ダーク・ファンタジー小説
- Re: 死にたがり少年と壊したがり少女 ( No.5 )
- 日時: 2018/04/18 16:48
- 名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
ふと、家の中が静まり返った様子を篠宮は感じ取った。さきほどまで響いていた激しい絡み合いは、どうやらもう終わったらしい。静かになったから目が覚めるだなんて、我ながら変わっているなと篠宮は自分の事を嘲笑した。
その時、彼の唇に、頬に、腫れた目蓋に鋭い痛みが走った。ぴりぴりと肌を刺す痛み、そう言えば今日も神田林に殴られたのだったと彼は思い返す。顎の下で凝固した血液はどす黒くなってぱらぱらと崩れ落ちた。
時計の方に目をやる。時刻は六時、日も暮れて、街灯が点き始めている。すっかり昼寝をしてしまったようだと、篠宮は体が痛まないようゆっくりと立ち上がった。
その時だ、彼の目の前で扉が開いたのは。どちらが入ってくるのか、気にはなったがだからといって彼は身構えない。誰であっても、自分にはただ受け入れることしかできないからだ。
逆光でシルエットしか分からなかったが、細身の体ゆえにこれは凛だろうなとすぐに察せられた。案の定、彼女は一糸まとわぬ姿のまま、篠宮に駆け寄り抱きついた。神田林になぶられた体が悲鳴を上げる。幸い、抱きついている間は顔を見られないので、苦悶に耐えかねた彼はその顔をしかめた。
「お帰りなさい。ご飯、これから作るからね」
その前に服を着るべきだ、などと篠宮は口にしない。わざわざ彼女のする事に指摘しようとも、無駄だとは分かっている。この人はいつもそうだと、割りきってしまっているのだ。
この女、篠宮 凛は弟である時雨を溺愛している。しているがゆえに、ネジが外れてしまっている。彼女は篠宮の事を、篠宮に愛される事だけを生き甲斐にしている。だから自分の存在を、嗜好を、行動を、篠宮から注意され、怒られ、嫌われることを何よりも恐れている。そしてその恐怖は怒りとなり、暴力となり篠宮に襲いかかる。だからこそ、この女が何をしようとも彼は抵抗しない。それこそが、最も平穏な道だと彼は思っているからだ。
「父さんは?」
「アルコール飲んだ上でしちゃったんだからぐっすり寝てるわ。多分朝まで起きないし……今日は私もお店休みだし……ね?」
ああ、その日なのかと篠宮は無感情に納得した。定期的に貰える休みだからこんな時間に彼女が家にいる訳だ。もしかしたら今日はシフトが深夜に入っているから今いるのかとも思ったが、そんな訳ではなかった。
とすると、今晩はおそらく眠ることはできないだろう。夜通し、姉と対話をしなければならない。体の痛みのおかげで、眠気を堪えるのは幾分か楽そうだ。そんな篠宮の思考が曲がったものであることに、彼自身は気づく気配もない。
「晩御飯は時間がないから簡単なものでいい?」
「うん」
彼女からこのように尋ねてきた場合は、ノーと答えても怒られない。手の込んだものが食べたいと言えば彼女は間違いなく作るだろう。だが、彼には『こうして欲しい』という欲求はない。そのため、彼女が簡単なものを作ると言えばそれで納得する。
まずはあの人を寝室に運ぼう。そう言ったのは凛の方だった。寝室とは、今まで篠宮が一人で籠っていたこの一室である。三枚の布団が無造作に広がっている。
廊下に飛び出した凛の裸体が篠宮の目に鮮やかに映った。見慣れた光景ゆえに、彼にとっては額縁に飾られた裸婦の絵を見たくらいの感慨しか湧かない。無関心にほど近い、見てしまったと思ってしまうだけの心の動き。
彼女の太股の内側に垂れた、濁った粘液が糸を引いている。それを目にすると、いつも彼の背筋を悪寒が走る。これは一体どうしてだろうか、母のトラウマが遺伝していると言うのだろうか。抵抗を知らない篠宮に制御できない、唯一の嫌悪感。
食品に触る前に、軽くシャワーを浴びると言い残して、凛は浴室へと消えた。取り残された篠宮は、父の姿を目にした。考え事をしている間に、父の運搬は終わってしまっていた。
脂肪に包まれた慢性アルコール中毒の男、この男も被害者である事に相違ないだろうなと思いふける。ある一つの事件をきっかけに、幸せな家庭を、自らの人生を全て失い、奪われた男。その末路がこれだ。
そしてその不幸は波紋を呼び、篠宮に、凛に輪を広げる。そしてきっと、篠宮もその波紋を誰かに広げてしまうだろう。そんな事があっても良いのだろうか。
その答えはとっくに出ている。だからこそ、彼は死にたがりなのだ。
どしゃ降りみたいなシャワーの音だけが聴覚を支配する。いっそこのまま溺れてしまいたい。ふと彼は、そう考えた。