ダーク・ファンタジー小説

Re: アビスの流れ星 ( No.27 )
日時: 2018/02/23 18:39
名前: Viridis ◆vcRbhehpKE (ID: rRbNISg3)



22



 自分の咳に、骨の髄から揺さぶられた感覚を味わう。何かと思えば自分は血を吐いていたのだった。
 しばし呆然とするも、状況を飲み込むのは簡単だった。
 私はフミヤに刺されたのだ。
 あまり痛みは感じない。ついでに寒さも。ただ寄りかかってフミヤに触れた部分が、妙に温かく、心地よく感じる。
 寝起きのような、どこか世界が遠く感じられるような漠然とした意識の中、サーベルを手から取り落としたような気がした。
 音は入ってこなかった。
 情けないざまだと思う。生きろと命令しておいて、殺そうとして、この有様で。
 呼吸する。息を吸おうとすると、喉のおくが分厚い鋼鉄に阻まれたかのように詰まった。
 それでも、これだけは言わなければいけない気がした。

「生き延びてくれ、フミヤ」

 世界が傾く。
 それから私は崩れ落ちた。







 未だ痛む腹を押さえながら辿り着いた屋上で見たのは、美しい銀世界と、それを彩る黒い二人と、染みて広がる赤。我が目を疑った。
 簡潔に言えば、雪が降る屋上の中で、フミヤは化け物みたいになった右腕を血に染めたまま呆然と立っている。シドウはその足元で血に沈んでぶっ倒れていた。
 信じられない光景だが、予感はあった。さっき奴が俺と戦っているときから。そして、俺の義手義足を磔にして気絶させるだけ、なんて甘い手段をとった時点で。
 見たくも無かったけれど。
 どちらの名前を呼ぶことすら出来ず、ただ絶句した。
 ほんのちょっとこの場所に居たいと思っただけで。
 なぜ?
 どうして?
 なんでこうなる?
 何か悪いことでもしたか俺たちは。
 ココロの内で狂おしく叩きつけられるように暴れまわる叫びに、しかし回答を下してくれる誰かがこの場所に居るはずも無く。
 視界に立っているフミヤは、空を見上げていた。
 彼女の視線の先は一面の雲、おそらくその向こうにはアビス。

「フミヤ……シドウ……」

 自分でも驚くほど、おぼつかない足取りだった。足を引きずるように一歩を彼女と彼のほうへ踏み出す。
 そのときだった。フミヤの口から酷く平坦で、全く感情のこもっていない声が聞こえたのは。
 後にも先にも、フミヤのそんな声を聴いたのは、それが初めてだった。

「もぉー……いい、よー……」

 次いで腹の底から響いたぞっとする悪寒。
 ——空が裂けて、アビスがのた打ち回った。
 別にアビスという星自体が激しく動き回ったわけではない。本当に空が断裂したわけでもない。
 空一面を覆う雲が、曇りガラスを拭いたように払われた。
 青空に浮かぶ、その漆黒の星の表面の闇が、無数の大蛇が腹を打ち付けて悶え苦しむように蠢いた。
 地の果てから迫るような遠い轟音。足元からムカデが這いずって上ってくるような嫌悪感。
 五感を通して自分に伝わる、ありとあらゆるものが震えている。
 アビスから真っ黒な何かが生えて、あっという間に大きさを増すのが見えた。
 カタチを視認できるようになったのは、かなり大きさを増してから。無数の腕であるらしいものが地上に向かって折り重なって生えてくる。
 腕は目の前の屋上の、フミヤたちより少し離れたところへ到達すると、更に折り重なって、泥の上から泥を被せていくように溜まって。
 大きな真っ黒の水溜りが出来上がった。
 闇の中に蠢くものがひとつ。うずくまった何かの姿。
 うずくまった何かはもぞもぞと立ち上がる。湯船からあがったときに水が身体から落ちるように、闇もぼとぼと落ちていく。
 それは人間の形をしていた。闇が落ちてゆくと同時に、そのヒトが驚くほど白い姿をしていると知った。

「……あぁぁぁぁぁ……、……うん」

 ヒトの姿は小柄、フミヤと同じかそれより少し大きいくらい。顔立ちは端整で、男か女かは見た目で判別できない。
 白いヒトは首を鳴らす。
 ふわりとした髪も、肌までも、雪に溶け込めそうなほどに白かった。
 しかしその瞳は、恐ろしさを覚えるまでに真っ黒で、深く、一切の光を吸い込んでいた。

「おぉ。すげぇー。これが雪かぁ。うん」

 酷い猫背の白いヒトは、舞い散って降る雪のひとつを手にとって子供みたいな声をあげる。

「やっぱ地球、遠くから見たりフミヤ越しで見るより、自分で来て良かったぁ、うん」

 ところどころイントネーションのおかしな話し方。
 やがてそいつは、全てに呆気をとられている俺を見つける。

「ぬぬ? ぬ、ぬぬぬ? あー、スギサキじゃーん」

 何で俺の名前を知っているのか、とか、疑問を抱く余裕も無かった。

「ちゃんと聞いてる? はな、し方これで間違ってないと思う、けどなーぁ? あーぁ、そっかー、僕はキミタチ知ってるけど、キミタチは僕知らないもんなー」

 ぱちゃりと闇の水溜りを踏む音。小柄で細身の白い、端整な顔立ちの少年は俺に向き直って、腰の辺りで両手を広げて、その名を名乗った。
 数十年前から俺達全人類が憎んで、恐れてきた名を。



「——はじめまして。僕の名前はアビス」