ダーク・ファンタジー小説
- Re: 影舞う月夜に君想う〜What a ugly beast〜復旧 ( No.63 )
- 日時: 2016/02/17 19:13
- 名前: 吉田 網張(RINBYO) (ID: jV4BqHMK)
「……今日夜……今日夜……」
心地よい音楽が流れ、柔らかい光に包まれていた店内は、今はその面影もなく、周囲の闇に沈んでいた。
その一人の主を亡くした店の床で、枝暮はバーカウンターに背を預け、体育座りになって、自分の足に顔を埋めて、誰よりも、自分よりも大切なその人の名前を呼んでいた。
窓から僅かにさしこむ街の光が、積まれたままのグラスが、枝暮を許容するように、静かにその明かりを反射していた。
この店は、きりねと枝暮が二人で立ち上げた店だった。枝暮ときりねは、まだ十代の頃からの付き合いだ。そのことを知っている人間はもう、枝暮しかいなくなってしまった。
枝暮を認め、俺とは違うと、お前は人間だと……そうやって彼を救ったのが今日夜ならば、きりねは正反対ともいえる方法で、彼を支えていた。そして彼もまた、きりねを支えた。
貴方は私と同じ。人間になりきれない歪なモノ……あなたは一人じゃない。
そう言葉をかけてくれた彼女を……手をさしのべてくれた彼女を、枝暮は自らの手で殺めた。
『今日夜のためならば、僕は喜んで罪を背負おう』
今まで何度もしてきたその決意は、怯える彼女を前に、まるで霧のように揺らいだ。彼女の見開かれた瞳に映った自分の姿は、いつかの夜、今日夜が言ってくれたような優しい人間なんかじゃなかった。血に飢えた獣、鬼、悪魔……そんな言葉がぴったりなほど、自分の姿は醜かった。
罪を背負う決意はあったが、まだ心のどこかで、自分の行おうとしていることに正義を見いだしていたのかもしれない。しかし、『今日夜のために』なんて、美しい名目で行ったまぎれもない悪行は、正義でもなんでもなかった。
彼は人を喰らわなければ生きられない身体でありながら、人を殺したのは、きりねで二人目だった。
何を口にしても吐いてしまう……なにも食べられない自分を育てたシングルマザーの母親は、ある日、限界をとっくに越えていたストレスと、愛していた筈なのに、いつからか忌み嫌ってしまった息子を育てることの疲労をついに我慢できなくなり、ヒステリーを起こした。激しく拒む枝暮の口に、無理矢理食物を入れ、飲み込ませようとした。「どうしてあなたは普通じゃないの」「私の幸せを奪うの」と叫びながら。
命の危険と、世界でただ一人信じていた母親の本音を聞かされて、絶望の闇に突き落とされた衝撃、悲しみ、そして今まで愛しているふりをしていたことへの怒り……そんなたくさんの感情に飲み込まれた枝暮は、母親を手にかけた。
……気がついたときには、自分は握ったハサミと同じく真っ赤に染まっていて、叫んでいた筈の母親は、もう誰だかもわからないようなただのちみどろの肉塊になっていて。枝暮は無意識のうちに、その肉を食べていた。感じたことのなかった満腹感を感じていた。それに気がついた時には、自分自身のした行為にぞっとした。自分を嫌悪して、嫌悪して……死を選ぼうとした。しかし、喉元にハサミをつきたてた時に気がついてしまった。どんな食べ物を口にしても襲ってきたあの激しい嘔吐感が、全くないことに。そして、飲み込んだ母親の肉は、とてもおいしかったことに。
自分は何なんだ?こんなの、恐ろしい怪物じゃないか。
自分についた血が、母親の死体がその紛れもない証のような気がして、枝暮は半狂乱になってそれを洗い落として、服を着替えた。母親の死体を、まだ父がいた頃にはあったけれど、いつしか枯れてしまい、今はもう穴しか残っていないその場所を掘り下げて埋めた。自分が喰い散らかした後の母親を埋めるのは、死体を埋めるのがこんなにもあっけないものかと思うほどに簡単だった。……そして、何ももたずに家を出た。あてなど無い。もう、誰にもしられずに、消えてしまいたかった……
そして今日夜に出会った。その日以来……枝暮は人を殺していなかった。
「ごめん、ごめんなさい……」
「まるで子供に戻ったみたいだねぇ……枝暮クン」
唐突に響いた自分以外の声に、枝暮はハッとして、泣きはらしたその顔を上げた。
「自分のために生きれば良いのに、どうしてお前はそこまで他人を気にするんだ? 俺様には分からない」
そこに居たのは鈍だった。枝暮を上から、普段とは違う真剣な顔で見下していた。
「僕は今日夜を救いたい……そのためだけに生きてきた……それ以外いらないんだ……」
枝暮は鈍を虚ろな瞳で見つめながら、弱々しく答える。その解答に、鈍は顔をしかめた。
「お前は本当、馬鹿だね。君は今日夜クンの何を分かっているんだ?」
「僕は……」
「お前と今日夜クンが会ったあの日も、[計画]は動いていた。全ては姉さんに仕組まれたただの舞台だ。人形劇も同然だ。それなのに、お前はまだ抗うなんて……! お前はもう一人殺した。後戻りは出来ない。本当にお前はその命のみならず、全てを今日夜クンのために犠牲にするつもりか? あれほど恐れていた孤独と悪の全てを背負うつもりなのか?!」
鈍は、枝暮の肩を掴んだ。枝暮はしっかりと頷いた。鈍は彼の虚ろだった目に、無くなっていない決意を見た。ギリ、と奥歯を噛んで、枝暮からよろめくように、一歩、二歩と離れる。
「……分からない。俺様にはお前が理解できない」
「……」
「止めろとは言わないし、言っても無駄なんだろ。……でも、枝暮クン。その選択は愚かすぎる。姉さんの望む悲劇よりも悲しい結末に終わるよ。だって、結局君は……今日夜クンを救うことなんてできない。姉さんの[計画]には逆らえない」
「……後戻りは出来ない、なんて言いながら、僕を止める気なんだろう? 君は。何を言われても、僕はもう揺るがないよ。躊躇も、良心も、思い出も、優しさも……彼女を殺したあの瞬間に、僕はそれらも同時に殺したんだ」
「……ここまで言っても無駄なんてね。逆らえないと、間違っていると分かっているのにやめないなんて……」
そう残念そうに、そして悲しそうに言って、鈍はコートを翻し、消えた。 店にただ一人残された枝暮は、もう涙を流していなかった。立ち上がったその姿に、弱さなんて残っていない。そして、今日夜を守ってきた優しさも、温かみも、枝暮は自分から消した。こんなものでは、もう彼を守れない。彼を救うのはただ強さだけだ。その思いをぐっと心に刻みこみ、枝暮はしっかりと意思をもった瞳で、窓から夜の街を見下ろした。
「……逆らってみせるよ。今日夜を救うためなら、たとえ運命が敵だったとしてもね」
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