ダーク・ファンタジー小説
- Re: 夢も現も何も無く ( No.1 )
- 日時: 2016/06/15 17:32
- 名前: 日織 (ID: TPHhLows)
路肩でひなたぼっこをしていたキジトラ猫が流暢な言葉で話し掛けてくるという非現実をどう受け止めるべきかわからず、彼は口をぽかんと開いたまぬけ面のまま意味もなく辺りを見回した。
1.蓄積と忘却
『人間ごときがあたくしを認識できるだなんて驚いたわ。あなただあれ?』
「あっどーもこんにちは佐々木鳰ですぅ………、…」
誰もいない道端のど真ん中で、キジトラ猫と何の特徴も無い平凡な男子高生がへこへこ腰を折りながら会話を始めるという異常事態。確かにここ最近しなければいけないことが多すぎて現実逃避したい気持ちはあったけれど、だからといってこれはどうなのだろうかと、彼はショートしかける頭をぶんぶんと振って正気を保った。
時間は少しさかのぼって…と言うほど何か特別なことが起きていたわけではない。本当に単純なことだった。
道を歩いていたら路肩でひなたぼっこの真っ最中だったキジトラ猫が流暢に話しかけてきた。
これ以外に、この状況に至るまでの経緯を説明する言葉は存在しなかった。それくらいに突然起きたことだった。
『ささきにお?変な名前ね。あたくしの美しい名前とは大違いだわ』
「あっさいですか。ところであなた何なんですかね。ちょっと頭の容量パンクしそうでして。簡潔に、わかりやすく、ええもう、この脳みその足りない鳰にも分かるように説明していただけませんか!!」
猫らしい釣りあがった目をなにやら面白そうに細めたキジトラ猫は、ぴょんと思い切り飛び上がると、彼の肩の上にすとんと着地して見せた。
『そのどこまでもへこへこと自分を下に置く言い方、気に入ったわよ。この軌翔様が丁寧に教えてあげようじゃないの』
まるで笑っているかのように開いた口から覗いている鋭い歯に、どこから出しているのか見当もつかないキジトラ猫…軌翔の声。
今からたった五分くらい前に起こった事だというのに、これはきっと自分の今までの面白みの無い平坦な生活を変えてしまうのだと、どうしてか彼は漠然と理解していた。
『にお。あなた、彼方と此方の境界線って、人間にきちんと視認できるものだと思う?』
「え…いや…そりゃ、ただの人じゃできないんじゃないんですかね…」
『そうね。当たり前だけど改めてあたくしはあなたに確認したかったのよ。』
「確認…僕に?なんで」
『せかさないで頂戴。全く人間って言うのは気が短いのかしら。』
「…」
軌翔を連れて帰宅した彼に、軌翔はそう切り出した。もういっそ、今ならどんな衝撃的なことを言われたとしても、彼は心を乱さない自信があった。何せ、今しがた一番の衝撃的な出来事に遭遇してきたのだから。
『あなたの答えたとおりよ。ただの人間じゃあ、彼方と此方の境界線をはっきり視認することなんて絶対に出来ない。それは漏れなくあなたもそうであるはずなの、にお。』
「…そんな言い方じゃ、僕がその境界線とやらが見えているみたいじゃないですか、軌翔」
眉を寄せて返事を返した彼の頬に、軌翔による強烈なパンチが炸裂する。
『軌翔様とお呼び。あたくしみたいな高貴な存在が人間と話すことすら滅多に無いって言うのに。』
「へいへい、すみませんでしたぁ。で、軌翔様。それはどういう?」
もう一度聞きなおした彼に、軌翔はその両目をきらりと光らせて、ゆっくりと口を開いた。
『今長々と説明してもどうせあなたの頭に入りやしないでしょうね。いいわ、はっきり言ってしまいましょう。にお。あなたはその境界線の間に落ちてしまっている。人間に見えないはずの彼方の存在であるあたくしが見えて、挙句会話をなせてしまうのだから、そうとうな深みに嵌っているはずだわ。』
「は」
『本当に要領の良くない頭ね。簡単に言えば、あなたは今この上なく彼方に近づいて行ってるのよってこと。でも不思議なこともあるものよねぇ。見た限り、死ぬような目に会ったことなんてないでしょうに、こうも存在が薄れてる。覚えは無いかしら?居るのにまるでいないかのように扱われたり、見失われたり、忘れられたり。』
無い訳無いわよね。と、軌翔は彼に言った。彼は大きく目を見開いたまま、数回足りない酸素を補うように荒い呼吸を繰り返した後、俯いた。彼は口を開かなかった。ただひたすらに、自分の両手を見つめたまま、何も話すことは無かった。
「…ありがと、軌翔様。ようやく納得が行きました。うすうす思ってはいたんです。そんな気がしてた」
『人間らしく泣いたりしないのね』
「泣きたくなるほど未練があるわけでもないんです、此方、に」
『あら』
「多分、僕の存在が薄れてしまったのは、"僕"を見る人が居なくなっちゃったからなんじゃないかと思うんですよね。」
彼はゆっくりと語り始めた。語る彼の存在が、いっそう希薄になったような気がして、軌翔は見失うまいと彼を見つめてその言葉に耳を傾けた。
「小さい頃、両親が死んだんです。事故死でした。僕の家ってとても親戚が少なくて、居たとしても皆おじいちゃんおばあちゃんばっかりで。その時はまだ僕は中学生だったから、もう定年迎えた老夫婦の家に引き取られたんです。その二人も、つい二年前に。…それから僕はここで一人暮らしをしながら、両親の残した財産で何とか生活していたって訳です。つまり、二年前から、"僕"って存在を知っていて、常に身近に感じている人だとか、血縁だとか、ほとんど居なくなっちゃったんです。ぶっちゃけ元から目立つほうでもなかったから、学校でもいつも影は薄くて。」
『元から薄かった縁が切れたのね。此方側と、あなたとの』
軌翔が彼の膝に飛び乗ってそう結論を出した。なるほど、しっくりくる言い方である。切れたのだ。彼と、彼のいた世界との縁が。彼は苦笑して、軌翔の柔らかな毛並みを撫でた。すぐさまその手が払い落とされる。
「これって、消えちゃったらもう誰にも見えないんですか?幽霊的な」
『いいえ。此方と縁の切れたあなたは彼方の存在に限りなく近づくけれど、それでもあなたはまだ魂を持ったれっきとした人間。あたくしにははっきり見えるままよ』
「てっきり消えちゃうものだと。」
『それに近いけれどね。行ってしまえば、存在を認識されても、よほどのことがない限り、ほんの一瞬すれ違ったただの通行人みたいに、あなたのことは忘れられてしまうってことよ』
ついさっき、軌翔が彼に事実を継げたことで、彼の中で縁が切れたという認識が確実なものとなった。だから、きれかけていた縁はたった今、完全に、ぷつりと、切れてしまった。
「…どうしようかなぁ、これから」
彼の存在は、此方に住む人間の記憶からは綺麗に消え去った。「ああ、いるな」程度の認識すら残らず、跡形も無く。
『あら、何を絶望的な顔をしているのかしら。本当、人間はお馬鹿なのかしらね。当然のことじゃない。切れたのなら、また繋ぎなおすまでよ。あなたと、此方の世界との縁をね。未練がないなんて言っても、死ぬわけじゃないわ。あたくしみたいな存在になんてなれやしない。所詮人は、人の中で生きて、人の中で正しく命を落とすしかないのよ。さて、にお。あたくしは昔からずっと旅を続けているの。あなたみたいな人間に会ったのはこれが初めてだけどね。どうかしら。縁を繋ぎなおす旅。あたくし、百年くらい暇していたの。
…付き合ってあげてもいいのよ。』
1.蓄積と忘却 End