ダーク・ファンタジー小説
- Re: シオンの彼方 ( No.5 )
- 日時: 2017/01/03 19:18
- 名前: あんず ◆zaJDvpDzf6 (ID: XWWipvtL)
Episode2 アセビ
#1
「市場へ?」
春先といえど早朝は目が覚めるように冷たい空気が漂う。昨晩の夢のような夜は明け、薄暗い森には少しの声でも響いて聞こえた。
肩にかけた毛布をかき集めるように抱きしめても、肌を刺すようなツンとした冷気はなくならない。ぼろぼろになってしまったドレスの代わりに、死神である彼——アルベルトから与えられた男物の麻の衣服の裾を整える。
昨晩はとりあえず、と近くにあった森の泉の辺りで眠りについた。地に転がって寝るなど城では考えられなかったけれど、これでもかなりやんちゃな子供だった私としてはそこまでの苦でもなかった。いや、苦を感じるまでもなく極限の疲れで眠ってしまっただけなのかもしれない。
「少したてば、この近くの朝市が開く。お前は衣服も何も持っていないだろう」
「……私はお金も持っていないし、何よりあなたから貰ったこの服があるわ」
あまり人に会いたくない、そんな身勝手な言葉を飲み込む。あくまで私はこの男に付いて行くだけなのだから、金銭が絡むようなことは如何なものかと思ったのもまた事実だった。
その言葉に彼は呆れたようにこちらを見る。
「お前は俺に付いて行くだけ、と言ったな。それなら俺は自分の生活を変えようとは思わないし、何よりお前が不審な格好をしていれば連れ立つ俺まで疑われるだろう。付いて来る以上、お前のものを買うことになるのは避けられない」
それくらい知っていろ、というような胡乱げな視線。表情は変わらなくとも、彼は瞳で物を語るらしい。すっと細められた瞳は朝日の下で深い紫に濡れていた。
「私にものを買うことは『干渉』ではないの?」
そう問えば、彼は確かに眉根をよせた。まるで少し痛いところを突かれた、というような。
「……俺は俺の生活を変えない。お前が自分で物を選び、それを買うのが俺の金であるだけだ」
アルベルトは立ち上がると泉の方の茂みへ足を向けた。その背中が、それ以上の詮索を受け付けないように見えて口を噤む。
やはり私は一人ではどうにもならないのだ。死神と人の干渉は禁じられている。いくら付いて行くだけと言っても、生活をともにすること自体彼にとっては際どいものなのかもしれない。
だとしても。彼にとってはギリギリのものだとしても、今の私にはどうしようもないのだった。自惚れるわけではないが、王城という箱庭で育った私は、きっと自分でも驚くほど何も知らないに違いない。たとえば城にいた頃は、ほとんどのことを侍女たちが、
「……っ」
王城での暮らしを瞼の裏に描こうとしたところで、鈍い痛みが頭に走った。それ以上考えることを脳そのものが拒む。何故、何故?
「おい」
上からの声にハッとして振り向くと、アルベルトがこちらを見下ろしていた。彼はすでに身支度を整え、黒の革鞄を手にしていた。
「行くぞ」
「……ええ」
鈍い痛みはいつの間にか引いてゆく。ぼんやりとした疑問と痛みを振り払うように、早足で彼を追いかけた。
***
たどり着いた市場は活気に包まれていた。
静かな森から少し足を伸ばせば、人々のざわめくテント街が目に入った。まるで怒号にも似た多くの商人達の呼び込みの声。並ぶものは数え切れないほどで、色の洪水のように様々なものが入り乱れる。
「賑やかね……」
一目見てわかる活気に思わず呟いた。城下町へのお忍びでこういう場所に来たことはあるが、それもあってか親しみやすく、懐かしい。
「王都リコルとも近い町だからな」
彼はそう言うと私の格好を上から下まで見た。おかしい所がないことを確認すると、市場の喧騒へ足を進めていく。頭からすっぽり被った灰色のローブの上からでは、ぶかぶかの男物の服は見えないだろう。
まだ王都の中だと思っていたけれど、どうやらすでに抜けていたらしい。王城を中心に広がる王都リコルは意外にも広い。王都の近くとはいえ、城からはかなり離れているはずだった。