ダーク・ファンタジー小説
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.53 )
- 日時: 2017/08/23 21:08
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
天体歴1947年、クロレア帝国航空隊初の女性戦闘機パイロットになったナスカ・ルルー。数々の戦果を挙げた事で有名であり後の女性パイロットらの憧れの女英雄である。
プロローグ
天体暦1931年秋、彼女は帝国領の最南端に位置するファンクションという街の領主である名門貴族ルルー家に長女として生まれる。母親によく似て美しい容姿をしていた。ナスカは娘を愛してやまない父、厳しいが美人な母、そして心優しい兄と共にとても幸せな子供時代を過ごした。5歳の時には妹も誕生し、恵まれた環境の中でナスカはすくすくと育っていった。
後に当主になるであろう兄・ヴェルナーとナスカらは母親が違った。しかしヴェルナーは、そんな事は気にしない優しく常にポジティブな青年だった。彼はかつて戦闘機乗りになりたかった。だが訓練中の事故で足を痛めて夢を諦めた。眠れない夜にはいつも昔の話を語り聞かせてくれる、素敵なお兄さんだった。
そんな事もありナスカは幼い頃から戦闘機に興味に持っていたが、特別その関係の仕事になりたいと思った事はなかった。戦闘機など自分の生活とは無縁のものだと当たり前に考えていた。一度父に戦闘機の話をした時、「物騒な事を教えるな!」とヴェルナーが怒られたので、ナスカはそれ以来誰にも話さなくなった。兄と妹だけの秘密の話題になったのである。
そして時は転機の1945年へ。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.54 )
- 日時: 2017/08/23 21:09
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
episode.1
「転機は突然訪れる」
天体暦1945年春、クロレア帝国は少し離れたリボソ国と戦争を始めるが、まだそれほど被害は及ばず、ファンクションは相変わらず平和だった。空襲も無かったし、それまでとほぼ変わらない時間が流れていた。
そんな夏のある日の事である。ナスカは妹・リリーと日課の海岸を散歩して家に帰ってくる。するといつも迎えてくれる使用人が出てこず、やけに静かで不思議な感じがした。妙に暗く目に映り、嫌な予感がナスカを襲う。少しして、床に転がった死にかけの警備員を見付ける。
「一体、何があったの!?」
慌てて青ざめながら問い掛けるナスカの首筋に、冷たい物が触れる。気付かぬ内に背後に立っていた覆面をした男は銃口を首に当てたまま言った。
「大人しく従え。さもなくば撃ち殺すぞ」
ナスカとリリーはその場で拘束され、そのまま大広間に連れて行かれた。大広間は地獄絵図の様だった。ナスカは恐怖というものに近い得体の知れない感覚に襲われ口を手で押さえる。何の罪も無い使用人らの無残な死体が散らばりカーペットは血にまみれている。その中にはかつて母だった物も混ざっていた。
「何でこんな事をしたの!」
強気に出たナスカを男は蹴り飛ばす。ナスカは地面に横たわり腹を押さえて呻いた。
「ナスカ……」
背の方から父の声がして恐る恐る眼球だけを動かす。連れて来られたその姿を見て絶句した。
「お父様っ!?」
途端にリリーが失神する。ナスカも吐き気に襲われるが必死に堪える。最後の力で歩いていた父は、目の前で喉を切られて絶命した。
「大人しくしないとお前もこうなるのだ。従うならば、命はまだ奪わない」
気絶したリリーが連れて行かれる。ナスカは抵抗した。
「両方嫌よ!ちょっと、リリーを返して!」
男は目を爛々と輝かせる。
「ならば死刑だぞ!」
男が叫びながらナイフを振り上げた。もう駄目だと諦めかけた瞬間、車椅子が飛んできて男に激突する。その隙にナスカはなんとか走って男から離れた。
「ナスカ!こっちへ!」
ヴェルナーが壁にもたれるように立ちながら叫んだのを聞き、ナスカはその方向へ駆けた。蹴られた所がまだ痛いが、無我夢中の時は痛みなど微塵も感じなかった。ヴェルナーはこんな時でも「必ず守る」と笑顔を浮かべる。足が悪いせいで壁に添ってしか歩けないので本来なら不安なはずだが、なぜか安心感を持った。
裏庭に抜けると小型のヘリコプターが二台停止していて、その脇には見知らぬ男性が二人立っている。
「無事か、ヴェルナー!」
片方の金髪で逞しい青年が駆け寄ってくる。
「兄さんの知り合い?」
ヴェルナーは問いに頷き、ナスカを青年に渡す。
「救出要請を受けて来たマルクス。あっちはレイン」
後ろにいた黒髪で根の暗そうな細い男は頭を下げた。
「あ、どうも。レインです」
青年は簡単に紹介を兼ねた挨拶をし、ヘリコプターに乗る様に促した。ナスカが指示通り乗り込もうとした瞬間、先程の覆面をした男達が銃を持って裏庭に現れる。
「逃がすな、捕まえろ!」
男達は叫び、やみくもに銃を乱射した。
「伏せて!」
ナスカは声を聞き反射的に隠れたが、割れた破片が飛散し、頬を小さく切った。マルクスは銃弾の嵐を避けると素早く乗り込みヘリコプターを離陸させる。
「え、えっ?兄さんは?」
慌ててナスカは尋ねた。ヴェルナーはまだヘリの陰に座り込みんでいた。銃を抱えている。
「レインのヘリで後から来るから大丈夫だよ。それに彼は男、大丈夫だ」
素っ気ない態度に腹を立てたナスカは強く言い放つ。
「兄さんは足が悪くて、ちゃんと歩けもしないのよ!なのに銃撃戦をさせるなんて」
するとマルクスは冷たい視線を向けた。
「なら降りるか?」
ナスカは彼の恐ろしい目付きに顔をひきつらせる。
「あそこにいて君に何が出来る?足を引っ張るだけだ」
謝るしかなかった。
「……ごめんなさい。ついカッとして」
「いや、分かれば構わない。レインが一緒にいれば必ず守られるから信じなさい」
ナスカはその言葉を信じることにした。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.55 )
- 日時: 2017/08/23 21:10
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
この日を境に生活は大きく変わった。今までの幸せな暮らしは幻影のように消えた。両親を亡くし、妹を連れ去られ、一人になってしまったナスカは、航空隊訓練所に保護される事となる。兄の安否は分からぬまま、長い夜が過ぎた。
翌日になってから昨日のヴェルナーらについての話を聞いた。ヴェルナーは意識を失っていたが、病院に搬送され回復の見通しが立ったと言う。一方でレインはその日の夕刻、運ばれた病院で息を引き取ったらしい。しかし、ショックで心がおかしくなっていたナスカは悲しみなど欠片も感じず、そこにあるのは空白だけだった。
時が経つにつれ、ナスカは徐々に日常を取り戻していった。航空隊訓練所にはヴェルナーの旧友が結構な数いたため、ナスカを気にしてくれる人は多くいた。仕事時間前に花を持ってきてくれる輸送機パイロットの女性サラや、美味しい食事を作ってくれる食堂のお爺さん料理長とは特に仲良くなった。接する機会が多かったからだろう。
そうしてナスカが14歳を迎えても、回復の見通しが立っていたはずのヴェルナーはあの日のままだった。ずっと僅かも動かず病院の病室で横たわっているだけ。そして数回に渡って行われたリリーの救出作戦もやがて打ち切りとなった。
ある朝、ナスカは花を持ってきたサラに尋ねる。
「サラさんは戦闘機乗りではありませんよね?」
花瓶の花を入れ替えていたサラは不思議そうな顔で首を傾げた。
「ええ、私は輸送機パイロットよ。突然どうしたの」
ナスカは疑問に思っていた事を聞いてみる。
「女の人は戦闘機パイロットになれないんですか?」
サラは突然聞かれた質問の真意が分からず戸惑っている様子だった。
「不可能ではないけど、少なくともここの航空隊にはいない。体に負担がかかるから女性は乗らない方が良いらしいわ」
それに対してナスカはもう一度確認する。
「では不可能ではないんですね」
ナスカは力が欲しかった。大切な人を守る強い力が。
「私でも今からなれるでしょうか?」
サラは最初冗談だと思っていたようだが、ナスカの目が真剣なのを見て冗談ではないと理解した顔をした。(賛成する気にはならないわね。今までに酷い目に合ったパイロットを何人も見てきた。それに、訓練中の事故だって多い。何より殺し合いを職にするというのだから、可愛い女の子がするべき仕事ではないわ……)
「パイロットになりたいの?なら戦闘機ではなく他の……」
サラはナスカの気持ちも考慮して厳しくならない様に注意しながら返す。
「私みたいな輸送機とかの方が良くはない?関連する職業なら整備士とかもあるわ。何より戦闘機パイロットは訓練にしても他より厳しいし大変だわ」
ナスカは黙り込みしばらく難しい表情をして、それから強く訴えた。
「訓練だけでも受けさせていただけませんか。女だから不可能なんて事はないはず……!」
サラはその強い訴えに心を打たれた。
(確かに前例は無い。でももしかしたら……この子ならなれるかもしれない。理由はよく分からないけど、そんな気がする)
だからこそ、サラは頷いた。
「一度だけ話をしてみるわ」
その瞬間ナスカの表情が夏の太陽の様に眩しく輝く。初めて目にする希望に満ちた明るい顔だった。
「但し、それで断られたら諦めてね」
ナスカは迷いなく頷く。
サラはこの時微かに感じていた。彼女はきっとこの戦争の鍵になるだろう、と。
だが一週間後に届いたのは悪い返事だった。
【やる気には感謝します。しかし、貴女はまだ若い上に女性です。他に進む道はいくらでもあるでしょう。なので別の職業をお探し下さい】
この時の航空隊には、実戦に出られるかどうか分からないそれも女の子を訓練している余裕は無かった。少しでも戦力が欲しかったのである。
遠回しに拒まれたナスカは呆れて溜め息を吐いた。この程度で諦める気は更々無いが困り果てた。どこへ行けば、何をすれば良いのだろう、と考えるが何も思いつかず、時間だけが過ぎていく。
それからしばらく、毎日兄のお見舞いに行き、その他の時間は窓から訓練の様子を眺める、という日々が続いた。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.56 )
- 日時: 2017/08/23 21:12
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
episode.2
「出会いが起こす奇跡」
天体暦1946年・夏。
訓練所の掃除係となりそこそこ平穏な生活をしていたナスカの元に、一人の男性が訪ねて来る。
「始めまして、突然訪ねてしまってすみません。何でもパイロットになりたいとか。それを聞きまして、今日はこうして来させて頂いたのです」
ナスカはさっぱり知らなかったが、彼は『クロレアの閃光』という異名を持つ、エアハルト・アードラーという名の知れた戦闘機パイロットらしい。しかしそんな風には見えないきっちりした身形であった。黒とも茶色ともとれる曖昧な焦げ茶色の髪。鼻筋が通り艶はあるが薄い唇が凛々しさを醸し出す。鋭く切れ長な眼も印象的だ。
「もし良ければ僕の所へ来ませんか?航空隊は養成する暇が無く無理ということなので、ならばこちらに来ていただきたいと思いまして」
夢のような話ではあるが余りに唐突過ぎてナスカは怪しむ。こんな都合の良い話に裏が無いはずがないと思ったのだ。
「ちょっと待って下さい。まずどうして私が志望した事を知っているのですか。突然なので話が全く分かりません」
するとエアハルトは笑みを浮かべた。笑みが浮かぶと目尻が下がり、さっきまでとは違った人懐こい雰囲気を出してくる。
「あ、すみません。怪しいとお思いですね?説明不足でした」
それから彼は穏やかにここに至る経緯を説明した。
「実を言いますとね、航空隊の方からこういう子がいるんだけど育ててやってくれないかと話を受けまして。ですからすっかりそちらもご存じなのだと……」
それでもまだ半信半疑なナスカに対して彼は言う。
「そういえば、ヴェルナーの妹さんだそうですね」
ナスカはその話題には勢いよく食い付いた。
「兄さんを知っているの!?」
直前までの怪しんでいた気持ちが嘘みたいに晴れていく。
「……と言いましても随分会っていないのですけどね」
「どうして?」
純粋に期待している目で質問してくるナスカを見て、エアハルトは少し答えにくそうに間を開けてから答える。
「ヴェルナーが訓練中の事故で怪我をしたのは僕の責任です。責任者である僕がもっと早くに動いたなら彼の足も治ったかもしれなかった……でも!ご安心下さい。もう同じ失敗は絶対にしませんから!なので……」
そういうことか。ナスカはよく分かった。
「分かりました」
そう遮り、ナスカは笑顔を浮かべる。
「お誘いありがとう。行かせて頂きます」
その日から、ナスカの日常は再び動き始めるのだった。
一週間後、ナスカは戦争下でも数本だけ残っている電車を乗り継ぎ、エアハルトがいるという第二航空隊待機所へと向かった。訓練所からタブという街まで約一時間程の時間を要する。
タブの駅で電車を降りるといきなり広がる青い世界にナスカは圧倒された。高い空と広大な海が、視界を一面青の世界に染めている。人通りは少ない。微かに不安を抱きながらも貰った入所許可書の地図を頼りに約束の場所へ向かう事にした。太陽は眩しく輝いているが、爽やかな風が吹いているせいかそれほど暑くは感じなかった。
五分ぐらい歩くと高い鉄の門に辿り着く。門の脇の壁には銀のプレートがついていて、【第二航空隊・海兵隊待機所】の名が彫られている。地図と見比べて間違いないかどうか何度か確認してから、インターホンらしきボタンを恐る恐る押してみた。ナスカは緊張気味に返答を待つが、なかなか出てこないのが余計に彼女を緊張させた。
しばらくそのまま待っていると、長い沈黙を破り声が聞こえてくる。
『お待たせしました。おはようございます。どちら様ですか?』
少し籠ったハスキーボイスだった。聞き慣れない声に怯まずナスカはハッキリと答える。
「ナスカ・ルルーという者です。エアハルトさんと約束しておりまして、会うために参りました」
ハスキーボイスの男性は怪訝な声色で確認する。
『……エアハルト?失礼ですがパスの確認をお願いします』
冷やかに告げられたナスカは戸惑いながら仕方が無いので尋ねてみる。
「パスって何ですか?」
すると男性は説明する。
『先程約束だとおっしゃいましたよね。ならば、入所許可書をお持ちの筈です』
ナスカは心を落ち着けて手元にある入所許可書を見回す。するとそれらしきものが見付かった。ややこしいので一つ一つ丁寧に読み上げていく。
「えぇと……これですかね。では、nu5o-bqas6-e127g-jxbc……です」
パスを読み上げ終えると、鉄の門は自動的に開いた。まさか自動式だったとは、とナスカは驚いた。
『どうぞ。お入り下さい』
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.57 )
- 日時: 2017/08/23 21:13
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
ナスカが門を通り過ぎて敷地内へ入ると、門は再びきっちりと閉まった。そこからは太く果てしないコンクリートの道が広がっていた。重々しいコンクリートのグレーと爽やかな海の青という二色のコントラストが凄い。二階建ての建物がある以外はひたすら広大な地面が続いている。ナスカは緊張しながらもその建物に入ってみる。自動ドアが迎えてくれた。中に入っていくと、カウンターの所に座っていた男性が立ち上がりナスカに声をかけてくる。
「先程の方ですね?」
籠った声でさっきの男性だと分かった。カウンターの外へ出てきた男性に深くお辞儀をされナスカは困惑しながらもお辞儀をし返した、その時だ。
「お嬢さん!」
エアハルトが建物の外から歩いてきた。この前に会った時とは違い長いコートを着ている。耳には黒の目立たないイヤホンをしていた。
「お久し振り、今日到着でしたね。部屋へ案内しましょう。そこの君、201の鍵!」
ナスカに対して丁寧で柔らかな物腰だっただけに、男性に向けて鋭く言い放ったのが意外だった。言われた男性が狼狽えるでもなく普通に鍵を手渡している所を見ると特別な事ではないのだろう。エアハルトは鍵を受け取ると「ありがとう」とあっさり礼を述べナスカの方に向き直る。案外さっぱりしていた。
「取り敢えず荷物を置きに行きましょうか。部屋まで案内します」
ナスカは彼に連れられて二階へ上がり部屋まで誘導してもらう。ドアの向こうに広がっていたのは狭く質素な小部屋だった。壁は全て白で小ダンスとちゃぶ台だけが設置されている。
「もうここしか空いていなくて……布団はまた夜に係の者がお持ちしますから。これからはどうします?休憩されても……」
ナスカは心のうきうきを静められそうになかったので、時間を有効活用しようと考えた。
「見学させて頂いても構わない?あっ。でしょうか」
思わずため口で喋ってしまい後から丁寧語を付け足したが彼は嫌な顔一つせずに頷く。
「えぇ、構いませんよ。折角ですから案内しましょう」
その時、先程のハスキーボイスの男性が階段を駆け上がってきた。
「アードラーさん!出撃命令が出ました!」
エアハルトは面倒臭そうな顔をする。
「いや、ここまで言いにこなくていいでしょ?こっちで連絡してくれよ」
彼が耳のイヤホンを指差すと男性は謝った。
「ごめんなさい、お嬢さん。ちょっと行ってきます。君!彼女と話してあげて」
男性が妙に勇ましく敬礼をすると、エアハルトは早歩きで階段を降りていった。
「あ、えっと……もうすぐ窓からアードラーさんの戦闘機が離陸するのが見えます!」
部屋の中を指差したので、ナスカは奥にある窓の方に向かった。しばらくして一台の黒い機体が飛び立った。
「あの黒いやつね!?」
実際に目にして興奮を抑えられずに声を出すと、男性は静かな動作で頷く。
「えぇ。そうです」
窓から乗り出す様に広大な空を眺めた。
「それにしても一瞬で出発したの?行動が素早いわね」
その後にも続々と数機が飛び立っていく。その轟音がナスカの心を興奮させた。
「コートの中に飛行服を着ていたのです。アードラーさんは出撃命令が多いので普段は飛行服で過ごされてますが、お客さんをお迎えするのにそのままでは悪いと思われたのかと。因みに着用なさっていたのは夏用のコートですから、薄手です」
恐るべき丁寧さで詳しく説明してくれた。そこまで説明する必要があるか?というレベルだ。
「それで……この後はどう致しましょうか?」
男性の問いにナスカは笑顔で答える。
「先に貴方の名前を聞きたいわ」
その希望に彼は答えた。
「名前、ですか?ああ、まだ自己紹介をしていませんでしたっけ。ベルデ・ミセルです。一階のカウンターで受付をしていまして、一応警備担当です。どうぞ宜しく」
棒読みのハスキーボイスにもそろそろ慣れてきた。無愛想に聞こえるのは多分機嫌が悪いのではなくそういう人なのだろう。ナスカにしてみれば、テンションが高過ぎる人よりずっと良かった。活発すぎる人といるのは疲れてしまう。
「他に何か聞きたい事がありましたら、何でも質問して下さい」
彼なりに気を遣ってくれているのは理解できる。折角の機会に何も無いというのも悪いので、お願いする。
「そうね……じゃあエアハルトさんについて聞かせて!本当は凄い人だとか聞いたけど、実は余り知らないの。ちゃんとお仕事しているの?」
するとベルデは衝撃を受けたかのような表情になって返す。
「えっ!知らないんですか?ちゃんとしているも何も、アードラーさんはクロレアのエースパイロットですよ!!この国の希望の星です!!」
予想外に熱く語りだされたナスカはドン引きして硬直した。エアハルトがそんなに凄い人なのだとは知らなかったし、今までの会話した感じからは想像もできない。
「せ、説明ありがとう……」
としか言いようがなかった。
「私にもパイロットになれるかしら?やる気はあるつもりだけど実はちょっと心配してるの。本当に大丈夫だろうか、って」
すると彼は少し考える顔をした。
「……厳しいですが努力次第でなれると思います。もし上手く進めば、クロレア航空隊初の女性戦闘機パイロットになるかもしれませんよ。航空隊も密かに期待しているのでは?」
ベルデの淡々とした物言いは不思議と信頼できる気がする。
「でも断られたのよ」
彼は首を横に動かす。
「いえ。あくまで推測ですが、期待しているからアードラーさんに話を持って行ったのでしょう。だって考えてみて下さい。教育する価値の無い者の育成を頼んだりするでしょうか?」
言われてみればそんな気もしてきた。確かに不自然である。違う道を選べと拒否の通知を渡しておいてエアハルトに育ててやってほしいみたいに頼むなんて。
「それは確かにそうかも」
ベルデの理論も満更間違ってはいない。
「アードラーさんはずっと出撃ばかりの刺激の無い毎日で疲れると言われてらしたので、嬉しかったと思います。育成などという新たなことに挑めるのですから」
出撃ばかりって。と、突っ込みを入れたい気分だった。命を落としてもおかしくない仕事をしているというのに刺激が無いとは恐るべしだ。
「余裕なのね、流石だわ。よぉし、私も頑張らなくっちゃ!」
ナスカは強く決意して、窓の外に広がる果てしない空を見上げた。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.58 )
- 日時: 2017/08/23 21:14
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
episode.3
「少女の出撃」
その日の晩、ナスカは沢山の人が集まる一階の食堂へ招かれた。実を言えば、エアハルトが誘いにわざわざ部屋に来てくれたので、断れなかったのだ。彼は仕事を終えて帰ってきたところとは思えない元気さで、ナスカを食堂まで連れて行く。彼が颯爽と歩くと、廊下にいる人たちの視線を釘付けにした。さすがは『クロレアの閃光』だけある。
「ここの食堂はバイキング形式になっています。必要以上に取らなければ何を取っても問題ありません。ただし、年上の者が優先というルールがあります」
エアハルトが優しく丁寧に説明してくれている間、周囲からの興味津々な視線が激しくて少しばかり恥ずかしい。しかし親切で説明してくれている以上、止めてほしいとは言えず、ただひたすら耐えるしかない。
「あ、そうそう。確認しようと思っていたんです。これからは仲間になるので、お嬢さんと呼ぶのも変ですし、ナスカで構いませんか?」
彼が笑顔になる度に女性陣からの痛い視線が突き刺さる。嫉妬されているのか気になっているだけなのかは分からないが、得体の知れない視線の前に為す術は無かった。既に挫けそうだ。
「はい。それで大丈夫です」
ナスカは周囲を刺激しないように控え目に頷き小さな声で答えた。
「じゃあ晴れて仲間って事で、これからは普通に喋らせてもらうね」
先程までとは打って変わって陽気な喋り方になる。彼がたまに見せる無邪気な表情が実に興味深い。ナスカは、エアハルトは結構社交的な人なのかもしれないな、と思ったりした。
「あれ、アードラーさんだ。その女の子はどちら様?もしかして噂の新入りさんですかいっ?ふふっ」
そんな微妙なタイミングでテンション高めな女の人がエアハルトに声を掛けてきた。肩ぐらいの長さの茶髪を下で大雑把にくくっているのが女々しくない感じで好印象。さっぱりして爽やかさが伺える。
「あぁマリー、用事が終わったんだな。この子のことが気になるのか?彼女の名はナスカ、新入りさんだ。これからよろしくしてやって」
するとマリーと呼ばれたその女の人は、ナスカの手を取り笑顔で気さくに喋りかける。
「初めましてナスカ。マリアムって言います、よろしく!呼び方はマリーで良いからね」
笑うと案外愛らしかった。
「彼女は僕の専属整備士をやってくれているんだ。とてもいい子だから好きになると思うよ。マリー、食事は?」
エアハルトの問いにマリアムは明るく返す。
「今から!じゃあ折角だしナスカも一緒に食べよっか!あたしも友達が増えたら嬉しいな」
ナスカが返答に困っているとマリアムの横にいるエアハルトは満足そうに頷いていた。
「それを頼もうと思っていたんだ。マリーはよく分かっているな!さすがだ」
ナスカは「普通と違うタイミングで入った自分に友人を作ろうとしてくれているのだろう」と推測した。エアハルトは職業的に優秀なだけではなく、気遣いのできる男だ。それは人気なはずである。
「そりゃ専属だもの。アードラーさんのことは一番分かってるに決まっているじゃない」
マリアムは胸を張り、面白おかしく威張る演技をする。苦笑いしていたエアハルトはナスカに凝視されているのに気付くと急激に冷たい態度で言い放つ。
「専属なのは僕の機体が普通の構造と違うからだろう!特別仲良いわけではない!」
それに対してマリアムが鋭く突っ込みを入れる。
「誰に対して言ってるんだか」
やれやれという分かりやすいアクションをしながら呆れ顔になる。
「君は本当に失礼だな!」
エアハルトはむきになり鋭い言い方で反撃した。
「あれ〜、ナスカがいるからかっこいい演出してるの〜?わぁ、ダサいね」
「無駄口を叩くな!」
二人はナスカの目の前で仲良く喧嘩していた。しかし特別周囲からの視線は感じないので、どうやらいつものことらしい。珍しくはないのだろう。
「もういい!ナスカ、二人で食べよう。あんな女はもう知らない!」
最初にそっぽ向いたエアハルトがナスカの右腕を掴む。すると続けてマリアムが言う。
「女同士の方が良いに決まっているわよね!あんなカッコつけは放置して、二人だけで仲良くしようね!」
「は、はい……?」
マリアムは左腕を掴んだ。
それからほんの少し間があってマリアムは笑い出した。何が面白いのかいまいち分からないが、派手な大笑いだった。一方のエアハルトはテンションが急降下し溜め息を漏らしている。
「傷付いた?ごめんなさい」
マリアムは言葉では謝るが謝罪する気は無いらしく楽しそうである。ナスカはマリアムに言ってみる。
「マリーさんって、エアハルトさんと仲良しなんですね」
すると彼女は急に目線を逸らした。
「えっ、そう見える?そんな事ないけど……」
何だかんだで二人は仲良しだった。二人共お互いに否定していたが、それこそ仲の良い事の証明だろう。仲良くないと言いつつ息がぴったりではないか。
その後、ナスカは結局二人と一緒に夕食を食べた。そんなにお腹が空いていなかったし、遠慮もあり、ティーカップ一杯分のコーンポタージュとロールパン二個だけにした。味は予想よりかは美味しいが別段美味でもない。しかし久々に誰かと食べる夕食は格別な気がした。
それから数ヶ月が経過、ナスカは着実に訓練を積んでいた。初めての飛行で彼女は皆を驚かせる。多少のあどけなさはあるにせよ、初心者とは思えない見事な飛行を見せたのだった。それからナスカに期待する者が増えた。
ナスカは徐々に訓練が忙しくなってきても、週末にヴェルナーに会いに行く習慣だけは決して変えない。一向に回復しないのを見ていると、本当は既に死んでいるのではないかと何度も思った。しかし、手が温かいので、期待は捨てずにいられた。彼がどのような状態にあるのかナスカには分からない。だからこそ、明日には、来週こそは、と繰り返し回復を祈り、お見舞いを欠かさなかった。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.59 )
- 日時: 2017/08/23 21:15
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
搭乗機を決定する日が来た。ナスカはエアハルトに連れられて倉庫へ行く。その倉庫の中には色々な空を飛ぶ乗り物が置いてあった。古臭く壊れているような物から艶のある新品らしき物まで、様子は様々である。
「ボロボロな機体は古くて壊れた処分待ちだから、そういうの以外で選んでね」
興味津々でキョロキョロしながら歩いていたナスカは、ある一体の機体の前で吸い寄せられる様に立ち止まった。真っ赤なボディに白い薔薇のマーク。
「……これは?」
尋ねるナスカを見てエアハルトは唖然とする。
「それに興味があるのかい?」
ナスカは彼の表情の意味を分からぬまま頷いた。
「それは僕の機体と一緒でレーザーミサイルが撃てる機体だよ。でもずっと適応者がいなくてお蔵入りさ。製造者によると、腕の良いパイロットにしか運転できないとか。本当かどうか分からないけどね」
苦笑しているエアハルトをよそにナスカは明るく言う。
「素敵。これにしましょう!」
それを聞いた彼は怪訝な顔で確認を取る。
「……本気かい?」
怪訝な顔のエアハルトとは裏腹に、ナスカはもうやる気満々だった。
「乗れるならこれにさせて!不可能ではないわよね?ねっ!」
さすがに彼にも止められなかった。いや、止めなかった、が正解かもしれないが。それに今までのナスカの頑張りを見ていた彼には分かっていたのだ。彼女ならこの機体でも乗りこなせてしまうかもしれない、と。
「分かったよ、君なら大丈夫だろう。じゃあ今度はその機体で慣れるまで飛行訓練を。大変かもしれないが、ナスカなら頑張れるだろうからね」
エアハルトは、ナスカがこの機体に乗る様になればきっとクロレア航空隊の大きな戦力になると予想していた。
そして来る天体暦1947年、遂に出撃命令が下る。決して楽しい仕事ではない。今はただ、責任と覚悟を持ち、前へ進むだけ。訓練はひたすらしてきたが、実戦に出るのは初めてである。
「足は絶対に引っ張りません!それは誓います」
などという半分冗談じみた発言で緊張をまぎらわす。
この日出撃するのは、無愛想なジレル中尉を中心に五名である。ナスカを応援してくれているファンの一人である新米の少年トーレもいた。無愛想なジレル中尉は、ナスカには目もくれず自分の搭乗機へ行ってしまった。エアハルト曰く口下手らしいが、どちらかといえば口下手というより感じ悪いイメージが強い。一方でトーレは「頑張ろう!」と妙に力んでいて不安である。エアハルトは持ち場を離れられない仕事がある日だったので仕方無く地上に残ることを決めた。何だかんだいって、ナスカを一番心配していたのは彼だろう。前日から、不自然な言動が目立って増えていた。
当然だが見送りにはやって来る。エースパイロットと呼ばれる男だけあり、出撃の時には頼もしくナスカを励ました。恐らく情けない姿を見せられないと少し無理して頑張ったのだろう。
「君は一人じゃない。だから、きっと上手くいくよ」
ナスカを見送るエアハルトは微笑んでいた。きっと心の中は不安でいっぱいだったことだろうが。
第二航空隊待機所の滑走路から白薔薇の描かれた機体が空へ飛び立った。クロレア航空隊から初めて女性の戦闘機が空を舞った瞬間であり、それがナスカ・ルルーの伝説の幕開けである。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.60 )
- 日時: 2017/08/23 21:16
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
episode.4
「伝説の始まり、そして」
出発して数分、敵国のマークが描かれた戦闘機と接近する。敵機の飛行速度は訓練時に周囲を飛んでいる機体とは比べ物にならないぐらい速い。迫力が凄まじい。何とも形容できない異様な緊張感が全身を駆け巡る。しかし不安な気持ちはなぜがまったく消え去っていた。訓練通りにするだけ。そう自分に言い聞かせる。
ジレル中尉が最初に現れた一機をミサイルによって見事撃墜した。無愛想な人だが、さすがだ。慣れている。
ナスカは心を落ち着け冷静になる。大丈夫、と自分に言い聞かせる。練習の時と同じように近付いてきた敵機に照準を合わせ、そして、素早く引き金を引く。実体の無いレーザーミサイルは、引き金を引いている限りずっと継続して連射されるシステムである。
ナスカは見事に一機を仕留めた。敵の機体は煙に包まれてふらふらと緩やかに落ちていく。ドキッとする瞬間は数回あったものの、その後も軽々と数機を撃ち落としてみせた。生まれて初めてのスリリングな経験に、密かに胸をときめかせていた。撃ち落とされれば死ぬかもしれない。だが命の鼓動が速まる独特の感覚がナスカを虜にして離さなかった。
彼女は初めての出撃にして、既に才能を開花させていた。そんな彼女の活躍もあり、残ったリボソ国の戦闘機たちはすぐに撤退していった。もっと撃ち落とすために追いたい気持ちもあったが、帰還せよと命令を受けたので進行方向を変える。
待機所へ帰り機体から降りると、先に降りていたトーレが手を大きく振りながら駆け寄ってくる。ナスカは、「さすがだね!」と言い嬉しそうに笑うトーレとハイタッチを交わした。
「凄かったよ〜、やっぱり憧れちゃうなぁ。お互い無事帰ってこれて良かったね」
トーレはぱっちりした明るい色の目をきらきらと眩しく輝かせてナスカを褒める。
「えぇ。ホント、何もなくて良かったわ」
ナスカはそう軽く流してから片付けをした。この後の調整は整備士の方にお任せだ。
「ねぇ、トーレ。向こうまで一緒に帰る?」
声を掛けられたトーレは大慌てでバタバタと片付け、光の速さで飛んできて、ハキハキした返事をする。
「はい、喜んで!」
ナスカとトーレは建物に帰ろうと二人で歩いていく。その途中、偶然ジレル中尉が目の前を通りかける。
「ジレル中尉、お疲れ様です」
声を掛けると彼は冷たい目付きで少しだけナスカを見たが、ぷいっとそっぽを向いてしまった。その様子を見ていたトーレが皮肉を言う。
「僕この前も思ったんだけど、何ていうか、あの人ちょっと感じ悪いよね。何か言ってもほとんど無視するし、あれじゃ出世できないんじゃないの。あんなだから中尉のままなんだよ」
その日の夕食時、たまたま廊下で出会ったトーレと一緒に食堂へ行くと、エアハルトとマリアムが仲睦まじく二人で座っていた。先にナスカに気が付いたのはマリアムの方だった。
「あっ、ナスカ!」
その声によって気付いたエアハルトが表情を明るくしてナスカの方を見る。しかし隣にトーレがいるのを目にすると、少し気まずそうな顔をした。
「エアハルトさん、お隣座っても構いませんか?」
ナスカが尋ねると彼は「いいよ」と穏やかに答える。
「えっと、じゃあ僕はここで失礼します」
トーレが頭を下げてその場を離れていくと、マリアムがナスカをやたら褒め始める。
「ナスカ、今日の活躍聞いたよ!何機も落としたらしいじゃない!初めてなのに凄いね。信じられないや!さすがだわ」
するとエアハルトは誇らしげに胸を張った。
「僕の育てた有力なパイロットだからなぁ。どうだいマリー、僕を尊敬したか?」
マリアムは何食わぬ顔で、あえて丁寧に嫌味を言い放つ。
「まあ、何を勘違いなさってるの?彼女の才能ですけどー?」
彼は言い返せなくなったらしく膨れて黙った。そんな彼に気を遣いナスカはフォローする。
「そんなそんな、私の才能なんかじゃありませんよ。エアハルトさんに色々教えていただいたから上手くいきました!」
「ちょっと、謙遜させるんじゃないですっ!可哀想!」
マリアムはエアハルトに対しては皮肉や嫌味を言ったりするが、ナスカには優しかった。
この出撃で戦果を挙げたナスカの名は、クロレア航空隊にあっという間に知れ渡っていった。ナスカは初めての女性戦闘機パイロットとして期待の星になったのだ。
とはいえこの時点では軍部での話題であり、国民が彼女を存在を知るのは、まだしばらく先のことだが……。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.61 )
- 日時: 2017/08/23 21:17
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
天体暦1949年・夏。クロレア航空隊は安定の戦績だったが、リボソ国の強力な海軍を相手に海兵隊は追い込まれつつあった。
第二待機所もターゲットになり度々砲撃を受けた。明るい季節のはずなのに、最近はずっと硝煙の匂いが絶えない。初めて来た頃のような高く明るい空はなく、空は常時灰色の煙に包まれている。海は荒れて白い泡に埋め尽くされていた。
航空隊パイロット達も出撃時以外に迂闊に外へは出られなくなり、退屈でうんざりしていた。一日のほとんどを、狭い部屋か人だらけの食堂で暮らすのである。
ナスカはもうすぐ18歳。エアハルトは日を追うごとに忙しそうになっていく。偉くなると飛行だけが仕事ではないからか。自由時間にはトーレと過ごすようになった。エアハルトがいない時は年の近いトーレといるのが楽だった。
昔の話をしたり将来について語り合ったりしていると案外盛り上がった。平和になった未来のクロレアを想像して楽しむ。もっとも、そんなものは所詮幻想で、現実は悪化していくばかりなのだが。
それから数週間後、大きな仕事が舞い込んできた。形勢逆転を狙った軍部が航空隊に敵戦艦を潰せという命令をしたのだ。作戦の参加者名簿を渡された。エアハルトを代表とし、そこにはナスカの名前も載っていた。作戦開始は明後日だ。
「これ、私も行くんですか?」
時間のある時にエアハルトに確認してみると、彼はそっと頷いて、「どうやら、そうらしい」と返した。この作戦は後に『第二沖戦艦大空襲』と呼ばれることになる、大規模な作戦である。
今すぐ出発というわけではないが、気の早いナスカは、早めに準備を始める。
「今回もまた一緒ね。今度もよろしくね」
トーレが冴えない表情をしているのに気付きそれが不思議と気になった。唇は結ばれ口数は少ない。瞳の輝きもいつもより控え目で、伏せ目気味であり、色がいつもより濃く見える程だ。何より普段の彼らしい明るい雰囲気が出ていない。
「どうしたの?浮かない顔してるけど、体調が悪いとかなら早く申し出た方がいいわよ。無理して飛ぶのは危険だわ」
ナスカが心配して彼の顔を覗き込むと、彼の暗い瞳にナスカの心配そうな顔が映る。
「あ、ごめん。平気だよ。僕、何かおかしかった?いつもと違ったかな……」
笑みを浮かべるが顔がひきつっている上に、声にも張りがなく弱々しい。
「何となく調子がおかしいところがあったりする?」
トーレは首を横に振った。
「何でもない。……元気だよ」
発言とは裏腹に手が小刻みに震えているのを発見しナスカはその手を優しくも素早く掴む。
「手が痙攣しているわ!病気の初期症状かもしれない。やっぱり、これを隠していたのね?無理をしちゃ駄目よ!」
ナスカが必死になって言うのを聞いたトーレは、笑いが込み上げ、少しして吹いてしまう。そして笑い出す。笑われたナスカは何事か分からず焦った。
「え、ちょっ、どうしたの?私変なこと言ったかしら。どうして笑い出すの?」
トーレは笑いすぎて溢れた涙の粒を人差し指で拭いながら口を開く。
「病気て大袈裟なっ」
ナスカはぽかんと口を開ける。
「ごめんなさい……何だか笑いが止まらなくって。いや、ありがとう。元気が出たよ」
しかしさっきまでの暗い表情は吹き飛び、いつもの彼らしい顔になっている。瞳にも涙の粒と一緒に光が戻った。
「……何だったの?」
首を捻り怪訝な顔をしているナスカに対して彼は説明する。
「実は、情けないけど、怖かったんです。よく分からないんだけどさ、あの紙を貰った時、今までにない不安さを感じて。確かにクロレアのために一生懸命働くつもりだけど、もしものことがあったらと思うと……」
ナスカはそれを聞いてやっと理解できた。彼の手を持ち直して真剣な眼差しを向ける。
「大丈夫よ。私も一緒だし、今までと何ら変わらないでしょ。それに今度はエアハルトさんもいる。心強いじゃない。だから心配なんて要らないわ」
言い終わって微笑むナスカを見てトーレは強く頷いた。瞳に浮かぶ光は今までと変わらないぐらい輝いている。
「そう言われるとそんな気がしてくるよ。……ありがとう。ナスカは女の子だけど、僕よりずっと強いね。凄いなぁ」
ナスカは彼の背を叩いて励ます。
「いいの!不安もあるわよね。でも大丈夫。元気出してね!」
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.62 )
- 日時: 2017/08/23 21:28
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
episode.5
「逆転のこの作戦」
今回の作戦は二班に分かれて活動することになった。一つはリボソ国軍の戦艦が待機所へ向けて出航したところを狙って攻撃する班。もう一つは既に攻撃を仕掛けてきている戦艦を爆撃する班。エアハルトは前者に、ナスカやトーレたちは後者に含まれた。ジレル中尉も同じだ。安全度は後者の方が明らかに高いので、新しいメンバーはそちらにまとめられた。
ナスカはまたトーレが同じでどこか安堵していた。弱気な彼が、もしもの時に自分を助けてくれるとは期待できないが、それでも、知り合いがいるのといないのでは安心感が違う気がする。
ナスカはいつもと変わらず自機に乗り込む。黒い機体を含む数機が先に滑走路を経由して空へ飛び立つのを窓から見た。きっと上手くいく、と彼女は口の中で小さく呟き、指示に従い発進する。あとは成功のために最善を尽くすだけだ。
予定通りナスカは高度を一気に落とし、リボソ国の戦艦にレーザーミサイルを撃ち込む。予想外の奇襲に一時は狼狽えた敵だったが、直ぐに冷静を取り戻し、周囲を飛び回る赤い機体に対空砲の照準を合わせようとする。時間を稼ぐため、ナスカは時折レーザーミサイルで牽制しながらひたすら高速飛行した。その隙を狙ったジレル中尉の数発のミサイルが戦艦に突き刺さる。ナスカは爆発に巻き込まれないようにその場を素早く離れた。黒い煙に包まれ沈みかけの戦艦に強烈なとどめの一撃を加えたのはトーレであった。
『僕がやったよ!見たっ!?』
無線越しに成功を喜ぶ明るい声が聞こえてくる。
「最高だったわ、トーレ」
ナスカは前を見据えたままそう返した。ナスカは敵を引き付ける役目をひたすら果たす。できる限り早く、一つ残らず沈ませなければならない。だが余裕だ。心のどこかではそんな風に考えていた。
次々と沈没させる事に成功し、目標は残り一つの戦艦に絞られる。
『残り一つだねっ!あっ、でももう沈みそうかな』
こんな時に分かりきったことをわざわざ教えてくれるのが愛らしいと思った、その数秒後。
前方を飛んでいたトーレの機体が突如爆音と共に煙に包まれる。ナスカは何が起きたのか分からず、取り敢えずそこから離れる。機体は煙に取り巻かれながら垂直に落下していく。
『む、ナスカ、どうしよ……』
無線からトーレの泣きそうな声が伝わってくる。
「何なの!?何が起こったの!」
ナスカには意味が分からなかった。一体急に何が起きたのか。
『し、死にたくないよ、僕は、まだ……』
トーレはひきつった声で答えになっていない発言をする。その頃にようやく理解した。沈みかけの最後の戦艦の大砲が、トーレの乗っていた戦闘機を撃ち落としたのだと。そのまま落下した機体は戦艦に激突して砕けた。しかし辛うじてコックピットのある前方は原形を保っている。奇跡だ。
『こ、怖い……よ……』
無線は生きているらしくまだ掠れた声が伝わってきている。ナスカは助けてあげたいが下手に動くわけにもいかず、無力さを感じながらただ傍観するしかない。
『死にたくない。まだ死にたくない。でも、苦しくて、死にたい。……よく分からない。ナスカ……どこ……?』
トーレは完全に動転していて荒い息と共に意味不明な事をうわ言の様に繰り返す。
『このまま死ぬかな……火に……怖い怖い怖い』
気味悪く繰り返し呟かれる呪文のような言葉を、淡々としたジレル中尉の声が遮った。
『仕事は終わった、撤退せよ。新米の救出は私がする』
彼の搭乗機は高度を落としトーレがいる戦艦の上部の辺りへ接近すると扉を開き、何とか這いずり出てきていたトーレに対して「乗り込め」と指示する。しかしトーレは怖い怖いと繰り返すだけで全く進展が無い。少々苛立ったジレル中尉は「お前はまだ死なない!帰るんだ!」と怒鳴った。
いつも無口な男の怒声にハッとしたトーレは少しだけだが正気を取り戻して手を伸ばす。力いっぱい伸ばした。しかし空振りばかり。ジレル中尉はほとんど機体から乗り出す様な体勢で腕を伸ばした。やがて手と手が繋がる。ジレル中尉が腕を一気に引き上げるとトーレは空中へ持ち上がった。
「よし、離すな」
機体が進行方向を変える時、片翼が戦艦の端に接触してしまう。それでバランスを崩した機体は落下する様な勢いで待機所へ向かってくる。様子を見ていたナスカらは慌てて離れた。金属が擦れる大きな音が響き、ナスカは思わず目を閉じる。
——そして沈黙が訪れる。
やがて誰かが口を開いた。
「出てきた!生きてるぞ!」
ナスカはその声を聞いてから恐る恐る目を開く。するとトーレを抱えてジレル中尉が降りてきているのが見えた。安堵したと同時に彼の方へ駆け寄る。その途中で、ナスカは違和感を感じた。
「ジレル中尉……左腕は?」
トーレを抱える右腕に視線が向かいがちだが、左腕が見当たらない。ジレル中尉は左を見下ろしてから真顔で言う。
「うむ、無いな」
沈黙が二人を包む。
「いやいや!無いなじゃないでしょうっ!!」
つい出てしまったナスカの突っ込みにもジレル中尉は動じない。
「それよりこの新米を持ってくれないか?重いのだが」
「重いとか言ってる場合じゃないと思うけど……」
ナスカは意識を失っているトーレを抱き抱える。脱力しているので意外と重かった。ジレル中尉が空いた右手で左肩の傷口に触れようとしているのに気付いたナスカは「触っては駄目です」と制止する。
「不思議なもので、気付いてしまうと妙に気になるんだ」
冷静な表情とは裏腹に傷口からは血液が流れ出て衣服が生々しい赤に染まっている。こんな事をしている場合ではないと思い、遠巻きに様子を見ている男性に救護班を呼んでくれと頼んだ。男性は走って建物の方へ走っていく。その間も傷口を気にしてそわそわしているジレル中尉だったが、さすがに顔の血色が悪い気がする。普段から血の通っていないような色白だが、今は特に肌に艶が無い。
救護班の数名が到着すると、まずナスカが支えていたトーレを担架に乗せて建物へ引き返した。その時間は僅か一分にも満たない程だった。慣れていて素早い。
残っていた救護班に所属する四十代ぐらいの優しそうなおばさんは、ジレル中尉の腕を持とうとして唾を飲んだ。
「大変!貴方の方が重傷じゃないですか。早く手当てしないといけません!」
遅れて建物から出てきた男性二人におばさんが状況を説明する。
「大丈夫ですか?歩けますか」
片方の男性が慌てず落ち着いて声をかける。それに対してジレル中尉は「問題ない」と強気な発言をして歩き出そうとしたが、急にバランスを崩して膝を地面に着いた。
「担架で運びます。無理しないで下さい。大人しくしていないと取り返しのつかない大事になりますよ」
トーレを乗せていった担架が戻ってくると、男二人がかりで脱力したジレル中尉を持ち上げて担架へ横たわらせた。瑞々しさのない肌には冷や汗が浮かび、虚ろな視点の定まらない目で周囲を見回している。腕の傷口に当てていた白タオルがじわりと鮮血で染まる。
またその場に残ったおばさんはナスカに「もう大丈夫です、戻りましょう」と優しく声をかけた。ナスカは頷きはしたが、改めて自分の無力さを突き付けられたような気がして、心が沈んでいた。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.63 )
- 日時: 2017/08/23 21:29
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LLmHEHg2)
ナスカはその日、夕食を食べる気にはならなかった。否、なれなかった。だからパン一つをつまんだだけで食べるのを止めた。
トーレが助かったのは何よりも良かったのだが、どうしても明るい気分にはなれない。そんな心理状態でぼんやりしていたナスカの背後から、真っ青な顔をしたマリアムが突進するように走ってきた。
「ナスカ!どうしようっ、ナスカ!」
慌てた声に驚きナスカは振り返る。
「アードラーさんの、搭乗機がエンジンの不調で……どうしよう、どうしよう。どうすれば良いのっ!?」
焦りで何のこっちゃら分からないので、ナスカはとにかく彼女を落ち着かせようと試みる。
「落ち着いて下さい。ゆっくり話してくれませんか?」
マリアムの目には涙の粒が浮かんでいる。いつもは常に笑顔な人だけに、涙目になっていると、大事だとよく伝わる。
「そう、そうだよね。……うん。落ち着かなくちゃ。落ち着いて、……説明するね」
それからマリアムは途切れ途切れに話し始めた。
飛行中にエアハルトの機体のエンジンが故障し、何とか無事着陸したらしいが、リボソ国の領土に着陸してしまい帰ってこない、という話だった。
「もし捕虜にされて……あたしのせいで、アードラーさんが辛い目にあったりなんかしたら、あたし……生きていけないよ」
どうやら責任を感じているらしい。いつも喧嘩してばかりだが、本当はエアハルトのことを大切に思っているんだな、とナスカは感心した。だが感心してばかりもいられない。
「それは大変!けど、そういうことなら、上の方がどうにかしてくださるのではありませんか?」
するとマリアムは涙目のまま激しく首を横に振る。
「上なんか信頼出来ないよ。厄介事になったらあいつらは絶対に見捨てるもの!ああいう人たちはいつも、自分たちの利益しか考えていない!」
そして悲しそうに続ける。
「でも……悔しいけど、あたしにできることは無い。それは事実なのよね……」
確かにそうだ。整備士ではどうしようもない。それに、一人二人が動いたところで、上が動かなければ意味がない。
「嘘か本当か分からないけど、リボソ国のそっち系は残酷だとか。心配ばっかりだよ。それに最悪、拷問に屈したアードラーさんが敵になるってこともあるかも」
ナスカは表面上は慰めていたが、頭では今回の作戦が本当に必要だったのかという疑問を考えていた。ジレル中尉の片腕にエアハルト、作戦の成功のために払ったものは大きすぎたのではないか?
「エアハルトさんのことですから上手くやってると思いますよ。あの人、外見の割に精神強いですし……ちょっとやそっとで従ったりはしないかと」
できる限り和ませようとナスカは全力を尽くした。
それからしばらくして、緊急で行われたテレビ集会にてその話題が持ち出されると、辺りの空気が一気に重苦しくなる。ナスカは一人寂しくテレビの映像を見ていた。マリアムは自分の部屋へ帰ったらしく、来なかった。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.64 )
- 日時: 2017/08/23 22:07
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: oUAIGTv4)
episode.6
「捕虜エアハルトの心労」
時は少し遡る。
作戦中のエンジン不良という信じられない不幸に襲われたエアハルトは、搭乗機をすぐ近くの空き地へ着陸させた。機体の損傷はそれほどないので壊れていないはずだが無線は使えない。仕方が無いので彼はコックピットの外へと出てヘルメットを外す。予想外に日光が眩しく目を細める。太陽の光を遮る物体は何もない、かなり日当たりの良い場所だった。しばらく経った時、数名の銃を構えた男たちが、エアハルトを取り囲むように集まってくる。平凡な一般人がいきなり敵陣のまっただなかに放り込まれてしまえば、その先に待つことを想像して恐怖を感じ、狼狽えるだろう。だがエアハルトの頭にはそのような考えは無い。だから冷静で淡々としていたのだが、それが余計に男たちの警戒心を煽った。
「ここがどこの土地か分かっているのか?」
男の中の一人が尋ねた。
「突然すみません、エンジンが悪くなってしまったもので」
エアハルトは意図してか天然か、質問とは少々ずれのある答えを返した。
「は?まぁ良い。では名乗れ」
最初に尋ねた男は、不思議な答えに困惑しキョトンとした顔をしながら、話を進める。
「クロレア航空隊所属パイロット、エアハルト・アードラー」
エアハルトは何食わぬ顔でそう名乗った。
それを聞いた瞬間、男たちの顔付きが変わる。ほとんどは顔の筋肉を引きつらせた。当然リボソ国でもその名を知らぬ者はほぼいない。高度な飛行技術に異様な速度、そして一切の躊躇いを捨てた無情な攻撃。何より近くを飛んでも速すぎてパイロットがまったく確認できないのである。
敵国側からすれば非常に厄介な謎のパイロット。伝説のパイロットが目の前にいる。それも、こんなに若く細身で整った容貌の青年だと誰が想像しただろうか。場は驚きに満ちていた。 皆が緊張した面持ちになる中、一人だけ明るい顔付きになった者がいる。
「おぉっ!いよいよ俺の出番が来たんじゃないか?早く捕まえようよ!ねっ、ねっ!」
そのやたら陽気な人物の隣にいる男が、陽気な人物に小声で突っ込む。
「駄目だよ。こういう大物に無許可で手を出すってのは、さすがにちょっと問題あるだろ」
男たちは結局、銃で囲み威嚇することしかできない。何でも上に許可を得ないと動けないのだ。
「よろしい。下がりなさい」
突如、真っ直ぐ伸びる映画俳優のような美声が聞こえてきた。男たちは機敏に振り向く。声の主はダブルボタンのスーツをきっちり着こなした紳士的な風貌の男性だった。彼はエアハルトの前までゆったりと歩み寄ると、静かに挨拶をする。
「どうも初めまして。ハリ・ミツルと申します。それではアードラー氏、こちらへ来ていただきましょうか」
ハリの指示に従って、エアハルトは彼の後ろを歩いた。男たちもその後に続く。
「ハリ、こいつの担当は俺にしてくれるよね?もう普通の捕虜じゃ満足できないからさっ。意思の強い奴を屈服させるのが、何より快感なんだよねっ!」
熱く語る男に対して、ハリは冷静に「静かにしなさい」と注意する。エアハルトはハリを真面目な人物なのだろうと推測した。そのエアハルトは道中も注目の的であった。リボソ国にはない服装でありながら、捕まったとは思えない颯爽とした歩き方をしているのだから、それも不思議ではないだろう。
少し汚れて古ぼけた建物へ入ると、地味なTシャツとズボンが支給される。エアハルトは素直に指示に従い、その服に着替えた。一人の男がエアハルトの両腕を後ろに回し手首に手錠をはめる。それから尋問のための部屋へ案内する。
「大人しくしていれば痛いことはしない」
男にはエアハルトがさっぱり抵抗しないのが不思議で仕方無かったようだ。もっと暴れたり抵抗すると予想していたらしい。
尋問室に入ると、ハリとナイスバディの美女が座っていた。
「あら、いい男」
ナイスバディの美女はエアハルトを見るなり頬を染めながら発言した。ハリはその横で苦笑している。
「お掛けなさい。少しお話しましょう」
エアハルトがちゃんと着席したのを確認して男は外へ出た。
「初めまして。尋問官をしているヒムロ・ルナ。警戒しないでいいわ。ただちょっぴり質問するだけだから」
尋問官の美女・ヒムロは、大人びた笑顔で色っぽい声を出す。
「知っていることなら絶対に答えてね。ちなみに、嘘の答えを言ったら酷い目にあうから」
ハリは手元の帳面を開き、準備万端とばかりにペンを握っていた。
「じゃあ一つ目。航空隊の現在の戦力について知っていることをすべて話しなさい」
エアハルトは露骨すぎる質問内容に呆れ、冷やかな目付きで答える。
「そのような内容を話せ、と?意味が分からん」
それに対して、ヒムロはグロスをたっぷり塗った唇を、艶かしく開く。
「じゃあまずは基地のある場所だけでも構わないわ。素直に話しなさい」
エアハルトはもはやバカバカしくて、その問いには何も答えなかった。言わない、という意思表示だと感じ苛立ったヒムロは、やや調子を強めて言う。
「意地でも言わないつもりね。言うまで終わらないわよ。あぁ、それとも、尋問だけじゃ不満足かしら?いい男だから平和的に解決してあげようとしているのに、贅沢ね」
言い方が非常に上から目線だった。
「仲間を売れないってことかしらね?大丈夫、心配いらないわ。もう二度と帰れないのだから、二度と会わない彼らに気を遣う必要は無いのよ。全部話したって誰も貴方を責めたりしない。それより、このまま黙っていたら痛い目にあうことになるのよ。そんなの嫌でしょう?愚かなクロレアの奴らのことは他人と考えなさい。どうなろうと貴方には無関係だわ」
ヒムロがそんな風に捲し立てるのを、不愉快そうな表情で聞きながらも黙っていたエアハルトは、言葉が途切れた隙に鋭く言い放った。
「無関係ではない!」
刺々しい言い方を聞いたヒムロは何故か頬を赤らめて嬉しそうな顔をする。
「あぁ、やっぱりいい男。近年稀にみる良い素材だわ。敵に囲まれている中で強気な発言をできるところが素敵ね」
いきなり話がずれたのでエアハルトには何のこっちゃら分からなかった。相手の様子を伺う。二度と帰れないなんてことは絶対にない。それを信じて疑わない彼は、できる限り多くの情報を得ようと考えていた。それが今の自分がするべき仕事なのだと。
「それではもう一度聞くわ。航空隊について話しなさい。戦力や基地の場所……今後使いそうな切り札とかでもいいわよ」
やはりエアハルトは淡々と「それは言えない」とだけ答えた。尋問されるのは初めての経験だが、なるべく上手くやってのけようと心に決める。そのためにもまず精神の安定を一番に考えて過ごすよう心がけようと思っていた。
それからも尋問は長く続き、エアハルトは自分が思っていたより疲れていた。時折お茶を与えられる以外には何も食べられず、ずっと座りっぱなし。尾てい骨は自身の体重で痛むし、腕はずっと動かせず痺れてきた。黙秘しながら、ナスカは無事だっただろうかと心配したりして、退屈をまぎらわせていた。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.65 )
- 日時: 2017/08/23 22:08
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: oUAIGTv4)
長い長い尋問が終了すると、外で待っていた男がエアハルトを次の部屋へ案内する。辿り着いたのは「部屋」とは呼べないような狭く暗い場所だった。真っ黒な壁、埃の臭いが強い。さすがのエアハルトもそれを目にした時は驚いた。まさかここまで悪い環境だとは予想しなかったのだ。
「これは……部屋なのか?」
口から自然と出た問いに、男は小さく頷く。それから男はエアハルトを突き飛ばした。いきなり押されたエアハルトは前のめりに転倒する。その隙に男は扉を閉めた。エアハルトが振り返った時には既に施錠されていた。
「明日の朝、また来るからな」
男は冷たく吐き捨てるように言い放った。
その日の真夜中。ふと目を覚ますと、何やら物音が聞こえてくる。不思議に思ったエアハルトは暗闇の中で目を凝らした。それでもはっきりは見えない。ただ、鍵を弄る音がする。誰かがやって来たようだ。エアハルトは警戒して身構える。
軋むような音を立てて、ゆっくりと扉が開かれた。細い一筋の光が差し込む。
「あら、まだ起きていたの?」
入ってきたのは尋問官のヒムロであった。ついさっき目が覚めた、とエアハルトは深く考えずに答える。
見知らぬ人でなくて少し安心した……のも束の間。ヒムロは部屋の中へ入り、内側から鍵をかける。二人で入るにはスペースが狭すぎる。
エアハルトが不思議に思っていると、彼女は地面に座り込んだ。一人でいるにも満足な広さはないのに、もう一人入ってくると息苦しいぐらいの狭さだ。 ヒムロはさりげなく顔を近付ける。距離は徐々に縮まり、瞳にお互いの姿が映り込む程の距離になる。埃臭いだけだった部屋に甘い芳香が漂う。
「……何か?」
ヒムロは怪訝な顔のエアハルトの肩に手を乗せ、そこから舐める様に指をずらして首筋に触れる。
「本当に、いい男」
狭い暗闇で体が触れ合う。エアハルトは不気味な感覚に戦慄した。
「尋問の時は退屈していたでしょう?素敵な人だから特別に、いいことしてあげるわ」
首筋の指を滑らかに耳へと移動させる。二人の距離が更に縮む。この時になってエアハルトはヒムロの企みに気付き、距離を取ろうと抵抗する。しかし狭すぎる部屋では逃げ場が無い。ヒムロは一気に接吻しようと顔を接近させる。その刹那、反射的に横向いたエアハルトの耳に彼女のしっとりと柔らかな唇が触れた。
「案外照れ屋さんなのね。そういうのも良いかもしれないわ。積極的じゃない男も、ね……」
ヒムロはなぜか赤面しながら、エアハルトの首筋に何度も口づけを繰り返す。
「唇は嫌……?」
擦り寄られたエアハルトは、強い口調で「それは駄目だ」とはっきり拒否する。
「あ、もしかして……まだ未経験かしら?」
子悪魔的に囁き、また首筋に口づけをした。余りの積極さに困り果てたエアハルトは、重苦しく溜め息を漏らす。
「つまり、僕を慰み者にさせろと言いたいのか?」
ヒムロは長い髪を弄り、セクシーな雰囲気を全力で主張する。
「慰み者だなんて。酷い言い方をするのね。愛がなくちゃ駄目よ」
そう言ってからエアハルトを強引に床へ押し倒す。
「貴方の唇を奪いたい。これは本気よ?誰にでもこんなことをしてるわけじゃないわ」
エアハルトは腕が動かせないので、満足に身動きが取れず、内心焦っていた。誰も見ていないということは、何をされてもおかしくないということである。
「待て、落ち着いてくれ。僕はそのようなことをするには適していない!」
必死に制止しようとするが、努力も虚しく好き勝手にやられ放題だった。女性の繊細で柔らかな指が体を這いずり回るのは、エアハルトとしてはトラウマ級の出来事だった。
「貴方の初めてが欲しいの」
全身くまなく、あらゆるところに触られたエアハルトは、ついに怒りを爆発させた。
「意味深なことを言うのは止めろ!セクハラと訴えるぞ!」
ヒムロはそんなエアハルトなどまったく気にせず、夢見心地な表情のまま頬を彼の胸に当てている。
「未経験の男ってのも好きよ。だってそれだけ、あたし色に染める余地があるってわけだもの……ふふっ」
だが本気で嬉しそうにしているのを見ると、エアハルトはよく分からなくなり戸惑った。少し前までは早く逃れなければと思っていたが、何かが変わる。
もしかしたら、ただふざけて遊んでいるだけではないのかもしれない——。と思った。
「昔は誰もが言ったわ、愛したい美女ナンバーワンだと。でも……父さんが解雇されてからは、誰もあたしを愛してくれない……。誰一人、あたしに愛を囁いてはくれない……」
少し心が変わったエアハルトが、頭にそっと手を乗せると、彼女は幸せそうに微笑む。
「とても……温かい手。ありがとう。幸せよ」
エアハルトには彼女の狙いが推測出来なかった。そんなはずはないのだが、なぜか彼女の言葉が真実に聞こえる。
(尋問官と捕虜がこれで良いのだろうか……)
ヒムロは満足したらしく、嬉しそうな顔をして、困惑気味のエアハルトから退いた。
「今晩のことは二人の秘密よ。いいわね」
彼女はご機嫌な様子で明るくウインクしてから、そそくさと部屋を出ていった。
エアハルトは彼女がいなくなった部屋で再び溜め息を漏らす。胃が刺すように痛む。
「……面倒臭いのに巻き込まれた感じがするな」
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.66 )
- 日時: 2017/08/23 22:11
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: oUAIGTv4)
episode.7
「お喋りな職人とラベンダー」
あれ以来、第二待機所にはずっと、重苦しい空気が流れている。エアハルトの存在がいかに大きかったのかを、彼がいなくなって初めて思い知った。失ってから気付くというものか。
この暗い空気の中、現在のナスカにできるのは、落ち込む親しい友を慰めること。ただそれだけである。
あの作戦から数日が経ち、トーレが意識を取り戻したらしいと報告を聞いた。ナスカは大急ぎで、彼が泊まっている部屋へ駆け込んだ。
「トーレ!意識があるの!?」
彼は大きな丸い瞳をぱっちりと開いてナスカの姿を見詰めている。比較的元気そうだ。
「ナスカ……心配させちゃってごめん。その……ごめん」
小さめではあるがしっかりとした声をしている。そんな彼を見ると、理由はよく分からないが無性に嬉しくて、涙が出て溢れてくる。安堵で一気に全身の力が抜けた。
「いいの。そんなのいいのよ!全然気にしてない!」
ナスカがベットの端に顔を埋めて号泣し出したので、トーレは驚くと同時に慌てる。
「えっ!?なっ、何っ!?」
一気に起き上がろうとしたトーレに対し「まだ激しくは動いちゃ駄目よ」と注意したのは、あの時の救護班のおばさんだった。今日も優しそう。彼女から出る言葉は、注意でさえも、包み込むような温かさを持つ。
「あ、ごめんなさい」
トーレは素直に謝って、今度はゆっくりと座る体勢になる。その頃になってナスカは号泣している自分に気が付いて、恥ずかしさに頬を赤く染めた。
「どうぞ。使って」
おばさんが親切にティッシュの箱を持ってきてくれる。ナスカがそこからティッシュを数枚取り出し豪快に鼻をかむと、トーレは愉快そうにくすくすと笑う。ナスカはなおさら恥ずかしい思いをしたが、場が和ませることができたのは良かったと思った。
それからトーレはナスカに自分が軽傷であったことを伝えた。局所的に火傷を負った程度であり、当然命に別状はないし、手当てさえきっちりしておけば今後の生活に影響はないと言われたそうだ。あの時に気を失ったのは、突然大きなストレスを受けたのが原因らしい。突発的な気絶だった。
本来は精密検査を受けるのが一番理想なのだが、タイミングがタイミングなので、簡易的な検査だけをしたそうだ。だが異常は見当たらなかったらしい。トーレの体の状態について詳しく教えてもらったナスカは彼の無事を再確認して安堵した。喜ぶナスカを眺めているトーレも笑顔になっていて嬉しそうだ。心配してもらっていたという事実が嬉しかったのだろう。
- 白薔薇のナスカ《改稿版》 ( No.67 )
- 日時: 2017/08/23 22:12
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: oUAIGTv4)
次の日の朝、トーレが遠慮がちにナスカへ頼んだ。
「記憶が曖昧なんだけど、確か、ジレルさんが助けてくれたんだよね。お礼言いたいんだ。でもあの人怖いからさ。……その、苦手で。だから一緒に行ってくれない?今とか部屋にいるかな?飛んでるのかな」
トーレはまだジレル中尉がどんなことになったのかを知らなかったから、こんな無邪気に明るく言えたのだ。ナスカはそれに気が付いた時、先に言っておくべきかどうか迷った。いざ会ってから知ったらトーレはまたショックを受けるかもしれない。
「飛行中ではないと思うわ」
ナスカが言うと、トーレはベットから下りてきて、気持ち良さそうに背伸びをする。
「そっかぁ、じゃあ部屋か食堂とか……かな。一緒に行ってもらっても構わない?」
大きな瞳がこっちを見詰めてくる。ジレル中尉のことは、先に教えてあげるのが優しさなのだろうが、まだそのまでの勇気は無い。
二人はジレル中尉の自室へと向かった。その道中にも何度か打ち明けようとしたが、ついに言い出せないままジレル中尉の部屋の前まで来てしまう。
トーレは扉を拳でノックし、緊張した様子で返答を待つ。ナスカは密かに、いませんようにと祈った。
「誰だ」
ジレル中尉の静かな声が返ってきて、ナスカは頭を抱える。これはもうばれてしまう。トーレは顔を強張らせながらも勇気を出してはっきりとした声で答える。
「トーレです!」
彼は緊張で呼吸のスピードが加速していた。
「重要な用件か?」
中からはカチャカチャと金属の触れている様な音が聞こえている。
「はい!大切です!」
トーレは一度だけ横目にナスカを見て、それから迷いなくはっきりと言った。
数十秒もしない間に扉の鍵が開けられる音がし、ナスカは静かに唾を飲み込む。扉が開かれる。ラベンダー色のゆったりとした上下を身にまとったジレル中尉が出てきた。
「突然来てしまいすみません」
トーレは腕に気付いていない様子だ。いつ気付くかと、ナスカは一人ドキドキしていた。脈が速まる。このままバレずにいくのも不可能ではないかも……と思った刹那だ。ジレル中尉が言った。
「義手職人が来ているのだ。話は早く済ましてくれ」
ナスカ一人肩を落とした。
「え、ジレルさんって義手だったんですか?」
まだ何も知らないトーレは、純粋な顔で尋ねる。
「この前、左腕が無くなっただろう。このままでは操縦できず解雇されるからな」
少しして、トーレの顔面が蒼白になる。
「えっ……この前ってまさか、僕を助けた時……?」
それでなくとも大きな目を見開き、口は半開きで止まっている。頭が真っ白になったらしく、言葉はまったく出てこない。ジレル中尉はトーレの心情を考慮したのか、言葉は出さず小さく頷いた。
途端にトーレは衝動的にナスカの肩を掴み、大きく言う。
「どうしてそんな大切なこと、黙ってたんだよ!」
ナスカは今までにないぐらい激しく言われて唖然とした。
「言おうとは、したわ……」
ナスカが弱々しく答えようとするのをトーレは遮った。
「隠してたんだね!?僕が恥ずかしい思いするように仕組んだんだ!そんな、酷いよ!ナスカのこと、信頼してたのに!」
トーレは一方的に責める。
「待って、違うわ。そんなつもりじゃ……」
ナスカは何とか弁解しようと努力したがもはや彼には届いていなかった。やはり言っておくべきだったのだ、と後悔する。
「おい、新米。落ち着け」
取り乱すトーレにジレル中尉が冷静になるよう促すと、しばらくしてトーレはようやく怒鳴るのを止めた。
「一体何の騒ぎです?」
ヒョコッと奥から見知らぬ男性が顔を覗かせたのは、そんな時だった。
「そんなとこで騒いでたら邪魔になりますし、取り敢えず中へ入ったらどうです」
健康的な肌の色をしていて、相手を警戒させない人の良さそうな笑顔である。まさに商売人といった雰囲気を持っている。
「待て、私の部屋に勝手に誘い入れるのか」
ジレル中尉は冷たい目線を向けるがまったく気にせず、その男性は手招いた。結果トーレとナスカは室内に入ることとなったが、ジレル中尉はそれ以上何も言わなかった。
「ひ、広いっ!」
ナスカは部屋の信じられない広さに思わず興奮する。自室が狭いだけに衝撃だった。艶のあるフローリングの床にはベットが備え付けてあり、小さい流しまである。ご丁寧に畳が敷かれたスペースまであった。そこらのワンルームマンションよりずっと優雅な生活を送れそう。
「凄く立派な部屋だわ」
ラベンダー畑の写真が載ったカレンダーが壁に掛けてある。流しには、いかにも良い香りのしそうな、透き通った石鹸が置いてあった。もはやここはリラックスするために設けられた施設のようである。
「凄い綺麗やろ?坊っちゃんは真面目やから、いつでも整理整頓できてるんや」
「その呼び方は止めろ」
男性はまるで自分の子どもを自慢するかのような言い方で話す。
「あ、そうそう、自己紹介がまだやったね。こっちの名前はユーミルていいます。スペース出身で、義手とか義足とかの職人をやってるんよ」
聞いてもいないのにしてくれたやたらと詳しい自己紹介に、ナスカは少し笑ってしまった。
「ユーミルって、あまり聞き慣れないけど、素敵な名前ね」
するとユーミルは軽く照れ笑いして頭を掻いた。
「いや〜、やっぱ名前とか褒められたら嬉しいわ」
二人が自然と仲良くなり盛り上がっているのを見て、ジレル中尉は呆れ顔になっていた。
「おい。なぜ私の部屋で、関係ない二人の談笑が始まる?」
陽気なユーミルは意味もなく楽しそうに笑いながら、冷めているジレル中尉の肩にもたれかかる。
「まーまー、そう固いこと言わんと!坊っちゃんもたまにはリラックスリラックス!精神安定が一番大事やって、習いはったやろ?」
ジレル中尉は余りにお気楽なユーミルに呆れ果て、怒る気にすらならないようだ。額を押さえながら溜め息を漏らす。
「話にならん」
「はいはい、ごめん〜。まぁ許してや〜」
ナスカはたったの今まで気付いていなかったが、横に大きなアタッシュケースが開いて置いてあった。中には金属光沢のあるロボットの部品のような物や、滑らかな肌色のパーツが丁寧に並べられて入っていた。ユーミルはそこから肌色の滑らかで無機質な腕を取り出す。
「これとかは綺麗やし、式典の時とかにはいいんちゃいますか?まぁ、これはサンプルなんやけどね。他には……」
ロボットらしさの溢れる黒い腕を両手で丁寧に持ち上げる。
「これとかは仕事にでも使えるやつやな。かっこいいし、何といっても便利やねん」
ユーミルがまるでテレビショッピングのように紹介している間、トーレはずっと青白い顔で体操座りをしていた。ナスカは放っておけず時折背中を擦った。ユーミルはその様子に気付くと、さっきまでとは違う穏やかな声で言う。
「そこの男の子、自分を責めんときや。仕事やったんやろ?時々はあることやから」
そう励まされ、トーレは少し顔を上げる。
「大丈夫。誰も怒ってへんよ。坊っちゃんかって、危険承知でやったことやねんから」
ジレル中尉がやや不満気に、「私のせいにするのか」とぼやくのに対して、トーレは「ごめんなさい」と何度も呟いていた。
「命さえあれば、体はどうにでもなるから。あ、でも、助けてもらったんやから感謝はしときね。言うのは、ごめんなさいやなくて、ありがとうやで」
ユーミルの見せた温かい笑顔に、トーレはほんの少しだけ表情が緩んだ感じがする。ナスカは手でトーレの背中を軽く撫でた。
「……ナスカ、さっきは責めてごめんなさい」
落ち着いたらしいトーレが急に謝ったので、静かに「いいのよ」と返す。ナスカは勇気が無く言えなかった自身にも非はあると考えていたから。
「忘れていましたが、今日はこれを言うために来たんです。ジレルさん、助けていただいて本当にありがとうございました。感謝します」
トーレに深く頭を下げられたジレル中尉は困った顔で、しかし彼らしく冷やかに口を開く。
「助けたのは、死なせたら私の評価が落ちるからだ」
しかし様子をよく観察していると明らかに照れ隠しであることが容易に理解できた。いつもは話す相手を冷たくも真っ直ぐに見ているのに、今は視線が微妙に逸れている。とても分かりやすい人だ。
「坊っちゃんは照れ屋さんやなぁ。ありがとう言われ慣れてないだけで、本当は嬉しく思ってるやんね!」
ユーミルは冗談混じりに言い放った。恥ずかしかったのかジレル中尉はそっぽを向いてしまったが、後で、「まぁ、味方だしな」と付け加えた。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.68 )
- 日時: 2017/09/07 18:48
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: KnTYHrOf)
episode.8
「解放と恐怖」
「268番、外へ出ろ!」
ある朝、リリーは狭い檻の中から出るよう促された。リボソ国の捕虜が檻から出られるのは、基本的に死刑執行の時だけである。だが彼女は例外だった。利用価値が生まれたのである。クロレアのパイロット・ナスカの妹であるという事実がリリーを救った。
「もしかして、処刑……ですか?」
詳しいことは何も知らないリリーは怯えて言う。268の番号札が服から剥がしとられる。
「一緒に来い。理由は、今に分かることだろう」
リリーは唇を噛んで不安を堪えるしかなかった。一体どこへ進んでいるのか。それすらも分からぬまま、ひたすら足を進めた。
そうして歩いているうちに辿り着いたのは、尋問官の控え室だった。リリーは不思議に思って首を傾げる。入ってすぐ目の前にあるテーブルには、真新しい服がそっと置いてある。
「その服に着替えろ」
リリーは指示通りその服に着替えた。白いシャツに昆布色のブレザー、それにズボン。着替えさせられる意図がさっぱり掴めなかったが、そんなことはどうでもよかった。恐らく処刑ではない。それを感じられただけで安心できた。
「もう着替えられたか?」
問いに「はい」と答える。付き添いの男はすっかり綺麗になったリリーの姿をまじまじと見つめた。似合っているか分からない慣れない服装の自分を凝視され、リリーは少しばかり恥ずかしかった。
「お前はもう268番ではない。人の誇りを持て」
控え室をあとにして、男の後ろについて行く。何が起こったのだろうか。道中ずっとリリーは不思議な感覚に浸っていた。 やがて目的地に到着すると付き添いの男が静かに扉を開ける。リリーはまた指示された通りに部屋の中へ足を進める。そこはとても質素な部屋だった。テーブルと椅子以外に物は何一つ無い。向かいの椅子には知らない青年が座っていて、様子を伺うように鋭い目を光らせていた。
「あの、えっと……」
畏縮するリリーに付き添いの男は説明する。
「お前の仕事はこの男から話を聞き出すことだ。あるいは心を折るでも構わん。どちらかを選んで任務を遂行しろ」
男はスタンガンを取り出し、座っている青年の肩に当ててみせた。リリーは青ざめて思わず手で口を押さえる。しかしスタンガンを当てられた青年は、歯をきつく食い縛ったまま、鋭い目付きは決して変えなかった。かなり我慢強い。
「見ての通りこの男、実に強情でな。拷問をしてみたりもしたのだが、さっぱり効かない」
よく見てみると、青年は両手首を椅子の背もたれに、両足首をテーブルの足に括りつけられている。彼もまた不運な捕虜の一人なのだろうとリリーは同情した。それと同時に、心のどこかで尊敬の念を抱いていた。どんな苦痛を受けようとも、凛々しく誇り高くあり続け、決して自分を見失わない。そんな強い心を持っているところに惹かれた。
「こいつはクロレア航空隊のパイロットだった。そうだろう?アードラー」
青年は俯いて黙ったまま小さく頷く。
「えっと……お名前、アードラーさんというのですか?」
青年の顔を覗き込んで尋ねると、偶然目が合う。リリーは怖さと興味の混ざった複雑な気持ちで彼を眺めた。しかし、次の発言が、リリーの心から怖さを吹き飛ばす。
「ナスカ……に似ているな。失礼だが関係者か?」
幼い頃自分が拐われて以来一度も会っていない姉の名を聞き、リリーは我を忘れて話題に食い付く。
「ナスカを知っているの!?私の姉よ!」
すると青年は穏やかな表情に変わり頷いた。
「エアハルトで構わないよ」
リリーは嬉しくなって、大きく首を縦に振る。
その時だった。付き添いの男がエアハルトを椅子ごと蹴り飛ばした。愕然としているリリーのことなど微塵も気にかけず、続けてテーブルを蹴り倒す。椅子と共に地面に横倒しになっているエアハルトの脇腹にテーブルの角が激突する様子はえぐかった。こればかりはさすがのエアハルトも目を細めて呻いた。手首が椅子に括られているので痛む所を擦ることさえも出来ないのだ。彼の体は苦痛のせいか微かに震えていた。
「愚かな捕虜の分際で、上から喋るな!」
リリーは彼を助けてあげたかった。すぐにでも拘束を解いて「大丈夫?」と声をかけたかった。けれど、男の目がある。助ける素振りを見せたりすれば即処刑になるかもしれない。人間なんて結局は自分が一番可愛い。それはリリーも同じだ。だから彼女は、そんな自分を醜いと思いながらも、身動きせず沈黙を貫くことを選んだ。
男が部屋から出ていき、数分くらいが経っただろうか。一人の紳士が入ってきた。
「初めまして、貴女がリリーさんですね。ハリといいます。よろしく」
分厚い帳面を片手に持ち、真面目な印象の紳士で、リリーはわりと嫌いじゃなかった。何より人間として扱われているのが心地よい。動物も同然の捕虜だった昨日までとは大違いの待遇である。
「この手の仕事をした経験は無いとのお話ですが、期待していますよ。今日ですべて終わらせてしまいましょう」
彼は淡々とした物言いでテーブルと椅子を元の状態に戻すと着席した。言動すべてが落ち着いていて大人びている。
「それではできる限り早く開始しましょう。リリーさんもどうぞ座って下さい」
「ありがとうございます」
リリーは感謝の意を述べてから、椅子に腰を掛けた。ちょうどエアハルトの真正面の席だ。
リリーを見るエアハルトの目はどことなく優しさを湛えている。決して尋問を軽くして欲しいと懇願している弱気な目ではない。単純に彼の穏やかな部分が滲み出ているのである。
「えっと、まずは……何をすれば……」
早速迷ってしまったリリーにハリは黙って紙を渡す。その紙には【質問事項】というのが書いてあった。リリーは気は乗らなかったが、元に戻らなくていいように、まず自己紹介から始めてみる。
「改めまして、リリーと申します。どうぞよろしく」
失礼にはならないように、と意識して軽く頭を下げた。
「リリーさん、これを使っても構いませんよ。捕虜担当科から借りてきた道具です」
ハリはリリーの目の前にスタンガンやペンチなどの怪しい道具を並べていく。目にするだけでもおぞましい物ばかりだ。中には何に使うのかさっぱり想像できない物もある。
「とっ、とにかく、……最初から質問していきますね」
リリーは一回深呼吸をして精神を落ち着かせ、心を鬼にすると心を決める。
「航空隊の戦力について、知っていることを全部話していただけますか」
エアハルトは静かな声で「話せません」とだけ回答する。それに対してハリが言う。
「実を言えばリリーさんは罪の無い人質です。貴方が素直に質問に答えられたなら、彼女の身柄は解放しましょう」
エアハルトはそれでも首を横に振った。するとハリはテーブルに置かれたスタンガンを手に取り、リリーの首に近付け、エアハルトに不気味に笑いかける。予想していなかったリリーは驚き、背筋が凍り付くのを感じた。
「これでも話せないと言えますか?そう仰るなら彼女に電気を流します。目の前の可愛いお嬢さんを痛い目にあわせるなんて……普通の男ならできませんよね」
初めてエアハルトの表情が微かに動く。
「関係の無い者を巻き込むな。やるなら僕にやれ」
低い声で静かに言った。
「……ひっ」
リリーは首すれすれまで寄ってきたスタンガンに怯えて歯を震わせる。顔から血の気が引いて、今にも失神しそうな状態になっている。
「僕にやれと言っている!」
エアハルトが強い口調で発言した。
「弱者に手を出すのは、一番卑怯な方法だろう!」
抗議する姿すらも凛々しい。なにも整った顔立ちだけではない。誇り高い言動や真っ直ぐさを感じさせる頼もしい目付き。リリーはみるみるそれらの虜になっていった。
リリーは首からスタンガンが離されても、まだ落ち着かず、心臓は破裂しそうな程にバクバクと音を立てていた。
「騒がしいですよ」
ハリはやや腹立たしそうにエアハルトを見下すと、彼の首筋にじわじわとスタンガンを近付けていく。ひとまず感電させられるのを逃れたリリーは、緊張で唾を飲み込んだ。まるで威嚇しているかのように、先端部から稲妻みたいな光が走る。
やがて先端が首筋に触れると、エアハルトは「ぐっ!」と詰まるような声を上げて、頭を前に倒す。それからほんの数秒間があり、目を細く開いた。
「さすがの貴方でも、首筋は効いたでしょう?」
ハリは嫌みな感じに口角を上げる。リリーは彼がそういう人であることを知りがっかりした。
「どうです?リリーさんも。こういう趣向はお嫌いですか?」
当然好きではないが、本当のことを言うわけにはいかない。だからリリーは控え目に「そんなことはありません」とだけ答えた。
それからハリはエアハルトの体のあちこちにスタンガンを当てた。その度にエアハルトは体をくの字に曲げて、空気の混ざった苦痛の声を漏らす。
「アードラー氏、強がりは止めていいのですよ。さぁ、すべてを早く話して下さい。苦しいのは嫌でしょう。とっとと話して楽になって下さい」
ハリは楽しそうな笑顔でリリーにスタンガンを手渡す。失敗して自分が感電しないかと不安を抱きながら、恐る恐るスタンガンを受け取る。
「リリーさんも心ゆくまでしてあげて下さい。きっと目覚めるでしょう。これは癖になる楽しさですよ」
ひたすらサディスティックな男だ。
リリーが思いきれず、何もできずに迷っていると、彼は「さぁ、早く!」と妙に急かす。だが魅力的なエアハルトに酷いことをする勇気は出ない。
「それとも、我々のことを裏切るのですか?」
冷たく言われたリリーは得体の知れない恐怖に襲われ、慌ててスタンガンをエアハルトに向けた。リリーは「ごめんなさい」と口の中で小さく何度も繰り返しながら、スタンガンの先端を彼に近付けていく。触れる瞬間、エアハルトはリリーの方を向き、「いいよ」と微笑した。謝ってからリリーはスタンガンを当てる。その一撃では、彼は声を出さなかった。
それからしばらく、リリーは口を開けなかった。気まずくて何も言えなかったのだ。そんなリリーにエアハルトはさりげ無く声をかける。
「君はナスカによく似ている。優しくて、相手の心が見える、そんな素敵な子さ」
リリーが微かに嬉しそうな顔をしたのをハリは敏感にキャッチし、微笑んだ表情とは裏腹に怒った口調になる。
「あんな誘惑に惑わされるんじゃない!あいつは誰にでもこんなことを言う女好きだ。性欲の処理に利用されるだけだぞ!」
怒っている方向性がまるで謎だ。リリーにはその言葉が、美しいエアハルトに対する嫉妬に聞こえた。ハリは更にいちゃもんのような発言を続ける。
「それにあいつは変態だ!服を脱がせてもいくら辱しめても、飄々としていやがる!」
正直それは大きな声で言ってはいけないことだとリリーは思った。自分たちのしている酷い行為を言いふらしているも同然である。しまいにハリは、こんな奴は尋問ではなく拷問を受けるべきだ、なんて言い出す。あまりに愚かな発言。上司が見たら呆れるだろう。
「まったく……イライラするじゃないか!」
ハリはストレスを発散するため椅子を横倒しにしようとするがちゃんと倒れず、余計に苛立ってくる。
「くそっ、鬱陶しいな。まぁいい……少し遊ぶか」
リリーはハリを紳士の皮を被った悪魔だと思った。最初紳士的な男性だと思った自分を馬鹿だったと笑いたいくらい。
ハリは並べられた怪しい道具の中からペンチを手に取り、エアハルトの右腕だけを椅子の後ろから自由にする。動かせるようになった右手を掴むと、気持ち悪い笑みを浮かべる。
「今から爪を剥がしていこう。白状する気になればそう言え。そこで止めてやる」
ペンチで親指の爪を挟み、それを握る手に力を加えた。
「戦力については一切話さないと言っている!」
意地を張るエアハルトの右親指の爪を、ハリは遠慮の欠片もなく剥がした。一欠片の躊躇いもない。むしろ楽しんでいる。指先が赤く滲んだ。リリーは気持ち悪くなって後退する。
「どうだ、言う気になったか」
エアハルトは首を横に振る。するとハリは人差し指と中指の爪を続けざまに捲った。それでもエアハルトは沈黙を守った。 リリーは必死に目を逸らす。だが怖いもの見たさか、いささか見てみたくもなった。しかしこれ以上気分が悪くなっては大変なので我慢した。
「リリーさん、もっと見てあげてはどうです?ふふふ」
楽しそうなハリに声をかけられてもリリーは絶対に見ない。これは彼女なりの最大の抵抗であった。
更にハリは薬指と小指の爪も楽しそうに剥がした。エアハルトは歯を強く食い縛り苦痛に耐えている。
やはり彼はかなり我慢強かった。弱音は吐かないし、相当な痛みのはずだが声も出さない。何より、彼はこの異常な空間の中で、正常な精神を保っていたのだ。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.69 )
- 日時: 2017/09/07 18:51
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: KnTYHrOf)
episode.9
「不思議な女」
クロレアが提示したエアハルト解放交渉を、リボソ国は拒否するどころか無視し続けた。上はエアハルトが利用されるのを物凄く恐れていた。解放のための資金要求ならまだ良いが、悪質な宣伝に利用されたり寝返ったりした日には、軍の士気が急激な低下をしかねない。そんなことでやけに慎重になっているせいか進展が無く、それがナスカも含む航空隊員たちを苛立たせた。交渉はまったく進みそうにない。そのようなままの状況で時間だけが過ぎていく。
そんなうちに1950年が訪れた。
マリアムは精神を病み、以前とは打って変わってあまり喋らなくなった。毎日自室に引きこもって泣いてばかり。ろくに食事も取らず、日に日に痩せ細っていく。あまりの状態に黙って見ていられなくなったナスカは、仕事の合間をぬって、時折食事を作りに行ったりした。放っておくと何日も何も食べていない時もあったからだ。
この日もナスカはマリアムの部屋へ行って手作りの卵粥を振る舞った。見せても食べようとしないので、ナスカはスプーンですくって食べさせる。
「マリーさん、食べなくちゃ駄目ですよ。私の作ったのなんで美味しくないかもしれませんけど……」
マリアムは口に入ったほんの少しの粥をゆっくり噛み、「美味しいよ」と弱々しい声で言った。ナスカはマリアムが飲み込むまでじっと待つ。
「美味しいなら良かったです。ゆっくり食べて……」
マリアムのくすんだ頬を一粒の涙が伝った。
「ごめん、もう食べられない。お腹がいっぱいなの」
目は虚ろで皮膚の血色も悪くなっている。こんな調子ではいつか本当に重度の栄養失調になってしまう。
「アードラーさんに……もし何かあったら……全部あたしのせい。もう生きていけない。あわせる顔がない。帰ってきたって……あたしは整備士をクビになる。……どうしよう」
マリアムはこんな弱気な言葉ばかりを繰り返す。ナスカは「きっと大丈夫」と慰めることしかできなかった。
「大丈夫です、信じましょう。上の方々が解放交渉をしてくれてますから」
静かな部屋で彼女の手を優しく握り、静かに励ます。
そんな時だった。
「ジレルだ。ナスカくん、いるか?」
扉の向こう側からナスカを呼ぶ声がする。ナスカは「はい」と明るめに返事をして扉を開ける。すると立っていたジレル中尉はつまらなさそうな顔で「客が来ている」と言った。彼らしいそっけない言い方である。談話室で待ってもらっている、と彼はそれだけを伝えにわざわざ来てくれたらしい。
「すぐに行きます。あ、ジレル中尉、お時間ありますか?」
彼は不思議な顔で頷く。
「あそこに置いてある卵粥を、マリーさんに食べさせてあげてもらえないでしょうか?」
彼の表情が凍り付く。
「は?今、何と?」
マリアムが塞ぎ込んでしまったのは今までエアハルトに依存し続けていたからだ、と推測したナスカは、新しく親しい人が増えれば少しでも傷が癒えるかもしれないと考えた。それにジレル中尉を使おうという企みである。
「とにかく、マリーさんに卵粥を食べさせてあげて下さい」
ついでにジレル中尉にも友達が増えれば一石二鳥。
「なぜ私がしなくてはならん?私が他人を苦手だと知っているだろう」
「戦闘機に乗れないんですからその分働いて下さいよ〜」
ナスカは冗談のつもりだったのだが彼は真面目に納得したらしく「それもそうだな」と呟き頷いていた。そしてナスカはやや早足で談話室へと向かった。
扉をノックすると、はい、と返事があったので、ナスカは中へ入る。
「ごめんなさいね、突然」
ソファに腰を掛けた女が笑顔で馴れ馴れしく手を振る。片手はティーカップを握っている。ナスカは記憶を辿ってみるが、今までにその女に会った覚えがない。
「掛けて頂戴ね」
礼をして向かいのソファに座る。その間もナスカは一生懸命思い出そうとしていた。
「初めましてよね。ヒムロ・ルナよ、よろしく」
長い睫やすっきりしたアーモンド型の目、顔付きはとても大人っぽいが、桜色のリップが若々しさを感じさせる良い雰囲気の女性である。ナスカが無意識のうちに見とれていると、彼女は少しはにかんだ。
「何かおかしいかしら?薄い化粧には慣れていなくて……」
ナスカは首を振る。
「いえ。綺麗な口紅だなぁと」
すると彼女は花が咲くように微笑み、優しく「ありがとう」と言った。
「ところで、今日は私に何か用事で?」
ナスカが尋ねると、ヒムロは話し始める。
「あたし、リボソ国で尋問官をしていたのだけど、アードラーくんって凄くいい男ね。凛々しくてとても魅力的」
ナスカは怪訝な顔をする。
「……エアハルトさんをご存知なのですか?」
「そうよ。彼を知っているの。警戒しないでね。あたしは貴女たちの敵ではないわ」
ヒムロはテーブルに置かれた紅茶をそっと口へ注いだ。
「実を言うと、あたしはやり方に賛同できなかった。あんないい男を壊そうとするなんて意味が分からなかったから逃げてきてやったのよ。だけど、捕まったらそこで終わりだわ。だからしばらくの間、ここに匿ってもらうことにしたの」
ヒムロは楽しそうな調子で話すが、ナスカは話が理解できなかった。逃げてきたから匿え?何とも自分勝手な話ではないか。
そんな真っ只中、大きな爆音と共に怒声が響いた。扉越しのため怒声が何を叫んでいるのかはっきりとは聞き取れない。ヒムロの表情は微かに焦りを見せるが、その焦りすらも楽しんでいる様子だ。初対面の相手に笑顔で手を振ったり一人で敵陣にやって来て匿ってくれと頼んだり、ナスカは彼女を結構変わった女性だと思った。わけの分からない行動をする人、考えが読めない人は苦手である。
「何の騒ぎかしら」
騒ぎの原因は一番分かっているはずなのにヒムロは白々しく言った。「見てこい」と言いたいのだろうなと察知したナスカは「見て参ります」と返す。
「そっと様子を見せてもらおうかしら。ふふっ、冗談よ」
本当に意味が分からない。
「女を匿っているだろう!大人しく出さないか!!」
その声の主を見た時、ナスカは青くなった。覆面の男だったからだ。
あの日、ナスカから両親と最愛の妹を奪った奴である。見るだけで吐き気がした。数人いて銃を構えている。中の一人は紙を持っていて、そこにはヒムロの写真が載っている。
「そう言われましても、そのような女性はまったく心当たりございません。ですから、お引き取り下さい」
冷静に対応に当たっているベルデに銃口を向ける者もいた。
「平和的な退去を願います」
ベルデはひたすらその姿勢を崩さずにいる。
刹那、近くにいた女性の肩甲骨辺りを銃弾が撃ち抜いた。高い悲鳴を上げて女性は倒れる。場が凍り付く。それまでは威嚇に使っているだけだと軽視していたが、銃の意味が変わった。下手に動けば撃ち殺されてもおかしくない、と誰もが思う。
「これでもまだ隠せるのか?」
覆面の男は問った。
「隠すも何も、知らないものは仕方無いでしょう」
ベルデは平静を装い答えた。
一人の覆面の男が人形のように倒れた女性に歩み寄り、脱力した彼女の体をいとも簡単に持ち上げる。四肢は力が抜けてだらりと垂れている。
「まぁいい。よく見ると美人な女だし、死ぬ前に遊ぶか」
男はダガーナイフを取り出して女性の着ている衣服を切り裂く。ブレザーは分厚くて切りにくそうだった。衣服を完全に脱がせると、布一枚被せて担ぎ上げ外へ引きずって出ていった。一部始終を見ていたナスカの心には、恐怖と共に怒りがふつふつと沸き上がってくる。
「まだ言わないなら、ここの女を全員蹂躙してから捕虜も処刑するぞ!」
極めて分かりやすい脅迫である。
「そう言われましても、知らないものは協力のしようがございません」
あくまでその姿勢を貫くベルデの肩を銃器で強く殴った。ベルデは激痛に言葉を失った。男は調子に乗って言う。
「はっはっは、あの男がいなければ航空隊もあっという間に潰れるぞ。あいつ以外に脅威的な実力者などはいないだろう」
さすがにこれにはほとんど皆がイラッときたが、その侮辱に対して言い返す者は一人もいなかった。有力者が他にいないと思われている方が得だからである。
「捕虜を処刑していいんだな」
銃口がベルデの眉間を睨んでいる。彼はひたすら痛みを堪えて「知らないものは知らない」というスタンスを貫いた。いつ撃ち殺されてもおかしくはない状態である。当人も覚悟を決めているだろう。
「よし、決まりだ!」
男たちは吐き捨てるように叫ぶと退散していく。
そして、静寂が訪れた。ベルデは安堵と恐怖の混じった複雑な心境で溜め息を漏らす。
「大丈夫ですか?」
ナスカは声をかけた。ベルデは肩を押さえながら深刻な顔付きで、
「追い払えたのは良かったですが……アードラーさんが心配です。そう簡単に殺すとは思えませんが、解放交渉を急いだ方が良いかもしれませんね」
と言った。
衛生科の数名が割れた窓ガラスを慣れた手付きで片付け始める。ベルデは他の警備科の人に待機所の警備を厳しくするよう相談を始めた。ナスカは再びヒムロの待つ談話室へと戻る。
「お客様はもうお帰りになったかしら?」
ヒムロがひっそりとした声で尋ねてきたのでナスカは頷く。それを見たヒムロは少しリラックスした顔になって拍手をしながら、「さすがだわ」とクロレア航空隊を称賛した。
「で、これからはどうされるのですか?」
ナスカが尋ねると彼女は明るい表情で、「しばらくここにいさせてもらおうかしら」と返した。
「もちろん無条件にいさせろとは言わないわ。ちゃーんと働いてあげる。あ、貴女の紅茶冷めちゃったわよ」
ヒムロは既に自分の紅茶を飲み終えていた。テーブルに置かれた紅茶の入っているティーカップから湯気は出ていない。
「淹れ直しを頼めば?」
ナスカは結構ですと断って一気に飲み干した。今のナスカからすれば紅茶の温度なんてどうでもいい。
その様子を見たヒムロは愉快そうに笑う。
「ふふ、一気に飲み干したわね。可愛いじゃない」
そして続ける。
「実は、あたしに良い考えがあるの」
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.70 )
- 日時: 2017/09/07 18:52
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: KnTYHrOf)
episode.10
「長い夜の幕開け」
その日の夜のことだった。ヒムロが唐突に話し出した。
「実はあたしアードラーくんがいる部屋の鍵を持っているの。何も隠す必要は無いわね。見てちょうだい。これよ」
ヒムロは食堂にて、航空隊員らの前で金色の鍵を取り出し見せた。少し自慢げに。磨かれているらしく、金属光沢のある鍵である。
「これがあれば交渉する必要もなくなるって話よ。問答無用で叩きに行けるわ。それぐらいはさすがに分かるでしょう?」
隊員は誰も彼女をの言葉を本当だと信じてはいない。当然だ。勝手に逃げてきた敵国の女を快く受け入れる者など、一人だっているはずがない。事実その女のせいで仲間が一人殺された後なのだから、なおさらだ。彼女が疑いの目で見られるのも仕方無いこと。
「リボソ国の収容所を叩くなら今が絶好のチャンス。というより、これが最初で最後の機会だわ」
ヒムロは自身に向けられる疑惑の視線など一切お構いなく、自信に満ち溢れた表情で説明した。他者の心理状態など彼女はまったく気にしない。
そして、こう結ぶ。
「やる気になったら言って。当然のこそだけれど強制はしない。あたしは貴方たちの意思を尊重するわ。だってこれは貴方たちの国のことだから」
ヒムロが優しく微笑んだのを合図に解散になった。それぞれが速やかに自分の場所へ帰っていく。
ナスカは肌でひしひしと感じていた。もう誰も、絶対にエアハルトを助けなければとは思っていない。誰もが疲れ果てて「どうでもいい」という雰囲気である。つまりもう諦めているのだ。もっとも、そんな雰囲気だから言い出せないという者はいるかもしれないが。
食堂から人がいなくなったタイミングでヒムロがナスカに声をかけた。
「少しお時間いいかしら」
ナスカの隣にいたトーレは驚いた顔をする。ナスカは怯まず「何ですか」と返した。
ヒムロは二人の向かいの椅子に座るとタブレット端末をテーブルに置く。彼女は少し操作してから、タブレットに向かって「アードラーくん、聞こえる?」と呼びかけの声を出した。ナスカとトーレはその様子を不思議な顔で見つめる。しばらくするとタブレットから声が聞こえてきた。
「……何か?」
それは間違いなくエアハルトの声で、ナスカは唖然とする。
「聞こえているのね」
「……え、どこ?」
エアハルトの声は不思議そうに尋ねた。
「声の聞こえてくる場所は気にしないで。ナスカに変わるわ」
ヒムロはそう言った後タブレットをナスカの方に向けると、何か喋るように促す。
「もしもし」
電話しかしたことのないナスカはそう声をかけてみる。
「……本当にナスカ?」
そんな風に返ってくる。ナスカは嬉しくなった。心が軽くなるのを感じる。生きていてくれることをどれだけ願ったか。
「そうですっ。エアハルトさん……ご無事で何よりです!」
エアハルトは前と変わらぬ声質ではははと笑った。
「心配させたかな、ごめんね。でも良かった。こうしてまた君と喋ることができて」
そして彼は少し寂しそうな声で告げる。
「明日の朝、処刑が決まった」
ナスカは耳を疑った。生存を喜んだばかりなのに、明日の朝処刑だなんて。
「本当は言う必要なんてなかったんだけど、やっぱり隠しごととかはいけないと思ってね」
トーレは椅子から落ちた後に慌てふためく。ヒムロも処刑については知らなかったらしく、表情が凍り付いていた。
「感謝でいっぱいだよ。ナスカ、本当にありがとね。少しの間でも君を指導できたこと、嬉しかったな」
エアハルトは明るくそんなことを言う。もう死ぬ。すべてを諦めているようだ。
「つまり朝までは大丈夫なのですね?分かりました!今から助けに行きます!」
必死に平静を装い宣言するナスカに、エアハルトは落ち着いた声で返す。
「そんな気遣いはいらないよ。エアハルトの名に恥じない死に方をするから、温かく見守っていて」
そして笑う。
「僕は戦場に行く人間だ。いつかこの日が来るとは分かっていたよ。だから死ぬのは怖くない。でも、大事な君を失うのは辛いからさ」
ナスカは動作は見えていないと分かりながらも必死に首を横に振る。
「諦めずに待っていて下さい。必ず助けに行きます。どうか、一秒でも長く生きていて。私、大切な人を失うのはもう嫌なんです」
するとエアハルトは頑固な彼らしくなく折れた。
「あ、でも、無理になったらそこで諦めるんだよ」
「はい、分かってます。ですができることは全部します!」
ナスカはタブレットをヒムロに返して、トーレに協力するように頼む。彼はもちろん頷く。
「アードラーくん、今から作戦終了までずっと繋いでおくわ。何かあったらいつでも言って構わないわよ」
ナスカは作戦を考えるが、経験不足で考え付かない。今までずっと指示に従っての仕事だったからだ。何から始めれば良いのか分からず、考えれば考える程焦ってくる。それはトーレも同じだった。そんな時、ナスカの脳内にジレル中尉が浮かんだ。協力を頼もうと思い部屋に向かう途中、壁に持たれていた彼が声を掛けてくる。
「……やるのか?」
ナスカは急ブレーキをかけて彼の方を向く。ジレル中尉は作られたばかりの真新しい義手が装着された左腕を右手の指で触っていた。
「もしかして、今の話聞いてました?」
彼は静かに言う。
「盗み聞きするつもりはなかったのだが」
聞かれていたことなんてどうでも良かった。
「でしたら話が早いですね。お力を貸してはいただけませんか?」
ナスカはそう頼んだ。普段なら彼を頼るなんてしなかっただろうが、今は話が別だ。時間がない、人も足りない。
すると彼は右手で腰に装着していた拳銃を取り出す。
「調整するとしよう」
それはイエスという意味だと理解したナスカは、ありがとうと頭を下げた。ジレル中尉は「もし何かあったら私の責任になるからだ」と冷たく言い放つ。だがそれが照れ隠しだとナスカはすぐに分かった。
「ありがとうございます!心強いです」
ナスカに感謝されたジレル中尉は照れを掻き消すように話題を変える。
「出撃準備をしておけ。こちらは私に任せて構わん」
言い方はぶっきらぼうだがやる気満々なジレル中尉を見ていると、何だか安心してくる。ナスカはそっと拳を胸に当て、祈った。エアハルトが元気に帰ってくることを。
——この作戦の成功を。
「ナスカ、大丈夫?敵陣の中に突っ込んでいくってことは何かあってもおかしくない。怖くないの?」
出撃する準備をしているナスカに、珍しくトーレが話しかけた。いつもは準備中に声をかけることはないが今日は特別。
真っ暗な空にチラチラと輝く星をナスカは見上げる。星の光はいつもに増して明るく見える。
「私は……大切な人が死ぬのを何もできずに見ているのが一番怖いわ。自分に可能なことはすべて試したいの。エアハルトさんは私の夢を叶えてくださった。だから今度は私が救いたい。お返しができたらいいなって。……彼は平気な振りをしているけど、本当はきっと、助かりたいと願っているはず」
二人を沈黙が包み込んだ。トーレは彼女の覚悟の強さをこの時再確認させられる。そして、彼女と一緒に戦えるのは幸せなことであると思った。
「そういえばナスカ、ジレル中尉って白兵戦は得意なんだって。生身で銃撃戦とか結構得意らしいよ」
機体を簡単に検査していたナスカはその話に興味を持った。
「どこで知ったの?」
するとトーレは満足そうに答える。
「警備科の人に聞いたんだよ。ジレル中尉、元は警備科だったらしい。地上戦功労賞とかいうのも持ってるぐらい優秀で、結構実戦にも行ってたみたい。でもある時、訓練中の事故で優秀なパイロットが数人亡くなった時があって……、飛行経験があったって理由だけでこっちに変えられたんだって」
だからいつも不機嫌に過ごしてたみたい、と彼は話す。しかしナスカは訓練中の事故についての方が気になった。
それを聞いた時、ふとヴェルナーのことを思い出したのだ。ヴェルナーは確か訓練中の事故で足を悪くした。それと関係があるのかもしれないと感じる。
「その事故っていうの、トーレは詳しく知ってるの?」
トーレは突然聞かれて、大きな瞳をぱっちりと開いて不思議そうな顔をする。
「詳しくは知らないけど……それがどうかした?」
「ううん。今はいいわ」
ナスカは笑顔で話を終わらせた。今すべき話ではないと思ったからである。
それから一時間も経たないうちに、作戦を立案したジレル中尉がやって来る。後ろにはヒムロの姿があった。ジレル中尉は簡単に説明し始める。
「この経路なら比較的安全度が高い。これで行く」
足りない分をヒムロが付け足す。
「この男はナスカの機体に乗るの。そっちの機体は坊やが操縦して、あたしも乗るのよ」
そしてナスカは収容所内の予定地点に着陸し救出に向かう。現れた敵はジレル中尉が潰して時間を稼いでくれるという、単純明快で分かりやすいプラン。これなら少人数でも何とかなる。
「では、健闘を祈る」
ジレル中尉は敬礼するとトーレも返す。しかしヒムロはしなかった。
それから助手席にジレル中尉が乗り込むと、ナスカは少しばかり緊張した。彼がいると、試験官にチェックされているみたい感じられる。
こうして、長い夜が始まる。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.71 )
- 日時: 2017/09/07 18:58
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: KnTYHrOf)
episode.11
「突撃!敵陣へ」
ナスカを乗せた機体は加速し一気に星空へ舞い上がる。それに続いてトーレも離陸した。
「夜に飛ぶのは初めてだわ」
少しでも気をまぎらわすべくナスカは無線でトーレと会話する。
【うん。視界が悪いから安全運転しないとね!】
地上から見上げる夜空は好きだが、暗い空を飛行するのはあまり心地よい感じではなかった。暗闇に吸い込まれそうな、そんな感覚に陥る。それに、現実的に考えても、視界が悪いせいでぶつかりそうで怖い。
ジレル中尉は安全ベルトがきついらしく、顎を上げて溜め息を漏らしている。早速ストレスが溜まっているようだ。ナスカは予定通りの飛行を数分間進めた。
「リボソの管理空域に入るぞ。探知されるものはすべて消せ。ばれるなよ」
ナスカはジレル中尉の指示通り無線とレーダー系を切り、高度を徐々に落とす。ジレル中尉は窓から双眼鏡で地上を眺めている。
「間違いないな。予定通りだ」
なるべく騒がしくならずに着陸しなくてはならない。撃ち合いとはまた異なる緊張感だ。指先まで神経を巡らせていたおかげでスムーズな着陸に成功した。取り敢えず第一関門突破だ。
ジレル中尉は持ってきていた銃器を抱えて機体を降りると辺りを見回した。そして、周囲に誰もいないことを確認すると、OKサインを出した。ナスカはそれから地面に降りる。
「やけに静かですね」
ナスカは小声でジレル中尉に話しかける。リボソの夜はいやに静かだった。普段なら話しかけないであろう彼に話しかけたのは、音がしなさすぎて気味が悪いからである。二人は音を立てないよう注意しつつ、目的地へ慎重に歩く。
「あぁ、そうだ。これを」
ジレル中尉は唐突に黒くて丸い物体を渡してくる。
「これは、手榴弾ですか?私、使ったことありませんが……」
「似ているが煙玉だ。手榴弾ほど危険な物ではない」
彼はいつもと同じく無愛想だが、一応ちゃんと説明はしてくれた。
「安全ピンを抜くと煙が出る。使う時はピンを抜いてすぐに投げつけろ。少しは時間稼ぎになるだろう」
カサッ。
小さな音にも敏感になっているナスカは恐る恐る音が聞こえた方に目を向ける。ジレル中尉は反射的に前に出た。
すると、草むらからただの子猫が出てきた。
「あれ、猫?」
ナスカが予想外に安堵の溜め息を漏らした刹那、背後から硝煙の匂いがした。驚いて振り返る。
ジレル中尉の背中の向こう側にに人が倒れている。よく見ると眉間から血を流していて、もうびくとも動きそうにない。ナスカは久し振りに見る死体の生々しさに吐き気がしそうになった。
「不審者がいるぞ!」
誰かの叫び声と共に足音が聞こえる。
「もう見付かってるじゃないですかっ」
ナスカはつい大きめの声を出してしまう。ジレル中尉は静かに口を閉じるよう命じた。
「顔を見られるな。邪魔者は私が片付ける」
彼は銃を構え、敵が近付いてくる方向へ連射した。夜の闇に轟音が響く。その隙にナスカは耳を押さえて呼吸を整える。敵との距離が近付いてもジレル中尉は冷静だった。彼の放つ銃弾は目に留まらない速さで敵を確実に仕留めていく。鮮血が飛び散り地面を赤く濡らす。ナスカは「ここまで派手にやってしまえばもう引き返す事はできないな」と思った。
ひとまずその場の敵をすべて殲滅したジレル中尉は、ナスカを先導した。
気味の悪いかび臭い建物に入る。なるべく足音が立たないように注意しつつ暗い通路を駆ける。ヒムロが見せてくれた地図は正しかった。だから、ほぼ順調に進んだ。
ちょうどその頃、トーレが爆撃を開始したらしく、外から音が聞こえた。騒ぎは徐々に広がってくる。
そんな時だった。
「やはり来ましたね」
一人の紳士が姿を現す。大人の魅力に満ち溢れた、穏やかな雰囲気を持つ男性である。
「アードラー氏を取り返しにいらっしゃったのでしょう?分かります。彼も夜が明ければこの世にはいませんからねぇ」
敵との遭遇にナスカは唾を飲み込む。ジレル中尉は彼を睨み付けた。
すると男性は紳士的に優しそうな顔をする。
「まぁまぁ、そんな怖い顔をせずに。死刑は彼だけ。貴方がたは捕虜にするだけで堪忍して差し上げますよ」
その後ろに女が立っていた。見覚えのない顔である。金の長い髪をたなびかせ、鋭い目には光がない。よく見ると第一印象よりは幼い顔付きだ。
「この子はとても優秀でね、短期間で物凄く強くなったんです。いよいよ成果を試す時が来たようですね。はい、それでは」
男性の声と同時に金髪の女は宙に飛んだ。片足を勢いよく蹴り上げるのをジレル中尉はひらりとかわす。女とジレル中尉の実力は拮抗している。
着地の瞬間に数回発砲したのを女は華麗な身のこなしで避け、ジレル中尉の脇腹に蹴りを入れる。ジレル中尉はナスカが呆気にとられている間に、横の壁に叩き付けられた。腰を強打した彼はすぐには立てない。だが腕に抱えた銃を無理矢理連射する。しかし、そんな撃ち方で命中するはずもない。
「ジレル中尉!」
ナスカは悲鳴のように叫んだ。
女は彼をコンクリの壁に押し付けて腹や胸に蹴りを入れる。逃げ場は無い。それでも彼は義手の左腕を振り回したりして抵抗した。そしてもたもたしているナスカに叫ぶ。
「早く行け!」
ナスカは頷いて記憶を頼りに先へ走り出す。
ナスカを追おうとした男性の背中を、ジレル中尉は撃ち抜いた。その場に女と二人きりになるとジレル中尉は反撃に出る。
「本当に痛かったじゃないか」
目の前にいる女を殺すつもりはない。いかにして足止めするかに彼は頭を使っていた。
一方ナスカは捕虜を収容している個室のある付近へ到着する。小部屋が沢山並んでいる。
ナスカは急いで鍵に彫られている部屋番号の部屋を探した。構造が複雑すぎて頭が痛くなりそうだったが何とか見付けることができた。急いで鍵を鍵穴に差し込む。最初は上手く開けられない。しかし、諦めずに数回差し抜きしているうちに勢いよく扉が開いた。中はナスカが予想していたより狭い。
「エアハルトさんっ」
鋭い瞳がナスカを見る。それは間違いなくエアハルトのものだった。黒い髪には艶がないが瞳の凛々しさは感じられる。
「生きていて良かった!」
ナスカは衝動的に目の前にいる男を抱き締めていた。
「痛い痛いっ!」
エアハルトは突然のことに驚き戸惑ってジタバタする。
「あっ、ごめんなさい!」
ナスカは正気に戻って体を離した。無意識のうちに思っているより強い力を入れてしまっていたらしい。
「痛かったですか?強くしてしまってすみませんでした」
謝罪するナスカにエアハルトは笑いかける。
「ううん、大丈夫。ごめんね。突然だったからびっくりしちゃっただけだよ」
ナスカは立ち上がりエアハルトに向けて手を伸ばす。
「急いでここを離れましょう。そろそろ見つかって追っ手が来るかもしれません」
するとエアハルトは非常に気まずそうに述べる。
「……足に枷が。部屋の鍵と同じので外れると思うんだけど、試してくれないかな」
ナスカは強く頷き、鍵穴を探し見付けて、そこに鍵を差し込む。カチャンと音を立てて鎖の繋がった枷が外れた。
「外れましたっ。さぁ、急ぎましょう」
エアハルトはゆっくり立ち上がるとナスカの手を掴んで「ありがとう」と言う。赤くこびりついた傷だらけの手をナスカはそっと握り返した。顔を見ると随分痩せたなと思ったが言葉には出さなかった。
「必ず生きて帰りましょう。みんな、エアハルトさんを待っていますから」
ナスカは手を引いてエアハルトと小部屋を出る。急ぎ足で予定通りの経路を進む。
「いたぞ!あっちだ!」
近くから声がしたので二人は壁に隠れる。ナスカは心臓が破裂しそうなぐらい緊張した。鼓動の音で発見されるのではないかと思うぐらい、鼓動が大きく速くなる。
「いません!」
「探せ、と言っている!いいからとっとと探せっ!」
少しは休憩できたがすぐに発見される。奴らに捕まったら最後だ。ナスカはエアハルトを引っ張って走る。走る。ここまで来て死ねるか。死に物狂いで走った。
「痛いよ、ちょ、ちょっと!」
敵との距離が徐々に縮まる。敵が予想以上のスピードだったのだ。ナスカは必死になって、がむしゃらに全力疾走する。
やがて視線の先に、外へと続く扉が見えてくる。失いかけていた希望が蘇ってきた。ヒムロの話によると、そこはいつも鍵が閉まっていないらしい。ナスカは今夜も開いていることを願い扉に手をかける。すると扉は簡単に開いた。
ようやく外へ出られた。ナスカはほんの少しだけだが安堵する。
「追い詰めたぞ!」
しかしその叫び声を聞いて気付いた。迎えが来ていない。作戦ではこのタイミングで誰かがここに来ているはずなのだ。
ナスカは青ざめると同時に、エアハルトを絶対に守らなければと思った。敵はすぐそこまで来ている。もう逃げられない。こうなったら全員を倒すしかない。
一人の男がエアハルトに飛びかかっていく。エアハルトは華麗な動きでナイフを奪った。衰弱しているであろう体でも、それなりの運動神経は健在のようだ。
「ぎゃー!取られた!」
「何やってんだ、バカッ!」
エアハルトは強く睨み、敵を牽制する。夜だからか空気がやけに冷たくなってきた。
「ナスカ、怯えることはない。君は一人じゃない。だから、きっと上手くいくよ」
彼は独り言のように言った。それがナスカに対する言葉であったか、それはよく分からない。
「僕が君を守る!」
叫び声と共にエアハルトは敵の中へ突撃した。武器はさっき敵の男から奪ったナイフしかない。人数的にみても勝敗は分かりきっている。だが彼は勇敢に戦った。愚か者ではないのだから歩が悪いのは分かっているはずだ。それでも彼は、ナスカを守りたかったのだろう。
エアハルトはナスカの予想を遥かに上回る強さを見せた。次から次へと襲いかかってくる男たちをナイフ一本で見事に倒していく。
「くそっ、全員で行くぞ!」
「ちょっとトイレ行きたいわ」
「うっせぇ!殺すなよ!」
三人の男がエアハルトに同時に襲いかかる。素早い動きで一人を切り裂いたエアハルトだったが、その際にバランスを崩して転倒した。その背中を一人の男の短剣が狙う。ナスカは意識しないうちに短剣を振り上げた男に向かって突進していた。不意打ちを食らった男はぶっ飛んで横倒しになる。
「おい、バカか!」
最後に残った男が怒声と共にエアハルトの首を強く掴み、いとも簡単に持ち上げる。
「ちょっと!止めて!」
ナスカは叫んで手を伸ばしたが、男の屈強なもう一方の腕に凪ぎ払われた。
「女風情が邪魔すんなっ!!」
男が手に力を込めるとエアハルトは掠れた呻き声を発する。
「ナスカに……手を出すんじゃない」
男は片膝でエアハルトの腹部を蹴り、首を締める手の力を強める。
「う、うぐっ……」
エアハルトは呼吸が出来ず苦しそうに顔をしかめている。その様子を見ていることしかできず、ナスカはまたしても自分の無力さを感じた。
「少し……待て」
それを聞いた男はほんの少しだけ握力を緩める。
「ナスカは、見逃して……やってくれ。……まだ、若いし。僕の首は、このまま締めて……構わないから」
エアハルトは微かに微笑む。
「ダメよっ!!」
ナスカは叫んだがエアハルトには聞こえていない。
「僕を……屈服させたいん……だろう。ナスカは、無関係……そうじゃないか……?」
数秒考えて男は返す。
「良いだろう、小娘一人ぐらい帰してやる。だが一つだけ条件だ」
それから男はエアハルトの首を両手でがっしり握り、一気に締め上げた。
「止めて!」
エアハルトは男を強く睨み付けるだけで何も言わない。恐らく言えないのだ。呼吸をする音が聞こえない。
「今から六十数える。終わるまで気を失わなければ小娘は見逃してやろう。こういうゲーム、好きだろう?」
ニヤリと悪そうに口角を持ち上げると、男はとてもゆっくり数を数え始める。ぎしぎしと首が締まる音がする。
「止めるのよ!」
ナスカは自分の足元に落ちていた短剣を拾い、男との距離を段々詰めていく。
「あぁ?何だ、小娘が」
そしてナスカは男に向かって短剣を振り回した。短剣の使い方はさっぱり分からないがひたすら振り回す。
やがて剣の先が男の片目を掠めた。薄く切れた瞼から血が伝う。男は痛みでか、思わず手を離した。脱力したエアハルトの体は地面に対して垂直に落下する。
「この小娘がぁっ!」
男は激昂してナスカを蹴る。体重の軽いナスカは勢いよく吹き飛んだ。更に追い討ちをかけるように、男は自分の全体重をかけてナスカの胴体を踏みにじる。
焼け付くみたいに痛い。痛くて泣きたくなったが、必死に涙を堪える。こんなところで弱さを見せてはいけない。そう思ったから。
「ナスカ……!」
必死に顎を上げるとエアハルトと目が合う。彼は荒い息をしながら横たわっている。さすがにあそこまでされた後ではまともに動けないらしい。
「ん〜ん?よく見ると良い体をしているな。ちょっとだけ遊ばせて貰おうかな?」
男はゆっくり腰を下ろすと、にやけながらナスカの体に触れる。
「ち、ちょっと!」
腰から背中にかけてをゆっくりと柔らかに撫で、手を腹の方も触ろうと手を伸ばす。
「もっと……あ?」
突然、男の言葉が途切れた。男は同じ体勢のまま真後ろに倒れる。ぴくりとも動かない。その様子はまるで亡骸だ。地を赤が染めていく。
ナスカは慌てて立ち上がり、エアハルトの方へと駆け寄る。
「エアハルトさんっ、無事ですか?エアハルトさん!」
彼は輝きの無い虚ろな瞳でナスカを見た。
「……ナスカ?」
ナスカはエアハルトの血に濡れた唇をハンカチで拭う。
「命中したか」
聞こえてきたのはジレル中尉の静かな声だった。狙撃用の細くて大きい銃器を右腕に抱え、こちらへ歩いてきていた。
「どうも間に合ったらしいな」
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.72 )
- 日時: 2017/09/07 18:59
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: KnTYHrOf)
episode.12
「もう失いたくなくて」
ジレル中尉は辺りに散らばった屈強な男達を見ると、不思議そうに言う。
「これは……まさかナスカくんが一人で?」
ナスカはさすがにそこまで凶暴ではない。
「いえ、私がやっつけたのは一人だけで。他は全部エアハルトさんです」
ジレル中尉は静かに視線をエアハルトに向けてから、「これが?」とでも言いたそうにナスカに視線を戻す。エアハルトは瞳を閉じて死んだように動かない。信じられないのも無理はないか。
「死んだのか?」
「死んでません!そんなこと、言わないで下さいっ!」
ナスカが注意すると彼は「やたら元気だな」とよく分からない文章を返した。
「それより、こんなところで安心していていいのか?まだ敵陣の真っ只中だ」
「そうですね。そろそろ行かないと。もう襲われるのはごめんです」
ナスカは立ち上がり、足についた砂を払うと、エアハルトを起こそうと声をかけてみる。
「エアハルトさん、聞こえますか?起きて下さい」
まったく反応が無いので、ナスカは彼の両腕をしっかり掴み引っ張ってみる。しかし、少女一人が意識不明の成人男性を動かすのは、かなりの重労働であった。
「うーん、うーん」
物凄く少しずつ引き摺るのがやっとだ。ナスカが困っているのに気付いたジレル中尉は、急にいつになく大きな声で叫ぶ。
「大変だ!ナスカくんが!」
「ジレル中尉、一体何を?」
するとエアハルトの指がぴくっと動いた。
「エアハルト……さん?」
不思議なことにエアハルトの目がぱちりと開く。むくっと上半身を起こすとナスカと目が合い、きょとんとする。
「あれ、ナスカ?」
エアハルトはきょろきょろしてから再びナスカを見る。
「……おかしいな」
「何が?」
「いや、何か聞こえた気がしたんだけど……気のせいかな?ごめん、忘れて」
ナスカはニヤッと笑ってジレル中尉に目をやる。彼は何事も無かったかのような顔をした。
「エアハルトさんには私の機体に乗っていただきます。その体で運転は難しいでしょう?」
「ナスカがそう言うならそうなのかも。やっぱり敵陣で無理はしない方が確実だよね。あ、でも僕の機体はどうなる?あれ研究されたら困るんだけど……」
「それはジレル中尉が」
するとエアハルトは怪訝な顔でジレル中尉を凝視する。そしてみるみる不穏な空気になる。
「壊さないで下さいよ」
「今のお前よりかはましだ」
エアハルトとジレル中尉は急激に嫌な雰囲気になり、睨み合い火花が散った。
「僕の愛機ですから、本来は僕が乗るのが相応しいのですけどね」
「案ずるな。私とて素人ではない」
「怖いのに無理することはありませんよ。僕が乗って差し上げましょうか?」
「可愛くないな。そんな体の状態で操縦できると思っているのか」
ナスカは疲れた。二人共不器用だからこんなことになるのだろうな、とナスカは思った。両方が意地を張って一歩も退かない。
「やればできる!」
「傷を軽く見すぎだ。満足に歩けもしないくせに強がるな」
「侮辱しないで下さい!」
「心配してやっているのだが」
ジレル中尉は嫌味たっぷりに溜め息をついた。
ナスカは苛立っているエアハルトの肩をぽんと叩く。
「落ち着いて下さい、ジレル中尉の言う通りです。無理は禁物ですよ」
エアハルトは溜め息を漏らしてから、微笑を浮かべた。
「あー……それもそっか」
ナスカの腕を持って腰を上げると彼はじとっとジレル中尉の方に目をやり、嫌味っぽく「ナスカに心配かけたくないからです」と言った。相変わらず面倒臭い性格だ。しかしナスカはエアハルトが元気そうになって嬉しかった。
二人が歩き出そうとした時。
「ジレルーッ!!」
長い金髪の女が猛スピードで走ってくる。ナスカは新手の敵かと思い警戒する。女はジレル中尉の前で止まった。よく見ると、さっきの女だ。
「ジレルー、邪魔な奴ら締め上げてきたよ。ねぇ、偉い?」
女はジレル中尉に抱き着く。ナスカは唖然とした。
「……誰?」
すると女はクルッとナスカに近付いてきて明るい声を出す。
「ナスカ。久し振り、分かる?リリーだよ!」
ナスカは驚きで何も言えなくなった。顎が外れる勢いだった。帰ってこないと諦めきっていたリリーが、今、目の前にいる。信じられない。
「り、リリーって……本当に言っているの?」
「そう、嘘みたいでしょ!リリーね、生きてたの!」
リリーと名乗る目の前の女は屈託のない笑顔を浮かべてナスカを見つめる。
「急に言われても、そんなの信じられないわ。疑問が多すぎるもの。貴女が本当にリリーだとしたら、あの時私が分かったのでしょう?分かっていながら、どうしてジレル中尉に手を出したりしたの」
彼女の表情が曇る。
「……それは」
気まずくなっているのに気が付いたからか偶々かは分からないが、エアハルトが穏やな口調で挟む。
「まぁまぁ、話は後で。ヒムロさんが急げって言ってるから急ごう?全部後で良いよね」
ナスカは少し言い過ぎたかと思い、口をつぐんでエアハルトの顔に目をやると、彼は小さく頷いた。エアハルトが転倒しないように腕を支えると、二人は歩き始める。
機体まで辿り着くと、ナスカは操縦席に座り、エアハルトを助手席に座らせる。シートベルトを締め電源を入れ、気合いを入れて前を向く。ナスカはいつもより緊張気味だ。だがとても懐かしい感じがする。今でも一人前だとは言えないかもしれないが、半人前だった頃を思い出す。
「エアハルトさんが隣にいてくれると、とても心強いです」
二人を乗せた機体はどんどん速度を上げ、やがて夜空へと高く舞い上がった。透明で外が見えやすい構造のコックピットからは、無限に広がる星の海が見える。プラネタリウムみたいだ。
ふと右手側を向くと、小さく朝日が見えている。朝が来たんだ、とナスカは少しだけその眩しさに見惚れた。不思議な感覚だ。つい先程まで真っ暗闇に星が瞬くだけだったのに、今はとても明るく感じられる。
「……朝か」
エアハルトはぼんやりと独り言を呟いた。彼の瞳の中でも、一日を始める太陽が輝き出している。
「本当にやってのけてしまうとは。ナスカ、君だけは敵に回したくないな」
「貴方を救えて良かった」
クロレアの地面が視界に入ってくる。二人は顔を見合わせると、初めて心から笑った。エアハルトは笑いながらで「かっこいいことを言うね」なんて言う。冗談だと思ったのだろうか?ナスカは本気だというのに。でもそんなのは全然気にならなかった。エアハルトが生きていてくれるなら何だって構わない。
朝がやってくる。空全体が水彩絵の具の青と赤を滲ませたような紫色に染まり、黄とも白とも言えない眩しい光が強まる。太陽の光は青い海の泡をチラチラと輝かせる。
赤い機体に白薔薇を描かれた戦闘機は高度を徐々に下げていく。訓練していた頃を思い出すと懐かしくて自然と笑みが零れた。アスファルトと白っぽい海面のコントラストがナスカの心を踊らせる。
帰ってきたのだ、と。
地上では先に帰っているトーレが大きな目を見開きながら手を振っていた。その横には微笑を浮かべたヒムロが長い髪を風に揺らしながら立っている。ナスカとエアハルトの乗る機体は少しずつ減速し、やがて着陸した。
「ナスカ!」
降りたナスカを一番に抱き締めたのはトーレだった。
「ぎゃっ、苦しい!」
息が詰まりそうな程に強く抱き締められて、ナスカは思わずはっきりと言ってしまった。ヒムロが顔を下に向けてくすくすと笑っても、トーレはまだ腕を離さない。
「怖かったよぉ。爆撃なんかしたこと無かったからもう、上手く出来なくて……途中で弾切れなっちゃうし。危うく対空ミサイルに撃ち落とされるところだったんだよぉ……!」
トーレは頬を濡らして泣いていた。ナスカは仕方が無いので彼の頭を優しく撫でる。すると余計に締まって苦しくなった。
「苦しいってばーー!トーレ、いい加減にして!」
「ごめん……ごめんなさい。ごめん、でも怖くてっ」
エアハルトは微笑ましい光景を見て爽やかに軽く笑った。それからヒムロを見る。
「あたし何か変?」
しばらく間を開けて彼は言う。
「いや、化粧が薄くなったなと思って。若干老けたか?」
「は?」
ヒムロは激怒した。と某有名小説の一文目を借りたいぐらいに、彼女は激怒した。
「ふざけんじゃないわよ!もう一度言ってごらんなさい、殺してやるわよ!」
「化粧が薄くなったな、老けたか?と言った」
「本当に言ってんじゃないわよ!何なのそのボケは。突っ込めと言っているのっ!!?」
「もう突っ込まれた」
「こんの〜〜クソ男!収容所へ帰れっ!」
「いい男じゃなかったのか?」
いたずらな表情のエアハルトに言われ、ヒムロは頬を真っ赤にして怒りながらも視線を逸らす。
「あぁもう……いい男よ!本当に本当にっ!!」
逆ギレだ。
「唇は諦めてないわよ!」
それを聞いたナスカは口をあんぐり開けて、ドン引きな表情でエアハルトを見る。
「もしかして、お二人はそういう行為を……?」
「してない!してないよ!」
エアハルトはナスカに誤解されたくなくて慌てて否定する。そこにヒムロが口を挟む。
「あら、忘れちゃったの?あたしとっても悲しいわ〜〜。収容所じゃ、た〜〜くさんさせてくれたのに……」
「鬱陶しいっ!捕虜だから逃げられなかっただけだ!」
エアハルトは憤慨する。
「でもアードラーくん、唇だけは必死で守ろうとしてたわよねぇ。あ、もしかしてナスカちゃんと……するから?」
「おい、調子に乗るなよ!」
ヒムロが茶化すと、今度はエアハルトが激怒した。ナスカは顔筋をひきつらせて「ないない、ないない」と繰り返した。
「でもあたしは諦めていないわよ。その唇はいつかきっとあたしが捉えるの。いつかはきっとあたしのものにする。あんなことまでしてくれたのだから……信じてるわ」
ナスカは更にドン引きして、青ざめた顔になる。
「そんな行為をなさってたなんて……収容所って怖い」
「いや、ちょっと待って。嘘だよ?この女の話まともに信じたらダメだからねっ!?」
エアハルトはぐったりして肩を落とす。ナスカはしばらくしてから笑いが込み上げてきて、笑い出すと止められなかった。
でも今ぐらいは、笑って良いと思う。
ふいに海の方を見上げると、黒い機体が飛んできているのが見えた。猛スピードのまま地面に向かって飛んでくる。
「何よアレ!このままじゃ墜落するじゃない!」
ナスカはあたふたする。
「あのクソパイロット……」
エアハルトは腹立たしそうに機体に目をやる。
黒い機体は速度がつきすぎていたせいで着陸に失敗しもう一度地上を離れる。そして、二度目の着陸を試みる。今度は何とか大丈夫そうだ。何度か地面にバウンドして機体は無理矢理地面に止まる。
ドアがバンと乱暴に開き、ジレル中尉が外へ出てくる。
「ジレルさんだ!」
トーレがそっちへ走り出す。しかしジレル中尉は駆け寄ってくるトーレを素通りして、エアハルトの前まで来て足を止める。
「……何ですか?」
エアハルトは怒りを堪えながら笑顔で尋ねた。
「おい、何だアレは!!?」
ジレル中尉は大声で質問し返した。
「……はい?」
「あれは何故にあんなスピードが出るんだ!着陸出来ないところだったではないか!」
いきなり怒り出すものだから、ナスカもヒムロも、トーレまで唖然。その中でエアハルトは一人ドヤ顔をして返す。
「実力の問題では?いや、すみません。違いました。ご高齢で操縦能力が鈍ってられたのでしょうね」
またしても喧嘩が始まりそうになったのをナスカが止めようとした瞬間、「まぁまぁ」という少女の声が聞こえた。
「ジレル、帰ってきたばかりで喧嘩なんてダメだよ」
リリーはてててと小股の小走りでこちらへ寄ってくる。ヒムロの存在に気付くと彼女は深くお辞儀をする。
「失礼しました!」
ヒムロは明るく笑って「いいのいいの」なんて言った。
「ヒムロさん、どうしてここに……あ、もしかして!リリーを捕まえにっ……!?」
一気に青くなるリリーの肩をヒムロはバシバシと激しく叩く。結構痛そう。
「んなわけないでしょーー!あたし逃げてここにきたのに」
「よ、良かったぁ……」
こうして長い夜は終わった。
(大切な人、守れたよ。私……少しは強くなれたかな)
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.73 )
- 日時: 2017/09/07 19:01
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: KnTYHrOf)
episode.13
「長い夜は終わり……」
「ナスカはとってもいい子ね」
母はいつも褒めてくれた。厳しく叱られたこともあったけれど、本当は心優しい母を、私は大好きだった。皆に囲まれてすごす幸せな日々を、私は当たり前だと思っていた。
だけど、母は突然死んだ。最期を見送ることも、さよならを言うことすらできなかった。それは私に力が無かったから。私が無力だったから、母や父、リリーも守れなかったんだ。ヴェルナーだって、死んではいないけれど死んだも同然の状態になってしまった。もしかしたらもう一生、笑いあうことも話すこともできないかもしれない。あの大好きな笑顔は二度と見られないかもしれないのだ。
エアハルトさんはとっても素敵な人。いつも私に優しくしてくれるし傍にいて守ってくれる。でも、それに甘えていてはいけない。このままでは、彼もいつか死んでしまう。
……私は一人で戦わなくてはならない。二度と大切な人を失わないために。
またあんな目に会うのはもう……絶対に、嫌。
「おはよう、ナスカ」
目をうっすらと開くとエアハルトの顔が大きく見えた。ナスカはしばしぼんやりしていた。状況が飲み込めない。何がどうなっていたのかを思い出そうと、脳をフル回転させる。
「大丈夫?意識ある?」
エアハルトが不安気に、ナスカの目の前で手のひらをひょいひょいと振る。
「エアハルトさん……」
小さな声で言ってみると、彼はナスカの手を握った。とても温かな指。ごつごつとはせず滑らかだがしっかりとした強さを感じさせる指である。
「指が冷たい。もしかしてナスカ、冷え症?」
その頃になったナスカはようやく思い出してきた。エアハルトを助けに行って、救出に成功して、帰ってきて喋っていて……この辺りまでしか覚えていない。その先の記憶は綺麗さっぱりなくなっている。
「私は……」
ナスカが困っていると、エアハルトが尋ねる。
「どこまで記憶がある?」
「あ、えっと、外で喋っていた辺り……でしょうか」
彼は親切に説明してくれる。
「あれっ、その辺から覚えてないの?えっとねー。一旦建物に帰ってきて治療をしてもらうことになったんだ。レディファーストとか何とかでナスカを先に手当てしてたけど、その頃だったかな?急に気を失って、みんなびっくりだったよ。で、今に至るだね」
ナスカは聞かされてもしっくりこなかった。何かを忘れている——そんな気がするのだ。
「そうでしたか……。ご丁寧にありがとうございます」
言いながら上半身を起こし窓の外を見た時、ナスカは愕然とした。
「え、もう夜っ!?」
驚きのあまり丁寧語も忘れるナスカ。
エアハルトは不思議そうに、「そうだよ」と頷く。
「それがどうかしたの」
ナスカは一気に飛び起きる。
「私、丸一日寝てるじゃないですか!こんなんじゃダメだわ。仕事……」
「いや、今日はもういいよ」
慌てて立とうとするナスカをエアハルトは制止した。
「落ち着いて。もう夜だし、今日ぐらいは休みなよ」
そう言うと、彼は透明な袋を差し出した。中には可愛らしく焼かれたクッキーが五枚くらい入れられている。星形のものやクロレア航空隊のシンボルマーク形のものがあった。「こんな複雑な形をどうやって焼いたのだろう」と不思議に思うくらいの精密なクッキーだ。
「これは、エアハルトさんがお作りになったのですか?」
「いやいや、違うよ。ヒムロさんが作ってくれたんだ。あ、心配しなくても、毒は入ってないよ。作るところ、ちゃんと監視してたから」
袋はやや黒っぽい赤のリボンで結ばれていた。
「分かってます、あの人はそんなことをする人じゃない……。とても優しくて頼りになる人です。もういっそ、エアハルトさんがヒムロさんと結婚してくれればいいのに」
するとエアハルトはギョッとした顔をした。
「いくらナスカの願いでもね。さすがにそれは勘弁してよ」
ナスカはずっと忘れていた母や父のことを思い出す。ついさっき、珍しく夢で会ったからかもしれない。
「分かってます、わがまま言ってごめんなさい。諦めてはいるけど、つい期待してしまうの。ヒムロさんみたいなお母さんとエアハルトさんみたいなお父さんがいて、リリーとかも一緒に過ごせたなら、どんなに幸せかなぁって」
あの日がなかったなら今も普通に過ごしていたのかな、なんて考えて、少し切なくなってしまう。
「あっ、何を言ってるんでしょう?ごめんなさい。湿っぽい話をして……それに、馴れ馴れしい発言をしちゃって……」
ナスカが無理をして笑おうとしているのを察知したらしく、彼はそっと首を振って微笑む。
「無理して笑う必要は無いよ。今日だけは特別だから」
彼の温かな指にそっと頭を撫でられるとナスカは少し恥ずかしかった。こんな感情になるのは初めてかもしれない。
「そうそう、ナスカ。お腹空いてない?」
エアハルトが笑顔で聞く。
「ごめんなさい、あまり空いてません……」
ナスカは何だか申し訳なくて小声で返した。
「そうだよね、ごめんごめん。気にしないで」
エアハルトは立ち上がり、扉の方へ歩き出す。その背中に向かってナスカは言う。
「ごめんなさい!」
突然頭を下げたのを見て、エアハルトは話が分からず驚いた顔をする。
「え?」
彼は本当に意味が分かっていないらしい。
「ごめんなさい。私、まだ謝れてませんでしたよね」
いきなりのナスカの言葉にエアハルトは戸惑いを隠せない様子だった。
「本当はもっと早く助けなくてはいけなかったのに。遅くなってしまって……エアハルトさんも危うく死んでしまうところでした。本当にごめんなさい」
ナスカは深く頭を下げる。
「私の軽率な行動のせいでエアハルトさんを傷付けてしまって……何と言えば良いか……」
「いや、謝らないで。そんなの気にしていない。それに、もう済んだことだしさ」
話が噛み合わない。
「言って下さい。お詫びに何でもしますから」
「大丈夫、気にしないで」
エアハルトは引き返してナスカに近寄る。
「何でもします!」
ナスカは真剣に言った。
「空爆でも、特攻でも……貴方が望むなら!」
それを聞いたエアハルトは呆れ果てた。明らかに年頃の女の子の発想では無い。
「発想がシュール」
やや腰を屈めてナスカに顔を近付けると笑顔を浮かべる。
「ありがとう。もういいよ」
そしてエアハルトは再びナスカの頭を撫でる。
ナスカは優しいその手に嬉しさを感じている自分に少しばかり疑問を持ったが、そんなことはどうでもよく感じられた。ひたすら幸せである。
そんな時、ふと彼の首に目がいく。
「ん、どうかした?」
よく見ると首の所々に紫っぽい痣ができている。
「あっ、いえ!何でも!」
突然慌てるナスカに対してエアハルトは静かに言う。
「遠慮せず言ってよ?」
彼の視線が意外と厳しくて、ナスカはつい言ってしまう。
「えっと、お怪我は……もう大丈夫ですか?と聞きたくて」
するとエアハルトは笑う。
「それを心配してくれてたの?ありがとう。でも、もうすっかり回復したよ」
ナスカはそれを聞いて「嘘ばっかり」と思ったが、心配させまいと気を遣ってくれているのは分かった。その流れでエアハルトはガッツポーズをする。
「今までの分を取り戻す活躍をしなくちゃ。まあ任せてよ!」
妙に威勢よく言うのが色んな意味で心配な感じだった。
……翌日の朝。
ナスカが怪我の治療に医務室を訪ねて扉を開けようとした瞬間だった。
「いけません。まだ精密検査もできていないというのに、何を仰るのですか!」
いつもは棒読みなベルデの、珍しく感情的な声が聞こえる。ナスカは本能的に壁に隠れ、そっと様子を伺う。
「戦闘に出ると言っているわけではない。練習で飛行をしたいと言っているだけだ」
相変わらず厳しい口調で言い返すエアハルトの声が聞こえる。どうやら二人が話しているらしい。
「いい加減になさって下さい!練習とはいえ飛行は身体に負担をかけるのです。今のお身体で可能だとお思いですか!?」
ベルデはエアハルトの返事を待たず続ける。
「しばらくはお休みになって下さい。精密検査で目に見えないダメージが無いことを確認してから怪我の様子をみて、すべてはそれからです。今のままでは到底戦闘機になんか乗れませんよ」
ナスカは息を殺して陰から二人の問答を見つめる。
しばしし沈黙があり、やがてベルデがいつも通りの平淡なハスキーボイスを漏らす。
「期待に応えようと思ってられるはよく分かりますが、無理は禁物です。傷を受けているのは体だけではありませんし……心の傷は本当に恐ろしい。それは一番分かっていらっしゃるでしょう」
エアハルトは何だか浮かない表情だ。いつもより暗い雰囲気が漂っている。
「まぁそれはそうだが、このままじっとしてはいられない」
ナスカが壁越しにチラチラと中の様子を伺い見ていた、そんな時。
「あら、何してるの?」
突然背後から女性の声が聞こえ、ナスカは飛び上がりそうになった。心臓がバクバク鳴る。恐る恐る振り返ると、そこにはヒムロが立っていた。
「ひ、ヒムロさん……」
まだ心臓の拍動が加速を続けている。呼吸が荒れる。
「中に入らないの?」
ヒムロは不思議そうな顔でナスカを見ていた。ナスカは苦笑して答える。
「あ、えっと……お話中みたいなので何だか入りづらくって」
「そういうこと。そんなの気にせず入れば良いのよ!航空隊の仲間でしょーよ」
ヒムロはいたずらに微笑んでナスカの腕を掴むと、遠慮なく医務室へツカツカと入っていく。いつものことながら、彼女の堂々としているところを、ナスカは尊敬した。
「おはよう、アードラーくん。彼女さんがお待ちよ」
エアハルトは反射的に鋭い目付きでヒムロを睨む。
「彼女ではない」
「あらぁ、相変わらずだこと。やっぱりそこに反応するわよねぇ」
ヒムロが楽しそうに冗談めかすのに対し、エアハルトは不快な顔をする。
「そのような発言はナスカに失礼だと思わないのか?」
エアハルトの発言に対してベルデが意見する。
「それはないでしょう。クロレアの英雄であるアードラーさんと親しくできるなんて、クロレア人の至上の喜びですから!」
「いや、引かれるから止めて」
エアハルトは呆れてベルデを黙らせ、それからヒムロに向かって強く述べる。
「とにかくこれ以上失礼な発言をしないように。今後こういうことが何度もあれば、それなりの処分をする」
彼はすっかり怒ってしまっている。
「膨れているの?あらあら、可愛いわね。だけど、あたし何か悪いこと言ったかしら?」
ヒムロは余計に挑発するようなことを言う。
「いつも失礼なんだ!」
「まぁまぁ、イライラするのはよしなさいよ。欲求不満はあたしが解消してあげるから」
小悪魔な笑みを浮かべるヒムロとは対照的にエアハルトは疲れた表情になる。
「それは今ここで言うべきことか?他の者もいるというのに」
そんなことはまったく気にしないヒムロはエアハルトに擦り寄る。
「まぁいいじゃない〜〜?たまにはこういうのも!」
ナスカはヒムロの大胆さにその場で硬直して立ち尽くす。そんなナスカに見せびらかすかのようにエアハルトに近寄り、しっとりと腕を絡める。
「どうしてそんなにナスカちゃんじゃなきゃダメなの?やっぱり……あたしには魅力を感じられない?」
ヒムロは悲しそうな顔を作る。いや、完全な演技ではないのかもしれない。冗談で作っているにしてはリアルな表情だ。
「酷い男ね。収容所じゃ何でもしてくれたのに……」
もはやこれは定番の流れだ。
「逆だ!何もしていない!勝手に捏造するな」
「意地悪ね。収容所では抱いてくれたのに」
ヒムロは彼に顔を近付けながら、不満そうな声を漏らした。彼女の危ない発言をエアハルトは訂正する。
「意味深な言い方をするんじゃない。抱き締めた、と言え」
ナスカは愕然として発する。
「抱き締めたのは抱き締めたのですか!?」
「そんなバカな!」
ベルデも被せて突っ込んだ。
ヒムロは驚く二人の様子をニヤニヤと見ている。
「本当……なのですか?」
エアハルトはベルデの問いに頷いてからナスカに視線を向ける。ショックを受けた顔で固まっているナスカを目にして急激に悪い気がしてきたエアハルトは言う。
「ちょっとナスカ、そんな顔しないでよ。僕が考えもなくそんな愚行をすると思う?」
数秒の沈黙の後、ナスカは青い顔を持ち上げて返す。
「あ、お……思いません」
「あら、ナスカちゃんショック受けちゃった?ごめんねぇ」
ヒムロが少々調子に乗ってエアハルトの首にぶら下がるような体勢で抱き着こうとした刹那、エアハルトはヒムロを振りほどく。予想外の力で振り落とされたヒムロは地面に転倒して唖然としている。
「君、この女を連れていけ。リボソに返す」
エアハルトは平淡な落ち着いた声でベルデに命じた。あまりの唐突さにさすがのベルデも戸惑いをみせる。エアハルトは続けてヒムロに視線を移す。
「い、いきなり何……ちょっと冗談言っただけじゃない……」
ヒムロは強気な発言をしているが表情に余裕が無い。怒っているエアハルトの迫力に圧倒され、まるで小動物のように弱々しく怯えた顔をしている。
「リボソに戻り罪人となり、精々慰み者になるがいい」
冷酷に言い放つと、ナスカに笑顔を向ける。
「そうだ、散歩でもどう?」
行き過ぎた変化にナスカは怪訝な顔をする。いくらきつい冗談を言ったからといっても、彼女に対してここまで言う必要があるのか?とナスカは首を傾げる。ベルデもそれは同じだっただろう。
エアハルトは穏やかに微笑み、ナスカに手を差し伸べる。
「少し時間あるし……」
どうすれば良いのか分からずもたもたしていると、彼はガッとナスカの腕を掴んだ。
「行こう」
とても優しく微笑む。
だが……嬉しくなかった。いつもとは何かが違う。
ナスカにはエアハルトの笑顔が、妙に悲しそうに見えたのだ。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.74 )
- 日時: 2017/09/07 21:10
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: J1W6A8bP)
episode.14
「失うもの、手にいれたもの」
「エアハルト……さん、あの」
手を引かれながら部屋の外へ出た。ナスカが口を開く。
「待って下さい、いきなり何ですか?エアハルトさんが何をお考えかさっぱり分かりません」
エアハルトは足を止めたが、難しい顔で黙っている。
「答えて下さい」
それでも彼は黙っている。ナスカは不思議に思った。いつもなら眩しい笑顔で快く答えるだろうに。
「あの、エアハルトさん?」
ナスカが覗き込もうとした瞬間、エアハルトは顔の向きを変え視線を逸らす。
「あの……」
「思っているんだろう」
エアハルトが静かに呟いた。
「僕のこと、穢れていると思っているんだろう!」
彼の言うことが理解できず、ナスカは戸惑いを隠せない。
「一体何を……」
するとエアハルトは彼にしては珍しく溜め息を漏らす。
「全部あの女がクロレアに来たせいだ。彼女が現れなければ、変わらない日々が続いているはずだった。ヒムロルナ、あいつだけは絶対に許さない」
「ヒムロさんを?そんな。一体どうして……」
その問いに冷ややかな声で答えるエアハルト。
「ナスカ、思い出してみて。全部あいつが来たのが原因だ。ベルデや君が負傷したのも、くだらない行動で君を傷付けたのだって……それだけじゃない。リボソとの関係が悪化したのも僕がみんなにドン引きされたのも、全部あの女のせいだよ」
言いながらエアハルトの瞳は深い怒りを湛えていた。ナスカは落ち着いた声で言い返す。
「だけど、処刑されかけたエアハルトさんを助けられたのも彼女のおかげです」
「そもそも処刑されかけたのだってあいつのせいだ!」
彼は強く攻撃的に言った。ナスカは動揺する。今までこんな風に鋭い言葉を言われたことはなかっただけに、大きなショックを受けた。どんな時も笑顔で優しかったエアハルトはどこへ行ってしまったのか。やはり今日はおかしい。
「それじゃあ、ヒムロさんに責任を全部押し付けるんですか?」
「実際そうじゃないか……」
ナスカが言ったのはもっともなことだが、言い返されたのが意外だったのか、エアハルトは少し戸惑った顔をする。
「貴方が墜落したのがそもそもの始まりでしょう。そのすべてを、関係ない他人のせいにするんですか」
「何を言うんだい。人の些細なミスを責めるというのか!」
「そんな話じゃありません。向こうで何があったのかは知りませんけど、人に当たり散らすのは止めて下さい!」
ナスカとエアハルトは睨み合う。二人がこんな空気になるのは初めてだろう。
「今の貴方の話はこれ以上聞いても無駄です。……しばらく頭を冷やせばどうですか」
ナスカはそう言い捨てて、来た方へと戻っていく。
廊下を歩いていると、ベルデが声をかけてきた。
「おや、アードラーさんと一緒に行かれたのではなかったのですか?」
相変わらずぶれない棒読みな話し方である。
「ちょっと勘違いなさっているようなので叱ってきました」
ナスカは澄まし顔で答えた。
「アードラーさんは、お疲れなのです。今はナスカさんに失礼があるかもしれませんが、元気になればそのうち……」
「私はいいんです」
きっぱりと口を挟む。
「でも、皆さんをあんな風な言動で振り回すのはどうかと思いましたので」
「……ナスカさん」
ベルデが心配そうな目をする。言いたいことがあるが、自分が口出ししてよいものか迷っているのだろう。
「心配してくださっているのですね、ありがとうございます。ですが大丈夫です」
ナスカは笑顔で言った。するとベルデは言いにくそうに述べる。
「お気になさらず。それより実は……ナスカさんに大切なお話がありまして」
「はい。何ですか?」
ちょっとその時。
ジリジリ、と警報器の刺々しい音が鳴り響いた。
「警報器!?」
ナスカは驚いてキョロキョロする。ベルデは装着していたイヤホンを耳にグッと押し込む。
「敵機、のようですね」
独り言みたいに呟き、それからすぐナスカの方を向く。
「お話は後にしましょう。今から出れますか?」
ナスカは素早く頷く。心の準備はまだちゃんとできていないが、数分もすれば準備が整うはずだ。
「はい。急いで準備します」
「では先に偵察を出しておきます。貴女は準備ができ次第出発して下さい」
休んでいる暇はない。エアハルトが戦えない今こそ自分が頑張るタイミングだ。ナスカはそう考え、自分の心を奮い立たせる。
ナスカは建物から出ると、速やかに愛機へ向かった。急ぎ気味に準備を済ませる。
「行きます」
正面を向く。滑走路を赤い機体が滑るように走り、やがて空へと舞い上がる。空を舞う薔薇の花弁のように、華麗に。
今日の空は雲が多いが、綺麗な青色をしている。
『お嬢さん!』
無線から声が聞こえてきた。
『聞こえていますか?』
誰かの声だ。知り合いではない。多分先に出発していた偵察機のパイロットというところだろう。
「はい、何ですか」
ナスカは応答する。
『こちら偵察機ハッピーシナモン。機体見えます?』
「……ハッピーシナモン?」
聞き慣れない男性が述べた機体名にナスカは困惑する。
『はい。自分はシナモンが大好きでして、それを知っている姉に勝手につけられた名前です。と言いつつ、結構気に入っていますがね』
正直どうでもいい。初対面の顔を見たこともない男性にシナモンが好きなことを打ち明けられるという珍妙な出来事に、ナスカはどう対処するべきか判断できなかった。
「はぁ、そうですか……」
『はい。ちなみに機体は確認できますか?』
「えぇ。機体は見えてます。確か貴方は、ジレル中尉の……」
当てずっぽう返すと、相手は少し嬉しそうな声になる。
『はい。敵機の付近まで先導させていただきます』
「ありがとう」
ナスカはその偵察機の一番後ろにある赤いライトを目印に続いた。時折雲で視界がぼやけたりもしたが、大抵十分見えるしっかりとしたライトだった。
『もう近いです。自分は敵の視界に入る寸前に離脱しますので、後はお嬢さん、よろしく頼みます』
それから男性は続ける。
『一機ですけど、強いです。間違いな……うわ!』
男性の叫び声。そして、一瞬にして無線が切れた。
目前を飛んでいたハッピーシナモンこと偵察機は、右翼に被弾し、くるくる回って空中で一気に爆散する。
目の前で人が跡形もなく消えた。その事実にナスカは愕然とする。空中で爆発すれば死ぬどころか、まとも体も残らないかもしれないのだ。ナスカは改めて恐ろしさを実感した。
そしてその煙が晴れた頃、一機の飛行機が見えてくる。
「あれが……?」
思わず呟いたナスカの耳にジレル中尉の声が聞こえる。
『動揺するなよ』
冷たくも優しい声。聞いた途端に体の緊張がほどけた。味方がいると思えることの何と心強いことか。
『正体はよく分からんが警戒しろ。私もできる援護はする』
ナスカはジレル中尉から勇気をもらい、懸命に操作を始める。ミサイルの発射準備、照準を敵機に合わせ、唾を飲み込み、引き金を引く。
敵機に向かって真っ直ぐ飛んでいった三発のミサイル。一発目は敵の撃った弾丸と当たり爆発。回り込むように続く二発目はかわされ、残る三発目。絶好の方向から敵機に向かって突撃し、爆発が起こる。煙ではっきりと見えない。
「やった……?」
ナスカが目を凝らしているとジレル中尉が無線で叫ぶ。
『来る!』
爆発の中から、機体が細い煙を引きながら現れた。ナスカは敵機の体当たりを素早くかわしレーザーミサイルを連射する。
その刹那、ナスカの目に人影が入った。敵機の窓部分から乗り出す黒い塊。ちょうど人ぐらいの大きさだ。
「ジレル中尉っ、人影が!」
人間が長い筒を担いでいるようにも見える。
『人影?確認する』
ジレル中尉の戦闘機は連射されるミサイルを上手く避けながら接近していく。
『女……?まさか!』
窓から突き出す黒く長い筒から弾が発射される。ジレルの乗る機体はその弾丸に掠りバランスを崩したがすぐに体勢を立て直す。
「しっかり!」
慌てて叫ぶナスカに対して、彼は冷静に答える。
『無事だ。問題ない。それに、人影も確認した』
今度は機体ではなくその人影に照準を合わせる。ナスカの心には少し躊躇いがあった。だが躊躇っていればこちらがやられる。だから引き金を引いた。レーザーミサイルは激しく敵機に向かっていくが、操縦士が中々の腕前なので、見事にかわされてしまう。それでもナスカは諦めず連射しながら機体を追う。
「速いわね……あれ?」
敵の戦闘機は一気に加速し、気がつくとだいぶ距離が離れてしまっていた。
だがそこで、ナスカは違和感を感じる。敵機は攻撃を止めた。リボソ国の方へと去っていっているようだ。
『……追うな』
ナスカはジレル中尉の忠告を聞きスピードを落とす。
『敵は撤退した。戻るぞ』
「あ、はい」
逆らうのも気が進まないので進行方向を変えるが、何となく腑に落ちない感じがするナスカだった。
第二待機所の建物に戻り通路を歩いていると、正面から歩いてきたエアハルトと偶然遭遇してしまう。見事に目が合い、気まずい空気になる。気付かなかった振りもできないが、いつものように声をかけることもできない。それはお互いに、だった。
「あ……お、お疲れ」
先に言ったのはエアハルト。
「エアハルトさん。顔、強張ってますよ」
ナスカは冗談めかして返す。
「ご、ごめん」
彼はらしくなく緊張した顔で謝った。
「笑っているエアハルトさんの方が素敵です」
さっきはちょっと言いすぎたかな?と彼を可哀想に思っていたナスカは、彼に対して笑顔を向ける。
「無理しないで下さいね」
エアハルトは驚き戸惑った顔でナスカを見た。
「あ、ありがとう」
てっきり悪いことを言われるか無視されるかだと思っていたのだろう。
——その日の夜。
ナスカはこの時間にゆいいつ活気のある食堂へ向かった。食堂には人がたくさんだ。現在勤めている人の半分近くがここで暮らしているのだから、この賑わいも当然である。
ナスカとトーレが食事を食べていると、偶然ジレル中尉が通りかかる。
「あ、ジレルさん!」
お腹が空いていたらしくパンを貪り食っていたトーレが、顔を上げて声をかけた。
「何か?」
ジレル中尉はこちらを向いて無愛想に答える。
「もしかして、ジレルさんもご飯ですか?もし良かったら一緒に食べませんか?」
トーレは誘うが、ジレル中尉はやや困った風に返す。
「いや、あいにく先約があるのだが……」
「一緒に食べよーっ!」
誰かが後ろから物凄い勢いで走ってきて、そのまま飛び上がりジレル中尉に飛び乗る。
「おい!痛いぞ」
「ごめんごめん〜」
その正体はリリーだった。
「リリー!?」
驚きを隠せないナスカに対してリリーは明るく言う。
「ナスカ!一緒に食べよ!」
敵地で出会った時の冷ややかな面影はまったくない。あの時とは別人のようだ。もちろん、こちらのリリーこそがナスカの知るリリーなのだが。
「ジレル、いいでしょ?」
「あ、あぁ」
ジレル中尉はリリーにだけは完全に主導権を握られている。言い返せないようだ。それが何だか面白くて、ナスカは少し笑ってしまった。
「何を笑っている?」
ジレル中尉が鋭い視線を送りつつ尋ねる。
「……いえ、ごめんなさい。よく分からないんですけど、何だかおかしくって」
リリーがきょとんとした顔で口を挟む。
「えっ、何か変だったかな?」
ナスカは首を横に振る。
「ううん、そんなんじゃない。気にしないで。ごめん」
大事な可愛い妹、リリー。幼子のような純粋で無垢な笑み、聞いているのが心地よい明るく弾むような声。昔と何も変わっていない。
ナスカはまた彼女に会えたことが嬉しくて自然と笑顔になっていた。あの日奪われてしまったものと諦めていたリリーは、今、目の前で楽しそうに笑っている。それがナスカをとても幸福な気持ちにさせるのだった。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.75 )
- 日時: 2017/09/07 21:11
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: J1W6A8bP)
episode.15
「過去との決別」
第二待機所の中にある、抜きん出て小さな隔離室という部屋。
電子ロックを解除したベルデが中へ入ってくる。
「ヒムロさん、調子はどうですか。必要な物があればと思い、うかがいました」
隔離室は一時的に罪人を収容するための部屋で、広さは一畳程度しかない。明かりは電球が一個だけで、窓がないので一日中どんよりと薄暗い。
「必要な物なんてないわ。あたし、もう死ぬのに」
エアハルトの指示で隔離室へ入れられたヒムロは自嘲気味に笑う。しかしベルデは淡々と述べた。
「まだ亡くなられることはないと思います」
「何を言っているの?あたしはもう死んだも同然。帰る場所も待ってくれてる人も……今はもういない」
ヒムロは静かに言った。
「でもいいの。あたしは自分の意思に従ったまでよ。たとえ間違いだったとしても……きっと後悔はしないわ」
ベルデが黙って聞いているとヒムロは皮肉る。
「愚かだと思っているんでしょう。その通りだわ」
ベルデは感情のこもらない小さな声で呟くように言う。
「いいえ、愚かではありません。それでは」
彼はそれから部屋を出て、外から再びロックをかけた。
ロックをかけられてしまえば、ヒムロは自由に部屋の外へ出られない。彼女は薄暗い部屋で一日を過ごすのだ。
「……一人だといいわね。好きな時に泣けるもの。ねぇ……。マモル」
あれから一週間程経過したある朝のこと、待機所内が何となく騒然としていた。
「何かあったんですか?」
話に遅れているナスカは近くにいた男性に聞く。
「よく分かんないんっすけど、何かあったみたいっすね。普通じゃない感じだし」
それからナスカはいつも通りの準備をしに行こうと外へ出て、目にした光景に愕然とする。
「何これ……」
門の外に大量の歩兵が立っていた。全員リボソ国のマークの軍服を着ている。そしてその中央に、服が違う二人の男が立っている。
『門を開けよ!さもなくば攻撃を開始する!』
服が違う二人のうち片方の男が、拡声器を使って勇ましく告げる。
『我々はタブ全域を制圧した。もはや残るはここのみである。無駄な抵抗は止め、我々に投降し、速やかに指示に従え!』
一人愕然としながら聞いているナスカのところにトーレがやって来る。
「ナスカ!あの人達はリボソ?何かよく分からないけど、ここは危ないよ。中にいた方がいいんじゃないかな」
心配そうな顔でナスカを見つめる。
「その方がいいかな」
心配させるのも嫌なので、ナスカはトーレの言うことに素直に従うことにした。
二人が建物内に戻ると、ベルデが慌ただしく仕事をしていた。
「もしもに備えて戦闘準備を。貴方、本部とタブ役所に連絡をお願いします。はい。早く!」
その様子を見てトーレが感心したように言う。
「テキパキしてる……」
「警備科って、こういう時には大変よね。突然バタバタしなくちゃならないもの」
すると、額に汗を浮かべたベルデは振り返り、挨拶をする。
「おはようございます」
ナスカは笑って尋ねる。
「汗、大丈夫ですか?」
「少し暑いですね」
ベルデは本当に暑そうに、袖で顔の汗を拭う。タオルを取り出す暇もないのだろう。
『誰か出てこい!無視をするというのなら容赦はしない!』
拡声器を通しての大音量の演説は続いている。
「ベルデさん!タブ役所に連絡を取ろうと試みましたが、既に電話回線が支配されてて繋がりません!」
一人の女性は焦った顔をして鋭く叫んだ。
「まさか。一夜でそこまでできるとは思えません。何かのミスでしょう。もう一度試して下さい」
「……はい、分かりました」
女性はベルデの命令に従い、作業に取りかかる。
「本部から連絡!一般市民保護のために援軍を派遣してくれるらしいっす」
「外で呼ばれています!誰か来て下さい!」
ベルデは再び汗を拭う。
「はい、今行きます。警備科は戦闘に備えておいて下さい。戦闘になる可能性も十分ありますので、しっかりと」
それでもぶれない冷静沈着さだった。
トーレは困り顔になる。
「……どうしよう?これじゃ僕らは何もできないね」
「本当にそうだわ」
ナスカとトーレは顔を見合わせ溜め息をつく。
「それにしても、敵国の大軍を入国させるなんて、偉い人たちは一体何をしているんだろうね。役に立たないなぁ」
「えぇ、謎だわ。お偉いさんの考えってさっぱり分からない」
その刹那。爆音が鳴り、それと同時に地響きがする。まるで地震のような。世界滅亡の直前のような。
「なっ、何っ!?」
あまりに突然だったものだから、さすがにナスカも驚いた。隣のトーレは身震いしている。
「動くな!」
そう叫び建物に入ってきたのは、さっき門の前にいた二人のうち一人の男性。後ろには十人以上の武装した一般兵を率いている。
「本日より、この敷地はリボソ国の領地とする!」
男性は高らかに宣言した。
警備科の人たちは威嚇するようにその男性へ銃口を向ける。
「……反抗するのか?まぁよかろう。突入!」
建物内へ入ってくる兵隊に向けて、警備科の人たちは銃を連射する。敵の兵隊たちは次から次へと体を撃たれ倒れる。しかし、それですべてが倒されたわけではなかった。
「危ないっ!」
トーレは叫び、固まっているナスカを突き飛ばす。いきなり押され転倒した。
転んで地面に横になったナスカの上にトーレが被さる。何が起きたのか分からないが、湧き上がる恐怖に目を閉じた。大きな銃声とそれに伴う微弱な振動を感じる。
数秒後、銃声が鳴り止みナスカは目を開く。
「ごめん……大丈夫?」
トーレの顔がすぐ近くにあったが、照れている暇はない。
「えぇ、無事よ。ありがとう」
ゆっくりと起き上がりトーレと一緒に走る。階段を駆け上がると、エアハルトに遭遇した。
「ナスカ!下の様子は!?」
二階には銃撃戦の末生き延びた警備科の者もいた。
「エアハルトさん、無事で良かった。あの……ごめんなさい、様子は分からない。はっきり見る余裕が無くて」
ナスカはそう答えた。
「奴らが二階に来たらナスカは隠れてね。ナスカが戦う必要はないから」
エアハルトが真剣な顔をして言った。
「その時には加勢します!」
ナスカはそう返すが、エアハルトは首を横に振る。
「それは駄目。もし撃たれたら大変だから」
エアハルトはいつも腰に下げている拳銃を手に取り、階段を鋭く見据えている。
カンカンという足音が徐々に近付いてきた。
「……敵?」
次の瞬間、カランと乾いた音を立てて廊下に棒の付いたタイプの手榴弾が床に転がる。
トーレは無理矢理腕を掴んで引っ張り、ナスカを台の影に引きずり込んだ。エアハルトは壁の影に身を潜める。それから数秒もしないうちに、手榴弾は破裂した。辺りが煙に包まれる。
ナスカは新品の綺麗な拳銃を取り出し、撃つ準備をする。今まで実際に使う機会はなかったが、多少の指導は受けているので撃つ手順は分かる。
エアハルトが振り返る瞬間、上がってきた一人の敵兵が彼に銃口を向ける。しかし引き金にかけられた指が動く寸前に敵兵は胸を撃ち抜かれドサリと崩れ落ちる。それは、ナスカが撃った弾丸だった。エアハルトの足下に血溜まりができた。
「あ……」
勢いでやってしまったナスカは言葉を失う。生身の人間を殺したのは初めてかもしれない。
「やったね」
隣でトーレが笑う。
しかしそれは序章にすぎず、本当の乱戦はそこからだった。敵味方入り交じった銃撃戦は、いよいよ二階でも開始される。一階で息絶えた敵兵がかなり多く、数ではクロレア側の方が勝っているが、敵も結構粘る。
ナスカはあまり前へ出たらエアハルトに怒られそうなので、台の影からちょいちょい応戦した。
銃撃戦を潜り抜け奥へ進んだリボソ国の男性は、灰色のドアを見付ける。
「……隔離室?」
手をかけてみるが開かない。
(ロックがかかっている……。もしや、何か大切なものを隠しているのか?)
男性はドアを拳銃で撃ってみるがびくともしない。次はふと目に入ったドアの横のタッチパネルを二発撃ってみた。すると故障し、勢いよく自動でドアが開く。
念のため拳銃を構え、部屋の中を覗く。そして彼は愕然とした。
「……ルナ?」
中にいたヒムロと目が合う。
「マモ……ル」
男性は見知った人物がいたことに驚きながら、腰のホルダー拳銃をしまう。
「本当にルナか!?」
驚きを隠せないらしい。
「そうよ。ヒムロ、ルナ」
ヒムロは冷たい声で答えた。
「ルナ、生きていたのか?まさか!」
男性は嬉しそうに歩み寄る。
「どうして生きていると連絡しなかったんだ?」
しかしヒムロは浮かない顔のままだ。
「なぜ?……よくそんなことを聞くわね」
男性は腕を伸ばす。
「何を怒っているんだ、ルナ。さぁ一緒にリボソへ帰ろう」
ヒムロが男性の顔を見上げて静かに述べる。
「殺されるわ」
「え?」
男性はよく分かっていない顔だ。
「帰れば殺される、って言っているのよ」
「大丈夫、一緒に帰ろう。俺がちゃんと説明するから……」
次の瞬間、ヒムロは急に立ち上がり男性の腰元のホルダーから拳銃を奪う。そして銃口を彼に突き付けた。
「……え?」
ヒムロは冷静だった。
「下手に動かないで。部屋の外に出て」
ゆっくりとヒムロは近付いていく。男性はそれに伴い退き、やがて廊下に出る。
「な、何のつもりだ、ルナ。いきなり銃なんか向けてきて」
男性は顔を引きつらせる。
「冗談だろう……?」
「本気よ」
ヒムロは恐怖心を煽るような冷ややかな顔付きで彼を睨む。
「もう帰らないわ。過去のあたしは忘れて、ここで第二の人生を生きるの」
男性は声を荒げる。
「そんな……何を言っているのか分かっているのか!誰よりもリボソのために生きてきたルナが、どうしてそんな!」
「もう嫌なの!!」
ヒムロは引き金に指を当てたまま悲鳴のように叫ぶ。
「……疲れたのよ。理不尽な理由で、苦しんでもがきながら死んでいく。そんなのもう見たくない!」
「ルナ!」
「平気で酷いことする尋問官が嫌。拷問みたいな尋問を認めてる上司も、それを黙認してる国も、捕虜処刑を楽しんでる国民だって!全部嫌!でも一番嫌なのは……」
男性は愕然として聞く。
「運命に逆らえなかったあたし!」
「いい加減にしろよ!」
男性がキレて掴みかかろうとした刹那のこと。
大きく目を見開いて倒れる。
「な、何っ?どうしたのよ」
ヒムロは驚きながらも冷静さを保ち男性を見る。腹部に銃創ができて、そこから赤黒い血液が流れ出している。
知り合いが目の前で撃たれて倒れる。それはあまりに生々しい光景で、一般人なら吐き気を催してもおかしくなかっただろう。ヒムロは長年尋問官として働いてきたゆえに平気だが。
「よし」
男性の背後には、拳銃を放ったエアハルトがいた。
「あ、新手……か……」
倒れた男性は掠れた声を漏らした。ゲホゲホと咳をすると鮮血で唇が赤く濡れる。
「アードラーくん!?……どうして」
「むしろ僕が聞きたい」
エアハルトはそう返した。
「く、お前が……もしや、ルナを……」
掠れ掠れ呟く男性の顔がどんどん青ざめていく。
エアハルトは戸惑いなく彼のこめかみに銃口を当て、低い声で言う。
「これが最期だ。何でも言え」
男性は定まらない視線で小さく口を開く。
「ルナ……ずっと愛してる」
そして、別れを告げる悲しい銃声が響いた。
しばらく沈黙。
「この男は知り合いなのか?」
やがて沈黙を破ったのはエアハルトだ。ヒムロは男性の亡骸をじっと見つめながら答える。
「カサイマモル。彼はあたしの婚約者。ゆいいつあたしに優しくしてくれた人だけど……でももう何年も会ってなかったわ。父があたしの父と同じ外交官でね、知り合い同士だったの」
エアハルトは怪訝な顔をして復唱する。
「婚約者?」
「そうよ」
彼女は悲しげな眼差しで頷いた。それに対してエアハルトは真剣な表情で述べる。
「ヒムロ、一つだけ聞かせてくれ」
「……何?」
これほど奥まで入ってくる者はいないので、とても静かだ。
「なぜ同胞に銃を向けた」
二人の声しかしない。エアハルトの真剣な眼差しには、さすがのヒムロも冗談を言えない。
「それも婚約者などに。銃は敵に向けるものだ」
「そうよ」
ヒムロも今回ばかりは真面目に答える。
「その通り。あたしは仲間に銃は向けないわ」
そして静かな声で問う。
「なら逆に、どうして貴方はあたしを助けたの?」
「敵だから撃っただけだ」
「じゃあどうしてあたしを撃たないの?」
エアハルトは言葉を詰まらせる。
「力が、必要でしょ」
ヒムロはいたずらに口角を上げる。
「……どうなの?」
エアハルトはまだ言葉を詰まらせている。
「あたしは敵ではないと思っている。貴方たちが仲間だと思うかどうかは知らないけれど」
しばらく沈黙を挟み、エアハルトはやっと口を開く。
「……僕は君のことを何も知らなかった。なのにきつく言ったことは謝ろう。だが、君はそれで後悔しないのか?同胞を敵に回して、それで良いのか?」
「後悔はしないつもりよ」
ヒムロはそう返ししゃがみこむと、そっと両手を合わせる。そして目を閉じてほんの数十秒ほどじっとしていた。
「……何を?」
「人が死んだ時、祈るのよ。死んだ人の魂が穏やかに故郷に帰れますように、ってね。仮にも婚約者だしお世話になったもの。せめてこれぐらいはしてあげようと思って。だって、誰も祈ってくれなかったら、一人ぼっちで寂しいでしょ」
静かに祈りを捧げるヒムロをエアハルトは意外だと思った。そんなことをするタイプだと思っていなかったからだ。
「何だか意外だ」
「そう。……変よね。こんな非現実的なことしてもマモルが幸せになれるわけじゃないって、分かってはいるの。本当は……あたしのためなのよ」
ヒムロは立ち上がる。
「あたしは新しい人生を生きるわ。もう過去のことは忘れる」
エアハルトは呟く。
「過去との決別……か」
過去は暗く痛いもの。人生は移り変わるもの。
だけど——きっと、何度でもやり直せる。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.76 )
- 日時: 2017/09/07 21:12
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: J1W6A8bP)
episode.16
「大胆なヒロイン」
ヒムロの決意を聞いたエアハルトは、踵を返し言う。
「まぁいい、ナスカがまだ向こうにいるから行ってくる。君はここにいろ」
彼の背中に向かってヒムロは叫ぶ。
「待って!あたしも戦うわ!」
「駄目だ。素人が戦ったところで死ぬだけ」
彼は振り返らずにそっけなくそう答えたが、ヒムロには彼なりの気遣いなのだと感じられ、仕方がないので食い下がることに決めた。
ヒムロは部屋に戻り、座り込む。ドアは壊れてしまっているので閉まらないが、明るいのもそんなに悪くない。そう思いながら、マモルから奪った拳銃をギュッと抱き締めた。
エアハルトは階段の方へと向かう。念のため警戒していたものの、既に銃撃戦は終わっていた。敵兵は二階には一人も残っていない。
近くの警備科に尋ねる。
「一階の様子は?」
その男の人は敬礼して明るい表情で返す。
「順調っす!」
更に聞く。
「そうか。援護に行かなくていいのか?」
すると男の人は陽気に親指をグッと立てて答える。
「下は大丈夫っす!俺らは二階に上がってきた奴だけを倒せばOKっすよ」
ナスカが歩いてくる。
「エアハルトさん、無事で?」
彼女の横には煤のようなもので汚れたトーレがいた。
「……あ、うん。大丈夫」
先程会った時は緊急なので普通に話せたが、やはり平常時だと気まずくなって、エアハルトは上手く話せなかった。彼らしくないぎこちない喋り方になってしまう。
「……君は」
エアハルトはトーレに視線に移して小さく言った。急に話を振られたトーレは、少し戸惑った様子で苦笑しながら述べる。
「ちょっとドジなことをしてしまって。ははは」
柔らかな苦笑いをするトーレが本当は負傷していることに気付かないエアハルトではない。
「守ってくれたのか……ありがとう」
ナスカが何食わぬ顔で口を挟む。
「トーレが誰を守ったの?」
顔を見るがトーレは苦笑し続けるだけで何も言わなかった。何となくスルーした方がよさそうな空気を感じたナスカは、何もなかったかのように視線をエアハルトに戻す。
「エアハルトさん、下へは行かない方が良いかと思います。まだ敵がいますから」
ナスカは忠告した。
「下は警備科だけで十分な戦力なのか」
エアハルトは先程声をかけた男の人に確認する。
「いえ、警備科だけではありませんよ」
男の人はそう述べた。
「違うのか?だが他に誰が戦えると……」
「ジレル中尉」
答えたのはナスカ。
「彼が一階に残りましたから、総倒れはないはずです」
敵兵は数こそ多いが、個々の戦闘能力はそんなに高くないので、ジレル中尉が負けることはない。そういう考えだ。ナスカの戦闘に関する彼への信頼は絶対的である。
「それにしても、こんな時にお偉いさんは何をしてるんだろうね」
トーレがいきなりナスカに話しかけた。彼はこればかり。
「そんなこと、私に分かると思う?」
下の階からしてくる振動は徐々に収まってきている。大体勝負がついたのだろう。
「ナスカはどう思ってるのかなぁ、って思ってさ……」
「さっぱり分かんない」
ナスカは笑って答えた。
彼女は正直そのような方面には詳しくない。ここまで一生懸命さぼらず勉強はしてきたが、それでも若い頃からエリート街道を真っ直ぐに進んできた人たちに比べれば知識は劣る。
「トーレは頭いいわよね」
褒められたトーレは頬を赤く染めながら控え目に「そんなことないよ」と返すが、言葉とは裏腹に表情からは喜びが伝わってくる。分かりやすい。ナスカはその様子を愛らしく思いながら眺めていた。
「本当よ。さすが学卒ね」
彼の肩にぽんと軽く手を置く。
「が、学卒?」
トーレが首を傾げる。
「学校卒業を略してみた」
「あ、そっか。ナスカは航空学校出身じゃないもんね。まぁそれで一番強いんだけどね」
「そんなことないわ。ふふ」
「いや、何、和んでるの?」
エアハルトはのほほんとした空気になっている二人に突っ込みを入れた。
「まだ敵が来る可能性はあるから気を付けた方がいいよ」
「私ですか?」
ナスカに真顔で見られたエアハルトは怯み慌てる。
「あ、いや、うん。一応だよ」
それに対してナスカは「そうですね」と返事をした。エアハルトが慌てている理由がナスカにはよく分からなかったが、たいしたことではないので気にしないことにした。
「誰か!来て!!」
そんな風に穏やかに話していると、いきなり一階から叫び声が聞こえてくる。
階段に向かおうと足を進めかけたエアハルトをナスカが止める。
「行きます」
彼は数秒して強く言う。
「駄目に決まってる!」
ナスカは制止を聞かずに歩き出す。
「トーレ、行こう」
「うん。急いだ方がいいね」
エアハルトは彼女が自分に従わないことに、内心動揺していた。もう上司とさえ思われていないのか?そんな不安に駆られる。
ナスカはトーレと共に一階へ下りる。
「ナスカちゃん!ベルデさんが……どうすれば……!」
警備科の女の人が涙目になりながら切羽詰まった声で訴えてきた。完全にパニックになっている。冷静さが命の仕事内容だというのに。ナスカは心の中で密かに「警備科なんだからもっとしっかりしろよ」と微かに思ったが、次の瞬間、そんな思考は吹き飛んだ。
「ベルデ……さん?」
門のところで見た、年がいった方の男がいる。その足下にベルデが倒れている。男はやや興奮気味にベルデをぐりぐりと踏みつけていた。どこか楽しんでいるようにも見える。
「ちょっと貴方!何をしているの!!」
ナスカは怖い形相で勢いよくそちらへと歩いていく。
「……貴様、何者だ?」
男は警戒して尋ねた。
「その人を離して」
ナスカは問いなど完全無視で命令し拳銃を向ける。
「……答えろ」
「いいえ、答える必要はない。今すぐ離して」
男はベルデを踏む足に力を加える。
「うぐ!……え。む、ナスカさ……ん?」
ベルデは光のない目で小さく漏らした。生きていたことが分かりナスカは安心する。
男はベルデの前髪をガッと掴むと自分の心臓の辺りに彼の額がくるように持ち上げた。ちょうどナスカの拳銃の銃口の辺りに額がくる。
「ふぅん、私に撃たせない作戦ね」
男はニヤリと笑う。しかしナスカはそのぐらいではまったく動揺しない。
「名案ね。まぁ、相手が私でなければ……だけど」
ナスカは引き金に指をかけて微笑む。
「貴方はこの拳銃の威力をご存知かしら」
「……時間稼ぎか?」
「まさか!ご冗談を。この拳銃改造されてるのよ。だからね」
緊張のあまり失神しかける女性を傍にいたトーレは慌てて支え、不安げに見守る。
「頭蓋骨ごと貴方の心臓を貫くことも可能ってわけ」
ナスカの大胆過ぎる発言には誰もが愕然とする。
「愚かな!貴様のような小娘が仲間を撃ち殺せるはずがない」
ベルデは目を細く開き定まらない視線でナスカを見、弱々しく頷く。命乞いするどころか、殺してくれと言わんばかりである。
「おい、お前もちょっとは命乞いとかしろよ!こんな小娘に殺されるんだ!嫌だろ!」
作戦は見事に成功している。思惑通り、男は動揺し始めていた。相手が冷静さを失えばこちらのものだ。
「なぁ、仲間に銃を向けられるってどんな気持ちだ?恐怖か、憎しみか?」
ベルデの腹に膝蹴りをする。
「ぐ……」
彼は蹴られた部分を押さえて呻く。男は虫の息のベルデを無理矢理起こすと、狂ったような表情で激しく言う。
「自分がこんな目にあっているのに他の奴らはのうのうと生きているのが憎くて仕方ないだろう?死ぬ前に一言答えろよ!上司に銃を向けるような小娘なんて殺したいと思うだろ!?」
男は急かす。
「憎いと思うだろ!?」
「……ない」
ベルデの血に濡れた唇が微かに動く。聞こえるか聞こえないかのような声だった。
「んん?はっきり言え」
男は愉快そうに命じた。
ベルデはとても穏やかな表情で淡々と答える。
「思わない」
言い終わるほぼ同時に男はベルデの顔面を蹴り飛ばす。ベルデは上に飛ばされ地面に強く叩きつけられる。
「この生意気め!今すぐに殺してやる!」
男が機関銃を持ち上げる寸前に、ナスカは後ろから眉間を撃ち抜いた。躊躇いはない。倒れた後、更に胸を数発撃った。
「……終わりよ」
吐き捨ててベルデに向かう。
「大丈夫ですか?」
目は少し開いているが、意識は朦朧としていた。傷はかなり重そうだ。呼吸も荒くなっている。
「もうすぐ救護班が来ますからしっかりして下さい。ベルデさん。生きてるんですよ」
ナスカが手を握り締めると、ベルデはそっと握り返す。
「分かり……ます。あり……がとう……ございます」
掠れた声で途切れ途切れ述べた。
「何か必要なものはありますか?」
ナスカが尋ねる。
「本当……なんですね」
ベルデの発言にナスカは不思議な顔をする。
「ヒムロさんが、言ってられたのです……もう……死ぬ時に、必要なものなど……ない、と」
こんな時でさえも淡々とした物言いだ。平静を装っているのか本当に落ち着いているのか。ナスカにはどちらなのかよく分からないが、もう死ぬと決まったかのような言い方は気に食わない。
「そんな言い方をしないで下さい。まだ死にません。実際、こうして生きているじゃありませんか」
救護班が走ってくる。
「もう……限界です。多分」
「諦めてはいけません。貴方がこんなところで死んでしまったら、これから誰が警備科の指揮を執るのですか」
返事はもうない。無視しているのではなく意識を失っているのだ。今になってようやくやって来た救護班の班員たちが、彼に群がり手当てを開始する。
これでもう安心……とはとても言えない。むしろその逆で、まだ危険な状態だろう。それでもナスカは信じた。きっと間に合う、きっと大丈夫。すぐに回復する、と。
二人の司令官を失ったリボソの一般兵たちは撤退を余儀なくされた。こうして第二待機所は守られたのである。
しかし第二待機所が受けた被害もかなり大きかった。備品や建物、それに人体。損害は多岐に渡った。壊れた物は修理するなり買いなおすなりすればいいが、失われた命は戻らない。何よりそれを考えさせられる事件であった。
ベルデは幸い命を取り止め、意識は戻るようになった。運が良かった。とはいえ傷は深かったらしく、十分回復するにはもう少し時間がかかるため、受付兼指揮官には別の男性が代役として立てられた。
一方、エアハルトはナスカに嫌われているかもと絶望しかけていたのだが、その誤解は解け、二人はやっと和解した。この前までと同じように仲良しに戻る。
心を病んでいたマリアムは、故郷に帰り養生することに決まり待機所を去る。ナスカは、自分が初めて待機所へ来た日のことを思い出しながら、彼女を見送った。
そして、まるでその代わりのように、ヒムロは正式にクロレア航空隊に入隊した。彼女はついにリボソを捨てたのだった。
クロレアの国は長らく続いた戦争という悲劇を根元から断つべくリボソに対して和平を訴えるものの、リボソのカスカベ女大統領はそれをことごとく拒否。交渉は失敗に終わる。だが、それは誰もが予想したことだった。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.77 )
- 日時: 2017/09/07 21:14
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: J1W6A8bP)
episode.17
「一番幸せな日」
1951年・秋のある日。その日、騒がしい食堂で、ナスカは一人夕食を食べていた。
「おぉ、ナスカさん!一緒にご飯食べてもええですか?」
唐突に現れたユーミルが陽気に声をかけてきた。手に持っているお盆には、いくつか食器が乗っている。
「えぇ、どうぞ」
そう答えると、ユーミルはナスカの前の席に座った。
「ユーミルさん、今日はお一人?」
ナスカがご飯を口に含みながら尋ねると、ユーミルは屈託のない笑みで返す。
「そうそう。今日、坊っちゃんは仕事があるらしいんや。だから、こっちは一人でご飯食べることにしましてん」
本当に陽気な人だ、とナスカは思った。一人の日だったので困りはしないが、誰かといる時であったなら面倒臭くなりそうである。今日は問題ないが。
「それにしても、ここのご飯は美味しいわ!バイキング形式っていうのも自由感があって楽しいし。ナスカさんらは、いつもこんな食事をしてはるんやね」
ユーミルがペラペラと話し続けている間、ナスカは適当に相槌を打ちながら、自分の食事を継続する。
「あっ!それ、焼き魚?ナスカさん魚好きなん?こっちも実は魚とか好物やねん。迷って取らへんかったけど。折角やから、美味しいメニュー教えてほしいわ。オススメとか!」
ユーミルは大量のポテトサラダを口に突っ込み、息苦しそうにもぐもぐしている。
「魚が好きなの?何だか意外」
あまりに一人で話させるのも可哀想に思いナスカは返した。
「いやはや、よく言われますわ!肉食っぽいって言われるんやけど、こう見えてこっちはまだ独身ですねん」
ユーミルは笑いながら冗談めかすが、ナスカにはどこが面白いのかよく分からなかったので、適当な苦笑いでごまかした。
「ナスカちゃん、今ちょっと構わないかしら?」
そんなところに突然現れて声をかけてきたのはヒムロ。
浅葱色のシャツに赤いネクタイを締め、黒いタイトスカートにストッキングという大人の魅力たっぷりな服装とは裏腹に、薄く引かれた桜色のリップが初々しい可愛らしさを演出している。ギャップが素敵だ。
「あ、ヒムロさん。どうかなさいましたか?」
「ナスカちゃんにお客様よ」
ヒムロは微笑んで言った。
「そうですか!あ、ユーミルさん、それでは私はここで。お先に失礼します」
ナスカはユーミルに向かって軽くお辞儀をすると、食器が乗ったお盆を持つ。
「これ、返してからでも大丈夫ですか?」
「構わないわよ。待ってるわ」
ヒムロが笑ったのでナスカは安心してお盆を返しにいけた。
「お待たせしました」
「いえいえ。じゃあナスカちゃん、行きましょ」
ナスカはヒムロの後についていく。
食堂を出て廊下を歩き、談話室に着いた。ナスカはふと、ヒムロに初めて出会った日を思い出した。
「どうかした?」
ぼんやりしているナスカをヒムロは不思議そうな目で見た。
「あっ、いえ。何でもありません!」
ナスカは笑ってごまかした。
「それじゃ、開けるわね」
ヒムロはドアを開け、中に入るように促す。
談話室に入った瞬間、ナスカは目を疑った。
「に、兄さん……?」
そこにいたのは、正真正銘ヴェルナーだった。一日たりとも忘れたことのない、あの日引き離された大好きな兄だ。
「本当に兄さん!?」
ナスカは疑うような目付きで少しずつ近寄っていく。
「また、会えたね」
ソファに座っているヴェルナーが静かに微笑む。
ナスカは信じられない思いで彼の姿を見つめた。言葉は何も出ない。その時は、目に溜まった涙を流さないようにすることに必死だった。
どれだけ夢見ただろうか。この日を。
ナスカは考えるより先に彼を強く抱き締めていた。
「会いたかった!」
そう言ったのを皮切りに涙が溢れた。一度流れ出した涙を止めることはできなかった。
「よく頑張ったね」
ヴェルナーは微笑み、両腕でナスカの背中を優しく撫でる。まだ幼かった頃、泣きやまないナスカを慰めたように。
「よく頑張った」
ヒムロはナスカの泣き声が外に漏れないよう、そっとドアを閉めた。
幸せな二人の姿を、ヒムロは羨ましそうに見つめる。抱き締める相手がいること、抱き締めてくれる人がいること。彼女にとってはもう二度と手に入らない夢。
「ヒムロさん、ヒムロさん」
ようやく抱き締める手を離したナスカは、宙を見ているヒムロに声をかけた。
「あっ、えぇ。何かしら?」
二回目で気がついたヒムロは平静を装い返答した。
「呼びに来てくださってありがとうございました!本当に、本当に嬉しいです……私……」
ナスカはこの数年間で一番、太陽のように曇りのない笑顔を浮かべた。率直にお礼を言われたヒムロは気恥ずかしそうな表情をする。
「ありがとうだなんて。仕事だもの、普通でしょ」
その時だった。
バァン!と大きな音が響き、ドアが勢いよく開く。
「痛っ!」
腕にドアが凄まじく激突したヒムロだった。
「ナスカ!本当かい!?」
とても慌てた様子の小包を持ったエアハルトが入ってくる。
「エアハルトさん?」
ナスカは驚いて彼を見る。
「……アードラーさん」
ヴェルナーがやや緊張感のある声で言った。
「お久しぶりです。ナスカがお世話になっております」
エアハルトは気まずそうな顔で返す。
「いや、大丈夫。むしろこっちが助かってるぐらいで」
二人がとても気まずい雰囲気なのが、ナスカには不思議だった。
「ヴェルナー、いや、こんな風に馴れ馴れしく呼ばれるのは嫌かもしれないが……とにかく退院おめでとう。これを」
エアハルトは手に持っていた小包を差し出す。
「それ何ですか?」
「ナスカ、これはヴェルナーの退院祝いだよ」
仲の良いナスカとエアハルトを目の前で見て、ヴェルナーは様々な感情が混ざった複雑な顔をしている。可愛がっていた娘がいつの間にか他の男と仲良くなっていたときの父親の心境に近しいものがあるのかもしれない。
ヴェルナーはナスカの耳元に口を寄せ小さな声で尋ねる。
「アードラーさんと仲良し?」
「仲良しかは分からないけど、私は好き!エアハルトさん、とっても優しくて素敵な方よ!いつも守ってくれて頼もしいし」
ナスカは一切の迷いなく答えた。それを聞いてヴェルナーは更に難しい表情になったが、やはりナスカにはその意味が分からなかった。
「とにかく、小包を開けてみてよ。ほらヒムロ!紅茶!」
ヒムロは「分かってる」とでも言いたげな不満そうな顔で談話室を出ていく。
「先に言っておくと小包の中はお菓子だ。ヴェルナー、ナスカと二人で楽しんでくれ。では僕はこれで」
そう言うとエアハルトは談話室を出ていった。
途端にヴェルナーが口を開く。
「アードラーさんがあんな優しい話し方するの初めて見たよ」
ナスカはヴェルナーの隣に座り彼にもたれる。
「そうなの?兄さん」
「ファンサービスはするけど、後輩には厳しい人だったよ。俺もよく怒られた」
ヴェルナーは苦々しい顔をしながら懐かしむように言った。
「そっか。エアハルトさん、カッとなるところあるもんね」
にこにこで返すナスカに、ヴェルナーは真剣な顔をする。
「ナスカ、彼には気を付けたほうがいい。アードラーさんはパイロットとしては優秀だが、他は……」
「優秀でない、と?」
ヴェルナーの言葉に柔らかく口を挟んだのはヒムロだった。ティーカップ二つと銀色のポットをお盆に乗せて談話室に入ってきたところだ。
「紅茶をお持ちしました」
ヒムロはにこっと微笑むと二つのティーカップをテーブルに置き、銀色に輝くポットを持つとゆっくり注ぎ入れる。
秋を感じさせる甘い香りが、ほくほくと部屋に広がる。
「いい香り。これは何のお茶ですか?」
ナスカが興味津々で尋ねるとヒムロは優しく答える。
「あたしのお気に入り、マロングラッセティーよ。冷めると甘ったるくなるから温かいうちにどうぞ」
「マロングラッセ?どうしてそんな高級品を」
ヴェルナーが怪訝な顔でぼやくのをヒムロは聞き逃さなかった。
「この国では栗は高級品と聞きましたけど、あたしの母国ではいたって普通の食べ物でした。これは故郷の知人から送っていただいたものですから、そこまでの高級品ではありません。ただ味は美味しいと思いますよ」
ヒムロらしくなく丁寧な口調だった。もしかしたら客人にはこうなのかもしれない。
「ヒムロさん、今日は何だか雰囲気違いますね」
「そうね、お仕事中だもの。それじゃ、ごゆっくり。あ、ポットの紅茶は自由に飲んで構わないわよ」
ヒムロはさらっと言い談話室を出ていった。さすが外交官の娘だけはある。とても慣れていた。
談話室でナスカはヴェルナーと二人きりになる。
「さっきのお話……何だっけ。エアハルトさんはパイロットとしては優秀だけど、の続き」
ヴェルナーはキョロキョロしてから話し出す。
「先生としては優秀じゃないって話だよ。いちいち言い方がきつすぎるってのもあるけど、事故を起こすから。彼の飛行はかなり危険な飛行なんだよ。それが一番怖いね」
「それは……兄さんが怪我した事故のこと?」
ナスカが察して言うと、ヴェルナーは黙り込む。
「兄さんが怪我をした訓練、エアハルトさんが責任者だったって。あと、優秀なパイロットが何人も亡くなったって。その日……何があったの?」
ナスカは問うが、ヴェルナーは下向き黙ったままびくともしない。
「……兄さん」
ナスカがそう言った時、ヴェルナーは小さな囁くような声で返す。
「事故じゃなかった」
ナスカは耳をすます。
「あれは攻撃だった。だが戦争を恐れたクロレアは、訓練中の事故として闇に葬った」
「まさか!」
思わず大声を出してしまったナスカは慌てて口をおさえる。
「ごめん。続けて」
「あの日訓練に参加していたのは俺と三人のパイロット。で、責任者がアードラーさんとロザリオ先生だった。ロザリオ先生はとても親切な先生で皆から信頼もされていたんだけど……彼がリボソ国との内通者だった。彼は最初、突然実弾で一機を撃墜したんだ」
「どうなったの?」
「空中でばらばらになった。俺は怖くなって大急ぎで離れようとしたけど、上手く操縦できなくて、そのうちに二機目三機目も撃たれて海に墜ちた」
ナスカは何だか昔のような気分になってきた。だが昔聞いていたような楽しい話ではない。
「さすがにもう駄目だと思ったよ。ここで死ぬんだって」
ナスカは幼い頃のように夢中で聞いていた。
「だけどアードラーさんが間に入ってくれた。先生の機体はばらばらになり、緊急脱出した生身のロザリオ先生も吹き飛ばした。ここまではまだ良かった。この後、アードラーさんの機体はバランスを崩して、俺の訓練機に突っ込んだ……こればかりはもう死んだと思ったね」
「確かにいきなり激突されたら驚くわね」
ヴェルナーは続ける。
「そのまま海に突っ込んで、次に気が付いたら医務室のベッドだったよ」
「そっか……」
話が一段落したところで、ドアが遠慮がちに開く。
「ご、ごめんなさい」
微かに開いたドアの隙間からトーレが覗いていた。
「何か用事?」
ナスカが尋ねるとトーレは気まずそうな顔で返す。
「盗み聞きするつもりじゃなかったんだ。ただ、ナスカのお兄さんが来てるって聞いて、挨拶しようかなって。それだけ。本当にそれだけなんだ」
「大丈夫。トーレ、もっと入ってきたら?そんなところで覗いてると変よ」
「う、うん。そうするよ」
やっとトーレは談話室内に入ってきた。
「初めまして」
ヴェルナーが優しく言う。トーレはヴェルナーに目をやり、緊張で強張りながらもやや興奮気味に挨拶する。
「初めまして、トーレです!いつも仲良、違った、お世話になっています!」
「ヴェルナーだよ。よろしく」
手を差し出されたトーレは興奮で顔を赤らめている。
「そんな、よろしくだなんて!勿体ないですよ!」
と言いつつも握手する。
「ヴェルナーさんってどんなお仕事をなさってるんですか?」
トーレの質問にナスカが答える。
「兄さんは戦闘機パイロット志望だったのよ」
「え!そうなの!?」
トーレは驚きを隠さず素直な反応をする。
「知らなかった!じゃあ僕らの先輩なんだ!」
「なんだかんだで訓練生までしかいっていないどね」
ヴェルナーが笑っていたのを見てナスカは少し安心した。
「訓練生でも先輩は先輩です!才能ってやっぱり遺伝するんですかね〜。兄妹揃って戦闘機乗りなんて羨ましいなぁ」
「羨ましい?」
怪訝な顔になるヴェルナーにトーレは邪気なく言う。
「だって、一緒に並んで空を飛べるじゃないですか!僕の家じゃ他に空飛ぶ人はいないんで、いいなぁって思いまして!」
トーレは始終興奮気味であった。共通の話題が見つかり楽しかったのかもしれない。ナスカは、彼の無邪気な表情を見ていると、心が軽くなるような気がした。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.78 )
- 日時: 2017/09/08 18:33
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Mu5Txw/v)
episode.18
「最後の作戦」
冬になりかけたその日、第二航空隊待機所で働く全員に集合がかかった。もちろんナスカも参加したが、全員が集まった食堂はいつもより狭くて息苦しい。
ほぼ皆が集まった頃、一人の恰幅の良い男性が現れる。見たことのない人だが、ぴんとした立派な軍服を身に付けているので、お偉いさんだろう。
「ヘーゲル・カンピニアだ。今日は大切な話があって集まっていただいた。実は大きな作戦が決まったのだ。戦争を終わらせるための、名誉ある大きな作戦だ!犠牲は出るかもしれないが、航空隊に任せることにした」
沈黙の中、ナスカの隣に座っていたトーレがぼやく。
「お偉いさんはいいよね。安全なところで命じるだけとか」
ヘーゲルは自分に酔ったように語り続ける。
「この作戦が成功すれば、リボソ国を降伏させることができる!今まで殉職してきた仲間のためにも、なんとしても頑張ってくれたまえ。君たちはクロレア国民の代表だ!……約一名ほど、よそ者もいるようだがな」
彼は一瞬ヒムロを横目に見る。失礼な男性だ。
「それでは私はこれで解散だ。作戦の詳細はそれぞれに連絡する」
話は思いのほか早く終わり、皆呆れ顔だった。わざわざ呼び集めておいてこれだけか、と苛立つ者もいただろう。
「何だったんだろうね。帰ろうナスカ」
トーレがナスカに声をかけた直後、ヘーゲルがナスカの後ろに立っていた。
「君が……ナスカだね?」
ナスカはあまり絡まれたくないと思いながらも真面目に返す。
「はい。そうです」
「話は聞いているよ。航空隊初の女性戦闘機パイロット!よく頑張っている。偉いね」
ヘーゲルは予想外に気さくな雰囲気で話しかけてくるが、ナスカの隣に立っているトーレは怪訝な顔をしている。
「今回の作戦は君が主役だからね。応援しているよ」
「ありがとうございます」
ヘーゲルが去っていった後、トーレはぼそっと吐き捨てる。
「意味分からないよ」
ナスカもトーレと同じ思いだった。
「全員揃ったね。早速、作戦について説明しようか」
エアハルトが言った。
会議室に集まったのはナスカとトーレ、そしてジレル中尉。なぜかヒムロとリリーもいる。
「作戦の目的はただ一つ。リボソ国のカスカベ女大統領を殺すこと」
「そんな!いきなり?」
ナスカは衝撃を受けてうっかり大きな声を漏らした。
「そうだよ、ナスカ。それも……君が殺すんだ」
エアハルトに言われナスカは愕然とする。
「待って!無理よ!」
「誰だって君にそんなことさせたくないよ。でもそういう作戦で通っちゃってるんだ」
衝撃で固まっているナスカの手をトーレがそっと握る。
「何とかならんのか」
ジレル中尉が口を挟む。
「いくら功績を挙げているとはいえ、彼女には荷が重い」
ヒムロとリリーも不安そうにナスカを見つめている。
「ヒムロ、カメラを」
エアハルトが指示すると、ヒムロは手早く壁のパネルを開け監視カメラのスイッチを押す。
「消したわ。これで大丈夫」
エアハルトは頷いた。
「大丈夫だよ、ナスカ。君一人に背負わせたりはしない」
ナスカは少し顔を上げる。
「この作戦は、ナスカが個人で最深部まで行きカスカベを殺すということになっている。僕らはそのサポートをするのだと。だがこれはナスカを死なせたいかのような無謀な作戦だ。常識的に考えて不可能」
会議室はとても静かで、空調の音さえしていない。
「これは提案だ。誰かがナスカと一緒に行動し、最後土壇場でその誰かがカスカベを殺す。上にはナスカが殺したということにする。こうすればナスカはカスカベを殺さずにすむ。賛成してはくれないだろうか」
すぐにトーレが挙手した。
「僕は賛成です」
その表情には強い決意がうかがえる。
「賛成するよ!」
二番目に言ったのはリリー。
「リリーね、ナスカのためなら人くらい殺せるよ」
彼女のえげつない発言に一同は一瞬凍りついた。
「では私も賛成としよう」
「反対しても無駄みたいね」
ジレル中尉とヒムロだった。
「ご理解感謝します」
エアハルトはジレル中尉にそう言った。
「このことはどうか内密に。ヒムロ、カメラを」
「はぁい」
ヒムロはカメラを元に戻す。
「では解散しよう」
全員は揃って頷いた。
これは、六人だけの秘密だ。このメンバーなら絶対にばれることはないだろう。
少なくともこの時は、誰もがそう信じていた。
翌朝。
「ナスカ、ナスカ!」
血相を変えたリリーが走ってくる。
「おはよう。リリー」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ!助けて!」
「何かあったの?」
リリーは、呑気に尋ねるナスカの手を掴むと、いつもより早足で進む。ナスカは状況が飲み込めないまま、抵抗できず引っ張られていった。
着いたのは今は使われていない古い司令官室。
「こんなところ?またどうして……今はもう使われていないんじゃなかったっけ」
リリーは重そうなドアをノックする。おおよそノックとは思えない重厚な音が響いた。
数秒後ドアが開く。
「来たかね、ナスカ」
中には余裕な笑みを浮かべているヘーゲルを中心に、その手下らしき軍服の男たちが並んで立っていた。その向かいにはジレル中尉が一人座っている。
「リリー。偉いぞ」
ヘーゲルは機嫌良さそうにリリーの頭を撫でて褒めた。
「エアハルト・アードラーを呼べと言ったはずだが」
ジレル中尉が不満げにリリーを睨んだ。
「ごめんなさい!でも、でもリリー……逆らうの怖いし」
リリーは弱々しく言い訳をする。
「ヘーゲルさん、何か私に用ですか?」
ナスカが言うと、ヘーゲルは頷き、ニヤリと不審な笑みを浮かべた。
「実は昨日、私の作戦を改変し作戦成功の妨害をしようとした者がいるらしくてね。ナスカ、何か知らないかね?」
これを聞いてナスカはすべてを理解した。恐らく、会議室での会議を聞いていた者がおり、その者がヘーゲルに告げ口したのだろう。
「まさか。私の知り合いにそんな人はいません。作戦成功の妨害をするなんて!」
ナスカはいつもより大袈裟に答えた。
「それは本当か?」
ヘーゲルは尋ねながら立ち上がり、ジレル中尉の方へゆっくりと足を進める。
そして義手を掴みジレル中尉を引き寄せる。
「本物の義手を見たのは初めてだよ。かなり精巧だが……、実に不気味だね」
「一言余計だ」
ジレル中尉はとても冷めた表情でぼそっと呟いた。
「さて、ナスカ」
ヘーゲルは言いながらナスカに歩み寄ってくる。
「本当のことを言え。これから大仕事って時に、仲間の中に反逆者がいたら怖いだろう?最後の最後に裏切られるかもしれないのだから」
「その話、どなたかからお聞きになったのですか?」
威圧感に負けてはならない、と自分に言い聞かせ、ナスカは冷静な態度をとった。
「君の親友、トーレくんだよ。昨夜彼が教えてくれたんだ。詳細説明の時に……とね」
ヘーゲルはまたニヤリと不気味に笑った。ナスカは動揺をしそうになったが、それを隠しさらっと述べる。
「だとしたら彼が間違った報告をしています。詳細説明なら私とトーレは同じ部屋で聞きました。普通に説明があっただけでしたよ」
ナスカの顔には笑みさえ浮かんでいた。
「詳細説明のちょうどその時間、会議室のカメラが停止していたのだが……本当に何も知らないのかね?」
ヘーゲルは声をやや強めた。
「はい。トーレの勘違いか、あるいは嘘かと」
「だが……そんな嘘をわざわざ上に言う必要があるか?」
「彼の意図は分かりません。でも、安心して下さい。私たちはヘーゲルさんが正しいことをしている限り、裏切ったりはしません」
それを聞いたヘーゲルは怪訝な顔をする。
「正しいことをしている限り……?どういう意味かね」
ナスカは満面の笑みを浮かべて答える。
「それはいずれ分かることだと思いますよ」
リリーは心配そうな眼差しでナスカを見つめている。ジレル中尉は軍服の男に囲まれ、不満そうにヘーゲルの背中を睨んでいた。
「今回の件につきましては、そんなに気にすることではありません。大丈夫です!」
ヘーゲルは少し黙り込み、やがて述べる。
「まぁよかろう……今回だけは見逃すことにする。だが、次はないから覚えておくように」
こうしてナスカとリリー、そしてジレル中尉は解放された。
食堂に着くと、朝食の時間で賑わっていた。何だか心温まる光景だ。
ナスカとジレル中尉が空いている席に座った時、無邪気な笑顔でリリーが言う。
「ナスカとジレルは席にいて!あ、リリーの席もちゃんと確保しておいてね。リリーが二人に美味しいもの持ってくるよ!」
そして走っていき、ナスカはジレル中尉と二人きりになってしまった。
年齢も性別も違う二人がちょこんと隣の席に座っているのだから、不思議な光景だろう。通りかかった人が珍妙な顔で見てくるのがナスカは微かに面白かった。
話すことがなく困っていたナスカに、突然ジレル中尉が話しかける。
「朝から迷惑をかけたな」
そっけない言い方だが、彼が本気であることは分かった。
「いえ。大丈夫です」
しばらく沈黙があり、ジレル中尉は静かに尋ねる。
「分かっている。いきなり……こんなことを尋ねるのはおかしいということは。だが……他人から見ると気味が悪いか?これは」
彼は右手の人差し指で義手をトントンと軽く叩きながら気まずそうな顔をする。どうやらヘーゲルに言われたことを若干気にしているらしい。
「珍しいから……目を引くのかもしれないです。でも、何だか意外。ジレル中尉がそんなこと気にするなんて」
ジレル中尉はよく分からないと言いたげな顔をする。
「……意外だと?」
「はい。人にどう見られてるかなんて気にしない人だと思っていたので」
少し沈黙があり、ジレル中尉は真剣な顔でナスカを見る。
「一つ、願いがあるのだが」
唐突だったのでナスカは一瞬戸惑う。
「リリーを」
「来たよーー!!」
ジレル中尉の声に被せて、元気いっぱいのリリーが帰ってきた。その手にはパフェを三つ乗せた銀のお盆。
「じゃ〜ん!特別にパフェを頼んできたよっ!」
ナスカは呆れて頭を抱える。
「もう……何やってんのよ、リリー。この忙しい朝食時にそんなもの三つも頼んで」
リリーは気にせずパフェをお盆からそれぞれの前に置いていく。ナスカが呆れている様子など、まったくと言ってもいいほど気づいていない。
「さぁさぁ、食べてみて!今日はチョコレートパフェだよ!」
背の高いガラス製の器に甘いものがぎっしり詰め込まれている。ねっとりしていそうなバニラとチョコレートのアイスクリームに新鮮な果物。細かいチョコチップと、とろりとしたチョコレートソースが、たっぷりかかった贅沢なパフェだ。
到底、朝から食べるものではない。
「リリー……こ、これを食べろと……?」
ジレル中尉が動揺した顔で言った。
「うん!美味しいよ!」
リリーはジレル中尉に満面の笑みで返した。
「ジレル、甘いの嫌い?」
リリーに悲しそうに見つめられたジレル中尉はすっかり困り顔になる。
「いや、嫌いとか、そんなことはないが……」
「食べるのが面倒?じゃあ、食べさせてあげるよ!」
リリーは早速スプーンを手に取りアイスクリームをすくうとジレル中尉の口の前に突きつける。
「はいっ!口を開けて」
ナスカがまさかしないだろうと見ていると、ジレル中尉はゆっくり口を開いた。リリーは彼の口にアイスクリームがたっぷり乗ったスプーンを入れる。
「ん……、甘い」
ナスカは信じられず呆れた。いつの間にこんなに仲良くなったのか。
「リリー、何をしているの?」
ナスカが尋ねると、リリーは笑顔のまま視線をナスカに移し返す。
「食べさせてあげてるんだよ。それよりナスカも食べて。このパフェとっても美味しいよ!」
ナスカは少し声を強める。
「リリー。年上の人に対して食べさせてあげてる、とか失礼なんじゃない?」
「失礼じゃないもん。ジレル、喜んでるもん」
リリーは不満げに頬を膨らまして言い返した。
「普通の感覚で見たら変よ」
「変じゃないよ。だっていつもだもん。いつも食べさせてるけど、おかしいとか言われたことないよ!」
リリーは注意され苛立っているようだ。
「そりゃあジレル中尉がいれば誰も注意できないだろうけど……」
「リリーがジレルと仲良いのが羨ましいんだ!嫉妬!だからそんなこと言ってるんだね!」
「まさか。リリーが仲良くなるのに嫉妬なんてするはずない。私はただ……」
リリーにきつく言われたナスカは段々悲しくなってきた。
「嘘だよ!嫉妬してないなら、こんなこと言わないもん!」
「落ち着け、リリー」
口を挟んだのはジレル中尉だった。
「責任は私にある。どうか、リリーを責めないでくれ」
彼は冷静な声でナスカに対して言った。
「ジレル中尉も!リリーって呼ばないで下さい。あと、私の妹に手を出されるのも困ります。どれだけ年の差があるとお思いですか!」
ナスカにはっきり告げられたジレル中尉は愕然としている。
「どんな感情をお持ちかは知りませんが、今日限りで諦めて下さい」
ナスカは半分も食べていないチョコレートパフェを残して立ち上がる。
「では、ごちそうさまでした」
去っていくナスカの背に向かってジレル中尉は何かを言おうとしたが、言葉は出なかった。膨れるリリーとは反対に、ジレル中尉はどこか悲しげな、浮かない表情だった。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.79 )
- 日時: 2017/09/08 18:35
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Mu5Txw/v)
episode.19
「些細な気遣い」
食堂を出て、外の風を浴びようと玄関へ向かうと、車椅子に乗ったヴェルナーが受付係の男性と何やら楽しそうに話していた。
「兄さん!来ていたの?」
ナスカはヴェルナーに声をかけて駆け寄る。
「あぁ、ナスカ。こんな朝から一人でどうした?」
「ちょっと外の空気でも吸おうかなと思って。もしよかったら兄さんも一緒にどう?」
ナスカが誘うと、ヴェルナーは笑って頷く。
「いいね。俺も行くよ」
ナスカはヴェルナーと共に外へ出ていった。
外は珍しく快晴だった。灰色の雲はほとんどなく、高い青空が広がっており、時折寒い風が吹いている。それでも晴れているので、日光が当たるとじんわりと暖かい。
「リリーは元気?」
ヴェルナーが尋ねた。
「うん……とても」
ナスカは少し俯いて答えた。
「私、さっきリリーと喧嘩しちゃった」
小さく言うと、ヴェルナーはナスカに目をやる。
「何があったんだい?」
「食堂でリリーがいちゃつくから注意したの。そしたらリリーは怒って……羨ましいからそんなこと言うんだって、嫉妬してるんだって言われちゃったわ」
一瞬言葉を止め、そして再び話し出す。
「リリーが幸せになることに嫉妬なんてするはずない……。私はあの子が笑っていれば幸せよ。だけど、少し怖かったの。リリーが私から離れていくような気がして」
少ししてヴェルナーは言う。
「リリーがいちゃついてた相手は誰なんだい?」
「……ジレル中尉」
ナスカがぽそっと呟くと、ヴェルナーは唖然とする。
「ま、まさか!」
驚きの声をあげてから笑い始める。
「はっ、ははは!俺の妹たちは本当に玉の輿だなぁ。アードラーさんの次はジレルさんか!」
ナスカはヴェルナーが大笑いする理由が分からずきょとんとする。
「兄さん、ジレル中尉とも知り合いなの?」
ヴェルナーの笑いはまだ止まらない。ナスカは彼がこんなに大笑いし続けるのを初めて見た気がした。
「うん。いやっ、あはは!年離れてるから特別仲良くはないけど知ってるよ」
「航空隊時代に?」
人脈の広さに感心しながらナスカが尋ねる頃に、ヴェルナーの笑いはようやく収まった。
「いやいや。ジレルさんは有力貴族の長男だから、貴族界ではそこそこ有名だよ」
「貴族!?へぇ〜、この時代に貴族とかいるのね」
自分が貴族であることをすっかり忘れているナスカに、ヴェルナーは突っ込む。
「うちも貴族だよ」
「あ!そうだったわね」
言われて思い出したナスカは自分の出自を忘れていたことが少し恥ずかしかった。それと同時に、昔の自分を徐々に忘れてきていることに気付き、どこか切なかった。
「……話戻るけど、リリーに、謝った方がいい……よね」
ナスカはぽそっと呟く。
「今、ナスカが謝ろうと思えるなら、謝っておいで」
ヴェルナーは穏やかな優しい目付きでナスカを見つめる。
「でも許してくれるかな。私、酷いこと言っちゃった。リリーにも……ジレル中尉にも」
「大丈夫だよ。ちゃんと気持ちを伝えれば、きっと分かってくれるから」
「……本当?」
ナスカは不安な顔をする。
「きっと大丈夫だよ。外の空気も吸えたことだし、そろそろ行ってきたら?」
ヴェルナーはナスカの背中を軽く叩き元気づける。
「……うん。そうする。ありがとう、兄さん」
ナスカはお礼を言うと、再び食堂へ戻ることにした。
食堂の入り口に着くと、遠目にリリーとジレル中尉が見え、ナスカは引き返したい衝動に駆られた。しかし勇気を出して一歩を踏み出す。ここで逃げてはならない。そう心の中で何度も自分に言い聞かせる。
ナスカは二人のもとまで歩いていき、心を決めて口を開く。
「リリー」
ジレル中尉と仲良さそうに話していたリリーが振り返る。
「ナスカ!……怒ってる?」
リリーは気まずそうな顔で言った。
「ううん、違う。その……ごめんなさい」
ナスカは頭を下げたまま続ける。
「さっきは言いすぎて、ごめんなさい」
リリーは何が起きたのか分からず戸惑っている。
「む、ナスカ?何?どうしちゃったの?」
その時、ジレル中尉が淡々とした口調で言い放つ。
「ナスカくん、もういい」
短い言葉ではあったが、冷たくはなかった。ナスカはゆっくりと顔を上げる。
「そんなのは君らしくない。嵐が来るから止めてくれ」
ジレル中尉は淡々とした平坦な声で言った。
「カッとなってごめんなさい。あの、本当はあんなこと言うべきでないと分かっていました。だけど衝動的にあんな……どうか許して下さい」
ナスカは緊張しながらも懸命に言葉を紡いだ。
「もう許している。……というより、そもそも最初から怒ってなどいない」
リリーはナスカとジレル中尉を交互に見ている。
「ありがとうございます」
ナスカは少し笑ってお礼を述べる。勇気を出して素直に謝って良かったと思った。
その翌日、ナスカは廊下でトーレにばったり遭遇した。
「おはよう。トーレ」
声をかけると、トーレはぎこちなく「おはよう」とだけ返した。少しでも早く話を終えたいというような、どこか急いでいるみたいな表情だった。
「トーレ、ヘーゲルさんと作戦についての話とかした?」
ナスカが何食わぬ顔で尋ねると、彼は小さく頷く。
「ちょっとだけ。でも、たいしたことは話してないよ」
「どんな話をしたの?」
トーレは笑っていない。
「誰かに……言うほどのことじゃないよ」
「昨日ね、ヘーゲルさんに呼び出されたの。作戦内容を変えて、作戦が成功しないようにした者がいる。そう言われたわ」
「それがどうかした?」
「ヘーゲルさんはトーレに聞いたって言ってた。本当なの?」
トーレは黙り込んでしまう。
「何か訳があるのよね。……それも話せない?」
ナスカはほんの一瞬もトーレから目を離さない。彼をまっすぐに見つめる。
「お願い、話して」
ナスカはトーレの手を握り、真剣な表情で彼の大きな瞳を凝視する。
しばらく沈黙があり、トーレは弱々しく口を開く。
「……言わないと殺すって言われたんだ。裏切りがあったって言わないと、家族まとめて処刑だって。裏切るつもりじゃなかった。けど、僕……処刑なんて言われたら怖くて」
「……そう。そうよね。そんなことだと思ったわ」
トーレは呟きより少し大きいくらいの声で言う。
「で、でも、本当のことは言ってないよ」
ナスカは小声で返す。
「嘘を言ったの?」
「うん、そうなんだ。隙を狙ってヘーゲルを暗殺する作戦に変えたって言ったよ」
気まずそうにトーレが言った内容に、ナスカは絶句した。
「そんなことを言ったの!?そりゃあ怒られるはずだわ」
ナスカは驚きと呆れの混ざった言い方をした。
「トーレ」
と、背後から名を呼んだのはエアハルト。突然のことでトーレは驚き、硬直する。
「今、少し構わないだろうか」
エアハルトがそう言うと、トーレはさらにひきつった顔になる。ヘーゲルに告げ口したことを怒られると思ったのだろう。ナスカは推測した。
「あ、あ……ごめんなさい」
トーレにいきなり謝られたエアハルトは、やや戸惑った表情で言う。
「どうした?」
「あっ、いや、えと……」
トーレは挙動不審だ。
「ヘーゲルさんの話ではありませんでしたか!?」
「ん?テスト飛行の話だけど」
エアハルトはどうやら告げ口のことを知らないらしい。とっくに知っていると思っていただけに意外だ。責任者的役職であるエアハルトに最初に話がいきそうなものだが。
「テスト飛行、ですか?」
トーレは不思議そうな顔をして尋ねる。
「そうなんだ。ちょっと付き合ってくれないか?」
エアハルトは少し笑う。
「えっ、僕ですか!?」
トーレは驚いて返した。
「こんなに健康だというのに、みんな揃って反対するんだ。飛ぶのはまだ危険だ、と。誰も相手してくれない。地上勤務ばかりというのも退屈なものなんだよ。そこで、君に協力してもらいたいって話」
しばらくしてからトーレは口を開く。
「ですけど、僕にできることは限られています。ナスカとかの方がいいのではないですか?」
するとエアハルトはきっぱりと言い返す。
「ナスカを不必要に飛ばすわけにはいかない。そんなことで怪我したりしては可哀想だ。それに、もしリボソの偵察機なんかに発見されたらもったいない」
「……だから僕にですか」
トーレは嬉しくなさそうに、小さくぽそっと漏らした。
「嫌ならば断っても構わない。今回は君の意思に任せる」
トーレの嫌そうな顔に気が付いたからか、エアハルトはそう付け足した。
しかし、訪れた沈黙を先に破ったのは、予想外にもトーレだった。
「何をすれば?」
その静かな声にはトーレなりの勇気が滲んでいる。
「戦闘機に乗って空へ行って。それから……撃ち合いだ」
エアハルトはどこか嬉しそうな声色でそう言った。
「実弾ではなく訓練用を搭載しておくように。では、三十分後に上空で会おう」
と続け、ご機嫌なエアハルトは通りすぎていった。その足取りは弾んでいる。ナスカは彼が戦闘好きだということを、久々に再確認した気分だった。
エアハルトの姿が見えなくなると、トーレはすぐさまナスカの方を向き叫ぶ。
「まずいことになっちゃったよ!どうしよう!?」
ナスカは冷静に返す。
「とにかく、準備した方がいいと思うわよ」
「他人事だぁ!冷たい!」
トーレは涙目になっている。
「地上からゆっくり観戦しておくわね」
「というか僕、撃ち合いなんてしたことないよ!実戦で戦ったことだってないのに、そんな模擬戦闘みたいな……」
「実戦に備えてするのが模擬戦闘よ」
「……どっちでもいいよ」
もはや思考がこんがらがり、トーレはよく分からないことを言い出している。
「ナスカ、助けてよ!相手はクロレアの閃光だよ!?」
トーレはナスカの肩を持ち、大きな瞳に涙を溜めながら、必死に訴える。
「エアハルトさんだと思えば大丈夫よ」
ナスカにはそれしか思い付かなかった。
「僕、油断してたよ!まさかこんな日が来るなんて……」
すっかりびびりあがり、子犬のように震えている。
「大丈夫、勉強になるわ。それに実戦じゃないから殺しにきやしないわよ。実戦のエアハルトさんと戦うよりはましだと思って」
「ひえぇ……」
トーレは青ざめている。
「嫌なら断ればよかったのに」
ナスカが言うと、トーレは困り顔で首を横に振る。
「そんな、断れないよ」
「なら仕方ないわね。時間はあまりないんだから準備してきたら?」
がっくりと肩を落としてトーレは頷いた。
「いきなりやって来て三十分後とか……早すぎるよ。そんな早く準備できないよ……っていうか着替えて外に出るまでで十分くらいはかかるよ……」
何やら不満をぶつぶつ漏らしていた。
トーレと別れ歩き出そうとした時、ジレル中尉とリリーが仲良く現れた。
「あ、ナスカ!おはよう!」
リリーは当たり前のように明るく声をかけてくる。
「リリー、本当に仲良しね」
ナスカが言うと、リリーはハッとして少し気まずそうな顔をし、ジレル中尉から離れる。
「あ……ごめんなさい」
ナスカは昨日のことを思い出して言う。
「リリー、そういう意味じゃないから。仲良くしていいのよ」
「……本当?」
リリーは不安げに呟いた。
「本当よ、リリー。そういえばジレル中尉って貴族出身だったんですね」
ナスカが話をふると、ジレル中尉はじとりとした目付きで尋ねる。
「……誰に聞いた?」
ナスカは聞き取りやすいはっきりした声で答える。
「兄から聞きました」
「……兄?あぁ、そうか。君も貴族の家柄だったな」
ジレル中尉は納得したようで小さく頷いていた。
「ナスカくんには兄がいたのだな。知らなかった」
そこにリリーが口を挟む。
「ヴェルナーだよ!リリーとナスカの優しいお兄ちゃん!」
屈託のない無邪気な笑顔にやられ、ジレル中尉は少し頬を赤らめる。
「足が悪くて歩けないの……でも、リリーたちを守ってくれたとってもいいお兄ちゃん!リリーも、ヴェルナーのこと大好き!」
「そうか、良いことだ」
一生懸命笑顔をつくろうとしているが、リリーの笑顔の愛らしさに動揺しているらしい。動揺を隠しきれていない。
「ジレルにも今度紹介してあげるよ!リリーはね、ジレルならきっと仲良くなれると思う!」
「楽しみにしておこう」
二人が話し出すとナスカは置いてきぼりにされた気分になり微かに胸が苦しくなる。喉近くまで込み上げてきた言葉をうっかり吐いてしまわないように、ナスカは唇を固く閉じる。
リリーも一人の人間だ。いつかは誰かを愛するだろうし、旅立つ時も来る。ナスカだってそれは十分承知している。
なのにナスカは得体の知れない喪失感に襲われた。
「……カ、ナスカ」
リリーの声を聞き、はっと現実に戻る。
「ナスカ、大丈夫?ちょっと……顔色が悪いみたいだよ」
気がつくとリリーは心配そうな眼差しでナスカを見つめていた。
「……ナスカくん、大丈夫だ。リリ、いや、リリーくんは君を一人にはしない」
ジレル中尉は相変わらず冷たげな表情で言い放った。いつも通りの冷めた顔つきとは裏腹に声は穏やかだった。
「それよりナスカくん、トーレの模擬戦を見に行ってやればどうだ?」
「あ、聞こえてましたか」
「もうすぐ始まりそうだな」
ナスカは腕時計を見て驚く。
「こんな時間!ありがとうございます。では行ってきます」
お辞儀をして別れようとしたその時、リリーが口を開いた。
「ねぇ、リリーも行っちゃダメかな?」
「もちろん!構わないわ」
ナスカは答えた。
リリーの表情が一気に明るくなる。顔面に向日葵が咲いたような眩しい笑顔。
「ジレルもどう?」
リリーは誘うがジレル中尉は首を横に振る。
「私は今から仕事だ。観戦は姉妹で楽しむといい」
それはジレル中尉の彼なりの気遣いだった。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.80 )
- 日時: 2017/09/08 18:36
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Mu5Txw/v)
episode.20
「光と闇」
ナスカはリリーと一緒に建物の外へ出た。
ところどころにある雲の隙間から太陽の光が漏れて、海辺特有の強風が冷たさを助長している。そんな日だった。
「今日は空が綺麗だね!それにしても平和だなぁ」
リリーが両腕を大きく広げて深呼吸をしながら言った後、楽しそうにその場でくるくると回転する。
「確かに最近はここは攻撃されることが減ったわね。でも平和になったわけじゃない」
ナスカは独り言のように小さく呟いた。
リリーは一度ナスカを見てぱちぱちまばたきしてから、再び空を見上げる。
「……そだね。いつか、本当に平和になるといいなぁ」
どこか寂しげな声色だった。
「なるわ」
ナスカは静かだが強い声で言った。
「必ずその時は来るわ」
リリーは視線をナスカに移して笑う。
「そうだね!」
そして続ける。
「ねぇ、ナスカ。もし平和になったらさ、リリーを戦闘機に乗せてよ!」
「……え?」
あまりの唐突さに、ナスカはしばらくついていけなかった。
「そしたら、リリーも空を飛べるでしょ!」
「えと……リリーもパイロットになるってこと?」
するとリリーは明るく返す。
「それは無理だよ!ナスカの戦闘機に乗せてほしいなって!空から海とか見たいなぁ」
自分がパイロットになる可能性はきっぱり否定するリリー。そんなリリーを見て、ナスカは彼女らしいと思うと同時に、どこか可笑しくて笑ってしまった。
でもその方がいい。そんな可能性はいらない。リリーみたいな可愛い女の子が戦闘機に乗って殺し合いをするような時代は来てほしくない。
「それは……素敵な話ね」
ちょうどそこへ、飛行服を着たトーレがばたばたと走ってくる。
「頑張ってね、トーレ!」
ナスカが声をかけると、トーレはその緊張した顔にほんの少しだけ笑みを浮かべ頷いた。
それからトーレが乗り込んだのは実戦用の機体だった。
「え、訓練機じゃないの?」
ナスカは無意識に漏らしていた。
「えぇ。訓練機ではありませんよ」
気がつくとナスカの真横にベルデがいた。いつの間に。気配は全然感じなかった。
「アードラーさんが愛機に乗るというのにトーレくんが訓練機では不平等でしょう」
ナスカは返す。
「確かにそうですね」
「それにしても、なぜトーレくんを相手に選んだのか分かりません。彼ではアードラーさんの相手にはならない……」
ベルデはそんなことを不満げに漏らしていた。
エアハルトが飛ぶことを皆が許さなかったからだろう、とナスカは思ったが、口には出さなかった。
「見て!飛ぶよ!」
リリーが瞳を輝かせながら大きく叫んだ。
それとほぼ同時に、黒い機体が滑走路を駆け抜け空へ舞い上がった。続けてトーレの乗る平凡な戦闘機も離陸する。気の弱いトーレがとても心配だ。
「アードラーさんの飛行は相変わらず美しい……」
いつも淡々としているベルデは彼らしくなく、綺麗な弧を描く黒い戦闘機をうっとりとした目付きで見つめている。
「エアハルトさんの飛行が、お好きなんですか?」
ナスカがそう尋ねると、ベルデは語り出す。
「はい!安定感がありながらも公式に縛られない飛行!彼は航空隊の宝です!航空学校時代から常にトップを走り続けてきたのですよ。凄いとは思いませんか?」
最終的には同意まで求めてくる始末だ。
その時、黒い機体からレーザーミサイルが発射される。
「トーレ、危ない!」
彼に届かないことは分かりながらもナスカは叫んでいた。
「ナスカさん、大丈夫ですよ。あれは訓練用のペイントレーザーミサイル。当たっても機体に絵の具で描いたような丸い印がつくだけです」
ベルデが説明口調で言った。
「へぇ、面白い」
ナスカは大声を出したことを恥ずかしく思い、少しばかり赤面し、苦笑いしながら返した。
トーレの搭乗機は降り注ぐレーザーミサイルの雨を回避するのに必死で、反撃の余裕はなさそうだ。当然のことだが、そう簡単に反撃の隙など与えるエアハルトではない。
「ここまでアードラーさんの攻撃から逃げ回るとは、トーレくんも意外とやりますね。しかし……そろそろ決着ですかね」
ベルデが言い終わらないうちに、レーザーミサイルがトーレの乗っている機体に当たる。たったの数発によって、機体がペンキのようなもので赤く染まった。
「見てくれたかな?ナスカ」
「エアハルトさん、さすがの腕前でした」
模擬戦闘を終えた二人はナスカと合流し、食堂へ行った。
朝食は終わり昼食にはまだ早いという絶妙の時間のせいもあってか、周囲にはあまり人がいない。テーブルには紅茶の入った三つの紙コップだけが置かれている。
「やはり空は僕の世界だなって思ったよ。スピード、重力、それに命の奪いあい」
嬉しそうに語るエアハルトの真横で、トーレは青い顔をして縮こまっている。
「トーレ、顔色悪いけど大丈夫?体調悪いなら休んだら?」
ナスカが心配になって声をかけると、トーレは真っ青な顔を上げる。
「体調悪いとかじゃないんだ。その……大丈夫だから」
「そう?ならいいけど……」
畏縮したトーレの様子を見ていたエアハルトが、唐突に真面目な顔で言う。
「トーレ、どうして逃げ回ってばかりいた?」
怒っているようには見えないが、どこか冷たさを感じる声だった。
「君は最初から戦う気がなかっただろう。なぜだ」
トーレは暗い表情を浮かべながらうつむき小さく呟く。
「……怖くて」
エアハルトは黙っていた。
「……反撃しようとしました。でも、僕は引き金を引けなかったんです。訓練だし、それで誰かが死ぬわけじゃないと分かっていました。だけど、一度引き金を引けば……戻れなくなる気がして怖いんです」
目の前のエアハルトに怯えながらも必死に言葉を紡ぐトーレの唇は震えていた。
「そんなものは戦闘機乗りの宿命だ。宿命に逃げ道などない。つまりは、進むしかないということだ。くよくよ悩んでも時間の無駄。そんな暇があるなら引き金を引け。すぐ慣れる」
「僕は貴方とは違う!!」
トーレが反論した。
ナスカはその様子を信じられない思いで見つめた。
「アードラーさんはすぐ慣れたかもしれない。でも僕は……」
エアハルトも驚き顔だった。
「僕は、人殺しにはなれない」
トーレは更に続ける。
「敵にだって、家族がいて仲間がいて、大切な人がいるでしょう!僕に人は殺せません。帰りを待っている人がいるのに。いくら敵でも……そんなのはあまりに残酷です!」
ナスカは何も言えなかった。頷くことも、それは違うと否定することも、どちらもできなかった。トーレの言うことは分かるのだが、大切な人を守るためには敵に情けをかけている余裕はない。
「足手まといだと思うなら、才能のある人間だけで戦えばいいじゃないですか。僕がいなくても何も困らない……そうでしょう!」
エアハルトはしばらく悲しそうな目をしていた。
「君は……優しいんだ。人より少し優しく生まれた。だから、人より少し多くのことに罪悪感を抱く」
胸を締め付けられる思いで二人を見つめるナスカ。
「トーレ、僕は君を足手まといだと思ったことはない。君は僕を助けてくれたし、今日も付き合ってくれた。僕もタイミングがあればきっと君を助けただろう。……だが、本当は違う世界にいる人間だったのかもしれないな」
エアハルトは立ち上がる。
「君は幸せだ。家族も友人も、何一つとして欠けていない。僕もそんな風に生きたかったよ」
彼はどこか寂しそうにそう言いナスカに小さく手を振ると、自分の紙コップを持ってどこかへ歩いていった。
静寂に取り残されたトーレがやがて小さく言う。
「ナスカ……僕さ、憧れていたんだ。アードラーさんのこと、尊敬してた。ナスカのことを尊敬しているのと同じぐらいに」
「……そう」
ナスカはトーレの話を聞きながら、静かに紙コップの紅茶を飲んだ。
「いつか僕もあんな風になれるかもしれないって、本当はちょっとだけ期待していたんだ」
「……そっか」
「僕、ずっと地味で目立たない人生だった。優秀でもないし、かっこいいわけでもない。嫌だった。アードラーさんはさ、人気だしいつも人に囲まれてちやほやされて、光って感じ。だから、ナスカと仲良くなって、アードラーさんとも知り合いになって、初めて話せた時は緊張したけど、自分も光に当たれたような気がして嬉しかったんだ」
トーレはナスカに視線を合わせて切なそうに微笑む。
「でも今日、本当に幸せなのかなって思った。アードラーさんは期待に答えるために戦い続けてる。人の心を捨てて無理するぐらいなら、平凡な人生のほうがある意味楽かなって。でも、そうしたら僕が今までしてきたこと、全部無駄だった気がして……ちょっとだけ辛いよ」
「無駄じゃないわ」
ナスカはきっぱり告げた。
「もし今すぐ役に立たなくとも、いつかきっとトーレ自身を救うことになる。意味のないことなんてあるはずないわ」
「ナスカ。僕はこれから、誰を目指せばいいんだろう」
トーレはすがるような目でナスカを見てくる。
「エアハルトさん以外で?」
「……うん。僕はあんな風にはなれない。悪魔だよ、彼は」
「どうして?」
「実弾でないとはいえ、あそこまで本気で攻撃してくるなんて……それに、殺しあいで生き生きしてる。そんなブラックな人とは知らなかったんだ。それがちょっとショックでさ」
「光が強ければ強いほど、闇は深くなるものよ」
「それはどういう意味?」
「誰かを照らす光になろうとすれば必ず闇も生まれるってこと。私は大切な人を二度と失わないためにこの道を選んだわ。この道を行けばいつかこの手を穢すことになると分かっていながらね。私の場合なら数人のため。でも、もしそれが、航空隊やこの国であったなら?」
トーレは真剣な顔だ。
「生まれる闇の深さはきっと、私とは比べものにならないでしょう」
「じゃあ僕は何も守らなければいいのかな」
「今はまだ、それでいいんじゃない。守るものなんて自分で探すものじゃないわ。気がついたら勝手にできてるものよ」
不安げなトーレにむかってナスカは笑いかける。
「紅茶冷めたんじゃない?新しいのもらってこようか」
「そんな、いいよ。冷めたほうが飲みやすいぐらいだし、全然気にしないで……」
トーレは遠慮がちに答えた。
「そう?ならいいけど」
「ありがとう。ナスカに励ましてもらって元気が出たよ。色々迷惑かけてごめんね」
そう言ってトーレはようやく純粋に笑った。ナスカは嬉しく思う。
だが、それからというもの、トーレがエアハルトと話すことはしばらくなかった。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.81 )
- 日時: 2017/09/08 18:38
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: Mu5Txw/v)
episode.21
「ただ前へ進むだけ」
作戦決行の日。
とてもよく晴れた冬の朝だった。雲のない澄んだ空から降り注ぐ穏やかな日差しが、冷えたアスファルトを照らしていた。
ナスカはいつもより早く起きて外へ出ると、空を仰ぎ、一人ぼんやりと両親のことを考えていた。
庭の花壇から小さな芽を眺めた春、少し離れた野原で家族みんなでピクニックをした夏。秋にはどこか物悲しい海を眺め、冬には母が作った温かいポタージュを飲んだ。あの幸せだった頃の自分が、ほんの僅かでも、今の自分の姿を予想しただろうか……。
「おはよう」
背後から声が聞こえ振り返るとそこにはエアハルトが立っていた。
「不安かい?」
「……いいえ。両親のことを考えていただけです」
迷いのないナスカを見てエアハルトはふっと笑みをこぼす。
「強いね、君は」
「えっ!私がですか?」
「親を亡くし、兄や妹とも引き離され、青春時代を戦争に費やし……君は、最初に僕が思ったよりずっと偉大だったよ」
エアハルトは優しく微笑む。
「い、偉大?そんな!私は偉くなんかありませんよ」
ここまでなれたのは周囲の協力があってこそで、ナスカは一度も、自分が偉いからだと思ったことはなかった。
「ただ、私は私にできることをしてきただけです。今の私があるのは色々な人が助けてくれたからで、えっと、一人じゃなかったから上手くいきました」
一人じゃなければ全てが上手くいく。
それはまだナスカが悩んでばかりいた頃に、エアハルトがいつもかけてくれた言葉だった。
「ナスカ」
「何ですか」
「これが終わったらどこへ行きたい?」
ナスカにはその意味がよく理解できなかった。
「戦争が終わって平和になったら、君が戦う必要はなくなる。そしたら、何をしたい?」
そんなこと考えたことがなかった。この道を選んだその時、もう二度と幸せな日々には戻れないと覚悟した。それでも構わない、と。
ナスカが答えに迷って黙り込んでいると、エアハルトは穏やかに微笑んで言う。
「……まぁいいや。今すぐに決めなくても、終わってからゆっくり考えれば構わないことだしね。さて!準備するか」
「そうですね」
ナスカは大きく、強く頷く。
「それじゃあ、また後で!」
それから数時間が経ち午前。
作戦に参加する者はほとんど準備を終え、一箇所に集まる。ナスカはエアハルトのところへ行った。
「各自、予定の配置について」
エアハルトがそう告げた。
ジレル中尉はリリー、トーレはヒムロをそれぞれ乗せ、エアハルトとナスカは個人で敵陣まで入り込む。
「ナスカ、花火は持った?」
「持ちました」
カスカベ女大統領の殺害に成功した暁に打ち上げる花火だ。これが上がると同時に、外からの部隊が攻め込む作戦である。
「では、健闘を祈る」
これが上手くいけば全てが終わる。
こうして長い一日が始まった。
離陸して数分が経ったかという時、突然エアハルトから通信が入る。
『敵機を確認した。戦うな。今は関係ない』
「は、はい!でも、見逃していいのですか?」
目を凝らすと、遥か彼方にぼんやりと黒い影が見える。五機ぐらいはいそうだ。
『僕が撃ち落とす』
エアハルトの機体は他と方向を変えると、その黒い影に向かって、視認できないようなスピードで突き進む。それから一分もしないうちに辺りは煙に包まれ、その薄暗い煙からエアハルトの黒い機体だけが飛び出す。
『全機、撃墜』
ナスカはさすがだと思った。彼の能力を実際に目にするのは久々な気がするが、『クロレアの閃光』の名はやはり伊達ではない。
それから飛び続けること三十分、女大統領が住んでいるという建物が見えてくる。
『降りるよ』
エアハルトが告げる。ナスカは予定の場所に着陸し、コックピットから出る。
「ここからは三つに分かれて行動する。ヒムロ、案内を」
「分かってるわ。任せなさい」
ヒムロは真剣な顔をしながらも、どこか余裕ありげに頷く。
「私はかき乱せばいいのだな」
「リリーも頑張るよ!」
ナスカが心配そうな顔をしているのに気がついたジレル中尉は言う。
「心配はいらない。リリーくんは守る」
「……大丈夫です。大丈夫だと……信じています」
予定通りジレル中尉が騒ぎを起こし、見張りがそちらへ向かった隙に、ナスカとエアハルトは裏口から建物に侵入する。二人はヒムロの案内を聞きながら慎重に進んでいった。その間もナスカはリリーのことが心配でならなかった。
「何をしている」
おそるおそる歩いていると、突然聞き慣れないハスキーな声が聞こえ、ナスカは心臓がドキリとした。
エアハルトは拳銃を構える。
そこに立っていたのは冷やかな雰囲気の女だった。裾を切り揃えられた艶のある短い髪に動きやすそうな軍服姿、背中には細身の長い銃。化粧はしていないようだが美人で凛々しい。
「男が一人、女が一人」
女は拳銃を向けられても動揺せず、慣れた手付きで背負っている細身の長い銃を取り出す。それを構え、淡々とした口調で問う。
「外のやつらの仲間か?」
エアハルトは女を鋭く睨みながらトリガーに指をかける。
「ん?男のほう、どこかで見たことがある気がするが……話したくないだろうし、まぁ構わん。捕らえて拷問でもすれば、話す気になるはずだ」
女がそう言った刹那、歯切れの良い単発の大きな音が三回鳴った。エアハルトはトリガーを引いていた。床に小さな三つのくぼみができている。
「この期に及んではずすとは、その度胸は認めてやろう」
どこか余裕を感じる女とは対照的に、エアハルトは殺伐とした雰囲気を漂わせている。トリガーにかけられたエアハルトの指が微かに震えていることに気付いたナスカは、覚悟を決めて拳銃を取り出す。
「そこを退いて下さい」
しかし女は細身の長い銃を構えてじっとしているままだ。
「それはできない」
ナスカはスライドを引き、トリガーに指を添える。
「残念です」
トリガーを引く、乾いた音と共に弾丸が飛び出す。弾丸は女の頬にかすり、後ろの壁に突き刺さる。拳銃の扱いには慣れていないナスカとしては、かすっただけでも上出来だ。
女は銃を撃つ。
反応に遅れたナスカの腕をエアハルトが引っ張る。もう少し遅ければ消し炭になってしまっていたかもしれなかった。
「大丈夫?」
「は、はい。平気です」
女は素早く次の弾を込め、細身の長い銃の銃口をナスカの背中に向ける。
「危ない!」
即座に気付いたエアハルトは叫ぶとほぼ同時に、覆い被さるようにナスカを抱き締める。ナスカは強く目を閉じる。
……硝煙の匂いが漂う。痛みを感じない。ゆっくりと目を開く。首もとから赤い液体が流れて、ナスカは、はっとする。
「エアハルトさん!」
首もとを濡らしている赤い液体は、彼の肩から流れてきているものだった。
「大丈夫ですか!?」
エアハルトは顔をしかめながらも弱々しく言う。
「心配しないで……ナスカ。これぐらい、大丈夫だから」
女は次の弾を込め、引き金を引く。動く時間はなかった。
背中に弾丸を受けたエアハルトは、駆け巡る激痛に顔を歪めながらも、女に向けて拳銃のトリガーを引く。しかし、震える手では狙いが定まらない。
「そうだ、思い出した。エアハルト・アードラー……だったかな?詳しくは知らぬが、貴様は確か拷問にすら屈さぬとか」
女はエアハルトに歩み寄ると彼の拳銃を持つ手を掴む。
「所詮、噂は噂。拷問に屈さぬ男ならば、女一人ごときに震えるはずがあるまい」
バカにしたような笑みを浮かべる女に腹を立てたナスカは、すかさず言葉を挟む。
「バカにしないで!」
「愚か者はバカにされても仕方がない。そういうものだ、諦めろ」
そう言って女はエアハルトを蹴りとばす。彼の耳に装着されていたヒムロとやり取りするための小さな片耳用イヤホンがとれて床に落ちた。
「エアハルトさんは愚か者なんかじゃないわ!」
腹を蹴られたエアハルトは、荒い呼吸をしながら手首を押さえ、地面にうずくまっている。
「そうか。ならば、そう思っていて構わない。二人仲良く地獄に落ちるといい」
女はそう吐き捨てると、長い銃を再び構えた。
——死ねない。こんなところで死んだら、平和は訪れない。それだけではなく、ここまでのみんなの頑張りが水の泡だ。
ナスカは一撃目を素早くかわすが、着地に失敗してつまずき転倒し、直後、顔を上げた時には既に、銃口がナスカの額を冷たく睨んでいた。それに気付いたナスカは青ざめる。
女がトリガーを引く直前、天井の一つのパネルが、パタンと軽い音を立てて開く。そこから勢いよく飛び降りてきて、ナスカと女の間に入ったのは、ジレル中尉だった。
女はいきなりの登場に少し驚いたようだったが、すぐに無表情に戻り、今度はジレル中尉に銃口を向ける。
「気を付けて下さい。あの女の人、素早いです」
「そうか。ありがとう、ナスカくん。だが……関係あるまい」
ジレル中尉は素早く女に接近し弾丸を入れている腰の袋を奪い取ると、それをナスカに向かって投げる。ナスカはキャッチする。
「……く」
女は小さく舌打ちする。
ジレル中尉は女の足を凪ぎ払い転倒させ、女の首もとを掴むと、壁の方向に蹴飛ばす。勢いよく廊下の壁に叩きつけられた女の方へ歩いていき、ジレル中尉は更に二・三発女を蹴る。それがとどめとなり女は気絶したらしく、全身が脱力したのが見てとれる。
「役目が終わったリリーくんは一旦ヘリで避難させた。ナスカくんは無事か?」
ジレル中尉が振り返り、硬直しているナスカに尋ねながら近付いてくる。
「怪我はないか」
彼の声で現実に戻ったナスカは、急いでエアハルトのもとへ駆け寄る。命の危機に直面し、つい忘れていた。
「ジレル中尉、エアハルトさんが!」
エアハルトは倒れたまま、青い顔でぼんやりとしている。
「エアハルトさん、大丈夫ですか?私はここにいます。すぐ手当てしますから、頑張って下さい」
ナスカはエアハルトの冷えた手を握り泣きそうになるが、必死に涙を堪える。
そんなナスカにジレル中尉が淡々と告げたのは残酷な内容だった。
「残念だがナスカくん、アードラーを手当てする時間はない」
「そんな!では彼をこのまま放置するのですか!?」
「一人の人間に時間をかける余裕はない。任務が優先だ」
ナスカは胸が締め付けられ、苦しくなる。エアハルトの手を強く握ると、今まで我慢していた涙が一気にこぼれた。
「……やだ。嫌だ」
「ナスカくん、時間がない。直に敵が押し寄せる。急ごう」
「絶対に嫌!」
はっきりと拒否されたジレル中尉はすっかり困ってしまう。
「エアハルトさん……聞こえますか?聞こえているなら、返事して下さい」
ナスカが小さく声をかけるとエアハルトの指が微かに動く。
「エアハルトさん!」
「大丈夫……」
彼の唇がほんの少し動いた。
「死んだり……しない。全部……終わるまで」
掠れた弱々しい声だった。
「私はずっと、貴方の傍にいます。だからどうか生きて」
エアハルトのぼんやりした瞳がナスカを捉える。
「……泣かないで」
エアハルトは手を伸ばし、その指でナスカの目からこぼれた涙を拭く。ナスカは驚いてエアハルトを見る。
「……行って」
彼は小さくも優しい声で呟くように言い、笑みを浮かべる。
「お願い、嫌よ。貴方と離れるなんて絶対に嫌。私、もう二度と大切な人を失うのは耐えられない。エアハルトさん、私は」
「ナスカくん!上!」
突然ジレル中尉が叫んだ。
驚いて顔を上げると、天井が崩れてきていた。ジレル中尉がナスカの腕を掴み引っ張る。
次の瞬間には、天井の瓦礫が廊下を完全に塞ぐ。ナスカは絶望で目の前が真っ暗になり、言葉は出なかった。
「無事か」
ジレル中尉が確認した。
「……一緒に死なせてくれれば良かったのに」
ナスカがそう漏らすと、ジレル中尉は返す。
「何ということを言うんだ」
ナスカの腕を掴む。
「運命は残酷ね……。いつも、私からすべてを奪ってしまうもの……」
この時ばかりはさすがのナスカも、死んでしまえたらどれほど楽になれるだろう、と考えた。もし今、偶然でも心臓が止まったなら。呼吸が止まったなら、どれほど苦しまずに済むだろうか、と。
「いや。それは違う」
ジレル中尉はそんなナスカにはっきりと告げる。
「君にはリリーくんも兄もいる。運命は君から奪うばかりではない。大切な人がいることを思い出せ。しっかりしろ、リリーくんを残して死ぬな。……行くぞ」
それからジレル中尉は半ば強制的にナスカを引っ張っていった。
「君はリリーくんの一番大切な人間だ。こんなところで死なせるものか」
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.82 )
- 日時: 2017/09/10 23:46
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SkZASf/Y)
episode.22
「カスカベ女大統領」
エアハルトが死んでしまったかもしれない。そう思うと、ナスカは何もかもどうでもよくなりそうだった。今は、すべてを諦めてエアハルトのところへ帰り、彼を抱き締めたそのまま二人で死んでしまうことが、一番の幸せのように思えた。
だがジレル中尉は、ナスカがその選択肢を選ぶことを許しはしなかった。
「死ぬな。例え平和な世界が訪れたとしても、その時に生きていなければ意味がない」
彼は淡々と、しかしどこか優しく、そんなことを言った。きっと彼なりの気遣いなのだろう。もっとも、ナスカは絶望に染まっているせいで気付かなかっただろうが。
ナスカとジレル中尉は黙り込んだまま廊下を早足で歩く。二人の間には会話はなく、規則的な足音だけが廊下に反響していた。
大頭領の執務室の入口の前には、頑丈そうな防具で身を固めた体格のいい男が三人ほど、銃器を構えて立っていた。いつどこから来ても殺す自信があるというくらいに、らんらんと目を光らせている。
「……見張りがいますね」
ナスカが困り顔で言うと、ジレル中尉は冷静に返す。
「問題ない、すぐに片付ける。全員を倒したところで突入するぞ。それまでは隠れていて構わんが、準備しておけ」
「……はい」
ナスカが覚悟を決めて頷くのを、ジレル中尉はほんの少し微笑んで見詰める。それから彼は目を閉じ心を落ち着かせ、男たちがいる方へ歩き出した。
「侵入者だ!」
一人が気付いて叫んでから、銃器の引き金に指をかけるまでの、ほんの僅かな瞬間に、ジレル中尉は回し蹴りをヒットさせる。勢いよく顔面を蹴られた男は失神して崩れ落ちる。
残りの二人は驚きと恐怖の入り交じった感情に顔をひきつらせながら銃を向ける。ジレル中尉は微塵も動揺せず、失神した男が落とした銃器を構えると、片方の男の胸を撃ち抜く。
「く、来るな!」
一人残された男は錯乱気味に連射する。ダダダ、と激しい音が鳴り、廊下の床や壁に、細かな穴が沢山できた。
「終わりだ」
最後の男は、ジレル中尉の冷ややかな一言と共に、胸に銃弾を受け倒れた。
「こちらジレル。突入する」
彼は壁の陰に隠れているナスカに合図する。ナスカは勇気を振り絞り一歩を踏み出した。
「エアハルトの仇は私がとる」
いつしか彼女の心には、そんな決意が芽生えていた。
ジレル中尉は装飾を施された立派な扉を乱暴に蹴り開ける。
「あらあら。ようやく来たようですわね」
ナスカが目にしたのは、二十代後半くらい——自分より少し年上に見える、色白で美人の女性だった。柔らかな淡い茶髪をお団子にまとめ、白いスーツを身にまとっているその姿は、女性らしさを持ちながらも知的で、品のある印象だ。
「こんなところへ何のお話をしにいらしたのかしら?」
随分余裕のある表情だった。
ジレル中尉は何も答えずに引き金を引いた。大きな音が轟きナスカは思わず耳を塞ぐ。
やがて音が止み、ナスカは女性を見て驚く。
「そんな風に適当に撃ち続けても当たりませんわ。何のお話をしにいらしたのか、このわたくしが質問しているのです。それに答えず、更に銃を向けるとは……無礼にも程があるというものですわよ」
いつの間にか、大きな盾を持った男たちが彼女の前にずらっと並び、壁をつくっていた。
「カスカベ様、ご命令をお願い致します」
おそらくリーダー格なのであろう一人が言った。
「えぇ。奴らを殺しなさい」
女性は今までとは違い感情のこもらない冷たい声で命じた。
「承知しました!!」
一列にずらっと並んだ男たちが、一斉に背中から銃を取り出し構える。
「撃て!」
命令の一言で全員が同時に引き金を引く。
「ナスカくんは下がっていろ。……死ぬなよ」
ジレル中尉は硬直しているナスカに声をかけてから、男の列に突撃していく。彼の素早い動きに翻弄され列が乱れた。
「ナニッ!突撃だと!」
「うわっ!」
「こ、こいつ!」
男たちの慌てふためく声がはっきりと聞き取れた。
喧騒の中、女性——カスカベ女大頭領が、ナスカの方に余裕のある足取りで歩いてくる。ナスカは警戒して素早く腰の拳銃を手に取り、銃口をカスカベに向ける。
「動かないで!」
ナスカは威嚇するように鋭く叫んだ。
「あらあら、そんな風に警戒しないで。わたくしは貴女みたいな女の子好きですわよ」
銃口を向けられているにも関わらず穏やかな微笑みを浮かべているカスカベを見て、ナスカは更に警戒する。
カスカベは呑気に言う。
「わたくしは無益な争いをする気はありませんわ。誰にも利益をもたらさない争いなど、時間の無駄。貴女もそうは思いませんこと?」
「だったらどうして戦争なんかするの。それこそ、人を傷付けるだけで何の利益もない争いじゃない!」
「なぜ戦争をするか?」
突然冷たい雰囲気になったカスカベに、ナスカは悪寒を感じた。
「簡単なことですわ。リボソ国の領土には資源がない。けれど国の発展のためには資源が必要不可欠。となれば、必然的に近隣の国から分けてもらうことになるでしょう」
「それは戦争をすることの理由にはならないわ!」
ナスカが口調を強めて言い放つと、カスカベは可哀想な者を見るような目で返す。
「クロレアが資源を半分でも譲ってくだされば、こんなことしなくてもよかったのですわ。貪欲なお偉い様方が、資源を独占しようとしようとした結果がこれ。つまり、自分たちが招いた事態ですのよ」
「だからって、武力で奪いとろうなんて……そんなの変よ!戦争によって奪われた命は無関係な人間の命が大半だわ。そんなのおかしい。どうしてそう思えないの!?」
「大人の世界なんて、そんなものですのよ。まだ若い貴女には分からないかもしれませんけれど……」
ナスカはカスカベに向けた拳銃の引き金に指をかける。
「今すぐ戦争を止めて。じゃないと撃つ!」
「できますの?」
ナスカは言い終わるのを待たずに引き金を引いた。
「あらあら、いきなり発砲するとは危ない娘ですわね」
弾丸はカスカベを通り越し、壁に穴を開ける。
その間にもジレル中尉は華麗な動きで、並んでいた男たちを次々に倒している。
「それにしても……てっきりエアハルト・アードラーと来るものだと思っていましたわ。彼、今日はお休みですのね」
「そうなんです」
ナスカはふつふつと沸き上がる憎しみを必死に抑えて冷静に答えた。
「それであのような野蛮な男とペアになってしまいましたのね。可愛らしいお嬢さんなのに、実に可哀想ですこと」
「侮辱しないで!」
カッとなり引き金を引く。
その数秒後、ナスカは愕然とした。ナスカの撃った弾丸が、ジレル中尉のすねをえぐっていたからだ。
動揺した顔のジレル中尉と目が合う。
「……そんな」
ナスカが愕然として呟いた次の瞬間、ジレル中尉は男に地面に押さえ込まれる。だが彼は、傷ついたすねをぐりぐりと踏みつけられても、弱音を吐くことなく男を睨み付けている。
「お前たち、少し待ちなさい」
少し笑みを浮かべながらカスカベが述べた。
「カスカベ様?」
男はジレル中尉を地面に押さえ付けたまま、不思議そうな顔をしている。
「その男は殺さない。捕らえておきなさい」
男はカスカベの唐突な命令に戸惑いを隠せない。
「ですが……」
「わたくしに逆らうの!首を切られたいのですわね!?」
カスカベは男をギロリと睨みヒステリックに叫ぶ。男は青ざめ畏縮している。
「す、すみません……」
「次に口答えをすれば、ただじゃ済まないとお思い!」
「ちょっと、言い過ぎよ!」
ナスカがつい口を挟むと、カスカベは不思議そうな顔になった。
「あらあら、いきなり何を言いますの?貴女もあの男と一緒に捕らえて捕虜にしますわ」
それからカスカベはナスカの腕を強く掴んだ。関節が軋む。
「ちょ、痛い!止めて!」
ナスカは必死に腕を振ったり足を動かしたりしてみるが、カスカベの力は意外と強く逃れられない。
「離しなさいよ!」
「言ったはずですわよ。捕虜にする、と」
カスカベはナスカの手から落下した拳銃を拾うと、その銃口をナスカの額にぴったりとくっつける。
「貴女がどうしてこんな生き方を好むのか……わたくし、少しだけ興味がありますわ。名誉、お金、権力……一言に欲望と言っても色々ありますけれど、貴女は何が欲しくてこんなことをしていますの?」
「好んでなんかない。当たり前の暮らしを手に入れるために戦うだけよ」
他人に誇れるだけの名誉も、恵まれた生活をするためのお金も、社会で有利に生きていくための権力だって、ナスカは持っていた。由緒ある貴族の家に嫁ぎ、平穏に生きていくという人生だってあった。それだけの容姿も教養も家柄も彼女は持っていたのだから。
「当たり前の暮らし、ですって?あらあら。笑わせますわね」
カスカベはナスカをバカにしたように鼻で笑った。
「正義の味方気取りは自分の身を滅ぼしますわよ?自分以外のために生きれば、いつか必ず後悔するもの……」
「それは違うわ!」
聞き慣れたはっきりした声が聞こえ、ナスカは驚く。しかしカスカベはナスカよりも驚いた顔をしている。
「待たせたわね」
ヒムロは長い金髪をたなびかせ、口元には余裕の笑みを浮かべている。
「まずはその拳銃、ナスカちゃんから離してもらえるかしら?カスカベ大統領」
カスカベは動揺を隠そうと平静を装っているが、ナスカには瞳が揺れているのがはっきりと見えた。
「やはり……生きていると思いましたわ。一度は逃亡しておきながら、のこのこと帰ってくるとは。実に愚かなことですわ」
ヒムロの後ろには十人程度の男がおり、若い者の中に、一人中年に見える者がいる。その中にナスカが知っている人は一人もいない。それどころか、リボソの軍服を着ている。
「カスカベ!時代は変わる!」
ヒムロはカスカベをビシッと指差すと鋭い声をあげる。
「ここは既に包囲されてる。逃げ場はないわよ」
「……ふざけるな」
カスカベが歯を食いしばり引き金に指をかけようとした、その刹那、ヒムロの背後にいる若い男の一人が目にもとまらぬ素早さで接近し、カスカベを背負い投げした。ナスカはその様子を硬直したまま見守る。
「ナスカさん!今のうちに逃げて下さい!」
「は、はいっ!?」
ナスカは理解しきれないまま慌ててその場から離れる。
「捕まえるのよ!」
ヒムロの指示に従い、若い男たちはカスカベの方へ行く。鬼の形相で暴れるカスカベには、さっきナスカが初めて出会ったときに感じた品や知的さはない。まったくない、と言っても過言ではない。
「……おのれ。おのれ、ヒムロルナ!ふざけるな!この国はこのわたくしのもの!!誰にも文句は言わせない!!」
男たちは数名がかりで、激しく暴れ抵抗するカスカベを押さえ込んだ。
「ちょっと、お前たち!ぼんやりしてないでどうにかしなさいよっ!」
「は、はい!ですが何を……」
「ちょっとは自分で考えろ!このバカ男!!」
カスカベの部下である男が畏縮した隙を見逃さず、ジレル中尉は所持していた短剣で男の脇腹を刺す。さすがに慣れたもので、なんの躊躇いもない。ジレル中尉は近くにいたカスカベの部下を蹴り飛ばし気絶させる。赤くこびりついた片足はやはり痛むようで、ハンデになっていたが、それ以外の要素で上手くフォローしている。
「ナスカちゃん、お疲れ様。あとはあたしに任せて」
不安げな表情を浮かべているナスカにヒムロは微笑みかける。
「心配はいらないわ。アードラーくんは無事よ」
「えっ!エアハルトさんは生きていらっしゃるのですか?」
「瓦礫の隙間にいたみたいで、怪我は銃創だけだったわ。生命力の半端ない彼なら、きっと生き延びる。だってアードラーくん、あれだけの拷問すら耐え抜いた人だもの」
「……よかった」
ほとんど諦めかけていたナスカは驚きとともに安堵し、思わず自然に笑みがこぼれた。
そして、頭のスイッチが切り替わる。
「ヒムロさん。あの人、私が撃ってもいいですか」
「……ナスカちゃん?」
ヒムロは理解しきれていないような顔だ。
「確か、私が殺す作戦でしたよね。それで構いませんか?」
「別に構わないけど……突然どうしたの」
若い男の一人がナスカの拳銃をヒムロに渡す。
「ルナさん!あのお嬢さんの拳銃です。取り返しました」
「ありがと」
ヒムロは小さくお礼を言いながら拳銃を受け取ると、それを持った手をナスカに差し出す。
「ナスカちゃん……本当にやるつもり?」
既に覚悟を決めているナスカが力強く頷くのを見て、ヒムロはふっと笑みをこぼす。
「いい覚悟ね」
ナスカはヒムロから拳銃を受け取ると、その黒い銃口を、動けなくされているカスカベへと向ける。興奮と緊張の入り交じった複雑な感情が全身を駆け巡った。
いくら射撃が下手とはいえ、動かない的に当てるくらいなら可能なはずだ。ナスカはしっかりと狙いを定め、落ち着いて指を引き金にかける。
「お待ちなさい!待って!こんなのは一方的でおかしい。間違っていますわ!」
これですべてが終わる。いや、この一撃で終わらせるのだ。
ナスカはカスカベの眉間を冷静にじっと見る。
しかし、今、彼女が見ているのは、その先にある未来だ。ずっと待ち続けた、あの日からずっと望み続けてきた、明るい未来。
そして、引き金を引いた。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.83 )
- 日時: 2017/09/10 23:47
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SkZASf/Y)
episode.23
「この幸せなぬくもりを」
空に、華が咲いた。
昼間のまだ明るい空に咲くまばゆい華を、その日、リボソ国の国民は見た。
その綺麗な華は、大空に大きく開き、ちらちらと名残惜しそうに輝きながら消える。それは女帝カスカベの時代の終わり、そして、リボソの国の新たな時代の幕開けを意味していた。
「……終わった」
合図の花火をあげたナスカはすべてが終わった後の静かな部屋にゆっくりと帰ってきた。先程までの喧騒が嘘のようだ。カスカベの部下の男たちは愕然として目を大きく見開き、立ち尽くしている。その足は微かに震えていた。自分たちのこれからを恐れているようにも見えた。
こわばった顔をしているナスカの心を癒そうとしたのか、ヒムロは優しく微笑みかける。
「よくやったわね。ナスカちゃん、さすがだったわ」
「けど私……人を」
ヒムロは首を横に振り、ナスカをそっと抱き締める。
「いいのよ」
ナスカを抱き締める腕から、温かなぬくもりが、じんわりと伝わってくる。母親と錯覚するような温かさだ。
「後悔しない道を選んだのでしょう」
確かにヒムロの言う通り、カスカベにとどめを刺したことを後悔はしていない。むしろどちらかというと、すっきりしているくらいのところもある。
「ご苦労だったな」
ヒムロの後ろから言ったのはジレル中尉だ。
「ジレル中尉!あの、……ごめんなさい。私」
ナスカが頭を下げて謝ると、ジレル中尉はやや恥ずかしそうな表情で返す。
「構わん。気にするな、仕事がら怪我には慣れている。それに応急手当てはしてもらった。もう大丈夫だ」
言われてから見てみると、ジレル中尉の足には包帯が巻かれていた。ヒムロが連れてきた男たちの中に、救急箱を持っている者がいる。どうやらその彼が手当てしたようだ。
「けど、痛かったでしょう。本当に……本当にごめんなさい。治りますか?」
ナスカがジレル中尉の手を取り目を見詰めると、ジレル中尉は戸惑ったような顔をした。
「たいした怪我ではない。正しい処置をすればすぐ治る」
「……よかったぁ」
ナスカは目の前の彼に悪いとは思いながらも、安堵して漏らした。けれど彼はそれを聞いても嫌な顔をしなかった。
ヒムロがジレル中尉に視線を合わせ口を開く。
「それじゃあ、後は任せるわ。ナスカちゃんをよろしく」
「私らは撤退か?」
「アードラーくんに会わせてあげてほしいの。彼や戦闘機を乗せた船がもうじき出るわ」
「……そうか」
「時間がないわ。ちょっと急いだほうがいいと思うわよ」
ナスカがふと疑問に思ったことを尋ねる。
「ヒムロさんは?」
するとヒムロは穏やかに微笑んだ。
「あたしはリボソに残るわ。これから色々しなくちゃならないことがあるのよ。だから、しばらくの間、別れね」
その言葉を聞き、ナスカは突然寂しい気持ちに襲われる。
「……もう一緒にいられないんですか。まぁ、そうですよね。初めから、ヒムロさんはクロレアの人じゃない……」
「まさか」
切なそうな顔をしているナスカの頭を優しく撫でる。
「用が済んだら、また会いに行くわよ。それまで待ってて」
ヒムロは迷いのない瞳で微笑んでいた。
それから、ナスカはジレル中尉と港へ急いだ。あまりゆったりしている時間はない。
街で怪しまれないために私服に着替え、鉄道を乗り継ぎ、なんとか船が出る時間に間に合うように急ぎ足で歩いた。本当は自動車かなにかを使えればよかったのだが、さすがのヒムロもあの短時間でそこまでは用意できなかったらしい。戦争中であったのだから仕方ない。使える鉄道があるだけ、まだましだ。
一刻も早くエアハルトに会いたいと思う気持ちが、ナスカをいつもより早足にした。ジレル中尉は足に怪我をしていながらも、ナスカの気持ちを汲んでいたのか、彼女のテンポに合わせて歩く。
「それにしても遠いな。結構な距離だ」
港へ向かう海岸沿いを歩いているとき、いつもは無口な彼が唐突に口を開いた。
「そうですね。早く帰って、ゆっくりしたいです」
「あぁ、そうだな。私もだ」
ジレル中尉は珍しく穏やかな表情を浮かべている。
「果たしてこれで、本当に戦争は終わるのでしょうか」
爽やかな海風がナスカの髪を揺らす。海岸沿いということもあり激しい風だが、今はそんな風など気にもならない。
「それは……どうだろうか。争いはまたいずれ起こるだろう。人間の歴史なんてものは戦争ばかりだよ。だが、君の戦争は終わった。それだけで十分じゃないか」
太陽の光が妙に眩しく感じられる。
「本当はここにいるのが、アードラーなら良かったのだがな」
そう言いながら、ジレル中尉は今までで一番寂しそうに笑っていた。
二人が港に着いたとき、エアハルトや戦闘機を乗せているというクロレア行きの船は、既に出港の準備を始めていた。
ナスカはその船の近くで作業している、見知らぬ一人の男性に声をかける。
「あの、すみません!この船、今から乗ってもいいですか?」
やや縦長のごつごつした輪郭がたくましい男性だったが、いかつい見た目に似合わない優しそうな、愛らしさすら感じる笑みを浮かべた。警戒されているものと思っていたナスカは意外な反応に内心驚いた。
「許可はありますか」
たくましい男性は笑みを崩さずにナスカを見て尋ねた。
「えーっと、許可ですか?」
よく分からないナスカは、困ってジレル中尉に目をやる。
「ありますか?」
その時、男性はジレル中尉に視線を移し、はっと何かに気付いたような顔をする。
「あっ!これはこれは、ジレルさんではありませんか!もしかして、そちらの女性は娘さんですか?」
男性は厳つい顔をくしゅっと愛らしく縮め無邪気に尋ねた。
「私は独身だ!」
気分を害したのかジレル中尉は強い調子で言う。
「ナスカ・ルルー!知っているだろう!?」
たくましい男性はその気迫に圧倒され弱々しく返す。
「す、すみません。自分はあまり詳しくなく……」
その弱気な態度が気に食わなかったのか更に食ってかかる。
「何を言う!ナスカくんはクロレアの英雄だぞ!それを詳しくないから知らないだと?ふざけるにも程が……」
「落ち着いて下さい!」
ナスカは大きく叫んだ。
ジレル中尉は愕然として目を見開く。いかつい男性も驚きをあらわにしている。
「あのっ、すみません!ありがとうございます。それじゃあ私たち、この船に乗ります!」
ナスカはそう言ってジレル中尉の手を引いた。男性は始終、きょとんとしたままだった。
ナスカは手を離さないまま、今にも出港しようとしているクロレア行きの船に向かって駆け出す。海からの強い風が、二人を後ろから急かしていた。
なんとか間に合い船に乗り込むことができたナスカとジレル中尉は、近くにいた女性乗組員に頼み、エアハルトがいるという部屋まで案内してもらった。
「こちらがエアハルト・アードラーさんの客室になります。お休み中かと思われますので、どうかお静かにお入り下さい」
ナスカがお礼を言うと、案内してくれた女性乗組員は深々と頭を下げ、静かにその場を離れる。
「行きましょう」
そう声をかけたが、ジレル中尉は立ち止まったまま首を横に振った。
「いいよ。私は」
「えっ、どうしてですか?」
彼は壁にもたれかかり、口角を上げる。
「一人で行ってくるといい。色々な意味でその方が良かろう」
「……そうですか。では」
ナスカは軽くお辞儀してから客室のドアノブに手をかけた瞬間、期待と不安の入り交じった感情を感じる。数秒間があってから、ドアノブを捻り、ゆっくりとドアを開ける。
「あの……こんにちは」
壁には絵画、そしてクラシカルなテーブルとイスがあるという、やや古風な内装だった。客船の客室みたいだ。
ナスカはゆっくりとベッドの方へ足を進める。
「エアハルトさん」
小さく呼びかけてみるが反応はない。どうやら随分深く眠っているらしい。物音に一切反応しないぐらいの深い睡眠だ。
ベッドの横まで行き覗き込むと、その暖かそうな布団の中でエアハルトはすやすやと眠っていた。その寝顔はとても穏やかで、苦痛の色が浮かんでいないことに安心した。
ナスカがそっと彼の額に手を当てかけた刹那、エアハルトがうっすらと目を開いた。ナスカは慌てて手を離す。
「……ナスカ?」
寝起きでぼんやりしながらエアハルトは尋ねた。
「エアハルトさん!」
ナスカは思わず叫んだ。
「な、な、何!?」
大声に驚いたエアハルトは、怪我人とは思えぬ素早さで起き上がる。日々の鍛練の賜物だろうが……今はあまり関係ない。
ナスカは嬉しさのあまり、なんの躊躇いもなくエアハルトを強く抱き締めた。
「生きていて良かった。……もう会えないかと思いました」
「心配かけてごめん」
エアハルトはそう言ってナスカの頭に優しく触れる。彼もまた再会を喜んでいた。
「あっ、そういえば、体はもう大丈夫なんですか?」
嬉しさの暴走が落ち着くと、ナスカは尋ねた。
「うん、大丈夫。じっとしていれば治るって」
「もう痛くないんですか?」
エアハルトは、ナスカに心配をかけまいと思ったのか、明るく元気そうに振る舞う。
「さすがに普段通りってわけにはいかないけど、大丈夫だよ。たかが二発だしね」
痛くないわけないのに。
その言葉が真実とは思えなかった。だが完全な嘘ではないだろうとは思えたし、何よりナスカのことを考えてそう言ってくれていると分かった。
「……それなら良かったです。生きていてくれればそれで。もう言うことはありません」
ナスカは、もう一度だけ、とエアハルトを強く抱き締める。 そして部屋を出ていこうとしたとき、その背中に向かって、エアハルトが少し大きめの声で言う。
「一つだけ言ってもいいかな」
ナスカは足を止めた。
「僕は気付いたんだ。これは伝えないと絶対後悔するって。だから……」
「何ですか?」
振り返ると、エアハルトは真剣な顔つきだった。
「ナスカ、君が好きだ」
「……えっ?」
ナスカは耳を疑い、信じられない思いで彼に目をやる。
「今……何て?」
「君が好きだ、結婚してくれ。そう言いたかったんだ」
エアハルトは微塵も照れることなく、迷いのない真剣なまなざしでナスカを見つめていた。
「だ、大丈夫ですか!!?」
ナスカはエアハルトに駆け寄り、彼の肩を掴み、大きくぐらぐらとゆする。
「やっぱり脳にダメージがあるんじゃありませんか!!?」
「大丈夫だよ大丈夫……って、ちょ、痛いよ!痛いって!」
ナスカはエアハルトの声で正気に戻り彼の肩から手を離す。
「あっ、すみません。それにしてもあの……それは、本気ですか?」
ナスカは彼の言ったことをまだ信じられずにいた。
「僕は嘘はつかない」
エアハルトは落ち着きはらってそう答えた。こんな時に限って落ち着き払っているから、ナスカは余計にその言葉を信じられなかった。
「お気持ちは嬉しいですけど、いきなり結婚なんて。……まだ今は分かりません」
エアハルトは、戸惑いを隠しきれていないナスカの腕を引き寄せ、優しく述べる。
「返事は急がないけど、本気だから。考えてほしいな」
間近でみるエアハルトの顔はいつもより魅力的に見える。普段でも凛々しく十分な美男子なのだが、今はいつもと違った雰囲気がある。いや、意識してしまったせいで今までと違って見えているのかもしれない。
「で、でも……航空隊は独身男性でないといけないのではなかったのですか?」
航空隊について学んでいた時、ある本でそんなことを読んだ気がする。ナスカがおそるおそる尋ねると、エアハルトは首を横に振り答える。
「独身じゃないといけないっていう規定はないよ。心に決めたただ一人の人に捧げるだけならいいんじゃないかな?」
そう言ってからエアハルトはニコッと笑みを浮かべる。
「そうですか……。けど、航空隊で既婚の方って、会ったことがありません。戦闘機パイロットなんて、女の人に人気ありそうなのに不思議です」
「そりゃあ戦闘機パイロットは人気あるよ。給料もそこそこだしね。その代わり、いつ死ぬか分からないし、人殺しが仕事なわけだからね……。それになぜか性格に難ありの人も多い」
「それはそうですね」
今まで出会ってきた人たちのことを思い浮かべると、確かに風変わりな人物が多かったと思い、ナスカは妙に笑えた。
一人として普通……いや、平凡な人はいなかった気がする。けれど、心底悪い人だと思うような人はいなかった。無愛想だったり謎が多かったり。けれど、みんな根は優しくて、どこか良いところがあり、頼りになる人たちだったことは確かだ。
「エアハルトさん……本当に私でいいのですか。クロレアの閃光とまで呼ばれた貴方が、私みたいな平凡な女で本当に構わないのですか?」
するとエアハルトは探るような怪訝な顔をする。
「どういう意味?」
「貴方ほどの人なら、大金持ちの令嬢とだって結婚できるはずです」
「ナスカだから好きなんだよ。それ以外にも理由が必要なのかな?」
「……いらない」
ナスカは小さく呟いて、エアハルトを抱き締める。
「私も好き」
いつからだろう。初めは尊敬する師匠と思っていたはずだったのに、いつからか彼にそれ以上の気持ちを抱いていたのかもしれない。
もう二度と手放したくない。この幸せなぬくもりを。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.84 )
- 日時: 2017/09/10 23:49
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SkZASf/Y)
episode.24
「未来へ」
船がクロレアの港に着く。
ナスカが船を降りると、ヴェルナーやリリーを筆頭に航空隊の隊員など、お馴染みの顔が並んでいた。
「ナスカだ!」
リリーは叫ぶとほぼ同時にナスカの胸へ飛び込んだ。腕に柔らかい金髪が触れる。
「待っていてくれたのね、リリー。大丈夫だった?」
ナスカが柔らかい金髪を撫でると、リリーは自慢げにガッツポーズをしてみせる。
「平気平気!リリーはこう見えてとっても強いの!」
「でも心配よ。だって私の中では今も昔のリリーだもの」
「違うよ」
リリーは明るい顔を上げてナスカを見つめた。
「昔は昔、今は今!だから、今のリリーは、昔のリリーとは別物なの!」
言われてみればそうだ。人は時の流れと共に変わっていく。
「……えぇ。それもそうね」
「ナスカ?」
「変わっていくのは素敵なことだわ。けれど、少し寂しいの」
だってそれは、大切な人がいつか自分から離れていくかもしれないと、心配し続けなくてはならないということだから。
そんな風に考え寂しそうな顔をするナスカの手を、リリーは強く掴む。
「大丈夫だよ!もし大切な人と会えなくなってしまっても、別れても、また誰か大切な人ができるから!」
「……そうかもしれない。けどずっと変わらなければ、その大切な人と永遠にいられるのよ。もう別れは辛いわ」
「むぅ……難しいよぉ」
リリーは頬を膨らませた。
「お久しぶり。ナスカちゃん」
その時、銀の髪を後ろで一つに束ねた落ち着いた雰囲気の女性が口を挟んだ。
「サラさん!」
ナスカはとても懐かしい顔に驚きを隠せなかった。
サラは、まだ幼かったナスカが家族を失い絶望の淵にいたときに毎日励ましてくれた、輸送機パイロットの優しいお姉さんだ。あの頃は、仕事が始まる前に毎朝、色とりどりの花を届けてくれたものである。それも今や懐かしい。
「分かってくれた?嬉しいわ。私も年をとったから、分かってもらえないかと思ったわよ」
サラはそんなことを言うが、ナスカの目には昔と何も変わらないように見える。昔から落ち着いた大人の雰囲気だったというのもあるかもしれないが。
「そんな!分かりますよ。そんなの当然のことです」
ナスカが笑顔で返すと、サラは冗談めかしてお辞儀する。
「光栄です!英雄様」
「サラさん、何やってんすか」
すかさずヴェルナーが突っ込んだ。
「何よ。冗談でしょ」
サラは涼しい顔で言った。
「そういえばサラさんって、兄さんと知り合いだったんですよね」
「えぇ。私の方が数年先輩だけど、縁あって知り合いになったのよ。っていうのはね、私の父は教官をしていたの。父が教えていた訓練生の一人がヴェルナーくんだったのよ」
「教官ですか!それは凄いですね!何という方ですか?」
するとサラは寂しそうな顔になって答える。
「ロザリオ。ロザリオ・ランティークっていうの」
ナスカは怪訝な顔をする。
「……ロザリオ?」
サラは明るく続ける。
「それはさておき!ナスカちゃん、心配は無用よ。ヴェルナーくんとは単に知り合いってだけで、そんな親しい関係じゃないから」
「いえ!まったく気にしませんよ。むしろ嬉しいです!」
ナスカが本心をきっぱり言い放つと、ヴェルナーは大げさに傷ついた表情をする。
「酷いっ」
「何が酷いの?兄さん」
その意味が理解できず、ナスカは不思議な顔をする。
「うぅ……」
声を聞いて船の方を見ると、いつもにも増して青白い顔をしたジレル中尉が、よろめきながら降りてきている。いつもの鋭い眼光は感じられない。
「ジレル!!!」
リリーがジレル中尉に勢いよく飛びかかる。ジレル中尉はよろけて膝をかっくんと折って倒れた。
「あれ?ジレル?ジレル!大丈夫!?」
リリーは慌ててジレル中尉の背中をさする。
「どこか痛いの?しんどいの?動悸?狭心症?」
するとジレル中尉はやや早い呼吸をしながら言う。
「……うるさい」
リリーに顔を覗き込みじろじろ見られ、ジレル中尉は不愉快そうな表情になる。
「私は船が嫌いなんだ!……酔うから」
するとリリーは明るくニコッと笑う。
「なぁんだ!ただの船酔いだね!じゃ、大丈夫だね!」
すると場は笑いに包まれ、ジレル中尉だけが苦々しい顔をしていた……。だが、それはいつものことなので、誰も気にかけはしない。
それから、クロレアに帰ったナスカを待っていたのは賞賛の嵐だった。長く続いた戦争の終戦を記念する大規模なパレードが行われ、ナスカは人生で初めてパレードに参加した。音楽隊に舞踊団、そしてパレードを見守るたくさんの国民の拍手。華やかなムードで行われるパレードは、ナスカにとってはなにもかも初めての経験で、とても心が踊った。
作戦の成功を聞き付けたヘーゲルはおおいに喜び、そして、ナスカに褒美のお金を大量に贈ると言ったが、ナスカはそれを断った。一人の力で上手くいったわけではないのに、褒美を独り占めするというのは、どうにも納得できなかったからだ。
1951年、年末。
ナスカはヴェルナーと共に、ファンクションにある昔の家へ帰っていた。
その年が終わる日、夜にふと目覚めたナスカは、ランプを持って一階に降りる。一階には、窓辺の椅子に座りぼんやり外を眺めているヴェルナーがいた。
「兄さん、何をしているの?」
小さな声でナスカが声をかけると、ヴェルナーは窓を指さして返す。
「雪が降ってきた」
「そう!珍しいわね」
ナスカはテーブルにランプを置くと、窓辺に駆け寄る。
「ホント!雪が降ってる!」
ファンクションはクロレアの南端の街であり、雪などは滅多と降らない。けれど、今は白い雪が、ひらひらと舞い降りてきていた。
「ねぇ、兄さん。あの話の続きを聞かせて?」
ナスカが切り出す。
「あの話って?」
「訓練の事故の話。ここでなら気がねなく話せるわよね。……続きがあるんでしょ?」
「どうしてそう思う」
ヴェルナーが静かに尋ねた。
「……なんとなく。兄さんとエアハルトさんが話してる雰囲気は不自然だし、サラさんのお父さんがロザリオさんっていうのも気になって」
「ナスカは鋭いなぁ。正解だ。ロザリオ・ランティーク、ロザリオ先生はサラさんのお父さんなんだ」
悪い予想が当たってしまった——という感じがした。サラの口から『ロザリオ』という名を聞いたとき、薄々そんな気がしたのだ。
「ならどうして、サラさんはクロレアにいるの?普通、裏切り者の娘をいさせておくものじゃないでしょ」
それに、百歩譲っていさせてもらえたとしても、裏切った父の名を易々と口にしたりはしないはずだ。
「サラさんは今もまだ、自分の父親が裏切り者であったことを知らないんだ」
窓枠にもたれかかりヴェルナーはそう言った。
「あの事故はすべてエアハルト・アードラーのせいになったから。ロザリオ先生は被害者のことになってる」
それを聞き、ナスカは愕然として、ヴェルナーを凝視する。
「どうして!?」
ヴェルナーは顔をうつむけ、暗い表情で言う。
「……今だから、全部話すよ。俺がアードラーさんに責任を押し付けたんだ」
「そんな。どうして」
「足を奪われ、将来を奪われた俺は、ただ一人生き残ったアードラーさんを憎んだ。俺をこんな目に遭わせたアードラーさんを許せなかった。それで、お見舞いに来てくれた彼に辛くあたった。もう会いたくないって、もう二度と来るなって。消えてしまえ!とまで言った。まぁ、それは叶わなかったけどな」
ナスカはそれを聞いていて、ふつふつと怒りが込み上げてくるのを感じた。突然目の前が真っ暗になりショックで冷静さを失っていたのは分かるが、だからといって、そこまでする意味が分からない。
それと同時に、悲しくもあった。自分の存在がエアハルトを苦しめていたのではないかと思ったからだ。
「酷いわ、兄さん!どうして黙っていたの!」
ナスカは今、どうしてもヴェルナーを許せなかった。
「もっと早くに話すべきだと思った。けど言えなかったんだ……。ごめんよ」
「許せるわけない!」
そう吐き捨てて、ナスカはテーブルの上のランプを持ち、二階へ駆け上がっていった。
ナスカは二階の自室へ入ると鍵をかけ、電話に一直線に向かった。脇に置いてある分厚い電話帳を開き、ダイアルを回す。
『はい。もしもし』
エアハルトの声がした。
「エアハルトさん?」
『あれっ、もしかしてナスカ?こんな時間にどうかした?』
「……聞いたの。兄さんと貴方のこと。昔、何があったのか」
ナスカは何度か途切れながらそう言った。
「私、貴方の傍にいていい人間じゃないわ」
『急にどうしたんだい?』
「兄さんは貴方に酷いことをしたの。今日まで知らなかった」
『ヴェルナーは何もしてないよ!君に似て、何事にも一生懸命な訓練生だったよ』
その後、エアハルトは突然話題を変える。
『あ!そうそう、ちょうど良かった。今度ファンクションに用事あるから、その時についでにナスカの家寄ってもいい?ナスカはしばらくそっちにいるんだよね。たまには会いたいし。お土産持っていくよ。それと、ヴェルナーに話したいことあるから、そう伝えて』
「は、はい」
『そういえば今日、敬語じゃなかったね』
まったく無意識だったナスカは慌てて謝る。
「そうでしたか!?それは、すみません!」
『嬉しかったな。ありがとう』
そんなことを言われるのは初めてで、ナスカは不思議な心地がした。
「そ、そうですか……」
『もうすぐ新しい年だね。せっかくだし、ヴェルナーと年越ししてきたら?』
「でも……」
『兄妹で年越しなんて素敵だと思うよ。家族だし。リリーはジレルさんところなんだよね。楽しくしてると思うよ。それじゃあ、おやすみ』
「おやすみなさい」
ナスカは電話を切り、壁にかかった時計を見る。来年まであと十分くらいしかない。
ランプを持ち、ナスカは再び一階へと向かう。
「兄さん。今、エアハルトさんと話してきた」
悲しそうに窓の外の雪を見つめているヴェルナーが振り返った。
「今度、ファンクションに用事があるから、その時、うちに寄るって。ヴェルナーに話があるって言ってた」
椅子の一つを運び、ヴェルナーの向かいに座る。そして、彼をまっすぐに見つめた。
「許してくれるのか?」
ヴェルナーは弱々しく言う。
「許すか許さないかを決めるのは私じゃない。だから、私はもう何も言わないようにするわ」
「あぁ……」
ヴェルナーはがっくりと肩を落とした。
「謝って」
「……ごめん」
ナスカは首を横に振る。
「違うわ。今度会うその時、アードラーさんに謝って」
「分かった。ちゃんと謝るよ」
ボーン、ボーン。
ちょうど十二を示す大きな柱時計の鐘の音が空気を震わせ、新しい年がやってきた。
「あ、年が明けたわね」
「本当だ!」
外はまだ雪が降り続き、いよいよ白く積もりはじめている。暗い夜の中に白い雪が輝きながら積もる様子はとても幻想的。日頃は雪が少ない地域であるから尚更だ。
「それにしても、リリーは楽しくしているだろうか?」
ヴェルナーは心配そうな顔をしていた。
「えぇ。きっとね」
リリーは楽しくしているだろう、とナスカは確信している。
「襲われたりしていないだろうか……。あの若さで、それも独身の男と二人きりとは……」
あまりにくだらない心配に、ナスカは溜め息を漏らす。
「兄さんは心配しすぎなのよ。ジレル中尉はそんな欲望にまみれた男じゃないわ」
「ならいいけど……心配だ」
「それに、二人きりじゃないし!使用人とか、他にも人はたくさんいるわよ。あと、新年パーティーの準備で忙しいって聞いたわ」
「あ、そうか」
ナスカとヴェルナーは目を合わせると笑いあった。
「楽しい一年になるといいな」
ヴェルナーが言った。
「そうね。みんなでいろんなところへ行きたいわ。もちろん、もう十分幸せよ。けれど……今年はもっと素敵な一年になりますように」
時の流れは、多くのものを変えてゆく。だがその中でも変わらないものはある。ただ、それが永遠かどうかは、誰も知らない。
また新しい一年が始まる。
そして、新しい時代の幕開けだ。
- Re: 白薔薇のナスカ《改稿版投稿中……》 ( No.85 )
- 日時: 2017/09/10 23:50
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SkZASf/Y)
エピローグ
1955年・春。
「ね、寝坊したぁ!」
起床予定時刻より三十分も過ぎている。ナスカが階段転げるように駆け降りてくると、一階のテーブルではエアハルトとヴェルナーが既に朝食を食べ始めていた。
「おはよう、ナスカ。よく眠れたみたいだね。まだ慌てなくて大丈夫だよ」
エアハルトはスーツを着て、いつもと違ったかっこよさが漂っているが、表情は普段通りの穏やかさ。
「すぐに朝食を用意するよ。挨拶の原稿とか、荷物を用意してきたら?」
「そうするわ」
ナスカはそう言うと、再び二階へ駆け上がった。
「慌ただしくてすみません」
ヴェルナーが苦笑いして、頼りない妹について謝罪する。
「いやいや、そういうところも可愛いんだ。好きなんだよ」
エアハルトはトーストにバターを塗りながら笑顔で返す。
「そうなんですか。ところで、お仕事の方は?」
「何を言ってる、まだまだ現役パイロットだよ。とはいえ……ここまで平和になると戦闘機は仕事がないね。この前は航空ショーのお誘いがあったけど、お断りしたよ。なんせ、そういう才能はないものでね。しばらくの間は、まぁ、訓練と授業とかぐらいかな」
「できたできた!」
膝丈の桜色のドレスを着たナスカが、カバンを抱えて階段を降りてくる。
「エアハルト、朝食は?」
「どうぞ」
エアハルトはナスカの前に、バターを塗られたトースト二枚とサラダを出す。
「サラダにはトマトの代わりに鶏のささみをいれてるから」
「嬉しいわ!ささみ!」
ナスカは勢いよくサラダを食べ、トーストにかぶりつく。
「エアハルトの朝食はいつだって最高よ。ねぇ、兄さん」
「着替え早すぎだろ」
ヴェルナーは無関係なところを突っ込んだ。
「朝食の話をしてるのに!」
気がつくとエアハルトはナスカのカバンの中身を確認している。
「ハンカチがないよ。入れとくね、ナスカ」
「ありがと!よし、食べた!」
ヴェルナーはナスカの早食いに愕然とする。
「じゃ、行こっか!」
ナスカはエアハルトに声をかけた。
「そうだね。ではヴェルナー、留守番任せた。行ってきます」
「また夜電話するね!」
「いってらっしゃい。楽しんできてくださいよ、アードラーさんも」
ヴェルナーはそう言うと、二人を見送った。
電車とバスを乗り継ぎ、三時間ほどで到着したのはアルトという街。ファンクションからはそこそこ遠い、北にある小さな街で、学校が多く存在しているのが特徴といえる。近くの有名な街としてはユーミルの故郷・スペースなどがある。
今日ナスカとエアハルトが行くのは、アルトで最も有名な国立の学校だ。この学校には航空科というものがあり、毎年卒業生の数名が航空隊や軍に入っているらしい。
「おはようございます」
到着した二人に、気の良さそうな校長が話しかける。
「本日は誠にありがとうございます。ナスカさん、挨拶楽しみにしておりますぞ」
「ちょっと緊張してます」
ナスカは照れ笑いに顔をひきつらせた。やはり、こんな風に丁寧に扱われるのには馴染めない。
「アードラーさんも、どうぞよろしくお願いします」
「よろしく」
ぎこちない表情のナスカとは真逆で、エアハルトは慣れた様子である。
入学式が始まるまでの間、二人は談話室で待つことになり、お茶を出された。
「そういえばナスカ。昨日、マリーから手紙が届いたんだ」
「マリアムさんから?」
「そうそう。だいぶ治って元気にしてるみたいだよ。またそのうち遊びに来るってさ」
「良かった。また会えるのが楽しみだわ」
そんな会話をしていると、何か音が聞こえてくる。
「なりませんっ!お嬢様!」
「行くの!」
「どうかお止めください!」
「いいの!」
何やら外が騒がしいと思っていると、突然ドアが勢いよくバァンと開いた。
「ナスカ!」
入ってきたのは、柔らかい金髪を綺麗にアップにして紺色のワンピースを来た、まだ若い少女だった。
「り、リリー!?」
「そうだよ!ワンピース可愛いでしょ?買ってもらったの」
その後ろから薄紫のワイシャツを着た男性が現れる。
「すまんな、ナスカくん」
「ジレル中尉!えっ、どうしてここに?」
ナスカは何が起こっているのかさっぱり理解できなかった。いるはずのない人物がいきなり目の前に現れたのだから無理もない。
「リリーがどうしてもと言うのでな。仕方なく来たのだ」
「えへへ。リリーね、姉の活躍を見にやって来たの!挨拶あるんでしょ。頑張ってね!あと、一つ報告。ジレルはようやく昇格したの。だから、もうジレル中尉じゃないよ」
「ようやくと言うな!」
その時、係員がやって来る。
「ナスカさん、そろそろご準備お願いします」
「あ、はーい!」
ナスカは返事してから、エアハルトの額にキスをする。
「行ってくるね」
エアハルトは少しだけ赤面して「いってらっしゃい」と言った。彼の出番はもう少し後だ。
ナスカは胸を張って、舞台袖へ向かう。
『次は今年の特別ゲスト、クロレア航空隊の誇るナスカ・ルルーこと、ナスカ・アードラー様からのご挨拶です』
緊張は消え、胸が高鳴る。
今、舞台へと歩き出した。