ダーク・ファンタジー小説

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.16 )
日時: 2019/06/17 01:45
名前: わらび餅 (ID: WoqS4kcI)

一輪目『勿忘草』
 
 
 
 
 
馬車に乗り、ガタガタと揺られながら流れていく景色を目で追う。都市の喧騒は遥か彼方、眼前に広がるのは静寂と木々だけだった。山にしては整備された道を行きながら、鳥のさえずりに耳を傾ける。
 お兄さん曰く、この山奥にひっそりと暮らすひとりの作家さんがいるらしい。とても人気のある方らしく、彼の出す本は飛ぶように売れるのだとか。
 本。本は、ほとんど読んだことがない。買うお金も暇もなかったというのもあるが、村にあった数少ない本の殆どが古い図鑑だったり、医学の本だったりしたため、物語が綴られた本を読んだことがないのだ。そもそも、村人の中で文字を読める人は限られており、需要がなかったのかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えながら景色に目を向けていると、馬を操っていた気だるげなおじさんが声をかけてきた。
 
「兄ちゃんもモノ好きだなァ。娘さんはこっち初めてだろ? この兄ちゃん、こんな山奥の変人に会いに、毎度毎度大きな荷物まで持って遠路はるばるよくおいでになってな。いくら仕事だからってさ」
「仕事ですからね。誰であろうと何処であろうと、求められれば行きますよ」
「仕事熱心なこった。俺だったら願い下げだね。恋人の死に涙ひとつ流さず、挙句の果てに話のネタにしようとする男だぜ? 血も涙もありゃしねェ」
 
 今から会うその作家さんは、私のような患者ではない。患者だったのは彼の恋人で、既に亡くなっている。お兄さんはここにくる道中にそう語った。作家さんの恋人が咲かせた死花の手入れを、定期的に頼まれているのだという。
 それにしても、酷い話だ。もしそれが真実であったのなら、変人、血も涙もないなどと言われても仕方の無いことではあるが。
 
「知ってるかい? 娘さん。噂によれば、花咲き病目当てで恋人に近づいたって話だぜ。その女も可哀想になぁ」
 
 前を向いているため顔は伺えないが、可哀想にと言った声音はとても悲しみを滲ませたものではなく、むしろどこか面白がっているようでもあった。噂だと言いながらも、そうだと断定しているように話すおじさんに、思わず顔を顰めた。
 ちらり、と隣に座っているお兄さんを見ると、彼は相変わらず完璧な微笑みを浮かべていた。何を考えているのかも、相変わらず分からない。
 
「──ほら、着いたぜ。帰りはいつもの時間でいいのか?」
 
 馬車が止まる。緩やかな風に攫われる髪を手でおさえながら、目の前の屋敷を見上げた。屋敷と言っても、モネさんの屋敷のような大きなものではなかったが、佇まいは凛としていて品を感じる。
 お兄さんは袋に入ったお金をおじさんに手渡し、にっこりと笑った。
 
「いや、今回は知人に迎えを頼んでいるので大丈夫です。ありがとうございます」
「ヘェ、珍しいな。それなら俺はこれで。せいぜいネタにされないよう気をつけろよ」
 
 ニヤニヤと笑いながら馬を操り去っていくおじさんをみて、お兄さんは浮かべていた笑みを消し去り深く息を吐き出した。持っていた大きな鞄を肩にかけ直しながら、その顔を顰めてみせた。
 
「ああ、やっと解放された。会う度に同じことを馬鹿の一つ覚えみたいにぺちゃくちゃと。俺にじゃなく作家先生本人に言ってみろって話だよなぁ」
 
──どうやら、お兄さんにも思うところがあったらしい。いなくなった途端ぶちぶちと毒を吐き始めた。
 なんだか、ハイルさんと見えない恩人さんに出会ってから、こうして毒を吐くお兄さんを見ることが増えた気がする。毒でなくとも、少しの愚痴だったり不満だったりも多いが、なんとなく、これが彼の素なのだろうかと思うようになった。恩人さんに対しての冷たい態度を見たあとなので、あまり驚きはしなかったが。
 取り繕わなくていいと思ってくれたのか、それとも、あの時、ハイルさんになにか言われたのか。理由は分からないが、彼の素を見せてもいい相手として認識されたのかもしれない。そう思うと、なぜだか心臓がぎゅっと縮んだような気がして、私はその度に胸に手をあてるのだった。
 
「じゃあ、行こうか」
 
 お兄さんはそう言うと、扉についていた金の輪っかを持ち上げ、数回ぶつけてコンコンと音を立てた。しばらくして、重そうな音ともに扉が開かれる。
 
「いらっしゃい、よく来たね。──おや」
 
 片眼鏡──モノクルといったか、銀色に縁取られた丸いそれをかけたその人は、高い位置で後ろに束ねた深い海の色の髪をゆらりと揺らした。髪と同じ色の瞳を私に向けると、緩やかに口の端を上げた。
 
「珍しいお客だ、歓迎しよう。さて、お嬢さんのお口に合うようなものはあっただろうか」
 
 私たちを中に招きながら、彼はこれみよがしにため息をついた。
 
「ヒガンも人が悪い、言ってくれればなにか準備をして君たちを待っていたものを」
「そうおっしゃるなら先に連絡手段を用意してくださるとありがたいですね。外と関係を絶ちたいのはわかりますが、ここじゃあ手紙のひとつも出せない」
「それは困った。僕はここに骨を埋める予定だから、その願いは聞けそうにない」
 
 ぽんぽんと交わされる言葉を聞きながら、あたりをきょろきょろと見回す。
 落ち着いた茶色で統一された屋敷の中は、豪華絢爛とは遠い、質素なものだった。だが華がないというわけではなく、置かれている物ひとつひとつはとても上品で、素人目から見ても決して価値の低い物ではないと分かる。
 
 ただ、ある場所だけが、他とは確実に違った。
 
「荷物はいつものところに。今回もありがとう、おかげで餓死せずにすむ」
「あなたがそう言うと冗談に聞こえないから怖いな。ここに来るのは俺ぐらいでしょうに、何かあっても誰も気づいてはくれませんよ」
「そうだな、では僕の死体を最初に見るのは君だということだ。光栄に思ってくれ」
「……冗談ですよね?」
「本気だが?」

 ふたりの会話がろくに入ってこないほど、私の視線はそこに縫い付けられた。
 細長いドーム状のガラスの中に、ぽつんと佇む花。きっとこれが、そうなのだろう。ただ、あまりにも。世界一美しいといわれるには、その姿はあまりにも。
 
「……ああ、やはり、気になるか」
 
 じっと一点を見つめる私に気がついたのか、作家さんはぽつりと言葉をこぼした。
 
「とりあえず、かけてくれ。お茶と菓子を持ってこよう。その死花の話は、それからでもいいだろう」
 
 ああ、やはりそうなのか。これが。
 モネさんのような大きい花ではない。ハイルさんのところでみた、見るものを惹きつけるような存在感あるものでもない。
 命とひきかえに咲くにはあまりにも小さすぎる花が、そこにはあった。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.17 )
日時: 2019/12/29 14:04
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)

 ガラスを両手で包み、そっと持ち上げる。花に当たらぬよう、慎重に、ゆっくりと。
 そうしてあらわになった花の茎に、手袋をしたお兄さんの手が触れる。小さな花を支えていた茎も細く、懸命に天に向かって立とうとしているその姿は可憐というべきか、儚いというべきか。すぐにでもポキリと折れてしまいそうなそれを、お兄さんは指先でつまんで持ち上げた。花に言葉を発する口があったのなら、きっと悲鳴が上がっていただろう。
 お兄さんが仕事をする姿を見るのは初めてで、思わずじっと見つめてしまっていた。その事に気がついたのは、目の前のテーブルにカップとお菓子が置かれた後だった。 
 
「口に合えばいいんだが。客人は珍しくて、ここには僕が好むものしかないんだ」
「ありがとう、ございます」

 白いティーカップになみなみと注がれた液体に視線を向ける。赤いような茶色いような、そんな色をしているが、なんの飲み物かは分からない。
 あたたかいうちに、と──恐らく作家さんだと思われるモノクルの男性に──促され、恐る恐るカップを両手で持ち上げた。そっと口まで運び、そのまま液体を流し込む。
 ……甘い。多分、甘いのだろう。いままで感じたことのない味に舌が困惑して、美味しさを実感できなかった。ひとくち、ふたくちと飲んでカップを机に戻した。
 
「随分と熱心に見つめていたが、彼の仕事を見るのは初めてなのかな」
「……はい」
「なら尚更珍しいものだろう。あの花を生けている土台には、特別な水が入っているんだそうだ。死花には欠かせないものらしい。彼には定期的にその水を新しいものに変えてもらっている。あとは……なんだか霧吹きでなにかを吹きかけているけど、詳しいことは知らないな。あまり力になれなくてすまないが」
「い、いえ」
「──わかりづらい仕事で申し訳ありませんね。こうみえて色々あるんですよ、色々」
 
 手袋を外し、ため息をつきながらお兄さんが私の横に腰掛けた。驚いて花の方を見ると、最初に見た時と同じようにガラスの中におさまっている。いつの間に、と驚いて目を丸くした。
  
「君の憎まれ口は相変わらずだな。君にしかできない素晴らしい仕事だと何度も言っているだろう」
「誰もやらないから仕方なくやっているだけですよ。皮肉なことに需要はありますし、もらえるものもそこそこですし。なにより退屈しない」
「なるほど。君が金を欲しがっているところも、何かに飢えているところも見たことがないが、そういうことにしておこう」
「……あなたは相変わらずひとの嫌な部分をつつくのが得意ですね」
「そうかな? ありがとう」
「褒めてません」
 
 にこやかに──作家さんだけだが──交わされる会話を聞きながら、四角くて茶色いお菓子に手を伸ばす。これは見たことがある、クッキーだ。一度、あの子が都市へ出稼ぎに行った時にお土産として買ってきてくれたもの。懐かしさで胸が苦しくなりながらも、クッキーを口に運んで、ひとかけら程に砕く。ほろりと崩れたそれをさらに小さく砕いて、舌の上で味わった。
 やっぱり、甘くておいしい。

「ところで、僕のことはどれくらい話しているんだ?」
「俺からはあなたが作家だというくらいですが、ここにくるまでの道中、馬車の御者にはいつもの噂話を聞かされましたよ」
「そうか。大方、恋人の死に涙ひとつ流さず、挙句の果てに話のネタにしようとする男だの、花咲き病目当てで恋人に近づいたとでも言われたのだろうが……」
 
 おじさんから聞いた話を一字一句違えることなく言い当てた彼にぎょっとした私を嘲笑うかのように、穏やかな表情のままさらに爆弾を落としてきた。
 
「九割程は正解だ。彼女の死には涙など流さなかったし、話のネタにだってした」
「え……」
 
 思わず絶句した。まさか、本当に血も涙もない冷血な人なのだろうか。嘘をついているようにはみえない。
 
「なにせ、彼女が亡くなって安心するような男だからね。彼らの言うことになにか異論を唱えるつもりもない」
 
 にこりと笑ってそう言い放った彼に、お兄さんはため息をついた。
 
「またあなたはそうやって誤解を生むようなことを……」
「誤解もなにも、その通りなのだから弁解のしようもないだろう? ──さて、あの花についてだが……」
 
 言いながら、作家さんは私の顔をちらりと見た。なんだろうと思い小首を傾げ見つめ返すと、緩やかに微笑まれた。なんなんだ。
 
「あれは勿忘草という花らしい。あまりにも小さな花で、見たものは皆口を揃えて言うんだ。『かわいそうだ』と。あんなもののために命を落とした彼女のことを憐れむんだ。お嬢さん、君のように」
 
 かけられた言葉にはっとして、言いようのない罪悪感が込み上げてくる。慌てて謝罪を口にしようとして、止めた。今私がしようとしていることはなんだ。罪悪感から逃れたいだけ、うわべだけの謝罪じゃないのか。そんなもの、彼にも彼女にも失礼なだけではないか。
 だって、かわいそうだと思った。あんなものに、吹けば飛ぶような小さなものに命をとられるなんて。知らない人に死を憐れに思われるなんて。
 だから私は、口を閉じた。言葉を飲み込んだ。
 そんな私をみた彼は、驚いたように目を丸くした。
 
「……すごいな、君は。そうとも、謝罪の言葉などいらないんだ。その気持ちは間違ってなどいないのだから。彼女はたしかにかわいそうで憐れだった。だが、それ以外の感情を向けてくる者もいる。それらは総じて、酷く居心地の悪いものでね。だからこうして山奥に引きこもっているわけだが」
「それももうすぐ終わるかもしれませんよ。あの花はもう、もたないでしょう。良くてあと四日……最悪の場合明日にでも枯れてしまう」

 お兄さんの言葉に、彼はそっと目を瞑った。隠された深い青が次に映したのは、あの花だった。緩く細められたそれは、酷くあたたかいものだった。
 
「そう……そうか。随分頑張ってくれたな、あの子は。ありがとうヒガン」
「……いいんですか? 押し花やドライフラワーにして残さなくても」
「いいんだ。形あるものはいつか壊れる。それが今だったというだけの話だ」
 
 彼の表情は相変わらず穏やかで、悲しみなど微塵も感じ取れなかった。恋人の死に安心して、形見ともいえる死花に執着もしない。彼は本当に、恋人を大切に思っていたのだろうか。
 疑問は次から次へとわいてくる。それでも、花を見つめる彼の瞳には見覚えがあった。あたたかくて優しい、あの子の瞳。私を見ている時のあの子の眼差しと、そっくりなのだ。だから余計にわからなくなる。矛盾する行動と言葉、でも嘘は感じられない。
 ぐるぐると思考を巡らせていると、作家さんがパチンと手を叩いた。
 
「さて、堅苦しい話はここまでにしよう。せっかく来てくれたのだから、なにか……そうだな、書斎にでも案内しよう」
 
 突然の提案にポカンとしていると、お兄さんが心なしかげんなりした表情で口を開いた。
 
「……俺はいいです、あそこは息が詰まりそうですから。それに何度も見させてもらってますし」
「君の本嫌いもいつか克服してもらいたいものだ。君の視点はなかなか面白いから、僕の好きな本についてぜひ語り合いたいのだが」
「遠慮します。ロゼは行っておいで。君はきっと好きだろうから」
「え……でも、文字は、少ししか」
「構わない、僕が教えよう。さあついてきてくれ、お嬢さん」
 
 作家さんに手を取られ、慌てて立ち上がる。なんとなく上機嫌のような彼に連れられて、私は部屋をあとにした。
 ……どうやら、選択肢はないらしい。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.18 )
日時: 2020/03/09 22:27
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)


 半ば強制的に連れてこられた書斎は、驚く程に広々としていた。壁そのものが本棚になっており、そこに並んである本は数えることが苦痛になりそうなほどだった。その様子はまさに圧巻で、思わず感嘆の声が漏れる。
 部屋にテーブルはなく、木彫りの椅子がひとつだけぽつんと置いてあるだけだった。この椅子を持って本棚を行ったり来たりしているのだという。ここで書き物をしているのかと問えば、返ってきたのは否定の言葉。どうやら本を読むためだけの部屋らしい。
 椅子に座るよう促され、恐る恐る腰掛ける。そんな私を見てどこか満足げに頷いた作家さんは、本棚から何冊かを抜き取った。
 
「『月光唄』、『スカイ・ブルーの手記』、『孤独の行進』……これらは僕のお気に入りだ。他にもなにか気になった本があれば好きに読んでいいよ」
 
 どんな話が読みたい? と尋ねられ、私は視線をうろうろと彷徨わせた。選んでくれた本はどれも気になるが、一番は。
 思いきって、作家さんの顔をじっと見つめた。深い青の瞳に映るものが、手元の本から私へと変わる。私たちはしばらくそうやって視線を合わせていたが、やがて作家さんが私の意を察したように自分の顔を指さした。
 
「……もしかして、僕の本かい?」
 
 こっくり頷くと、作家さんは苦笑いを浮かべた。
 
「申し訳ないが、ここに僕の本は一冊しか置いていないんだ。それも、人生ではじめて書いた、世間には公表していない本だ。……いや、本と呼べるかどうかも怪しい。とにかく、とても誰かに見せられる代物ではないよ」
 
 これだけの数の中、彼が書いた本はただ一冊。どうして、と口に出さずとも彼は察したようで、そのまま言葉を続けた。
   
「僕は、僕の本に価値を見いだせなくてね」
「……?」
「好きではない。誰かに見せたいとも思わない。けれど何故か、世間は僕の本を求める。その理由がわからないんだ。まあ、娯楽がないこの国では、僕なんかの本に楽しみを見つけて手を伸ばしてしまうのも仕方の無いことかもしれないが……そんなわけで、僕は出した本を手元に残すことはしていないんだ。すまないね」
 
 そう言った作家さんの顔に浮かんでいたのは、あまりいい笑みではなかった。それが自分を嘲笑っているのか、他の誰かを嘲笑っているのかはわからなかった。
 そんな作家さんの話を聞いて、ひとつの疑問が浮かび上がる。
 
「じゃあ、どうして作家に?」
 
 ぱちり、と深い青の瞳が瞬く。きょとんとした顔はどこか幼く、さっきまでの暗い表情はなりをひそめた。しばらくの沈黙が私たちの間に横たわったので、不安になって謝罪の言葉を口にした。もしかしたら、聞いてはいけなかったことかもしれない。
 
「ああ、いや、お嬢さんが謝ることはなにもないんだ。ただ、考えたことがなかったものだから」
 
 だから答えるのが遅れてしまった。そう申し訳なさそうに言った作家さんは、持っていた本の表紙をするりと指でなぞった。『孤独の行進』──表紙に記されている題名の文字を何度か人差し指で辿って、ふっ、と微笑む。
 
「どうだろうね。そうだな……強いて言うなら、嬉しかったから、かな」
 
 本を抱えながら棚に背を預け、作家さんは目を閉じた。
 
「元々、本は好きだったんだ。ない金を切り崩して細々集めるくらいには。長い時間大事にされた物には命が宿る、と言われているけれど、聞いたことはあるかい?」
「うん……あっ、ええと、はい」
「はは、敬語は慣れないか。無理しなくていいよ、楽に話すといい。──それで、魂が宿るという話だけど、僕は文字に関しても同じだと思っていてね。人が書いた文字には魂が宿る。その人がどんな人生を辿り、感じ、考えたのか。ひとつひとつの文字にどんな思いを込めたのか。そういったものが、言葉選びや文の組み立て方から読み取れる……それが僕は堪らなく好きなんだ」
 
 思わず、あの人から貰った首飾りをローブの上からそっと握った。きっと、魂が宿っている。そう感じたものを。
 本は読んだことがないけれど、これと同じような感覚なのだろうか。
 
「だから本を読むのは好きなんだ。けれど、書くのも好きかと聞かれれば……」
「……好きじゃなかった?」
「そうだね。最初は、自分でも書けるんじゃないか、なんてくだらない理由で書き始めたんだ。物語、というよりかは詩に近いものを。けれど、書けば書くほど自分が如何にからっぽなのかを思い知らされるだけだった。僕の言葉に命は生まれなかった。だから、どちらかといえば嫌いだったかな」
 
 あの時は筆を折ろうとした、と作家さんは朗らかに笑う。笑っていいのだろうか、それは。
 そんなことを思っていると、作家さんはを瞼をゆっくりと開き、更に言葉を重ねた。
  
「それでも惰性で書き続けていたんだ。いつか命が宿ったら、からっぽな僕の人生も素晴らしいものになるんじゃないかと、そう思ってね」
 
 そう語る作家さんは、懐かしむように遠くを見つめていた。
 
「そんな中、出逢ったんだ。僕の文を好きだなんて言う変わり者に。……お嬢さん、本を読む前に、少しだけ昔話をしてもいいだろうか」
 
 私はこくり、と頷いた。それを見た作家さんは、どこかほっとした様子で「ありがとう」と笑った。
 
「さて、せっかくだ──むかしむかし、なんて、ありきたりな言葉で始めようか」
 

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.19 )
日時: 2020/03/11 12:52
名前: 祝福の仮面屋 (ID: cerFTuk6)

設定がしっかりしてるから読んでて飽きないのは良いと思う、重くし過ぎても受け入れが難しくなる事もあるから、数話に一話くらい息抜きも兼ねてほのぼの回を入れた方がいいかも。それと世間の人々の反応がリアルで良い、不治の病とかを取り扱う場合は患者に対する他の人達の反応も重要になって来るからね。

長文失礼しました。
頑張って下さい!

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.20 )
日時: 2020/04/30 15:02
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)

祝福の仮面屋様

ありがとうございます、そう言って頂けてとても嬉しいです!
ほのぼの回はキリがいい時にいれたいな、とは思っているのですがなかなか難しく……いつか入れられたらいいな、って感じなのであまり期待せずお待ちいただけたら幸いです。

コメントありがとうございました!

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.21 )
日時: 2020/04/30 21:46
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)

 からっぽな人生だった。
 ただぼんやりと過ぎ去る時間を眺め、何をするでもなく老いて、「ああ、つまらない命だった」と他人事のように思いながら死んでいくのだろう。そう思っていた。
 
──おまえは、間違って人間に生まれてきてしまった化け物だ。
 
 これは父に言われた言葉だが、全くもってその通りだと幼いながらに思った。
 笑うことも泣くこともしなければろくに喋りもしない。虫をかき集めて観察し、時折無表情でそれらを押し潰す様は、きっと恐ろしいなにかに見えたのだろう。ひとつ言い訳をするとしたら、あのころの僕は生死という概念にまだ疎く、虫が生きているものだと分からなかった。そのため、どうして動いているのだろうという疑念のもとそのような行動をとっていたのだが、今となっては残酷な子どもだったなと我ながら思う。
 僕としては、常に自分の気持ちに嘘偽りのない振る舞いをしていただけだったのだが、どうもそれがいけなかったらしい。僕の言葉は周りを不快にしたし、僕の行動は周りを動揺させた。そんな気味の悪い子どもだったので、常日頃から僕がいかに頭のおかしいこどもであるかをこんこんと説いてきた両親には成人する前に見限られ、優秀だともてはやされていた弟を連れて出て行ってしまった。
 彼らは知らないだろうが、実は弟に勉学を教えていたのは僕だった。弟はまだ僕と違って人として扱われているから、これからもそう在れるようにと願いを込めて。しかし残念なことに、彼は理解力が足らず物事全てを丸暗記することに時間を費やしていたので、順序だてて彼に教えてやれる師がいなければ伸び悩むだろうな、と心配した。口には出さなかったが。そしてさらに残念なことに、僕の両親もまた頭が足りない人間だったので、丸暗記したぺらっぺらの解答を優秀であると勘違いしただけでなく、突然勉強が出来なくなったと弟に──僕にしたように──つらくあたるのだろうな、と心を痛めた。もちろん、口にはしなかった。
 
「野垂れ死んでしまえばいい」
 
 それが両親からの最後の言葉。
 そこまで嫌われていたのか、と驚きはしたが、特に悲しいだとか憎いだとか、そういった感情は湧き上がってこなかった。泣きも喚きもせずぼんやりとしている僕を、酷く歪んだ顔で見下ろして出て行った家族。僕は彼らを黙って見送った。
 きっと、化け物と呼ばれる所以はこういうところだったのだろう。
 
 さて、ひとりになってしまった僕だったが、外に大勢いる孤児や身寄りのない人々と同じく泥を啜りながら生活することを強いられた──わけでもなく。幸運にも、特に生活に困ることは無かった。
 両親に隠れて勉学に励み、これまた隠れて論文や研究に身を投じていたのだが、それが認められ金銭的援助や協力を申し出てくれた人物が何人もいたため、野垂れ死にすることなく安心して生活も研究も続けることが出来た。両親は僕が論文や研究で得られた報酬を自らの懐にまるまるおさめてしまうだろうな、と簡単に予想がついてしまう人達だったため、正直離れてほっとしていた。
 しかし、両親がいないというのもなかなか面倒なもので、ただそれだけでいじめや差別の対象になってしまったこともあった。元々彼らは両親と同じく、僕を人間ではないなにかと思っていたらしいので、行為は激化していく一方だった。けれどその時の僕は本当にからっぽで、なにも感じずなにも思わず、投げつけられたごみを拾って研究材料にするくらいには強かであった。
 そんな僕にも、たったひとりだけ友人と呼べる存在がいた。

「せんせいは、かなしくないの?」
 
 家が近く、なにかと絡んでくるひとまわり年下の少女。名をミオといい、浅葱色の長い髪が特徴だった。彼女はなぜか僕のことを「せんせい」と呼び、僕に構うとろくなことがないからと何度言っても声をかけてくる、僕に言われたくはないだろうけれど、少し変わった子。
 彼女だけは、僕がなにを言っても、なにをしても、いつも変わらず笑顔のままだった。
 
「悲しい? どうして?」
 
 その日も、水をかけられてびしょ濡れになりながら家の前で立ち尽くしていた僕に、ミオは声をかけてきた。
 
「だって、ひどいことされてる」
「酷いことではないよ。僕はみんなと違う異物で、それに恐怖や嫌悪感を抱いてしまうのは当然のことだ」
「せんせいはみんなと違うの? ミオとも?」
「違うよ……本当は、みんな違うのだけれど。違うことは恐ろしいから、みんな同じように見せているんだ。みんなが右を向いたら自分も右を向いて、みんなが誰かに石をぶつけたら自分もぶつける。けれどこれらは全て、自分を守るためだ。だからこれは、ひどいことではないんだよ」
「……せんせいの言ってること、むずかしい」
「そうだね。いつかわかるよ」
 
 そしてそのいつかがきた時、彼女はもう僕に声をかけてくることはないのだろう。そう思っていた。
 
 けれどいつの間にか、僕と彼女は本当に先生と生徒という関係になっていた。自分のことを私と呼ぶようになった彼女が、「文字が読めるようになりたい」と僕の前で呟いたことがきっかけだった。
 この国は貧富の差が激しくて、貧しい家は勉強をすることもままならず、幼い子どもですら働きに出ることがほとんどだった。僕の家は所謂富裕層で、勉強するための時間もお金も余裕があった。けれど学を身につけても両親に食い潰されると察した僕は、わざと勉強ができないふりをした。結果はこのとおり、勉強もできない化け物の烙印をおされ天涯孤独……とまあ、この話は隅に追いやるとして、ミオである。
 彼女は決して貧困層の人間ではない。上質な服を着れて、あたたかな両親にも恵まれた、富裕層の人間だった。けれど彼女は「女の子だから」という理由で勉強することを許してもらえなかったのだという。お行儀よく笑って、かわいいものやうつくしいものだけを見ていなさい、と。それなら尚のこと僕と関わっているのはまずいのでは、と思ったが、その言葉は呑み込んで、かわりに彼女に読み書きを教えることにした。学びたいという気持ちを、無下にはできなかったから。
 どうしてだか、弟の顔が脳裏に浮かんだ。
 
「文字が読めるようになったら、なにがしたい?」
 
 そうして始まった週二日の勉強会は、決まって僕の家で行われていた。
 机に道具を広げながらミオにたずねると、彼女は「あのね!」と少し興奮気味に話し始めた。
 
「本が読みたいの! お姫様と、王子様が出てくるお話」
「ご両親には伝えたのかい」
「どうせだめって言われるもん。女の子なんだからお人形さんで遊びなさいって、そればっかり。お人形さんも好きだけど、私は私が遊びたいと思ったもので遊びたいの」
「随分大人になったね」
「そうでしょ!? ミオ……ええと、私、もうお姉さんだもん!」
 
 得意げに笑う彼女をみて、思わず口角が上がる。
 紙のめくれる音と、ペンをはしらせる音。そして彼女の鈴を転がすような声が聞こえる空間は、とても心地が良いものだった。
 いつの日か、この時間もなくなってしまうのだろうか。そう考えるといつも、言いようのない感情に襲われる。
──この感情の名前を知るのは、もう少しあとの話。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.22 )
日時: 2020/05/30 20:36
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)


 本を集めはじめた。
 勉強会の甲斐あってミオも少しずつ字が読めるようになり、長文に挑戦する日がくるのも時間の問題だ。しかし残念なことに、僕の家には彼女が読んで楽しいと思えるような本はない。どれもこれも頭が痛くなるようなものだったので、新しく買い足そうという考えに至った。最初は、本当にそれだけが理由だったのだが。
 お姫様と王子様が出てくる本が読みたい、とミオが言っていたことを思い出し、それに似た系統のものを何冊か買った。本は高価なものだから、生活していけるだけの蓄えしかない僕にとってはかなり痛手ではあったが、これを読む彼女の姿を思い浮かべると自然と財布の紐を緩めているのだから不思議なものだ。
 けれど一冊だけ、自分のためだけに手に取った本があった。表題に惹かれ思わず買ってしまったそれは、可愛らしい幾つかの本に囲まれてひどく居心地が悪そうだった。
 そしてこの一冊の本は、僕の人生を確かに変えたのだ。
 
 
「『彼女はひどく悲しげに微笑んだ。』……どうして微笑んでいるのに悲しいと感じたんだろう?」
 
 僕の手元をのぞき込む形で、共に縦書きの文を目で追いかけていたミオにたずねる。彼女は「うーんと」と可愛らしく小首を傾げたあと、言葉を選びながら答えてくれた。
 
「彼女の強がりが伝わったんだよ。楽しくなくてもその人を心配させないように笑ったの」
「なるほど。笑顔は楽しい時や嬉しい時だけにする表情ではないのか」
「悲しくても、笑わないといけない時もあるんじゃないかなあ」
「ミオはすごいね。僕には全く分からなかった」
「えへへ。これじゃあ私がせんせいみたい」
 
 誇らしげに笑う彼女につられて、思わず口角が上がる。
 僕の予想通り、ミオはあっという間に文字の知識を吸収し長文に挑戦することになった。こうして本を一緒に読みながら、分からない箇所を教えていく。そういった学びの方法を取っていたのだが、ここで盲点だったのが僕という想定外の障害だった。登場人物の感情が、僕には理解出来なかったのだ。
 楽しいから笑う。悲しいから泣く。知識はあっても実体験がない僕にとって、感情というものはどんな問題よりも難題なものだった。「泣きながら笑う」なんて文が出てきた時には頭を抱えた程に。しかし分からないものをそのままにしておくのは僕の性格上よろしくないため、ことある事に読むのを止めてしまっていた。そんな僕を見るに見かねたミオが懇切丁寧に教えてくれたのが、先生と生徒逆転の始まりだった。
 ミオはよく笑う。たまに拗ねたり、怒りをあらわにしたりもする。事実だけを並べたかたい論文や資料ばかりを読んできた僕とは違って。いつしかそんな彼女が感情のお手本となっていたことに気がついたのは、本の中の笑顔の描写に違和感を覚えた時だった。
 彼女は寂しそうに笑ったりしない。いつだって、陽だまりのようなあたたかい笑顔を浮かべていた。
 
 そうして様々な感情を彼女に教えて貰い、機微まで分かる──とは言えないが、何もかもに首を傾げていた頃よりはよっぽど理解出来るようになっていた。気がつけば彼女のために用意したいくつかの本は読み終わり、残ったのはたった一冊だった。
 『孤独の行進』。自分のためだけに手に取った、たった一冊。これだけは自分一人で読もうと決めていたため、ミオがいない時に少しずつ読み進めようと思っていた。そう思っていたのだが。
 結論から言うと、僕はこの本を瞬く間に読み終えてしまった。
 家族に捨てられ天涯孤独になった主人公が歩む人生を描いたこの作品に、僕は衝撃を受けた。頭のてっぺんから足の先までを貫くような衝撃を。この作品の主人公が、僕と同じだったのだ。自分の頭の中を盗み見られたと錯覚するほどに。そのためすんなりと文が頭に入ってきて、頁を捲る手が止まらなかった。
 思い出すのは、家族に見限られたあの日。泣きも喚きもせずぼんやりとしている僕を、酷く歪んだ顔で見下ろして出て行った家族。確かに僕は泣きもしなかった。涙が出なかったから。主人公の彼もまた、涙を流すことは無かった。
 
『 突然の出来事に、頭も心も追いつかなかった。遠ざかっていく背中を見つめながら、家族と過ごした時間を思い出す。思い出しては、消えていく。彼らは一度たりとも、私を振り返ることは無かった。
 涙は出ない。ただ心にぽっかりと大きな穴があいて、ひゅうひゅうと風音をたてている。寂しいと、心がないている』
 
 これは本文からの引用である。僕はこの文に心臓を貫かれた気がして、読みながら思わず胸をおさえたのだ。
 僕は確かに、涙など出なかった。あの時の僕はそれはそれはからっぽで、自他共に認める頭のおかしいこどもだったので、本来人間に備わっているはずの悲しいという感情そのものを知らなかったのだ。でも、本当は、悲しかったのかもしれない。今となっては知る由もない。過去の僕と今の僕は全くの別人なのだから。
 けれど時折、彼のことを思い出す時がある。僕とは違う、両親に愛された弟。僕を兄様と呼ぶあの声はもう思い出せないけれど、あのはにかむような笑顔が頭に浮かぶ。酷く叱責されている憐れな兄をその目にうつしながらも、両親がいない時を狙ってご飯をわけてくれた、僕のたったひとりの弟。その時決まって、僕は思考が出来なくなる。その度にぼんやりと時を過ごし、脳が働き始めるまで待っていたのだが、今思えばこれが、「心にぽっかりと大きな穴があいた」状態だったのかもしれない。主人公の彼はこれを、寂しいと名づけている。それならば僕のこれも、寂しいという感情なのだろうか。寂しいとこころがないているのだろうか。
 僕には分からない。知ることが恐ろしい。けれども知らないままは、もっと恐ろしい。本を読めば様々な感情を知ることが出来るのかもしれない。
 初めて知った感情の名は、「寂しい」だった。
 
 それ以来、僕は貯金を切り崩し、本を集めるようになった。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.23 )
日時: 2020/06/14 08:24
名前: nam (ID: X6hSb0nX)

すごく設定がきちんとしていて、大好きです
まず題名がいい!
すごく目に止まる題名です。
また、中身もいい感じのふいんきで
暗い感じがいい!
次が楽しみです。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.24 )
日時: 2020/06/21 03:06
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)

nam様


嬉しいお言葉、ありがとうございます!
題名は最初にも書いてありますが、ことわざからいただいていているのでぜひ調べてみてください。とても好きな言葉です。
終始こんな暗い感じで、読んでくださる方も疲れるんじゃないか……と少し心配していましたが、そう言ってくださると安心します(><)

コメントありがとうございました!

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.25 )
日時: 2020/06/21 10:43
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)

「せんせいのお家、本たくさんになったねぇ」
 
 殺風景だった部屋に本という彩りがぐんと増えた頃、僕とミオの勉強会は週二日から週一日になっていた。ミオはもうすっかり一人で本を読めるようになり、勉強会というよりかは感想を言い合うもはや座談会と言った方が正しいものに姿を変えていた。僕の生徒はとても優秀だったのだ。
 彼女の最近のお気に入りは、魔法という力を使って悪しき力から世界を救うというなんとも不思議な物語らしく、時折自分の手を見つめたと思えば颯爽と振りかざし、なにやら呪文のようなものを口にしている。恐らく本の影響だろう、微笑ましい光景だった。
 
「そうだね、随分増えてしまって置き場所に困っているよ……ああ、そういえば、昨日買った『月光唄』もとても素晴らしい作品だった。ミオも読んでみるといい」
「ええ……せんせいの好きな本、難しいのばっかりなんだもん」
「そうかい? そんなことないと思うけれど……まあ、本の面白さは話だけではないからね。僕なんかは、書き手の人生が垣間見える瞬間がたまらなく好きだったりする。彼らが生きてきた中で見つけた言葉たちに、命が吹き込まれるその瞬間が。これは僕の例だけれど、ミオもいつか、こういった琴線に触れるものに出逢えるよ」
「そうかなあ」 
「人の好みは千差万別だ。この先も本と共にあれば、必ずひとつは見つかるさ。それに、『月光唄』はどちらかといえばミオの好きな分類じゃないかな。月の光に呪われた少女と神に愛されなかった少年が織り成す、うつくしくも儚い愛の物語だったよ」
 
 恋愛物語、好きだろう? と問いかけると、彼女はなんとも言えない表情を浮かべた。眉尻を下げて、何かを言おうと口を開けては閉じる。その繰り返し。
 約数秒という短い時間ではあったが、彼女は確かに言おうとしていた言葉を飲み込んで、かわりに彼女らしからぬ不格好な笑みを浮かべた。
 
「……やっぱりちょっと難しいよ」
 
 結局、彼女の口から零れた言葉は、たったこれだけだった。
 
「それよりもさ、せんせい」
「……なんだい?」

 追及はしなかった。誰だって、言いたくないことのひとつやふたつは抱えている。それを暴こうとするのは愚か者のする事で、僕は彼女の前でそのような人間にはなりたくなかったのだ。
 けれどもし、時を巻き戻せるのなら。僕はきっと、愚か者になってしまうのだろう。全てはもう、遅すぎる後悔ではあるが。
 
「せんせいも、書いてみたら?」
「……書く? 何を?」
 
 突拍子もなく投げかけられた言葉に返せるほどの器量を僕は持ち合わせておらず、質問を質問で返すという禁忌を犯してしまったのを今でも覚えている。そんな僕に浮かべた微笑みは、もう先程のぎこちなさの欠片も残ってなどいなかった。
 
「お話! 私、せんせいのお話が読んでみたい!」
「……お話」
「せんせいなら書けるよ! だって頭いいもん」
「……そうかなあ」
 
 確かに、頭は悪い方ではないが、だからといって何の知識もない素人が書けるものなのだろうか。そんな疑問が頭を過ぎらなかったわけではない。けれど、彼女が読みたいと言ったのだ。僕ならできると、そう言ったのだ。
 ああ、認めよう。僕は恐ろしい程に単純な人間だ。そして、僕の中では『ミオの願いを叶えない』という選択肢は存在すら許されておらず、まるでそれが当たり前かのように僕は筆を手に取ったのだった。 

 
 筆を片手に真白い紙切れと顔を合わせ、唸りながら文字を捻り出す作業を始めてから数週間。端から長編の大作なぞ書けるはずもないので、手慣らしに詩と短編小説をいくつか書き上げた。だが、結果はそれはもう惨憺たるもので、早々に火にくべてなかったことにした。もし今それらを目にすることがあったなら、僕は間違いなく正気を失い気絶することだろう。それ程までに惨たらしいものだった、とだけ言っておこうと思う。
 さて、なにがいけないのだろうとあちこちから本を引っ張り出して自分の文と見比べてはその差に落胆し、全て投げ出してしまいたい気持ちを必死に押し留め再び筆を取る。そんなことを繰り返すうちに、重大な欠陥があることに気がついた。
 僕の文字には、命が生まれない。
 しかしそれもそのはず、僕はうつくしいものや素晴らしいものを眼に映すことのない、からっぽな人生を歩んできたのだ。そんな人間が作り出した文字など、生まれる前から死んでいて当然だった。それに、つい最近感情というものに触れた人間が他者の思いを想像するなど、天地がひっくり返っても不可能だったのだ。
 けれど、書くと言ってしまった手前「出来ませんでした」と醜態を晒すことは許されない。ミオはきっと、笑って許してくれるだろうけれど。
 どんな研究よりもこちらのほうがよっぽど難しいな、と腰掛けていた椅子の背もたれに体重を乗せる。たったひとつでも素晴らしい作品が出来たのなら、彼女は喜んでくれるだろうか。そんなことを考えながら、あの子の笑顔を思い出す。どこまでもあたたかくて、純粋で、思わずつられて笑ってしまうような、そんな表情を。
 その時、ふと思った。「これだ」と。
 僕が文字にすべきものは、王子と姫の恋愛物語でも、不思議な力で世界を救う物語でもなく、僕自身なのだと。今まで起きたことの全てを──家族に見限られ天涯孤独になり、そしてひとりの少女と出逢ったことを、そのまま文字に起こせばいいのだと気がついたのは、すっかり夜も更けた時のことだった。
 全てを書き上げた頃にはもう日はてっぺんまで昇っていて、呆然としたのをよく覚えている。そうして出来上がったものは、お世辞にも素晴らしいものだとは言えなかった。けれど火にくべようとはどうしても思えず、紙の束を抱いたまま布団に寝転んだ。目を閉じて、文字に起こした僕の物語を再生する。何度も、何度も。
 あの時はきっと、悲しかった。寂しかった。でも、嬉しいこともあった。それらはすべて、僕の心だったもの。昔の僕がどこかに落として壊してしまったものを、今の僕が拾い上げて名前をつけて、ようやく存在を許された。
 
 寝る間も惜しんで筆を走らせたあの時、僕は確かに、作家としての一歩を踏み出したのだ。
 
 

 
 
「……これ、もらっていいの?」
 
 僕が差し出した紙の束を、ミオは目を丸くしながら受け取った。あまりにも驚くものだから、思わず笑い声を零す。それに気づいた彼女は、少々気恥しそうに紙の束を抱きしめた。
 
「もちろん。君のために書いたものだから、好きにしてくれて構わないよ。読んで気に入らなかったら捨ててくれ」
 
 さほど面白いものでもないだろうし、と続けた言葉は、他でもないミオに遮られた。
 
「絶対捨てない! 大事にする!」
「……そうか」
 
 それはそれで少しむず痒いものがあるな、と口ごもる僕はお構い無しに、ミオは嬉しそうに紙を指で撫ぜた。
 この時の彼女の顔を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。頬をほんのり赤く染め、目を細め、柔らかく口角を上げたその顔を、僕はきっといつまでも覚えているのだろう。
 この後、日刊紙の隅に僕の短文が載せられるようになり、いつの間にかそれらが本となって多くの人の手に渡るようになるが、彼女の笑顔ほど僕を喜ばせてくれる事柄はなかった。ミオははじめての読者であり、僕の文をはじめて愛してくれたひとりだった。
 僕が物語を書き、それを彼女が読み、「面白かった」と、「好きだ」と、笑って教えてくれる。そんな日々は瞬く間に過ぎ去って、やがて転機が訪れる。
 
 
「せんせい、あのね。私、結婚するんだって」

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.26 )
日時: 2020/07/12 23:00
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)

「……結婚?」
 
 思わず零れた言葉は、それはそれは情けない声色をしていた。
 
「うん。前から言われてはいたんだけど、私がずっとほったらかしにしちゃってたんだ。それにお母様が耐えきれなくなっちゃって……」
 
 ミオの合意なく、婚約が正式に決定されてしまったと彼女は言った。
 確かに、ミオはもう結婚できる歳にまで成長した。あどけなさを残しつつも、大人の女性と言って差し支えないほどにうつくしく。彼女と出逢ってからもうそれほどに時が経っているのだという事実は、彼女の形をして僕の眼前に現れていた。
 
「相手は、どんな人なんだい?」
「いい人だよ、とっても。優しくて、かっこよくて、きっと私を大事にしてくれるんだろうなって人」
 
 伏し目がちにそう語る彼女に、祝福をしなければと思った。望まない婚姻というのは、このご時世そう珍しいものでは無い。それに、そんなにもいい人ならば、いつかの未来で恋心を抱くこともあるだろう。そうでなくも、あたたかで穏やかな人生を歩むことができるだろう。決して優しいとはいえないこの世界を生きていく上で、隣にいる誰かを作ることは非常に大切だ。人はひとりでは生きていけない。この子には、幸せになって欲しいのだ。笑った顔が良く似合う、太陽のような子だから。
 だから、祝福をしなければ。
 
「……きみは、それでいいのかい?」
 
 祝福を、しなければ。
 しなければいけないのに、口から出たのは全くの真逆で、僕は自分の言ったことに驚きを隠せなかった。こんなことを言うつもりなどなかったのに、どうしてだか僕の愚かな口は勝手に動いてしまったのだ。
 
「……ああ、いや、すまない。不躾な問いだった。いい人ならば、いいんだ。僕は……その、きみをずっと傍らで見ていたから、父親のような気持ちになってしまったのかもしれない。少し、心配で」
 
 この時ほど、己の口下手を呪ったことはない。彼女の顔を見れずに、視線をうろつかせながら言い訳を募る僕の姿は、恐らく滑稽以外の何者でもなかっただろう。いっそ笑ってくれたら、と思いながら彼女の返答を待った。まるで断罪を待つ囚人のようで、いますぐここから立ち去ってしまいたい衝動に駆られたが。
 けれども、彼女が口にした答えは、僕の頭が瞬時に作り出した想像のどれでもなく。僕は思わず視線を彼女にうつしたのだ。
 
「──せんせいは、いいと思う?」
 
 その時の彼女の顔は、僕が覚えている限りでは見たことのない、深い夜の色をしていた。いつだって太陽のように輝いているのに、分厚い雲に隠れて月の光さえも見えない。
 どうしてそんな顔をするのかわからなくて、返事をするのも忘れて彼女を見つめた。数秒だったか、それとも数十分だったか。その間僕達はただ目を見合わせて、互いをその瞳にうつしていた。
 その時間のはじまりは僕だったが、終わりは彼女だった。
  
「……なんてね。なんでもない!」
 
 止まった時間が、ゆっくり流れ出す。息のかたまりを吐き出してやっと、自分が呼吸を止めていたことに気がづいた。
 
「あはは! せんせい、変な顔!」
「……どんな顔?」
「うーん、『心底わかんない』って顔」
「正解だ」
「ほんと? やったあ」
 
 いつもの、ミオだ。
 あまりにもいつも通りすぎて、先程のあれは幻覚なのではないかと思い始めた。けれど紛れもない現実で、あの時の彼女は僕の知らない彼女だった。
 
「せんせいは、しないの?」
 
 すっかり元通りになったミオが、机に頬杖をつきながら尋ねてきた。深い夜はなりをひそめ、かわりに太陽が再び顔を出した。
 
「なにを?」
「結婚」
「……しないさ」
「えー、どうして?」
「僕なんかと一緒になっても、その人が不幸せになるだけだよ」
 
 結婚は人生の終着点だと、顔も知らないどこかの誰かが言っていた。
 だというのに、化け物と共に生きたいと願う人間がどこにいるのだろうか。人間のなりそこないが、必死に人間の振りをしてどうにか今に至るというのに、誰かと毎日同じ家にいて同じ時間を過ごすなんて到底無理だろう。いずれ化けの皮が剥がれて、かつての両親のように僕を置いていくのだ。
 寂しさと名付けたあの感覚を、僕はもう味わいたくなどない。
 
「そんなことないよ!」
 
 机をバン、と両手で叩いて身を乗り出した彼女のおかげで、思考の泡がぱちんとはじけた。
 
「驚いた。どうしたんだい、突然」
「せんせいが変なこと言うから! あのね、ずーっと思ってたけど、せんせいは自分の評価が低すぎるんだよ」
「そんなことはないと思うけれど」
「あるの! ……ねえ、せんせい。私、ずっとせんせいと一緒にいたよ? 私が不幸せに見える?」
「……いや」
「でしょ! 私はね、せんせいと一緒にいるの、すごく楽しいよ。せんせいとお喋りするのも、せんせいのお話を読むのも大好き。せんせいと会えてよかったって、ずっと思ってるよ。だからそんなこと言わないで。私が大好きなせんせいを貶めないで」
 
 どうして。
 彼女の言葉を聞いて一番に思ったことは、疑問だった。
 誰も彼もが僕を毛嫌いし、遠巻きにして、石を投げつけてきた。僕は異質だったのだから、それは仕方の無いことなのだ。こうなってしまったのは僕のせいで、周りの人々が悪い訳では無い。僕が間違って人に生まれてきてしまった化け物だったばかりに、両親も僕を捨てざるをえなかった。全ては僕が僕であるために起こった出来事だったのだ。けれど彼女は、ミオは、何も変わらない。僕が何をしても、何を言っても、何も変わらないのだ。僕が僕であり続けても、笑ってそばにいてくれた。
 彼女の言葉全てが、僕の心をやわらかくつついてくる。僕自身が吐き出して綴ってもうんともすんともいわないそれらは、彼女の声で象られた途端に光り輝き、命が吹き込まれるのだ。
 
「どうして……どうしてミオは、僕の隣にいてくれるんだ?」
 
 僕の問いかけに、彼女はぱちくりと大きな瞳を瞬かせたあと、深くため息をついた。
 
「……ここまで言ってもわかんないかぁ」
「……?」
「ううん、いいの。それがせんせいだから、いいの。……私はね、せんせいが私を見てくれるから、隣にいたいなって思うんだ」
「見て、くれる?」
「うん。『お嬢様』でも『なにもできない女』でもない、『ミオ』として私を見てくれるのは、せんせいだけなんだ」
 
 この時の彼女は、なんだか難しいことばかりを口にしていた。
 ミオはミオなのに、それ以外にどうやって彼女を見ろというのか。そう言うと、彼女は「そういうとこだよ」と笑った。
 
「息がね、しやすいの。呼吸をするなら、せんせいの隣がいい」
「……随分難しいことを言う」
「そうだね。せんせいにもいつか、わかるよ」
 
──でも、そのいつかが来た時、私は隣にいないんだろうなあ。
 
 それならば、その『いつか』は来なくていいのに。
 彼女のつぶやきに、そんなことを思った。けれど、結論から言うとその『いつか』はやってきた。そしてその時、彼女は確かに僕の隣にはいなかったのだ。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.27 )
日時: 2020/08/31 03:14
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)

 その後、すぐにミオは結婚した。本人から直接報告を受けたわけではない。風の噂で「結婚したらしい」と聞いただけ。しかし、あの時の会話や彼女が僕の家に来なくなったことをふまえても、その噂の信憑性は十分なものだった。あの日以来、僕は彼女に会っていない。
 正直に言うと、僕は彼女がいない数ヶ月をどう過ごしていたのか、あまり覚えていない。陽の光で目を覚まし、味気ない食事を胃に詰め込んで、筆を手にして紙と向き合い、日が落ちる頃に眠りにつく。そしてまた朝を迎える。ただひたすらに繰り返されるそれらは、僕の脳が覚えていられる程意味のあるものではなかったのだ。
 けれど、今でも鮮明に覚えていることがひとつだけある。周囲の人間の目だ。いつの間にか僕は『化け物』から『人気作家』に変化したらしく、石を投げられることも水をかけられることもなくなった。それからというもの、かねてからの友人かのように気さくに接してくる人間が驚く程増えたのだ。彼らの中で、過去の僕に対する扱いはなかったことになっているらしい。
 きっとこれは、喜ばしいことなのだろう。彼らの目では、僕は人間に見えるようだったから。けれど不思議なことに、彼らの口から自分の名前を聞く度、僕は酷い不快感に襲われた。罵詈雑言を聞いていたあの頃の方が、余程よかったと思う程に。

──せんせい!
 
 鈴を転がしたような声が、頭の中で木霊する。
 彼女から呼ばれた時は、あんなにもあたたかな気持ちになったというのに。一体どうしたというのだろう。
 そしてもう一つ、不思議なことがあった。彼女と会わなくなっても、特に支障はない。勉強会にあてていた時間を執筆に費やすことが出来るのだから、むしろ仕事の面ではこれまで以上に捗るというものだ。だというのに、紙の上を滑る筆の進みはいつも以上に遅かった。何も浮かばず、言葉を綴りたいという気持ちも溢れてこなかった。僕の文を読むのが『彼ら』だと思うと、今すぐに筆を折りたくなった。彼女を思って書いた時は、時間を忘れる程だったというのに。
 彼女と会わなくなっても、特に支障はない。生きていける。
 
 けれど、どうしようもなく息がしづらかった。
 
 
 
 
 
 そんな日々を送っていた僕の元に、思いがけない客人が訪れる。雲ひとつない空に、星が瞬く夜。
 やってきたのは、ミオと彼女の婚約者だった。何よりも真っ先に目に入ったのは、彼女の姿。彼女は婚約者の彼が押す車椅子に乗せられ、目を閉じていた。その瞳が開かれる様子はない。僕の姿を映すことも、ない。彼が挨拶と自己紹介しているのを遮って、僕は尋ねた。その声が震えていたことにも気づかないくらいには、冷静ではなかった。
 
「なにが、あったんだ。彼女はどうして、こんな」
 
 動揺からうまく言葉を発せない僕とは反対に、彼は至極落ち着いた様子で説明してくれた。
 
「──病に、かかりました。私と結婚した時にはもうすでにかかっていたらしく、かなり進行しています」
「……病?」
「花咲き病を、ご存知ですか」
 
 その名前を聞いた瞬間、頭が真っ白になる。
 原因不明、治療方法も薬もない、不治の病。かかった人間を必ず死に至らしめる、殺人花。そんな病に、彼女が?
 この時の僕は、きっと酷い顔をしていたのだろう。僕を見て、彼がその整った顔立ちを悲しそうに歪めた。
 
「起きているのも辛いようで、最近はずっと横になっていたんです。恐らくもう、長くは……」
 
 目を伏せた彼に、思わず僕は怒鳴る。人生で初めて、声を荒らげた。
 
「ならどうしてこんなところに連れてきた!? 安静にしていれば、まだ!」
「これが彼女の願いだったからだ!」
 
 僕の声を遥かに上回る大きさで、彼の悲痛な叫びが響き渡る。水の膜が張られた二つの瞳が、僕を捕らえる。そこには、怒りにも似た激情が確かに込められていた。彼は決して、落ち着いてなどいなかった。堪えていたのだ。今にも溢れて零れてしまいそうな感情を、必死に。
 いつしか、彼女が言っていたことを思い出した。
 
──優しくて、かっこよくて、きっと私を大事にしてくれるんだろうなって人。
 
 ああ、本当に、君の言う通りだった。
 
「私たちは想い合って結ばれたわけじゃない! それでも彼女のことは大切に想ったし幸せにしてあげたかった! でも私じゃ駄目なんだ、貴方じゃなきゃ……!」
 
 彼の瞳から、雫が溢れる。ぼろぼろと零れるそれは、とどまることを知らないようだった。
 
「……ミオは、貴方のことを楽しそうに話してくれました。貴方から貰ったと言っていた紙の束を何度も何度も読んで、抱きしめて、眠るんです。私が、なにかしたいことはあるかと尋ねた時、必ず困った顔をして笑うんです。彼女が何も言わなくても、私にはわかった。わかってしまったんです。彼女は、貴方のそばにいたいのだと。……だから、どうか、彼女の願いを叶えてくれませんか。彼女を想っているのなら、彼女のそばにいてあげてくれませんか」
 
──私では、駄目なんです。
 
 絞り出したような声で懇願する彼に、僕はかける言葉を失った。かわりに、頭の中でミオに問いかける。
 どうして、僕なんだ。どうして、彼じゃないんだ。こんなにも、君を想ってくれているのに、どうして。僕なんかのそばにいたって、いい事などひとつもないのに。僕は君に、なにもしてあげられないのに。
 ミオはなにも答えてくれない。ただ黙って、目を瞑っている。僕達の間にしばらく沈黙が横たわった。それを破ったのは、僕の掠れた息を吸う音だった。
 
「……わかった」
 
 僕の言葉に、彼は唇を噛み締めた。そして、深く、深く、頭を下げたのだった。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.28 )
日時: 2020/11/01 22:51
名前: わらび餅 (ID: 6KYKV6YZ)


 このままミオ目が覚めなかったら、という不安に駆られながらベッドに横たわる彼女を見つめていた。時間が経つのも忘れて、その瞳が開かれるのを今か今かと待ち続けていたのだ。
 彼女がいるはずのない僕を見てなんと言うのか気にならなかったわけではないが、そんなことよりも彼女の安否が僕にとっては最も重要なことだった。目を覚ましてくれればいい。その声で「せんせい」と呼んでくれたら、もっといい。そう思いながら彼女の傍に椅子を持ってきて、そこに座り時を過ごした。そうして何時間が経っだろうか。
 
「……せ、んせ…………?」
 
 か細い声が僕の鼓膜を確かに揺らした。
 ハッとしてミオの顔を見ると、ぼんやりとした瞳が僕を見つめていた。その瞬間にこみ上げた気持ちを表す言葉を、僕は持ち合わせていない。
 ああ、ああ、よかった。本当に、よかった。思わず視界がぼやける程に、僕は心から安堵していた。生きた心地がしなかったというのは、こういう時のことを言うのだろう。もう二度と味わいたくないものだ。
 
「……夢?」
 
 まだ完全に覚醒していないのだろう。ミオが掠れた声で呟いたその言葉に、「夢ではないよ」と答えた。すると、その目がみるみるうちに見開かれていく。夢心地から帰ってきた彼女は、やっと今が現実だと気がついたようだ。そして茫然と零した声には、喜びや嬉しさといった色は感じられなかった。
 
「どうして」
「……きみの夫がここまで連れてきてくれたんだ」
「ここ、は」
「僕の家だよ」
「……あの人は?」
「……君を連れてきてすぐ戻ったよ」
 
 彼女の問いに簡潔に、淡々と答えていく。
 あの人というのが彼女の夫であることはすぐにわかった。僕の言葉にミオはゆっくりと目を伏せて、声を震わせた。
 
「……そう。そっか」
 
──あの人を、傷つけちゃったなあ。
 
 呟きは、聞こえなかったふりをした。
 
 その後再びミオは瞼を閉じて、眠りに落ちた。一瞬頭が真っ白になり血の気が引いたが、緩やかな寝息と共に上下する胸をみてほっと息を吐く。大丈夫、またすぐに目を覚ましてくれるだろう。
 彼女を見つめながら、頭の中で彼に問いかける。これが本当にミオの望みだったのか? と。僕を見た彼女は、ひとつも嬉しそうじゃなかった。きっと君を見たならば、いつものような微笑みを浮かべていただろうに。彼はなにを期待していたのだろう。こうして近くにいても出来ることなどない情けない男に。
 それでも、己の吐く息が少しも苦しくないことに気がつき、なんて浅ましいのだろうと自分の首を絞めたくなった。彼女が酷く苦しんでいるのに、隣にいられることが嬉しいだなんて。ああ、どうして病に犯されたのが僕ではなく彼女なのだろう。
 せめて彼女が穏やかな夢を見られるようにと、僕は傍で祈ることしか出来なかった。
 
 
 目を覚まし、しばらくしてまた眠り、を繰り返していたミオの傍について数日。僕はすっかり定位置となったベッドの傍で本を読んでいた。そんな僕をじっと見ていた彼女が、「せんせい」と名前を呼んだ。
 
「なんだい?」
「……どうして、隣にいてくれるの?」
 
 その質問に、ふといつかの日を思い出した。
 彼女が結婚すると言ったあの日。「どうして隣にいてくれるのか」と彼女に問うたあの日を。
 伝えなければ。同じ言葉を使うことは、文字書きとしてあまり褒められたものではないだろう。けれど、どうしても伝えたかった。
 
「──息が、しやすいんだ」
 
 はっとしたように目を瞠る彼女に、苦笑いを浮かべる。
 
「ミオの言う通りだったよ。君がいなくなってからようやく分かったんだ。僕を僕として見てくれるのは君だけで、そんな君がいない場所では酷く息がしづらかった」
 
 ミオの隣ではなくても、生きていける。食べ物が味気なくとも、僕を呼ぶ鈴のような声がなくとも、生きてはいけるのだ。
 けれど、
 
「呼吸をするなら、ミオの隣がいい。……だからどうか、傍にいさせてくれないか。傍に、いることしかできない情けない男だけれど」
 
 これはどうしようもない、僕の我儘だ。彼女に向けるこの感情の名前は分からないけれど、間違いなく僕の心が叫んだ感情だ。彼の言葉を信じ、彼女が同じことを望んでくれているのなら、愚かな僕を傍においてほしい。傍にいることを赦して欲しい。望まないのなら、彼の元へミオを戻そう。これは賭けだ。あまり、勝算のない無鉄砲なものだけれど。
 本を膝の上に置いて、ミオの手をそっと握った。すると、茫然と僕を見ていた彼女の瞳からぽろぽろと雫が零れてきて、ぎょっとしてしまった。泣くほど嫌だったのだろうか、と冷や冷やしていると、彼女の細い指が僕の手をぎゅっと掴んだ。
 
「……私も、私もずっと、せんせいのそばにいたい……!」
 
 絞り出したようなか細い声が、僕の脳を震わせた。
 
「……な、ならどうして泣いてるんだ。てっきり嫌なのかと」
「う、嬉しいから泣いてるの……! ばかぁ……!」
 
 馬鹿、だなんて初めて言われた。頭は悪くない方だと思っていたのだが。
 泣き続ける彼女にどうしていいかわからず、震える体をそっと抱き寄せた。落ち着いてくれ、と願いを込めながら浅葱色の髪を撫でた。最初は石のように固まってしまった彼女だったが、しばらく続けていると力を抜いて、体重を預けてきた。
 腕の中で鼻をすする彼女を見て、どうしてだか内蔵がぎゅっと引き絞られるような感覚に陥ったが、すぐに治ったので気にしないことにした。それよりも、ミオの髪を撫でる方が優先事項だと思い、彼女が泣き止むまでその手を止めることはなかった。そしてふと、いつか読んだ「泣きながら笑う」という文を思い出して、これが嬉し泣きか、と、また新しい感情を知った。
 無性に、ミオの笑顔が見たくなった。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.29 )
日時: 2021/01/03 00:57
名前: わらび餅 (ID: IjQZZTQr)


 ゆるやかに、終わりは近づいてきていた。音もない、穏やかな終わりがすぐそこにきていた。
 
 ベッドに横たわる彼女のそばで、本を読む。それが日課になって数週間が経ったある日、ミオがぽつりと呟いた。
 
「死んだら、どこにいくのかな」
 
 どこか夢うつつの彼女の瞳は、こちらを向いてはいなかった。どこか遠く、目には見えないどこかを見ているようだった。
 
「どうしたんだい、突然」
「んーと……天国って、あるのかなって思って」
 
 話しかけてようやくこちらを向いた瞳には、悲しみや怒りといった負の感情は浮かんでおらず、ただただ静かに凪いでいる。
 
「……どうだろう。死後のことは誰にも分からないからね」
 
 科学的根拠など何も無いにも関わらず、人々の間で信じられている死後の世界。きっと、死に怯える人間が、「死は終わりではない」と思うために、或いは、大切な人の死を受け入れるために創り出したものだと僕は考えている。昔の自分だったら「そんなものは有り得ない」と一蹴していただろうが、それはミオが望む答えではないだろう。
 故に僕は、「分からない」と答えることにした。事実そうであるし、もしかしたらこの世の神秘というものが本当にあるのかもしれない。それを目にする術は、今のところ無いけれど。
 
「私は、天国にいけるのかな」
 
 ぽつりと呟く彼女。
 もし、もしも、天国や地獄のような場所が本当にあるのだとして、彼女がどちらに逝けるかなんて明白だろう。彼女は背負うべき罪も罰もなく、まっさらに生きてきた。そんな彼女が地獄に堕ちるのなら、この世の人間は全て地獄逝きだ。
 
「いけるさ」
「ほんと?」
「うん。なにをそんなに疑うことがあるんだい? きみはなにも償うべきことなどしていないだろう」
「……そうかなあ」
 
 なぜか納得していない様子で、ミオは布団の上で手を握りしめた。
 その姿をみて、どうしたものかと思案し、頭の中でかける言葉を探す。僕は口が上手い方では決してないため、冗談や軽口の類は得意じゃない。好き好んで口にする方でもない。他人の冗談に付き合うことも、あまりしたいとは思わない程だ。けれど、彼女の笑顔を見る為ならば。
 
「そうだとも。それを言うなら僕の方がよっぽど地獄に相応しいよ」
「えっ、どうして? せんせいだってなにもしてないでしょ?」
「……実は」
「……実は?」
「──虫を、殺したことがある」
 
 至って真面目な顔を作り深刻に告げる僕を見て、ミオはぽかんと口を開けた。そうして見つめあった僕達の間に沈黙が横たわる。その沈黙を破ったのは、少し間抜けな空気が弾けた音だった。
 
「ぷっ…………」
「……」
「あはっ……せ、せんせ……」
「なんだい?」
 
 彼女の笑顔を見て、僕の口元も自然と緩む。よかった、どうやらこれはきちんと冗談として彼女に届いたようだった。
 
「それで地獄いきだったら、地獄が人でいっぱいになっちゃうよ。大変! ふふ」
「うん、確かにそうだ」
「私も小さい虫とか、ありさんとか、気づかないうちにころしちゃってるだろうし……」 
 
 生死の概念を知らない幼かった僕の行動を知らない彼女は、そう言ってくすくすと笑った。虫をかき集めて観察し、時折それらをわざと押し潰していたことは、まあ、言わなくてもいいだろう。どうか目を瞑ってくれと神様に祈った。
 ひとしきり笑ったあと、彼女は滲んだ涙を指先で拭った。
 
「はあ。こんなに笑ったの、久しぶり……」
「それはよかった。……ねえ、ミオ」
「なあに?」
「ないとは思うけれど、もし万が一、なにかの手違いで君が地獄にいってしまったとしても」
「うん」
「その時は、僕も一緒に地獄にいこう。だから……」
 
 だから。
 はっとして、途中で言葉を止めた。だから、なんだと言うんだ。安心して死んでくれ、とでも言うつもりか。死んで欲しいわけじゃない。ただ、本当にこのまま何の手立てもなく、彼女には死しか残っていないのなら、そこに少しでも安堵を抱いてほしかった。
 この時ほど、自分の口下手を憎んだことは無い。他の誰に誤解されても構わない。だが、ミオだけは、彼女だけには、僕の気持ちを正しく受け取って欲しい。
 
「だ、だから……」

 言葉に詰まった僕を見て、ミオは柔らかく微笑んだ。
 
「せんせいが来てくれるなら安心だなぁ。約束だよ?」
 
 そう言って笑う彼女に、はっとする。怖がっていたのは、きっと、僕の方だ。
 
「……ああ、ああ。約束だ。必ずいくから」
 
──だから、もう少し。もう少しこのまま、君と。
 
 いつの間にかかたく握りしめていた手を、暖かな温度が包む。彼女の手が、そっと僕のそれに重なっていた。
 
「もうひとつ、約束してもいい?」
「……なんだい?」
「私のところに来る時は、お土産を持ってきて欲しいの。せんせいの本と、せんせいが面白いって思った本。たくさん持ってきて欲しいから、たくさん書いて、たくさん読んで……おじいちゃんになったら、会いに来てね」
 
 ひどい、酷い言葉だな、と思った。まるで呪いだ、とも。
 彼女は僕に、生きろと言っているのだ。彼女がいなくなったあとも、自分で自分の命を捨てることがないように。僕は彼女のいない世界など想像出来ないし、したくもないというのに。
 けれど、きっと僕はこの約束をやぶることなどできないだろう。他でもない、彼女の願いなのだから、頷く以外の選択肢など存在しない。彼女が隣にいなくても、息をしなければいけないのだ。きっとそれは、酷く苦しいことだと思った。それでも僕は、生きなければならない。
 ああ。ひどい、酷い言葉だ。
 
「……えっ」
 
 ぎょっとしたようにミオが僕を見る。目を見開いて、信じられないような顔をしていた。
 どうしたのだろう、と首を捻ると、ふと、頬にあたたかいなにかが伝った。
 
「……せんせいが泣いてるとこ、初めて見た」
 
 歪んだ視界の中、彼女がそうぽつりと呟いたのが見えた。この頬を伝うものが、涙だというのか。拭った指先が、次から次へと溢れ出るそれで濡れる。
 僕の記憶が確かなら、この世に生まれ自我を持ってからは一度たりとも涙を流したことがなかった。両親に捨てられた時も、ごみを投げつけられたり水をかけられたりした時も、何も思わず感じず、涙なんて滲むことすらなかったというのに。
 涙が出るのは悲しい時だと、今の僕は知っている。
 
「……本当に、死んでしまうのか?」
 
 泣きながらそう尋ねる僕に、ミオはきょとんとした顔を浮かべた。恐らく僕の顔は酷く情けないものになっているだろうが、そんなもの気にしている余裕がなかった。
 こうして彼女と話をして、約束をして、やっと実感してしまったのだ。これは彼女が死んだら、なんてもしもの話ではなく、確実にやってくる近い未来の話なのだと。それはきっと、すぐそこにやってきているのだと。
 
「……うん。死んじゃうみたい。なんとなく、わかるんだ。そろそろだなあって。でもね、怖くないんだよ。せんせいが約束してくれたから、ちっとも怖くないの。ほんとだよ? むしろ、ちょっと楽しみなんだ。せんせいがどんな本を持ってきてくれるのかな、とか、天国や地獄ってどんなところだろう、とか」
「僕を、置いていくのに?」
「……そんなに悲しい?」
「悲しい。し、寂しい。こんな感情初めてだ、知りたくなかった」
「……えへへ」
「……なんで嬉しそうなんだ」
「えへへ、ないしょ。……ねえ、せんせい」
 
 
──約束、きっと守ってね。
 
 
 
 次の日の朝、彼女は目を開けることなく、そのまま息を引き取った。
 彼女の襟首からは、細い細い蔦が顔を出し、そこに小さな花を咲かせていた。
 本当に小さな、小さな花だった。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.30 )
日時: 2021/03/21 23:26
名前: わらび餅 (ID: DIefjyru)

彼女が残したものはあまりにも小さく、そしてあまりにも美しかった。
 
 ミオの葬儀は早急に執り行われた。彼女の体を引取りにきた婚約者の彼は、彼女を抱えたまま深々と頭を下げた。あの時と同じように。違うのは、腕の中の彼女がもう二度と目を覚まさないということくらいだろうか。
 葬儀に参列することはなかった。ミオの家族は、彼女がここ数週間を僕の家で過ごしていたこと自体知らされていないらしく、そもそも面識もない。例え彼女が僕のことを先生だと話していたとしても、きっといい顔はされないだろう。彼女の両親──特に母親は、話を聞くかぎり彼女が勉学に励むことを良しとしていなかったからだ。そして僕も、もし参列を促されたとして首を縦に振るかと言われれば、答えは否であった。花を手向ける気分には、とてもなれなかった。
 しかしひとつだけ、手元に残したものがある。それは、彼女が咲かせた花だった。彼女の命を吸った殺人花を、彼女が生きた証を、僕は手折ってしまった。このまま、彼女と共に灰になってしまう前に、自分のものにしてしまいたかった。彼は気づいていただろうに、何も言わずに去って行った。つくづく、誠実で、彼女に良く似合ういい青年だと、そう思う。細い瓶に、花をそっと生けた。
 ところで、花には花言葉というものがあるらしい。象徴的な意味を持たせるため、植物に与えられる言葉。この花の花言葉が知りたくて、僕は植物の図鑑を買った。そこそこ値の張るものだったが、躊躇いはほんの一欠片もなかった。
 鮮やかな青色の、小さな花弁を持つ花。名を勿忘草ワスレナグサというらしい。花言葉は、「私を忘れないで」。
 それを見た僕は、とても忘れられるものではないな、と思わず笑った。あの眩しい笑顔も、鈴を転がしたような声も、こころをくすぐる仕草も、なにもかもが脳に焼き付いて離れてくれない。しかし人の記憶力には限界があり、どんなに大事なものでもいつかは忘れてしまうのだという。故人のことで真っ先に忘れるものは、声だと言われている。僕はいつまで彼女の声を覚えていられるのだろうか。今は鮮やかに残っていても、いつかは色褪せて消えてしまうのだろうか。
 彼女を残しておきたいと思った。声も、顔も、仕草も、彼女を殺した花でさえも、残っていて欲しいと思ってしまった。だから僕は、花を手折ってしまったのだ。けれど、花もいつかは枯れる。そして記憶も薄れて、なにもかもを忘れてしまった時、「忘れないで」の言葉だけが僕のこころに刻まれているのだろう。そんな気がした。
 彼女が寝ていたベッドをそっと撫ぜる。シーツの皺ひとつひとつに彼女のぬくもりが残っている気がして、思わず眉をひそめた。未練がましく、彼女の欠片を探そうとしている自分に辟易した。いっそのこと洗濯をして全て洗い流してしまおう。そう思い、シーツを剥ぎ取るために枕をどかした。そして、はっとする。
 枕の下に、何枚かの便箋が置いてあったのだ。僕は導かれるように手を伸ばし、その便箋に触れた。その手が少し震えていたのは、どうしてだろうか。
 拙い形をした文字が、そこには綴られていた。書き出しは、こうだった。
──せんせいへ
 体の奥底から湧いて出てきた、名称不明の感情をため息とともに口から吐き出す。便箋を持ったまま立ち尽くした僕は、続く文字に目を走らせた。

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.31 )
日時: 2021/03/21 23:29
名前: わらび餅 (ID: DIefjyru)

せんせいへ
 
 せんせいは、この紙を見つけられたでしょうか。わたしはまだ、隠し場所にとても迷っています。きっと未来のわたしがとってもいい場所に隠してくれることでしょう。こういうのを、手紙っていうそうです。見つけてくれたらうれしいけれど、見つからなくてもいいかな。ちょっと恥ずかしいし!
 せんせいが教えてくれた文字を、せっかくだから書いてみることにしました。せんせいがわたしのために書いてくれたお話が、とってもうれしかったから、せんせいにも喜んでほしいな。でもやっぱりむずかしいです。すぐにつかれてしまいます。せんせいはやっぱりすごいんだなって思いました。それで、なにを書こうかずっと悩んでいたんだけど、きっと最後だと思うから、いままで言えなかったことを書こうと思います。
 本当は、せんせいが心配です。いつもちゃんとご飯を食べないし、自分のことを大切にしてくれないので、だれかがせんせいのそばにいてくれたらいいなって思います。やくそくはぜったいにわすれないこと! 破ったら針千本!
 本当は、わたしは、恋のお話がそんなに好きじゃありません。魔法がでてきて、わくわくするような冒険のお話のほうが、ずっと好きでした。お話に出てくる王子様がすっごくかっこいいって聞いたから、読んでみたいって思ったの。せんせいよりかっこいいひとがいるのかなって思ったから。でも、やっぱり、せんせいがいちばんかっこよかったです。
 本当は、死んじゃうのがとっても怖かったです。病気になったときも怖かった。痛かったらやだなって、ずっとそればっかり考えていました。あと、結婚してくれたのに、ちゃんとお嫁さんになれなくてごめんなさいって、あやまれなかった。せんせいと、もっといっしょにいたかった。でも、天国でも地獄でも、せんせいが会いにきてくれるって言ってくれたから、もうちっとも怖くないです。せんせいも、そうだといいな。ちゃんと待ってるので、あんまりはやくこないでください。おじいちゃんになったらきてください!
 
 本当は、わたし、ずっとせんせいのことが

Re: 死んで花実が咲くものか ( No.32 )
日時: 2021/04/16 18:12
名前: わらび餅 (ID: Jf2bTTLH)


「──続きは、書かれていなかった。手紙を読んだ後、僕は、すぐにこの家に越してきた。ここは、かつて両親が別荘にと建てた家でね。もう使っていないから勝手に借りているんだ」
 
 そう淡々と語る作家さんの瞳は、微かに揺れていた。まるでひとつのお話を読み終えたような気がして、私は思わず息を吐いた。
 
「書かなかったのか、それとも書けなかったのかはわからないが、僕にはその続きがどういうものなのか想像がついたよ。僕と、似たようなものを持ってくれていたのだと思う。ミオがあの手紙を、僕の目を盗んで書いていたと思うと……ひどく、やるせない気持ちになった」
 
 ふたりとも、同じ想いだったのに。
 作家さんのやるせなさや後悔がひしひしと伝わって、ぎゅっと拳を握った。もし、彼女が花咲き病にかからなかったら。もし、結婚しなかったら。もし、どちらかが想いを伝えていたら。そんないくつもの「もし」が頭の中を巡っては消えていく。考えたってどうにもならないことはわかっているのに、どうしても願ってしまう。ふたりが一緒にいる未来を、想像してしまう。
 
「噂を覚えているかな? 僕が恋人の死に涙ひとつ流さず、挙句の果てに話のネタにした、と」
 
 こくり、と頷く。それを彼が肯定したことも、はっきりと覚えている。けれど、話を聞く限りではそんな人には思えなかった。一体どうしてそんな噂が流れ出したのだろう。
 
「涙ひとつ流さなかったのは本当だ。彼女が亡くなる前にみっともなく散々泣いて、涙なんかでなかったんだ。それどころか、彼女の手紙を読んでからは安心すらした。僕は、もう死を怖がらなくていいのだから。いつ、どんな最期を迎えても、きっと僕は嬉しく思うだろう。……彼女には、怒られてしまうかもしれないけれど」
 
 そう微笑む作家さんの顔は、どこまでも穏やかで、すこし寂しそうに見えた。
 
「あの噂で間違っていることは、僕たちは恋人ではなかったことと、話のネタにしたことだ。僕は、僕自身の物語しか書くことが出来ない。感情や行動に名前をつけて、それを書き出してようやく、僕は僕に起きたことを正しく受け取ることができる。そうやって、感情を吐き出していたんだ。だから、今回のことも書き起こそうとした。噂で言う、話のネタにしようとね。けれど、駄目だったんだ」
「だめ、だった?」
「なにも、なにも書けないんだ。培った言葉をどれだけ並べても、彼女への想いを表現することはできなかった。愛も恋も慕情も、ただ紙の上に並べただけの記号にしかならなかった。唯一、命が宿った言葉は、たった四文字だった」
 
──会いたい。
 
 ただ、それだけだったと彼は笑った。だから、今はなにも新しい本を出していないのだという。
 
「実は、ここに越してきたのは、噂から逃げるためなんだ」
「……ほとんど出任せなんだから、逃げなくたってよかったのに」
「そう思えたらよかったのだけれど。僕は、怖くなったんだ。人々が皆、僕のこれを『愛ではない』と言うから。酷い男だと、そう言うから、耳を塞ぎたくなったんだ。涙を流せなかったのは、愛していない証拠だったんじゃないか。彼女への想いを『愛』と表せないのは、本当は愛していなかったんじゃないのかと、怖くなった」
 
 石を投げられても水をかけられても、心を動かすことのなかった彼が、誰かの目を気にしている。気にして、怖がっている。彼は自身のことを「化け物」だと言ったけれど、もうきっと、人になったのだ。
 だから私がこの人にかけられる言葉は、ほんの少しだけだ。
 
「そんなことない。その気持ちは、愛だと思う」
「……そう、だろうか」
「私も……私も、恋とか、愛とか、よく分からないけど。でも、大切な人はいる。その人への思いは言葉じゃ表せなくて、私も、ずっと伝えられなかったから」
 
 あの子とは、ずっと一緒にいるものだと思っていた。私が花咲き病にかかることも、村を追われることも、想像すらしなかった。贅沢ではないご飯を食べて、薄い布にくるまって、朝に『おはよう』と言い合う日々は、ずっと続くのだと思っていた。けれど、そうではなかった。当たり前だったものがなくなってしまうのは、いつだって突然なのかもしれない。そうして当たり前じゃなくなって、ようやく気づくのだ。あの日々が、どれだけ大切だったかを。
 村の人々に向けられた目を、今でもはっきりと思い出すことが出来る。そこには、あたたかなものなど一欠片もなかった。両親は、結局私の親ではなくあの子の親でしかない、ただの他人だったのだ。私の家族は、あの子だけだった。
 私はあの子に、与えられてばかりだった。食事の仕方も、着替え方も、たくさんの知識も、ありったけのあたたかい愛も。ひとつだって、あの子に返したことがなかった。だからずっと、後悔している。
 あの日からずっと、ただひたすらに、あの子に会いたい。
 
「愛じゃないって言われて怖くなるくらい、作家さんはミオさんのこと、大切だったんだ。だからきっと、それは愛でしょ?」
 
 私の言葉に目を丸くした作家さんは、しばらくしてそのまなじりを緩めた。そして、ぽつりと呟く。
 
「──そう、そうか。僕はちゃんと、あの子を愛しているのか」
 
 よかった、と零す彼は、なんだか今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 
「ありがとう、お嬢さん。少し……楽になった気がする。過去が変わるわけではないが、それでも。僕はずっと、誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。僕の想いは、間違っていないのだと」
「……うん」
「君は、大切な人には、まだ会えるのかい?」
「……わからない」
「そうか。……きっと、君の想いも、正しく愛だ。例え正しくなくても、間違いなどではない。それが分からず、ここまで逃げてきてしまった僕のようには、なってくれるなよ」
 
 躊躇いながらも小さく頷くと、作家さんは満足そうに微笑んだ。
 
「さて、随分長いこと話し込んでしまったね。お礼といってはなんだが、君に渡したい物がある」
 
 その言葉に、思わず首を傾げる。なんだろう、と思っていると、作家さんは「少し待っていてくれ」と本棚の方へと歩いていった。
 しばらくして戻ってきた彼は、紙の束を抱えていた。
 
「これは、僕が初めて書いた話だ。ここにある唯一の僕の、本……とは言えない、紙の束だけれど。ミオのために書いて、彼女にあげたものだよ。彼女が亡くなったあと、引き取ったんだ。僕は、僕の本に価値を見いだせないけれど、これだけは火にくべる気にならなくてね」
「え……」
「僕の本を読んでみたいと言っていただろう? 生憎、これしか手元に残していなくてね。不出来なものだから読むに耐えないかもしれないが、君さえよかったら、貰ってはくれないだろうか」
「で、でも、大切なものなんじゃ」
「僕が持っていても腐らせてしまうだけだからね。それに……なぜだろう、君に読んでもらいたいと、そう思ったんだ。誰にも読んでもらえない本なんて、可哀想だろう」
 
 差し出されたそれを、恐る恐る受け取った。
 本とは言えない紙の束の表紙は、真っ白だった。題名のない、作家さんとミオさんの物語。なんだか心臓がぎゅっと引き絞られた気がして、思わず紙の束ごと自分を抱きしめた。
 そこで、はっとする。私は読むことが出来ないのだ。文字は簡単なものしかわからない。そう口にしようとする前に、作家さんが穏やかな声色で言った。
 
「僕が教えると言ったけれど……読み方は、ヒガンに教えてもらうといい。彼も読み書きはできるから」
「え……」
「きっと、その方がいいだろう。そうして、一緒に彼のことも知るといい。君たちがどうして共にいるのか、なんて無粋なことは聞かないけれど、見たところまだ深い仲ではないのだろう? お互いを知る良い機会にもなる。僕も花師としての彼しか知らないから、詳しいことは分からないけれど」
 
 一度言葉を切った作家さんは、一瞬なにかを考えるように目を伏せた。
 
「あまり、良い噂を聞かないんだ。君は賢いからそういった噂を鵜呑みにするとは思っていないが、念の為に言っておこう。君は、君が信じたいものを信じるといい。それに、彼といればおのずと事実は見えてくるはずだ」
 
 そう言われて、お兄さんの顔が頭に浮かぶ。私は、あの人のことを何も知らない。知っていることといえば、死んで大切な人に逢いたいと思っていることと、その手がとてもあたたかいことだけ。過去に何があったのか、どんな噂が流れているのか、私は何一つ知らないのだ。
 本当は、知らないままの方がいい。利用し利用される関係に、そんなもの必要ない。だというのに、私は作家さんの提案を否定することが出来なかった。
 
「……ヒガンお兄さんって、どんな人だと思う?」
 
 気がつけば、そんな言葉が零れていた。聞いたところでなにがあるわけでもない。けれど、なんとなく、この人の嘘偽りのない言葉が聞きたかった。
 
「僕? そうだな……彼は、寂しいひと、だと思う」
 
──からっぽだった頃の僕に、少し、似ている。
 
 
 
 
 
 
 
 
「本? その紙の束が?」
 
 あの後、書斎を出てお兄さんの元へ戻ると、彼はソファで微かな寝息をたてながら眠っていた。退屈にさせてしまったことを申し訳なく思いながらも、その体を揺さぶり起こし、作家さんの屋敷を後にした。
 屋敷の前では、一台の馬車が止まっていた。来る時に乗ったものとは違う、随分と立派な馬車だ。御者さんも小綺麗な身なりをしていて、出てきた私たちを目にするとすぐに恭しく一礼した。そんな御者さんに軽く会釈をして、お兄さんは私の手を取り馬車へと載せてくれた。
 馬車の中で、作家さんがくれた本について話すと、彼は少し目を丸くした。
 
「随分と気に入られたんだな。あの人がそこまで話すなんて」
「お兄さんは、知ってたの?」
「あの人のことかい? 花の手入れを依頼された時に大まかなことは聞いたけれど。……変わった人だっただろう? 本以外は全くと言っていいほど物を持たなくて、他人ならまだしも、自分のことですら無頓着でさ。本当、いつか飢え死にするんじゃないかと思うよ」
「でも、やさしい人だった」 
「まあ、悪い人ではないことは確かだな」
「それで、お兄さんに読み方を教えてもらうといって言われた。……読める?」

 そう言いながら本を渡すと、お兄さんは「勝手なことを……」とぼやきながらそれをぺらぺらとめくりだした。
 
「ある程度は。昔、ハイル先生に叩き込まれたからなあ」
「そうなんだ」
「うん。俺とあの人、結構長い付き合いでさ。一時は一緒に暮らしてたんだけど……ってそんなのはどうでもいいか。これ、今読みたい?」
「……読んでくれるの?」
「次の目的地まで少し時間があるし、いいよ。ええと、書き出しは……」
 
 お兄さんの少し低い声が、作家さんの言葉を紡ぐ。
 
 
 
──からっぽな人生だった。
 
 
 
 
 
 
 一輪目『勿忘草』
 花言葉『私を忘れないで』