ダーク・ファンタジー小説

Re: 死にたがり少年と壊したがり少女 ( No.2 )
日時: 2018/04/17 08:38
名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)

「馬っ鹿みたい。ねぇあなた、どうして死にたいだなんて思えるの?」

 口の中には、鉄の味が広がっている。唇の隙間から紅い雫が伝い、顎を汚した。鼻の奥まで、むせ変えるような血の臭いが詰まり固まってしまっている。目の上の肉は腫れぼったく、内出血を起こしているようだ。ふらりと目眩がし、景色が滲む。意識も朦朧としていて、いつしか頭の中も滲みそうになる。
 それなのに、彼女の声は彼の耳にはっきりと届いた。馬鹿みたい、その言葉が混濁した脳裏の中で唯一クリアに響き渡る。その声は驚くほどに無邪気で、純粋だった。体の節々が痛むのを堪えて、ゆっくりと視線を上げる。そこには、天使のような愛らしい顔立ちの子がにっこりと微笑んでいた。
 だが、その目だけは愛らしさなど欠片も持っておらず、ただただ狂気が浮かんでいた。大きく見開かれた目の、焦点の合わない瞳は一体どこを、何を見つめているのだろうか。
 答えよう、そう思って彼は口を開こうとする。瞬間、彼の唇に激痛が走った。毎日のように殴られ、皮が裂けた彼の唇はいまや見るも無惨に荒れていた。ぱっくりとした割れ目から赤い肉が覗いている。

「だってここは、暮らしにくいじゃないか」

 逃げても構わないだろう? そう彼は確認するように彼女に問いかけた。それを耳にした彼女はまた小さく笑った。それが馬鹿なのだと言外に伝わるような笑い方も、彼女がするととても愛くるしく見える。
 ほんと見ていて飽きない人ねと、彼女は答える。返事になっていないと彼は顔をしかめたが、彼女にとって彼の気持ちなど路傍を歩く蟻程度の意義しかない。

「三十分前、あなたは殴られ始めた。どうしてでしょうね?」
「簡単さ。僕はきっと死にたがりなんだ」


 先刻、彼はいつものように放課後、学校の体育館脇の倉庫の裏に呼び出された。運動部が体育館で練習をしている真っ最中のため、その時間帯は特に誰も倉庫には来ず、また、バスケ部のボールをつく音のせいで騒ぎがどこにも聞こえないというメリットがあるからだ。そこは教師の知らない、いや、生徒すらほとんど知らない秘密の処刑場。
 呼び出された原因なんていつもと同じ、気晴らしであり日課であり弱者を虐げて優越感を得るため、だ。事実彼は抵抗できない。それは彼自身自らを弱者と信じて疑わず、抵抗するだけの勇気も気概も持たない男だからだ。
 そしていつものように神田林かんだばやしに殴られていた。神田林が彼を殴る時はいつも一人だ。それも奴にとっては当然の話で、神田林が彼を傷つけるのは自らの力の誇張という意味も併せ持つからだ。それなのに多人数で一人を虐げるとは、群れなければ何もできない自分を作ることに他ならない。そのため神田林は常々彼に、篠宮 時雨(しのみや しぐれ)に抵抗しても構わないと告げている。とはいえ彼、篠宮 時雨が抵抗したことなど勿論ない。

「昨日も一昨日も、その前の日もずっと殴られてる。そうよね?」
「見てたんだ」
「ええ」

 物好きだね。冷たく突き放すような、それでいて軽蔑の混ざった声を篠宮は彼女、天上ヶ原 魅修羅(てんじょうがはら みしゅら)に投げかけた。人の好奇を煽るような底抜けに奇妙な名前だが、本人はほとんど気にもかけていない。

「今にも死にそうなあなたは、見ているにはとっても面白くて」
「訂正するよ、君は悪趣味だ」

 そんな事無いわ。そうやって、彼女は自らの異常性を当然の事だと言い張る。楽しいものをじっと眺めて何が悪いのか、テレビを見るのと何も変わらない。彼女の主張はそんなところだろうか。

「屁理屈だね、ここには本物の痛みがある。やらせでもなく、虚構でもない」
「そうね、だからこそ私の興味をそそるのよ。あなたがいつ壊れちゃうのか、それを考えるだけで私の胸の奥から涌き出るゾクゾクした興奮が止まらないの」
「この変態」
「あら、私に言わせたら殴られるままのあなたの方がよほどの変態よ」

 皆気がついている、篠宮がいつも生傷を背負っていることに。しかし誰もその原因を知らない。優等生の神田林が彼を蹂躙しているとは考えない。彼の家庭は複雑であり、きっとそこにこそ原因があるに違いないと周囲は見ている。そして実のところ、それも間違いではない。

「辛くないの?」
「何が? 殴られること? 生きていること? 殴られるのはもう辛くないよ。全く怖くない、最近痛くもなくなってきた」
「あら、あなたもとんだ変態さんじゃない」
「うん、でもね、生きてることが辛いんだ。胸の奥がヒリヒリして、かきむしっても全く解消されない。これって何なんだろうね」
「病気なのよ、特効薬も何もない」

 このままだと自分がどうなってしまうのか、篠宮自身にも分からない。その事自体は何も怖くない、きっと今の自分とは違う何かに変われることは有意義だろう。しかし、自分はこのままで終わってしまいそうなのが彼には怖かった。痛みも苦しみも感じられず、今感じている恐怖すら忘れてしまう未来が来た時、そこにいるのは果たして本当に生きていると言えるのか、それが怖い。
 だからこそ今、彼女が、天上ヶ原が口にした病気という言葉はぴたりと当てはまるように思えた。精神を蝕む癌、この正体は未だ自分にはつかめず、無意識下で侵攻し続けている。

「ねぇ、お願いがあるの」
「内容に依るね」
「あなたと神田林くん、壊しちゃっても良いかなぁ?」

 天上ヶ原の目は、年齢不相応のとても幼いものだった。あの目はよく見る目だと篠宮は思った。小さな子供が自分の手にしたもの、近くにあるもので新しい遊び方を思い付いた時のあの目だ。欲求に、快楽に、遊戯に執着する悪意ないむじゃきな瞳。
 悪意はない、しかし殺意はある。彼女の身にまとった雰囲気は何だか常人離れしていて、篠宮でさえ返答に困った。彼女は本当に、自分達を殺しかねない、と。
 唇の上で乾いた、ネットリと糸を引く赤黒い血を拭いながら彼は俯いた。彼女の壊すとは、一体どのようなものなのだろうか。それにしても、一つだけ疑問がある。

「何で神田林くんまで?」
「面白そうだから、っていうのと私のちょっとばかりの良心」

 君のことを壊すんだから、お礼に君に仇成す人も制裁してあげるのだと、得意面だ。そんな事頼むつもりはないのに、そう感じていてもやはり篠宮に抵抗という選択肢は選べない。目の前に否定し、拒否する選択肢があっても彼は自ら目を背ける。

「じゃあ勝手にすれば」

 やはりこの通りである。
 それにしてもと、篠宮は考える。あの噂は本当なのかもしれないと。
 目の前にいる天上ヶ原に親しい友人はいない。誰も近づかず、いつも孤独の中心に居座っている。そしてその事に彼女は無頓着で品定めをするようにあのピントの合わない目で人々を眺める。その姿に、また周囲の人は遠ざかる。
 そんな中流れた噂が彼女が人殺しだという話だ。その発端は彼女が一度自分には人を殺した経験があると言っただとか言っていないだとか。だが彼女の倫理感は篠宮にも分かるほどに常人離れしている。本当にしかねない。

「私があなたを殺しちゃったら、あなたは天国に行けるかしら」
「少なくとも、今いる所よりかは格段に過ごしやすいだろうね」
「何言っているの、ここより楽しいところなんてどこにも無いわ」
「冗談だろ?」

 篠宮が立つこここそが地獄なのだと、彼は言う。しかし彼女は頷かない。自分の笑うこここそが、天国なのだと彼女は言う。どこまでも気が合わないね。そう言った篠宮は、初めて彼女の前で笑ってみせた。