ダーク・ファンタジー小説
- *4* ( No.5 )
- 日時: 2017/09/13 22:19
- 名前: 厳島やよい (ID: RIMOjgnX)
「ねえ、良典おじちゃん。母さんはどうして、父さんを殺したの。どうして、自分のことも殺したの」
風もないというのによく揺れる蝋燭を、力なく座り込み、虚ろな目で見つめながら、幼い頃の僕は座布団にすわる伯父に問いかけていた。目を合わせて問いを投げかけても、居場所のなくなった僕を引き取ってくれた彼は、何も答えてはくれなかった。答えようとしてくれたみたいだけど、開きかけた口は固く引き結び、僕の背中をさすっているばかりだった。
線香なんて、立てる気になれない。僕はただ、なかなかおさまらない発熱に睡眠を害されて、クーラーの効いた家の中を歩き回っていただけだ。そうしたら、いつも閉じられていた和室の襖が開いていることに気がついて、漏れ出す明かりの中に伯父と、開かれた仏壇と、その中にある両親のうつった写真が、見えただけだ。それ、だけだ。
「母さんは病気にかかってたの? それならどうして治せなかったの?」
あの日、雷雨から逃れるように学校から帰ってきたとき、もう父さんは。
自宅の小さなマンションの玄関先に現れた母さんは、赤の滴り落ちる手で震えながら包丁を握りしめていて。しばらく何が起きているのか理解が追い付かなかったのを覚えている。
よくよくみれば、乱れた髪に隠れている彼女の頬や腕、服の裾にも、手の痕でないかと思しき掠れた色がたくさん付着していた。何があったのとたずねても、まともに呂律が回らず聞き取ることができない。ついには幼児のように泣き出されてしまったので、仕方なくすがりついてくる彼女の手を優しく振りほどき、鼻をつく臭いのするほうへ、靴も乱暴に脱ぎ捨てて必死に走っていった。
あの日、父さんは仕事が休みで、きっといつものように家にこもっていた。……まさか、母さんがあんなことになっているのは。
ある程度の予想はしていたものの、リビングにたどり着いて、僕は愕然とした。血だまりの中に、変わり果てた父さんが、倒れている。サスペンスや刑事ドラマとは比べ物にならないくらいの酷い有り様だった。近くの壁や家具にも、飛沫が垂れているし、さっきよりもむんと濃い異臭で、簡単に吐きそうになった。
立ち尽くす身に、時間差を作って恐怖感が足元から襲ってくる。救急車、救急車を呼ばなくちゃ。それだけを考えて血だまりに背を向け、いつのまにか力の抜けてしまった腰を引きずるように電話の置いてあるほうへ這っていた。脈をみる勇気なんか当然のようにない。
9歳の僕に今できることなんて、それだけだ。
『はい、119番です。火事ですか? 救急ですか?』
数コールで相手は出たはずなのに、何分も待たされたような感覚だった。この後警察も呼ばなくてはいけないのかなんて考える余裕はなかった。
強い口調の相手に答えようとするのに、声が喉に詰まって出てこない。焦る度に、頭の中がどんどん真っ白になっていく。
「コウヘイ」
そしてついに、何よりも聞きたくなかった、抑揚のおかしな掠れた声が、背後からした。思わず振り返る。いつのまにやって来たんだろう。一度落としたはずの刃物なんかしっかり握っちゃって、泣いていたのが嘘みたいな渇いた目をしちゃって。
綺麗な手が明らかに使い方を誤っている包丁を逆手に構えていることに気がついたとき、コードの繋がった受話器が、音もなく滑り落ちていった。
「いっしょに行こうって約束したのに、私だけ置いていってしまうなんて。意味がわからない、どうして、どうしてどうして」
「な、に言ってるの……母さん」
「ひとりぼっちなんて堪えられない」
「母さん?」
「ひとりぼっちなんて嫌、ぜったいに嫌……はやく、おいかけなきゃ」
「ねえ、僕がここにいるよ。救急車だって呼ぶよ、ねえ、母さ────」
彼女はそのまま、僕の言葉も聞こえていないという風に、両手を振り上げて腹のほうへ押し込んだ。すこし遅れて呻き声が上がる。
「大好きな青い色がね、んうう、見えなくなったの。あの人は私のことを病気だって言う……こんなに元気は、あるのに。病んでるのは稔のほう」
「母さん、僕の話、聞いてよ」
清々しいほど噛み合わない会話に、目が回ってきた。
ぶら下がった受話器からは、異変を察知した相手の大きな声がかすかに聞こえていたけれど、もうそんな声もしない。ただ、通話状態は切れていないらしく、この部屋は恐ろしいほど静かだ。この梅雨時の湿度を嫌う母さんのために電源をいれてあるエアコンの音以外、この瞬間は何も聞こえなかった。
母さんは俯いたまま動かないし、こんな状況にやっと涙がでてきそうになったし、そのときにまた、1秒でも早く受話器を取っていればよかったのに。それなのに、しずくになって新しく汚れをつくっていく血液に目を奪われていた僕は、呆れるほど愚かだ。
気づいたときには、彼女に何の前触れもなくいきなり押し倒され、腹に刺さっていたそれは喉元に向けられていた。
すぐ近くで錆びた鉄みたいな臭いがする。熱いものがねっとりと垂れて、僕のシャツへ、腹へ、胸へ伝ってくる。さっきの生気のない目が嘘のように黒い瞳をぎらぎら輝かせているのを見て、もう駄目だと悟った。
もうすぐ、死ぬのだ。
「あんただけ……痛みも、苦しみもなくのうのうと生き続ける……なんて…………そんなの、許せないから」
荒い息が不規則に僕の髪を揺らしている。
どうしてそんなことを言うの。僕は母さんのこと、大好きなのにな。フライパンを揺らしながら、おはよう、と笑いかけてくれる母さん。朝はいつも玄関で見送ってくれる母さん。僕がうまれたときのことを嬉しそうに語っている母さん。閉じた瞼の裏に映し出されるそんな記憶たちの合間に、段々と父さんの笑顔や言葉も混ざるようになってきて、情けなくも涙が溢れた。だって、この思い出は。ほとんど昔のものばっかりだ。なんでこんなことに、なってしまったんだろう。思い当たることならいくつかあるけど、考えたくもない。
……3人で死ぬのなら、また、父さんとも母さんとも、いっしょにいられるんだよね。きっと、その時には母さんが苦しむこともなくなってるよね。だから、
「殺していいよ、母さん」
目を開くと、彼女の表情がみるみるうちに変化してくのがわかった。ぼやける視界でも、母さんが、母さんに静かに戻っていくのがよくわかった。耳元で包丁が倒れるとき、頬にわずかな痛みが走ったけど、そんなこと、どうでもよかった。
「……どうして」
それはまるで、彼女に取り憑いていた悪魔が、剥がれ落ちていくみたいで。
「私、なんてことを」
ああ、よかった。
母さんが、かえってきたんだ。
僕によく似た瞳から大粒の涙がこぼれてくる。正気に戻った彼女に抱きしめられると、心の底から安心して、気を失ってしまった。不思議と、ぬるい血の感触が不快に感じなかった。
「ごめんね、こうちゃん。ごめんね……ごめんなさい…………」
僕が気絶したことにも気づかず、そのまま、震える母さんも意識を手放していったのだろう。もう二度と悪魔の付け入る隙を作るまいと、そうしたのかもしれない。たとえ血にまみれた最期でも、母さんは僕を愛しきってくれた。それ"だけ"は、死ぬほど嬉しいことだ。
この事件は当時の家の周りを騒然とさせ、数時間はテレビやラジオの中で報道されたこともあったらしい。偉そうなコメンテーターが、息子の精神状態を気にかけているだの、母親が生きていた場合どうなるだのと好き勝手言及していたようだが、政治家の汚職疑惑や、豪雨による冠水で地方に避難勧告が出されたことなど、次々と溢れ出す大きなニュースにかき消されていってしまった。また、被害者の一人である僕が未成年であることも考慮されて親子共に氏名が伏せられていたため、あの町の一部の住人以外、ほとんどのひとが僕らのことを忘れているだろう。
その後、警察から話を聞かれてから、名前も知らない遠い親戚の家でお世話になっていた数日の間、僕を引き取るのは父方の祖父母の家か、伯父の家か、長時間に及んで議論が重ねられていた。結論としては、遠方の田舎町に住む祖父母より、同じ都内にある伯父の家で預かるほうが僕は暮らしやすいだろうということで、今に至っている。
「いっぱい食べて、大きくなれよ。お正月には、たっくさんお餅ついて、待っとるからな」
東京駅でお見送りをしたとき、そう言って頭をくしゃくしゃになでてくれた祖父は、その年の冬から、本当にたくさんのお餅を作って祖母と待ってくれるようになった。
今までほとんど会ったことも話したこともなかった祖父母と交流を持つようになったり、遺品整理や引っ越しをしたり、転校したり。落ち込む暇もなくなって、油断をしすぎていたのかもしれない。忙しい日々に一段落ついた夏休みのある日、高熱を出して寝込んだのを境に、比較的明るいほうだと言われていた僕の性格は、段々と暗くなっていった。
そして、両親が亡くなった丁度一年後。青色だけが、霞んで見えることに気がついた。