ダーク・ファンタジー小説

永久に ( No.22 )
日時: 2018/09/14 04:35
名前: Garnet (ID: 643MqHaL)

♪*♪*♪


あいつはいつも痛みに堪えているのだろうな、というのが幼いながらの彼女への印象だった。
度重なる手術に泣き言ひとつ言わなかった彼女だが、幹部候補生に正式に決まったとき、まず歯列の矯正に取りかかった件については色々な意味でよく覚えている。
彼女が歌の才能を見出だされてからというものの、先天性の身体障害による外見的な問題も可能なかぎり取り除くために、相当な時間と労力が掛けられてきた。俺は生まれつき、歯だけは綺麗に持ったので歯科とはほぼ無縁だった。吐き癖云々を除けばの話だが。しかし、彼女は俺とは全く正反対の状態。生まれつき、歯"まで"綺麗に持つことができなかったのだ。
部位はどこにせよ、矯正器具を取り付けて最初のうちは痛みもほとんど無いのだが、本番はそのあとからだ。俺には想像することも難しいが、それはもう激痛なのだそうだ。さらに彼女は個人差とやらも大きく出て、暫くは食事も満足に摂れなかった。
いくらこの組織とはいえ、時代が時代なので先進の技術もたかが知れている。痛みと不満と空腹にとうとう耐えきれなくなり、ある日突然、今までの大人しさは何だったのだろうというほど暴れまわって、大泣きしながら殴られた。散らかり放題になった部屋とボロボロになった俺達を見回りが見つけてくれなかったら、今頃どうなっていたかわからない。

「ごめんね、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」
「良いんだよ謝らなくて。メグが楽になるんなら、骨の1本や2本、安いもんだ」
「やだやだ、アルが死んじゃう、お願いやめて」
「こんなんで死ぬかよ」

伸びかけの乱れた黒い髪を振り回しながら、何度も謝られたものだ。
その後、俺たちの9か月間の隔離処置が決まり、手紙のやり取りや通話以外での接触ができなくなった。そして、俺だけが大人の目を盗んで接触禁止命令に逆らおうとしたので、将来的に裏切り者にさせない為にもと洗脳に拍車が掛かり始める。お陰様で、組織を抜けようなんて愚行を考えて時間を浪費するようなことはなくなった。
関係者の間では、薬物療法、と呼ばれるそれは、短期間でめざましい効果を見せる代償に、被験者には最悪一生副作用が付きまとうものである。主な症状は、慢性的な頭痛や吐き気、幻覚・幻聴、動悸や異常発汗。それに伴う自傷行為などから抜け出せなくなる者も少なくないらしく、過去には自殺者もいたとか、いないとか。
一見正常だと思われても、それは大きな波の合間というだけのこと。被験者に一定以上のストレスが加われば、そこからの誤った情報の発信で、あっという間に身体もバランスを崩して狂う。またも"副作用"に苦しみ、自らにその証を刻み込む。そうして次第に落ち着いて、ふたたび脆い心は侵食されていく。その繰り返しなのだ。
俺も療法開始当初には、周囲の被験者よりも短い期間に大きな振れ幅で、何度もそれが続いていた。幸いひどい自傷行為には及ばなかったものの、あの頃の名残で、自身を大切にする、という人間ならば当然のはたらきが貧しくなり、今はよく意味を解っていない誰かさんにちょくちょく叱られて日々を過ごしている。
さて、隔離処置後のことだが。
ほんのわずかな時を経て、元々美しかった彼女が更に美しくなって、帰ってきた。
背が少し伸びたかと思ったら、歳に見合わぬ高いヒールなんかを履いていただけだった。
ほんのわずかな時を経て、元々何処かおかしかった俺は更におかしくなって彼女のもとに舞い戻ってきた。
少し大人びたねと言われたけれど、身体に合わないものを押し込まれただけだった。
…そんなことはどうだっていい。美しい彼女の話をしよう。髪はちょうどいい長さに揃って、脚や背筋も比較的まっすぐ伸びるようになって、勿論歯に掛かった矯正器具も取れて。拗らせていた不安性は随分緩和し、例の症候群の特性でもある素直な人懐っこさがみえるようになった。目線も、きちんと相手に定められるようになった。
前よりずっと、彼女は綺麗になった。
ボスだけが不自然なヘテロクロミアを少々気にしていた様子だったが、流石にそれはどうにもならなかったらしい。


♪*♪*♪

永久に ( No.23 )
日時: 2018/09/14 04:41
名前: Garnet (ID: 643MqHaL)




春が来た。待ち望んでいた春だ。
わたしはこの季節が何よりも大好きで、春には心が温かく、軽やかになる。沢山の歌を、空に向かって謳いたくなる。

「キャロルー!支度はできたー?」
「もうすぐだよ」

部屋の外から、メグの声がする。早く準備を済ませなくちゃ。
4年前よりも大きくなった手で、押さえていたタイヤを姿見の前に滑り込ませ、軽くおめかしする。
近くの小物置きにブラシを返して、手持ちのポシェットからリップクリームを取り出し、それを塗ろうと鏡の中の自分と目を合わせたところでハッとした。確かにわたしは、お父さんよりお母さんに似ていると、似てきたのだと気がついたから。
……でも、あんなに美しい人になれない。
何故か涙で不規則にきらめきはじめた瞳を制すように、きつく目蓋を閉じて、ミントの味を唇に広げた。鼻の奥がつんとして、まったく別の意味であろう涙が出そうになったのがおかしくて、思わず笑ってしまった。

(やっぱりあなたには、笑顔が一番似合う)

何処かからそんな声が聞こえたような気がして「そうね」と漏れた返事を、陽が差す窓の外に流れゆく風へ、そっと放した。
もう、彼女の声は聴こえなかった。

「メグ、お待たせ」

小さな台所のカウンターに待たせてあったバスケットを膝の上に乗せ、部屋の扉を開くと、薄く色のついたサングラスを掛け、白い帽子を被ったマーガレットが出迎えてくれた。

「さ、行きましょ」

彼女の華奢な肩に巻いたショールが揺れて、車椅子のハンドルを握った。ぎゅ、ぎゅ、と車輪と床の押し合う音で、本当にメグなんだなと、嬉しいような不思議なような、そんな感情にさせられる。
もう随分と手慣れた様子で押してくれるものだから、昨夜楽しみで眠れなかったわたしは、アルにいと合流する前に安心しきって眠り込んでしまった。眠り自体深くはなかった筈なのに、そのときどんな夢を見ていたか、まったく思い出すことができない。溢れんばかりの幸せに満ちていて、たとえこの間に死んでしまったとしても、実感ひとつなく、思い残すことも忘れたままこの世を去っていただろうなというくらいには、不安なんて何処にもなかった。



道のご機嫌が悪いのか、がたがたと、決して穏やかとは言えぬ調子で揺り起こされた。
陽だまりと、濃い緑に透けて落ちる影が交互に折り重なる土の道脇に、小さく可愛らしい青紫色たちが浮かんでいるのがぼんやり見える。寝ぼける目をこすって首を起こすと、甘い匂いが、お腹いっぱいに吸い込めるほどに立ち込めていて。並ぶ木々を避けるように、辺りに野生のブルーベルの花が広がっていたのだ。
時期としては随分早いけれど、繊細な絵本の中にいるみたいでほんとうに綺麗。ピーターラビットでも出てきそうだ。

「森の中に、いるの……?」
「そーよ、綺麗でしょ。子供の頃に見つけた秘密の近道なの。ほら、キャロル王女のお目覚めよ、アーロン」
「こんな場所を通るからだ。道は悪いし鼻もひん曲がりそうだし。第一、秘密の近道と言っても、獣道にしては地面が固まりすぎているな」
「いちいち夢のないこと言うのやめて頂戴。とにかく、こっちのほうが、圧倒的に近道なの!」
「圧倒的、なあ」
「何よぉ、その信じてませんってノリは」

背後で繰り広げられる恋人同士の戯れに思わず笑みをこぼしながら、揺れる車椅子の上で姿勢を整えた。
余命は持って2年ほどではないかと宣告された過去が幻覚だったかのように、わたしは心身ともにこんなに元気で生きている。お父さんたちが頑張ってくれたお陰だと思っているけど、それを彼らに伝えたら、大泣きされた上に、お前が一番頑張ってる、なんて言われてしまって。
そんなことないのに。痛みや発熱に苦しむことがほとんど無かったのも、体毛が抜け落ちるほどの治療をしないで済んだのも、お父さんたちのおかげなのに。
今後の短い一生の中で状態が良くなることや完治する確率は非常に低いけれど、悪くなるとしても、それはお母さんのときよりも緩やかな速度になるだろうとセリアも言ってくれた。あんなことがあったのに「ずっと傍にいるからね」と指切りまでして、今もなお最善を尽くし続けてくれている彼女には、頭が上がらない。
少ない回数でも何とかお兄ちゃんと会えるようにと、アルにいにだって何度も頼みこんでくれた。その甲斐あって遂に、監視をつけて様子見ではあるが、週に2・3回までなら面会を許可すると、通達があったのだ。
眠っていた間に膝に掛けてくれたらしい毛布をそっと手で押さえる。何だか心まで温かい。

「…あ!メグ、アルにい!見えてきたよ!」

温もりを大切に噛み締めていたら、小さな森のおしまいから光の差しているのが見えて、思わず声をあげてしまった。
溢れてくる白い光に目が眩んでしまうのか、ブルーベルの絨毯もだんだんと疎らになってきたのは少し残念だ。この先にも彼らが咲き誇っていたのなら、それはそれは、天国みたいな景色なんだろうに。
木漏れ日のレースと花びらの刺繍が途切れた途端、わたしの青い目も、しばらくぎゅっとまぶたを閉じていた。

「お前、いつ、こんなところを」

滝のように、洪水のように溢れていた光にも慣れたかなという頃、わたしよりもずっと早く、アルにいが高くて大きい背中を見せて呟いていた。
丘?それとも、崖?
そのはしっこに出来上がった、緑と青空の吹き抜けワンルーム……そんな言葉がまさに似合う。
さっき、彼の言葉や自分で見た感覚でも来客者は少なくないんだろうと見込んでいたのに、辺りは人の手が入れられた形跡はこれっぽちもなく、それでいて美しく整っていた。それは決して、わたしたちがやって来るからと構成員がインスタントに作り上げたものなんかじゃない。あくまで自然の摂理にのっとっている、この地球に残った貴重な宝石のかけらだ。

「子どもの頃から、ずっとよ……」

白に染まって彩度を失っていた風景に、徐々に色の粒が降り積もって溶けていく。
足元から広がる緑、点々と緻密に模様を描く、屋根や橋や、道路や建物たち。
そして、青く光る水平線。
───ああ、わたしは、なんて美しい景色に出会えたのだろう。
この島国に、こんなにも素敵な姿があったなんて、知らなかった。学校や書物の中では学べなかったことを、ただ歌姫として涼しい場所に閉じ込められていてはわからなかったことを、今のわたしは五感すべてで感じとっているのだ。

「マーガレット、アーロン。ふたりには、今ここで言わなくちゃいけないことがある……ううん、今なら、言えそうなの」

囁きかけるような声だったのに、アルにいたちは、まるではっきりと聞き取ったように振り返った。

「わたしのところに、たぶんもうすぐ、天使様がお迎えに来る」

永久に ( No.24 )
日時: 2018/09/14 21:36
名前: Garnet (ID: Z/MByS4k)

あまり自然に、ふっきれたような笑顔で言うものだから、風で波打つ美しい銀髪に見惚れてしまった。

「キャロル…?」
「なんとなくね、解るの」

何を言っているんだろう、この子は。
頭ではとうに意味が理解できたはずなのに、別のところが、彼女の言葉を拒否して受け入れてくれない。

「お兄ちゃんにもお父さんにも、わたしはきっと、ちゃんと言えないから。ふたりにだけ話しておきたかったの」

それがどれほど、私達を苦しめる言葉なのか、わかっているのだろうか。……いや、わかっていて言っているんだろう。

「だって、怖いんだもの。これでも、まだ」

キャロルの手のひらが、微かに震えている。
それまでずっと黙っていたアーロンが、腰を下ろし、その手をとって、握ってみせた。その背中は、怖いよなと言っているようにも見えるし、怖くないよとあやしているようにも見えるし、何もしてやれなくて申し訳ない、死ぬべきは俺だったとも、言っているようで。
 この子のために私は何をしてあげられるだろうかと、考える。考えるよりも先に、歌声は生まれてしまったのに。



  ♭


「悪く、思わないで」

言いながら彼女は、わかっているはずの自身の変化にひどく戸惑っていた。
一部の人間をのぞいて、彼女にとって、他者というのは周囲を取り巻くただの人形か、この声帯が生み出す音に表面上でしか興味のない、馬鹿な金蔓でしかなかったはずだからだ。利用して、搾取して、這い上がり、常にだれよりも高い場所で、決して自分を裏切ることのない音楽を守るために、そうしてきた。
それなのに。
たかが数年の仲の"家族"を、しかも裏切り者の彼らをこんな風に甘やかしているなんて。
その理由なんてわかっているはずなのに、いざ直面してしまうと、心が揺れる。

「…そ、んなの、マーガレット、あなたが死ぬことになるようなものじゃない!」

短い赤毛を揺らして、翡翠色の瞳に、らしくもなく涙なんか浮かべて。今ではもう姉妹のようなルビーが彼女───マーガレットの肩を揺さぶった。

「いいの、これで。これはひとつの賭けだから」
「賭け?」

ルビーがその手を止めて、私の顔を、じっと見つめる。
そう、これは賭けだ。こんな真っ暗な場所に何年も放り込まれて、それでも燻る火種を絶やすことのなかった彼らに、未来を賭けるのだ。

……彼らがファミリーに入ってきたときから薄々勘付いてはいたけれど、今回、盗聴器を使って確信が得られた。ルビーとジェームズは、SISからのスパイだと。
盗聴以外の手段で得た情報も合わせると、ふたりは諜報部の中から選抜され派遣されている特別捜査官らしい、ということも判明している。
世間では007のイメージが強いが、元々あそこはこれほどハードな潜入捜査を行うような機関ではない。こんなことはプロにでも任せておけばいいものを、現状、彼らに比べれば素人と言っても過言ではないふたりにわざわざ任せきり。実際にこんな情報漏洩を引き起こしているのだから文句も言えたものではないだろう。
我々に「こいつらを殺せ」と言っているようなものである。いや、実際それが狙いだったのか、最初からそのつもりであったのか。
今までアーロンが、二人を疑うだけで身辺調査に本気で取りかからなかった理由が、おぼろげながらにも解ったような気がする。
もしかしたら、彼も。どこかでこの世界を壊してくれる存在を、待ち望んでいるのかもしれない。

「キャロルやアーロンや、ルビー、ジェームズ。あなたたちのことはもちろん大切よ。それこそ家族のように思ってる……と、いうより、あなたたちしか、いないから。でも本当はうんざりなのよ。籠のなかで飼われて歌う小鳥として生きるのは。何でかしらね、急にこんなことを思うようになるなんて。思春期が遅れて来たかしら」

綺麗事を並べるならば、ふたりが、昔の私とアーロンに重なってしまうからだろうか。
今この場で、下手くそな銃で射殺したって、きっとだれもそれを咎めはしないのに。私は私の意思をもって、彼らの秘密に見ない振りを決めた。生かすことを選んだ。

「もう一度、言うから、よく聞きなさい」

これはあくまでも、この世界を壊すための一振り目に過ぎない。でも、ここで上手く行けば。今までそこらで息を潜めていた犬たちも、決して遠くない未来に、我々に飛びかかることができる。
ジェームズの正体が、アーロンに暴かれそうになっている今が、最後のチャンスなのである。

「……承知した」

なんとか入手に成功した、とある情報を口頭で伝えきると、苦い顔をしながらも、彼は頷いてくれた。

「だが、それはお前が我々に協力するという事だ。いずれお前は、マーガレットは、本部のほうで保護されることになる」
「構わないわよ。もしも私が貴方達を裏切ったとして、何をされても不満はないわけだし」
「そうか」

ふう、と息を吐いて、目蓋が閉じられる。
僅かな沈黙のあと、彼が言った。

「それと…わがままだが、もう少し、時間が欲しい。妹の傍にいてやりたいんだ」

彼女を見ているときのアーロンと、よく似た目で。

「ええ、構わないわ。でも、何かあったとき……、あの人が貴方達をどうすることになっても、私にはそれを止める権限がないから」

「だから、悪く思わないでね」


  ♭



ルビーとジェームズに情報提供をしたあの日から、3日も経っていない。早すぎる。あまりにも。

「キャロル、アーロン」

私は彼らに加担したのだから、成功に転んでも失敗に転んでも、自らの死を覚悟しなければならない。そうなる前にと、私は、大きな大きな私の秘密を、彼らに告白しておきたかった。
深く一呼吸、二呼吸置いて、二人の顔を交互に見る。

「実は私ね、組織で初めての成功例として生き続けている、遺伝子操作実験の被験者なの」

永久に ( No.25 )
日時: 2018/09/15 22:34
名前: Garnet (ID: 9MGH2cfM)

「この世にうまれて、これほど生きていられたのは、被験者の中でも、私と数少ない知り合い達だけ。あんな馬鹿馬鹿しい研究も今は衰退したけど、全盛期には数えきれないほどの命が犠牲になってきたって、聞いてる。この時代だったのがせめてもの救いだわ。もし、今から10年は経った頃だったらと思うと、恐ろしくてたまらない」

はじめのうちは、この人はいきなり何を言い出すのだろうと、自分の耳を疑うしかできなかった。
話が本当ならば、クローン実験と同等に…いや、それよりも遥かに、だろうか。どちらにしろ、あまりにも非倫理的である。その研究も、それを許したこの組織自体も。そんなことは、昔から解っているはずなのに。こんな形で事実を突きつけられてしまうと、形容しがたい感情が溢れて止まらなくなる。
遺伝子操作の研究は、組織にとって優秀な人材を作る為に始まったものだそうだ。その成功率は極めて低く、たとえ胎児が育ったとしても、流産、死産となる場合が圧倒的に多い。無事に生まれた赤ん坊も、大抵はすぐに亡くなるか、奇形児や障害児だったりで、存在を無かったことにされるらしい。

「私も、本当に軽度の、ウィリアムズ症候群という病気なのよ」

マーガレットも、そう、なるかもしれなかったうちの一人ということで。

「でも、おじさま…あの方が、私に出来る限り治療を施すよう、言いつけてくれたから。今、生きているの」

言った、その唇が震えていて、いつのまにか彼女の頬に涙が伝っていた。わたしの手を握っていたアーロンが、立ち上がり、マーガレットをそっと抱き締めた。

「決して死にたいわけじゃないけど、どうしても考えちゃうわよ、昔から。私なんかが生きていて、いいのかって。生きたいと願った子たちの上に、生きて欲しいと願っていた親たちの上に、運良く私は立ってるんだから。綺麗じゃない私が、人の手で汚れた私なんかが……だから、赦しがほしくて歌を始めたの。この世界で生きるはずだった人達に、せめて、せめて…」

ああ、この人たちは、これからもたしかに生きていくんだなと、いつか遠い未来へ行ってしまうんだなと。感じている自分が、ここにいる。
きっとわたしは、ここに、この時代に、心を置き去りにして逝ってしまうんだ。

「ごめんなさい、キャロル。大事な話をしてくれていたのに、突然、こんな」
「いいんだよ、メグ。それに、メグがわたしに言いたいことは、わかるし」

きっと、アーロンと同じことを考えているんでしょう。死ぬべきは私なのにって。苦しみは私が背負うのにって。
二人は、とても優しいから。この暗い世界には似つかわしくないくらいに。
何故かさっきから顔を背けつづけている彼と、わたしに、マーガレットは順番に視線を合わせると、ハンカチで涙を拭い、いつもの優しい笑顔を向けてくれた。

「私には、讃美歌も聖歌も似合わない。でも、でもっ、キャロラインは私の、世界一だから……。世界一の、歌姫だから」

泣き笑いの顔になった彼女の口から発せられた言葉は、予想をひどく打ち砕くものだった。勿論、良い意味で。
それから彼女は、わたしの大好きな歌を何曲も歌ってくれた。いつかのメイビーに、アヴェ・マリア、アメイジング・グレイス────。青空に溶けていくその声は、魂を揺さぶるようで、魂を慰めてくれるようで。
自然と、涙がこぼれていた。

「私の唄は綺麗じゃないけど、キャロルのように純粋じゃないけど、貴方に、歌いたい。これからも、歌い続けたい」

そんなこと、無いのにな。
わたしにとっての世界一は、昔も今もこれからも、マーガレットのまま変わらないのに。

「馬鹿野郎、お前の歌も、キャロラインの歌も、同じように綺麗だ」

でも、わたしがそう言わなくても、いいのかもしれない。
これからは、きっと彼が、彼女の世界一のファンになるのだろうから。


永久に ( No.26 )
日時: 2018/09/15 23:22
名前: Garnet (ID: 9MGH2cfM)






おめでとう、あなたは妊娠していますよと、医者に言われてから約半年が経った。
それでも、この喜びを共に分かち合えるはずの、赤ん坊の父親は、ここにいない。何かあったとき、抱き締めて優しくキスをしてくれる彼はいないのだ。
べつに、あの人が死んだとか逃げていったとか、そんなわけじゃない。彼は確かにこの世に存在しているし、今も、すぐ隣にいて、私はその温かい手を握りつづけている。

「エイリーさん、そろそろ……」

後ろで部屋の扉が静かに開き、女性に呼び掛けられた。
もう、時間だ。

「すみません、いつも、のんびりしちゃって」
「構いませんよ。お体のこともありますし、あまり急がないでくださいね」
「ありがとう」

彼の手を、そっと、布団の中に戻し、一方的に別れの挨拶を告げる。
面会時間は、私にとって決して長くないが、それでも彼に会えることは大きな救いだった。
部屋を出るとすぐに、彼の担当医やこの施設の職員たちとすれ違った。娘さんの顔、いつかパパに見せてあげましょうね、最善を尽くしますからと、優しすぎる言葉を掛けられてしまって、迎えの車がやって来るまで、涙が止まらなくなってしまった。


Sランク幹部候補生、キャロライン・マーフィーが亡くなってから……そして、彼女の兄であり、私の恋人であり、上司でもあるジェームズ・マーフィーが、とある事故がきっかけで意識を失ってから、半年近くが経つ。
アーロン・マサイアスが外部の人間との取引に彼を一人で向かわせ、爆発事故に見せかけて殺そうとしたのだ。彼だけが、正体を見破られてしまったから。
ジェームズが重傷を負う直前、私は彼に拉致されたという設定で"本部"の人間に保護された。
それまで音沙汰の無かったあの人達が、今更、私だけを。怒りなどという簡単な感情で済むはずがない。
連絡を絶つ判断を下した上層部へ抗議に出ようとしたところを、上司に羽交い締めにされる勢いで止められた。
その腕を振りほどいていたら、今頃はどうなっていたことか。我々と組織の間を糸のように繋いでくれたマーガレットの恩を、仇で返していたかもしれない。冷静になった今だからこそ、余計に恐ろしい。
彼女のことは人間としてあまり好きではない(向こうもきっと同じことを思っているのだろう)が、協力者としては申し分のない能力を発揮してくれている、優秀なスパイだと考えている。
ジェームズのことも、彼女自らの判断で、彼は死んだと、別人の遺体の一部を用いて偽装してくれたそうだ。流石は本業も熟しながら幹部のメンバーをやっているだけある。今回彼女がしたことは立派な犯罪だけれど。
後始末を、いつか、きちんとしてやらなければ。

「どうだ、体調は。そろそろ安定期に入った頃だろう」
「ええ、お陰様で」

迎えにやって来てくれた上司の車に乗り込むと、彼はいつものように明るく話しかけてきた。
例の、私を羽交い締めにして止めた上司だ。彼の古い上司の娘が私だということで、入局したばかりの頃からよく面倒を見てくれている、私にとっても大切な存在である。

「突然なんだが、ルビー」

そんな彼がミラー越しに、改まって、けれどもどこか、昨日の晩ご飯の献立でも訊ねてくるように軽く、呼ぶものだから。

「気分転換に、暫く故郷に帰ってみたらどうだ。勿論護衛は付ける、あまり目立たない程度に」
「…はあ?」

続いた言葉に、間抜けな声が上がってしまった。

「日本に家族が住んでるんだろう。定年も近いっていう母親と、妹がさ。久々に、顔、見せてやれよ」
「あ、いや……良いんですか?」
「どうなるか、まだはっきりしないが、今後のこともある。今のうちに色々やっておいたほうがいい。子供のことも、いつか復帰するのなら、きっと一人にしてしまうだろう」
「家族に預けるとか、そういう気はありません。仕事を辞めてでも、この子は私が育てます。でも……そういうことは抜きにして、恵理やお母さんには、会いに行きたい」

散々心配を、掛けてきたから。

「そうか。じゃあ、手配しておこう」
「ありがとう」

それから新しく越したマンションに到着するまでの間、私達はひとことも、言葉を交わさずに過ごしていた。

外の、いまにも雪が舞い始めそうな空を眺めていると、いつか、潜入先の内輪のパーティーで聴いたことのある、キャロラインの歌声が蘇ってきた。
年相応に透き通っていて、けれども大人びた息遣いでいて。あのとき歌っていたのは、ミュージカルか映画の挿入歌だったはずなのだけど。何という曲だったっけ。
短い間、考えて、車内のラジオから流れている曲がそのひとつだったと、ようやく思い出すことができた。
この子供の歌声も十分素敵で、上手なのかもしれない。でも、少なくとも私にとっては、彼女を超える歌声など、もうこの世のどこにも存在しないような気がしていた。
それはきっと、アーロンもマーガレットも、ジェームズも同じなのだろう。キャロライン・マーフィーに関わった、彼女の歌声を聞いた誰もが、これからもあのメロディに焦がれて。いつかメロディさえ消え失せてしまったとしても、あの歌を、永久に、心の奥で忘れられずにいるのだろう。

あの人がいつか目覚めてくれることを。彼が、どこか彼の妹に似た娘を抱き上げる日を。ひとつの家族になれることを、頭のどこかで夢見て私は。
そうっと、目蓋を閉じた。





    Fin.