ダーク・ファンタジー小説
- 2 ( No.59 )
- 日時: 2018/04/12 22:42
- 名前: 立花 ◆FaxflHSkao (ID: CSxMVp1E)
「君はまだ恋を知らないのね」とあの人は笑って俺の頭を撫でた。真っ黒なランドセルを背負った俺は、セーラー服のこの人が泣いてるのをただ見ていた。
「くん、——綾瀬くん」
ぼおっとしていたのか上から降ってきた声に気づいた瞬間、俺の体はぶるっと震え、まるでよく夢で見る降下の感覚に陥った。俺の顔を心配そうにのぞき込む委員長は、大丈夫と声をかけて不安そうにこちらをじいっと見つめていた。
「あ、んん。ごめん、ちょっと寝てた」
「そっか。本当に具合悪くなったら保健室行ったほうがいいよ。最近、綾瀬くん調子悪そうだし、心配」
「そう? おれはだいじょうぶだよ。ほら、見ての通りめちゃくちゃ元気」
数学の宿題であるノートの提出を促しに来た委員長にノートを渡し、ジュースを買いに教室を出た。自動販売機の前までに来て、何を飲もうか考えつつ、財布から小銭を取り出す。ふいに目に入ったレモンティが、なぜか好きなわけではなかったのに唐突に飲みたくなった。あの人が良く飲んでいたレモンティ。
「俺、飲めないのに」
レモンティを初めて飲んだのは、小学五年生の夏。あの人がおいしいよ、と言って飲みかけのペットボトルを俺に渡してきたのがきっかけだった。間接キスだとおもったけれど、何の意識もしてない彼女に俺は何か言うこともできず、黙ってレモンティを飲んだ。甘ったるい、まるで彼女のようだった。
***
「おっかえりぃ、純平っ」
玄関を開けると、ばっちりお洒落をした彼女が、にこやかな笑顔で出迎えてきた。彼女——沙織さんは俺を見るなり、可愛いワンピースを自慢するようにくるりと一回転してスカートを翻して見せた。
「なに、兄貴とどっかでかけるの?」
「そう、珍しく帰ってくるから一緒にご飯食べに行くことになったの」
「ふうん。兄貴、いつまでこっちにいんの?」
「明後日かなぁ。あ、もしかして純平も一緒にご飯行きたかったぁ? ごめんごめん、明日一緒に行こうねぇ」
「いや、いいよ。俺、寝るから」
沙織さんの嬉しそうな表情を見たくなくて、俺はすぐに階段を上って部屋に閉じこもった。幸せそうな顔が俺にとっては喜べなくて、自分がとても小さな人間だと思い知らされて嫌だった。
ああ、ちっちぇえ。器が小さすぎるだろう、俺。小学生の時に恋に落ちた。恋をしていた沙織さんはとても綺麗で、儚くて、俺がどうにか笑顔にしてあげたかった。彼女が好きだったレモンティをカバンから取り出して、また少し口に含んでみる。でも、やっぱり甘すぎて口に合わなかった。
洗面台の前に立ってペットボトルをさかさまにする。どぶどぶと流れ落ちていく液体に勿体なさは感じなかった。彼女への好きがこんな感じで消えて行ってくれたらいいのに。ただ純粋にそう思った。
俺の消えない恋心は、彼女が結婚してからも続いている。もう俺のものにはならないのに。ずっと兄貴を好きでい続ける彼女はとても美しく、それでこそ沙織さんだと思うのに。それでも好きだ。好きなのだ。醜い俺は、まだ彼女に恋し続けている。かなわない恋なのに。
「小波みたいに、俺も勇気出せたらな、」
委員長の告白に、イエスと答えられなかったのは、きっと自分が彼女に見合わない存在だと思ったからだ。まだ恋を引きずっている俺なんかは、きっと彼女を幸せにできない。
ベッドに転がって布団をかぶった。きっと台所に行けば沙織さんが作った夜ご飯が用意されているのだろう。食べたくない、と思った。だから、ゆっくり目をつむって、ゆっくり沙織さんへの恋を忘れていこう、と思った。
「 綾瀬純平 “ 落ちた氷はまだ溶けない ” 」