ダーク・ファンタジー小説
- Re: 死にたがり少年と壊したがり少女 ( No.6 )
- 日時: 2018/04/19 00:29
- 名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
彼女がシャワーを浴び始め、十数分。ザアザア雨が降るような、水の打ち付ける音がようやく扉の向こうで止んだ。ぴちゃぴちゃと、体から垂れる水の声が、不定期に。二枚も隔てているというにそんなものすら聞こえるほど、彼らの住むその借り家は壁一枚が薄かった。残響すら鳴り止み、今度は静かな摩擦音。更衣室とを隔てる壁、その向こうで体を拭いているのだろう。
時計を見れば、十八時半といったところだった。時間の流れが酷く遅い。きっと姉がいるからであろうと彼は推測した。彼女が夕食だけ置いて、夜の街へと勤めに消える、そんな日はあっという間に夜が過ぎ去る。もし父親が起きていれば、同じように時間はだらだらと過ぎていくが、多くの場合父は十九時頃から飲んだくれてすぐに寝こけてしまう。凛がいるからか、今日はそれより幾ばくか早かったようである。
気が楽な日であれば、数品目の献立がラップをかけられて並ぶ食卓。だが、今日は皿一枚たりとも並んでいない。寝室の暗がりが心地よかったのだが、父親を其処に動かしてしまったがゆえ、寝室を後にせざるを得なかった。もし万一、目を覚ました彼が真っ先に見据えたものが自分である訳にはいかない。既に神田林から殴られているというに、これ以上怪我を負うわけにいかなかった。日に日に、生傷を言及されるのをかわすのも困難になっている。
雨の後には暴風が唸る。髪を乾かすための熱風が、ドアの向こうで五月蝿く吠えていた。凛姉さんの髪は長いから、もうしばらくは出てこないだろう。彼自身上手く自覚できてこそいないが、たった一人食卓に座して、為すことも無いままじっとしているこの時間は、日頃張り詰めた筋肉も弛んでいた。
ふと彼が閉じた瞼の裏側、天使のような彼女の笑顔が浮かんだ。天真爛漫にはしゃぐ声に、その態度とは不釣り合いな焦点の合わない瞳。言うなれば我が儘な、言い換えるなら素直に生きている少女。今日出会ったばかりの、彼とは対極に立つようなその生きざま。羨ましいと感じているのだろうか。彼は自問した。しかしすぐさま、首を左右へ。これはきっと得体の知れない彼女を恐れてやまないだけだ。
しかし何故だろうか、彼の脳裏から魅修羅の顔は消えない。自分の持たざる大切なものを、彼女は代わりに手にしているという確証があった。余りにかけ離れたその人柄は、近づけばひりひりと胸が痛むというに、目が離せない。その光に網膜を焼かれそうになっても、彼は魅修羅から視線を逸らせずにいる。
不味い兆候だと、彼は態と自分の左目、その少し上の辺りの肉をつねった。鋭くて、でも鈍い。表現が矛盾するような激痛が、顔中に走った。刺激の強さに顔をしかめる。父親を起こさぬよう、声だけは堪えた。それはまるで冷や水のように、強い信号を送りつけて、夢を見てしまいそうな脳を覚醒させた。これこそが君にとっての現実ではないかと、彼は己自身に言い聞かせる。忘れてしまいそうになった、痛みしかない棘の生え揃った道。それこそが、これから進まなくてはならぬ、歩み続けなくてはならぬ道なのだ。
あんな女のことなど忘れてしまおうと決めた。あれは自分にとって手に余る存在なのだ、意識を向けるだけ間違っている。この日常を受け入れるためには、天上ヶ原のような無邪気さなど必要ない。むしろ邪魔だ。そんな風に言い聞かせる。あれは毒だ、それも純黒の。一滴落ちただけで波紋を呼ぶ、どんな人間に対してもだ。そうして、じわりじわりと放射状に広がっていく。ずっと黙って意志を圧し殺して、堪え忍ぶために手に入れた汚れ無き心の静謐。それが途端に薄汚れてしまいそうだった。真っ白な布地に、一滴の墨汁が滲んで台無しになるみたいに。
木の扉が軋んで、更衣室と居間との空間が繋がった。ドアノブを握ったまま、髪を下ろした凛が現れた。布の薄いボーダーのシャツが肌に張り付き、ボディラインを際立たせる。体を温めたばかりで、全身から湯気が立ち上っている。華やいだシャンプーの香り、深紅の花びらが思い浮かんだ。椿の香りがする洗髪剤を、彼女は昔から好んで使っている。
女性らしい曲線を描いたその体のラインが疎ましかった。立ち上る湯気からも水ではなくて花の香気が漂うが、そんなものすら醜悪に感じる。どうして、この人の中にある女の部分を受け入れられないのだろうか。それはきっと、家族だからに他ならない。近しい者の性的な部分など、見たくもないし聞きたくもない。だとすると、あの父の中の男を受け入れられないのはどうしてだろうか。彼はあの男と、血など繋がっていないというに。
これからご飯を作るねと、彼女は彼の頭を撫でた。いい子だから待っていてねと告げるような声音だが、その裏に潜む利己的な欲求に彼が気づかない訳が無い。単に彼女は、愛する弟とふれあいたいだけだ。その手が頭に軽く乗せられ、柔らかな髪がくしゃくしゃかき混ぜられる。ろくに散髪も行けず、ボサボサに伸びた髪が、チクチクと顔に刺さる。その度に思い出す鈍痛、けれども顔色を変える訳にいかない。頭を撫でられるだけで、髪の下に隠れた瘤が鋭く叫ぶというに、嫌な顔一つできないだなんて苦行でしか無かった。
例え傷があるせいだと言っても、彼女は聞き入れようとはしないだろう。彼女を避けて、彼が顔をしかめたと信じ、暴力に走るその姿が簡単に予測できた。だから彼は、抵抗しない。弟に愛されたい、受け入れられたいとすがる凛の意志に。そもそも、母すら遠くへ失った彼にとって、愛してくれる人など、たとえその寵愛が歪んでいようとももう、彼女しかいなかった。
ようやっと気が済んだ姉は、台所の方へと爪先を向けた。安堵の溜め息一つ漏らすこと無く、彼はその背を見送る。見送ると言っても数歩先の調理場に立っているだけなのだが。乾燥用のラックからまな板を、下の戸棚から包丁を、最後に冷蔵庫から食材を取り出す。今日はご飯前に父が寝てくれたため、夕食がきちんと食べれるなと、当然の事を至極珍しい贈り物のように彼は享受した。
リズムよく包丁がまな板を叩く音が部屋の中にこだまする。あっという間に切り終えた野菜をボウルにまとめて、スーパーで安売りしていたらしい豚肉の切り落としを食べやすくなるよう切り分ける。ちょっと微睡んでいたところ不意に、熱したフライパンに食材を投げ込んだ、低い唸り声が響き始める。炒められた食材の、表面の水分が爆ぜる音。肉の焦げる香ばしい匂いが部屋の中に充満した。
僕の血肉も、焼いてしまえばこんな風に美味しそうに香るのかな、などと考えてみる。だが、髪の毛先を燃やされた時の事を思い出すに、悪臭がいいところだろうなと思い直した。何せ僕は腐っているのだから。それは死臭とは全く違うにも関わらず、死んだ生き物よりずっと嫌悪すべき臭いを放っていた。生きながらにして腐るだなんて、どうにも息苦しい理由が、彼にも分かったような気がした。
鮮烈というのはきっと、彼女のことを指すのだろうな。焦点の合わぬ双眸が、瞑目すると共に、また暗い闇の中に。あれはきっと、焦点を合わせられないのではない。何に対して集中するべきなのか、分かっていないのだろうなと思い至る。彼にとっては、何より凄惨で、救済の見込みもまるでない、色彩も消えてしまいそうな血と灰色に染められた世界。それでもきっと彼女には、何処より美しく、星の数ほどの娯楽に満ちた、虹色に煌めく景色なのだろう。あっちこっちの花々に目移りして、どれを真っ直ぐ見据えていいのか決めきれない。右目であっちを見て、左目ではそっちを見て。それでは焦点など合わないはずだ。
コトリと目の前で一音、二音。目を開けば目の前に、肉と野菜を炒めたものが現れた。今日は時間が無かったから一品で我慢してね、と肩を竦める凛。きっと、それが可愛らしく映る仕草だと知っているのだろう、理解していながらそんな態度をとる彼女が、篠宮にはおぞましくてならない。けれどもそれは顔に出ない。その本心に彼は気づこうともしていないようであった。服の下で鳥肌は立っているのに、冷静な頭脳がその情報をシャットアウトしている。知ってしまえば、もうこれまで通りに振る舞えないと本能だけが理解していた。
時間が無い訳ではなく、勿体ないだけだというのは流石に篠宮も理解が追い付いていた。日頃仕事のある日でさえ、一つ一つが簡素とは言え三品目作り上げてからネオンひしめくコンクリートの海に出立する彼女だ。休日で、この後どこにも出掛けなくていいなら、それこそ夕食作りに割ける時間は多くなるに決まっている。例え夕刻に父親とまぐわう相手をさせられていたとしても。
焦げ茶色の、粘度の高い液体に半分浸るようにして肉と野菜が現れた。香ってくるのは、大豆の発酵したあの独特の香り。味噌で味をつけたのかと鼻で理解した。背筋を伸ばしたみたいにシャッキリしたキャベツが、薄く切られたよく火の通った、クタッとした人参が肉と一緒に真っ白な皿の上に。それをおかずに食べろと言わんがばかりに、白米が用意される。昨日炊いて、冷蔵庫に入れておいた米を、埃が被った古い電子レンジで温め直したものだ。
胃の中には何も入っておらず、空腹で鳩尾の辺りが痛くなり始めていた。しかし、痛みには慣れっこであるため、彼はそんな事に気がついていない。考慮すべきは、この品が姉によって調理されたこと。決して、残す訳にはいかなかった。残すような量でもないため、食べきることができるかはさしたる問題ではない。感想を述べねばならぬことが、何よりも苦行だった。
手を合わせ、日本人らしく戴きますと口にする。目の前に座る凛が、同じように振る舞った。好きな人と同一の所作を繰り返し、相同性を確かめるような一連の流れに、辟易しそうになる。どうすれば彼女が喜ぶか理解している彼はというと、照れ臭そうな仮面をつけて、はにかんでみせた。
箸で持ち上げた肉と野菜とを口に含んだ。味なんて、ろくに分からなかった。別に誰と共に食卓を囲むか、何を食しているのかに問題がある訳ではない。いつの頃からか、いつ何時、何処で何をどんなコンディションで口に含んでも、ほとんど味の違いが分からなかった。
キャベツを噛み締める。しかし、繊維質の紙切れを頬張っているようにしか思えなかった。少し固い歯応えのニンジンなど、厚紙や段ボールかと一瞬間違う程である。最悪なのは肉だった。切り落としの薄切りであるため、当然中から肉汁溢れるなんて事はない。ぱっさぱさの、薄く引き伸ばした粘土を咀嚼しているようにしか思えなかった。旨味なんて、何も感じない。その舌が感知する味わいは、塩味だけに限られていた。
なぜ塩味のみなのだろうか。防衛本能では無かろうかと、彼は推察した。食事よりもずっと、自分の血を嘗める回数の方がずっと多い。鼻血を啜る回数まで合わせれば、どれだけの回数になるのだろうか。沢山切り傷が出来た口の中、塩味で出来立ての、未だ湯気放つ熱々の肉野菜炒めが染みる。口内に針を何百本と刺されたように、頬の内側を鋭い痛みが駆け抜ける。だが、彼は顔色一つ変えやしない。血の味も分からなくなれば、自分が血を失っていることも気づかなくなる。そうなっては、死神へとまたもう一歩近づくことだろう。そうならぬように、これだけは忘れてはならないのだ。