔吐物を水に溶け込ませるために無意識にかき混ぜようとした。そんな自分がただひたすら気持ち悪くて胃液まで吐き出した。息も絶え絶えになって、それでやっと風呂の栓を抜いた。
ずごっと気味の悪すぎる音がした。水位が下がっていくと同時にリフの身体も溶けるのを目にして、スギハラはとち狂ったようにけたけた笑った。髪の毛もリフもこのままなくなるのが嬉しくて仕方なかった。笑いが止まらなくて、逆に浴槽の中を眺めるのが楽しくて仕方なかった。ざまあみろ私の勝ちだ、私は正しいことをした、おまえなんかと同じ思考を持ってるだなんて認めるか。
スギハラは脳内ではしゃぎにはしゃいで、しばらくお花畑にいた。
そのしばらくが終わって、穴から聞こえるずこずことおぞましい何もかも吸う音が途絶えて、スギハラはふと無心になって浴槽を見下げた。
溶けなかった嘔吐物が残っていたのでまた吐いた。
浴槽の中を洗い流して穴に落とすと、穴の奥から「おぎゃあ」というリフの声が聞こえた気がしたので、いろんな症状がスギハラに溢れ出て、気持ち悪くて意識を落としかけた。
包丁を直して制服から部屋着に着替えて、いつもの顔で居間にいると、しばらくしてたぶん母親が帰ってくる。父親も仕事から帰ってくる。たった1人のために使うLINEには、文面がおっとりしていて安心するひとからの言葉がこれからも届く。届かなくても、自分からどうでもいいことを問いかければなんらかの答えが返ってくる。
それで幸せだとスギハラは思った。そのままでいいと次に浴槽に向かう時まで思っていた。
見る度浴槽では相変わらず自分が死んでいた。
リフは刺すまで黙らなかった。
やがてスギハラは浴槽の中に入らなくなった。
浴槽に残る髪の毛の量が減ったので母親が嬉しそうにしていたが、そんなのどうでもよかったのでとにかくリフを洗い流すために風呂掃除を受け持った。
「あなたは彼女にどうしてその感情を信じてもらえなかったんだろうね」
そう問うたリフがまた死んで、スギハラが栓を抜くと、この穴の底にあるかもしれない地獄か配管かよく分からないところからおぎゃあという声が出る。
スギハラさんってえらい。スギハラさんはやさしいね。スギハラさんだいじょうぶ、髪の毛ぼさぼさになってるよ。なにかあったら私に相談してほしいな。
学校で彼女にそう言われるたびに嬉しくなるが、相反的に浴槽のことを思い出す。バスルームでの告白を皮切りに変わらなくなった関係に最初のうちは嬉し泣きしたが、その次の次の次ぐらいには心境が変わってしまったのか自分の愚かさを実感するだけになっていた。なので帰ったらリフを殺すことにした。もう話すら聞かないことにした。耳に届くのは正直いってひとつの着信音、目に映るのは彼女の言葉で十分だった。
そうした生活のあと、結局スギハラは何かを殺すことの重みに耐えられなくなって、学校に行かなくなった。
『スギハラさん』
『今度あなたの家に遊びに行きたいな』
スギハラは目に見えて喜んだ。久々に学校に行って彼女に直に会いたいと言い出すぐらいに喜んだ。母親からその身なりじゃだめよ、と言われても行こうとしたが、彼女から「学校が終わってからあなたの家に行くね」という言葉が届いてからやっと今日は家に居ると母親に言った。
こんな姿ではだめだと思ったので、母親の香水でにおいをなくして、ぼさぼさの髪をくしで何度も何度も念入りにといた。鏡を見ていると、自分が彼女にほんの少し釣り合う姿になった気がした。
「スギハラさん、いますか」
すぐに出迎えると彼女は静かに微笑んで「元気そうでよかった」と返してくれた。スギハラはにっこりと笑った。まだ表情筋が動くのがおぞましかったが、それはそれで都合がいいと思った。
「スギハラさん髪伸びたね。洗う時大変でしょう」
スギハラに比べて彼女の髪はあまり長くないのに、自分の気遣いをしてくれるなんてどれだけうれしい事か。スギハラは壊れた機械のようにけたけた笑っていた。
「そういえば、スギハラさんの家に繋がってるパイプの配管、ちょっとだけ壊れちゃってるのね。なにか詰まって壊れてるみたいな感じだったわ」
笑い袋はその一言で壊れた。
多分彼女は壁を伝う配管を見てそう言ったのだ。
スギハラが歯を震わせた状態で「そうなの?私今から見に行ってみるよ」と言うにしても、それは通じないだろうし彼女にとっては恐怖としかならない。だってまるで、人殺しをしてるみたいに思われるじゃないか。
なので泣きそうになりながら一緒に見に来てと懇願してしまった。スギハラの一生の後悔になるだろうそれを彼女はにこにこ笑ってあっさりと承認した。ほんとに彼女は何も知らないのだと思って安心して、思わず子供っぽくていやらしい笑い声が出かけてしまった。
外に出て目当ての配管のある場所を教えてもらった。
ちょうどそこはバスルームに繋がっている配管だった。吐きそうになりながら歩いた。そしてそこにたどり着くと、何かが詰まったような膨らみとひび割れたつなぎ目があった。
「スギハラさんどうしたの?」
「う、うん、久々に外に出たから体調悪くなったみたいで」
「大丈夫...?」
「大丈夫だよ。ちょっと調べてみよう」
そうね、と言って彼女はしゃがみ、ひび割れから配管の中を覗き見ようとした。
スギハラは冷や汗をだらだらと流した。膨らみなんてあるはずがなかった。だってあそこでみんな溶けたはずだった。刺したら溶ける。水に溶けて気持ち悪いだけのものになって終わる。スギハラはそうリフを認識したかった。だがそう上手くは行かないらしい。もし、彼女が、配管の中身に、何かを見つけてしまったら、どうすればいいのだろう?あの場で隠滅した証拠が、ここでもがいていたら、一体どうすればいいのだろう?
彼女がぐっと目を近づけた。
.........
しばらくしてすっ、と放された目線は、すぐにこっちに向かってきた。彼女はスギハラを見てにっこりと笑った。
「なあんだ。拍子抜けしちゃった、これってただ膨らんでいるだけね。もしかしてここに引っかかってたものが最近流されてなくなっただけかしら」
そ、そう、かもね、とスギハラは息も絶え絶えになりながら言った。その息切れには拍子抜けのひの時もなかった。ただ安心と残留し続ける恐怖だけがあった。
彼女はスギハラさん怖がりすぎよ、と言った。にっこり笑った彼女の顔がもっとスギハラの涙腺を壊しにかかってきて、スギハラは叫びそうになったが、笑い泣きの範囲でなんとかおさえた。
「スギハラさん、戻りましょ。わたしが変な勘違いしちゃったせいで、ごめんね」
いいよ、大丈夫、問題ないよ、全部の語彙がまぜこぜになって、結局スギハラは頷くことしかできなかった。
「でもその前に、私もこの配管の中見ていいかな......」
「大丈夫だと思うよ。何もなかったから」
スギハラはそう言って、しゃがんでから配管の中を覗き見ようとする。スギハラはその時目に滲んだ涙を拭わないまま、膨らんだ配管の中を見た。
涙で滲んだ視界は、はっきりと配管の中にぎゅう詰めになった眼球たちを認識した。
スギハラは地獄を見たような顔をした。小さく悲鳴を上げた。だが、眼球はスギハラを認識しようとしなかった。
その目線はずーっと後ろにいる彼女に向いていた。もしこの目玉たちに顔の皮が未だあれば、かれらはみんな笑顔だったのかもしれない。
配管から目を離したスギハラは息がうまく吸えなくなって、必死にかれらのように笑顔を作ろうとして、その分涙も垂れ流しながら彼女の方を振り向いた。
「ほらスギハラさん、何もなかったでしょ。怖がる必要なんてなかったのよ、安心して泣けてきちゃったの?」
彼女の喜を含んだ声がなによりも嬉しくて、だけど怖くて、スギハラは変な息の吸い方をした。彼女は背中をさすってあげましょうと言い、そのままスギハラの背中を優しい手つきで撫でた。
スギハラは微睡むには程遠い意識の薄れ方をして、その途中で頭の中におぞましい事実を並べた。
あいつはいつか生まれ落ちようとしている。
あの配管を食い破って、穴を空けて、そこから生まれようとしている。おぎゃあという声を上げて。浴槽という母胎から出て、母親を認識するために。
浴槽で溶けたリフの身体の中で、あの目玉たちだけは、溶けずに残って、産道に穴を空けるための塊になった。
そしてスギハラがリフを殺し続けた暁にはいつか、あの配管からおぞましい異形がうまれてくるのだろう。
彼女の手に微量すぎる安らぎを覚えながら、スギハラはバスルームの窓を見た。
窓にはリフがいた。
浴槽の淵を使って立ち、自分の背中を撫でる彼女に向かって手を振っていた。
満面の笑みを浮かべて。
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おはよう
(配管の中の子ども)